大切だったのに!
何気ない街並みの白壁の民家に散髪屋のくるくると回る看板に、その先に苦しみの門が開いていることを私は知っている。
「間違った道を歩かないこと。『そこ』にたどり着かないように」
誰かの聞きなれた助言。きっと誰もが知っているこの街の合言葉。誰もが知っているのに、従うことはたいそう難しい。
例えば今のように、ふとした拍子に踏み入れた脇道が歪みを見せると、私は道を間違えたことを知る。苦しみを得る前に心を閉ざして、指が鳴るのを待ち受ける。次の瞬間、私は寝台の上で目を開く。普段通りの東窓から差し入る日の光が、何事も私は為さなかったことを伝えている。
この街は停止している。どこかへ行くことが可能である、その理論だけは理解している。具体的にどのようにすればどこに辿り着くのか、誰も知らない。何故なら、『そこ』への道はどこにでもあるのだから。一つ筋を間違えるだけで道は容易に苦しみへと繋がっている。
繰り返される苦しみに飽いて活動を止めた者もいる。私はまだ諦められずにこの街を彷徨っている一人だ。歩き続ければ何かが見える、そうした淡い希望だけを胸に抱えている。
『そこ』とは具体的に何なのか、そろそろ語らねばなるまい。『そこ』は聖堂である。
この街の中心は聖堂であった。聖堂に祀られていた神はは街の全てに微笑みをもたらした。街の人は週に一度、聖堂を円形に取り囲んで祈りを捧げた。聖堂に感謝するたび彼らは聖堂へと道を繋げた。やがて聖堂を中心とする道の群れは街全体に根を張ることになる。聖堂を通らずに生活することに無理があるほどに。
聖堂はまさに街の心臓であった。街の全てが、聖堂を自身の体の一部のように大切にしていた。だからこそ、聖堂がある日突然変貌した時、街は苦しみに包まれた。
聖堂に棲む腐敗した神は、私たちを見つけると優しく手を差し伸べる。救いではなく、私たちを握りつぶすために。神が醜く溶け落ちた腕で私たちを包み込むと、決まってどこからか指の鳴る音が聞こえる。
指を鳴らしているのはこの街を存続させようとする漠然とした意志のようなものだと私たちは考えている。この街の誰もが街の存続を願っている。聖堂より先に街が存在していたのであるから、聖堂の腐敗にかかわらず街は継続するのである。ただ、街の誰もが停滞しているというだけで。少しの間時間を飛ばして何もなかったことにする、それだけが限界なこの街の意思だ。
いい加減に聖堂への道を塞ぐべきだという人もいる。神が腐敗してからもう四ヵ月もの時が過ぎようとしている。私たちが聖堂への道を残しているのは、失われた神への未練ではないのか? そんな考えである。そう、塞ぐべきである。このまま腐った神がこの街に居続けるのであれば。これに議論するなら、それに対応するもう一つの思想について語る必要がある。
もう一つの思考は、新たな神をこの街に招くべきであるというものだ。彼らはこの街のあるべき場所、すなわち中心たる聖堂には新たなる神が必要であると主張する。新鮮な神性で古い神を洗い流し、街を再び正しい在り方に戻すのだ。彼らは緑色の布を屋上に登って振り回す。どこかで見ている神に届くように。我らの街にかつて存在したことから、神は確かに存在する。そして、それを得ることで我らは間違いなく救われるだろう。
私はどちらが正解かを決めかねている。決める代わりに私は街を歩く。街のどの場所に何があるか、街を構成する人物がそれぞれ何を思考するか、全てを目に収めるために道を進んでいる。
聖堂は今やこの街の人間に害をなすものでしかない。ただ、一つ確かなことがある。私たちは私たちの神を大切に思っていたということ。それゆえに聖堂へと数多の道を繋げたということだ。時には、こんな事もある。道を繋げたことを私たちは後悔していないが、苦しみは今、私たちとともにある。