ミナと小さな約束
ユイがこの家に来てから、ミナは毎日のように彼女にまとわりついていた。
「ユイお姉ちゃん、今日の学校でね……」
ランドセルを放り投げては、話し相手を求めて駆け寄ってくる。ユイは無言のまま、靴をそろえてあげたり、机の上の消しゴムを拾ってあげたりするだけ。それでもミナにとって、それは特別な時間だった。
ときには一緒に絵を描いたり、おままごとのお母さん役をやってもらったりするが、ユイは終始、声ひとつ出さず、うなずきと身振りで受け答えするだけ。
「ユイお姉ちゃん、ぜったい忍者だよね。声出さないし、動きがすごいし!」
「じゃあ今日から、忍者ユイの弟子になる!」
ミナは勝手に「修行ノート」を作って、日々の“ユイ観察日記”を書き始めた。
ある日、ミナが少し元気がなかった。食卓でも話さず、プリンを食べていてもいつものような笑顔がない。
アヤが「あんた風邪?」と聞いても、ミナは「ちがう」と首を振るだけ。
その夜、ユイが廊下で洗濯物を取り込んでいると、ミナがぽつんと立っていた。
「ねえ、ユイお姉ちゃん……あのね、今日、友達に言っちゃったの」
ユイは洗濯かごを置いて、そっとミナに目線を合わせた。
「うちに、お話し聞いてくれる、すごいお姉ちゃんがいるって。でも……『なにそれ、ウソっぽい』って言われて……」
ミナの目には、悔しさと、ちょっとだけ泣きそうな光があった。
「ユイお姉ちゃんは、本当にすごいのに……」
ユイはしばらくミナを見つめ、それからしゃがんで、ミナの髪をなでた。
「……」
無言のまま。
だけどミナは、目をぱちぱちさせて、笑った。
「うん……わかった。だれにも言わない。ヒミツにしとく。……でも、私だけは、ちゃんと知ってるから」
その日から、ミナはユイのことを「お姉ちゃん」と呼ばなくなった。
代わりに、ときどき「隊長」と呼ぶようになった。
「隊長、今日のミッションはこれです!」
洗い物の皿を運びながら、そう報告してくるミナに、ユイは小さく頷く。
アヤがその様子を見て、「何ごっこ?」と聞いても、ミナは「ひみつ結社のやつ」としか言わなかった。
また別の日、ミナはユイに手作りの「極秘任務ファイル」を渡した。
中には「今日の目標:給食を残さず食べる」「お兄ちゃんの靴下を裏返しにしないで洗濯カゴに入れさせる」など、細かな任務が手書きで記されていた。
ユイはそのファイルを受け取り、真剣な顔でページをめくった。
ミナはそれだけで大喜びして、翌日も新しい任務を追加していた。
「ユイ隊長が見てくれてると思うと、なんでも頑張れるんだ~」
春の日差しが差し込む午後、ベランダで干される洗濯物の間を、二人の影が並んで揺れていた。
言葉はなくても、ちゃんと通じ合う約束。それが、ミナにとっての“ユイ隊長”だった。
その夜、ミナはアヤに言った。
「ねえママ、ユイ隊長って、ずーっとこの家にいてくれるかな?」
アヤは台所で手を止め、ちょっとだけ考えた。
「そうね……どうだろう。でもさ、いてくれるうちは、大事にしようね」
ミナはうんと頷いて、リビングへ走っていった。
そこには、今日の任務ファイルに真剣に目を通すユイの姿があった。
──静かな時間のなかに、小さな絆がそっと息づいていた。