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1:洗足





 天幕に近付くにつれ、少女の軽やかな足取りは段々と自信の無いものへと変わっていった。


 腰袋から短い棒を数本取り出すと、彼女はカチカチとそれを組み合わせて一本の長いスティックへと変えた。それを左右に振り地面を探りながらゆっくりと歩いていく。

 


 少女が暮らす天幕は共有井戸のある催事用の借地にあった。


 そこそこ大きな地方や移動経由地であれば、こうした演芸劇場サーカスや見世物、行商隊等が滞在できる場は行政の処置により用意されている。

 規模こそ違えど空の建物が準備されており、役所に目的と期間を申請して使用料を払えば滞在が可能だ。わざわざ一から会場の設備をせずともよいため、ダーナンでは国内だけでなく国外からの見世物や移動動物園もやってくる。

 娯楽は金の流れを良くし国政に対する不満が膨れ上がるのを和らげる効果もあるため、国も想定範囲内であれば推奨する分野でもあった。


 国民の多くは生まれてから死ぬまで自身の住む地から離れることが無いため、こうした場所で行われる催しを心待ちにしている。

そのため、停留中の見世物小屋には子供達がうろちょろしている事も多い。


(今日は、気配が4人だった……)


 沈む気持ちを隠せずに少女は小さくため息をついた。


 チェルレアーンに来てひと月。毎夜あの水辺で踊るうちに子供の気配を感じていた。

いや、『感じていた』という表現とは少しだけ違う。

『教えてもらって』いたのだ。


 相手に害意が無いと知りそのままにしていたが、今夜は【増えた】【気を付けて】と警告がきた。


 もう、あの場所には行かない方が良いのだろう。



 

「おっ? 随分と早起きじゃないか。寝れなかったのか、ヤナ」


 夜明け前に天幕に戻り、乾いた喉を潤おそうと共同井戸に近寄った少女の背に陽気な男の声が掛かった。

 ヤナと呼ばれた少女は振り返り、僅かに眉を歪めた。


「わはは、そーんな嫌そうな顔をしなくても取って食いやしないって!

 お前さんに拾って貰った分、恩返しをせにゃならん立場だしな。給金が出たら好きなもんを買ってやるよ。何がいい? おっと、宝石は無しだぞ」


 笑い方に悪意は無い。気さくな人物なのだと分かってはいる。

 

 だが、ヤナはこの男が苦手だった。

 

 盲目であるため人の気配にはかなり敏感だ。

 それでも、ヤナは時折この男の気配を感じ取る事ができずにいた。

 

 



 この男と出会ったのは、ヤナの所属する【パッチェス・ロナードの演芸劇場】がチェルレアーンに入ってきた日だ。


 到着から開幕までの三日は準備と宣伝期間となる。会場の下準備や調整で忙しい団員達の間で、練習を終えたヤナは掃除や簡単な繕い物といったできる範囲での手伝いを行っていた。

 そこへ、宣伝手伝いの声が掛かったのだ。


 普段は敷地内を出ることが少ないヤナだったが、その日は長距離の移動から解放されたばかりで出歩きたい気分だった。

 数人で街に出てチラシを配り、市を回るのは楽しかった。

 目に見えずともヤナには音と匂い、それから肌でチェルレアーンを感じる事ができる。


 風と水の街。

 それが初めて訪れた年にヤナが感じたチェルレアーンの印象だ。

 そよ風の心地良いこの街の高台には水質の良い水辺がある。そこを一人で訪れる事を彼女はこの地で何よりも楽しみにしていた。



 賑やかなラッパや太鼓の音と共に訪れた華やかな衣装の団員達は賑やかな街中でも目立つ。

 中でも、長く癖のない美しい銀髪に染み白磁器のような肌、そしてガラスの瞳を持つヤナの風貌は、一際人目を引く存在だ。


 広場に出ると打ち合わせの通り、ヤナは竪琴と横笛の音に合わせて鈴付きの薄布を手に舞いだした。首に巻かれた光沢のあるショールがひらひらと踊る。

 通りすがる人々は皆足を止め、ヤナの姿に釘付けとなった。


 彼女の舞は女性を武器にしたものではない。

 さらさらとなびく髪や布が風に宿る精霊を思わせ、しゃんしゃん、と鈴が振られれば水の精霊が笑った気がした。


 茫然とする観衆達の手に「よろしくお願いしまーす!」「あの子が出演する演目もありますよー!」と団員達がチラシを配りつつ声をかけていく。

 たっぷりと用意していたチラシは、あっという間に無くなってしまった。


「今日はヤナのおかげで楽だったわね!」


 熊使いのエメリットが機嫌良くヤナを褒めた。

 あまり外に出たがらないヤナだが、宣伝効果は抜群だ。その為毎回宣伝に出てほしいというのが団員側の希望だったが、団長のパッチェス・ロナードはヤナの極度の人見知りを理由にそれを禁止していたのだ。


 時間に余裕ができたため、皆でチェルレアーン名物のジュバ果汁でも飲もうじゃないかという話になった。こういった楽しみも宣伝組ならではだ。

 目の見えないヤナと体躯の良い重量上げのノエ、そしてしっかりしたエメリットが荷物番兼留守番をし、残りの団員達で果汁を買ってくることとなった。


 ノエとエメリットのお喋りを黙って聞いていたヤナだったが、ふいに知らない気配が近付くのを感じた。

 注意を促そうと口を開くより先に、


「泥棒っ!」


 エメリットの大声が聞こえた。

 ノエが追いかけエメリットの怒声が響く中、ヤナの肩と腰がぐい、と引き寄せられた。あ、と思う間も無く口を塞がれ引きずられい、気付けば人けの無い場所まで連れてこられていた。


「ようし、そのままおとなしくしてりゃあ命の危険は無ェからな、安心しな」


 ニヤニヤした声と共に複数の男の気配がした。

 ヤナの顔から血の気が引く。じりじりと後ろに下がりかけたものの、すぐに壁に背が付いてしまった。

 逃げたくとも地理も分からずスティックも手元に無い。自分が複数の男達を相手に撒く事など到底無理な話だ。

 男の手が自分の胸元に近付く気配がした次の瞬間、


 ぐい、と体が持ち上げられた。


 そのまま、ぐらぐらと浮いたまま大きく身体が揺れ続ける。


「おい待てこの野郎っ!」

「止まれやああ!」


 追いかけてくる怒声が少しずつ遠のいていく。


 茫然としてされるがままだったヤナは、やがて誰かが自分を腕に抱き抱えて走っているのだと気付いた。慌ててもがきかけたところに、


「助かりたいんならじっとしてな」


 と、陽気な男の声が降ってきたのだ。


 がっしりとした腕に抱かれるのは、何故かとても安心した。

 低いその声に、不思議と親しみと懐かしささえ覚えた。

 ヤナは自分の勘を信じ、ひとまず信じる事にした。


 男の身体からは香のような不思議な香りがした。




「あん時ゃ文無しでハラ減ってたからなあ、ヤナを見かけて『助けたら飯ぐらい奢ってくれるかも』なーんて思い付いた瞬間に走ってたわ。

 そうしたら、ここで飯食わせてもらったどころか仕事にまでありつけたからなあ。俺にはヤナの背に天使の羽根が見えるぞ……って、いいなそれ! 衣装にでっかい羽根を付ける! よし、衣装係に言っておこう」


 慌ててヤナはぶんぶんと首を横に振った。

 この男に頼まれたら彼女は本当にやりかねない。というかやるに違いない。


 『ジェイス』と名乗ったこの中年男、元々流しの芸人をしていたらしいのだが、一人じゃいまいち金を稼げず持ち金が底を尽きたらしい。

 同じ芸人仲間として、話を聞けば助けてやりたいと思うのがさがだ。話を聞き駄目元で団長の元へ連れていってみたのだが、あっという間に入団することとなり、団員達のほとんどと打ち解けてしまった。


 ちなみに衣装係のアリムはジェイスに熱を上げている最中だ。


「あの人、だらしなくしてるけどすっごくいいわ」


 とのことだが、何がいいのかヤナにはさっぱりわからない。

 見た目は背が高くがっしりしているが、顔は不精髭を生やしぼさぼさ頭でいるらしい。それも女達から言わせれば『味よ味』とのことらしいが、清潔ではない事の何が味なのか。

 つまりは顔の作りが良いという事なのだろう。だが盲目の自分にとっては興味の無い事である。


 それよりも、あんな香りをさせておきながら、時々気配を気付かせない事の方が気になった。

 もしかしたら、この男から漂うほんのりとした得体の知れなさ具合に女は惹かれるのだろうか。



「いよいよ最終日か」


 しゅっ、と火の点く音の後、独特の香りが微かに鼻に届いた。

 ジェイスが吸っているのは香煙草という銘柄で、非常に独特な味わいらしい。喫煙後に香りが身体に染みつくことから、一般にはこれを吸うのは香水代わりが多い。愛好者によれば、そのとっつきにくい味こそがたまらないらしいのだが。

 どちらにしろ、それを好む事からして癖のある変わり者だ。


「なあヤナ。お前さん、華やかな世界って好きか?」


 ふいにジェイスが訪ねてきたので、再び首を横に振った。


「だよなあ、俺も苦手だわ」


 ジェイスはヤナの隣に来ると、井戸から水を引き上げた。立てかけている桶の一つにざあっと水が入る音がする。


「ほれ」


 手渡された柄杓にはなみなみと水が入っていた。喉が渇いていたのでヤナはごくごくとそれを飲む。

 ふう、とため息をついてから、ヤナは自分の足元に手が掛けられている事に気付いた。

 驚いて引っ込めようとすると、


「じっとしていな」


 煙の香りと共に下方から声がきた。

 ぴちゃり、ぴちゃり。

 ふくらはぎの辺りまで水をかけながら、ジェイスは足の汚れを落としてくれた。水の冷たさと掌の温かさが同時に肌に伝わってくる。


「おいおい、また随分と汚してきたなあ、一体何をしてたんだ?」


 呆れた様子ではあるものの、洗う仕草は非常に優しく丁寧だ。

 尋ね方も答えを求める口調ではない。


(――なるほどね。このようなところに女性は惹かれるわけか)


 そう思いながらヤナはされるがまま、ジェイスに足を洗われていた。


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