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ユイとシロの最後の春



「吠えなくなったんです、この子……」


 公園のベンチに腰を下ろしたカナメの隣で、若い女性がぽつりとつぶやいた。


 白い毛並みの雑種犬──シロは、彼女の足元に静かに伏せていた。


 春の陽がまだ低く、芝生の上には朝露が残っていた。小さなつくしが顔を出し、遠くでは小学生の笑い声が風に乗って届いてくる。


「前は、朝になるとジャンプして私の布団に乗ってきて、散歩行こうってうるさくて……でも今は、こうして寝てる時間がほとんどで」


 ユイは、そっとしゃがんでシロの目線の高さに合わせる。


 シロの目は白く濁り、遠くを見つめるようにぼんやりとしていた。


 けれど、ユイの気配を感じたのか、ゆっくりと尻尾が一度だけ揺れた。


「耳も遠くなって、目もあんまり見えてないみたい。でも、不思議と……あなたみたいな人には反応するんですね」


 ユイはそっと手を伸ばし、毛並みの少し粗くなった背中をなでた。


 手のひらに、ほんのわずかに伝わるぬくもりと、微かな呼吸の振動。


 女性は少し、目元をぬぐった。


「シロには、私の家族がバラバラになった時、ずっとそばにいてもらって……学校でうまくいかない時も、言葉なくても寄り添ってくれて……ほんとに、大切な……大切な存在なんです」


 カナメは何も言えず、ただ頷いた。


  *


 それからの日々、ユイは毎朝、女性とシロがやって来る時間に合わせて公園へ足を運ぶようになった。


 ベンチの横に腰かけることもあれば、静かにそばに立っているだけのこともある。


 女性はユイに「お姉さん」と呼び、「シロがあなたを見つけると、少しだけ元気になるみたいなんです」と笑った。


 その笑顔は、どこか心細げで、けれどシロの背をなでる手はとてもやさしかった。


 シロは、最初こそ動かなかったが、日が経つごとに、ユイの姿を見ると耳をほんの少しだけ動かし、ときおり鼻を鳴らすようになった。


 その様子に、女性も少しだけ表情が柔らかくなっていった。


 時折、ユイと並んで座ったまま、女性が昔の思い出をぽつりぽつりと話す日もあった。


「この子がまだ子犬だった頃、ソファの隙間に入り込んで出てこなくなっちゃって。大騒ぎして探して……やっと見つけたら、お腹見せて寝てたんです」


 ユイは微笑むこともせず、ただ静かに聞きながら、耳を傾けていた。


  *


 ある日の帰り際、女性がぽつりとつぶやいた。


「……もう長くはないのは、わかってるんです」


 その言葉には、悲しみよりも、どこか決意のような静けさがあった。


「病院の先生は、点滴で延命もできるって。でも……この子を病院の檻の中で過ごさせたくなくて。やっぱり、好きだった場所で、最期を迎えさせたい」


 ユイは、その言葉をただ受け止めるように、無言で背筋を伸ばした。


「ここで、あなたがいて、風が吹いて、草の匂いがして……それがこの子の、いちばん好きだった時間だから」


 風が、桜の花びらを一枚、ユイの肩に落とした。


 女性はそれを見て、微かに笑った。


「春が来てよかったな、って。……きっと、そう思ってくれてますよね」


  *


 その週末、公園のベンチには、白い花と、一枚の写真が置かれていた。


 写真には、若い頃のシロと、笑顔の女性が写っていた。


 カナメがそれに気づいたのは、日曜の昼。


 ユイはいつもの場所で、ただ静かにベンチに座っていた。


 その隣には、空っぽのリード。


「……見送ったんだな」


 ユイは、首をかすかに傾けて、小さく息を吐いた。


 カナメが隣に座ったとき、ふと前を見ると、少し離れた木陰に、女性がうずくまっていた。


 肩を震わせ、顔を両手で覆いながら、静かに泣いていた。


 その周囲には、まだ咲き始めたばかりのタンポポが、ちらほらと揺れていた。


 ユイはそっと立ち上がり、リードをベンチに置いたまま、彼女のそばに歩み寄っていった。


 何も言わず、ただ静かに、隣に座る。


 女性は、ユイの気配に気づき、涙に濡れた顔を上げた。


「……ずっと、そばにいてくれたんですね」


 ユイは何も言わなかった。


 でも、女性はゆっくりと頷いて、「ありがとう」と、小さく言った。


 それは、言葉を持たないユイにとって、いちばん深く届く言葉だった。


 春の空気は、静かで、優しかった。


 そして、その沈黙の中に、たしかに誰かの“ありがとう”が生きていた。



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