空の杭と土の飯
空の杭と土の飯
「人間はな、亮太。空へ向かって杭を打ち込みたい生き物なんだよ」
事業統括の神崎常務が、タブレットの画面を指で弾いた。地上百二十階、完成すれば展望ラウンジになるフロアには、まだ窓の入っていない箇所がある。仮設の仕切りの向こうで風が鳴り、桐生亮太の作業服には、下の階で付いた石膏粉が白く残っていた。
画面には、スカイシティの構想図、ブルジュ・ハリファ、東京スカイツリーなどの輪郭が並んでいる。神崎は建物と塔の違いにも構わず、それぞれの頂点を指でなぞった。
「バベルの塔の昔から、高さは人を惹きつける。グランド・オルタスが完成すれば、国内最高層の複合ビルだ。ここに名を残せるぞ」
――今、それを言うのか。
亮太は無線機を握り直した。今朝、外壁パネルを吊るクレーンは突風で二度停止している。作業床の風速計は、直近十分間の平均で毎秒十一メートルを示していた。神崎が話し始める前に、亮太は揚重作業の中止を現場本部へ伝えてある。
「常務。高所での揚重は止めました。作業員を降ろして、クレーンの安全を確認します」
「聞いたよ。だから来たんだ」
神崎はタブレットを閉じた。投資家向けの内覧会まで、あと三週間しかないという。亮太も工程表は毎日見ている。ここで一日止めれば、ほかの作業をどこへ移せるか考えなければならない。
「午後には風が弱まる予報だろう。鳶の班長に特別手当を出す。作業を続けさせろ」
「予報より、今ここで測った風を見ます」
「事故を起こさず工期も守る。それが現場監督の仕事だ」
神崎の声は落ち着いていた。亮太は、相手の胸元に付いた入館証を見た。危ない場所へ入らずに済む人ほど、簡単に「慎重に続けろ」と言う。怒鳴り返したかったが、無線機から長谷川の声が入った。
『北東面、吊り荷はまだ上げてません。全員、退避通路へ移します』
長谷川は鉄骨鳶の班長で、朝から班員の顔色を見て配置を変えていた。昨日、詰所で塩飴の袋をうまく開けられず、床に落としたのを亮太は見ている。腰をかばっていたし、手も疲れで震えていた。それでも長谷川は、若い作業員を先に休ませ、自分は最後まで現場に残った。
「地上にいる連中と違って、あいつらは風には慣れている」と神崎が言った。「亮太君も、この現場を成功させれば本社へ呼べる。家族だって喜ぶだろう」
亮太の手が止まった。妻の綾香には、このところ寝顔ばかり見せている。本社勤務になれば、今より早く帰れるかもしれない。出勤前に渡されたアルミの保温弁当箱は、まだリュックの底に入ったままだ。
「考えてみます」と言えば、神崎は満足するだろう。風が弱まるまでの時間稼ぎもできる。亮太は一瞬そう考え、無線機の送信ボタンから親指を離した。
そのとき、詰所から別の連絡が来た。
『監督、さっきの停止指示、元請けの工程担当が取り消すって言ってます。午後のパネル二枚だけ上げろと。どうしますか』
亮太は神崎を見た。神崎は何も言わず、閉じたタブレットを胸に抱えている。亮太が曖昧な返事をすれば、下では作業員がまた上へ呼び戻される。
「取り消しません。揚重は中止です。工程担当にも、俺から伝えます」
『了解。こっちは全員降ろします』
長谷川の声が続いた。神崎は眉を寄せ、亮太へ一歩近づいた。
「君は内装の監督だったはずだ。クレーンまで仕切るつもりか」
「この工区の現場代理人に任命したのは、常務です。外壁の揚重も、今は俺の担当に入っています」
亮太は懐から折り畳んだ工程表を出した。任命されたとき、仕事が増えると思いながら引き受けた役だ。本社への道につながるかもしれないとも考えた。その署名があるから、今は中止を命じられる。
「任せたからには、現場を止める判断もします」
「内覧会が遅れたら、責任を取れるのか」
「止めた理由と時刻は記録します。代わりに進められる作業も、今日中に調べます」
「下請けを待機させる金はどこから出す」
「契約にある待機費を請求します。職人に払わないまま帰すわけにはいきません」
神崎は工程表を見た。亮太の指は少し震えている。法律や契約を説明しているあいだも、本社行きが遠のくことを考えていた。父には、この塔が完成したら上へ連れていくと約束してある。その日が来ても、自分の担当を外されているかもしれない。
「君、私に逆らうつもりか」
「今日は上げません」
亮太はそれ以上、言葉を重ねなかった。神崎が何か言う前に、無線機の向こうでクレーンの運転士が作業中止を復唱した。停止の時刻も記録された。神崎はタブレットを持ったまま、作業用エレベーターへ向かった。
亮太は現場本部に風速の記録を送った。クレーン運転士と長谷川からも、停止までの状況を聞き取る。吊り荷が地面から離れていなかったことを確かめ、午後の人員を低層階の資材整理へ振り替えた。全員分の仕事を用意できたわけではない。待機する人の名前と時間を、抜かさず書いた。
夕方になっても風は弱まらなかった。亮太が予報を見直した回数は、自分でも覚えていない。午前中に言ったことは間違っていなかった。それでも、止めた作業の大きさを思うと、胃が重くなる。
地下三階の詰所では、長谷川が濡れた手袋をストーブから離れた場所に並べていた。若い作業員の一人は、今日の待機分が払われるのかと尋ねた。神崎の「特別手当」は聞いていなくても、仕事がなくなった一日の賃金は気になる。
「申請は俺が出す」と亮太は答えた。「支払いが決まるまで、記録の控えも渡す」
「お願いします。今月、子どもの靴を買うんで」
作業員は笑おうとして、うまく笑えなかった。亮太は時刻の入った控えを一枚渡した。長谷川は横で見ていたが、「よくやった」とは言わなかった。亮太も、褒めてほしくて止めたわけではない。
翌週、待機費の支払いが決まった。神崎は工程担当へ出した再開指示について、安全管理部から説明を求められ、現場への直接指示を禁じられた。内覧会の日程は変わらず、亮太たちには低層階の仕上げを先に進める新しい工程が渡された。
亮太も無事では済まなかった。神崎に正面から逆らったことで、本社への異動の話は消えた。上司に呼ばれた日は、帰りの電車でも綾香にどう話すか決められず、弁当箱の取っ手だけを握っていた。
「安全の判断は評価された。でも、次の現場は地下階の配管補修だって」
家でそう告げると、綾香は弁当箱を受け取った。蓋の縁に付いた米粒を流しで洗い、亮太のほうを見る。
「嫌なの?」
「嫌じゃない。けど、ここで頑張ったら、もっと上へ行けると思ってた」
「そうだったね」
綾香は水を止めた。亮太は、異動の話が消えて悔しいとようやく言えた。朝の暗いうちに家を出て、作業員の名前を覚え、何度も工程を組み直してきた。その時間まで、なかったことにはしたくなかった。
次の週、地下階の配管補修に移った。天井は低く、古い管を外すと継ぎ目にたまった土が落ちてくる。昼前には止水弁の位置が図面と違うと分かり、亮太は作業を止めて建物の管理人を呼んだ。管の先で水を使っている店が、まだ一軒あったからだ。
「閉店後なら、二時間止められます」
店主と時間を決め、張り紙を出した。作業員には、いったん工具を片づけてもらう。予定を変えるのは面倒だったが、店主が昼の仕込みに使う水まで奪わずに済んだ。
昼休み、亮太は地上の小さな休憩所へ出た。空にはグランド・オルタスの上階が見える。外壁パネルは風のなかった日に少しずつ入り、先月よりガラスの面が広がっていた。彼はしばらく見上げた。あの高さで働いたことを、これからも人に話したいと思う。
椅子に腰を下ろし、泥の付いた皮手袋を外した。リュックからアルミの弁当箱を出す。蓋を開けると、白飯の上に牛肉と玉ねぎの煮物、端に形の崩れた卵焼きが詰まっていた。綾香は煮汁が飯へ染みすぎないよう、薄い仕切りを入れている。
まだ温かい飯を口へ運ぶと、玉ねぎの甘さが先に来た。向かいでは配管工が、自分の弁当に入った梅干しを箸で割っている。亮太は食べながら、夕方の止水と、店主へ水が戻ったことを伝える手順を手帳に書いた。
「監督、午後は何時から始めます?」
「店が閉まってから。それまで別の管を調べよう」
配管工は頷き、梅干しの半分を飯と一緒に食べた。亮太は弁当箱を膝に置き、もう一度だけ空の塔を見上げる。あそこで働く人たちも、今日の仕事を終えれば地上へ降りてくる。その時間に帰れるよう、止めるべき日は止める。今いる場所でも、それは亮太が引き受ける仕事だった。
亮太は弁当箱の蓋を閉め、綾香に「今夜、帰ったら久しぶりに一緒に風呂に入らないか」と送った。返事を待つあいだ、閉店後の作業で使う止水弁の番号を、手帳でもう一度確かめた。




