月の夢から覚めることなかれ
この作品では文月慈光様(Twitter:@Tsuki_fue32)宅ツキフエちゃん、小木メダマ様(@medamamaman)宅隠岐ヒトミ君、をむぎ様(Twitter:@MugiWomugi)宅イェン・ネイロウ君をお借りしています。
──あれ、今まで何をしてたんだっけ。
確実に何かしようと思ってわくわくしていた感覚を胸に、眠りから目覚めるように意識が覚醒した。何をしようとしていたんだか脳は忘れたのに、脳はそれをしようとしていた高揚感だけ覚えていて、私という自我はひどく悔しいような、寂しいような気持ちになっている感覚。
──ここ、どこだっけ。
自分の名前は、藍紅吹雪丸。これはわかるし、自分と暮らす天紋台の仲間達のことも覚えている。今まで自分がどんなことをして、どんなことをやらかしてきたのかわかるから、記憶喪失ではないはずなのに、この場所に見覚えはなかった。
一面に広がる宇宙。
これ自体は天紋台で見慣れているはずだけれど、天紋台から見る夜空に貼り付けられた星雲ではない、もっと星が大きく見える場所。夜空に物理的に近づいて星を見たら、こんな風になるんだろうなと言う光景だった。
そして暗い。光があまり多くない。星空の下だから当たり前なのだが、足元さえ覚束ないほどの光の薄さ。ここは夜のようだった。
右手に魔力を込めるイメージを思い浮かべると、そのイメージは固形化して手のひらに収まる。左手でポケットから取り出した小さな石──太陽から溢れる魔力を閉じ込めて結晶化させたもの、に力を込めて砕く。
そして、現れた自分の杖の先を地面に叩きつけて、一言呟いた。
「『アンファン・シュテルネンリヒト』」
光を灯す神秘の呪文を唱えると、杖の先の大きな水晶に優しい光が灯った。神秘は普段通り使うことができるらしい。
杖を振り回してあたりを見てみるが、依然として見えるのは夜空程度。
ふとまだ見ていないことに気づいて足元を照らすと、そこはでこぼこした灰色……に近い色の地面だった。──その色と凹凸に引っかかるイメージが頭で見つかって、思わず呟いていた。
「ここ、月の上?」
「そうですよ」
唐突に後ろから聞こえた声にびっくりして、思わずわっと小さな悲鳴をあげてしまった。
優しい響きの女性らしいその声には、聞き覚えがあった。後ろを向いて声の主の姿を確認すると、自分の記憶の声の主と変わり無いことがわかる。声の主は濃紺のしなやかな肩下までの髪に、それと似た色合いのカーディガンを羽織った女性だった。小さなランプを手に下げていて、中で火がゆらゆらと妖しく揺れている。
「ツキ姉」
「はい。吹雪丸ちゃん、ですよね? 遠くから見た時私が知っている髪の色じゃなかったので、一瞬誰かわかりませんでしたよ」
──髪。
うん、私は吹雪丸──とうつろに答えながら左側にまとめてある髪をちらりと見やると、そこには白い髪に赤と青のメッシュを混ぜた自分の髪がある。これは最近姿を変える神秘を用いて変えたものだから、ツキ姉──ツキフエに最後に会ったのは、それより前だっただろうか。……いや、それよりも。
「──私、ツキ姉といつ出会ったんだっけ」
「…………唐突ですね、忘れちゃいましたか? 私たちは──」
ばちっ。
「遘√◆縺。縺ッ莠梧ャ。鬮倥〒──」
ばちばち、ばち。
──今時、古いラジオですらこんな不快になるような音を発さないのに。
次の瞬間、頭に強烈な痛みが走って、体の形が保てなくなるような錯覚が、脳を、襲った。
彼女の口から──ツキフエの口から、聞き取れない音声、と言うか、深夜のテレビに映る砂嵐の混じった声、と言うか。明らかに人間が出せるとは思えない声が? 音が、出てきていて、いや、違う? もしかしたら、私にだけ、そう聞こえているのかも、しれな────
「吹雪丸ちゃん?」
優しい声色。
いつものツキフエの声が鼓膜を揺らすと、世界からどんどん隔絶されていくような意識の遠のきが治って、これまた眠りから覚めるように現実へと戻った。
「あれ、私、今──」
自分の頭がツキフエの肩に衝突していることにようやく気づいて、慌ててツキフエから離れる。
「気絶、だったのかな。私が話そうとしたら、なんかこう……くらっと来ちゃったように見えました。……気分悪いとか、ありませんか?」
「今は全然、そんなことない──のに」
なんでだろう、とこぼすと、ツキフエは吹雪丸に一度背を向けた。
「疲れていたりするのかもしれませんね。一旦休みませんか? あっちに、セーフハウスみたいなものがあるんです。他の方もそこにいるので、そこで休んで行ったらどうでしょうか」
ツキフエが指差す先は夜の闇に包まれていて、何があるのかはわからない。
それでも、あとどうすればいいかなんて言う記憶が抜け落ちている自分は、頼る以外の選択肢がないと言う確信があった。
「それじゃあ、お言葉に甘えて」
ざく、ざく、ざく。
此処は月らしいが、歩く感覚──すなわち、重力はあまり変わらないらしい。
月の重力は六分の一、なんて言うのは、物理基礎の問題で『月での重力は何N?』と言う設問があったとすれば、ほとんどの学生はとりあえずもともと示されている重力に六分の一をかけるとほど有名な話だが、此処ではそれが反映されていないのかもしれない。
「今、重力が変わりないなって思いましたか?」
前を歩いていく光源からそんな声が聞こえて、思わず「この人は心を読めでもするのか」と口に出しそうになった。
「此処、なんだか不思議なんですよ。……あぁ、言い損ねていたんですけど、此処が月、って言うのは七十点の回答なんです。此処、詳しく言うと──」
「月の裏」
ツキフエの声を押し除けて、反射的にそう声に出した。
「此処は夜だけど、普通の場所の夜よりは結構寒いよね。私のコスモステイルは気温が低めだから、普段は体をあったかくする神秘を使っていて──ここは寒くないかと思ってそれを解いたら、一気に肌寒さが目立つようになった。月のことはあんまりわからないけど、暗いのも寒いのも、太陽の光がこっちに来ないせいかと思ったんだ」
ここまで歩いてきた少しの静寂の中で考えてみていたことをぶちまけてみると、なんとなくスッキリした。
「──おめでとうございます、百点満点ですよ」
「やった。やっぱり、課題は自主的にやったものも百点が嬉しいよね」
「そう、ですね。やっぱり、そうだと思います」
ツキフエと私は歩むペースを緩めないまま、ほんの少しの雑談に花を咲かせていく。
「でも、なんで私がここにいるのかはわかんない。此処はツキ姉のホームグラウンドだよね? どうして私が此処にいるのか、知ってる?」
「……なんとなく、想像はつくんですけど──さっきの話を聞いて頭が痛くなったんだったら、この話でも同じ症状が現れると思います。もう少し、吹雪丸ちゃんの体調が回復したら、お話しします」
そっか、と一瞬話を終わらせようとしてしまったが、いつ終わるかもわからない道ならば話してしまうかと思って、「じゃあ、私の予想、言ってもいい?」と言葉を紡ぐ。ツキフエが「えぇ、お聞きします」と言ったのを耳がとらえると、吹雪丸はすうっと息を吸って、漢字にして一文字、シンプルに声に出した。
「夢」
「へぇ」
「正確には明晰夢かな。なんか、そう言う夢心地なんだ、今」
「……多分当たり、じゃないですか?」
歯切れが悪い返事に、こてんと首を傾げる。……寒さがだんだんまた気になるようになってきて、杖を持つ手をマントに極限まで引っ込めた。
「私の想像する理由からすると、不正解なんですけど。それでも、きっとあなたがこれを夢だと思うのなら、これは夢なんだと思います」
「……つまり、どう言うこと?」
「どう言うことでしょうね」
ふふふ、と静かに笑いを浮かべたツキフエにさらに言葉をかけようとすると、前を行く光源が移動を止めた。
「着きましたよ」
ツキフエがそう言うのを聞いて、光を放つ杖の先を前へ傾けた。するとそこに、大きな建物が見えた。
「──学校?」
多分、規模は小さいのだろうが、おそらくこれは校舎だ。
月の上の都市、と聞くと近未来的な印象を受けるが、その近未来的な印象をそのまま学校の形にしたような建物。
それでも、私が通っていた学校達よりも小さな校舎ではあるらしい。校舎には一切電気はついておらず、私の杖の光と、ツキフエのランプだけが辺りを照らしているが、それだけで左の端から右の端まで見えるほどの狭さのようだ。
「はい、学校です。……でも、ここには先生も、生徒もいないんです。電気もつかないし、教科書の類も一切置いてません。中にいるのは、私を含めた救難者だけです。なので、私たちは学校とは呼んでいません」
ツキフエは学校の校門と思われる、鉄格子の隙間に体を滑り込ませながらこう言った。
「集会所、と気楽に呼んでいます」
「……集会所」
「吹雪丸ちゃんもきっと救難者だから、こっちへ。今は私の他にもう一人この中にいるので、後でご紹介します。ひとまず休むのが優先だと思いますが」
手招きするツキフエの方に行き、門の隙間に足を滑り込ませて、グラウンド──月のクレーターが無い、砂だけの地面に足をつける。
一瞬すれ違ったツキフエの顔に、杖からの光が静かに当たった。
──ツキフエの透き通ったような水色の左目から、何かが溢れ出していたのを、ようやく知った。
●
「今度から学校行こうかと思って!」
「…………はぁ」
藍紅吹雪丸にそう明かされた彼女の従者、読書中だった氷坂ヒョウは、またいつもの『思い立ったがやらなきゃ気が済まない』系の行動、通称吹雪丸の持病かと納得して気の抜けた返事を返した。読みかけの小説の一ページをめくる。
「いきなりですね」
「人生早いからね、やりたいことやった方がいいからね!!」
あなた不死でしょ、と言いたくなったがドラゴンである自分も不死に近いのでその言葉はぐっと飲み込んだ。
すると吹雪丸が机の上のノートパソコンを持ち上げ、ヒョウの方に見せた。画面を向けられたことに気づいたヒョウが小説からパソコンの画面に視線を移す。
「ここ〜!」
ノートパソコンに表示された画面には『螟ェ蟷ウ蜈ォ蜊∝?蟷エ蠎ヲ 莉ョ諠ウ逵檎ォ倶コ梧ャ。蜈鬮倡ュ牙ュヲ譬。譁ー蜈・逕溷供髮』と、一番上に大きく、書かれていて──?
その下ニは詳シい要項だとカが示されテイる。
『あれ、何か──』
「縺九◎縺?¢繧薙j縺、……珍しい名前の学校ですね。そもそも入学とか、急にどうしたんですか? 自分の学力に自信ないことに気づいたとかですか?」
『ヒョウくん、何を言って──』
ノートパソコンが、吹雪丸の机ノ上ノ、定位置ニ戻され、タノを見テ──? ヒョウモ読ンデイタ小説ニ目線ヲ戻シ────ピーーーーーーーーーーー。
どかんっ!
○
ばさっ!
激しい心拍と目眩が一向に治らない。
耳鳴りが『ピーーーー』と言う強烈で、イヤで嫌で仕方がなくなるような不快な音をずっと脳髄の中に溶かし込もうとしている。ぞっと鳥肌が立って、自分の頭の中がぐちゃぐちゃにかき混ぜられていくような、不快、気持ち悪い、寒気がする、嫌な気分──そんな拙い言葉でしか表現できない気味の悪さが全身をどろりと包み込んでい
「藍紅くん?」
──声を境に、静寂が。
声がした方を見ると、そこにはライトグリーンの短い髪の上に丸眼鏡を載せた青年が本を読んでいるところだった。
さすがに目線はこっちを向いているが、いかにも『小説を読んでいたら目の前で寝ていた人間が突然起き上がったのに吃驚した』と言った様相である。
「ヒトミくん」
「……そうだけど。何か嫌な幻でも見てしまったのかい?」
「…………多分、そう」
「多分とは、これはまた」
ヒトミ──隠岐ヒトミが手に持っていた小説を自分の隣に置かれていた丸椅子の上に置いて、それと入れ替えるようにして丸椅子の上に置かれていたランプを手に持ち立ち上がった。
「水、飲むかい? 食べ物を食べられるのなら、乾パンくらいしか無いけど食べた方がいい」
「……水だけ、もらえる?」
「わかった」
ヒトミが何処かへ行ったのを見てから、私は寝かされていた白いベッドの上で窓の外を眺めていた。
窓の外はまだ暗い夜。そりゃあそうだ、ここは日の光の届かぬ月の裏だから。電気もつかないこの場所では、宇宙の空間自体と少しの恒星から溢れてくるわずかな光と、ヒトミの持つランプの光くらいでしか物を測れない。
……本当に、私はどうしてここにいるんだったか。
「はい。ここらへんは寒いから冷たい水だよ、注意して」
透明なコップに水を入れてきてくれたヒトミが丸椅子に座り直す。私はコップを受け取り、中の水をぐいと喉に流した。
「保健室の寝心地はよかったかい? ……と言っても、夢見心地が悪かったのなら寝心地も悪かったのかもしれないが」
そう言えばここ、保健室だった。そう思い当たって、ツキフエと学校──否、集会所に入った後、彼女に連れられて保健室で寝かされたことを思い出した。
「えっと……どうなんだろ。夢の心地を眠りの評価につなげるのなら、もう最悪中の最悪かな」
「そんなにひどい夢だったか。起きた心地はいかがだい?」
「水がうまい」
「そりゃあ大変よろしい」
コップの中の水を飲み干してヒトミの方に渡すと、ヒトミは小説の隣にコップを置いた。
そういえば、と思いさっきと同じように右手に魔力を込めるイメージを流す。左手でポケットから取り出した小さな石を砕き、右手に固形化した杖をなんとか体を伸ばしてベッドの横の床に叩きつけた。
「『アンファン・シュテルネンリヒト』」
ぽわり、とまた同じように杖の先に明かりがつく。
「……見事なもんだね、君の魔法も。正確には精霊術、だったかな? まァそう言ったものと元々は縁が薄い僕にはイマイチ違いを理解するに及ばないから、勘弁して欲しいんだけど」
「ふふふ、すごいでしょ。でもこれは本来昼に使うもんだから、本調子じゃ無いんだよね。夜にこれを使うのに必要な石がもう二つしか残ってなかったから、後二回が限度なところ以外は最高」
杖でもう一度床を叩くと、水晶の形はそのまま、それを支える木の部分がランプのような形に変わる。
「便利なもんだね。……ツキフエくんから『体調が悪そう』と聞いていたからどんなもんかと思ったが、基本は普段通りに見える」
「うーん……体調が悪いのかもあんまりわかんないな。ツキ姉が『私がここにいる理由』を話そうとしたら頭痛と耳鳴りが催されるって言う謎の症状だし」
「へぇ…………そうだな、物語的に言えば、君はまだその理由を知るに至らない何かがあるんじゃないか? 何かを達成しないと情報が開示されない、なんて言うのは珍しい話じゃ無いと感じるね」
ベッドの上からも見える窓の外からは風も入ってこない。それでもカーテンが取り付けられていて、保健室っぽさを感じる。
「……それなら、『集会所を見つける』ミッションは攻略したなぁ。……ヒトミくん、私がここにいる理由、知ってる? 知ってたら話そうとしてみて」
そう言われたヒトミは一瞬躊躇ったように見えたが、次の瞬間にはため息を一つついて口を開いた。
「■■高」
「……うん」
「■■高……いや、■■県立■■■高等学校。君はそこから此処に来たんだと思う」
あ、ツキ姉と出会ったの、そう言えばそこだ。ヒトミくんと出会ったのも、そこ。
ようやくそう思い出して、すとんと気になっていたことが収まるところに収まった音がした──ような気がする。と言うか、話を聞いても耳鳴りも気絶もない。
「……体調は万全?」
「今のところは何にも。本当にミッション形式だったのかも! ……続きをお願いしてもいい?」
「分かった。そこで、君は──」
ばちっ。
「蜚千ェ√↓辟。縺上↑縺」縺溷ュヲ譬。繧貞燕縺ォ縺励※」
ばちばちばちっ。
砂嵐のようなノイズがヒトミの口から紡がれ、私の脳髄に貼り付けられるような、不快で、仕方がない、ような。
「……い」
「い?」
ヒトミが首を傾げたのが視界に映る。
「いたたたたたた!?!? ストップ、ストップ!!」
「だ、大丈夫か!? すまない、水をもう一杯持って来る!!」
ベッドにもう一度倒れ伏した私を前にして、ヒトミは相当慌てたのか一瞬ランプを持たずに立ち上がり、それに気づいて一旦丸椅子の方へ戻ってきた。
一分経たないうちにコップを二杯持ったヒトミが片方を差し出し、それを手に取って中身を飲み干すと、だいぶ耳鳴りと頭痛が和らいだ。
「っはぁーーー……」
「僕まで心臓が縮んだね……」
呼吸を整えて、一度咳払いをしてから「その先を知るにはまだミッションクリアが必要みたいだね」と口に出した。
「そうらしいね。……代わりと言っちゃあなんだけど、少し面白い──面白いかは君次第だな。でも、僕が知ってる話を話そう」
ヒトミはもう一つのコップの水を一口飲んでから、こう言った。
「『胡蝶の夢』って知ってるかい?」
「……知識として、なんとなくは。一応、聞き直してもいい?」
「これは中国の思想家の話──君の世界に中国はないんだっけか? まぁ君の知識にその国があればそれでいいか。『むかし、その思想家の荘子は夢に胡蝶となり、自由に楽しく飛び回っていたが、目覚めると紛れもなく荘子である。しかし、荘子が夢で胡蝶となったのだろうか、胡蝶が夢で荘子となったのだろうか……』」って言う話だね。端的に言えば『現実と夢の区別がつかない状況』と言えるだろう」
──胡蝶の夢。
こう聞かされると、本当に今の自分の状況をこれ以上ないほどの例えた言葉だ、と感じた。
「君はツキフエ君に『ここは夢じゃないか』と言ったんだろう? 夢の中で夢から醒めた今、どんなふうに感じる?」
「……やっぱり、夢心地。ここは夢で、本当の自分は今、コスモステイルで楽しく遊んでると思う」
そう告げると、ヒトミは小説とランプを持って立ち上がった。
「それは面白い回答だね。それでいい。物語は何かしらのエンドを迎えることができれば、完成品になる。それがバッドエンドでも、ハッピーエンドでも、トゥルーエンドでも、全てが等しくエンドだからね」
一呼吸置いて、ヒトミが「体調が安定したなら、この場所をなんとなく案内しておきたい。大丈夫そうならついておいで」と手招きした。
それを見て、私は置かれていた膝より上まである長い編み上げブーツをたっぷり一分かけて履き、木で出来た保健室の床を靴底でリズミカルに叩いた。
保健室は木造校舎の中の一室を連想させるような場所だったのに、保健室の外に出るとそこは外から見たときの近未来的な空間そのものだった。新しい小麦色のような境目のない床が廊下に続いている。
「なぜかはよく知らないけど、保健室は二つあるんだ。君が使ってたのは右側の方。左側の方には、ほら」
ヒトミが隣の部屋の窓を覗き込むように指を差す。
中を見ると、そこではツキフエが眠っていた。
「保健室の中の作りは全く一緒。ベッドの位置、薬品の数、包帯の長さまで同じにしてある変態性能だ。それでも、ここの現代的な雰囲気とは似ても似つかない。何処かから適当に保健室と言う物をコピーして二つ貼り付けたようにも思えないか?」
「……それならすっごく、面白いね」
「同感だ」
三メートルほどだけ歩いた二つの保健室の隣には、教室があった。保健室と同じように右手に引き戸がある。……ここで、ようやく保健室の扉が木造だったのも特別であったことを悟る。ここの扉は校舎の雰囲気にマッチした、宇宙船にあるような扉だった。
「見て分かる通りここ、教室。見ていくかい?」
「そうする」
扉を開けると、中には四かける四の形で一六脚の机が置かれた普通の教室だった。
……それ以外、あまり何もない。
机の中に何かが入っているわけではなく、教卓の上に放置された教材が置いてあるわけでもない。それでも、なぜかあたりをうろうろと回っていた。
なんとなく、左から数えて三列目の一番前の席に座った。なんとなく、ここが定位置のような気がして。ここにいれば、もし先生の授業が始まった時に一番にいろんなことをお話しできるから、って言っていて──
「………………っ」
「藍紅君、大丈夫かい?」
そこまでひどくないけれど、またしても頭痛。
耳鳴りはしないし、だいぶ軽度な方だとは思ったが、やはりつらいものはつらい。大人しく椅子から立ち上がって、教卓の上に両手を置いた。
「……なんだか、見る物全部がずっと見てたもののような気がする。懐かしさ、よりは最近の感覚な気がするんだけど」
「そりゃあそうだろうね。ここは■■校の校舎そっくりだから」
「…………そうなの?」
こくり、とヒトミが静かにうなづく。
「逆に、それがわかってなかったのかい? 君、相当な記憶障害が出てるね。やっぱりもう少し寝ていたほうがいいんじゃないか?」
「あー……そうしよう、かな」
目眩が出てきて、ギブアップの証拠に両手を小さくあげる。それを見たヒトミが教室を出たのに習って、私も教室を後にした。
「そう言えば、今はツキ姉とヒトミ君しかいないの?」
保健室に戻ってベッドに潜り込んだ後、気になっていたが言っていなかった疑問を唐突に思い出して口にする。
さっきまで入っていたベッドはすっかり自分の暖がなくなって冷たくなっていたが、もう一度潜り込めば割とすぐに温まって来るものだ。
「そうだね。でも、まだ誰か来るんじゃないかな。一番最初にここにいたのがツキフエ君で、僕は彼女に迎えにきてもらったんだけど」
「私もそう。此処は月だし、ツキ姉がやっぱり色々知ってるのかな」
「それは間違い無いけれど、僕も此処にきた経緯とかはしっかり認識してるよ。僕からしてみれば、当事者たる君が何も覚えていないのは気味が悪い。でも、君がここに来ている理由は、察しはつけど正しいかはわからない。記憶を取り戻したいなら手伝いはするけれど、僕の考えと真実が違った時は申し訳ないね」
ヒトミがそう言いながら気怠げに小説を開く。
「……私、何かやらかしたの?」
「やらかしたと言えばやらかしたんじゃないかな。でも正直、僕は面白いと思ったね。二次災害が出る点は評価できないが」
面白い……? と首を傾げると、ヒトミが「僕の考察、いいかい?」と言葉を紡いだ。どうぞ、と言うとヒトミは文庫本をぱたんと閉じる。
「君の頭痛だとか、耳鳴りだとか。きっと全て、拒否反応だよ」
「きょひ、はんのう……」
「結局のところ、君は思い出したくないんじゃ無いだろうか。バッドエンドになり損ねた結末を、苦しみを目の前で消されてしまったあの無邪気な悔しさを。君もしょうがないとは言っていたけれど、悔しくて悔しくて仕方がない、みたいな表情をしていたように見えていたしね。君は理性で思い出したいと言っているけれど、本能はそれを許さないと言うだけなんじゃ無いか?」
思い出したいのに、思い出したく無い──。
その表現がなんとなく心に収まって、なるほどなぁと間抜けな声を出してしまう。
「と言うかそもそも君、■■高がどんな場所で、君は■■高にどのように関わっていたかを覚えているのかい?」
そりゃあさすがに、と言いかけて口を閉じる。
私は、■■高で、■■高で、■■高で────
「……覚えてない」
「やっぱり、思い出したく無いんじゃないのか?」
ヒトミが本を開き直して、丸椅子の上で足を組んだ。
「分かったらとっとと寝たほうがいい。寝ることは、脳内を整理することと同義だ。整理していくうちにちゃんと事実として受け止められる体制が整って、そのうち僕の口からでもツキフエ君の口からでも、なんでも無いことと同じように聴けるようになるサ」
シャーッ。
ベッドの周りのカーテンが閉められる。さっさと寝ろ、と言う強い思いを感じて、大人しく眠ることにした。
今は何時なんだかわからないけれど、眠ることはできるだろうか。
目蓋を閉じて、今の一時間か二時間の間のことに思いを馳せる。次私が記憶を取り戻すために必要なミッションは、クリアできたのだろうか。
●
「おはよー!」
朝八時十分。
淡藤色の髪に林檎の色のメッシュが入ったツインテールを揺らしながら、赤いマフラーをつけた丸眼鏡の少女──藍紅吹雪丸が元気に教室に入って来る。
自分の席についた彼女は荷物のリュックを机の上に置き、持参した教科書を机の中に入れ始める。
途中、机の中から携帯を取り出し、誰かから連絡が来ていたりはするかと通知を確認する。しかしソシャゲのスタミナ回復通知が待ち受け画面を埋めているだけなことを見ると、彼女は携帯を机の中に戻した。
「うーん……おはよう」
そんなことをしたりしていると、吹雪丸の左斜め後ろの席の、逋ス鬮ェ縺ョ繧キ繝ァ繝シ繝医き繝?ヨ縺ォ鮟偵?迪ォ閠ウ縺、縺阪?繝?ラ繝帙Φ繧偵▽縺代◆蟆大・ウ──邏?怦縺サ繧?繧が、突っ伏シタ姿勢のマま声ダけで吹雪丸二声をかけた────?
『また、だ』
『振り向いても、彼女の顔が見えない。その場所だけ黒くなっていて、ぽっかりと空気に穴が空いたようになっている』
『それでも、私は気づくと声を出し続けていた。自分の口から砂嵐のノイズが発される』
「縺サ繧?おはよ〜! なんか今日早くない? いつもこの時間にはいない気がするけど」
と言イツツも、彼女ノ登校時間も、もももも、、モモモモモももも────ピーーーーーーー
『消えないで!』
どかんっ!
○
キ──ン
コ──ン
カ──ン
コ──ン。
チャイムの音に驚いてベッドから飛び起きる。
ベッドの側に置いていた膝より上まである長い編み上げブーツを十秒でどうにか履き、木で出来た保健室の床を靴底で乱暴に叩いた後、シャッと音を立ててカーテンを引いた。──が。
「……いない」
さっきまで──眠るまでそこにいたはずのヒトミがそこにいない。丸椅子の位置は同じだが置かれていた水を飲んだコップは片付けられていて、もちろん文庫本も持ち去られている。
しかし、まだ光の灯ったままのランプはそこに置かれていた。神秘を使うために必要な石が二つしか残っていないので、これはありがたく借りていくことにしようとランプを手に持つ。
そろりそろりと廊下に出てみると、もちろんそこは暗い夜の帳に包まれた異空間である。
……ここで、ようやく自分がホラーに耐性がなく、夜の学校なんてものは嫌いであったことを思い出した。
さっきまではヒトミが付いていてくれたし、頭痛やら耳鳴りやらで気にならなかったが、こう一人になってみるとそれを思い出してしまう。
それでもこの不安を拭うにはヒトミ──それかツキフエを見つけなければならない。そして、今さっきのチャイムがどうして鳴ったのかも気になる。
たっぷり三分かけて意を決し、保健室から左へ進んで曲がり角を曲がろうとする──
「ワッ」
「────!?!?!?!?!?」
曲がり角を曲がった先で女の声がして、思わず尻餅をついた。
「び、びっくりしたぁ……吹雪丸ちゃん、起きてたんですね」
声の主はツキフエだった。集会所へ案内された時と同じようにランプを手に下げていて、紺色のカーディガンを羽織っている。……左目から何かが溢れ出しているのも変わらない。
さっき隣の保健室で見たときは眠っていたが、起きていたらしい。
するとぬっ、とツキフエの後ろから新しい人影が出て来る。
「おや、置いておいたランプは使ってくれたみたいだね。よかったよかった」
後ろから出てきた人物はヒトミである。こちらもランプを手に下げていて、今この場には三つのランプがあることになる。ランプはいくつかあるようだった。
「…………あっ、あばばばばば」
「ご、ごめんなさい、驚かせちゃいましたね!?」
「そう言えば君、こう言うとこ苦手なんだったか──まぁ僕も得意では無いのだけれど」
恐怖で舌が丸まって喋れなくなったので、一旦保健室に戻って水を飲ませてもらった。体調が良かったのでついでに備えられていたらしい乾パンを食べたが、口の中の水分が持っていかれたのでもう一杯水を飲んだ。
「──いっけない、本題を忘れるところだった! 早く迎えに行ってあげないと、新しい救難者が困っているかもしれませんよね!」
「……新しい、救難者?」
救難者と言うのが自分たちのことであるのは分かっているが、新しい、とは。
「これはツキフエ君曰くなんだが。この学校のスピーカーから、時々チャイムが流れるらしい。チャイムが流れるのは、新しい人間が月の裏のこの地に立った時、なんだと」
ヒトミが思い立ったようにそう説明する。
「吹雪丸ちゃんがここに来た少し前にも、チャイムが鳴ってたんですよ。……と言っても、ここに放送室はないので、どこから流れているのかはわかりませんけれど」
「そんな怪しいものに従ってていいの……? …………ってことは、私はその新しい救難者さんを迎えにいく邪魔をしちゃった、ってことか」
ツキフエが申し訳なさそうにこくりとうなづく。
「……それでなんですけど。元々頼むつもりでしたが、お願いしてもいいですか?」
「臓器売買に近しいものじゃなければ大体は」
「そ、そんなことじゃ無いので安心してください……えっと、その救難者を見つけるのを、手伝って欲しくて」
ツキフエが保健室から出て、こちらを手招きする。ヒトミがそれに応じたのを見て、私も付いて行った。
「チャイムで救難者が来たことはわかるんですけど、それがどこなのかは明確にわからないんです。と言っても、この■■高校舎の近くであることは確か────!」
そこまで言って、ツキフエが思い出したように口に手を当てた。
一瞬なんのことだかわからなかったが、私も思い出してそれを口に出す。
「■■こう」
「あ、それ…………」
「今は大丈夫みたいで……気遣ってくれてありがとう、続けて欲しいな」
「……体調が少しでも戻っていたなら、良かったです。えっと……なんでしたっけ」
ツキフエが目線を上に逸らしたのを見計らって、ヒトミが「新しい救難者の居場所の話」と口を挟んだ。
「そう、それでした! 近くにはいるはずなので、それを見つけて集会所に連れてきて欲しい、ってことです!」
びしっ、と人差し指をこちらに向けながらツキフエが自信満々にそう言ったのを見て、なんだか面白いと思ってしまって、くすりと笑った。
「りょーかいです! ……どれくらい探せばいい?」
「このランプ、面白くてね。この校舎から離れれば離れるほど火が小さくなるんだ。火が消える直前までの範囲、だいたい探してくれればいい。僕は校門から出て左、ツキフエ君が正面を行こう。君は右側を探してきて欲しい、それでもいなかったら3人で校舎裏を探そう」
光を見つけたら救難者の方からこっちに声をかけてくれるだろうしね、とヒトミが付け加える。
「それで行きましょう。では、また後で」
気づくとすでに校門まで歩いてきていた。
正面に進んで行ったツキフエの後ろ姿と光が、左側に進んで行ったヒトミの横顔と光が見えなくなるまでそこに立ち尽くした後、右側に向かって歩みを進め始めた。
──当たり前だけど、何も無いんだよな。
少しずつ小さくなっていくランプの火とクレーターを眺めながら歩き始めて、体感時間が正しければ十五分ほど歩いたと思う。火は半分ほどの大きさになってきたので、もう少し歩いたら引き返すつもりだ。
そうだ、せっかくなら空から地球が見えないかな、と思って一瞬立ち止まって夜空を眺めたが、ここは月の裏なんだから見えるわけがないだろと思い、馬鹿らしくなってすぐ辞めて足元に目線を戻して──思わずランプを手から落としそうになった。
血痕である。
ひぇぇ、とか間抜けな悲鳴を上げたくなるのを我慢してそれを見ると、そこから血痕がぽつりぽつり、と感覚を開けて続いて行っていることがわかる。
多分ここで起きて、歩いて行ってしまったんだ──と思い当たり、すぐに血の跡を駆け足で追い始めた。すると、すぐに誰か長身の後ろ姿を見かける。
「おーい!」
力いっぱいそうやって声をあげると、そこにいた誰かはちらりとこちらを伺ったように見える。そして、力なく座り込んだ。
駆け寄ると、そこには白い肌に黒と緑で統一された衣服をまとう長身の男──イェン・ネイロウが座っていた。
ただ記憶にある彼の姿と違うのは、白い肌の所々が傷になっていて、一部火傷になってしまっているほどの怪我を負っていることだった。
「ウワッ、大丈夫!? すぐ治すから!」
吹雪丸の行使する魔術──精霊術の本領は、治療である。
右手で杖を掴み、左手でポケットの中の石の一つを砕き、間髪入れずに呪文をとなえる。
「『アンファン・エナジー・べハンドルング』」
刹那、イェンの体が黄緑色の淡い光の泡に包まれ、少しずつ傷が塞がっていき、肌が綺麗な色に戻っていく。
「……ごめん、お前、誰?」
そう言われて、こてんと首を左に傾けたのち、ツキフエがはじめに『私が知っている髪の色じゃなかったので、一瞬誰かわかりませんでしたよ』と言っていたのを思い出して、「吹雪丸だよ、藍紅吹雪丸!」と自分だと何かわかるジェスチャーをしようとし──そんなものがないことに気づくまでずっと腕を忙しく動かした。
「あ、そーなん? 最後に見た時と一切違うからわかんなかった──んなら、さっきぶり、だな。お前がくれた傷なのにお前が治すって、なんか面白」
イェンの低い声で紡がれた声の一部に、違和感を覚える。
「……私があげた──傷」
「そーだよ。覚えてねーのか?」
ヒトミが『やらかしたと言えばやらかしたんじゃ無いか』と評していた自分の行動を今すぐに知りたい気持ちになる。申し訳なさでいっぱいになって、次になんて言えばいいのかわからない。
「ま、こればっかりは逃げ遅れた俺が悪いんだけどさ。………………いや待て、許さん」
突然意見をユーカーブさせたイェンが自身のヘッドフォンを指差した。
「コイツが逝った」
「……わぁ〜お」
単刀直入に、脳内で財布を開く。
「まーこれはいいけどさぁ! 音楽が聞けないのだけ問題!! スピーカーとか持ってない!? この前出た新曲を死ぬほど爆音で流して聞きてぇ!!」
そう聞くと、カミサマはこの静かな月の裏の静寂を守るためにイェンのヘッドフォンを壊したのではないかと言う気になって来る。
「……そこら辺の弁償は要相談ということで。一旦治療は終わったよ、痛くない?」
「おー……さっきよりすげー楽」
「そりゃあ良かった」
イェンが立ち上がったのを見て、自分も立ち上がる。
「とりあえず、他の人がいるところに行かない? 私の他にツキ姉とヒトミ君がいるとこがあって」
「ん、他の人間いないのは流石にキツかったから正直それはありがたい」
「じゃあ案内するね」
方向転換して、ランプの火が少し大きくなった方角に進む。後ろから足音が聞こえるのを慎重に確認しながら、一歩一歩踏み締めるようにして歩いた。
ざく、ざく、ざく。
「なー、なんでお前姿が違うんだ? もっとこう、水色っぽい髪だったと思うんだけど」
「それはこの前変身する魔術で──……あれ、時系列、どうなってんだろ? 確かこの魔術を使ったのは一週間前よち短いくらいなんだけど──」
歩みは止めないまま、思考だけどうにかこうにか巡らせる。
「ってか、俺の認識が合ってんなら、お前は死んでるぞ」
思わず足を止めた。
「…………それ、マジ?」
「マジだよ、マジ。でもツキフエとヒトミだろ? あいつらは知らないかも。あいつらが避難してからの話だからな」
何を言えばいいのかわからない空白に耐えられなくなって、また少しずつ歩くのを再開する。ランプの火は歩き始めた時の二倍の大きさになっているから、もう少しで到着するはずではある、のだが。
「……ねぇ、私、何をやらかしたの? 私はなんだか記憶がどーもあやふやになってて──というか、イェン君は覚えてるんだね」
「そりゃあな。あそこまで強烈だったんだから、覚えてられないほうが珍しいと思うぜ。……話してもいいけど、ツキフエとヒトミには聞かなかったのか?」
「それ関連の話を聞こうとすると、耳鳴りと頭痛と意識の混濁と目眩が起きるんだよね」
「症状クソ重……お前なんか病気でも患ったか?」
拒否反応じゃないか、って言われた──と溢すと、イェンは「……なるほどなぁ、それはあるかも」と納得したように首を縦に振っていた。
「じゃあ、少し覚悟しろよ。どこまで言っていいか慎重に少しずつ話してくから」
「とても助かる!」
「あーっと……まず、これは二次高──仮想県立、二次元高等学校で起こったことだ」
「うん、それは聞けた。……でも、私がそこにどう関わってたのかは思い出せない」
「……お前は、この学校の、創造科に所属する生徒だったんだ」
イェンのその言葉が脳にすっと入って来る。
「そーぞーか……」
反芻すると、なんとなく言い慣れた言葉のように感じる。
「吹雪丸と俺とか、ツキフエとかヒトミとかは、その創造科のクラスメート」
「あ、そー、だ、った……」
なんで出会ったのか。それは同じ学び舎で学ぶ仲間としてだったか。
そう思うと、なんとなくどんなことをやってきたか思い出せて来る。ヒトミが校舎の作りが二次高と同じだと言っていたが、それにもようやく実感が持てた。確かにその通りで、二部屋の保健室の場所には、入れたことは無かったが元々空き教室が入っていたはずだ。
「この続きは言えるかな……んで、ある日突然、■■高が豸医∴縺。縺セ縺」縺んだ」
「────っっ!!」
目眩と頭痛が一気に来て、上下感覚が一瞬あやふやになって、ランプを今度こそ取り落としたと思った。
「よっ」
しかし、左手をイェンがつかんでくれたようで、ランプを落とさなかったし、クレーターで凸凹の地面に頭をぶつけることもなかった。
「あ、ありがと……」
「本当に大丈夫か? マジでノーモーションの兆候なしでクラっと行ってたぞ」
「やっぱりまだ、本調子じゃないんだろうな……あはは」
イェンの高い肩には手が届かないので、肘の辺りを掴みながら移動することになった。
「……んで、どうよ? 何か進展のある情報聞けた?」
「私が二次高の創造科所属生徒だってことは初耳だったね」
「そこから、ってホント重症だよ……こんな体調不良の時は寝るに限る! って言ってたろ、早く寝ろ」
「もう二回寝たんだけどね……睡眠最強説、下げるべきか……?」
「面白いから永遠に睡眠最強説は掲げてて欲しい」
そんな雑談をしながらもう少し歩いて、集会所に到着した。
ツキフエとヒトミはおそらくもう少ししたら戻って来ることを伝えると、私はさっさと保健室のベッドに戻され、三度目の睡眠を余儀なくされた。
●
「いやいやそれはさすがにひどくないですか!!!」
夕暮れの中、教室に勇敢な少女の叫び声がこだまする。
「せめて他は一クラスを二チームに分けるとか──」
「でもそれだと、親睦を深めるって言う目的が転倒しちゃうから……」
「それでも私達がこの世の理不尽にうち震えながら石を投げられる筋合いはないでしょ!! 融通見せろや〜〜!!!」
「いやいや無理だよ……決定事項だから! もう今日の連絡事項話す時間も終わってるんだから、藍紅さんも帰った帰った! 明日HRの時間に必要なことは話しといてね!」
会議後の粘りも虚しく棒に振られ、思わず少女は唇を噛んだ。
「納得いかない……!!!」
次の日の朝。
「おはようございます……昨日の学年連絡会議で聞いた話を簡潔に長々と話していこうと思います……」
気怠げな吹雪丸がションボリとした表情で教卓にあがる。
「邁。貎斐↓髟キ縲?▲縺ヲ菴包シ溘??譎ョ騾壹↓邁。貎斐↓隧ア縺」
「縺昴b縺昴b縺ゥ縺?@縺溘??溘??螢ー繧定◇縺上□縺代〒蜈?ー励′縺ェ縺?s縺?繧阪≧縺ェ縺」縺ヲ諤昴∴繧九s縺?縺代←窶ヲ窶ヲ」
教卓に立った学級委員──もといHR委員会の少女、藍紅吹雪丸の言葉に、それぞれが十人十色な反応を見せる。
彼女が教卓に立った時に冗談を交えるのはいつも通りなのだが、普段の『おはようございます♡』から始まる気の抜けた連絡トークにならなかったことに違和感を感じた面子は少なくなかった。
吹雪丸が手に持っていた資料を教卓でトントンと叩いて整える。
「その話も含まれる…………とりあえず、二週間後の土曜日に体育祭があります!!」
『──こんなこと、あったっけ?』
『違うか、あったけど、みんなの記憶に残らない体育祭だった。これはもう一つの可能性、分岐した違う形の体育祭をしようと──してた、なぁ』
『そう、思い出してきたかもしれない。これ、私の妄想で間違いない。こんな風になればいいのに、っていう──カッコ良く言えば、二次創作だったはず、の──』
ピーーーーーーーーーー。
『声が、聞こえないままだ』
どかんっ!
○
静かに目を覚ました。
耳鳴りは止まっているから、今までで一番いい目覚めだ。
目を擦りながら体を起こすと、丸椅子に今度は誰かが座っていることに気づく。
──袖が末広がりになっている白いシャツ。
──青色のネクタイ、青色のミニスカート。
──膝下までの編み上げブーツ。
「………………あ」
──赤いチェックのマフラー。
──泡藤色の髪に林檎の色のメッシュが入っていて、
『……あは』
──丸眼鏡の奥に、紺碧と真紅の瞳が光っている。
『おはよう!』
少女は──前の姿の吹雪丸は、軽快に挨拶を口にした。
「あ、は……な、なんで…………」
『これは夢だよ』
そう言いながら、目前の吹雪丸が右足の編み上げブーツを脱ぐ。
すると、中から出てきた足は、透けていた。
『私の世界では、人間とは記憶、記憶とは人間。幽霊は、記憶の残滓だね』
吹雪丸がブーツを履き直した後、私の肩に手を置く。すると、どろり、と。途端に姿が変わり始めていく。
頭の半分が血で濡れていて、シャツもマフラーも所々が破れていて、左腕はだらりとしていてぶら下がっているだけの、姿へ──
『こんにちは、記憶の幽霊です』
それでも、笑顔を絶やさない自分の顔を見て、思わず顔が引きつって、ひっ、なんて弱々しい声を出してしまう。
……吹雪丸が丸椅子に座り直した時にはもう姿は無傷の状態に戻っていて、何がなんだかわからない。
『私はね、教えてあげに来たんだよ』
「……何を」
『私のやらかし。ずっと気にしてたでしょ? 自分が何をやらかしたんだか。覚えてるのに覚えてないフリまでして、カワイイよね〜、私ってば』
「覚えてるのに覚えて、ない?」
イェンの、『じゃあ、少し覚悟しろよ』という言葉が、何故だか思い出される。
そぉだよぉ、と。吹雪丸が丸椅子の上で足を組む。
『ヒトミくんの考察は大体セーカイなの。ぜぇんぶ、拒否反応だからね』
「……今は聞ける、ってこと?」
『そゆこと! 頭の整理が終わって、私の記憶をあなたの記憶が受け入れる隙間ができたからね』
思い出したくないのも半分あっただろうけど、正確には思い出すのに邪魔になるからなんだけどさ、と補足して、さらに続ける。
『後、イェンくんの言った通り、私は死んだんだよ。文字通り、■■高に骨埋めてきちゃった』
「…………それじゃあ、私は、誰?」
死んだはずの吹雪丸と、今もなお心臓の拍動を感じる吹雪丸。この二人は同じ空間にいてはならない存在のはず、なのに。
『まず、最初からお話するね。
藍紅吹雪丸は■■県立■■■高等学校、創造科の生徒。担任の名前は荳画律譛亥柱蟄──おっと、これはもう削除されちゃった情報だった。でも、もうノイズ聞いても頭が痛くないでしょ?』
うん、と頭を縦に振る。
『じゃあ、続き。突拍子もないんだけど──ある日、■■高は消えたの』
「────は」
『綺麗さっぱり、ぜーんぶ水の泡になっちゃった!』
「なん、で……」
『知らないよ、そんなこと。私が一番知りたいもの』
吹雪丸の表情がまさに苛立ちを隠せない、と言った表情になる。本当に、消えてしまったらしい。こうやってノイズになるのは、一部の完全削除された情報もだよ、と加えた後、また口を開く。
『でね、私は大馬鹿だから、許せなかったんだよ』
ヒトミの『物語は何かしらのエンドを迎えることができれば、完成品になる。それがバッドエンドでも、ハッピーエンドでも、トゥルーエンドでも、全てが等しくエンドだからね』という言葉が思い出される。
次の瞬間、私は意識せぬまま口を開いていた。
「『中途半端なままの終わり』」
吹雪丸の声と、自分の声が重なる。
「私なら、絶対これを許さない」
『さすが私! わかってるね〜!!』
それでねぇ、と吹雪丸がさらに話を続ける。
『私はこう言ったの。じゃあ、爆発オチにしよう!』
突拍子もない終わりに突拍子もないトゥルーエンド! サイテー、サイアクの終わりだよね! と吹雪丸が一気に上機嫌になって、からからと楽しそうに笑い始める。やがて笑い疲れたのか、しんみりとした表情に戻る。
『そう言った後に杖を取り出したら、何人かのカンがいいのはすぐに退散の準備をしてくれてね。ツキ姉はその一人で、文化祭で使う予定だった本を月の裏と繋いで、一時避難所にした。他の人は大体それぞれの帰宅手段で帰ったけどね。そこに逃げ込んだのは、近くにいたヒトミくんもなの』
「──じゃあ今は、その爆発を起こした──その後から、半日経ったくらい?」
『せーかい! 学校があったけど何もなくなって場所を爆発させたあとからすぐの世界だからね、ここ!』
爆発したから消えた事実にするために、消えたけど爆発させたのか。
本当に突拍子もない、ただの八つ当たり。それでも、何もしないよりは私も諦めがつけられる気がする。
『んで、私は爆発に身を投げて大人しく死んだ。……まぁ身を投げたわけでもないんだけど、さすがに自分の周り一体全部爆発させたらどうなるか、とか考慮するべきだったなぁ、あはは』
「……イェンくんは?」
『イェンくんはね、観客でいてくれたの。爆発を見届けようとして、少しだけ食らっちゃった感じ。さすがにそれに申し訳なさがあったから、私がちゃんと治してくれたのを見た時は少し安心したんだ〜』
そうなる、と。
頭の中で起こった出来事を横軸に整理して、出てきた疑問を自分にぶつける。
「じゃあやっぱり、私は誰?」
『私はぁ、コスモステイルから、新しく分岐した私』
「…………は」
『どこからの分岐かっていうと、■■高のバナー広告を見つけたところからの分岐。おまえは、バナー広告を見つけることがなかった私。だから普通に吹雪ちゃん達と時間を過ごして、時間の余裕があった分で姿を変えたいという願望を叶えたんだよ。おまえは、正しい銀世界の、秩序の守護者だ』
「なるほど、なぁ。そこまで聞いたら、大体後は読めて来る」
びし、っと目前の吹雪丸を指差す。
「私は月の裏に、『藍紅吹雪丸』の概念として呼ばれた存在でしょ。月の裏にツキ姉やヒトミくん、イェンくんが流れ着くのに混じって残滓として残った、■■高生徒の藍紅吹雪丸の魂、記憶のかけらを回収する器として。正しい秩序の管理人から、さらに分岐した存在。
自分の記憶ではあるけど、これはあくまで私じゃない私、他人の記憶。だから受け入れるスペースを作るのに時間がかかったし、受け入れ中だからそれについての情報を新しく取り入れるのは邪魔になるんで、拒否してた」
ぱちぱちぱち、と。吹雪丸が小さく拍手をする。
『百点満点、おめでと〜! 魂の統合はこうやって月の裏に来た時点で終わってたから記憶は持ってたけど、適応は終わってないから、それを正常に処理するために思い出せないフリをしてたんだ』
『じゃあ、最終問題ね』
吹雪丸が丸椅子から立ち上がって、こちらに背を向ける。
『あなたは胡蝶でしょうか? それとも、荘子でしょうか?』
……ツキフエの、『それでも、きっとあなたがこれを夢だと思うのなら、これは夢なんだと思います』という声が、思い出される。
「私は──」
「どっちでもいい」
「ユメでもマボロシでも、なんでもいい。私は、吹雪丸。ただの秩序の、守護者」
そう答えると、吹雪丸が──目前の少女がこちらに振り向き、「あはは!」と嬉しそうに声を上げた。
『それじゃあ、一緒に唱えよう』
こちらに一歩近づいた少女が、自分のスカートのポケットに手を突っ込んで、太陽の魔力を閉じ込めた石を取り出して、私の両手で包む。
そして、自分の手をその私の手に重ねた。
……二人一緒に、同じ呪文を唱える。
「『アンファン』」
「『エクスプロジィオーン』」
────どかんっ。
○
がららら。
ツキフエが保健室のドアを開けて、ベッドの方を見る。そこにはカーテンが閉まった形ばかりの個室が一つあり、彼女は音を大きく立てないようにカーテンを少し開けた。
「…………え」
しかし、カーテンで囲まれたベッドの中で眠っていたはずの少女はおらず、白いベッドの布団が黒く焼け焦げて、いる。
「──吹雪丸ちゃん!?」
音を立てないように、なんて気にしている場合じゃない。五センチほどの隙間しか作らなかったカーテンをシャララッと乱暴に開けるが、そこに彼女の痕跡は残っていない。布団は焦げているが火はついていない。でも、カーテンの中から少しだけ焦げ臭い匂いが漂った。
どこへ行ったんだ、と探しに出ようとし────視界の端に映った窓に、一瞬それが見えた気がする。
窓から外を見ると、外はやはり夜の闇に飲まれているが、グラウンドの真ん中に、何か明かりがついているのが見える。
ランプを片手に急ぎ足でそこへ行ってみると、そこには探していた吹雪丸がおり、彼女はそこで杖を持って何かをしていた。
「吹雪丸ちゃん!」
「……ツキ姉」
静かにこちらを振り向いた彼女の瞳を見て、なんとなく、直感した。
「…………あ、思い出した、んですね」
「うん。夢の中で私が教えてくれた」
吹雪丸の杖の先を見ると、そこには見覚えのあるもの──井戸が現れていた。
「救難者、って言ってたよね。つまり、今のとこ『本』から脱出する手段がなかったんでしょ? これでとりあえず、私のコスモステイルを通って、それぞれの場所に帰れる」
「そ、それはありがたいんですけど……その、ベッドは──」
「ご、ごめん……夢の中で爆発の呪文を唱えたら、本当に小さく爆発してたみたいで──」
怪我をしてないなら、まぁいいですけど、と。ツキフエが小さく安堵のため息をつく。
すると後ろから足音が聞こえ、振り向くとそこにはランプを手に下げたヒトミとイェンがいた。
「おっ、帰りの船が来たところかい?」
「俺まだあんまりここ見て回れてねーけど、帰れるならさっさと帰りてーな、ヘッドフォンどうにかしないといけねーし……」
そんな風にコメントをする二人を見て、吹雪丸が耐えきれなくなったように、「あぁ〜あ!」と大きな声を出した。
「諦めたくないな! 帰りたくないな〜! あぁ〜あ!!」
拗ねたような、それでいてもう諦めたような、中途半端な声。
それを聞いたツキフエが俯き気味に「……私も、です」とこぼす。それに続いて、ヒトミも「僕も、だな」と呟き、イェンも「俺もだよ、」と次々に口にした。
「……あは、は。もう少し、遊んで行こうか」
そういうと、吹雪丸がヒトミとイェンの間を通り過ぎる。そして、校舎の方まで走って行ってしまった。
「『胡蝶の夢』なら、それでいいよ。もう少し、胡蝶でいるのを楽しめるから」
ざくざく、ざく。
グラウンドの地面は校舎の外、月の裏の本来の地面と違ってクレーターがないから走りやすい。
「……やめちゃうなんて、無責任なこと言わないで」
ざくざく、ざく。
「胡蝶の夢でいいから、もっと夢を見ていたかった」
ざくざく、ざく。
「私、本当に怒ってるんだから、」
ざくざく、ザク。
「ばーーーーか!!」