ゼロの目
「あなたは何が怖いかしら?」
彼女は急にそう言いだした。彼女のことはよく知っているつもりだったが、その日はどうも様子が違う。私の知らないものを見ている顔だ。
「特に」と答えると「そう」と言う。
「私はね、ゼロの目が怖い」
ゼロかい、と聞くと彼女は少し目をつむる。ゆっくりとした呼吸だが、今日は少し意識的な呼吸のようだ。
「人はね、生きているうちで何回もサイコロを振るの。一秒ごと、出来事それぞれに、大きなものや小さなものまで沢山振るの。一が出る時もあれば六の時もある。その目をしっかり見て生きていかないといけない。時には投げたサイコロが全部一だったりする」
「最低値かい。六分の一がエヌ回続くことだから、無くすことはできない」
「そう、大失敗。でもね、いつか来るわ。仕方ない。私だって何回も経験してきたし、それに対して対処してきた。けど、ゼロはそれとは違う」
「サイコロにゼロなんてないじゃないか」
「あるわ。いつか、必ず。私たちは、何万回もサイコロを振るの。なんども、なんども。時にはバケツ一杯のサイコロに手を出さないといけないときもある。ゼロの目が出ないなんて、言い切れる?」
少し上を見つめて悲しい目をする。
「出したのかい」
「出たわ」
私は私の前に、彼女にほかの彼氏が居たことを知っている。現在は何とも思っていないと言っているが、彼女にはその時の記憶が残っている。私はその時のことを何も知らない。今の彼女のことに関係があるかも分からない。
「三回続けてゼロの目が出るとね」
「出ると?」
「サヨウナラ。サヨウナラよ」
彼女は震えている。こんな時の正解はそっと抱きしめることだと私は知っている。知っているはずなのに身体が動かない。心を振り絞って彼女に触れ、優しく手を回す。彼女の身体がこわばってゆく。どこかでサイコロが振られる音がする。