死ぬまでにしたい1000のこと(後編)
病院の廊下に足音が響く。
カナメはエレベーターを降りると、ユイを連れてナースステーションの前を通り過ぎた。
「マナって子、ここに入院してるって。個室だってさ」
淡々とした口調とは裏腹に、その声には少しだけ緊張がにじんでいた。
病室の前で立ち止まり、ノックをしようとしたカナメの手が一瞬ためらう。だがユイの視線を感じて、そっとドアを叩いた。
中から、小さな「どうぞ」が聞こえた。
病院の個室。
窓の外に沈みかけた春の夕日が差し込み、白いカーテンがかすかに揺れていた。ベッドの上で、マナは膝を立てて座っていた。
「ねぇ……ちょっとだけ、聞いてくれる?」
そう言って、バッグの中から小さなノートを取り出す。
表紙には、鉛筆で「100のこと」と書かれている。けれど、ページをめくると、そこにはもう100をはるかに超える番号が並んでいた。
121、143、176……ところどころ文字がにじんでいるページもある。
「最初はね、よくある“死ぬまでにしたいことリスト”の真似だったの。ネットで調べたやつとか、ありきたりなやつばっかで……」
マナの声は、どこか遠くを見ているようだった。
「でも、途中から自分の言葉で書きたくなってきて……そしたら、止まらなくなっちゃって。100なんかじゃ、全然足りなくなった」
彼女はそっとノートを閉じ、ベッドのサイドテーブルに置いた。
ユイは何も言わない。ただ、そのノートに目を落とし、指先でそっとページを押し戻した。
その瞬間、マナの身体がびくっと小さく揺れた。
ユイと視線が合う。
何かが、堰を切ったように崩れた。
「足りないよ……全然足りないんだよ……!」
マナの声が震えた。
「100個なんて……そんな数字で私の人生終わらせたくない! やりたいこと、もっとある。行きたい場所も、見たい景色も、話したい人も……」
彼女は拳を握りしめた。
「これからだって、季節が変わって、将来のこととか、進路で悩んで、友達とくだらない話して笑ったり、怒ったり……全部、全部やりたいよ!!」
ノートを抱きしめるようにして、マナは泣いた。
「神様なんて信じてなかった。でもさ……お願いだから、もっと、もっと時間ちょうだいよ……こんなの、不公平すぎる……」
声がかすれ、喉が詰まる。涙が、ぽとぽととノートに落ちる。
カナメは何も言えなかった。ただ、その場に立ち尽くしていた。
ユイは隣に静かに腰を下ろす。彼女は何もせず、ただそばにいる。
それが、マナにとっては何よりの救いだった。
ノートの端が、涙で少しだけよれていた。
やがてマナは、肩で息をしながら顔を上げた。
「……ありがとう。聞いてくれて」
その声は、少しだけ前を向いていた。
「……全部は無理だってわかってる。でもね、今、一つだけ……絶対にしたいことがあるの。しなきゃいけないって思ってることが」
マナの瞳にはまだ涙の跡が残っていたが、その奥に確かな意志の光が宿っていた。
「……リコに、ちゃんと話したい」
マナはそっとノートに目を落としながら、ぽつりとつぶやいた。
「全部は話せないかもしれない。でも……一度だけでいいから、ちゃんと向き合って伝えたいんだ。今の私が思ってること、感じてること、できる限りちゃんと」
言葉を探すように、何度か唇が震える。
「ずっと一緒だったからこそ、何も言わずに甘えてた。強がって、笑って、ごまかして……でももう、それじゃ駄目だと思った。ちゃんと、話さなきゃって」
ユイはうなずくことも、手を伸ばすこともない。ただ、静かにマナのそばにいた。
その沈黙が、マナの背中を押していた。
その日の夕方、病室の扉が再びノックされた。
マナが「どうぞ」と声をかけると、ゆっくりと扉が開いた。
リコが、そこに立っていた。
制服のまま、手には小さな紙袋。
「……お見舞い。なんか気の利いたものじゃないけど、ゼリー入ってる」
マナは目を見開き、ベッドの上で一瞬動けずにいた。
リコは気まずそうに目をそらしながらも、足を踏み入れる。
「カナメくんに聞いた。あんた、バカみたいに“やりたいこと”考えてるらしいじゃん」
マナは、笑うでも泣くでもなく、ただぽつりとつぶやいた。
「……来てくれて、ありがと」
それだけで、もう胸がいっぱいだった。
リコはベッド脇の椅子に腰を下ろした。しばらく無言のまま、紙袋を握ったまま下を向いていた。
「……あんた、さ」
ようやく、ぽつりと口を開いた。
「ほんとに死ぬつもりなんて、ないんでしょ?」
マナは少しだけ目を見開いて、それから小さく首を横に振った。
「ううん……本当は、死ぬのが怖いの。めちゃくちゃ怖い」
「だよね。じゃなきゃ、あんなノート書けないもん」
リコは言いながら、サイドテーブルの上にあったノートに手を伸ばした。
ページをめくり、目に留まったひとつを指でなぞる。
「“学校帰りにソフトクリームを二人で食べる”。これ、私のこと?」
「……うん。最初に浮かんだの、あの時のことだった」
リコはふっと小さく息を吐いた。
「……じゃあさ。その“死ぬまでにやりたいこと”、私も一緒に書いていい?」
マナは一瞬、息を呑んだ。そしてゆっくりとうなずく。
「……書いて。ぜひ。お願い」
リコは手を伸ばし、ノートとボールペンを手に取った。
「じゃあ、私の“1個目”は……」
彼女は少しだけ考えて、ページのすみに書き込む。
『明日、もう一回、ここに来る』
マナは、思わず吹き出した。
「それ、やりたいことっていうか、ただの予定じゃん……」
「そういうのも大事でしょ。ちゃんと、“続き”を作るってこと」
マナは、声を出さずに笑った。そして、その横にもうひとつ書き加える。
『2個目:その帰りに、コンビニのアイスを一緒に買う』
ノートの白いページに、未来の約束が小さく並んでいった。
それから二人は、時間をかけて三つ目、四つ目と書き足していった。
“夏祭りに行く”、“制服でプリクラ”、“映画館で同じシーンで泣く”。
どれもささやかで、でも確かに“未来”のかたちをしていた。
やがて、リコがふと顔を上げた。
「……ねえ、ユイちゃん」
リコは部屋の隅に座っている少女に目を向けた。
「ほんと、不思議な子だね。何にも言わないのに、なんか……安心する」
マナも、小さくうなずいた。
「うん。いてくれるだけで……いいんだよね、たぶん」
ユイは何も言わない。ただ、微笑むようにまばたきをした。
病室を出たカナメは、ユイと並んで廊下を歩く。
夕陽がガラス越しに伸びた二人の影を長くしていた。
「……なあユイ、またお前、何もしてないようで全部やったな」
ユイは立ち止まり、振り返らずにそっと天井を見上げた。
「ま、これが“聞く力”ってやつか」
カナメの言葉に、ユイはやっと一度だけ、ゆっくりと瞬きをした。
病室の中。
机の上に開かれたノートの端に、新しく書かれた文字。
『5個目:春をもう一度迎える』
ページがふっと風に揺れ、淡い夕焼け色を映していた。
その下の行に、消えかけた鉛筆の線で、何かが書き加えられていた。
かつて「死ぬまでにしたい1000のこと」と書かれていた表紙のタイトル。
その上から、細い字でこう書き直されていた。
『これから一緒にやりたいこと1000のリスト』




