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まちのできごと  作者: N
6/14

                    Ψ

 

 世間一般ではおやつの時間。

 今年みたいに残暑が厳しくては、風鈴を軒下に吊るした日本家屋で、氷菓でも胃に送り込みたいものだ。

 だが、現実はまるで地獄の釜の中。燃えたぎる入道雲で蓋をされた、蒸し焼きのニュータウン。とろとろと溶け出しそうなアスファルトの坂を、サンタクロースみたいな二人が登攀している。先頭で大きな白い袋を抱えているのはあたしだ。さやきさんが一括して買った学用品を運ばされている。だけど仕方ない。特大の黒バッグを背負うさやきさんには持たせられない。

「さやきさあん、大丈夫?」

 あたしは額の汗を腕になすりつけ、後ろを振り返った。

「大丈夫に決まってるわ。先を急ぐわよ」

 さやきさんは涼しげだ。全身ドライアイスでできているのかしら。たおやかに唇は結ばれ、笑ってるようにすら見える。

「あたしはさあ、大丈夫じゃない感じだけど。暑いのを通り越して、汗が出なくなってきたよ。ちょっと休憩しない? もう少し上がるとコンビニがあるから」

「仕方ないわね。バテられて足手まといになるよりマシだわ。おまえの好きになさい」

 高い場所から観測したいっていう希望は分かる。天文台は山の上にあったりするものだし。

 だから、水道塔から観測したい気持ちも分かる。学校から水道塔への道が分からないのなら、案内だってできる。昨日のニュータウン散歩で、道は覚えてるから。

 でも、なんで日中から天体観測?

「私の望遠鏡の性能をナメないでもらえる? 日中だろうと、曇りだろうと、問題にはしないわ」

 さやきさんは、氷のナイフみたいに鋭く言った。

 引き続き、女性の籠もった機械声がした。


〈住民の皆さんにお知らせします。本日は大変気温が上がっています。お子さんやお年寄りの方は十分熱中症に注意し、外出は控えましょう。〉


 アナウンスは、ぬるい風のように流れていった。団地のどこかにスピーカーでも設置してあるんだろう。わざわざ呼びかけなくても、こんな炎天下、子供もお年寄りも見かけない。

 出歩いているのは酔狂な若者くらいのものだ。確かに、我ながら酔狂である。日中から天体観測なんて言われても、断る自信は全く無かった。奇妙で変わったイベントであるほど、あたしはのめり込んでしまうのだろう。だって、無条件でワクワクしちゃうものなあ! 上空では、入道雲が黒味を帯びてきた感があるけれど、さやきさんが行くなら、土砂降りの天体観測にもついて行きそうな気がする。

 蒸し暑い黒い屋根の森を抜けた。

 白いコンビニがオアシスのように輝いていた。

 

 

 あたしは昨日と同じアイスをレジに持って行った。清見君におごってもらったやつだ。ミルク系のアイスながら、シャーベットのような口溶けが画期的な逸品である。あの味で三五〇円なら、全然高くはない。

 誰も居ない駐車場のド真ん中で、さやきさんが立っている。

 何も買う物が無いから、コンビニには入らないという。

 あたしは、炎天下の駐車場を飛び石みたいに走り、さやきさんの所に。

 アイスを一本差し出す。

「食べない?」 

「別に要らない。私は甘党じゃない。けど、二本買ったんなら貰ってあげるわ。体も冷やせるから」

 さやきさんは、組んでいた腕を億劫げにほどき、アイスを手に取った。

「あ、おいしい」

「でしょー!?」

 さやきさんはシャーベットみたいに硬かった顔を緩める。このアイスの口溶けには驚かざるを得まい。

 さやきさんは、大きめにアイスを食いちぎり、咀嚼する。

 さっきのソバと食べ方が一緒だ。

 食い終わった。

 唐突に、

「おまえ、いい人だわね」

 と言われた。

 あたしは面食らった。さやきさんからお誉めの言葉が出るなんて、実のところ考えたこともなかった。

「評価してあげるわ。おまえの名前は?」

「あ、ゴメン、言ってなかったよね。上杉里美だよ。よろしく」

「覚えてあげる」

 すぐにそっちを向いてしまったけど、その前に確かに、妹を誉める姉みたいな顔をした。その一瞬だけ、ロボットみたいに硬かったさやきさんの綺麗さに、人間くさい柔らかさが重なった気がした。

 さやきさんは、食べ終わった口をハンカチで拭き、まわりの風景を見ている。

「ここらへんは瓦屋根ばかりなのね。きのう給水塔に登った時は、反対側から来たからね。こっちは知らなかったわ」

「給水塔? あ~、水道塔のことかな?」

「水道塔じゃないわ。給水塔が正式な名称よ。団地に水を供給するタンクみたいなものよ。古い町ではよく見るわ。高台にあることが多いから、〝観測〟には適したポイントなの」

「そういえば、さやきさんは、きのう水道……給水塔の上に居たけど、ウチの学校の制服を着てたわよね? でも、学校には居なかったよね?」

「学校に行く途中、あの給水塔を見付けたのよ。いい〝観測〟ポイントだと思ってね。望遠鏡を出してたら、学校に行きそびれたわ」

「へえ、よっぽど天体観測が好きなんだねえ」

「星空は落ち着くわよ。どんな星座も天体も配置が決まってるでしょ。秩序あるものが好きだわ」

 でも、昼間に見える星座は無いんじゃ――と訊こうとした時、話は空から地面に下りた。

「ここらへんの景色も好きよ。ゆったりした斜面の上に、見はるかす瓦屋根。まあまあ素敵じゃない」

「言われてみると、集合住宅は一つも見えないね」

「一軒家しか無いのは、集合住宅を建てる技術も無いほど昔だったんでしょうね。異物感を排除しているのがいいわ。秩序を感じるわね。たとえば、この一軒家のうち一個だけが五十階建てだったら、それは異常よね」

「そうかい? そういう奇観も面白いと思うけど」

 あたしは答えた。何の気なしに、ということは、自然かつ率直に。

 狂ったように怖い顔をしているさやきさんが、居た。

「そんなはず、ない!」

 グチャリ! さやきさんはアイスのプラケースを踏み、扁平にのした。

 あたしは、お面を一瞬で着け替えたような変身ぶりにビックリして、まぬけに笑うお面を着けっぱなしにしていた。

 ゴロゴロゴロと空が鳴り、しけった空気が鼻腔に入った。アスファルトと水蒸気が戯れる匂いがする。

 上を見ると、コールタールの地層みたいなどろどろ雲に手が届きそうだ。

 大粒の。

 雨が落ちてきた。

「休憩は終わりよ。給水塔に行くわ」

 ついて来るかどうかは自由だけど。

 とでも言うような、元通りの硬質な顔に戻っていた。

 さやきさんは黒バッグを背負い、歩き出した。望遠鏡、濡れても大丈夫かなあ。

 あたしは慌ててさやきさんを追い掛けた。

 なにやら不穏だけど……。面白くなってきたじゃない。ゾクゾクするほど。

 それとも、ゾクゾクするのは、滝のような雨のせいかしら。

 

 

 本当に今日は雲が低い。

 水道塔が高いのもあるんだろうけど。

 搾り器に押し付けられてジュースを搾り取られるグレープフルーツのように、ずっぷりと雨雲は塔に刺さっている。根元にて見上げるあたしたちの顔には、みずみずしすぎる果汁みたいに雨が突き刺さる。バラララララ、という乾いた連続音は、塔に巻き付いている蔓植物から水が落ちる音だ。

「ねえ、こんな日に天体観測なんかできるのかい?」

「夕立なら夜までには上がるでしょ。それに、私は星空以外のものも観測するしね」

 さやきさんは弾むようにハシゴを登って行った。

「さやきさん、購買の荷物は?」

「下に置いときなさい」

 声だけが降って来て、さやきさんの姿は見えなかった。塔は雨雲の底に深々と頭を突っ込んでいる。なんという身のこなしだろう。もう雲の中に行ってしまったんだ。

 あたしは、さやきさんの日用品が入ったポリ袋をハシゴの最下段にくくり付けた。そして、硬いナメクジみたいな触感のハシゴを握り、てっぺんに向かって登った。

 風のように叩き付ける雨。登るほどに濃くなる霧。視界は無いも同然だった。

 不思議だな。今日は登るのが怖くない。怖いなんて考えてる暇は無かった。てっぺんに行ったらさやきさんが居て、たぶん何かが分かる。

 あたしが求めている驚きが。不思議な答えが。普通っぽい怪奇が。あたしは磁石に引き寄せられる鉄くずみたいに夢中でハシゴを登った。胸の中でドキドキの花が毒々しく膨らむ。刺々しく咲き、胸がつつかれる。ああ、痛いけど、気持ちいいな。

「エーテル確認。r値は88.204……。誤差は許容内。昨日よりマーキングしている対象に間違いない。場所もほぼ一致」

 命令めいたさやきさんの発言。練乳を流し込んだような視界。終わっているハシゴ。

 うわ、ここはてっぺんか。へたに動いたら、まっさかさまだな。

 温泉の素を溶いたような霧の中、かすかに浮かんでいる影は、さやきさんと望遠鏡だった。

 さやきさんは、天体を見ていなかった。もっとも、地球も天体だというなら別だけど。

 レンズは地表に向けられていた。

 でも、霧のおかげで視界はゼロのはずだ。霧を透過できる望遠鏡なんて聞いたこともない。

 さやきさん。あんたは一体、何を見ているの?

「毒沢重蔵のエーテルを発生させたのは、あいつなのね。ミナノマチ」

 記号でも読むように呟き、その中には、あたしの知っている固有名詞が二つも入っていた。

 さやきさんの肩に置こうとしていた手を、あたしは、引っ込めた。

 なぜかは分からない。ただ、背中にヒヤリとしたものを感じた。

 雨? そうじゃない。あたしはとっくに体じゅうびしょびしょだ。雨は、空気に置き換わったみたいに、ごうごうと降っている。目の前を魚が泳いで行っても、今なら驚かない。

 さやきさんは接眼レンズから目を離した。乾いた顔を水滴が流れていく。

「『望遠鏡で下界なんか見ておかしい奴だ』、なんて思われるのは癪だわ。だから面倒な説明を敢えてしてあげる。よく聞くことね。この望遠鏡は、私専用の仕事用具なのよ。エーテルを見つけるのに使うわ」

「エーテル?」

「そ。一言でいえば、〝異常な事象〟のコトね。この世は〝正常な事象〟と〝異常な事象〟とでできているの。もちろん圧倒的に〝正常〟の方が多いわ。でも、中には、〝正常〟になりそこねるモノや、〝正常〟から墜落しちまうモノがある。そういうクソ忌々しい異常現象を、私たち〝委員会〟は〝エーテル〟と呼んでるわ。この世は〝正常〟であるべき。〝正常〟だけを敷き詰めてしまえば、正常な世界が造れる。明らかな真理でしょ? だから、エーテルは根絶やしにするべき。正常な世界を造るためにね。エーテル根絶を目指して活動しているのが、私たちの〝委員会〟よ。〝委員会〟の本部には、様々な人間が集まるわ。中でも私たち〝実行委員〟は優秀よ。エーテルを認識できる能力と、エーテルを消滅させる能力と、両方を併せ持っているの。たとえば私の眼は生まれつきエーテルを識別できる。正常な事象なら普通の色、エーテルなら真っ赤な色に見える。この望遠鏡スコープは補助用具。エーテルの規模や因果性をより正確に計るためのものよ。〝実行委員〟は数ヶ月から一年単位で日本各地に派遣され、当地のエーテルを潰して回るの。滞在費用は〝委員会〟持ちだし、転校の手続きもやってくれるわ。私たちは〝委員会〟のエリートなのよ」

 さやきさんは胸を張った。

「……エーテル? ……〝委員会〟? ……〝実行委員〟? ……さやきさんが?」

「やれやれ、信じられないっていう顔ね」

 さやきさんは険しい目つきで言った。後悔と怒りに満ちていた。「私がこんな嘘くさい話を大真面目にしなきゃならないなんて」という感じの。

 だけど、違う。

 違うよ、さやきさん。

 あたしが思っているのは、「信じられない」じゃなくて……。


 あたしの周りの空気が、雨に逆らってじりじりと動いている。

 気が付いたら、目の前に何かがあった。

 棒? 

 みたいな、金属の塊。

 いや、よく見ると、剣? 

 ゆらゆらと波打つ形の刃が珍しい。それにしても長い。細身の剣とはいえ、さやきさんの身長ほどもある。さやきさんはつかを握り、くるくる回転させる。あたしの目まで回りそう。

 ふっと剣が一振りされ、ピンク色の何かが、三つ、四つ、落ちる。

 リボン? ――あたしのリボンだ! 

 あわてて胸元を触る。結び目以外、切り落とされていた。

 さやきさんは、笑っている。

 あたしの鼻先に剣を突き付ける。

 剣は、雨の音に溶けるように、消えた。

「……さやきさん、今のは、何?」

「私の仕事道具よ。フランベルジェという剣。エーテルを消滅させる効果があるわ。今のように、普通の剣としても使えるけどね。望遠鏡でエーテルを精査し、範囲を確定したら剣で叩く。それが〝処分〟の流れよ。私の話が出まかせじゃないってこと、少しは信じられた?」

「……」

 あたしはリボンの切れ端を拾い、苦笑する。

「こんなこと、しなくてもいいのに。その手の不思議な話は、あたしは信じる方よ」

 それは当然だ。あたしは以前、マチさんの不思議な能力を見ている。毒沢町長が造り物だってことも知っている。

 その二人の名前が、さやきさんの口から出た時、あたしは焦った。今も内心動転している。なぜかは分からないけど、この動揺は、たぶん正しい。

「へえ、信じるんだ。話が分かる奴ね、上杉って」

 さやきさんは、小馬鹿にするような笑みで言った。

「じゃあこれを信じる? この町の町長は、エーテルの塊よ。人間じゃないわけ。造り物なの。幻なのよ。きのう町長は死んだでしょう? あれは、町長を演じていたエーテルを私が処分したからよ」

「さやきさんが……」

 やっぱり。あたしの動揺は嘘じゃなかった。

 マチさんは言っていた。町長を殺したのは、「同類」の「異能者」の仕業だと。

 間違いない。その「異能者」は、さやきさんだ。

「この町は面白い町だわ。町のトップが丸ごとエーテルなんて、今までの仕事先では無かったわよ。町長のエーテルを処分した後、やつのエーテルを調べてみたら、その出所を発見したの。つまり、町長のエーテルの親玉の場所をね。この町には、〝エーテルを産み出すエーテル〟が存在してる。非常に異常度が高いエーテルと言えるわね。この親玉のエーテルを叩いておかないと、K町の正常化作業はいつまでも覚束ないと知ったわ」

 さやきさんは、「親玉」の正体を突き止めたんだろう。さっき、望遠鏡を見ながら、思わず名前を呟いた。

「それじゃあ、次に狙うのは、うちのクラスの皆野マチさんってわけなのね?」

「へえ。おまえ、ほんとに話が早いわね」

 さやきさんは平坦な表情で言った。

 そうか、この人がマチさんと似ているのは、こういうところなんだ。千年前から立っている石像みたいに、空気の読めない感じが。

 だけど、考えてみたら、石像に空気が読めるわけないよね。まわりの人間や天気が勝手にクルクル変わるだけだろう。

「そうよ。おまえのクラスの皆野マチが次の標的なの。敵の居場所も行動範囲も把握しているわ。あとは、敵がエーテルを発生させる現場を観測するだけね。エーテルの出力幅と範囲を捕捉したら、私のフランベルジェで叩ける。早晩に実行に移すつもりよ」

 あたしは溜め息が出てしまう。マチさんといい、さやきさんといい、今年は色々な意味でツイているのだろうか。すでに二人も異能者と出会っているなんてね。二人とも面白そうな能力を持っているよね。

 で、あたしは、何の能力もない普通の人。何とも言えずむなしい。

 普通人のあたしが、今できることっていったら……。いつもみたいに普通に生きることしか無いよね。

「さやきさん。マチさんを狙うの、やめない?」

「は? おまえはアホなの? 標的はすぐそこに居るのよ。どうしてやめろなんて言うのかしら?」

 さやきさんは、皮をむいたブドウみたいに目を見開いた。

 どうしてって言われても、たぶんあたしは、さやきさんを納得させられないだろう。納得させられる理由が見付からなかった。

 でも、言えることなら、あった。

「マチさんは、友達なんだ」

「…………?」

 さやきさんは、電車待ちの列に割り込まれたサラリーマンのように、煙たそうに顔をしかめた。

「……じゃあ、私は?」

 リピート。

「私は、何?」

「さやきさんは……。友達だよ」

 と答えたあたしの顔を見て、さやきさんは呟いた。石像のような無表情で。弱々しい声で。

「そしたら、なんで」

 さやきさんは、うなだれるように、あたしに寄り掛かった。

 小さな両手が、あたしの腰に触れて……。

 あたしを、叩き落とした。

 

 

 塔の上。

 あたしを見下ろしている。狂喜に塗られた顔。さやきさんの顔が焼き付いて、ああ、ここであたしは死ぬのかな?

 ……

 

 あれ。死んでない。

 ――いたた! 腕の付け根、痛い。

 あたしは、自分の体が宙吊りになっているらしいと分かった。

 見たことのない男の人が、腹這いになり、あたしの腕を掴んでいた。この人が、嘘みたいなギリギリのタイミングで飛び出し、あたしを掴んでくれたのか。

 細いメガネの奥で微笑んでいる目が、場違いに清々しくて怖い。

「あなたを助けたのはですね、こうするためなんですよ」

 などと言って、ピエロがおどけるように、パッと手を離してくれそうだ。そしたらあたしは、もう一回、死ぬ思いをすることになる。というか死ぬ。

 男の人は、そんな意地悪はせず、すんなりあたしを引っ張り上げてくれた。

 地面に、というか塔の上だけど、両足で立つ感覚がこんなに新鮮なものだったとは。

 男の人はあたしに頭を下げる。

「大丈夫でしたか? 粗相を致しまして、申し訳ありません」

 さやきさんは呆然としていた。

 目を入れられていない製作途中の人形みたいに、表情も体温もまるでない顔をしていた。

 男の人を見たら、ふいに顔を赤らめた。

「う、牛。こんな所までどうしたの。無粋なマネをしてくれるじゃない」

「探しましたよ、さやきさん。われわれは、〝委員会〟から、一緒に行動するよう言われていますからね。お言葉ですが、こちらのお嬢さんを危険な目に合わせるのは賛成しかねます。一般人を巻き込むと事後処理が大変です」

「フーン。おまえっていう奴は……。私に説教するために、ゴキブリみたいにすばしこく塔の上まで来たわけね。この、バカッ!」

 うわ。

 グーだ。「牛」と呼ばれた男の人の顔に、さやきさんのジャンピング・グーパンチが炸裂した。

「言ってるでしょ。私に意見するなって! このカス! クズ! 無能!」

「牛」氏は転ばされ、足蹴にされながらも、どこか嬉しそうだ。顔のせいなのかな。さやきさんは引きつった顔で「牛」氏をしばき上げている。蹴り飛ばす時のテンションの高さからみて、全身ではしゃいでるように見えるけど。何やら、あたしを落とした時の続きみたいな顔をしていた。というか、あまり蹴りすぎると、「牛」氏が落ちてしまうんじゃないだろうか。

「さやきさん、やめなよ!」

 と叫び、さやきさんの腰を抱えた。

 その時には既に、絶妙のバーディーパットのような一蹴で、「牛」氏は力なく落ちて行った。あたしは呆気に取られる。

「くっつかないで! 濡れてるんだから」

 さやきさんに振りほどかれた。

「牛なんか心配したって、心の無駄使いだわ。ゴキブリ用の殺虫剤を飲ませたって死なない男なのよ」

 なんて冷静に、ひどいことを。てか、殺虫剤を飲ませたことがあるのかい?

「まったく、あいつが乱入したせいで、グダグダだわ」

 後ろ姿は、しばらく黙っていた。

「……上杉。分かったでしょ?」

 さやきさんは振り返った。

「今、おまえは偶然助かったのよ。牛が来なかったら死んでいたわ。これからも殺されるかもしれないわ。これから殺される皆野マチのようにね。それが嫌なら、大人しくしているのね。人生には〝正常〟だけあれば充分なはずよ。〝異常〟なコースに首を突っ込み、首を飛ばされることはないわ。〝正常〟な人間が〝異常〟の世界に立ち入るのはバカよ。大バカよ。殺したくなるくらいのバカよ。それだけは言っておくわ」

 あたしは答えた。

「おかしいわね。あたしは、自分で正常な人間だと言った覚えは無いけど」

 それは、本心だったから。

 興味あるものなら、首を突っ込む。それがあたしのやり方だよ。

「くふふ……。本当におまえ、バーーーーーーーーーーカ。私はおまえを気に入ったのかしら。たぶん気に入っているわね。おまえを机の引き出しの奥にしまっておきたい気分だもの。おまえを助けた牛を、いつもより『撫でて』あげたいわ。だって、たっぷり愛情をこめておまえを『可愛がって』やれると思うと、ワクワクしてきたもの。でも、お楽しみは最後に取っておきたいわ。まずは皆野マチを消す方が先よね」

 あたしは、戸惑っていた。

 さやきさんは、さっきから一貫して笑顔で喋っていた。転校で遠い町に行く親友を見送るような笑顔で。

 あたしは正直、この子のことが良く分からないでいた。

 でも、笑顔はとても綺麗だった。

「おまえ、もう帰っていいわよ。私は観測を続けなければならないからね。リボンを切ってしまったのは謝るわ。私の荷物の中から新しいリボンを取りなさい。牛、下まで上杉を送ってあげるのよ」

「わかりました。では、参りましょうか」

 という声があり、塔に憑いている地縛霊のように、さりげなく牛氏が立っていた。本当に、落とされたのに、死んでいないんだ。これもまた驚き。

 

 

「いいの? 本当に」

「いいですよ。あげるようにとさやきさんから言われました。どうぞ着けてください」

 今は水道塔の下。

 夕立ちは去り、雲間から金星が覗く。照度のダイヤルをデジタルにひねったみたいに、町は夜への移行を始めている。水道塔のてっぺんには、へびいちごのような色の暗いランプがついた。天体観測なら、これからがいい時間だな。

 あたしは、指が切れそうな新品のリボンを、ブラウスの襟に通していく。

「お送りしますよ。駅ですか、町内ですか?」

「あ、いいよ、ここまでで。あたし、寄る所もあるからさ」

「皆野マチ宅ですか?」

 牛氏は、変わらない微笑で、ズバリ核心を突いてきた。

「実行委員はペアで派遣されている」。さやきさんはそう言っていた。牛氏がさやきさんとペアなら、事情はお見通しだろう。牛氏は、答えに迷うあたしをジーッと眺めている。

「天箒さやきを、どう思います?」

 唐突に、話は変わった。牛氏は塔の上をうかがい、声を低くする。

「嫌な女でしょう? あの女はね、〝正常原理主義〟なんですよ。世界というのは、少しくらい〝異常〟が混ざった方が面白いのです。彼女はツララのように尖っており、鋭い。しかしまた、ツララのように脆くもあるんです」

 牛氏はハシゴにもたれかかり、微笑の仮面みたいに固定された顔で、したり顔に語る。

 あたしは、その態度が何となくむかついた。

 それよりも、牛氏の談話のところどころに頷きそうになったあたしに、一番むかついた。さやきさんとは出会ったばかりじゃないか。何か言えるほど、さやきさんを見ているというんだろうか。あたしは最低だ。

「どうして急にそんなことを? 何が言いたいの?」

「おや、珍しい反応ですね。〝委員会〟の人々でさえ、この意見には頷くところ大なのですがね。――なに、簡単なことですよ。わたくしは、天箒さやきを殺すつもりなんです。あの有能な、にっくき小娘をね」

 アイアイみたいに目を開いたあたしを満足げに見、牛氏はメガネのつるを直す。

「どうやって殺しましょうかね。有力なのは不可抗力でしょうか。仕事中の事故に見せかけて殺すのです」

 あたしは目だけではなく、開いた口が塞がらない。

「あの女の〝正常原理主義〟にはウンザリですよ。わたくしはいつも振り回され、われながら可哀想です。詳しくは分かりませんが、皆野マチという人間は、相当〝異常〟な能力を有しているはずです。エーテルの観測値から見てね。あの何様小娘は、皆野マチの能力でグチャグチャにつぶされてしまえばいいのですよ」

 混乱しすぎて言葉が出ない。頭の中では「正義」と「悪」のランプが激しくフラッシュバックする。スチールウールみたいに考えが絡まり、答えが出せない。

 あたしは、さやきさんの身になって牛氏を見ていることに気付いた。

「そう――。わたくしは、ひねくれ者なんです。屈折した景色を眺めないと、楽しめないのですよ。わたくしは、〝正常〟を追及する委員会の中に居ながら、〝異常〟を愛好しているのです。そして、わたくしは非常に嫉妬深くもありましてね。〝十年に一人の逸材〟なんていう小娘とペアを組まされたら、出る杭を叩きたくなるものです」

「じゃあ、あなたは、本当にさやきさんを……?」

「一つ、お教えしましょう」

 牛氏は静かに独白を始めた。

「天箒さやきは、昔は良家のお嬢様でしてね。順当に育てば、今頃は真っ当な人間だったでしょう。ある時、彼女の家庭に〝異常エーテル〟が忍び寄りました。その〝異常〟を摘み取るため、わたくしは〝委員会〟から派遣されました。ですが、いいですか、聞いてください。わたくしは、何もしなかったのですよ。天箒家を襲った〝異常〟を、荒れ狂うに任せたのです。なぜなら、わたくしは〝異常〟を偏愛する男なのですからね。どうなったと思います? 天箒家は、離散しましたよ、ハハハ。――いや、爽快でした。真っ当なお嬢様が歪んでいくのを見るのは」

 牛氏の声は講談のようによどみない。

「人生を狂わされた彼女は、〝異常〟を憎むようになり、〝異常〟を叩く能力に目覚めることになります。その力量は〝委員会〟のスカウトを受けるまでになり、今はわたくしと共にエーテル叩きに精を出しているというわけです。もちろん、彼女はわたくしが天箒家にエーテルを招き入れたことなど知りません。そして、彼女はこの町で皆野マチに叩き潰されます。愚かですね。若者らしく愚かです」

「じゃあ、あなたは……。最低だね」

 あたしは、自分にさっき用いた言葉を、牛氏に投げていた。

「ありがたい。ひねくれ者のわたくしには、最高の誉め言葉です」

 微笑は微動だにしなかった。

「今の話を、あたしがさやきさんにしたら?」

「彼女は信じませんよ。あの性格です。わたくしの世迷い言など豚の鳴き声にも等しいでしょう」

 たしかにそうだ。この狡猾なメガネ氏は、さやきさんの性格を把握し、まんまと利用していた。

 さやきさんは、この男の仕掛けた罠に気付かないだろう。罠にハマるまでは。

「それよりも……。せっかくあなたを助けたんです。どうぞ、皆野マチと結託してください。力を合わせて天箒さやきを撃退して下さい。わたくしは楽しみにしていますよ。ハハハハハハ」

 ほほえみのメガネ仮面は、半開きの口で機械的に笑い、ハシゴを登って行った。

 あたしは夜の闇と同化している塔を見上げた。

 てっぺんの古そうなランプが、むやみに毒々しい。

 さやきさん、一緒に居るのは危険だよ。

 その男は、敵だ。

 あたしは、どうしようもない歯痒さを感じた。歯痒くて、痛くて、顔が歪むほどだ。そして、一人でたたらを踏んでいることしかできないのが、寂しかった。

 とりあえず……。行かなきゃ。何かやらなきゃ。

 あたしはリボンをギュッと結ぶ。

 深く息を吸い、夜のニュータウンへ駆け出した。

 あたしにできること。

 それは、マチさんに事情を話すことだった。

 あたしの力じゃあ、さやきさんを止めることも、牛氏を止めることも、できないと思う。

 でも、マチさんなら、〝未来変更〟を使って両方を止められるかもしれない。両方は無理でも、最悪、マチさん自身の命は防衛できる。

 だから行こう。マチさんに伝えに。

 牛氏からすれば、思い通りだろうか。あたしはマチさんと「結託」しに行く、というわけだから。今ごろ水道塔の上で、「若者らしく愚かですね」なんて思っているだろうか。

 それでも仕方ない。あたしたちは、青年の牛氏のように、分別能力が育っているわけじゃない。愚かな行動しか取れない時もあるだろうさ。愚かかどうかは判断できないけど、取るべき行動だけはハッキリしているんだからね。

 

 

 ……で、すべて徒労に終わったわけでした。

 マチさんの家は見付けられなかった。

 愚かだわ。

 藤ヶ丘ニュータウンは広すぎた。異常だった。

 あのコンビニのように高い場所なら宅地を見下ろせた。けど、中に入っちまったら終わりだった。全部の建物がぐるぐる流動しているように思えた。同じ形の集合住宅や一戸建てしか無く、自分がどこに居るか把握できるわけもなかった。建物の密集度も半端ではなかった。三次元の物体というより、開発中の次世代ゲームの中というか、隅々まで書き込まれたデータの中をさまよっていた感じである。

 何時間さまよったか知らないけど、まるで機械仕掛けの町の蠕動運動によって排出されたみたいに駅裏に出た時は、すでに終電しか残っていなかった。

 明日は、朝一で学校に行くしかない。

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