御影少年の青春2
ドアを開けると、それにつけられた呼び鐘がカランと音をたてる。少し古めかしい印象の磨りガラス。そしてレジ前には待つときのための腰掛けが二つと、ゴルゴ13、島耕作などのあるあるな漫画が並べられた本棚。いかにも街の洋食屋といったレトロな店内は、まだ五時すぎということもあってか人もまばらだったけど、理玖はテーブルではなくカウンター席の方に座った。ホカホカとした湯気をあげる大きなチキンカツを箸で捕らえ、理玖は嬉しそうにそれを頬張った。サクッという心地よい音がこちらにまで聞こえてくる。
「な? 美味くね?」
同じくサクッという音をたててチキンカツを口にした俺の反応に、理玖は期待の眼差しを送ってくる。確かに、美味い。衣はカリッとしてるけど、中はしっとり柔らかい。ボリュームもあるし。たまに異常に硬い鶏むね肉の唐揚げがあるけど、この違いは火入れの問題なのだろうか?
「うん、美味いね」
だけどめちゃくちゃ美味いって言うほど、パンチのある味ではない。なんていうか優しい味。健康を阻害しなさそうな。理玖は最近超ハマってるって言ってたけど、そこまでな味じゃない気がする。
「あー、今日も美味かったー。もうちょい食べたいー」
理玖が空になった皿を前に、そう漏らしたときだった。
「おかわりいる?」
顔を上げると、キッチンからニコニコとした笑顔を向けている、店主の女と目が合った。
「いいんすか!?」
「いいよ。食べ盛りだもんねぇ。その制服、南中学校でしょ? 私もあそこの卒業生なの」
彼女はニコニコと優しい笑顔で、理玖にそう言った。そして次に彼女の視線は、俺の方へと向けられる。
「君も食べる?」
「あ・・じゃあ、はい」
彼女はやっぱりニコニコとした笑顔で「お皿貸してー」と手を伸ばした。しばらくすると、先程より控えめな盛りのご飯と、半分に分けられたチキンカツが乗せられた皿が返された。
「いっぱい食べてね」
それが俺と奈緒子さんの、初めての会話。彼女には認識されていない、本当の初対面。
◆◇◆◇◆◇◆◇
「やー、おかわり貰えてラッキーだったなー」
キッチンひだまりを出て、理玖はこの後七時から、皆で集まってダンスの練習だというので、それまで近くの商業施設で暇を潰すことになった。俺も本屋に寄りたかったし。
「そうだね。腹いっぱい過ぎて動けないんじゃないの?」
俺がそういうと、理玖は腹をさすりながら「そーかもー」と笑った。
「あの人、卒業生って言ってたな。地元の人なんだ。優しくていい人だったなー。お姉さんていうよりは、なんていうか『オカン感』半端ないっつーの?」
────『オカン感』・・?
"おかわりいる?"
彼女の優しい笑顔が脳裏に蘇った。
あれが・・? そうか。世間一般の母親とは、ああいうのを言うのか────・・
『ぼろぼろ溢すんじゃありません。みっともない子ね』
「────晴人?」
「え?」
「何それ。また数学の本?」
隣を見ると、俺の手にした「ABC予想入門編」という本に理玖が不思議そうな視線を向けていることに気付く。
「あ、そう。『ABC予想』って、数学の世界では有名な難問なんだ。最近それを証明したっていう日本の人の論文が発表されたんだよ」
「あー、なんかニュースでやってたかも」
「でも難し過ぎて読んでも誰も理解できないらしい」
「なんだそれ」
理玖は屈託なく笑った。本当にいい奴だ。
これは小学生の頃の話。────俺が紙に書いていたものを見たクラスメイトがこう聞いてきた。
「何これ。QRコード?」
「いや。数字を螺旋状に並べて、素数を塗り潰していくと不思議な模様に見えるんだってさ。ラウムの螺旋っていうんだよ」
────その時にクラスメイトが見せた微妙な表情は今でも覚えている。それから俺は理玖の前以外では、数学の話をしないようになった。自分の好きなものが必ずしも他人にとって価値のあるものではないのだということを知った。そして皆が好きなものを好きでないと、おかしいのだという事も。
「数学のどういうところが魅力なの?」
「何かな・・強いて言うなら、どんな難問にも必ず、唯一の答えがあるところかな・・」
何が正解なのか判断のつかない曖昧な世界で、俺は曖昧に生きる。好きなものを隠し、好きでないものに興味を持ったフリをして。そんな曖昧な存在である俺にとって、絶対的な答えを持つ数学は美しいものだ。
「へぇー。いいなぁ。晴人みたいな頭があれば、俺にも理解できるんだろうなぁ・・」
優しくて何に対しても誠実で、一生懸命になれる理玖。俺にもひだまりの店主みたいな母親がいたら、もう少しまともに育ったのだろうか。
それは流石に責任転嫁し過ぎか。
俺が何に対しても冷めているのは、きっと生まれ持った性分のせい。
(続く)




