キミの夢の続き
「市川の家に、これ持ってってくれないか」
放課後の職員室。プリントの束を渡されたカナメは、小さくうなずいた。
理由は聞かずとも知っていた。
彼は、もう学校には来ていない。
「なんで俺なんだよ……」
ぼやきながら、帰り道にユイを連れていくことにしたのは、偶然じゃない。
あいつが、もし少しでも話す気になったら──そんな虫のいい願いが、どこかにあった。
ピンポンの音が響く。
しばらくして、ドアが少しだけ開いた。
「……カナメ、何?」
中から覗いたのは、痩せた少年。顔色は悪く、目の奥に光がない。
それでも、かつてサッカー部のエースだったという面影が、残っていた。
「レン、久しぶり。プリント届けにきただけ」
「……あっそ。置いといて」
レンはドアを閉めかけたが、ユイの姿を見て、動きを止める。
「誰、そっちの……喋んないの?」
カナメがうなずくと、レンは小さく笑った。
「へえ……俺と似てんな」
気づけば、三人はリビングにいた。
ユイは部屋の隅に静かに座り、レンはソファにもたれかかっている。
「プロになるつもりだったんだよ、俺」
「全国、あと一勝ってとこで、事故にあって──で、これ」
足元には義足と、外された車椅子のブレーキが転がっている。
「努力は報われるとか、好きなことは諦めるなとか、いろいろ言うじゃん。
……ああいうの、嘘なんだよな。夢見てたやつがバカみたいだ」
カナメは何も言えず、ユイもただ黙っている。
「……なあ、喋んないやつって、便利だよな。余計なこと言わないし」
レンの口調は軽い。でも、声は乾いていた。
「俺、親にも『前を向け』って言われて、友達には『また夢見つかるよ』って笑われて──
……お前ら、何にもわかってねぇのにって思うわけ」
ユイは視線を動かす。レンの部屋の隅。そこに、埃をかぶったスパイクがある。
「……それ、もう捨てろって言われたけどさ。捨てらんねーんだよ、なんか」
カナメがちらりとユイを見る。
彼女は、静かに立ち上がる。
部屋の窓を開け、風を感じながら、何もない空間に向かって──
片足で、ボールを蹴るような仕草をした。
レンが、その動きを見て、ぽつりとつぶやく。
「……まだ、見てぇのかな。サッカー」
その声は、自分に向けた問いかけだった。
帰り道。カナメがため息をつく。
「……何が正解かわかんねーけどさ。お前、やっぱすげぇよ」
ユイは、何も返さない。ただ、夕陽の中を歩いていた。
彼の痛みに、まだ言葉は届かない。
だけど確かに──彼の中で、何かが少しだけ動いた。
※
その日、レンは自分から連絡をよこした。
「明日、ヒマか?ユイと、あんたも」
カナメは驚いたが、深くは聞かずに返信した。
翌日、三人は河川敷にいた。
春の風が吹いている。土手の上、誰もいない原っぱ。
レンは車椅子に座りながら、じっと遠くを見ていた。
かつて、サッカー部で練習していたグラウンドに似ている、そんな場所だった。
「ボール……持ってくればよかったな」
ぽつりと呟いたレンに、カナメが草の茂みに転がっていた空き缶を蹴ってみせる。
「パス」
空き缶はごとん、とレンの足元へ転がる。
「……くだらねぇな」
そう言いながらも、レンは義足の先で缶を軽く蹴り返す。
その軌道は、どこか、寂しげだった。
しばらくの沈黙。
レンが、ユイに目を向ける。
「……あんたさ、俺が何考えてるか、わかんの?」
ユイはただ、まっすぐレンを見つめていた。
「……くそっ……」
突然、レンが缶を思いきり地面に叩きつける。
「なんでだよ……!なんで俺なんだよ!!」
声が、風の中に響いた。
「頑張ってたんだよ……毎日、誰よりも走って……!夢だったんだよ!!
全国行って、プロになって……それが……ッ!!」
拳で地面を叩く。硬い土がこぼれ、手のひらが赤くなる。
「くそっ……くそっ……!!
俺がどんな気持ちで……スパイク脱いだと思ってんだよ……ッ!!」
ユイは、動かない。何も言わない。
「前を向けとか、まだ若いとか……そんなの言われたって……俺の足は、戻んねーんだよ!!」
涙が、一粒だけ落ちた。
「誰だっていい……誰でもよかった……
誰かに、聞いてほしかっただけなんだよ……!!」
ユイが、そっと近づく。
レンの隣にしゃがみ込むと、手を出すわけでもなく、ただ、そこにいた。
レンは、彼女の無言のそばで、少しずつ、呼吸を整えていった。
風が静かに吹いた。
遠くで子どもたちの笑い声が聞こえる。
レンは空を仰ぎ、しばらく黙っていた。
やがて、ぽつりとこぼす。
「……泣いて、楽になるわけじゃねぇけどさ」
「でも……ちょっとだけ、楽になったかもな」
ユイは、まばたき一つだけ、ゆっくりと。
それはまるで、「聞いてたよ」と言っているようだった。
帰り道、カナメがぽつりとつぶやく。
「……人ってさ、ちゃんと泣ける時が来るんだな」
ユイは何も言わず、夕陽の中で立ち止まる。
沈黙は言葉を超えて、確かに“何か”を伝えていた。




