こうもりの章
――大地のはてから、白いひかりが差しました。
夜明けでした。
仔うまは……まだ、沼にしずみきってはいませんでした。
顔より下はぜんぶしずんでしまっていましたが、鼻と、目と、耳だけはまだしずんでいませんでした。それでも、もう時間のもんだいでした。
まぶしさに目を閉じようとした時。
白いひかりのなかに、黒いちいさな点が、ぽつりぽつりと現れはじめました。
ちいさな点は、しだいにその数を増し……やがて、そのすべてが羽ばたいているということに、仔うまは気づきました。
それはたくさんの、鳥たちの群れでした。
先頭にいるのは、きれいな羽根の小鳥――はちどりでした。
仔うまの所にたどりついたはちどりは、仔うまの耳をくちばしでくわえて、引っぱり上げようとしました。もちろん、はちどりだけの力では仔うまを沼から助け出すことはできませんでした。
雲雀がもう片方の耳をくわえて、引っぱり上げようとしました。それでもだめでした。
するとカラスが、伝書鳩が、すずめやつばめが、せきれいたちが、仔うまのたてがみをくわえて引っぱりました。アヒルは沼のふちでつばさをふって、皆をおうえんしました。
ようやく仔うまの背中が見えた時、鷹がその背中をつかんで、ひといきに引き上げました。
――よたよたと沼からぬけ出た仔うまのまわりを、鳥たちが囲んでいました。
仔うまは、ありがとうありがとうと、鳥たちにお礼を言いました。とくに、おおぜいの助けを呼んでもどって来てくれた美しいはちどりに対しては、ねんいりに。
それから、仔うまは走りだしました。
重たい足を、いっしょうけんめいに動かして。
友達のこうもりが待っているはずの、棘の梢の下をめざして。
はちどりが何かを言いたそうに、その背中を見送りました。
けれど、仔うまは一度も振りかえりませんでした――。
◆◇◆
――棘の梢の下に、こうもりはいませんでした。
また、ひとりで宝石箱の鍵をさがす旅に出てしまったのでしょうか。
それとも、もう力つきて……。
仔うまは……泣きませんでした。
そして、今からこうもりを探そうとも思えませんでした。
もう疲れきっていました。
いつか、もの知りの山羊が口にした言葉を、仔うまは思い出しました。
「お前が愛するこうもりのそばに居てやりなさい。」
もの知りの山羊は、いつだって正しいことだけを言っていたのでした。
ほんとうの悲しみにとらわれた時、涙はでないのだということを、仔うまは知りました。そこにはただ、ぽっかりとした穴があるだけでした。
仔うまは、ふるさとの草原に帰ることにしました。
◆◇◆
仔うまは、草原でぼんやりとしながら過ごしました。
どのくらい月日がたったのか、数えてもいませんでしたが、だいぶ長い間そうしていました。
むかし、こうもりが仔うまの背中に落ちてくる以前、この草原には何でもありました。ここで暮らしていた仔うまは、何ひとつ不自由なく幸せでした。
けれど今は、あのころ何をして遊んでいたのか、思い出せませんでした。
こうもりと出会って一緒に旅していた時間と同じくらい……もしかすると、それよりも長い時を仔うまは過ごしました。
灰色の草原に立ち尽くして、空をながめながら。
◆◇◆
ある日のこと。
いつものように仔うまが空をながめていると、その日はふだんと違って、多くの鳥たちが空を舞っていました。
草原を横ぎって行くのではなく、仔うまの頭上をぐるぐる旋回しているのでした。
ひときわ高い天に弧をえがく鷹が、一声鳴きました。
誰かに別れを告げるように。寂しげに愛おしげに、その子を送り出すように。
なんだろうと訝しむ仔うまの背中に、温かな何かがぽとりと落っこちて来たのは、その時でした。
振り返った仔うまは――、
世界が鮮やかに色付いて行くのを目の当たりにしました。
灰色だった草原に、緑が広がるのを感じました。
辺りに白や黄色の花が咲き、ミツバチが蜜を集める営みをしていることに気付きました。風が、遠い森の木々の匂いを運んでいたことにも。
――仔うまの背中の上で、こうもりは眠たそうに目を細めていました。
少し図々しくてそっけなくて……仔うまの友達の、あのこうもりでした。
仔うまはたちまち嬉しくなり、こうもりを喜ばせようと言いました。
宝石箱の鍵の在り処を見つけたことを。
親切なはちどりが知っていて、泥沼に落ちた自分の命をも助けてくれたこと。
鍵は、金の鳥かごの中に……。
今までの分を取り戻すかのように、次から次と楽しそうに話す仔うまの言葉を、こうもりはぜんぶ、最後まで聞きました。
そして、仔うまの鼻先に自分の頭をちょんとくっつけて、言いました。
「宝石箱はね、もういいの。」
――それからというもの。
草原には時おり、鳥の仲間が遊びに来るようになりました。
小さな雲雀は、なぜか仔うまの背中でこうもりと寄り添いたがり、普段は見かけなかった鷹が舞っているのを良く目にするようになりました。
伝書鳩から旅の話を聞いては、自分たちの旅を懐かしく思い出しました。
鍵の在り処は分かっていましたが、こうもりが宝石箱のことを話すことは、ありませんでした……きっと尋ねれば話してくれたのでしょうけど。
こうもりと仔うまは、いつまでも仲良く暮らしました。
◆◇◆
………………――。
……ところで、結局のところ宝石箱の中身は何だったのでしょうか?
こうもりは何も話しませんでしたが、はちどりの姿に戻っていた時、その気になれば鳥かごの中の鍵を使って、宝石箱を開けることが出来たはずです。
はちどりは開けなかったのでしょうか。それとも開けたのでしょうか。
開けたのだとしたら、宝石箱には何が入っていたのでしょうか。
いつだったかミミズクが言っていたように、空っぽだったのでしょうか。
はちどりが信じていたように、世界で一番すてきなものがいっぱいに詰まっていたのでしょうか。
かつてはちどりだった、こうもりだけがその答えを知っています。
けれど、こうもりにとって、それはあまり重要なことではありませんでした。
――何故なら、本当に大切な宝物は、宝石箱の中になんてしまっておけやしないということを、こうもりは知っているのですから。
――おしまい!