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初めて親父に大須に連れて来てもらったのは、いつのことだったか?
もう覚えていないけど、小学校に入学する頃には、すでに大須商店街という場所に親しんでいたのは確かだ。連れていってくれるのは決まって親父だった。母は「ごちゃごちゃしてて苦手」と難しい顔をして、大須商店街をめったに訪れようとしなかった。だから俺は親父と、二人して大須を回っていた。
万松寺パーキングビルに車を置いたら、まず隣の、アメ横ビルの中を一通り見て回る。昼時なら、万松寺パーキングビルの一階に店を構える、スパゲッティー屋に入った。トレーを持って、カウンターで注文してパスタを載せてもらう、社員食堂のようなシステムのお店だった。いつもミートソーススパゲッティを親父に食わせてもらっていたのを覚えている。
大須のどこを回るかは、その日によって違った。赤門通りのレコード屋やオーディオ屋を覗く日もあれば、大須観音のほうまで歩いていって、ソフトクリームを買ってもらう日もあった。そうして親子二人で大した目的もなく、ぶらぶらと商店街をうろつき、日が暮れ始める頃に家路につく。これが、お決まりのパターンだった。
しかし頻繁に親父と大須を訪れるのも、俺が中学に上がるまでのこと。中学に入ったら、俺は親父よりも同級生たちと遊びに来ることのほうが断然、多くなったからだ。一丁前に身だしなみに気を遣い始め、小学生の頃には行ったことのない万松寺通の服屋を覗くようにもなった。父親と大須を歩くことが無くなった理由としては、小学生の頃に比べて小遣いがぐんと増え、俺の行動の自由度が一気に上がったということもあるが、親と一緒に街を歩くのを避けたかったというのがもっとも大きい。大きな喧嘩こそしなかったものの、親を疎ましく思うという点では、俺も立派に反抗期まっさかりだった。親父も親父で、大須商店街には変わらず足を運んでいたようだが、俺の変化を察してだろう、いつしか俺を誘うことも無くなり、いつも一人で出かけるようになっていった。
高校生になってからは、そもそも俺が大須から遠ざかっていた節がある。友達と遊ぶなら、また買い物をするなら、名古屋高速を挟んで大須の北にある、矢場町や栄のほうがスマートだ。大須商店街は野暮ったく、洗練されていない。……友達の輪の中にあって、そんな共通認識に俺も慣れていった。大須にパルコは無いのだ。大須商店街を利用する時なんて、それこそ恋人とのデートでマンネリ防止のため、変わった場所として彼女を連れて行くぐらい。
大学に入学しても、それは変わらないまま。親父は一人で大須へ出かけて行き、俺は別の場所で友達と遊ぶ。一緒に大須へ行くことは見事に一度も無かったが、なにも父親と険悪な仲だったわけではない。反抗期なんてとっくの昔に卒業し、俺は両親と出かけることになんの抵抗も覚えなくなっていた。それなのに最後の一度きりまで、父親とはついに大須へ来ることがなかった。やっぱり向こうから誘ってくることがなかったし、俺のほうからわざわざ「行こうよ」なんて提案するのは正直、気恥ずかしかった。
そうこうしている間に、俺も大学を卒業し、無事に社会人になった。最初の一年間は仕事を覚えるだけでも精一杯で、家族のことや、友達と遊びに行くことを考えている余裕もないくらい、毎日を仕事に忙殺されていた。そして迎えた社会人二年目、仕事も覚えて日々の生活にもようやく余裕が出てきた頃に、父親がぱったりと大須へ行かなくなってしまった。父はずいぶん晩婚だったので、俺が社会人になって二年目には、それまで勤めていた会社を定年退職していた。毎日出かけもせず、家のリビングでぼんやりテレビか新聞を眺めている親父の姿が多くなり、ときたま外出したとしても、家の回りを歩いて帰ってくるだけ。その無気力げな生活に不安を覚えた俺は、密かに母親に「親父はぼけ始めたんじゃないか」と相談したものだ。
休日の昼間、リビングのソファにかけて、新聞を捲りもせず同じ紙面をずっと見ている親父に、一度だけ尋ねたことがある。
「最近、大須には行ってる?」
新聞から目を離さないで、親父はぶっきらぼうに答えた。
「あそこは随分、様変わりしてしまった。もう、俺が行っても、仕方がない」
もともと愛想がいいほうではなかったが、退職してからの父親は、その無愛想ぶりに一層の磨きがかかっていた。息子の俺でさえ、踏み込んでいい間合いが掴めずにいたほどだ。母は親父との接し方を俺よりも弁えていたけど、それでも親父はことあるごとに、母に小言を呟いていた。親父は笑顔を浮かべることも無くなり、日毎に、新しい皺が折り重なっていくかのようだった。定年退職した男が一気に老け込む、という噂話もまんざら嘘ではないな、とその頃の俺は思っていた。
やがて俺も自分の家庭を持つことになった。社会人になってから付き合い始めた女性とめでたく入籍し、名古屋市内のマンションの一室で新婚生活を送ることとなったのだ。俺の実家は隣の区にあり、距離もたいして離れていない。父の様子が気にかかり後ろ髪を引かれたこともあって、実家を出る際、両親に「近いし、たまには帰ってくるよ」と言ったのだが、親父は真顔で「そんな暇があるなら、嫁に愛想を尽かされないように努力するんだな」とのたまいやがった。カチンときた俺はよっぽどのことがない限り、実家の敷居はまたぐまいと決めた。
その、よっぽどのことは、思いの外すぐ訪れた。前触れもなく親父から電話があり、「大須へ連れて行け」と言ってきたのだ。来るなと言ったかと思えば、連れて行けと言ったり……一体どっちなんだ? 辟易せずにはいられない。けど親父の唐突な電話に、笑っている自分もいた。口に出しはしなかっただけで、俺は内心では嬉しがっていた。そして今にして思えば、親父が俺にわがままらしいわがままを言ったのは、あれが最初で最後だった。
よく晴れた日曜日、俺は助手席に親父を乗せて、ローンを組んで購入したばかりのセダンを大須へ走らせた。車中では大して話もせず、自分から行きたいと言ったくせに、親父は仏頂面をさげて助手席側の窓へ静かに目を向けていた。実家を出て、嫁との生活を始めて、半年ほどが経つ。その間さっきのような事情で、父にはずっと会っていなかったのだが、その半年の間にも父はさらに加速度的に歳を重ねたようだった。取っつきにくそうな面構えは変わらないものの、体の線が極端に細くなり、脂肪どころか筋肉までもが削げ落とされていて、まるで――当時の俺は、そこから先のことは考えないようにした。
かつて親父の利用していた万松寺パーキングビルに、俺も駐車した。黄色の蝶が描かれた、立体駐車場の三階。その階からは連絡通路を使って直接、隣のアメ横ビルに入ることができる。しかし親父の丸まり、小さくなった背中を見てしまうと、歩かせるのはできるだけ避けさせてやりたかった。ましてや階段ののぼり下りなんて。
「エレベーター使おうぜ」
さりげなく俺は言った。しかし親子ゆえか、父は俺の意図をすぐに察したらしく、不機嫌そうに顔をしかめた。
「俺はお前に心配されるほどジジィじゃない」
人がせっかく気を遣ってやったのに、なんて言い草!
親父が車を降りると、俺は「あぁ、はいはい、そうですか」と自動車の鍵をかい、さっさと一人で連絡通路の方へ歩いていった。連絡通路といえば、矢場町の松坂屋やパルコにもあるような、ちゃんとした作りのものを想像されるかもしれないが、大間違い。その実態は、立体駐車場とアメ横ビルとのわずかな隙間に金属板を渡し、手すりと雨よけを付けただけの、じゃっかん頼りない作りの足場だ。吹きさらしで、幅も大人ひとりぶんしかない。
親父のほうを振り返りもせずに歩き始めた俺だが、さすがにその連絡通路まで来たところで足を止めた。手すりに両手をのせ、足場の下、ビルに挟まれた路地を見下ろしてみる。路地の端の、ビルの間からわずかに見える新天地通で、人が左右にせわしなく行き交っているのが見えた。
右側に気配を感じて、首を回すと、連絡通路の入り口から数歩さがったところで親父が立ち止まっていた。なにも言わず、俺のほうをじっと見たまま。そのときの親父があまりにも呆けた顔をしていたせいで、俺は笑ってしまった。
「どうしたんだよ」
親父の瞳が波打ったように見えた。そうかと思った次の瞬間、親父のしわくちゃな頬を雫が伝っていった。嗚咽のない、静かな涙だった。これには笑っていられなかった。父親の泣く姿を初めて目にして、どう声をかければいいのか見当もつかず、俺は月並みに「どこか痛いのか? 大丈夫?」としか尋ねることができなかった。父親の涙はすぐに止まり、一言「なんでもない」とだけ言うと、俺を押しのけ、アメ横ビルへ足早に入っていった。
親父が泣いた理由は最後までわからず終いだ。気にはなったが、俺は自ら進んで知ろうとはしなかった。男が人前で涙を見せるのがどれだけ恥ずかしいかは知っているつもりだし、親父にしたって掘り返されたくない話題に違いなかった。
親父と大須を訪れたのも、親父と会ったのも、その日が最後。それから間もなくして、親父は自宅で亡くなった。俺は父の訃報を、会社にいるときに母から電話で受けた。母が明かしてくれたのだが、父は三年前に難病を患い、医者が強く勧める入院を蹴って、ずっと隠れて通院していたそうだ。初めて聞くことばかりで、俺はとても平常心ではいられなかった。どうして親父は俺に、病気のことを教えてくれなかったんだ!
「あなたには心配かけたくなかったのよ。あの人なりの優しさなの、わかってあげて」
母は頬を濡らしながらそう言った。俺はただ、悔しい。もし教えてくれていたなら、もっと父をいたわり、そばにいようとしたのに。嫁との新居に移ることもせず、ずっと実家で、親父の面倒を見てやりたかった。そんな後悔に幾度も襲われ、誰にもぶつけられない怒りを我慢し、最後にはどうしようもない無力感だけが残った。
そして俺は、父が他界してからは大須に近づかないようになった。父との、最後の思い出がある場所だから。