脅威
玄関のドアが勢いよく閉まる音に西永栞の鼓動はドクドクと跳ねた。時刻は午前三時過ぎ、飲みに出かけていた父の康二が帰ってきたのだ。彼女は慌てながらも静かにノートパソコンを閉じて、さっとベッドに潜り込んだ。部屋の電気はあらかじめ消してある。
いつものように父はかなり酔っているらしくキッチンでドタドタと物音をたてている。なにやら冷蔵庫や戸棚を開け閉めしているらしい。食べ物か飲み物でも探しているのだろうか。
やがて足音が自分の部屋に近づくのを感じた栞は布団の中で身体を萎縮させ可能な限り気配を消すように意識を集中させた。次の瞬間、部屋の扉はほとんど音を立てずに開いた。何故か先刻まで大きな物音をたてていた父が不気味なまでに静寂を纏っている。部屋に入ってからは足音も消え布団に潜っている栞の五感では父の存在を感知できなくなった。父から栞に向けられている表情がどんなものであるかなど想像したくもないのに頭に浮かんでくる。これが嵐の前の静けさというやつだろうか。それはあまりに恐ろしく永遠にも感じられた。実際にどのくらいの時間が経ったのかはわからない。栞にとって酒に酔った父はまさに脅威なのであった。
今彼女の脳内は嫌なイメージで埋め尽くされており、震えだしてしまいそうだった。またいつかのように乱暴されるのだけは絶対に嫌だ。神様、お願いですから今日は悪いことがおこらないようにしてください。栞は全ての神に祈った。
ギィと床が軋む音がした。彼女は唇を噛んで悪夢の訪れに身構える。
その時、パソコンからメールの通知音が鳴った。父が帰るまでネットの知り合いと連絡を取っていたので、その返信がこんなときに届いたのだ。栞は通知を切っておかなかった自分の愚かさを呪った。父の舌打ちが聞こえた。栞はこの後、何が起こるか予測した。父がノートパソコンを壁に叩きつけている姿が浮かび、次に浮かんできたのは布団を剥ぎ取られた自分が蹴り付けられている様子だ。果たしてどちらがマシだろうかと考えていると不意に父は部屋を出ていった。父の胸中はまるでわからないが、彼がこの夜更けに静寂を破ることはなかった。彼女は殴られることもなかったし、怒鳴られることも更に酷いことをされることもなかった。それは喩えるなら虎の入れられた檻に同居しているのに全く無傷でいるようなものだった。とはいえ今後も栞がその檻の中で生活を続けていくことに変わりない。今回はどこかの神様が気まぐれをおこしたのだろう。それでも明くる日殴られたところや下腹部の痛みに苦しまなくていいのは有難かった。
もしも、母が生きていたらこんな目に遭わなくて済んだのだろうか。私を守ろうとしてくれただろうか。栞が幼い頃に母は病で亡くなったと聞いているが、それ以外ほとんど何も知らなかった。どうしてこんな父を愛したのか不思議で仕方がないけれど母もまた父と同じように醜悪な人だと考えるのが道理にかなってる気がする。そして栞もまたその遺伝子を受け継いでいるのだ。彼女は己の心に蔓延る穢れに気付いていた。
しばらくして父のイビキが聞こえてきたのでパソコンのメールを読んだ。それがあまりにも他愛もない内容だったため栞は無性に腹が立ってきた。このメールの通知のせいでどれだけ自分が肝を冷やしたことか。メールの件名に「死ね」とだけ入力して返信したのち、パソコンの電源を切ってようやく彼女は眠りにおちた。
時刻は午前10時過ぎ。康二は目覚めると同時に酷い頭痛とめまいに襲われた。二日酔いなのだ。ひとまず枕元の携帯を確認する。ホステスの澄夏からメールが一件。本文は「昨日はごちそうさま。いつもの様に楽しいお話たくさん聞かせてくれてありがとう。お嬢さんといい週末を過ごしてください。来週から仕事忙しくなるって言ってたけど無理せずに頑張ってくださいね。またの御来店をお待ちしています!」
メールを読み終えたが特に返信する言葉も見つからなかったので、めまいにフラフラとよろけながらもキッチンにむかった。冷蔵庫を開け放ち飲み物を探す。しかし期待したような物は入っておらず、それどころかほぼ空っぽ状態だった。仕方がないので流し台の蛇口に口をあてて水を飲む。東京の水道水は温くて不味かったがそれでも喉へと流し込んだ。
その頃こっそりと家を抜け出していた栞は、アパート二階の自室から階段へ差し掛かったところで立ち止まっていた。栞の動きを止めていたのはセミだった。そいつは階段の半ばにまるで死んでいるかのように仰向けにひっくり返っていた。一見して死んでいるように見えるこの姿にこれまで何度騙されてきただろうか。油断して近くを通りかかった途端にモーションセンサーが反応し最大ボリュームのセミの声と飛来の奇襲に遭うのだ。この生物が一体どんな目的でそれをしているのかはわからないが、予測困難な点において父と似ている気がした。父の脳はきっとセミと同程度なのだ。
栞は突如、セミを踏み潰したい欲求に駆られた。けれど実際にはそうしなかった。こんなところでいつまでも足止めを食らっていたら父に見つかって家へ連れ戻されてしまうかもしれない。それが何よりも嫌だったのでセミを避けて小走りで通過した。幸いそれは既に事切れていた。次に生きたセミに遭遇したときは必ず踏み潰してやる。栞はセミの断末魔を想像してゾクゾクした。
アパートを出ると目の前を大きな川が流れている。その川沿いの両岸にはソメイヨシノの木が何百と植えられており、季節になると満開の桜が非常に美しく、あまりに見事なので毎年大勢の人がここを訪れてくる。
栞は子供の頃からそれを見慣れているためか、桜を見て感動する人の気持ちがわからなかった。べつに花が嫌いというわけではない。栞は薔薇は好きだった。私にはない美しさや色気、そして強さをもっている。いつか自分もそんな人間に生まれ変わりたいと願っていた。