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第一章|墓標の下のティータイム


電脳廃墟の深海魚と、死に損ないの幽霊たち

(The Girl in the Wire & The Undead Ghosts)


第一章|墓標の下のティータイム


 積層都市アケロンの最下層ドレッグスには、雨が降らない。


 代わりに降ってくるのは、上層の配管から滲み出した廃油と、冷却水の結露だ。それらは何百年も積み重なった錆びた鉄骨を伝い、黒い霧雨となって降り注ぐ。

 だから、この街の地面はいつも濡れている。腐ったオイルと、焦げた回路の匂い。


 地図から削除された地下鉄廃線エリア、第13区画。

 湿った闇の中で、唯一、場違いなほど明るいネオンサインがジジ、ジジと明滅していた。


『MILKY KIOSK』


 ピンク色のポップな字体。かつて上層で流行したチェーン店の成れの果てだ。


 そのカウンターの前で、有坂ありさかトウコは膝を抱えて座り込んでいた。

 パーカーのフードを目深に被り、ガタガタと震えている。寒さのせいではない。空腹と、そして脳髄を焼き焦がすような「情報の飢餓」のせいだ。


「……ほら、受け取って。ナイスキャッチ」


 頭上から、間の抜けた軽い声が降ってきた。

 同時に、ビニールに包まれた塊が放り投げられる。


 トウコの目には、その弁当箱が、まるで水の中を沈んでいくようにゆっくりと回転しながら落ちてくるのが見えた。

 重力が、遅い。

 彼女が手を伸ばす。指先がプラスチックの容器に触れ、掴み、胸元に引き寄せる。その一連の動作だけで、彼女の意識の中では数千行の思考ログが流れている。


「……あの、チグサさん」


 トウコは、自分の喉が音を発するまでの「遅延ラグ」に苛立ちながら、掠れた声を絞り出した。

 パッケージの数字を、スキャナーのような正確さで読み上げる。


「これ、消費期限……昨日で切れています。前回いただいたものは、三日前でしたけど」


 パッケージには『合成鶏肉の照り焼き風』という印字と、無慈悲な日付シール。

 それを投げ渡した店員の少女──チグサは、カウンターに頬杖をついたまま、ケラケラと笑った。


「でしょ? 今日はあたりの日! 昨日切れたばっかりの『新品』だよ。人間、死ぬ時は何食ってたって死ぬんだから、贅沢言わなーい」


 チグサは奇妙な店員だった。

 フリルがついたピンク色のエプロンを着けているが、その下に着ているのは、オイル汚れのついた灰色のタンクトップだ。露出した二の腕には、無数の古傷と、バーコードのような刺青タトゥーが刻まれている。


 彼女は売り物のポテトチップスの袋をバリッと派手な音を立てて開けると、その中身をリスのように頬張り始めた。


「それにさ、廃棄ロス出すと店長がうるさいんだよね~。『在庫管理は命の管理だ』とか言ってさ。だからトウコちゃんが食べてくれたら、これぞウィンウィンってやつ?」

「……無駄口を叩いてないで、手を動かしなさい、チグサ」


 店の奥から、氷のように冷ややかな声が飛んできた。

 店長のマキナだ。


 彼女はカウンターの奥にある事務机で、旧式のタブレット端末を睨みつけている。整った顔立ちだが、その眉間には常に不機嫌そうな皺が寄っていた。黒いシャツの襟元からは、ネックレスの代わりに、銀色のロッカーの鍵がいくつもジャラジャラと下がっている。


「チョコバーの在庫が三本、また消えてるわ。……貴方のその底なしの胃袋から直接回収して、帳尻を合わせてもいいのかしら」

「ひえっ、やだなあ店長。ネズミだよネズミ。この辺、大きい二足歩行のネズミが多いからさあ」

「そう。じゃあ次はネズミ捕りを仕掛けないとね。対戦車用の地雷あたりを」



 物騒な会話をBGMに、トウコは震える手で弁当の蓋を開けた。

 冷え切った合成肉の匂いが漂う。

 今のトウコにとって、それはどんな高級料理よりも魅力的で、同時に恐ろしいものだった。


 箸を割り、冷えた肉と固くなったご飯を口に運ぶ。

 咀嚼する。飲み込む。


 ──味が、しない。


 いや、正確には「まだ」しない。

 トウコの脳内クロックは、常人の数十倍の速度で回転している。外界の物理時間の流れがあまりに遅すぎるため、知覚信号が意識に届くまでに絶望的なタイムラグが発生するのだ。


 彼女の脳は、フェラーリのエンジンを積んだリヤカーのようなものだ。入力と処理の速度が釣り合わず、常に世界から置いていかれている。


(1、2、3……)


 トウコは心の中でカウントする。

 チグサがポテトチップスを一枚食べる間に、トウコの中では永遠に近い沈黙が流れる。

 マキナが帳簿のページをめくる音が、スローモーションで響く。


(……8、9、10)


 十秒後。

 ようやく、脳の味覚野に信号が到達した。


 しょっぱくて、少し酸っぱくて、添加物の味がする、冷たい肉の味。

 けれど、それは確かに「カロリー」という名の熱だった。


「……おいしい、です」


 トウコがぽつりと呟いたとき、彼女の右手は、すでに次の肉を掴んで口元まで運んでいた。


 その奇妙なズレを、マキナだけがタブレットから目を離し、静かに見つめていた。

 憐れみではない。どこか、壊れかけた機械の動作不良を確認するような、しかし温かみのある視線だった。


「ゆっくり食べなさい。喉に詰まらせても、ここにはAEDも置いてないわよ」

「そーそー。コーヒー飲む? サーバーの底の残り汁だけど、煮詰まっててカフェインは最強だよ!」


 チグサがポットから注いで差し出した、プラスチックのコップ。

 中身は黒く濁っていて、油膜が浮いている。

 トウコはそれを受け取りながら、周囲の喧騒に耳を傾けた。


 この「第13区画・地下鉄闇市」は、いつも騒がしい。

 キオスクの隣では、左腕が削岩機になっている老人・ゲンさんが営む『合成焼きそば屋台』が、今日も焦げたソースと油の匂いを撒き散らしている。

 通路の向かいでは、ジャンクパーツを広げた露天商が、義眼のレンズを客と奪い合うように値切り交渉をしている。


 ここは汚くて、臭くて、でも確かに「生きている」場所だった。

 トウコは、その猥雑な空気が嫌いではなかった。自分のような「バグ」も、この混沌の中なら紛れていられる気がしたからだ。



 その平穏が破られたのは、トウコが温くなったコーヒーを飲み干した、直後のことだった。


 ギャアアアアッ!


 突然、通りの向こうから悲鳴が上がった。

 それは連鎖した。怒号、悲鳴、そして何かが踏み潰される音。

 さっきまで値切り交渉をしていた露天商たちが、商品を放り出して蜘蛛の子を散らすように逃げてくる。


「ひ、ひぃぃッ! コーポ(企業)だ! 『掃除屋』が来たぞォ!」

「逃げろ! 殺されるぞ!」


 波が引くように、闇市の人混みが割れた。

 逃げ遅れたジャンク屋の屋台が、無慈悲に蹴り飛ばされ、宙を舞ってガシャンと地面に叩きつけられる。

 その向こうから現れたのは、闇市の住人たちにとっての死神──完全武装した企業の私兵部隊だった。


 ズゥゥゥゥン……。


 軍用ブーツが、濡れたコンクリートを踏み砕く。

 キオスクの隣で『合成焼きそば』の屋台を引いていた老人、ゲンさんが、自分の鉄板を守ろうと立ちはだかった。


「お、おい! ここは俺たちのシマだぞ! 勝手な真似は……」


 ドォン!


 先頭を歩く兵士が、歩行速度すら緩めずにゲンさんを裏拳で殴り飛ばした。

 強化外骨格の一撃だ。老人の体はボロ雑巾のように吹き飛び、屋台の柱に激突して動かなくなる。


「ゲンさんッ!」


 トウコが叫ぼうとして、恐怖で喉が引きつった。

 これが現実だ。ここでは企業の論理だけが正義であり、スラムの住人の命など、道端の空き缶ほどの価値もない。


 兵士たちは、逃げ惑う人々には目もくれず、一直線に「ミルキー・キオスク」だけを目指して進軍してくる。


『警告する』


 スピーカーからの合成音声が、パニックに陥った地下街を圧殺するように響いた。


『その店舗内に、コード9の逃亡検体が潜伏している。直ちに引き渡せ。抵抗する場合は、周辺区画ごと焼却処分とする』


 周辺区画ごと。

 その言葉に、物陰で震えていた住人たちが息を呑む気配がした。

 トウコのせいで、ゲンさんも、あの露天商も、この狭い世界で生きるすべての人々が燃やされる。


「あ、あ……」


 トウコはガタガタと震えながら立ち上がろうとした。


「わた、私のせいで……みんなが……」


 ドン、と。

 マキナの手がカウンターを叩いた。


「座っていなさい」

「で、でも!」

「客に指図される覚えはないわ。それに……」


 マキナはゆっくりと立ち上がり、店のエプロンを外し始めた。

 その瞳は、倒れ伏したゲンさんと、破壊された屋台跡に向けられていた。


「今月の売上目標、まだ未達なのよ。それに──私の店の隣人に手を出した慰謝料は、高くつくわよ?」


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