プロローグ:絶版の危機
この国は、死に体の在庫だ。 棚の隅で埃を被り、誰にも手に取られないまま返本を待つ、打ち切り寸前の三流小説にすぎない。
そう結論づけるのに、俺には3秒も必要なかった。
視界に広がるのは、煤けた石造りの天井。鼻をつくのは、消毒液ではなく、錆びた鉄とカビの混じった臭気。そして、遠くから聞こえるのは、電子機器の駆動音ではなく、絶望的な悲鳴と爆発音だった。
俺の名前は久条湊。 かつて現代日本で、「どんな駄作でもベストセラーに変える」と謳われたマーケティング学者であり、数多の赤字プロジェクトを黒字化してきた書籍編集者だ。
……だった、と言うべきか。
最後の記憶は、締切前のオフィスだ。30時間連続のデスクワーク。カフェインの過剰摂取。胸を突き刺すような鋭い痛みと、視界のブラックアウト。典型的な過労死である。 享年35歳。働き盛りの、あまりにあっけない幕切れ。
だが、どうやら俺の魂という名のコンテンツは、まだ「絶版」にはなっていなかったらしい。
「目が覚めましたか、賢者クジョウ」
少女の声がした。 硬質だが、微かに震えている。
俺は重い上半身を起こし、声の主を見る。 そこにいたのは、豪奢だが生地の擦り切れたドレスを纏った、銀髪の少女だった。透き通るような白い肌は生気を失い、青い瞳には深いクマが刻まれている。 彼女の背後には、ひび割れた窓。その向こうには、黒煙を上げて燃える街並みが広がっていた。
「……現状報告を」
俺は無意識に、鼻梁にかかっていたはずの眼鏡を押し上げようとして、指が空を切った。自分の手が、記憶にあるよりも少し細く、白いことに気づく。転生、あるいは憑依。ラノベの定番だ。状況の受容には1秒で足りる。
少女――この国の女王と思われる――は、俺の奇妙な仕草を気にも留めず、掠れた声で言った。
「北の城壁が突破されました。魔王軍の先遣隊が、王都に侵入しています。我が軍の残存兵力は300。対する敵は1万。……もはや、打つ手はありません」
彼女は唇を噛み締め、俯く。 その姿は、売れない本の表紙のように、悲壮感だけで彩られていた。 美しいが、売れない。 なぜなら、そこには「希望」という名のフックがないからだ。
「賢者クジョウ。あなたは、伝説の知恵でこの国を救うと言いました。そのために、禁術を使って異界の魂を呼び寄せたと……でも、もう遅すぎた」
少女は短剣を取り出し、自らの喉元に突き立てようとした。 自決。物語の強制終了。 最悪のバッドエンドだ。
俺は反射的に動いていた。 ベッドから転がり落ちるようにして彼女に近づき、その細い手首を掴む。
「放して! これ以上、民が蹂躙されるのを見るくらいなら、私は……!」 「馬鹿野郎」
俺は低い声で言った。 それは、かつて部下の編集者に浴びせたのと全く同じトーンだった。
「まだ最終章の原稿も上がっていないのに、勝手に打ち切りを決めるな」
少女が驚愕に目を見開く。
「……え?」
「いいか、よく聞け。兵力差が30倍? 城壁崩壊? それがどうした」
俺は立ち上がり、窓の外の地獄絵図を見下ろした。 燃え盛る街。逃げ惑う人々。我が物顔で闊歩する異形の怪物たち。 普通なら絶望する光景だ。 だが、俺の目には違って見えていた。
そこにあるのは、「市場」だ。 供給過多の暴力と、需要過多の救済。 需給バランスが崩壊した、極めて歪なマーケット。
「まだ『読者』は残っている」
俺は少女の方を振り返り、ニヤリと笑った。それは、最高に困難なプロジェクトを前にした時にだけ浮かぶ、肉食獣の笑みだったはずだ。
「この国を、世界で一番売れる『物語』に書き換えてやる。俺に編集権を渡せ。そうすれば、この赤字国家を、魔王すら手出しできないドル箱に変えてみせる」
これが、俺と彼女――女王アイリスとの契約の始まりだった。




