表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

10/35

死ぬまでにしたい1000のこと(後編)



 病院の廊下に足音が響く。


 カナメはエレベーターを降りると、ユイを連れてナースステーションの前を通り過ぎた。


「マナって子、ここに入院してるって。個室だってさ」


 淡々とした口調とは裏腹に、その声には少しだけ緊張がにじんでいた。


 病室の前で立ち止まり、ノックをしようとしたカナメの手が一瞬ためらう。だがユイの視線を感じて、そっとドアを叩いた。


 中から、小さな「どうぞ」が聞こえた。


 病院の個室。


 窓の外に沈みかけた春の夕日が差し込み、白いカーテンがかすかに揺れていた。ベッドの上で、マナは膝を立てて座っていた。


「ねぇ……ちょっとだけ、聞いてくれる?」


 そう言って、バッグの中から小さなノートを取り出す。


 表紙には、鉛筆で「100のこと」と書かれている。けれど、ページをめくると、そこにはもう100をはるかに超える番号が並んでいた。


 121、143、176……ところどころ文字がにじんでいるページもある。


「最初はね、よくある“死ぬまでにしたいことリスト”の真似だったの。ネットで調べたやつとか、ありきたりなやつばっかで……」


 マナの声は、どこか遠くを見ているようだった。


「でも、途中から自分の言葉で書きたくなってきて……そしたら、止まらなくなっちゃって。100なんかじゃ、全然足りなくなった」


 彼女はそっとノートを閉じ、ベッドのサイドテーブルに置いた。


 ユイは何も言わない。ただ、そのノートに目を落とし、指先でそっとページを押し戻した。


 その瞬間、マナの身体がびくっと小さく揺れた。


 ユイと視線が合う。


 何かが、堰を切ったように崩れた。


「足りないよ……全然足りないんだよ……!」


 マナの声が震えた。


「100個なんて……そんな数字で私の人生終わらせたくない! やりたいこと、もっとある。行きたい場所も、見たい景色も、話したい人も……」


 彼女は拳を握りしめた。


「これからだって、季節が変わって、将来のこととか、進路で悩んで、友達とくだらない話して笑ったり、怒ったり……全部、全部やりたいよ!!」


 ノートを抱きしめるようにして、マナは泣いた。


「神様なんて信じてなかった。でもさ……お願いだから、もっと、もっと時間ちょうだいよ……こんなの、不公平すぎる……」


 声がかすれ、喉が詰まる。涙が、ぽとぽととノートに落ちる。


 カナメは何も言えなかった。ただ、その場に立ち尽くしていた。


 ユイは隣に静かに腰を下ろす。彼女は何もせず、ただそばにいる。


 それが、マナにとっては何よりの救いだった。


 ノートの端が、涙で少しだけよれていた。


 やがてマナは、肩で息をしながら顔を上げた。


「……ありがとう。聞いてくれて」


 その声は、少しだけ前を向いていた。


「……全部は無理だってわかってる。でもね、今、一つだけ……絶対にしたいことがあるの。しなきゃいけないって思ってることが」


 マナの瞳にはまだ涙の跡が残っていたが、その奥に確かな意志の光が宿っていた。


「……リコに、ちゃんと話したい」


 マナはそっとノートに目を落としながら、ぽつりとつぶやいた。


「全部は話せないかもしれない。でも……一度だけでいいから、ちゃんと向き合って伝えたいんだ。今の私が思ってること、感じてること、できる限りちゃんと」


 言葉を探すように、何度か唇が震える。


「ずっと一緒だったからこそ、何も言わずに甘えてた。強がって、笑って、ごまかして……でももう、それじゃ駄目だと思った。ちゃんと、話さなきゃって」


 ユイはうなずくことも、手を伸ばすこともない。ただ、静かにマナのそばにいた。


 その沈黙が、マナの背中を押していた。


 その日の夕方、病室の扉が再びノックされた。


 マナが「どうぞ」と声をかけると、ゆっくりと扉が開いた。


 リコが、そこに立っていた。


 制服のまま、手には小さな紙袋。


「……お見舞い。なんか気の利いたものじゃないけど、ゼリー入ってる」


 マナは目を見開き、ベッドの上で一瞬動けずにいた。


 リコは気まずそうに目をそらしながらも、足を踏み入れる。


「カナメくんに聞いた。あんた、バカみたいに“やりたいこと”考えてるらしいじゃん」


 マナは、笑うでも泣くでもなく、ただぽつりとつぶやいた。


「……来てくれて、ありがと」


 それだけで、もう胸がいっぱいだった。


 リコはベッド脇の椅子に腰を下ろした。しばらく無言のまま、紙袋を握ったまま下を向いていた。


「……あんた、さ」


 ようやく、ぽつりと口を開いた。


「ほんとに死ぬつもりなんて、ないんでしょ?」


 マナは少しだけ目を見開いて、それから小さく首を横に振った。


「ううん……本当は、死ぬのが怖いの。めちゃくちゃ怖い」


「だよね。じゃなきゃ、あんなノート書けないもん」


 リコは言いながら、サイドテーブルの上にあったノートに手を伸ばした。


 ページをめくり、目に留まったひとつを指でなぞる。


「“学校帰りにソフトクリームを二人で食べる”。これ、私のこと?」


「……うん。最初に浮かんだの、あの時のことだった」


 リコはふっと小さく息を吐いた。


「……じゃあさ。その“死ぬまでにやりたいこと”、私も一緒に書いていい?」


 マナは一瞬、息を呑んだ。そしてゆっくりとうなずく。


「……書いて。ぜひ。お願い」


 リコは手を伸ばし、ノートとボールペンを手に取った。


「じゃあ、私の“1個目”は……」


 彼女は少しだけ考えて、ページのすみに書き込む。


『明日、もう一回、ここに来る』


 マナは、思わず吹き出した。


「それ、やりたいことっていうか、ただの予定じゃん……」


「そういうのも大事でしょ。ちゃんと、“続き”を作るってこと」


 マナは、声を出さずに笑った。そして、その横にもうひとつ書き加える。


『2個目:その帰りに、コンビニのアイスを一緒に買う』


 ノートの白いページに、未来の約束が小さく並んでいった。


 それから二人は、時間をかけて三つ目、四つ目と書き足していった。


 “夏祭りに行く”、“制服でプリクラ”、“映画館で同じシーンで泣く”。


 どれもささやかで、でも確かに“未来”のかたちをしていた。


 やがて、リコがふと顔を上げた。


「……ねえ、ユイちゃん」


 リコは部屋の隅に座っている少女に目を向けた。


「ほんと、不思議な子だね。何にも言わないのに、なんか……安心する」


 マナも、小さくうなずいた。


「うん。いてくれるだけで……いいんだよね、たぶん」


 ユイは何も言わない。ただ、微笑むようにまばたきをした。


 病室を出たカナメは、ユイと並んで廊下を歩く。


 夕陽がガラス越しに伸びた二人の影を長くしていた。


「……なあユイ、またお前、何もしてないようで全部やったな」


 ユイは立ち止まり、振り返らずにそっと天井を見上げた。


「ま、これが“聞く力”ってやつか」


 カナメの言葉に、ユイはやっと一度だけ、ゆっくりと瞬きをした。






 病室の中。


 机の上に開かれたノートの端に、新しく書かれた文字。


『5個目:春をもう一度迎える』


 ページがふっと風に揺れ、淡い夕焼け色を映していた。


 その下の行に、消えかけた鉛筆の線で、何かが書き加えられていた。


 かつて「死ぬまでにしたい1000のこと」と書かれていた表紙のタイトル。


 その上から、細い字でこう書き直されていた。


『これから一緒にやりたいこと1000のリスト』

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ