薔薇の花の送り主2
男は里田稔と名乗った。現在の住まいは志木市のアパートで一人暮らしをしているらしい。
それは今からおよそ二年前の事────大学在学中からこのあたりに住んでいたらしい彼は、卒業後観光業のプランナーとして就職し働いていた。しかし運悪く、その後大流行した感染症の影響で不況の煽りを受けた会社は、大規模なリストラを決行する事になり、まだ入社年数が浅く実績の乏しかった里田さんは、首を切られてしまったらしい。当時は同じ様な事情で職を失った人が溢れている状況で、再就職先を探すのは容易ではなかった。まだほとんど貯蓄も無かった里田さんの生活は困窮し、遂には家賃を滞納し、食うに困る状況にまで陥ってしまった。
そんなある日の面接帰り、彼はキッチンひだまりの前を通りがかった。そして匂いにつられて、手持ちが無いにもかかわらず店に入ってしまった。電車代すら払えず、二駅先の面接会場まで歩いて往復していた里田さんはその日、あまりの空腹に耐えきれずに・・罪を犯した。
「お金を払わないで逃げました。その後家に帰って、堕ちるところまで堕ちたなと思って、情け無くて一人で泣いたのを覚えています。だけど・・あんなに罪悪感で一杯になった筈なのに、腹は減るんですよ。俺はその数日後、また空腹に耐えきれなくなって・・あの店に行ったんです。今度は最初から食い逃げしてやろうと思って。あの人が優しそうな若い女の人だったから、逃げたって躍起になって追いかけてなんてこないだろうって。これは俺が悪いんじゃなくて、真面目に働いてた人間が突然首を切られるようなこんな世の中が悪いんだって・・もう完全に犯罪者の思考であの店に行ったんです・・」
量販店の黒いパーカーを着て、顔を見られないようにキャップを目深に被り、彼は一番ボリュームのありそうなチキンカツレツ定食を注文した。しかし目の前に出てきた皿を見て・・彼は愕然とした。
「────唐揚げが、乗ってたんです」
出てきた皿には紛れもなく、大きなチキンカツレツの脇に二つ、その日の日替わりメニューで出されていた唐揚げが乗せられていた。隣で先にチキンカツレツを頼んでいた客の皿には、乗せられていなかったのに────・・
「覚えてたんですよね、あの人。俺が前に何をしたのかも、そしてこれから何をしようとしているのかも、全部分かってて、唐揚げを乗せてくれたんです。それを見たときに、目を覚まさせられたというか・・こんな事してちゃダメだって、なんとかこの生活から這い上がらないとって思って、俺はその日、泣きながらそれを食べました」
里田さんはその日逃げるのを止め、手持ちが無い事を告白し、いつか必ず払いに来ると正直に謝罪した。そんな彼に、奈緒子さんは優しい笑顔で、こう言ってくれたのだという。
『いつでも結構ですよ。困ったときはお互い様ですから』
それから男は心を入れ替え、日雇いの仕事でなんとか食い繋ぎながら、ハローワークに通いつめた。選り好みせず一心不乱に履歴書を送り、面接を受け続け、そしてやっと一つ内定を貰う事ができた。
「志木市にある工場に就職しました。有期雇用でボーナスも出ないですし、やり甲斐なんて何も無い流れ作業的な仕事でしたが、もうあの生活に戻ってはいけないという一心で真面目に取り組みました。その甲斐あって製造ラインのリーダーを任されて、雇用期間の満了した先日、無期雇用の正職に切り替えて貰えました。やっとあの人に顔向け出来る気がして・・あの時のお詫びとお礼を伝えて、払っていなかった分のお代をお支払いしたいなと思ってここにやって来ました。ただ、中々その・・勇気が出なくて・・」
「なるほど、そういう事だったんですね」
食い逃げ犯に逆におまけをつけてあげるなんて・・人の良い奈緒子さんならあり得る事だ。若い男性が食い逃げしなければならない様な状況をただ事では無いと心配したのかもしれない。その一食で人を救えるならば喜んで差し出す様な人だし、彼女にとってはきっと特別な事でもないのだろう。
だけど────里田さんはお詫びとお礼を伝えるだけ、と言っているが、はたして本当にそうだろうか。それだけで志木市から何度も足を運んでは二の足を踏んで引き返すほど、勇気が必要な事だろうか。それはきっと、彼が毎度用意しているこの薔薇の花が現しているように、俺の目には見えた。
だから俺は、この男にここで引導を渡さなければならない。奈緒子さんに会わせてやる訳にはいかない。
「貴方のお話は分かりました。ただ、お気持ちは嬉しいのですが、送り主不明の花を少し怖がっていたのは事実なので・・この件でこの店に来るのは、これで最後にして貰えませんか。
実は俺は、彼女の婚約者でして」
その時に里田さんの見せた表情は、俺が見ても切ないものだった。彼は少し戸惑ったように視線を泳がせた後、下を向いて小さく呟いた。
「そうですか・・」
「はい。彼女が気に病むような事はもう無しにしたいなと。ただ貴方が怪しい人物などではなく、こうしてわざわざお金を払いに来て下さった事は、この花と一緒に俺からきちんと伝えさせて頂くとお約束します」
「はい・・お願いします。・・これ、二食分のお代です」
「ありがとうございます。どうぞこれからもお仕事頑張ってください」
「・・・・あの」
「はい?」
しばらく俯いていた里田さんは、少しの間の後、その場に立ち上がった。そして直立して、俺に深々と頭を下げたのだった。
「あの人のこと・・どうぞ幸せにしてあげて下さい! 俺が言うのは変なんですけど・・どうかお願いします!」
この男は本当に、あの人の事を真剣に想っていたのだろう。だからこそ今まで会いに来れなかった。
分かるよ気持ちは。俺も自分は彼女に相応しくないと、二の足を踏んでいた人間だから。だけどそんな事────あんたに言われるまでもない。
「はい。約束します。彼女の為にありがとうございます、里田さん・・」
◆◇◆◇◆◇◆
九時を回って店のドアを開けると、俺だと分かっていたのだろう、奈緒子さんの優しい笑顔が俺を出迎えた。
「もー、いいって言ってるのにぃ」
俺はまだ外にあった看板を店の中へと仕舞いながら、彼女の苦言を聞き流す。
「でも女性の一人歩きは危ないですからね」
「家まで10分だよ? 過保護だなぁ御影君は」
「あ、そうだ。今店の外でこれを預かりました」
俺は里田稔の件を奈緒子さんに説明した。二年前、生活が困窮し食い逃げを働いた男の話をすると、彼女はやはり最初から代金の回収など期待していなかったのだろう、うっすらとしか覚えていなかった。
「あー・・。そういえば、そんな事もあったっけな。二年も経ってからわざわざ支払いに来るなんて、あの人も律儀だね」
「お金がない事を分かってるのに唐揚げをおまけしてあげたらしいですね。奈緒子さんのその対応に心を救われたと言ってましたよ」
「そんな事したっけなぁ私? でも良かったなぁ。あの人、仕事上手くいってるんだ・・」
彼女は店のドアに鍵をかけながら、まるで自分の事のように嬉しそうに、ふふっと笑った。彼女の脳裏には今、二年前に謝罪をした里田稔の姿が思い浮かんでいるのだろう・・
「奈緒子さん」
彼女の頬に手をあて、強引に自分の方へと顔を向けさせると、彼女はそのつぶらな瞳を驚きに見開かせて一心に俺を見つめた。じっと見つめ返すと、彼女はまた戸惑って、淡く頬を染めてみせる。
「な・・なに? でしょうか・・?」
「俺のこと好きですか?」
「へ・・!?」
俺がそう聞くと、彼女は顔を真っ赤にして、分かりやすく慌てふためいてみせた。
「どどどどうしたの突然!?」
「たまには口に出して言って貰わないと、不安になりますよね?」
「え? うそ御影君が?」
「俺、一度奈緒子さんにガッツリ振られてますし・・いつまたやっぱり嫌だと言われるか不安です・・」
「ち、ちがくて、それはその・・」
「ならちゃんと言って下さい?」
「・・・・す、すき・・・・」
「え? 聞こえない」
「好き!・・ってまた揶揄ってるね!? 御影君!」
ここへ来る途中のコンビニで────俺はあの薔薇をゴミに捨てた。
俺がこの人を揶揄ってしまうのは、俺のことを気にかけて欲しいから。一秒でも長く俺のことを考えて貰いたいから。
あの男の想いの詰まった花を彼女に渡すなんて、まっぴらごめんだ。俺以外の男のことなど一瞬でも気にして欲しくはない。まるで母親を求める子供の様にこの人を独占したいと思っている俺は、そんな幼稚で未熟な内面をひた隠している────・・
「もー! 明日は迎えに来ても一緒に帰ってやんない!」
「・・やっぱり俺のこと好きじゃないんですね・・」
「違うよ!?」
「じゃあどう思ってるかちゃんと言って貰っていいですか?」
「ぐ、ぐぬぅ・・」




