10
あれ?
マチさん、じゃない……?
あたしは、自分の笑顔が愛想笑いに置き換わったのを感じた。
マチさんに良く似ている。フワリと空中に放たれた短髪。屋上の床に同化するような白肌。あたしまでの三メートルを見ているようでいながら、三〇光年の彼方を見ているような瞳。
だけど、背が。
さやきさんよりも、あたしよりも高い。手足は不自然に長い。あたしのイメージの中のマチさんと比べたら、まるで蜘蛛である。
さらに、腰回りはくびれ、お尻と胸はふくらんでいる。あたしの知っているマチさんは、小学校以来成長が止まっているような体をしていたはず。そんなにグラマーな体形になったら制服が破れるんじゃないかと思うほどで、実際、破れていた。というのは、ブラウスはバッサリ切り裂かれ、チョッキみたいなデザインになっているからだ。その傷を与えた凶器は、今も脇腹に埋まっていた。
じゃあ、この人はマチさん本人だというの?
「ヘェ。面白い。つーか、不愉快。死体が無いと思ったら、おまえ、生きてたんだ」
さやきさんが呟いた。
マチさんは完全無視していた。あたしを見たまま、何かブツブツと呟いた。
剣を握ると、無表情で引き抜いた。指のトゲでも抜くようだった。
あれ? おかしいな。マチさんの切り裂かれた個所、いつのまに治ったんだっけ。
というか、剣が刺さった所に痣すら無いのは怪奇だ。
マチさんは再び音もなく向きを変えた。
「うああああっ!!」
今まで聞いたこともなかった。
さやきさんの悲鳴。
目で追ってみる。さやきさんの肩口にフランベルジェが突き立っていた。血色に乏しいマチさんの手が剣の柄を握っていた。
「ん、勢い余ったか」
自分のちぎれた手首を眺め、マチさんは呟いた。非日常的光景すぎる。
「さやきさん、落ち着いて。剣を消失させて」
牛氏が助言した。
さやきさんの肩口から剣が霧消し、マチさんの手首が地面に転がった。
さやきさんの肩からは、水のように血が溢れ出た。
「くああ……!」
腕がダラリと垂れ下がった。いまの攻撃で筋が切れたかもしれない。
さやきさんは般若のように怒りながら、笑っていた。
「驚いたわァ。私の剣を食らって生きているなんて。おまえみたいな〝異常〟は初めて。くふふ、嬉しくなっちゃうわ。おまえみたいな〝異常の中の異常〟をこの手で刈れるんだから……ッ」
さやきさんの右手に再び剣が出現。
さっきよりも小ぶりだが、片手でも使えそうな一本だ。
「異常はそなただぞ」
マチさんは呟いた。あたしの頭上ではクエスチョンマークが旋回しはじめる。あの、マチさん、ですかね??
「マチは死んだから、ここに居るわけだ。死んだ人間を殺そうするなんて、てめーは異常だ」
マチさん(?)は、頭をぼりぼり掻いた。
頭皮が裂けて、指に血がついた。
「うん。やっぱり加減が分からない。ここは小さすぎる。窮屈でむかついてしようがない」
「何をブツブツ言ってやがんのよ。この不具合品がッ! おとなしくスクラップにされちまえ!」
さやきさんは剣を構えて突進した。
しなやかに振りかぶった。
渾身の一撃を、――マチさんは受け止めた。落ち葉でも受けるように気楽に。
「なっ……」
フゥ、と溜め息をつくマチさん。遠足当日に雨に降られたように、やるせなく目をつぶった。
なんか、おかしいくらいに表情が豊かだ。
「肉体に危害を加えるのは大いに感心しない」
と言って、目を開けた。
初めて見た。マチさんの目にハッキリとした意志の力が表れているのを。
「消失」
マチさんは唱えた。
さやきさんの剣が、消失した。さやきさんは狼狽している。自分で消したわけじゃないのは明らかだった。
「くっ、おまえ……!」
「肉体が与えられたから、そなたと戯れられる」
バン。ゴキッ。聞き慣れない効果音。
マチさんはさやきさんを蹴り上げた。
さやきさんはカタパルトで射ち出された飛行機みたいに飛び、近くの家に突っ込んだ。
あたしは青い顔になる暇もなく、ひたすらに唖然としていた。
マチさんの膝から下が取れているのを見て、さらに唖然とした。マチさんは取れた足を傘みたいに持ち上げ、
「これだけでプチッといくのか。やっぱり、ちいさいな。もうやめよ」
と呟いた。
あれ?
……今のは夢?
二人が居た。
飛ばされたはずのさやきさんが居る。二本足で立っているマチさんが居る。さやきさんの傷が治っているのを見て、あたしは、自分の肩も治っているのに気付いた。確かにさやきさんの剣を浴びたはずだけど。
さやきさんは荒い息をしている。顔色は真っ白。まわりを鳥みたいにキョロキョロ見回している。
「おまえ……。今、何をしたの?」
「ん、対象をボコボコにしたけどやめたんだ」
マチさんは素知らぬ顔で机に移動した。
ディスプレイとキーボードが要塞のように取り囲む机。マチさんは椅子に腰かけた。
それが起動の合図だったかのように、満月のような光が屋上にみなぎった。
♪~
鼻歌。
マチさんは歌っていた。目をつぶり、ロマン派のピアノ曲でも弾くように、情感豊かにキーボードを叩いた。
あぁ、この人は、マチさんとは違う。そう感じた。しかし誰なのかは分からなかった。
ディスプレイがネオンのようにきらめいた。光球もきらめいた。文字・記号・グラフが光球の内部に次々とあらわれた。
見たことがない語の羅列もあれば、デジタル時計の表示もあった。
「制限時間内に片付けよう。あまり留まっていると、妹の体が持たない」
マチさんに良く似た少女は、光球を一つ呼び寄せ、さやきさんへと転がした。
光球の中には「07:02」という表示があった。
今は6分台に切り替わっている。
「あの、今、何て……」
あたしは問う。
妹。確かにそう言った。じゃあ、この人は。
「皆野真実。マチの姉だ。そなたの予想通りかな。上杉里美」
「あ、はぁ。なんとなく」
「皆野マコトの存在を認める人間はマチ一人だと思っていたけど、そなたも皆野マコトの存在を信じるとはね。有難い」
皆野マコトさんはジィッとあたしを見た。マチさんの漂うような双眸とは違い、この人には肌を刺すような視線がある。別人と言われても頷けなくはない。お姉さんが居ることはマチさんからも聞いている。
ただ、相当に遅い登場のようだが。
「登場が遅くはない。マチの姉なら最初から存在していたよ。でもさ、そなたら人間とは異なり、〝不可視な広がりとしての存在〟なんだよ。だから目に見えないの。そなたら人間とは就寝中に夢の中で会話できる程度だ。しかしなぜ今会話できているのかと思っているかい。上杉里美。それは、妹が気絶しているからなんだ。皆野マコトは意識を失っている人間を媒体にして出現できる。そういう事情だから、そなたに挨拶できるようになった。皆野マコトです初めまして」
「ええと、はい、初めまして」
相手に合わせてお辞儀する。なんだこりゃ。マチさんにお辞儀されたようで新鮮ではある。
ところで、「そなたら人間」って、あなたは人間じゃないんですね? こういう確信がさりげなく生まれるほど、マコトさんは落ち着き払っている。マチさんのお姉さんが人間ではなく不可視な何者かだったとは。
珍しい姉妹なんだな……。
マコトさんは目にも止まらぬ速さでキーボードを打ちだした。二本の腕と十本の指が蜘蛛のように艶かしく動く。もはやキーボード奏者というレベルだ。人間の動体視力を超えている。ディスプレイ上をカーソルが目まぐるしく移動する。リンクが次々と開かれ、深い階層のフォルダが次々に表示され、ダイアログボックスが現れては消える。
ディスプレイには[表示モード選択]のダイアログボックスがあらわれた。
[命題]
[小説]
[法文]
[散文]
といった選択肢が表示されている。
マコトさんは[命題]をクリックした。
日本語の文字列がディスプレイ狭しと表示された。
あたしはその文字列を見たことがあると思った。自分の名前が偶然に目に止まったのだ。
〈天箒さやきと上杉里美は給水塔を訪れる。〉
……この文は、さっき見た気がする。
そうよ。マチさんの〝未了台帳〟に載っていた記述そのままだわ。
マチさんの台帳の文面が、マコトさんのディスプレイに表示されている……?
「里美」
「あ、はい」
マコトさんに呼ばれた。マチさんにも呼ばれているような変な感覚。
「マチの台帳には、K町で起こるイベントが全て記されている。そして、マチの〝史士〟のお仕事は、過去と未来の台帳を取り扱うことだったね」
「あ、はい。そうですね」
それはマチさんから聞いている。
マチさんは台帳の記述に変更を加え、過去や未来のイベントの「出力を変える」ことができる。その結果、町長選挙で落選するはずだった毒沢氏が当選を果たしたりする。そういうお仕事を担当しているのが〝史士〟だと言っていた。
マチさんからは〝史士〟のお仕事をやっている理由も聞いたことがある。マチさんらしく簡潔なセリフだったのでよく覚えている。こう言っていた。
姉に言われて仕方なく。
小さい頃から、姉は私の教育役。
なるほど。
この人がそうなんだ。
「皆野マコトの役目は、皆野マチの台帳に記されたイベントに〝認証〟を与えることなんだ。〝認証〟されないイベントは、蜃気楼も同じだ。『イベントとして規定されること』により、イベントはイベントとして立ち現れることができる。〝イベント規格〟とでも言おうかな。〝規格〟を備えないイベントは無に帰する。それがイベントのルールだ。〝規格〟を与える手続のことを〝認証〟を呼ぶ」
「お姉さんが台帳の中身を〝認証〟すると、台帳に書かれたイベントが起こるわけですか?」
「いいえ、だな。台帳にあるイベントは、どれも必ず起こる。しかし、〝認証〟されないイベントは、〝存在〟しなくなるんだ。たとえば、そなたも知っている事例で述べよう。〈毒沢重蔵が当選する〉というイベントは、〝認証〟されるとK町民全員が周知する事実になる。しかし、〝認証〟が無い場合、K町民には共有されない。毒沢重蔵だけが、自分が当選した白昼夢を見ていることになる。このケースでは毒沢の主観という最低レベルでの〝認証〟は剥奪されていない。完全剥奪ではなく、八割剥奪というところだね。しかし、通常は八割をもって完全剥奪と同視して構わないんだ。白昼夢が事実へと成り上がることは有り得ないからね」
「〝認証〟のないイベントは、『あったけれど、なかったことになる』ということですか?」
社会見学で工場に行き、工場の人に機械の働きを訊くように、あたしは訊いてみた。
「ちがうね、上杉里美。そなたの言うのは〝隠蔽〟というやつだ。〝認証〟されないイベントは〝存在〟が〝除去〟されるんだ。したがって『存在できなくなる』んだよ。それは、規格を満たさない果物が摘み取られるのとおんなじだ。イベントの〝存在〟ごと無くなるんだから、町の人間に共有されることもありえるわけがないんだよ」
うーん? 分かったよーな、分からんよーな。
あたしは、狐に……。そう、狐につつまれているような感じだった。あたしを化かしている狐が居るんだけど、まるで着ぐるみみたいにすっぽりとあたしをつつんでいるので、振り返っても狐の姿がない。もう一回訊ねるのも当然である。
「あの、結局どういうことですか?」
マコトさんはキーボードを打ちながら、
「誤解を招かないよう言うけれど、〝認証〟は特別な手続きではないよ。この世界には、『イベントは起きるべきである』という摂理が支配しているから、あらゆるイベントは〝認証〟されるのがデフォルトだ。こちらの画面を見てくれ」
マコトさんは手を止め、二列目の三番目のディスプレイを示した。
色々なイベントが画面狭しと表示されていた。台帳の転記なのだろう。
それぞれの文の先頭にはチェックボックスがあり、全部のボックスにチェックが入っていた。
「これは、『チェックの入っているイベントを〝認証〟するよ』という意味だ。このように全てのイベントは〝認証〟を前提として書かれる。管理者の皆野マコトがEnterキーを押せば、全部のイベントが一律認証される。したがって〝認証〟を奪うためには、個別にチェックを外すというアナログな手続をする」
あたしは黙って訊いていた。とても懐かしい感じがした。マチさんに史士のお仕事を説明された時のことを思い出した。今、お姉さんがあたしの前に居て、似たような話をしていた。現実感は感じられなかった。
この屋上のものには現実感がなかった。浮かんでいる光球も、綺麗で妖艶なマコトさんも、ぎざぎざの剣を持つさやきさんも、しまいにはあたし自身もあやふやに感じられた。
思えば、あたしは普段からあたしの姿を見ることはない。鏡に映る像は反転している。写真でも撮られない限り本当の自分の姿は見られない。そう思うとあたし自身も非現実的な存在になったような気がした。非現実的なものを自然に認めてもいい気になるのだった。あたしは人間ではないものがそこに居るという非現実感をマコトさんに感じていた。しかし、それを自然だと思っていた。
「皆野マコトは、神」
マコトさんは呟いた。
「てめーら人間の言葉だと、そういうことになるらしい。皆野マチから教えられたんだ。興味がある話じゃないけどしておこう。マチが生きていたら、てめーに事情を分かってもらうことを望む気がする」
マコトさんは、マチさんのような目であたしを見た。
そして、
「皆野マコトという名前は、皆野マチから与えられたものだ。もともと名前はなかった。考えもしなかった。しかし、皆野マコトは契約によって皆野マチと姉妹関係を結ぶことになった。能力の強さと年齢から考えると、皆野マチが妹という続柄になるらしい。
皆野姉妹は、K町のイベントを〝記述〟する仕事を分担している。
この仕事を行っていたのはもともと一人の神だった。この神はのちに皆野マコトと名乗ることになる。神には諸々の要請が生じ、皆野マチに〝記述〟作業を分担してもらうこととなった。具体的には、皆野マチの夢の中で神が戯れに声をかけたのが始まりだ。夢の中で人間にコンタクトしたのは初めてだった。それまで、できなかったわけではなく、できたのだがやろうと思わなかったまでだ。そして、やろうと初めて思ったので、やったわけだ。
神は自分の仕事のことを皆野マチに話した。町のイベントを〝記述〟する仕事をしていることを。
町のイベントを〝記述〟する作業は欠かせない。〝記述〟しなければ〝記述〟として残らないからね。
のみならず、継続させることも大事だ。〝記述〟を継続しなければ、町のイベントの変遷が分からない。
〝記述〟は継続により価値を有する。仕事に必要な期間は、局限された時間をもって計ることは困難だ。要は、永遠に〝記述〟しなければならない。
皆野マチは言った。『あなたのような存在は、人間が言うところの神というもの。神であるなら〝記述〟の仕事を永遠に継続しても不思議ではない』と。なるほど、神とはそういうものなのかと、神は思った。
『しかし』と神は愚痴をもらした。『神といえども、忙しいものは忙しいのだ。できなくはないがとにかく仕事は多忙だ。毎日忙しいのだと思うと気が滅入るものだよ』とね。
皆野マチは申し出た。
『では、私はあなたの仕事を分担してもいい』と。
神の仕事を人間が分担するのは大変なことだ。神と人間は形態からして違う。手伝うとなると人間の方に相当の負担を強いることになる。『有難い申し出だが、分担するとなると、そなたには迷惑をかけることになってしまうぞ』と神は言った。
『構わない』と皆野マチは言った。
『あなたに話し掛けられて気付いたことがある。私は今まで自分から人に話すということを行ったことがなかった。あなたが私に話し掛けたことで、「人に話し掛ける」ということがどのようなものなのか想像できた。人に話し掛けることを考えるのは、今の私にはめんどうではなくなった』
『それは何の話なのだ?』
『何でもない。こっちの話』
というわけで、皆野マチと神は、仕事を分担する契約を結んだ。神は人間の慣例に倣って名前を与えられ、皆野姉妹の姉の地位を与えられた。
一方、神の仕事は永遠であることから、皆野マコトの仕事を分担する皆野マチは、永遠の活動を保証されなければならなかった。
しかし、皆野マチは構造体としては純然たる人間だった。それ自体では永遠に活動することはできなかった。
だから契約の際、皆野マチに永続性を与えるオプションを盛り込んだ。
それは、構造体の崩壊が訪れるごとに、構造体の崩壊というイベントを〝否定〟することだった。
このオプションについて皆野マチは知らない。また、知ることを望んでもいない。『めんどうだから』というのが理由だ。
『私はめんどうなことがきらい。人生はロス。永遠の人生は永遠のロス。それを考えるロスも払いたくない』。
今回はオプションを適用した最初の例。台帳を見て、天箒さやきが皆野マチを破壊するイベントは知っていたからね。オプションが思惑通りに機能するかどうか、試験運用したんだ。妹の肉体はさしあたり正常に回復された。ただ、皆野マコトには若干の問題が見られる。皆野マコトは妹の意識が消えてくれたから体を借りられたが、人間の中に入るのはあまり得意ではないようだ。心身という小さい器に縛られ、ほぼ発狂状態と言えるね。妹の身体でなければ身体を外しているのは確かだな」
滔々と流れ出る演説は、マチさんの名物である。しかし、喋っているのは、マチさんではない。一人の身体を借りて二人が交互に現れたかのようだった。
「さて」
マコトさんはキュルリと椅子を回転させ、密林のような機材の隙間からさやきさんに言った。
「そなたが妹を狙う刺客だな」
「そうよ。悪いの?」
さやきさんは胸を張った。怒りながらも、戸惑う感じがある。
さっきまで殺そうとしていた相手とは確かに雰囲気が違う。
でも、急に変わりすぎてついていけない。そういう戸惑いだ。
「おまえ、背が伸びてる?」
「うむ。姉は妹よりも大きい」
それは説明になっているのだろうか。
「解せないわ。おまえは私が致命傷を与えて投げ捨てたはずよ。なぜ生きている? 傷までなくなってるわ」
「そなたが言う『おまえ』というのは妹のことだよね。そなたは何も間違いない。妹をそなたは殺した。だから姉はここに居る。身体を修復したのは姉だよ」
「なるほど。小学生の作文みたいな頭の足りない口をきくおまえは、自称、皆野マチの姉。妥当に考えると多重人格障害の皆野マチの別人格。そんなところね?」
「姉です」
「どうでもいいのよ。さっきから何かがおかしいわ。『何かがおかしい』としか思わせてくれないレベルの、絶対におかしい〝異常〟がある。その元がおまえだってことは絶対確実。だからおまえを叩き潰すだけ」
「叩き潰そうとするそなたにお願いがあるんだけど」
「何ですって」
さやきさんは顔を歪める。
「皆野マチはそなたによって殺された。皆野マコトはこの事態をよく思わない。皆野マコトは皆野マチを生存状態へ引き戻すつもりだ。そこからはそなたの意志が必要だ。皆野マチが復活しても二度と手を出さないでもらいたい。永遠に手を出さないことを誓うか?」
淡然と言うマコトさん。
眉を吊り上げるさやきさん。
「手を出さない? わけないじゃない。異常を消すのは私の役目なのよ。異常は許さない。あるだけで気が触れそうよ」
「どうしてなんです?」
牛氏が嘴を入れた。
「どうしてあなたはそこまで意固地なんです? 異常に嫌な思い出でもあるのですか? ……たとえば、異常のせいで家族が離散した、とか」
「!!」
さやきさんは牛氏を睨んだ。顔は真っ赤だった。
「牛、どうしておまえが、そんなこと……」
「さあ、どうしてでしょう?」
「ううん、そんなことより、よくも私に無礼な口をきいたわね。絶対に許さないから。この後で覚悟しなさいよ」
「『この後』なんて、あなたには無いです」
牛氏は見下して笑った。落ち着いていた。この混乱した場面にも動じている様子はない。「シナリオ通り」とでも言いたそうだ。
あたしは教えるべきだろうか。
牛氏がさやきさんを陥れようとしていることを。
いや、いま教えても、さやきさんを混乱させてしまう。
「なるほど、とてもわかったよ天箒さやき。そなたには思いやりが必要だ。皆野マコトは皆野マチの体内に居るだけで頭痛がしてイライラして気が触れそうだけど、肉体を破裂させたりしないぞ。皆野マチは妹だからね。思いやりを持てたら、異常を憎まなくてもいい」
バシッ、バシッ。
ディスプレイが燃え上がった。
さやきさんが、フランベルジェのナイフ版みたいなのを投げたのだ。ディスプレイは白煙を上げ、消えた。
さやきさんの両手に特大の剣が現れた。
二刀流。
「〝異常〟の塊のおまえから説教を受けるとは思わなかったわ。今度喋ったら、本気で攻撃するわ」
「……」
マコトさんは続けた。
「てめーが妹を狙わないべき理由は三つもある。今からいちいち端折らずに説明するから聞いてほしい。一つ目は、妹は姉の仕事を手伝ってくれているから。日常的に姉の仕事は多いから、妹は雑務を引き受けてくれているんだ。大事な妹が居なくなるのは困る。二つ目は、てめーは妹を狙っても無駄だから。殺すたびに姉が妹を生き返らせてしまうからだ。大事な妹が殺されるのは困る」
「ほざけえええっ!!」
さやきさんは二刀をかざして突進した。
マコトさんの正面はガラ空きだった。
さやきさんは跳躍し、二刀を繰り出した。
が、剣は消えていた。
さやきさんの両腕は、むなしく空中を掻いた。頭からマコトさんに突っ込んだ。
マコトさんはさやきさんを受け止めた。
「くっ、おまえ!」
マコトさんの胸元で戸惑うさやきさん。
「三つ目の理由は、姉は妹をかわいがっているからだよ。かわいい妹が狙われるのは困る。それにしても、てめーは牛久智久が言ったように見事に一途な奴なんだね」
マコトさんはグラマーな肉体にさやきさんを引き寄せた。
くすりと微笑んだ。
どばあっ。
今度は、何かが溢れるような音がした。
「キャアアッ!!」
さやきさんの悲鳴が上がり、遠ざかった。
髪。
マコトさんの髪が、あふれた。
ふわふわと漂っていたショートヘアだが、一瞬のうちに伸びた。土石流のように溢れ、さやきさんを巻き込み、屋上の縁まで流した。
屋上に満ちる髪の海。
マコトさんの顔が色っぽく笑った。マチさんの面影は前髪のあたりにかろうじて残っていた。お姉さんが人間じゃないのは、何となくは理解していたけど、今は完全に納得した。
さやきさんは、水道管みたいにボリュームある髪の毛に手足を取られ、動きを封じられた。
「何するのよ! ほどきなさいよ! ほどかないと殺すわよ! 牛、なにしてるのよ! 〝異常〟を〝処分〟なさい! 役立たず! 所詮おまえは世話人だけど、一応は〝委員会〟の人間なんだもの。異常を見分ける能力ぐらいはあるでしょ? その女が真っ赤に見えるでしょ?」
「ええ、見えますよ。屋上全部が赤く染まるほどの、すさまじい〝異常〟が」
牛氏はのんびり答えた。
「そして、巨大な〝異常〟に無謀にも立ち向かおうとしている、あなたという〝異常〟が」
「――――――」
さやきさんは目を真ん丸にした。
熱中していた夢の底から一瞬で寝起きまで引っぱられたようだった。
「さすが『逸材』の女性です。どんなエーテルを〝処分〟する時も、あなたは率先して行い、一人で片付けてきた。あなたは頑張りました。ですが不運でしたね。なまじ力があったゆえに、今まで知る機会に恵まれませんでした」
「何のことよ?」
「あなたは知らなかった。〝処分〟の余地などなく、ただ立ちすくむしかないエーテルが存在することを。そういうエーテルの前では二つに一つですよ。尻尾を巻いて逃げるか、徹底的に従順になるか」
牛氏は呑気に二本指を立てた。
さやきさんは不快げに皺を寄せた。牛氏に向けて唾を吐いた。惜しくも唾は牛氏の足元、つまりマコトさんの一部分でもある髪の上へ落ちた。
「ねえ、牛、私に説教なんておまえ正気? 心療内科の診察券は竜ヶ崎市の病院のしか無かったわね。おまえは今すぐ119番にダイヤルするのよ。救急車でこの田舎町の適当な精神病院に収容されなさい。おまえの異常っぷりは手に負えないわ。今から一分でもお前と一緒に居たら、私は今までみたいに〝お仕置き〟で済ませる自信がないわ。百%お前を頭のてっぺんから足の先っぽまで一撃で切ってやるわ。それぐらい今はムカついたわよ。ねえ牛、分かってる?」
「はははは。あなたは今に至っても空気が読めないんですか。いやまあ、一生空気を読めないままというのも、すがすがしいかもしれません。さやきさん、わたくしはとうに〝世話人〟を辞めているのですよ。手に負えないのはあなたですよ。仕事熱心にも程があります。学校にも行かないでエーテル観測に繰り出すなんて、高校生として〝異常〟でしょう? おまけに、皆野マチ氏にも目をつけてしまうなんて……。彼女単体ならば、あなたが処分できるレベルかもしれません。処分できましたよね? はいはいよくできました。パチパチパチ。しかし、彼女の背後というか頭上というか足元というか、根元のところで仄かに閃いている特級のエーテルの気配を、〝観測〟できませんでしたね? そんなに大きい望遠鏡をしょっていやがるくせにね」
さやきさんは、眉を寄せながら目を見開くという芸当を見せた。
それほど愕然としたのだろう。
「わたくしは気付いていましたよ? 〝世話人〟だから、黙っていましたがね。あなたは目標を決めるとそれしか目に入らなくなる。その一途さは完璧に〝異常〟です。困った方です。マチ氏を処分してしまったら、彼女に憑いている特級のエーテルが出て来るのは分かりそうなものでしょう。しかしあなたは今まで特級エーテルの力を知る機会に恵まれませんでしたからね。だいたい、あなたを上回る〝異常〟があるという〝異常〟を認めたくはないでしょうしね。〝世話人〟のわたくしの意見など華麗かつ残酷に否定し、封殺するでしょう。そこでわたくしはお役目を放棄させて頂き、前もって皆野マコト氏と裏取引するという裏切りに出たわけです。『あなたの妹さんを狙う小娘が来ますから、煮るなり焼くなり好きにして下さい。そのかわりわたくしの命だけはお助けください』とね。あなたよりも先に皆野家に居たのは、そういうわけですよ」
うわ。改めて言うが、なんて性根の腐った男だろう。
「あなたがマチ氏に狙いを定めたときは、いや正直、どうしようかと思いました。いえ、もちろん裏取引をして命を助けてもらうほか無いんですけどね。本当に、いつも一人で先走るので、わたくしに手間をかけさせることになる」
牛氏はスチャリとメガネを直す。
顔から笑いが消えていた。澄ました顔でさやきさんに近寄って行った。
牛氏はさやきさんの胸倉を引っ張った。
さやきさんは必死に睨む。
だが、無礼な〝世話人〟を蹴りもしないし、殴りもしなかった。
「離せ! 馬鹿牛!」
「お断りします」
「許せないわ。お前は〝委員会〟を裏切ったのね。覚悟しなさいよ。抹殺される理由は充分だわ」
「人聞きが悪いなあ。わたくしだって命は惜しいんですよ。〝異常〟の強弱も測れず、闇雲に勝負を挑むほど盲目ではないだけです。われわれの力で皆野マコト女史を処分できるとは露ほども思えなかったですからね。あなたは必死に『無かったこと』にしているのかもしれませんが、あなたはついさっき皆野マコト氏に半殺しにされたのですよ?」
「ば、馬鹿じゃないの? そんなのは何かの間違いだわ。わ、私は何もされてないわよ。どこも傷なんて無いじゃないのよ」
「はいはい。じゃあそうですね」
「おちょくらないで! これ以上怒らせないでよ! 完全に狂ったのね」
さやきさんは悔しさで涙ぐんでいる。
「わたくしは元から狂っていますよ。今まで気付かなかったのは、あなたの方がもっと狂っていたんです」
「ぬかせ!」
さやきさんは唾を飛ばした。相手の鼻に見事に命中した。牛氏は鼻を丁寧に撫でた。
「うまい! ン~~。うまい!」
指を丹念に何回も舐め、ありがたい化粧品のように顔に塗り、うっとりした顔でさやきさんに吐息をかけた。
さやきさんは、怒りと悲しさと羞恥をミキサーにかけられたような、何とも哀れな表情になった。
「精神病院? 連れて行って下さい。救急車を呼んで下さいよ。呼べるものならね! ン~~~、分かっていますよ? 呼べないんですねえ? 1・1・9とダイヤルするだけの力も、あなたには残ってないんですよねぇぇ? ひょっとすると今~、あなたは体の自由がきかないんじゃないですか? だからわたくしごときにマコトさんを処分させようとしたり、わたくしの手で救急車を呼ばせようとしたのではありませんか~? あっっ、図星ですか? 図星ですね? そうですね? ん~、けれどもさすがは異常なるわたくしの御主人。びびっているはずなのに顔に出さない。異常なまでの闘志。それを支える異常なまでの〝異常〟への憎悪。ああっ、何たる惨劇。処分するべきとびきりの〝異常〟がここに。誰あろう、わたくしの長年の連れでありました。そしてまた、あなたは皆野マコト氏の妹の仇でもあるのです。エーテル。エーテル。オール・エーテル。処分以外にありません。さあ、皆野マコト氏。こらしめてください。妹さんの敵は目の前ですよ」
「うん。そうしよう」
マコト氏は立ち上がった。
「そなたが〝異常〟とやらを憎んでいることはとてもよく理解した。〝異常〟の中に皆野マチと皆野マコトが入っているのも理解した。これからも皆野姉妹を憎み続けるというなら、そなたには三つの可能性がある。
①:〝異常〟を識別・処分する能力を忘却する。
②:社会的意識を忘却する。
③:「自分である」ことを忘却する。
補足説明をしよう。
①は、〝委員会〟に在籍できるような『特別な人間』ではなくなるということだ。
②は、極度の痴呆状態となって生きることだ。
③は、存在の外形を保っているが、主観意識は脱落している自動人形になることだ。
どれがいいか?」
「なに言ってんの、バーーーーーーーッカ。やれるもんなら」
「既にやってみている」
「!?」
「一つ質問するが、そなたの手足はどうして動かないのだ?」
「動かなくないわよ」
「痩せ我慢しても皆野マコトを殺すことはできないぞ」
「どこも痩せ我慢してないけど?」
「そうか、じゃあ質問を変えるか」
マコトさんは乾いた目をさやきさんに注ぎ、両手で空中のキーボードを叩いた。
カタリ。指が止まる。
「二つ目の質問だ」
「さっきからね、お前とお喋りしてやる義理は私には無いのよ? 〝異常〟のくせに汚らわしいのよ!」
「質問に答えたら、皆野マコトの命を取らせてあげるがね」
「……言ってみなさいよ」
さやきさんは顎をしゃくった。
「そなたの名前を言って下さい」
マコトさんの質問は、驚くほど簡単だった。
「バーカッ! お前、ホントに命をよこすワケね? 決まってるでしょ、私は――」
「私は――。誰だ?」
マコトさんの前で初めてほころんだ顔が、そのまま硬直した。
「はい残念。答えられなかったので、命は渡さないよ」
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ! いま思い出してるのよ!」
「喜んでくれ、セカンドチャンスがある。これに答えても命を差し上げるよ」
「今度は何よ!?」
二人とも地味にすごい。クイズが成立している。戦っているとは思えない。
「では次の質問」
「早く言いなさいよノロマ!」
「はい。てめーは昨日の放課後、そこの女と天体観測に行ったね。こいつの名前は何か?」
マコトさんはあたしの腕を引き、指さす。
「また、てめーらが〝天体観測〟した場所は何処か? 二つセットで答えてくれ」
答えは「上杉里美」「水道塔」である。言うまでもない。
でも、さやきさんは答えなかった。
黙って考えていたさやきさんの顔が、
悔しさでグシャグシャに歪んだのをあたしは見る。
……あ。
あたしは鼻の付け根をつねられたような感じがした。
目尻を触ったら、涙がついてきた。