8
Ψ
あたしたちは、暗くなる前に藤ヶ丘に入ることができた。
このニュータウンを脳に喩えれば外科手術が相当に困難なほどの奥まで来た。
見覚えのある家並みが久しぶりに展開した。四角い一戸建てが無限コピーされたような、圧迫感あるエリア。ここの一番奥が、マチさんの家である。
マチさんはドアのサイズに不釣り合いな長いカギを出し、鍵穴に差し入れた。
ふう。無事にマチさんの家に辿り着いたようだね。
さやきさんの襲撃は受けなかった。運が良かったのかな。
だけど、あたりの静けさは不気味にも思える。さやきさんの姿が無いからといって、視線まで無いとは言えない。だって、あの望遠鏡は、豪雨の中でも観測可能みたいだったし。さやきさんがあたしたちを何処からかリアルタイムで見ていても、全然不思議ではない。
ところで、マチさん、何してるの?
カギを差し込んだまま、回そうとしないんですが。
「回らない」
「回らない? カギが?」
「回る」
カチャリ。内側でサムターンが切り替わる音。
ちゃんと開いたじゃない。
「今のは、いつもと反対」
マチさんは把手を引いた。
ガチャリ。――見事に施錠されてる。
「学校へ行く時は、閉めた」
……。
え、ちょっと待って、今の平然とした無表情は何? ここって平然としてる場面?
マチさんは、改めてカギを反対に回し、家の中に入った。というか、前に町長が来た時もだけど、よくカギを開けられる家だなあ。カギをかけている意味があるのかしら?
この家の名物の螺旋階段を登るマチさん。
「ねえ、ちょっと! いいの!?」
思わず大声を出してしまう。
「誰かがカギを開けたってことなのよね? だったら、対策もなしに突っ込んでもいいの? そいつは今も中に居るかもしれないのよ。待ち伏せしてるかもしれないのよ……?」
あたしは具体的な名前を口に出すのは避けた。この期に及んで、バカっていうか、いくじなしだと思うけど、その人が忍び込んでいるって考えたくなかったんだ。
でも、忍び込むとしたらその人しか居ないって、分かってもいた。
さやきさんは待ち伏せしている。マチさんを襲うために。
そんなイベントだったのかなあ。あたしが望んでいた「面白いこと」ってのは……。
マチさんは螺旋階段の途中で止まり、首だけあたしの方に回した。
「未来を変更できないなら、対策をしても、無対策と同じ」
そりゃそうだけど。なんか歯痒いのは何故?
「しかし、対策を取らないわけではない」
滅多にまばたきしない目。いつもと同じ、あたしを見詰める一色。
細く息を吸い、マチさんは呟いた。
「無対策と同じでも構わない。対策とは、講じることによって対策」
マチさんの瞳には、刺すような真剣なパワーが、奥に光っている気がした。
「丘の上にある給水塔を知っている」
あたしが答えるのを待っている。
きょう二回目の疑問文のようだ。
「えっと……。水道塔のこと? あたしが登ったやつかな」
うなずく、ことすらしない。瞳の僅かな震動で肯定が示される。もはや、それで意思疎通ができるあたし自身を称えたい。
「あの水道塔は十八年前から配水機能を果たしていない。現在、団地への配水は、新型のポンプが別個に設けられている。水道塔は、壊されないから残っているに過ぎない」
「へー。どうりで看板は錆まみれ、本体は蔓まみれだったわけね」
「すでに水道塔ではない。無用の長物。しかし、里美は水道塔と呼んでいる。正しくない」
「ん、言われてみたら、そうかもしれないけど。でもさー、〝無用の長物〟って呼ぶのは味気ないんじゃない? 長いしね」
なんて、非常に世間の趣味とズレた会話を交わしながら、自然な疑問がよぎったのは無理もない。
何で突然、水道塔の話?
「つまり」
とマチさんは言った。
「〝水道塔ではない〟、にもかかわらず、〝水道塔が建っている〟ということ」
断定だろうか、疑問だろうか。どちらにしろ、あたしの対応に迷いが生じるわけではない。
「うん」
あいまいにうなずくだけだったから。
眠そうな目で、マチさんもコクリと頷いた。
「じゃあ、そういうこと。〝対策は意味がない〟、けれど、〝対策は意味がある〟」
螺旋階段を登る作業を再開した。
ちょっと待って。あの、わかりません。寝言認定していいですか。
一体どういうことなのよっ。
「〝未了台帳〟を見ているから、イベントがどう流れるかは知っている。心配はない。現在この家の中には天箒さやきは居ない」
マチさんの表情に漂っているのは、自然な確信だった。風にそよぐ木の葉のように自然な。本当にさやきさんは居ないんだと思い、あたしは安心できた。
あれ?
でも、そしたら、カギが開いてたのはどうして?
疑問山積だが、あたしは螺旋階段を登っていく。
マチさんは自分の部屋の前の踊り場で待っていた。
更にマチさんは足を進めた。もっと上に行くようだ。
「今日はマチさんの部屋じゃないの?」
「今日のイベントでは、私の部屋の機能は要請されない」
マチさんの後ろ姿は答えた。吊るされている人形のような、滑らかな登り方だ。
つぎのドアが見えた。マチさんの部屋より上だから、三階なのかな?
おかしいな。この家、外からだと二階建てにしか見えなかったけど。
「どうぞ」
マチさんはドアを開け、中へ。
おや、意外。
普通のリビングだ。
……いや、そうでもないか。だいぶ散らかっている。
ソファの上には新聞。テーブルの上には食器やティーセット。それだけを見ると、生活臭を感じなくもなかった。
でも、違った。息を吸った瞬間、セメントのように肺に溜まりそうな、空気の重さを感じた。
何年?
何十年?
誰も部屋の空気を動かしていない感じがした。新聞の日付は見えなかったけど、今の新聞とは雰囲気が違った。ティーカップやソーサーは白く乾いていた。
部屋の中を歩くだけで、砕氷船になったような気分だ。凍った時間の中を押して進む。
この、ワンルームマンションのように縦長な部屋は、マチさんのご家族の部屋だったのであろうか。――と、過去形で勘繰ってしまったほど、人間の気配がしない。
「マチさん、この部屋は……?」
「私が使用している部屋ではない。通るだけ」
マチさんは部屋を縦断した。部屋を輪切りにしているような大きい窓の前で止まった。
「現在は危険は無いが、天箒さやきが私の命を狙っているのは確か。襲撃を受ける危険を回避する」
マチさんはベランダに出た。あたしを招いた。
「こっち」
って、何よ、このベランダ。
目の前が木の枝。
というか、森である。
マチさん宅の裏は森だったわけか。
しかし、どうも木の繁り方が普通ではなかった。
幹は細いが、葉っぱは異様に大きくて……。
もしやと思った。あたしは下を覗き込んだ。
うわあ!
地面が、予想より遥か下にある。
ベランダから見えた枝は、木の梢だったわけだ。
団地には、効率的に家を建てるため、人工的な段差がよく造られる。マチさん宅は、まさにその端っこにある。この、マチさんの家を含む一戸建ての列が、宅地の終焉する所なのだろう。段の下には遊歩道があり、そこからは森林だった。
ところで、マチさんの姿が見えない。
普通は考えないだろう。平面的なベランダを上に移動するなんて。
マチさんは、ベランダの端に取り付けられたハシゴをよじ登っていた。
ハシゴは屋上に続いているようだ。あたしはマチさんを追い掛ける。最近、ハシゴを登る機会が多いなあ。ひんやりしたマチさんの手に引っ張ってもらい、ハシゴを登り切った。
平坦な屋根の上は、思ったよりしっかりしていた。
夕暮れどきの景色は綺麗だった。ベランダの方には森しか見えないが、玄関の方にはニュータウンの眺めがあった。家の明かりをたどると、丘の起伏をぼんやり想像することもでき、丘の一番高い所には毒々しい赤色のランプが浮いていた。水道塔のランプだと分かった。
景色を邪魔する影があった。
「天体観測、ですか?」
丁寧さで卑屈さをラッピングしているような声。
どうしてここに。
牛氏。
「どうしてここに? とでも問いたげですね」
牛氏はのっぺりとした笑みをあたしに向けた。銀色のフレームをくいと人差し指で上げ、
「簡単なことですよ。玄関のカギを開けたからです。そうですよね?」
そうじゃないでしょうが。あたしが言いたいのは、勝手にマチさん宅に上がり込んじゃダメってことよ。
「そう」
と、隣にて呟くのはマチさん。納得しちゃっていいんですか。
「皆野氏ですね。お初にお目に掛かります。あなたも〝異常〟な能力を有する住民の一人だそうですね。わたくしは牛久智久といいます。あなたのような〝異常〟な方には興味がありましてね。ゆっくり話してみたいのですが、時間が許してくれないようです」
牛氏は判然としないことを言う。
「そちらのお嬢さんには昨日もお会いしていますね。ええと、お名前は何でしたっけ」
「上杉里美」
と、上限の月が二つ並んだような眠そうな目で、マチさんが答えてくれた。
「上杉さん、あなたには、わたくしの陰謀を話していましたね?」
うわ。大っぴらに陰謀なんて言ってる。
陰謀とやらの実行によっぽど自信があってのことかしら。
「たしかに、聞いてるわ。さやきさんが聞いたら悲しむような計画を、あなたが立ててるってことはね」
牛氏の望みは、「さやきさんを叩き潰すこと」。
まず、さやきさんにマチさんを襲わせる。すると、マチさんが能力を使ってさやきさんを返り討ちにする。……そういうシナリオを画策している。
「計画のことをご存知でしたら、どうしてわたくしがここに居るのか、すぐにお解りになるはずですよ」
「どういうことだい?」
「下を覗いてごらんなさい」
「下?」
「ええ、そうです。突き落としたりしませんから大丈夫ですよ。どうぞ覗いて下さい」
牛氏は腕時計をチラリと見た。安全さを示すかのように、あたしから遠ざかった。
マチさんは、眠たげな目にあたしを映し込み、ぼーっと佇立している。牛氏を警戒している様子はない。いつものように、動くのもめんどうそうだ。
そんなマチさんにしては、今日は異常に活動している日だよね。ハシゴ登ったし。
……じゃあ、下を見てみようか。牛氏が何を言いたいのか不明だけど。考えてみれば、屋上というのは景色を見るためにあるような場所なのだし。
うん。当たり前だけど、ベランダと森しか見えなかった。
「そっちではありませんよ」
牛氏の声。
「そっちではない」
マチさんの声。
「あっち」
マチさんは丘の方角を指差した。牛氏も頷いた。ああ、そっちかい。ベランダ側ではなく玄関の方ね。
って、どうしてマチさんが牛氏に代わって指示を?
そんな疑問をあやふやにさせてしまうような、煙のようなマチさんの瞳に追尾され、あたしは玄関側へ歩いてみた。
あれ? 下を覗いても、特別変わったモノはないよ?
マチさんちの玄関。
それと、この範囲で回覧板の回しっこをしているのだろうという住宅地。
ずっと遠くには水道塔が突き出ている。
「ねえ、何も無い、みたいだけど――」
そう言って牛氏を振り向くあたしだが、体の動作は脳よりもワンテンポ遅れるから、あたしは再び下を向かなければいけないだろう。
そう、振り返る直前、映っていた。視野の片隅に。
望遠鏡を担いで走るさやきさん。
「居たわね、上杉」
今はもう、あたしを見上げるばかりの距離に居た。
うわ、時間戻したい。牛氏が腕時計を見ていたあたりまで戻せない? 無理だよね。「居ないよー。あたしは銅像だよー」と答えたい。もう銅像になりたい。
「皆野マチの家におまえが居るってことは、そこに皆野も居るわね?」
「え、いや、あの、居ないよ、と言いたいところで……」
何を言ってる、あたしは。
「良かったわ。上杉がマスコットみたいにてっぺんに立っててさ。居留守を使われるかもと思ってた。居留守を使われても、中には入るけど」
さやきさんは目を輝かせ、笑った。
さやきさんは静かにドアを開け、あたしからは見えなくなった。しまった。この家に入った時、あたしはカギを閉めていなかった。
ちょっと待って。何かがおかしい。
あたしはハメられていないか? 牛氏に見てみろと言われて下を見たら、さやきさんが来ていた。あたしがひょっこりと顔を出したせいで、さやきさんに見られた。ベランダ側に居れば、隠れていられたし、居留守も使えたのだ。どうしてこんなに悪い流れに?
牛氏は気取って呟く。
「これでお分かりでしょうか? わたくしは見物するために来たんですよ」
「け、見物?」
いま気付いたが、屋上の一角には、机があった。いや机なのか? バナナみたいな風変わりな形をしている。床がせり上がった物体のようにも見える。しっかりと椅子がセットされているので、まあ机なのだろう。
牛氏はそこで本を広げた。
牛氏は、本と呼ぶには厚すぎる冊子を「バフッ」と閉じ、立ち上がる。
「ええ。決まってるじゃありませんか。わたくしがここに居るのは、憎むべき才能に溢れた我が同胞である小娘が、強大な異能を有する皆野女史に潰される現場を目撃するためです。ここなら特等席ではありませんか?」
ちぇっ。どうやら間違いない。あたしは、マチさんとさやきさんをカチ合わせるためのダシに使われた。
ここまでは、牛氏の陰謀は進行しつつある。あたしだけじゃなく、マチさんもさやきさんも、彼の手のひらの上みたいだ。
気に食わないねェ。勝手にシナリオなんか練ってくれちゃって。
マチさんとさやきさんが衝突したら、最悪、二人とも無事では済まない。なのに衝突させようだなんて。そして、衝突させた張本人は、特等席で見物に興じようっていうわけか。
どうして? どうして、そんなことを? マチさんもさやきさんも、あたしの友達なんだよ。マチさんとさやきさんがどう思ってるか知らないけど、あたしは友達だと思ってる。二人が衝突したら、あたしが嫌な気分になるのは分かり切ってるでしょ。そんなシナリオを組みやがるなんて、断然反対するね。
「でも、あなたの思い通りにはならないわよ」
「ほう? それはなぜです?」
「思い通りにはならないよ」
あたしは強がるように繰り返した。
ぼんやりとした確信がある。
たぶん牛氏のシナリオは成就しない。
なぜなら、マチさんとさやきさんは衝突しないからだ。
マチさんは「今回は私の部屋は使わない」と言っていた。
つまり、今回は〝史士〟の能力は使わないということ。〝未来変更〟は行わないということだ。
実際、マチさんは、仕事場である自室には立ち寄っていない。〝未来変更〟の手続きを行った形跡は無い。「〝史士〟は自分の未来を変更できない」とも言っていた。
だから、今のマチさんは自分の身に関しては全く無防備だし、防備するつもりもないはずなんだ。
マチさんには、能力を使うつもりが無い。
ということは、マチさんとさやきさんがカチ合っても、能力者対決にはならない。あの剣を使い、能力を披露するのは、さやきさんの方だけ。
その先は、……考えたくない。
「根拠のない空元気ですね。ガンを告知された人間は、『自分がガンになるはずがない』と必死に思い込むそうです。ありもしない希望に縋るのは非生産的です」
牛氏は今、本性を現したかのように、粘着的で引きつった笑みを浮かべていた。自分以外の世界全部を蔑む笑みだった。
ダメだ、この人、ものすごく勘違いしている。だから、あなたのシナリオは実現しないんだってば!
「じゃあ、唯一ともいえる現実的な希望に縋ってもいいかしら?」
「何です?」
「あんたの仕事仲間のさやきさんを、あなたが止めてちょうだいよ。もうそれ以外、平和的な解決法は無いわ」
「どうして止めるんです? 今は計画の山場ですよ」
「その山は空気の上にあるわ。あなたは分かってない。マチさんはさやきさんとは戦わないのよ! シナリオは破綻してるわ。さやきさんを止めて」
「お断りします。わたくしの計画は完璧です」
こりゃダメだ。黒幕の牛氏、全力で勘違い中。もはや彼の狂気的な笑いもウザいだけだ。
「あなたの席は特等席ではない」
あたしの声ではない。
全ての感情から遠い所に居るような少女が、さりげなく歩み出た。
「せいぜいA席。なぜなら、あなたが期待するイベントは――」
マチさんが何か言いかけた、その時だった。
どうん。
あたしの後ろで起こった、重々しい音。望遠鏡のケースを、さやきさんが放り投げた音だった。早いね。もう来るなんて。
さやきさんは真っさらな顔をしていた。
まるで、箱から出した新品のような顔だった。
さやきさん型のロボットが初期化ボタンを押されたらこうなるだろう。
あたしは、初めてさやきさんに会ったような気がした。前の学校のえんじ色のネクタイと相まって、仕事のできるOLさんみたいだった。
さやきさんの手にはフランベルジェが握られていた。突然に空気中から出現する剣。背丈ほどもある剣をあたしに向けた。
「どきなさい、上杉」
「待って、さやきさん」
あたしはマチさんをかばうように両手を広げた。まずいよ、いま攻撃されたら。今のマチさんは一般人と同じ。剣で斬られたら、本当に殺されかねない。それだけは防がなきゃ。
けど、どうしよう。さやきさんと戦って勝てる自信は無い。第一、戦いたくない。考えろ。何ができる? あたしは何ができる?
牛氏が笑っている。うるさい。
ああ、ダメだ。
結局、あたしは……。
「さやきさん待って。マチさんは〝異常〟じゃない。あたしが保証するから。だから排除しちゃいけないよ」
言葉で説明するぐらいしか無いのか。
瞬間、
波打つ刀身が、あたしの肩に押し付けられていた。
「保証? 面白いこと言うわね。おまえが保証したら、皆野マチは〝異常〟じゃなくなるわけ? それじゃー、皆野マチを処分しようとしてる私は〝異常〟になるってわけね。やれやれ。おまえの言いたいことはよぉーく分かったわよ」
「違うよ、さやきさん。そうじゃないよ」
さやきさんは怒っている。
けど、あたしも引かなかった。
あたしの後ろにマチさんが居ると思うと、「ここからどいちゃいけない」っていう気持ちが湧いた。
「二人とも〝異常〟なんかじゃない。マチさんは〝異常〟じゃないし、さやきさんだって、〝異常〟じゃないんだよっ。二人で潰し合っちゃ、ダメなんだよ……!」
「……?」
さやきさんは目を丸くした。
まるで、散歩に出掛けたら偶然ハレー彗星でも見たように。
だけど、その顔が間違いだったように、澄ました顔を取り戻す。
「フン。破綻した命題に虫酸が走ったわ。私の剣は〝異常〟を処分するためにあるのよ。だから、そこに居る皆野マチが〝異常〟なの! そうに決まっているでしょッ! 世迷い言を抜かしやがって。おまえは絶対に許してやらないわ」
くいっと、さやきさんは剣を引いた。
……痛! もしかして今、あたしは肩を切られた?
「おまえは許さない。――けど、今は皆野マチを処分しに来ているわ。余分な労力は使いたくない。あたしに職務を遂行させなさい。最後にもう一度言う、そこをどけ!」
「ごめん。どかない」
あたしは答えた。すごく自然に答えていた。
嬉しかった。自然に「どかない」と言ってしまえるほど、あたしの中で、マチさんが大きな存在になっていたことが判った。緊迫した状況のはずだけど、あたしは笑っていた。不思議と力は抜けていた。喩えるなら、あたしは素晴らしい劇の舞台に居るような気がした。一つの駒となって、他の素晴らしい役者さんたちと一緒に動いている気がした。舞台の最後には、感動と納得のフィナーレが待っている気がした。優しい光が舞台を包み込んでくれるようなフィナーレが。
……でも、ひょっとして錯覚?
「どけるべき」
後ろから、呟きが聞こえた。
マチさんが、あたしを見ていた。
「未来は確定している。だからどけるべき」
「マチさん……?」
珍しいと思った。喋る時、マチさんが手ぶりを絡めるなんて。
マチさんは自分の胸に手を当てた。
目的語のない一言、
「構わない」
と呟いたマチさんが、傾いた。
さやきさんがあたしを突き飛ばしたんだと分かった時、
マチさんの体は切り裂かれていた。