皇后陛下の三毛猫侍女
ミルジャは帝国の重苦しい夜会用ドレスの裾を大胆にたくし上げ、その下にしなやかな脚を剥き出しにしていた。澄んだ緑色の瞳は夜の闇を透かし、茂みの奥で眠る雷鳥の生命の熱を真っ向から捉えている。
「……ごめんなさいね。でもあなたの命は、あの方の糧になるわ」
慈しみを含んだ呟きとは裏腹に、その手にある弓は無慈悲なまでに美しい弧を描き、つがえられた矢は獲物の急所を狙い定めている。
彼女がこの狩りに身を投じたのは、決して己の空腹を満たすためではない。主君であり、この国の皇后となった愛すべきシェレナイラ様のため。
「……ミルジャ、許して。この宮廷の料理を口にするたび、私は己が何者であったかを忘れてしまいそうになるの」
異国の地で、愛する皇帝に馴染もうと自分を削り、故郷の香りを失っていく主君。せめて一口でもいい。ユルナイ族の──星砂が舞う、我らが砂漠の王国の味がすれば、あの方の魂をこの地に繋ぎ止められるはずだ。
ミルジャは冷たい弦を引き絞った。風を読み、鼓動を殺す。
帝国の貴族が野蛮と蔑む研ぎ澄まされた鋭い爪。それが弦を弾く確かな手応えが伝わり、放たれた一矢は音もなく凍てついた空気を切り裂いた。
◆
ルスラフ帝国の雪は、故郷の熱砂よりもずっと残酷に彼女たちの色を奪おうとしていた。
馬車の中でさえ隙間から這い入る冷気は容赦がない。ミルジャはかじかむ指先を動かし、シェレナイラ様の耳元に触れた。ユルナイ族の伝統である細工の細かい金色の耳飾りを外し、代わりに飾られたのは、皇帝から贈られた大粒のガーネットであった。
「……ミルジャ、これでいいのかしら。私は、向こうの国の方々に受け入れていただけるかしら」
シェレナイラ様の声は、凍える小鳥のように震えていた。斑の散る砂金色の高貴な毛並みは帝国の厚い毛織物に埋もれ、今にもその存在ごと消えてしまいそうだ。
「案ずることはございません、王女様。ルスラフの皇帝陛下も、あなたの美しさに驚かれるに違いありませんわ」
ミルジャは精一杯の微笑みを返したが、彼女自身の三色の毛並みもまた、本能的な寒さへの恐怖で逆立っていた。猫人族とも呼ばれるユルナイ族にとって、白一色の世界は死の同義語だ。
やがて重々しい揺れと共に馬車が止まり、扉の外から雪を踏みしめる規則正しい軍靴の音が聞こえる。ここが国境。ユルナイの護衛たちが引き返し、ここからはルスラフ帝国の軍人が彼女たちの身を預かる手筈となっていた。
ミルジャは覚悟を決め、主君に先んじて馬車の扉を開いた。途端、吹雪に視界は真っ白に染まり、肺の奥まで凍りつくような衝撃に、彼女は息を呑んで立ち竦む。
「……ユルナイ星砂王国より、参りました……王女殿下付き侍女、ミルジャにございます。我らが主君、シェレナイラ様を、どうかルスラフ帝国の御名において、お迎えくださいませ」
ミルジャが震えながらも一礼をしたとき、視界を塞ぐ雪の帳を割って、一人の男が歩み寄ってきた。鉄の規律を体現したような軍服に身を包んだ、ルスラフ帝国の近衛兵である。
彼は薄い絹の旅装で震えるミルジャを一瞥すると、無言のまま己が纏っていた分厚い熊毛の外套を脱いだ。そして、驚きに目を見開くミルジャの肩へとそれを被せたのだ。
「異邦のお嬢さん。あなたの誇りは、命を捨てるためのものではないはずです」
彼は名乗ることもせず、ただ一瞬だけ彼女の強張った肩を軽く叩くようにして勇気づけると、そのまま雪の中に溶け込むように列の先頭へと戻っていく。
ミルジャは彼から貸し与えられた熱に縋るように、厚い毛皮を握りしめた。ルスラフ帝国──冷酷で、色彩を欠いた氷の国。そう決めつけていたミルジャの頑なな心に、名も知らぬ男は初めて体温を与えたのだ。
けれど婚礼の儀を終え、シェレナイラ様が名実ともに皇后となった祝宴の夜。ミルジャもまた、帝国の格式という名の檻に閉じ込められていた。
あてがわれたのは、ルスラフの伝統と誇りを形にした重厚な礼装であった。歩くたびに床を擦るほど長い裾を持った、深紅の分厚いビロード地のドレス。ケープのように二の腕を覆う袖が重なり、宝石を縫い込んだ気が遠くなるほど重い刺繍が全面に施されている。
さらに頭には扇形の帝国の伝統的な頭飾りが、真珠の滴を額に垂らしながら鎮座していた。ルスラフの美意識が凝縮されたその姿は確かに洗練の極致なのだろうが、ミルジャにとっては剥製にされるのを待つ獲物の死装束のようにしか感じられなかった。
ふと視線を向ければ、シェレナイラ様も重い王冠と真珠に飾られ、皇帝の隣で懸命に微笑んでいる。その微笑みがかつて砂漠で見た陽だまりのような暖かさを失い、冷たい月光に似ていくのを、ミルジャは痛切な思いで見つめるしかなかった。
それからの日々、シェレナイラ様の献身は、皮肉にも彼女を摩耗させるばかりだった。夫に、そしてこの国の臣民に受け入れられようと、彼女は故郷の歌を封印し、懸命に帝国の皇后を演じ続けたのだ。
その無理がたたり、ついには食事すら受け付けず、寝所に閉じこもって涙を流すまでになってしまった。
「……ミルジャ。夜になると、砂の匂いがする気がするの。目を閉じると、あの星の多さまで思い出せるのに……目を開けると、何もないのよ」
消え入りそうな主君の姿を見て、だからミルジャはユルナイの弓矢を取ったのだ。
狙い通り、放たれた一矢は冬の眠りの中にいた雷鳥を射抜いた。ミルジャは雪を蹴って獲物に駆け寄り、そのまだ温かい羽根の感触を確かめるように強く引っ掴む。
「シェレナイラ様。これであなたは忘れません。私が忘れさせません」
この肉を叩き、故郷のスパイスをたっぷりと刷り込もう。ルスラフの黒いパンではなく、薄く焼いた生地で包んで……。ミルジャが料理の算段を立て、勝利の確信に浸った、その時であった。
「おい。おいおい、何してんだ。あんた」
背後から心底驚いたような、間の抜けた声が響く。
ミルジャは豹のような瞬発力で振り返り、弓を構えた。淡い灯火の中で目を細め、その近衛兵が、あの国境の雪原で無言のまま毛皮を貸してくれた人物であると気がついた。
「…………あなた」
「あんた……あの時の侍女のお嬢さんだろ。まさかこんな宮廷のど真ん中で、そんな格好で鳥を仕留めてるとは思わなかったぜ」
彼はカンテラを片手に呆然と立ち尽くしていた。軍服の肩に雪を積もらせ、もう片方の手を腰のサーベルにかけたまま、ドレスの裾を捲り上げたミルジャと、その手にある獲物を交互に見て顔を引き攣らせる。
「……。いいか、落ち着いて聞けよ。ここは皇帝陛下の庭園だ。あんたが今しがた仕留めたのは、陛下が愛でていらっしゃる雷鳥だぞ。普通なら死罪だ。あんた、法ってもんを知らねえのか」
「法? 法が主人の命よりも重いと申しますか。一切れの肉、ひと匙の故郷の味が、どれほど今のあの方に必要か……!」
吠えるように言い返したミルジャの剣幕に、彼は一歩引いて面食らったように目を白黒させた。至極真っ当な正論にここまで噛みつかれるとは思っていなかったのだ。慌てて周囲を見回し、しーっ、と指を口に当てる。
「わかった、わかったから落ち着け。声がでかい。いいか、こんなのがバレてみろ。あんただけじゃなく、見張り役の俺の首まで一緒に飛ぶんだぞ」
彼は心底信じられないものを見たという顔で、深くため息をついた。それから少しだけ身を屈め、ミルジャの顔を覗き込む。
「……あーもう、わかったよ。今回は見逃してやる。雷鳥なんてな、料理番に頼めば猟師からいくらでも手配してもらえるんだ。わざわざ自分で庭園を荒らす必要なんてねえよ。……もう二度とこんな真似するなよ。わかったな」
ミルジャは毒気を抜かれたように、突き立てようとした言葉を飲み込んだ。すると彼は、ミルジャが握りしめている弓を物珍しそうに眺める。
「というかあんた、今の時代に弓矢で狩りかよ……。博物館から盗んできたのか? まあ、おかげで退屈な夜番中に珍しいもんが見れたけどさ」
弓矢での狩猟はユルナイ族の誇り高き伝統だ。それを古臭い遺物のように言われたことに、ミルジャの喉元まで言い返す言葉がせり上がったが、彼は「じゃあな」と軽く手を振ると、追及を逃れるようにさっさと闇の中へ消えていってしまった。
「……なんなのよ、あの男。博物館から盗んできた、ですって? ええ、そうですとも。展示札には“帝国軍人を黙らせるのに最適”と書いてあったわ」
立ち去る背中に向かって耳を伏せて毒づき、ミルジャは踵を返した。一刻も早く、この獲物をシェレナイラ様の元へ届けなければ。
しかし冷たい夜気を切り裂いて走り出そうとした瞬間、ふとあの重厚な毛皮の感触を思い出した。
「……あ」
国境で貸し与えられた、あの熊毛の外套。
ブラシをかけていつでも返せるよう手元に置いていたのに、今の今までその機会を失っていた。そして今日もまた、礼を言うどころか爪を立てるような勢いで食ってかかってしまった。
「……感じが悪いのは、どちらだったかしら」
遠ざかるカンテラの火は、もう雪の向こうへ消えかけている。それを見つめながら、しかしミルジャはすぐに首を振った。
「いえ、やっぱりあの男のほうね」
◆
翌日、ミルジャは丁寧に手入れをした熊毛の外套を抱え、近衛師団の兵舎を訪れた。
石造りの建物に三色の毛並みを揺らしてミルジャが姿を現すと、訓練や作業に当たっていた軍人たちの動きが、目に見えて止まった。
彼らは帝国の精鋭であり、品位ある近衛兵たちである。下卑た声を上げることはないが、それでもミルジャには抗いようのない親愛の情が向けられる。
それは彼女が異国情緒あふれる美しい娘であるからという以上に、彼らにとって“馴染み深い愛すべきもの”を想起させるからだった。
「これは……なんとも愛らしいお客さまだな。お嬢さん、そんな重いものを持って、迷子にでもなったのかい」
入り口のそばにいた兵士が、目尻を下げて優しく問いかける。ミルジャが「これを貸してくださった持ち主の方にお返ししたいのです」と、抱えた外套を差し出すと、周囲の兵士たちがふわふわと浮き足立って集まってきた。
「……これは軍に広く支給されている品だからな。これだけでは誰の持ち物か判別するのは難しい。……そうだ、もしかしたら俺のものだったかもしれない。なあ、可愛い三毛のお嬢さん。もし俺のだとしたら、幸運すぎて今夜は眠れそうにないが」
「よせよ、俺の物に違いない。こんなに愛らしいお嬢さんに届けてもらえるなら、昨日の寒さだって安いものだ。むしろお礼に美味しい小魚でも差し上げたい」
「いい加減なことは仰らないで。持ち主が分からないのでは困ります」
ミルジャは名前も聞き忘れた自分の迂闊さを呪ったが、そもそも昨夜の騒動でそれどころではなかったのだ。不機嫌に耳を伏せてぴしゃりと撥ね除けると、「厳しいところも昔飼ってたマーシャにそっくりだ……」と奥で士官が一人泣き出してしまった。
「お前たち、あまり困らせるな。……お嬢さん、それはおそらくエリク・ヴェルグラード中尉の物だろう。国境での任務中に外套を一着紛失したと報告していた。自分の不徳の致すところだと言って、自腹で弁償の手続きをしていたよ」
そこへ、奥で書類を整理していた年嵩の軍曹が落ち着いた声で割って入った。ついに届いた手がかりの名に、ミルジャの耳がぴくりと動く。
「中尉なら昨夜の庭園警備で不手際があったとかで、今は別棟で反省文を書かされているはずだ。……雷鳥が一匹忽然と姿を消した、なんて報告して上官に絞られていたな」
反省文を書かされている場所を尋ねれば、別棟の角部屋を教えられミルジャはそこへ向かった。
重厚な扉の隙間から、羽根ペンが紙を引っ掻く苛立たしげな音が漏れている。ミルジャは一度だけ深呼吸をして、ノックもそこそこに扉を開けた。
「ヴェルグラード中尉」
机に突っ伏し髪をくしゃくしゃに掻き乱していた男が、弾かれたように顔を上げた。
目の下に微かな隈を作ったエリクは、扉の傍らに立つミルジャを見るなり、椅子を鳴らして立ち上がった。
「あんた、なんでここに。いや、どうやって入った」
彼は慌てて書きかけの書面を隠そうとしたが、そこには「管理不足」「鳥の逃走」といった文字が躍っている。エリクは周囲を警戒するように見回し、声を潜めて彼女に詰め寄った。
「まさか昨夜のあれ、他のやつに捕まったのか? 俺がせっかく何も見なかったことにしたってのに台無しじゃねえか」
「捕まってなどいません。私はユルナイの民です、鈍重な帝国人に遅れをとるはずがないでしょう」
「じゃあ、なんでここに……」
「これをお返ししに。……ずっと、返さなければと思っていたのです」
ミルジャは抱えていた重い熊毛の外套を差し出す。エリクは自分の外套とミルジャを交互に見て、ようやく合点がいったように肩の力を抜いた。
「……ああ。なんだ。別にそんなの、失くしたことにしときゃあ、あんたが持ってたって誰も気づきゃしねえのに。馬鹿正直だな」
「それはこちらの台詞です。……あなたが自分の給与で弁償しようとしていること、聞きました。それに、昨夜のことも」
馬鹿正直だと言われても、ミルジャは不思議と嫌な気はしなかった。
さきほど会った兵士たちはみな彼女を猫扱いし、慈しむような、あるいは珍しがるような視線を向けてきた。けれどこのエリクという男は違う。そのことに少しだけ心が解け、ミルジャは柄にもなく素直な言葉を口にした。
「ありがとうございます。おかげで、皇后陛下も今朝は少しだけ笑っておいででした。……星の下で、あなたの名を忘れません。それがユルナイの礼です」
「……まあ、礼を言われるほどのことじゃねえよ」
エリクはわざとらしく咳払いをし、視線を逸らしたまま外套を無造作に押し戻した。
「いいよ、それ。もう新しいの支給してもらったから、あんたにあげるよ。“尾持ち”の方は寒さに弱いんだろ」
彼としては精一杯のお節介だった。猫可愛がりするわけでもなく、異国から来た侍女への親切心。せっかく助けたのに、凍えて風邪でもひかれたら寝覚めが悪いと、その程度の親切心だったのだが。
「……今、何と言いました?」
「ん? だから、尾持ちは寒さに──」
「“尾持ち”とは私たちの名ではないわ、ルスラフの番犬め!」
「ええ?」
ミルジャは牙を剥き出して怒ってしまった。帝国では猫人族をそう呼ぶのが当たり前だし、むしろ親しみを込めて呼ぶことだってある。しかしミルジャの反応は「ちょっとした言い間違い」へのそれではない。
「私たちは砂漠を統べる王の民です。獣の部位を数えるような名で呼ばれる筋合いはありません」
「え、あ、いや……悪りい、そんなつもりじゃなくて、普通みんなそう言ってるから……」
「ではみんなが間違っているのです!」
歩み寄ったはずの距離が、たった一言で絶望的に遠のく。ミルジャは外套をひったくるように掴むと、エリクの言い訳を聞く前に、弾丸のような勢いで部屋を飛び出した。
「おい。おい、待てって!」
後に残されたのは、激しく閉められた扉の蝶番が軋む音と、書きかけの「雷鳥、忽然と姿を消す」という意味不明な始末書だけ。エリクは自分の頭を抱え、再び机に突っ伏した。
「……なんだよもう。一生懸命庇ってやってるのに、なんで俺が一番嫌われてんだ」
兵舎の廊下にはミルジャの激しい足音だけが、怒りの残響となっていつまでも響いていた。
◆
「この薄桃色、素敵だと思わない? 凍った湖に、朝日が差した時みたいな色よ」
「あら、この真珠色なんてどうかしら。明日の狩猟会、雪原の陽光に映えて、きっと指先を一番美しく見せてくれるわ」
陽だまりの落ちるサンルームには、リボンの擦れる音や、小瓶が触れ合う軽やかな音が音楽のように響いていた。明日に控えた宮廷狩猟会を前に、ルスラフの女官たちは楽しげに小瓶を並べ、細い筆で互いの爪を丁寧に染め上げている。
「皇后陛下に付き従って狩猟場へ向かうのですもの。私たちも帝国にふさわしい、洗練された姿でいなくてはね」
「ミルジャ、あなたもどう? 爪も飾ればもっと愛らしくなるわ」
一人の若い女官が、楽しげに目を輝かせてミルジャの手を取った。しかしその指先がミルジャの指に触れたとき、女官は「あら」と小さく声を上げて動きを止めた。
「……改めて見ると、あなたの爪、本当に立派ね。でも、これじゃあ手袋を突き破ってしまうわ。それに、肌を傷つけてしまったら大変よ」
「そうね。やすりで丸く削ってあげましょうか? その方が、指先もほっそりと洗練されて見えるはずよ」
「ねえ、丸く整えて、淡い薔薇色を差し込みましょう? そうすれば、将校さまたちもきっと驚いて見惚れてしまうわ」
誰かが上げた恋の予感に、場は一気に華やいだ声に包まれた。女官たちは頬を染め、少女らしく心をときめかせている。たとえほんの一瞬でもいい。視線が合えば、それだけで一日を語れるのだから。
「ミルジャ。あなたも私たちとお揃いにしましょう? 本当に可愛くなるんだから」
女官たちの瞳はどこまでも純粋で、善意に満ちていた。彼女たちは心から、ミルジャに最高の自分で明日を迎えてほしいと願っているのだ。
ミルジャは自分の指先に視線を落とし、そっと力を込めた。鋭く尖った爪は、祖先たちがユルナイの砂を掴み、弓の弦を引き絞り、生きるために血を流してきた証だ。
「ありがとう。……でも、爪はこのままにしておきたいの」
「そう? 残念だわ。でも、気が変わったらいつでも仰ってね」
「せっかくの薔薇色、絶対似合うのに」と笑いながら、再び自分たちの爪を染め始めた彼女たちは、まるでお伽話の中に住む妖精のように美しい。
お喋りは止まらず、花の香水と笑い声が部屋を甘く満たしていく。そのあまりに平和で美しい世界の中で、ミルジャは自分の爪に宿る誇りが、この国では何より扱いにくい異物であることを、痛いほどに感じていた。
◆
静まり返った皇后の私室で、ミルジャはシェレナイラ様の背後に立ち、その美しい砂金色の毛に丁寧な手入れを施していた。
鏡の中に映るシェレナイラ様は、すでに帝国の重厚な冬の礼装に身を包んでいる。厚い絹、金銀の刺繍、そして首元を覆う高い襟。かつて砂漠で、風を友として軽やかに笑っていたあの面影は、重い衣の下に沈み込んでいる。
「……ミルジャ」
ふと、シェレナイラ様が鏡越しにミルジャの瞳を見つめた。ミルジャはブラシを動かす手を止めず、静かに耳を傾ける。
「昨日、大主教様とお話ししたの。……私が名実ともにこの国の母となるために、聖女の名を戴くのはどうかと勧められたわ。陛下を……この国の民を愛している。ルスラフのためなら、私はエカチェリーナになっても構わないと思っているの」
シェレナイラ様は鏡の中の自分を、あるいは自分の中に新しく作ろうとしている異邦の偶像を見つめながら呟いた。
ミルジャは、手の中にある主君の毛並みの、その柔らかさと暖かさを感じていた。これは砂漠の太陽が育てた命の色だ。もし名前を変え、この国のやすりで魂を削り取ってしまえば、この輝きさえもいつか失われてしまうのではないか。
「……皇后陛下。名とは、魂の在り処です。ユルナイの戦士が名を変えるのは、死んで別の何かに生まれ変わる時だけ。……あなたは、あの方を愛するために、ご自分を殺すおつもりなのですか?」
「でも、あの方を……皇帝陛下を愛しているから。あの方の隣に立つ者が、砂漠の香りを漂わせた“尾持ち”の娘であってはいけないと思うのよ」
その声は義務感に満ちていて、けれど今にも壊れてしまいそうなほど震えていた。
シェレナイラという名は、星砂が風に舞う音を写した高貴な響きである。その誇りさえも、この方は愛の糧として差し出してしまうのだろうか。
「私は見ていられません。あなたが、あなたでない誰かになっていくのを。……この婚姻が、あなたを殺すための檻になるというのなら、私は──」
言いかけた言葉は、部屋の扉を叩く無機質な音にかき消された。
「皇后陛下、お時間です」
外からは狩猟会の始まりを告げる勇壮なホルンの音が響いてくる。それは、哀れな獲物を追い詰めるための合図でもある。
シェレナイラ様は深く息を吐き出すと、緩やかに立ち上がった。重い刺繍のドレスが、鎖のような音を立てて床を擦る。
「……行きましょう、ミルジャ。今日はルスラフの皇后として、完璧に振る舞わなくては」
背を向けて歩き出した主君の細い肩が、強張っているのをミルジャは見逃さなかった。エカチェリーナという名に、その魂を明け渡してしまおうとしている主君。
ミルジャは腰に隠したユルナイの弓の感触を確かめ、その後に続いた。
豪華な天幕の中には、冷たい外気を遮るために何枚もの厚い絨毯が敷き詰められ、銀の香炉からは甘い花の香りが立ち上っている。
中心に据えられた豪奢な椅子に、シェレナイラ様は彫像のように座っていた。その周囲を囲む女官たちは楽しげに、遠ざかっていく騎馬の列を眺めている。
「見て、ゼレノイ子爵だわ。なんて勇ましいのかしら」
「あら、私はあちらの大尉の方が素敵だと思うわ。雪原を駆ける馬の足音が、ここまで響いてくるようよ」
色とりどりの礼装に身を包んだ彼女たちは、まるで雪原に咲いた冬の花のようだった。誰かが軽やかにお喋りをし、別の誰かが銀のティーポットから香りのいい茶を注ぐ。それが帝国の淑女として最も正しい、平穏で優雅な宮廷狩猟会の過ごし方だった。
そのときふと、森へ向かっていたはずの蹄の音が天幕の前で止まる。天幕の入り口を跳ね上げ、冷たい外気と共に現れたのは、皇帝アレクサンドルその人であった。
「陛下……!」
くつろいでいた女官たちが弾かれたように立ち上がった。ミルジャもまた、慌てて深く膝を折って礼をする。
皇帝は狩猟服に身を包み、冷気と馬の匂いを纏いながら、まっすぐにシェレナイラ様のもとへ歩み寄った。彼は椅子に座る彼女の前に跪くと、指先をそっと取り、愛おしげに唇を寄せる。
「シェレナイラ。君のために、森で一番の獲物を持ち帰ると約束しよう。この国の皇后にふさわしい至高の毛皮を、君の肩に捧げるために」
「……ありがとうございます、陛下。お怪我のないよう、お祈りしておりますわ」
淑やかで、非の打ち所のない皇后としての受け答えだった。皇帝は満足げに頷くと、再び風のように天幕を去っていった。
その姿が見えなくなると、女官たちは「なんて情熱的なの」「あんなに愛されていらっしゃるなんて、羨ましいわ」と極上の物語でも読み終えたかのように溜息を漏らす。
けれどその賞賛の嵐のなかにあって、シェレナイラ様の横顔だけは、冷たい霧が立ち込めたように精彩を欠いていた。彼女の微笑みはもはや自分の意志で動くものではなく、宮廷の精巧な装飾の一部として、ただそこに張り付いているだけのようだった。
ふと、ミルジャの視界の端を無骨な人影が横切った。天幕の外で馬の手綱を引いている近衛兵たち。そのなかに、あのヴェルグラード中尉の姿があった。
ミルジャは触毛を引っ張られるような不快感を覚え、反射的に、首が折れそうなほどの勢いで顔を背けた。今は、あの男の顔なんてこれっぽっちも見たくない。
尾持ち。無知な男が吐き捨てたあの言葉が、棘のように耳の奥に引っかかって離れない。彼にとっては些細な呼び名だったとしても、ミルジャにとっては、自分がいつか手懐けられるべき獣として見られているような、侮蔑を突きつけられたに等しかった。
やがて天幕には、皇族の女性たちや着飾った貴婦人たちが続々と集い、豪奢な茶会が始まった。銀のティーセットが触れ合う音と、品の良い笑い声。優雅そのものの光景のなかへ、森から戻った男たちが、戦利品を手に次々と舞い戻ってくる。
「皇后陛下、ご覧ください。この見事な銀狐を」
一人の貴族が、雪を散らしながら獲物を高く掲げる。真っ白な雪に、赤い鮮血が点々と滴り落ちた。
「まあ、素晴らしい毛並み。皇后陛下の冬の装いにお似合いだわ」
淑やかに座っていた貴婦人たちはドレスの裾を揺らしながら、自慢の騎士や夫のもとへと駆け寄っていく。女官たちもまた、期待に頬を上気させ、許可を求めるようにシェレナイラ様を見上げた。
「行っていらっしゃい」
主君が凪いだ湖のような声で告げるや否や、彼女たちは弾かれたように、冬の光が差し込む外の世界へと飛び出していく。天幕に残されたのは、椅子に深く腰掛けた皇后と、その傍らに立つミルジャだけだった。
「おやおや。皇后陛下は、やはりこちらでお休みになられるのがよろしい」
近くにいた年配の貴族が湯気の上るワインを片手に、労わるような口調で言った。
「陽光に育まれた方々には、ルスラフの風は少々鋭すぎますからな。獲物を追うのは我らに任せ、お二方はこうして暖かな火の側で守られているのが一番だ」
「……お気遣い、ありがとうございます。ええ、私はここから、皆様の勇姿を拝見しておりますわ」
自分に言い聞かせているかのような主君の言葉に、ミルジャの脳裏に蘇るのはこんな静まり返った天幕の中ではない。
燃えるような砂漠の夕陽の下、風を切って、一頭の獲物を追い詰めていたあの日のシェレナイラ様だ。弓を引き絞る背中のしなやかな筋肉、獲物を射抜いた瞬間にあがる、勝利と生命の叫び。
あの方は誰かに守られるために、その天賦の才を授かったわけではない。
今、目の前で微笑んでいるのは、皇后という名の生きた剥製だ。
「……いいえ、シェレナイラ様」
ミルジャは帝国の作法も、自らの立場も、今この瞬間の静謐も、すべてをかなぐり捨てるように立ち上がった。その動作は獲物を見つけた山猫のように、あまりにも鋭く唐突だった。
「あなたがこの天幕で、爪をしまい、尾を伏せていらっしゃること。私はそれを気高さとは讃えません。砂漠の星は、雪に囲われて眠るために生まれたのではありません」
ミルジャは隠し持っていた──ルスラフの流儀とは対極にある、無骨なユルナイの弓を、シェレナイラ様の目の前へ叩きつけるように差し出す。
シェレナイラ様は、射抜かれたように目を見開いた。金色の瞳が激しく揺れ、ミルジャの指先に残る鋭い爪と、弓の木肌を交互に見つめる。数秒の、永遠のような沈黙。
やがて皇后の唇がわずかに震え、彼女は重たい宝石の頭飾りを、迷いなくその頭上から下ろした。真珠の粒が音を立て、彼女の斑模様の砂金の毛並みが、冬の光を浴びて激しく解き放たれる。
さらに、歩くことさえ拒むような長い裾のマントを力任せに外すと、彼女はミルジャの手から弓をひったくるように掴み取った。
「皇后陛下、何を──」
銃を抱えた貴族たちの制止の声が飛ぶが、ルスラフの作法など、今の彼女には風に舞う羽毛よりも軽い。
足が雪を蹴立てる。シェレナイラ様は天幕の入り口に繋がれていた馬に飛び乗ると、弓を高く掲げ、一度も振り返ることなく真っ白な雪原へと駆け出した。
◆
雪を巻き上げ、地平線の彼方から一騎の影が駆け戻ってきた。天幕の外に控えていた近衛兵たちが一斉に顔を上げる。すでに大きな鹿を仕留めて凱旋していた皇帝は、近衛兵たちへ皇后の捜索を命じていたところだった。
「シェレナイラ!」
駆け寄った皇帝の目の前で、皇后は鮮やかに手綱を引き、荒い息を吐く馬を力強く御してみせた。その片手には、雪原を自在に駆け抜けた証──一羽の野兎が、耳を掴み上げられた状態で誇らしげに握られていた。
「……これは、君が?」
皇帝は驚愕に目を見開き、言葉を失った。しかしすぐに荒ぶる馬を宥め、彼女の腰を抱いて地上へと降ろさせる。シェレナイラ様はこぼれそうなほどに瞳を輝かせ、真っ直ぐに夫を見つめ返した。
「はい、陛下。ルスラフの冬は、確かに素晴らしい獲物を隠しておりますわね」
皇帝は驚きを通り越した、眩しいものを見るような感嘆で彼女を見つめる。彼はやがて、その泥のついた、けれど力強いその手を両手で包み込んだ。
「見事だ……。君がこれほどの弓の使い手だったとは。私は、自分の妻がこれほどまでに勇猛な狩人であることを知らずにいたようだ」
シェレナイラ様の指先から、まだ温もりを残す白兎が皇帝の手へ渡る。矢は喉元を正確に射抜いている。無駄な傷はない。苦しみも短かったであろう、見事な一射だ。
「シェレナイラ、今度は私にその弓を教えてはくれないか。次の狩猟では共に鹿を追おう」
皇帝の言葉に、シェレナイラ様は弾けるように笑った。誰かの期待に応えるための薄氷の微笑ではなく、心からの喜びが溢れ出した、命の脈動そのもののような輝かしい笑顔だった。
「ええ、喜んで。陛下を帝国一の射手に育てて差し上げます」
雪原の陽光が、彼女の頬を紅く染めている。重い宝飾を外した毛並みは風にほどけ、金砂色の光を弾いて揺れていた。荒い息、輝く瞳、そして胸を張って立つその姿は、宮廷で見る皇后とはまるで違う。
皇帝の熱烈な賞賛は瞬く間に周囲へ広がり、先ほどまでか弱い淑女として彼女を見ていた貴族たちも、拍手と歓声を送る。天幕を支配していた空気は一転して、類まれなる狩猟の女神の誕生を祝う熱狂へと変わっていった。
「……よかった」
白く立ち昇る溜息とともに、ミルジャはそっと胸をなで下ろした。
実は、心臓はまだ早鐘を打っていた。皇帝が森から戻り、そこに座っているはずの皇后の姿がないと知った時の威圧感。ミルジャが弓を差し出し、彼女を野に放ったのだと告げた瞬間、周囲の空気は一気に氷点下まで凍りついたのだ。
けれど、さすがは広大な帝国を統べる皇帝だ。愛する妻の目に宿った生の輝きを見た瞬間、彼はその奔放さをまるごと抱き留めてみせた。その度量の大きさには畏敬の念を抱かずにはいられない。これでシェレナイラ様は、もう雪の下で心を枯らすことはないだろう。
「……なあ、あんた」
不意に背後からかけられた声に、ミルジャは肩を跳ねさせた。
振り返れば、そこにはエリク・ヴェルグラード中尉が落ち着きのない様子で立っている。ミルジャはわざとらしく眉を寄せ、あからさまに「話しかけるな」という空気を漂わせて顔を背けた。
「何用でしょうか。あいにく手が離せませんの。皇后陛下のお召し替えの支度がございますので」
「分かってるよ。少しでいいんだ。少しだけでいいから聞いてほしい」
エリクは、まるで重い石碑でも担ぎ上げるような真剣な面持ちで、ミルジャの前に一歩踏み出した。そして、おもむろにその場に片膝をつく。それは帝国の騎士が貴婦人に跪くような優雅な仕草ではなく、ユルナイの戦士が深い敬意を示す時の所作だった。
「これ……獲物だ」
ミルジャの目が、驚きに大きく見開かれる。彼の口から飛び出したのは、あまりにも不恰好で、けれど聞き間違いようのない、故郷ユルナイの言葉。
「あんたは……尾持ちなんかじゃないよ。悪かった。これは俺が仕留めた、今日一番の獲物だ」
見れば彼の頬には、獲物の返り血が筋となって乾いている。軍服は雪と泥に汚れ、手には一羽の見事な雷鳥を提げていた。
「……サルハ・ナイール、タレシュ・エル・ユルナイ、アハル・セラト(砂と星に誓い、ユルナイの誇り高き戦士に、この獲物を捧げます)」
彼は無礼を言葉ではなく、行動で塗り替えに来たのだ。ユルナイでは子どもでも知っている獲物を捧げる時の決まり文句を、辞書を必死にめくって覚えたのだろう。発音は聞き取りにくいほど不明瞭だったが、その瞳には一欠片の侮りも混じってはいなかった。
ミルジャは呆然とその姿を見つめた。あれほど怒りに震えたはずなのに、目の前の男があまりに真剣で、そしてあまりに滑稽なほど必死なものだから。
「……ふっ、……ふふ」
耐えきれず、小さな笑いがこぼれた。
「発音が酷すぎて、さっぱり聞き取れないわ。でも……まあ、獲物の質だけは認めてあげる。立派な雷鳥ね、ヴェルグラード中尉」
ミルジャは膝を折り、エリクの捧げた獲物をその鋭い爪を立ててしっかりと受け取った。戦士として認められたその指先は今、女官たちが塗ろうとした薔薇色よりも、ずっと赤く火照っていた。
「……なあ」
「なによ」
「ミルジャって呼んでもいいか」
雪の上に膝をついたまま、彼はその名を帝国の響きで少し硬く発音した。ミルジャは抱えた獲物の重みを確かめながら、わざと尊大な態度で鼻を鳴らしてみせた。
「許してあげる」
その不遜な態度には、謙虚さなどひとかけらも、砂粒ひとつ分すら混じっていない。あまりに堂々とした物言いに、エリクは抑えきれないといった様子で喉を震わせて笑い出した。
「はは……そいつは光栄だよ、ミルジャ」
初めて親愛を込めて呼ばれた自分の名は、夜明けの砂に最初に差す陽の熱によく似ていた。ミルジャは少しだけ照れくさそうに視線を泳がせ、それから小さく頷く。
凍てつく銀世界のただ中で、二人のあいだを満たす気配は、いつしか刺すような冷たさを失っていた。




