間話2|ピンク色のネオンの記憶
1
ジジ、ジジ……。
接触不良のネオン管が、不規則なリズムで明滅している。
地下鉄廃線エリア、第13区画。
湿った空気の中に、甘ったるい合成チョコレートの匂いが漂っていた。
「ねー、店長。暇すぎて死にそう」
カウンターに上半身をだらりと投げ出し、チグサが呻いた。
彼女の口元には、チョコバーの食べかすがついている。その横には、すでに空になった袋が三つ。
「死になさい。そうすれば食費が浮くわ」
店の奥で、マキナは顔を上げずに答えた。
手元の電卓を叩く指先は、かつて銃のトリガーを引いていた時と同じくらい速く、正確だ。
「今月の赤字、昨対比一五%増。……原因は明白ね。貴方の胃袋よ」
「えー、だってさー。客来ないじゃん。ここ、地図に載ってないし」
「静かでいいでしょ。繁盛したらしたで、面倒な連中が集まってくるわ」
マキナは帳簿に赤ペンで線を引いた。
平和だ。
銃声も、爆発音も、断末魔の悲鳴もない。あるのは、老朽化した換気ファンの回る音と、チグサが菓子を咀嚼する音だけ。
かつて「葬儀屋」と呼ばれ、血塗られた戦場を駆け抜けた二人にとって、この退屈は黄金よりも価値のあるものだった。
「ねえ店長。あたしたちさ、なんで『売店』なんて始めたんだっけ?」
チグサが天井のシミを見上げながら、ふと尋ねた。
マキナの手が止まる。
「……忘れたの?」
「んー、なんとなく覚えてるけど。たまには昔話もいいかなって」
マキナは小さく息を吐き、眼鏡(老眼ではない、伊達だ)の位置を直した。
彼女の視線は、カウンターの向こうにある、雨漏りのするコンクリートの壁へと向けられた。
2
それは三年前。
二人が組織を裏切り、自らのIDを抹消して、この地下の底へと逃げ延びた直後のことだった。
当時の二人は、ボロボロだった。
マキナは背中に銃弾を受け、チグサの義手は半壊し、文字通り這うようにしてこの第13区画へ辿り着いた。
追手から逃れるために潜り込んだのが、この閉鎖された地下鉄駅の構内だった。
「……ここなら、センサーも届かない」
傷口を押さえながら、マキナは壁に背を預けて座り込んだ。
暗闇の中、目の前にあったのは、埃と蜘蛛の巣にまみれた廃墟だった。
かつて駅の売店だったらしい、小さなボックス。
ガラスは割れ、棚は錆びつき、床にはネズミの死骸が転がっていた。
「ねえ、マキナ」
チグサが、動かなくなった右腕を抱えながら言った。当時の彼女の目には、まだ今の明るさはなく、疲れ切った兵士の色をしていた。
「私たち、これからどうすんの? 傭兵でもやる? それとも、泥棒?」
マキナは廃墟を見つめたまま、首を横に振った。
「……もう、うんざりよ」
「え?」
「誰かの命を管理するのは、もうたくさん。部下を死地に送るのも、敵の数を数えるのも」
マキナは立ち上がり、足を引きずりながら廃墟のカウンターの中へと入った。
そして、埃まみれのレジスターを指で弾いた。
チン、と間の抜けた音が響く。
「これからは、在庫を管理したいわ」
「モノ?」
「そうよ。文句も言わない、血も流さない、ただの賞味期限付きのガラクタをね」
マキナは店の奥にあった配電盤のスイッチを入れた。
バチバチッ!
火花が散り、頭上のネオンサインが奇跡的に息を吹き返した。
『MILKY KIOSK』
毒々しいほど明るい、ピンク色のポップな字体。
かつて上層ヘヴンで流行し、廃れるとともに下層へ投棄されたファンシーショップのチェーン店。
煤けた地下の廃墟には、あまりに不釣り合いな可愛らしさだった。
「うわ……」
マキナが顔をしかめた。
「趣味が悪いわね。何よこの色は。目に痛いわ」
「ぷっ……あははは!」
対照的に、チグサが吹き出した。痛む脇腹を押さえながら、涙目になって笑った。
「なにそれ! ミルキーだって! 私たちに似合わなすぎ! 超可愛いじゃん!」
「……看板を変える金はないわ」
マキナはため息をつき、その場違いなネオンを見上げた。
「仕方ないわね。今日からここは『ミルキー・キオスク』よ。私たちの城になるんだから、少しは掃除しないと」
チグサは笑うのをやめ、真剣な目でマキナを見た。
そして、動かない義手の代わりに、生身の左手でカウンターを叩いた。
「了解、店長。……ここには、誰も指一本触れさせない。あたしが守るよ」
「ええ。頼りにしているわ、バイトリーダー」
それが、誓いだった。
血生臭い世界から、ささやかな日常を守るための、二人だけの契約。
3
「──ってことが、あったわね」
回想を終えたマキナは、再び帳簿に目を落とした。
チグサは「そっかそっか」と懐かしそうに目を細め、新しいチョコバーの袋を開けた。
「あのピンク色、最初は目がチカチカしたけどさ。慣れるとなんか、落ち着くんだよね」
「私は今でも変える予算があるなら変えたいと思っているわ。……まあ、客寄せにはなっているけど」
二人は知らなかった。
それから数日後。
一人の「迷子」がこの店に転がり込み、その平穏な日々が、企業の圧倒的な暴力によって破壊されることを。
あの嫌になるほど明るかったピンク色のネオンが、銃弾によって粉々に砕け散る未来を。
けれど、もしそれを知っていたとしても。
マキナはきっと、同じようにその迷子を受け入れただろう。
彼女はもう「命」を見捨てないと決めて、この店を開いたのだから。
「……あーあ。なんかいいことないかなー」
チグサが大きくあくびをした。
「空から美少年とか降ってこない?」
「降ってくるのは汚水だけよ」
カラン、コロン。
店の入口に吊るした空き缶のドアベルが鳴った。
二人が同時に顔を上げる。
そこに立っていたのは、美少年ではなかった。
汚れたパーカーを着て、雨に濡れた捨て猫のように震える、一人の少女だった。
「いらっしゃい」
マキナは眼鏡を外し、いつもの不機嫌で、でも少しだけ優しい店長の顔になった。
それが、すべての始まりだった。
ピンク色のネオンの下、三人の運命が交錯した瞬間の記憶。




