第7話「少しだけ惜しい」
アルヴィン・エドワード・ヴァルディアは、その夜一人で執務室に残っていた。
書類の山は片付いている。でも、立ち上がれなかった。蝋燭の蝋が溶ける甘い匂いが、やけに鼻につく。
窓の外、夜の王都が広がっている。
(大事な人になっていた、か)
自分で言っておいて、少し笑えた。柄にもないことを言ったものだ。
アルディアに言ったのは、初めてだった。何年も言わずにいた言葉だった。
(これでよかった)
そう思った。思おうとした。
思えた。
本当に、これでよかった。アルディアが笑っていられる方が、俺には大事だ。クロードの隣で、あの人が逃げなくなった顔をしている方が、ずっと大事だ。
ただ、少しだけ惜しかった。
それだけだ。
翌日、父王に申し出た。
「アルディア・フォン・クレシェントとの婚約について。俺から辞退したい」
父王が少し驚いた顔をした。
「理由を聞こうか」
「あの人には、既に大切な人がいます。政略で婚約を進めるのは、クレシェント公爵家への礼を欠く」
「それだけか」
「それだけです」
父王がしばらく俺を見た。
「……お前が決めたなら、それでいい」
「ありがとうございます」
「ただ、アルヴィン」
「何でしょう」
「お前にも、いつか、そういう人ができるといい」
俺は少し驚いた。父王がそんなことを言うのは珍しかった。
「……そうですね」
「王として生きていると、自分の気持ちを後回しにすることが多い。お前もそうだろう」
「……否定はしません」
「今回のことは、お前が正しいと思う。ただ、自分のことも、ちゃんと考えろ」
父王がそれだけ言って、話を終わらせた。
俺は部屋を出て、廊下を歩いた。
(自分のことも、か)
何年も後回しにしてきた。王子として、次期国王として。自分の気持ちより、国のことが先だった。
アルディアのことが気になったのは、あの人が「王子の上司」を「主任」と呼んだときだった。誰もそんなことを言わなかった。でも、あの人は言った。それが、いつまでも引っかかっていた。
(引っかかり続けた。でも、もう答えは出た)
廊下を歩きながら、足を止めた。
壁にかかった王家の紋章が、昼の光を受けて静かに輝いていた。
(次は、俺自身の話だ)
アルディアに「幸せになってほしい」と言われた。
(なってみせる)
根拠はなかった。でも、そう思えた。
◇
──この章のみ、アルヴィン・エドワード・ヴァルディアの手帳より。
『婚約を辞退した。これでよかった。アルディアが笑っていられる方が、俺には大事だ。ただ、少しだけ惜しかった。それだけだ。それだけで充分だ。次は、俺自身のことを考える』
次話:「クロードの覚悟」




