女神は恋心を微笑みに変えて
豊穣の女神セレースは、初めての恋に舞い上がっていた。
そのため、人々の嘆きに鈍感になっていたのかもしれない。
魔物が跋扈し世界中が混迷を極めた時代がようやく過ぎようとしていたが、土地は痩せ衰え、人々は、その日の食料や水を得ることすら厳しい暮らしを余儀なくされていたのだった。
それはここ、ロンド王国においても例外ではなかった。
「あの、人の子の名は、ロドルフって言うのね!」
名を知っただけでセレースの胸はときめいた。女神ゆえ、人のように実体がないはずなのに、身体がふわふわと浮き立つような感覚まであった。
「ロドルフをもっと近くで見たい。ロドルフと同じ景色を見たい……」
セレースは早速、地上へと舞い降り実行に移すことにした。猪突猛進型なのだ。
プラチナブロンドにゴールドの瞳、逞しい体躯のロドルフは、先の魔物討伐で大怪我をし隠居を余儀なくされた父より、辺境伯の爵位を譲渡されたばかりだった。
父に代わり、魔物との戦いで大活躍をしたロドルフは、王都への報告と褒章授与後、領地への帰路についていた。
「もう直ぐ、ロドルフはこの中継地を訪れるのね」
貧窮院にある、小さな聖堂の祭壇に祀られた女神セレース像が眩く輝いた。女神像からするりと降り立ったのは、艶めく小麦色の髪に少し日焼けをした健康的な肌、そして淡い新緑色の瞳の年頃の娘に変化したセレースだった。
「あら、ここには、水の女神、ユートゥルナ様の像もあるのね」
呟けば、ユートゥルナ像がウィンクをした。
「まあ、セレース様、村娘って感じの出で立ちね」
「ふふっ、いいでしょう? これからちょっとロドルフという名の人の子を、誘惑してみようと思っているの」
「まあ、大胆だこと。でも、うまくいって?」
「さあ、人の子の様に、愛も恋も知らないもの。だけど、前にちょっと会っているから、覚えていてくれるはずよ。ところでユートゥルナ様は、愛や恋を知っているのかしら?」
「まさか。けれど、精霊のウンディーネ達は、人の子を水中に誘っておもちゃにしたり、恋人ごっこをして人の子を破滅させたりすることがあるようよ。稀に、本当に恋をしてしまって、精霊の方が恋に溺れてしまうこともあると聞いたわ」
「まあ、私も、ノーム達に聞いてみようかしら。どんな風に、人の子と遊んでいるのか興味があるわ」
女神達はおっとりと笑い合う。
「あら、話し声が近付いて来たから、私はここで失礼するわ。セレース様、また是非お話をお聞かせくださいな」
ふっ、と、ユートゥルナ像の表情が消えた。
***
セレースがロドルフを知ったのは三年前。ロドルフがまだ王都の学園に通う学生だった頃に遡る。
魔術科と騎士科、一度に両方学ぶため、ロドルフは常に教室から教室へと忙しなく走り回っていた。
ロドルフは背も高く体力もあり、日々鍛錬を欠かさないため、よく引き締まった素晴らしい体格をしており見てくれは良かった。いかんせん、大柄で駆け回る様子が優雅さに欠け、兎角「怖い」だの「騒々しい」だの、「魔獣のようだ」だのと恐れられていた。学年が違っても噂が及び、女子生徒達の覚えは悪く、男子生徒からも田舎者と敬遠されてしまっていた。
そんなことになっているとは露ほども知らないロドルフは、両親より期待を持たれていた、王都での人脈作りと嫁捜しが全くうまくいかないことに焦りを見せていた。
王都は辺境より何倍も人口が多いのにもかかわらず、人との距離は遠かった。
そんなある日、女神セレースは女生徒に扮して学園の畑や土壌の様子を見にやってきていた。
ロドルフはといえば、園芸部に所属する数少ない友人に頼まれ、学園内の畑の手伝いをしていた。
近頃都市部での魔物の出現が増え、また畑を荒らされ、毒化した魔物が毒を撒き散らすため、土壌汚染の懸念があった。
「君は、土塗れになってよく働くのだなあ」
その時、セレースの背中に声をかけたのはロドルフだった。
セレースは夢中になって働いていたらしい。
地面に這い蹲るようにして、あちらこちらの土を手に取り、人に分からぬ様にそっと、痩せた土壌に活力を与え、毒に犯されていたら無毒化して、更に癒やしを与えていった。終わればせっせと畑を耕し、畝を綺麗に作るその手腕に、ロドルフがいたく感動したように声をあげたのだ。
「え?」
顔を上げたセレースは、土で汚れた自分の顔が紅潮するのがわかった。
ロドルフの笑顔と白い歯がまぶしかった。立派な体躯は、神々のように堂々と見え、その癖、人なつっこさも併せ持っていた。
「ええ、土に触れているのは、とっても楽しいもの……」
そういえば、この、人の子は、作業をする面々の中でも一際働き者だと、セレースは女神の大いなる目で全体を見ていてわかっていた。
学園の生徒ではあるものの、園芸部の所属ではないらしいが、大きな身体を屈めて雑草を山と抜き、大きな肥料の袋をいくつも担いで運んだり、豪快かつ素早く畑を耕していた。慣れているのだろう、収穫の手際も素晴らしかった。
「あなたこそ……」
そう言いかけた瞬間、ロドルフは遠くから「おおーい!」と呼ばれ、「ああ、今いく!」と後ろを向いていた。
だが、去り際に、笑顔と共にセレースに声をかけていった。
「無理をしないようにな!」
と。
無理をしないようにな!
キラキラッ(エフェクトつき笑顔)
無理をしないようにな!
キラキラッ(エフェクトつき笑顔)
無理をしないようにな!
キラキラッ(エフェクトつき笑顔)
無理をしないようにな!
キラキラッ(エフェクトつき笑顔)
……
セレースの頭の中で、その場面は何度も繰り返され、ときめきのゲージが駆け上がり、針は振り切れた。
(今胸が、きゅんってなったわ。なにこれ? あの、人の子の名は何と言うの? 人の子は私を褒め好意を向けていた。困ったわ、私に恋してしまったのかしら?)
ときめきのエフェクトに浸る豊穣の女神セレースは、自分の周囲の空気が燦然と輝いているのに気付かなかった。
セレースの振り切れたときめきが祝福となって溢れ出し、知らぬまに学園の畑に植えたばかりの種を芽吹かせ、全ての作物をにょきにょきもりもりと成長させたのだ。
それだけではない。
某ドーム百個分もある学園の敷地全体が、イルミネーションのように煌めき、木々や草花が某アニメ映像よろしく歌うように生き生きとリズムを刻み、季節を無視して花開かせ、暫くすると美しく散り、すぐさま果樹を実らせていった。更に、四季の移り変わりを数度繰り返したのだった。
その光景を見たもの達は、魔術科の者達が授業で大暴走でもしたのか、いやそれだけでは説明がつかない、天変地異の前触れかと、恐れおののいた。
園芸部員の一人は、刻々と変わり行く畑の様子や果樹の四季の移ろいに悲鳴を上げ、赤ん坊のように地面を這いまわった。またある者は、尻餅をついてただただ唖然と事の成り行きを見ていたり、泡を吹いて気絶した者までいた。
しかし、ロドルフだけは冷静だった。率先してメンバー達に声をかけて回り、倒れた者を医務室へと運ぶのだった。
「君、平気かい?」
戻ってきたロドルフに肩を叩かれたセレースは、周囲の様子を見た。自分の盛大なやらかしにやっと気付き、血の気が引くという感覚を初めて経験し蒼褪めた。
「え、ええ、ちょっと平気じゃないみたい」
苦笑いを浮かべたら、ロドルフも右の眉をくいっと下げて苦笑いした。
「そりゃあそうか。まあでも、君は立てているだけ皆よりはちょっぴりマシみたいだね。あっ、あっちでパニクってるやつがいるから、行くよ」
そう言うなり、また去り際に振り向いて、にかっと白い歯を見せて声をかけれくれた。
「寮生か自宅通いか知らないが、気をつけて帰るんだぞ!」
気をつけて帰るんだぞ!
キランキランッ(エフェクトつき笑顔)
気をつけて帰るんだぞ!
キランキランッ(エフェクトつき笑顔)
気をつけて帰るんだぞ!
キランキランッ(エフェクトつき笑顔)
気をつけて帰るんだぞ!
キランキランッ(エフェクトつき笑顔)
……
セレースの頭の中で、それは繰り返され、二本目のときめきのゲージがふっとび、針は彼方へ飛んでいった。
(今胸が、ぎゅぎゅんってなったわ。なにこれ? あの、人の子の名を、なぜ聞かなかったの? 人の子は私を心配して態々こちらに戻ってきたわ。うあああっ、どうしたらいいの? 私のことを、愛してしまったんじゃない?)
「まって、人はこんな時、呼吸を整えるのよね。……すぅ……」
興奮を抑えられずにいても、セレースは女神だ。実体を持つということがどれほど危険なのかを身をもって知り、冷静に分析する理性のようなものが働いていた。
これ以上祝福がダダ漏れになってはまずいだろう。そう考えたセレースは、周囲の混乱に乗じて自身の実体を消した。
その後ロドルフはと言えば、気さくでよく働き、異変にも冷静に立ち回ったことで、園芸部員達の評判が青天井に上昇していったのだった。
人脈作りもそうだ。純粋で真っ直ぐ、からっとしたロドルフの性格と、誰にでも優しく親切な態度に、 クラスメイトが少しずつ話しかけてくれるようになった。
学園に魔物が襲いかかってきた時には、ロドルフは皆や教師の前に立ち、勇ましく戦った。その時、危ういところを助けられた者達は、今までの非礼を詫び、ロドルフを慕うものが増えていったという。
***
貧窮院の小さな聖堂で、村娘に扮したセレースは、今か今かとロドルフがやって来るのを待っていた。
女神にとって「三年ぶり」は一瞬に過ぎないが、セレースにとっての三年は「土日の休み明けぶり」くらいに待ち遠しいものだった。
ギギイー
鈍い音を響かせ木造の粗末なドアが開いた。
ロドルフじゃないと知っていたセレースは、実体を消して観察することにした。
痩せて煤けた子ども達と共に入ってきたのは、翳りを帯びた瞳を持つ痩せた娘だった。
(この娘、この世界の者ではないわ……)
一瞬にして、娘が別の世界からイレギュラーにこの世界に放り出されたことをセレースは知った。
理由は分からないし、素性も知れない。だが、この世界の住人とは違う波長を持っていることだけは感じていた。
共に祀られている、セレース像ユートゥルナ像の前で、娘は子どもたちと共に跪いた。
娘は自ら摘んできたのだろう、イチゲに似た白い野の花を祭壇の前に供え、目を瞑り祈り始めた。
『萎れかけた花で申し訳ありません。けれど、乾いた大地に咲く姿が、私にはとても美しく見えました……』
その声がセレースの胸に入ってきた。
『はじめまして、セレース様、ユートゥルナ様。女神様方のお名前を、子ども達から教えてもらいました。私はマリアと申します。お分かりかもしれませんが、私はこの世界の者ではないようです。最初は理解が出来ず、あまりの恐ろしさと、肉親や友達にも会えない孤独に耐えられず、気がおかしくなりそうでした。ですが、貧窮院のマザーや皆さんや、ふふっ、このいたいけで、少々やんちゃな子ども達と過ごすうちに、少しずつ心が落ち着いてまいりました……』
実体のないセレースには、人の痛みは実感として分からない。
だが、一つだけ分かるものがあった。他の女神や精霊達との交流はあるものの、宇宙よりも果てしない世界で一人きりで立つ女神故、孤独だけは人の子よりも理解しているつもりだった。
セレースは、マリアという人の子を通して、初めて、同情という感情が芽生えていた。
『セレース様、ユートゥルナ様。王国に多くの犠牲をもたらした、大量の魔物の暴走は一先ず落ち着きましたが、その被害著しいこの土地は、痩せ衰え、満足に作物も育ちません。また、水が干上がり、人々は生きる希望も失いかけている状態です。どうか、どうか、この土地に癒やしを、恵みをお与えくださいませ』
マリアは、その筋張った両手に、短い爪が食い込むほど握り締めている。その祈りには命を削るほど鬼気迫るものがあった。
セレースは頷いて、マリアの肩にそっと触れると、マリアと子ども達を包み込むようにして願いに応え、周囲の土壌を浄化した。
ユートゥルナもマリア達に微笑みかけ、枯れた川や井戸へ、深い水脈から清らかな流れを導いて、水を湧き上がらせたのだった。
「あっ! みじゅのおと!」
最初に立ち上がったのは二歳の男の子だった。男の子はセレースとユートゥルナ、二柱の女神に気が付いているのだろう。
にこーっと、セレース達の方へ笑いかけてから、外へと駆け出していった。
「まって!」
慌ててマリアが立ち上がる。
「失礼しました。セレース様、ユートゥルナ様、心より感謝申し上げます」
マリアが祭壇に礼をしてから追いかけていくと、子ども達もぺこりとお辞儀をして次々に外へと駆けていく。
「あら、ロドルフがやって来たわよ。あ、マリアが躓いたわ。はぁ、よかった、ロドルフが腕を取って助けたわ……」
ユートゥルナがセレースへ視線を移す。セレースは一つ頷いて、朗らかに笑った。
「二人はとても相性がいいようよ。ほうら、波長が、響き合っているわ」
「そうね……。会わなくて、いいの?」
「ええ、これからこの星を、世界中の土壌の調査と癒しが必要になって忙しくなるもの。けれど、私は、マリアをこれからも見守るわ。彼女には、女神の力を授けましょう。そして、私の力の及ばない所はマリアに委ねましょう」
「そう。では私も、マリアに力を授けましょう。そして、見守っていきましょう」
聖堂の外から、ロドルフとマリアと、子どもたちの笑い声、そして、井戸から湧き出る清らかな水の音が響いてきた。
セレースの瞳は僅かに揺らいだが、ユートゥルナは気付かないふりをしてくれたようだ。
「ほら、子ども達の笑い声だわ」
セレースは初めての恋心と失恋を微笑みに変えた。
少しでも楽しんでいただけたら幸いです。
連載「箱庭のロンド‐マリサをはもふ犬とのしあわせスローライフを守るべく頑張ります‐」の関連小説ですので、気になった方、まだ未読の方がいましたら、どうぞよろしくお願いいたします。