あの日欲しかったもの
街の片隅に建っている、いかにも家賃が安そうなボロボロのアパート。コンクリートの至る所には染みができていて、ひび割れたり剥がれたりしている個所も目に入る。そしてそんな壁には、落書きや雨ざらしになった張り紙が並んでいる。それらもこのアパートと同様に、汚れていたり薄れていて読めなくなってるものが多い。といっても、この辺りではそこまで珍しい光景ではない。街の中心から少し離れてしまえば、どこもかしこもここと大差ない。新しいものや価値のある物は全て都会に持って行かれ、こっちにまで回ってくることはない。要するに、目の前に今あるものは、ここスラムではごくありふれた普通の居住施設だということだ。
俺は薄暗い電灯に照らされた玄関を抜け、階段を上る。そして三階の一番奥の部屋の前まで行き、チャイムのボタンを人差し指で押した。
ジーッ、という無機質な音が鳴る。
そのまましばらく待っていると、扉の向こう側から物音が聞こえ始めた。そして扉が開き、女が姿を現す。
「誰」
長めの茶色い髪を首の後ろで束ね、不機嫌を隠そうともしない顔をしている。薄汚れた白いタンクトップによって露になっている腕は筋肉質で、そこらの軟弱な男なら容易く締め上げられそうだ。
「ヨランダ・ターンブルか」
俺は事務的に、女に名を訊ねた。
「そうだけど」
女は面倒くさそうに頭を掻きながら答える。
「あんた一体――」
しかし銃声に遮られ、女はそれ以上言葉を続けることができなかった。
俺は立て続けにトリガーを引き、五発の銃弾を相手の体に撃ち込む。
抵抗することも逃げることもできなかった女は、その場で仰向けに倒れた。白いタンクトップが、流れ出る血の色でみるみる赤く染まっていく。
もう死んでいるだろうが、俺は念のために頭を撃ち抜いてから銃を下ろした。
俺は銃を握ったまま、死体となった女を見下ろす。当たり前だが、もう動くことも喋ることもない。
人を一人殺した。
その事実と共に、女の死体を凝視しながら、自分の中であるものを探す。
しかしどれだけ探し回ろうとも、それは影も形も見当たらなかった。
***
自宅のワンルームアパートに帰り、固いソファに腰を落とす。
俺は全体重をソファに預けて一息つくと、体を起こしてダイニングテーブルから缶ビールを手に取った。家を出る前から起きっぱなしになっていたそれは、当たり前だがすっかり温くなっている。プルタブを開け、液体をいっきに喉に流し込む。そして半分ほど飲み干したところで口を離し、今度は酒気を帯びた息を大きく吐き出した。
右手に缶を持ったまま、左手でリモコンを拾ってテレビの電源を入れる。すると、フットボールの試合中継の映像が流れはじめた。詳しいルールは分からないし、それほど興味があるわけではないけれども、それでもやっていたらなんだかんだで観てしまう。見入ってしまうほど面白くはないが、かといって見てて飽きはしない。暇つぶしには丁度いい。
実況の声を聞き流しながら携帯電話を手に取り、番号を入力して発信ボタンを押す。コール音はちょうど六回目で途切れ、相手に繋がった。
「メーディ、フランクだ」
『ああ、お前か』
名乗ると、よく知った声がスピーカー越しに返ってきた。
『仕事が終わったか』
「ああ。場所はあいつの家だ」
女を殺した場所をメーディに教える。あいつがいたアパートの住所と部屋番号は元々こいつが教えてくれたものだ。だからこれだけ言えば十分伝わる。
『了解。じゃあ後はいつも通り、こっちで確認できたら金を渡す』
「そうしてくれ。じゃあな」
『ああちょっと待て』
電話を耳から離しかけたタイミングで引き留められる。
「なんだ、まだ何かあったか」
いつもであれば今のやり取りだけで終わりになる。こういうことは珍しい。だが、世間話をするような間柄でもないし、その内容は今までの経験からある程度想像がつく。
『新しい仕事をあるんだが、頼めるか』
「別に構わないが」
『ならいつもの場所に来てくれ。今からでいいか』
「分かった。すぐ行く」
今度こそ通話を切り、俺は携帯電話をテーブルに放り投げる。
ひと仕事終えてゆっくりしようと思った矢先だが、あいつからの依頼なら無下にはできない。それに、俺に頼んでくるということなら、やることはいつも通りだろう。ならばせっかくの機会だ。わざわざそれを無駄にするつもりはない。
俺は残っていたビールを飲み干すと、空き缶をテーブルに叩きつけて立ち上がった。
いつもの場所とは、スラム街の外れにあるバーのことだ。おんぼろな内装の中、六人掛けのカウンター席の他、四人が座れる丸テーブルが余裕をもって五つ並べられている。置いてある酒は安いものばかりで、美味いのかどうかは俺には分からないが、味に関して悪い評判を聞いたことはあっても褒める言葉を聞いたことはない。もっとも、高い酒があったところで、こんな場所ではそれを飲むようなのはごく僅かだろう。良い酒を飲みたいのであれば、間違いなく街まで行った方がいい。
店の中は、客が数人いる程度だった。その中で俺は、一番奥のテーブル席にメーディの姿を見つけた。カウンターを横切る際にいつもの一番安い酒を店主に注文し、席に近づく。すると誰かと電話と話しているようだったので、それが終わるのを待ってから向かいの椅子に座った。
「待ったか」
「少しな」
俺に気付くと、メーディは広げていたノートパソコンを閉じた。
メーディはこの辺りで様々な仕事の仲介をしている。何らかの問題を抱えた連中がメーディに仕事を持って行き、それをメーディが俺のような実行人に割り振る。付き合い始めてもう三年は経つだろうか。
「こいつだ」
メーディは椅子の背もたれに立てかけてあった書類カバンから一枚の写真を取り出すと、それを俺の前に置いた。
俺は、店主が無言で置いて行った酒に口を付けながらそれを手に取る。
写真の真ん中に、男が一人写っていた。撮られ方からして隠し撮りしたのだろうか。自分の姿を捉えているカメラの存在には気づいていなさそうだ。
「今度のターゲットか」
「ああ。名前はモージズ・テート。報酬はいつも通りだ」
「どこに行けば会える」
報酬には今さら文句もない。生活するだけなら十分貰っている。だから俺はすぐに話を進めた。
「写真の裏を見ろ」
マーディは手首を回す手振りをする。
それに倣って写真を裏返すと、標的の名前と、時刻と場所が手書きで記されていた。時間は今日の十九時で、場所はスラム街にある空き地だ。
「時間と場所はそこに書いてある通りだ。クライアントが呼び出した」
「相手は一人で来るのか」
「そう聞いてる」
「そうか」
俺は相槌を打ち、写真を上着の内ポケットに仕舞う。
「じゃあ後は任せたぞ」
メーディはそう言うと、グラスを空にして立ち上がり、店を出ていった。
その日の夜、車で家を出た俺は、空き地から少し離れた路上に駐車して、そこから徒歩で目的地に向かった。都市で路上駐車をすれば交通警察がやってくるが、ここにそんなものはいない。代わり、うかつに放置しておくともれなく車上荒らしの標的なるが、その時は諦めるしかない。
街灯もない夜闇の中を数分間歩く。いや、街灯自体は無いわけではないのだが、その大半が整備されることなく壊れ、また誰かに壊されたりしていて、まともに役割を果たしていない。なので頼りになるのは月明りか、それで足りなければ自分でライトを用意するほかない。幸いにも今日は、歩くだけなら何も必要はなかった。
そんな夜道を歩き続け、指定された時刻の五分ほど前に目的地に到着した。
空き地の前では、一台の車が道路から頭を突っ込むようにして止めてある。ヘッドライトは点灯されたままで、あたりを明るく照らしていた。
その眩しさに少し目を眩ませながら伺うと、なんだか様子がおかしかった。
まず、車の所有者と思しき人物が周囲にいない。俺の位置からでは空き地の奥の方までは見えないが、少なくとも視界の範囲には人影一つ見当たらない。これは単に少し離れているだけかもしれないが、しかし車の運転席と後部座席のドア、そしてトランクが開けっ放しになっていた。
テートの車だろうか。それとも偶然この場所に来た別の誰かのものだろうか。答えは分からないが、なんだか嫌な予感がした。
俺は周囲への警戒を張り巡らせたまま、車にそっと近づいた。もしかしたら、テートが襲撃を見越して待ち伏せしている可能性もある。万が一に備えて銃を抜いておこうと思ったが、それだといざという時に言い訳がしづらくなるので、今はまだ控えておくことにした。
ひとまず何事もなく、車の傍まで辿り着くことができた。
トランクから車内をのぞき込む。綺麗とは言い難い内装だが、ダッシュボードの中が荒らされている以外におかしなところはなかった。というより、他には特に積み荷などはない。
強盗にあったのだろうか。
そんなことを考えながら車の正面に回り込む。
すると車の側面から出たところで、仰向けに倒れている人間が目に入った。
身に纏ったスーツは赤く染まっていて、体の下には血溜まりが広がっている。両目の瞳孔は開ききっていて、どうやらこいつはすでに死んでいるようだった。胸や腹には刃物で刺したような傷が幾つかあり、誰かに殺意を持って襲われたのだろうということを示している。
そして死体の顔には、見覚えがあった。
俺がこれから殺すはずだった男、モージズ・テートだ。
これは雲行きが怪しくなってきた。
懐の銃を掴み、不審な人物や物がいないか付近を見回す。幸い、車のライトのおかげでずいぶん見通しが良くなっている。
別に犯人を見つけてどうこうしようというつもりはない。ここでは人殺しなどそう珍しくないし、俺だって仕事でやっている。だが、俺の身に危険が及ぶーー理由はどうあれテートを殺した奴が俺のことも殺そうとしてくるーー可能性があれば無視することはできない。
俺は銃を抜いて空き地の奥に進んだ。
敷地の隅には、トタン屋根が設けられていて、その下に木材や石材などの資材が積まれている。かつて何かのために用意されたものだろう。だが今となっては完全に放置されていて、誰かによって管理されている様子はない。
そんな資材の陰に、小さな人影が蹲っていた。
「誰だ」
俺は銃を向けながら距離を詰めた。
相手が顔を上げる。
するとそれは、子供だった。女の子の、まだ十歳くらいだろうか。薄汚れたボロボロのシャツに身を包み、食べかけのパンを両手で持っている。
ストリート・チルドレン。
別段珍しい存在ではないがここで見ることになるとは思っていなかった。
「誰、何の用」
今度は少女が訊いてきた。低い愛想のない声だが、少なくとも敵意のようなものは感じなかった。
俺はいったん銃を下げる。銃を突き付けていても、逆に無駄な警戒心を抱かせるだけだ。もちろん、何かあれば直ぐに対処できるように相手の動きに注意は払い続ける。
そして相手の問いには答えず、別の質問を投げかけた。
「お前がやったのか」
「何を」
「あそこで死んでる奴だ。お前が殺したのか」
俺は顎でテートの死体が転がっている方を指す。
「ああ、あれ。そうだけど」
「どうして殺した」
「何か持ってそうだったから。何も持ってなかったけど」
なるほど。車がああなていたのはそれが理由かと納得する。
「盗みが目的か」
「もしかしてあいつに用でもあったの」
「まあな」
「じゃあ残念だったね」
悪びれるでもなくぶっきらぼうに言うと、少女は視線を手元に戻してパンをかじる。
「用っていっても殺しに来ただけだ」
「そう。ならさっさと帰って」
どうやら、こちらへの興味は完全に失われたらしい。食事の時間を邪魔するなと言わんばかりの雰囲気を醸しながら、少女は黙々とパンを食べる。
テートが死体になったことの次第が分かったからには、俺もこれ以上こいつに用はない。食いたいなら好きにすればいい。
予想外の事態に出くわしたが、モージズ・テートに死んでもらうという目的は達せられた。達せられていたというべきか。このまま帰って標的を殺したとメーディに報告すれば終わりだ。俺が殺したことにしておけば、報酬も貰えるだろう。とはいえ、それ本質的な目的ではない。
俺はこの手で人を殺すためにここに来たのだ。なのに実際に来てみれば、ターゲットはすでに別の人間に殺されていた。死んだ人間を殺すなんてことは、どうやったってできやしない。振り上げた拳が行き場を無くしあてもなく宙をぶらぶら漂っている、そんな感覚が俺の胸の中で渦巻いている。
その時、ちょうどいい相手がいることに俺は気づいた。
下ろしていた銃を、目の前の少女に再び向ける。
「代わりに殺され―ー」
俺が言い終わる前に、少女が弾かれたように跳びかかってきた。同時に、その左腕を俺めがけて突き出してくる。
だが、その反応は予想の範囲内であり、動きも対応できないほど速いわけではない。俺は体を捻って左腕を躱し、その手首を左手で掴んだ。少女の腕は細く、このまま力を入れてしまえば簡単に折れてしまいそうだ。少女は必死に俺の腕を振り払おうとするが、それは無駄な試みだった。大人と栄養状態の悪い子供では単純な力には歴然とした差がある。
手にはナイフが握られていた。よく見れば手は血で汚れている。テートを殺したときに付着した返り血だろうか。
ナイフを取り上げ、蹴り飛ばす。すると少女は、まるで支えのない人形のようにあっさりと倒れた。
殺すと言われ、咄嗟に反撃に出たのだろう。だがそれは残念ながら失敗に終わった。銃を向け直して引き金を絞れば、それで少女は死ぬ。
「冗談だ」
俺は両手を肩まで上げて言った。
少女は地面に転がったまま俺を睨みつけてくる。貧相で汚れたボロボロの体の中にあって、二つの瞳だけは力強さが宿っていた。その原動力は俺への敵意か。
そんな少女の姿を見ていると、途端に殺そうという気が萎えてきたのだ。さっきまで俺の中で漂っていた人を殺すという目的意識は、跡形もなく消えてしまった。
「俺の家に来るか」
不意に、そんな言葉が口をついた。
俺は自分自身の発した言葉に驚く。
こいつは身内でも知り合いでもない、ついさっき会ったばかりの子供だ。面倒を見てやる義理はない。慈善活動をしようというつもりなど、なおさらない。こういった子供は今まで何人も見てきたが、そんなことをしたこともしようと思ったことは一度もない。そしてそれはこの少女を前にしている今も何一つ変わらない。
しかし、なぜか発言を取り消そうという気にはならなかった。むしろ、少女の答えを待ってさえいた。
そんなどっちつかずな心持のまま、じっと少女を見下ろす。
少女も無言のまま俺を見上げていたが、やがて少女は体を起こし、口を開いた。
「代わりに何をすればいいの」
「別に。何もする必要はない」
「じゃあ何が目的なの」
少女から俺に向けられる視線に宿る不信感が増したように思えたのは、気のせいではないだろう。タダより高いものはない。純粋な善意など、そんなものが気安く転がっているような場所ではない。俺もそんなことを言われれば、絶対に裏があると疑う。
「ただの気まぐれだ。嫌ならそれでいい」
本当にただの気まぐれだ。自分でも何故あんな言葉が口から出たのか不明だし、だからそうとしか言いようがない。目的や理由を問われてもそんなものは存在しないのだから、答えようがない。それで相手に納得してもらおうなんていうのは無理な話だろうが。
少女は一度俯いてから、ゆっくりとした動きで立ち上がった。
そして言った。
「わかった。じゃあ連れて行って」
相も変わらず、そっけない口調で。
***
初めて人を殺したのは、確か十歳の時だった。
当時の俺は、あの少女のようにストリートチルドレンだった。といっても初めからそうだったわけではない。そうなる以前には帰る家があり、親がいた。
父親の記憶は一切ない。俺が生まれた時からいなかったのか、それとも物心がつく前にいなくなったのか。母親に訊いたことがあったが、適当に誤魔化されるだけで教えてはくれなかった。そんなわけで、俺はずっと母親一人に育てられてきた。しかしその母親も、ある日突然いなくなってしまった。子育てがもう嫌になったのかどうかは分からない。もしかしたら、本当に家に戻ることができなくなってしまったのかもしれない。だがその時の俺は、自分が捨てられたのだという妙な確信を持っていた。親子仲が悪かったわけではないが、では順風満帆だったかというと、そうでもなかったように思う。きっと、普段の生活からなんとなく察していたのだろう。いつかそんな日がやって来るのではなか、と。だから俺は、さしたるショックを受けなかった覚えがある。
俺に残されたのは、街とスラムの間に建つているアパートの一室と、母親が残していった数々の物。しかし、それらを碌に収入もない子供が維持できるわけもなく、アパートを追い出されてそれらを失うまで、そう長くはかからなかった。街の社会システムに入り込めていれば、孤児院なり里親なりと行くあてはあったかもしれないが、生憎と俺はそうではなかったのだ。
それからスラムに身を寄せた俺は、生きていくためにあらゆることをした。ひどく安い賃金で働いたこともあれば、盗みを働いたこともある。自分より弱い奴を痛めつけたり、脅したりして奪い取ったことも。
でも一つだけ、人殺しだけには手を出さなかった。殴って怪我をさせることはあっても、取り返しのつかない重傷を負わせたり、命を取るまではしなかった。なぜなら、それは人として絶対に越えてはいけない一線だと思っていたからだ。
あの時、俺は追っ手から逃げていた。
ボケっと立っていた男の隙をまんまとついて財布をスッたつもりだったが、バレて追われていたのだ。気付かれること自体はままありつつも、大抵の場合はそれまでに逃げおおせられていたのだが、その日は完全に仕損じてしまった。うまく巻くことができず、それでも逃げ切ろうと入り組んだ路地に逃げ込んでみるも、相手は諦めてはくれなかった。
足も体力も、男が勝っているのは明らかだ。俺は背後に迫りくる気配を感じながら、振り返る余裕もなく走り続ける。
だがついに、シャツの首元を掴まれた。後ろに引っ張られて一瞬首が締まり、前に進めなくなる。俺はそれを振り解くために暴れようとするが、直後、鈍い痛みと激しい衝撃が頭部を襲ってきた。頭の中が真っ白になり、全身から力が逃げていく。殴られたのだと理解したのはそれからだった。
そのまま前に倒れそうになるが、捕まれているシャツが支えになり、体が傾いたまま宙で止まる。そして引き起こされたかと思うと、再び殴られた。
今度は手を離され、地べたに倒れ伏す。
「このクソガキが」
わき腹を蹴られ、その苦痛によって俺の口から思わず声が漏れる。
三度の攻撃で、男に歯向かう力はすっかり刈り取られた。盗んだ財布はすでに俺の手を離れ、汚れた地面に転がっている。手を伸ばせば届く距離だが、この期に及んでそうする気は起きなかった。足掻いたところでどうにもならないのだから。
視界の片隅で、男が財布を拾い上げる。
さっさとそれを持って立ち去ってくれ、と俺は横たわったまま念じる。
だがそんなものは通じてくれなかったようで、不意に男の手が俺の首を鷲掴みにしてきた。
喉を絞められ、うぐっと息が詰まる。打撃がくることは覚悟していたが、これは予測していなかった。
体を持ち上げられ、足が地面から離れる。俺は男の手を掴み、足をバタつかせて抗う。しかし男の力が弱まることはなく、俺は振り回されて壁に叩きつけられた。胸の奥から空気がせりあがってきたが、首を絞められているためうまく吐き出せない。行き場を失った空気が胸の中で暴れ、激しい痛みが襲う。
男の顔が、鼻が触れ合うほどにまで迫ってきた。
「お前みたいなたかるしか脳のないウジ虫が世の中を腐らせるんだ。この際だ、もう二度とこんなことできないようにしてやろうか」
その声はひどく冷淡で、そしてどこか遠くぼやけているようだった。
だんだんと視界に靄がかかってくる。
このままでは、締め殺される。白んでくる思考の中で、その恐怖が増大していく。
俺はズボンのポケットに右手を伸ばした。手探りで中にねじ込み、そこにあるフォールディングナイフを握る。
ポケットから引き出す同時にブレードを開き、いま出せるありったけの力で右腕を前に突き出す。
しっかりとした手ごたえがあり、男の手が首から離れた。解放された俺は尻もちをつきながらも、男に刺さったナイフの柄に、絶対に手放すまいとしがみつく。刺された男は呻きながら、その場で膝をついて俺に方にもたれかかってきた。
左足で男を押し退けながらナイフを引き抜く。思いのほか、男はあっさり仰向けに倒れた。
俺はその胸めがけて、両手でナイフを叩きつける。ズブリ、と刃が深々と突き刺さった。
引き抜き、もう一度振り下ろす。
それから俺は、何度も何度も、男にナイフを突き立てた。
そうしている内に、いつの間にか男はピクリとも動かなくなった。幾多の傷口からは血が流れ、俺の両手も赤く汚れている。
そこで俺は、呼吸ができるようになっていることに気付いた。ナイフを振るう間、ずっと無為時期に呼吸を止めていたのだ。それを自覚した途端、空気が勢いよく喉を流れ出し、俺は思わず咳き込んだ。
深呼吸を繰り返し、なんとか呼吸を整える。
ふと顔を上げると、死んだ男の顔が目に入った。口を半開きにし、この世ならざる虚空を見つめている。
自分が人を殺したのだという、紛れもない証。それをまざまざを見せつけられた。
決してこれだけはやるまいと己に課していたこと、破ってしまったのだ。身を守るためには仕方がなかったということは理解している。死んでまでも固守するべきものだとは思っていない。死んだらお終いだ。そしてだからこそ、人の全てを終わらせる殺しは禁忌だと自分に言い聞かせてきたのだ。
別に男を殺した自分を非難しているわけでも、後悔しているわけでもない。しかし、人の命を奪ったというのは紛れもない事実だ。であるならば、そこには然るべき感情が伴われるべきである。
罪の意識。罪悪感。
人であるならば、そう呼ばれるものが芽生えるべきなのだ。
しかし俺は、自分がそれらを感じているようにはどうしても思えなかった。
脳では認識しているが、心がそれに追従していない。考えれば考えるほど、その乖離は明確になっていく。そしてそれに比例して、不安感がどんどん募っていった。
自分は、人を殺しても何も感じない人間なのか。
そんな疑念が不安の中から止めどなく湧き出てくる。それは、人でなしの烙印を押されたも同然だ。
認めたくなかった。こんな掃き溜めみたいな場所であっても、俺は人であるという自負を持っているし、そうやって今まで生きてきたつもりである。だがそれを、自分自身に否定されてしまったのだ。
ふと、もしかしたら今回がたまたまそうだっただけかもしれない、という期待が頭をよぎった。殺されかけて心に余裕がなかったからではないか、助かった安心感で打ち消されてしまったからではないか、と。
それを確かめるために、俺は行動を起こした。
つまり何をしたかといえば、もう一度人を殺したのだ。
どこで聞いたかは覚えていないが、殺しの依頼を引き受けてくれる人間を探している奴がいるという話を耳にした俺は、そいつが入り浸っている酒場に向かった。その仕事をやらせてくれと頼み込むために。初めは子供はお呼びでないと門前払いされたが、俺がしつこく付きまとっていると遂に、ならできるもんならやってみろ、とターゲットを教えてくれた。
ターゲットとすれ違った直後に相手の腰を一刺しし、倒れたところでさらに追撃を加えて完全に息の根を止める。とても簡単だった。今度は防衛目的でも何でもない。初めから明確に殺意を持って、殺すために殺した。
しかしそれでも、俺は何も感じなかった。刺した時の感触、変わり果てた男の姿、それらは全て俺の心を素通りしていく。
自分は人を殺してもなんとも思わないような人間ではないと証明するためにやったのに、望んだ結果は得られなかった。それどころか、そういう人間なのではないかという確信が、より強まることになった。
自分への失望感がさらに増していく。
しかし、それと共に、俺の中に一つの願望が生まれた。
人を殺して、そのことに対して確かな罪の意識を感じたい。と。
***
寝苦しさを感じて寝返りを打つ。しかし体を回転させると、すぐに背中が柔らかい壁にぶつかった。仕方ないので、その場で体を少し浮かせて体の上下を入れ替える。けれどもそれからなかなか寝付けず、下敷きになっている右半身も徐々に痛くなってきた。辛抱できずに姿勢を変えてみるが、いいポジションがいつまでも見つからず、何度ももぞもぞと体を動かし続ける。そしてそんなことをしているうちに、気づけは脳はすっかり覚醒してしまっていた。
こうなってしまったからにはもう一度寝るのは無理だろう。俺は眠りに落ちるのを諦め、目を開けて上半身を起こした。
俺が寝ていたのはベッドではなくソファの上だった。道理で体が硬くなるわけだ。
ベッドに目を向けると、昨日連れて帰ってきた少女――アイという名前らしい――が、隅で壁を背にして膝を抱えていた。
「起きてたのか」
俺がソファで寝ていたのはこいつにベッドを譲ったからだったわけだが、どうやら向こうはとっくに目を覚ましていたようだ。
「そうだけど」
「眠れたか」
「別に」
少女は俺を見つめたまま、冷淡に一言だけ返してくる。昨日からずっとそうだ。付いてきたといっても、態度が急に変わったかというとそんなことはない。別に愛想を振りまいて欲しいわけでも話し相手が欲しかったわけではないので構わないし、見られたところで穴が空くわけでもないが、ここまで壁を作られるとどうにもやりづらいものがある。俺とて社交的な方ではないが、ここまでではないつもりだ。
このまま視線を受け止めていても埒があかないので、俺はそれを意識の外に押しやって立ち上がった。窓のカーテンを開けると、明るい日光が部屋の中に差し込んでくる。
時計を見るとまだ七時前だ。用事もないのに随分と早起きしてしまったようだ。
シャワーを浴びて汗を流してから、朝食のパンと牛乳を机に並べる。
「ほら飯だ。食うならこっちで食え」
俺は少女に呼びかけてから、パンをかじった。
すると少女はゆっくりとベッドから降り、俺の向かいにやって来た。そしてそのまま床に座り込み、パンを手にして口に運んだ。
十時を過ぎた頃、アイを車に乗せて家を出た。
目的は食料の調達と、そのついでにアイに着せる服を買うことだ。会った時に身に着けた服は早々に脱がせたし、とりあえず俺のシャツを着せていはいるが、いつまでもそのままというわけにもいかないだろう。道中の店で安いシャツとズボンを何セットか適当に見繕い、街のスーパーマーケットに向かう。買い物をするだけならいつも利用している近くの食料雑貨店でも事は足りるが、アイを連れてこの辺りを歩き回ることはあまりしたくなかった。誰かに見られて困る事態になることはないと思うが、ここらはそんな子供連れみたいななりでうろつくのが似合う場所ではない。といっても、当のこいつはそもそもずっとここで暮らしてきたのだろうし、俺も和やかなショッピングをする気などさらさらないので、ここで買い物をしたところで特に支障はないのだが。要するに、気分の問題といったところだ。無論、スラムで買うよりは値が張るが、それが問題になるほど余裕のない生活は送っていない。
駐車場に車を停め、店内に入る。
「何か欲しいものがあれば持って来い」
アイにそう言いながら、入り口付近に並んでいるカートを掴む。
来るのは初めてではないが、かなり久しぶりだ。必要なものはだいたいあっちで揃うので、買い物のためだけにここまで足を延ばすなんてことはまずしない。来るとすれば何かのついでか、今日みたいに特別な理由がある時くらいだ。
俺は店内を順番に回りながら、目当てのものを籠に放り込んでいく。
シリアルにカップ麺にジャンクフード。そしてビールにミネラルウォーター。いつも買っている品々だ。スラムの方では目にしないような商品が棚のいたるところに並んでいるが、結局のところ手に取ったのは普段と同じ物に収まった。
その間、アイは無言で俺の後ろにひたすらくっ付いて来ていた。時たま目の動きだけで辺りを見回してはいるようだが、何かをねだってくることはない。もっとも、今までの態度からして、そんなことをしてくるとははじめから思っていなかったが。
それから俺は、会計を済ませて店を出て、まっすぐ家に帰った。
***
アイを家に連れてきてから一週間が過ぎた。特に何かが起こることもなく、パターン化された日々が坦々と続いていた。
俺が家にいる間、アイはそこが定位置とばかりに、常にベッドの隅からじっと俺を見つめてくる。例外は飯を食う時とシャワーを浴びる時くらいだ。俺が出かけている間にどうしているのかは知らないが、帰った時にはいつもの場所でいつもの態勢をとっている。一応、合鍵を玄関に置いて外に出たければ好きにしろとは言っているが、外出した痕跡はない。試しに訊いてみても、ずっと家にいたという答えが返ってくる。
そして何日かして気づいたことだが、こいつは俺よりも早く寝ようとはしなかった。俺が眠る時まで目を開けているし、俺が起きた時にはすでにいつもの姿勢をとっている。もしかしたらあの格好のまま寝ているのかもしれない。ちゃんと眠るように何度か言ってみたが、あいつがそれを聞き入れることはなかった。
心を開くには、まだいろいろと足りないということだ。
自分がこいつくらいの時にはどうだっただろうかと思い返す。仕事をくれる男の元に身を寄せていたことがあったが、そいつを心から信頼することはついぞなかった。ひどい扱いを受けたことがあったわけではない。どちらかと言えば、ずいぶんと良くしてくれたと思う。けれどもそれは、双方の利益のバランスがとれていたからこそだ。俺はあいつの為に働き、あいつはその見返りとして俺に目をかけてくれた。何かのきっかけでその釣り合いが傾けば、あっという間に崩れてしまう関係だ。相手にとって価値がないと判断されてしまえば、いつ捨てられてもおかしくはなかった。あの男が実際のところどう考えていたのかは知る由もない。もしかしたら、そういった利害関係抜きで面倒を見てくれていたのかもしれない。今の俺がアイにそうしているように。だが、そうではないというのが当時の俺の偽らざる気持ちだった。そうであって欲しいという願望が心の片隅に浮かぶこともあったが、自分自身でそれを否定し続けていた。純然たる好意を向けられることなど、ありえないと思っていたから。
こいつもそうなのだろう。ましてやまだ一週間しか経っていないのだから。
「ほら、キーだ」
日付が変わり時計の短針が3の文字を指す頃、いつもの酒場でメーディに会った。俺が来たことで画面から顔を上げたが、相変わらずパソコンで何かの作業をしているようだった。
「悪いな。個人的な用を頼んじまって」
向かいに座るメーディは、俺がテーブルに放った車のキーを回収する。
「別にいいさ。どうせやることもないし、仕事には変わりない」
「礼だ」
メーディがカバンから封筒を取り出す。
俺はそれを手に取り、約束の金額が入っていることを確認してから懐に仕舞った。
今回頼まれたのは、いつもの殺しの仕事とは違う類のものだった。借りた車で街まで行って荷物を受け取ってくるという、簡単なお使いだ。今日の――とっくに十二時は回っているので正しくは昨日だが――夕方の五時くらいに電話がかかってきて突然頼まれたのだが、本業とは違うとはいえ断る理由も特段なかったので引き受けたのだ。それに、義理がどうとかいうつもりはないが、日頃から世話になっている間柄でもある。
「そういえば、最近何か変わったことでもあったか」
唐突に、メーディが訊ねてきた。
否が応でもアイのことが頭に浮かぶ。暗にそのことを聞き出そうとしているのだろうか、という疑念が脳裏を過った。
「何もないさ。お前に運び屋みたいな仕事を頼まれたことくらいだ」
遠回りに聞き出そうとしているなら、わざわざそれに乗っかってやるつもりはない。そうでなくても、こっちから教えてやる必要もないだろう。変に隠してると思われても厄介だが、この場面では言った方が拗れそうな予感がした。
「そっちはなんかあったのか」
「本業の方が忙しくてな。かなわんよ」
「そうか」
といっても、普段はこいつが仲介業以外に何をしているのかは知らない。インテリのような気はするが、はたしてどうだろうか。
店主がやって来て、注文した酒を置いて去っていく。
俺はその酒を半分ほど一気に飲み干し、
「忙しいのはいいことだ」
「そんなことないさ」
メーディは溜息を吐く。
「仕事が忙しいならそれをやってりゃいいが、何もないと時間の潰し方に困る」
「仕事以外にすることがなきゃそうなるな。だったら何か始めてみたらどうだ」
「何かって、例えば」
「さあな。お前に似合う趣味なんか知らんし」
「なら放っておいてくれ」
俺は酒のグラスを空にする。
「じゃあな」
「ああ待て」
俺が立ち上がって背を向けたところで、メーディが呼び止めてきた。
「なんだ」
「耳を貸せ」
メーディは掌を上に向けて手招きする。
「何の話だ」
テーブルに身を乗り出して顔を寄せると、メーディは耳打ちしてきた。
「どうやらモージズ・テートを殺した奴を探してる連中がいるみたいだ」
そしてすぐに、俺の胸を押しやって言った。
「じゃあな。気をつけて帰れよ」
帰り道、車を運転しながら、別れ際にメーディから言われたことについて考えを巡らす。
こんな仕事だ。どこで恨みを買っていてもおかしくはない。むしろ、復讐の為に俺を狙うような奴は今までもいただろうし、そうであるならメーディの奴もそのことは知っていただろう。本当のところはどうだか分からないが、あいつはこの辺りの情報なら大抵のものは把握しているという話だ。だが、それについてあいつが教えてきたのは、さっきが初めてだ。成立した仕事に関係ないことにまでは踏み込んでこない奴だから、知らせてくれないこと自体に文句はない。もとよりそういう関係だ。だからここで気になるのは、何故今回に限って忠告めいたことをしてきたのか、ということだ。
単なる気まぐれならいいが、そういう奴ではないはずだ。
少ない手がかりから、メーディの意図を推測しようとする。
だが、アルコールが回ってきたのか、思考がうまく繋がっていかない。
結局、車が家に到着するまで何の進展も得られなかった。
外から見て分かってはいたが、部屋に入ると中は真っ暗だった。俺は手探りで電気のスイッチを見つけ、明かりをつける。
冷蔵庫の上にある合鍵に目をやると、やはり使われた形跡はなかった。俺が夕方に家を出た時から位置は変わっていない。
あいつはどうしているのかとベッドを見る。
すると、そこには初めて見る光景があった。
ベッドの隅で、アイが横になって寝息を立てていた。
見たところ、睡魔に抗えず眠りに落ちたといった様子だ。いつものごとく、俺より先に寝まいと帰ってくるのを待っていてたのだろうか。遅くなるから先に寝てろとは言ったが、それを素直に聞き入れるような奴でもないだろう。だが、この時間まで目を開け続けることはできなかったらしい。普段しっかり寝ていなかったからというのもきっとあるだろう。もしかしたら俺がいなかったことで少し気でも緩んだのだろうか。
まあこっちとしても、無理に起きてられるよりちゃんと寝てくれたほうがいい。寝かさないために連れてきたのではないのだ。
俺はベッドに歩み寄ると毛布を手に取り、そっとアイにかけてやる。
その途端、アイは耳元で銃声を鳴らされたかのような勢いで跳び起きた。同時に、右腕が突き出されてくる。俺は危険を感じ、反射的に体を後ろに退いてそれを回避する。アイの腕が空を切った直後、その手には何処に隠し持っていたのか刃物が握られていることに気が付いた。もし避けていなければ、胸を刺されていたに違いない。
アイは俺に体を向けると、ナイフを構えながら、左手をベッドについて逃げるように後ずさろうとした。だが、すぐ背後にある壁に阻まれ、その場からほとんど動くことができなかった。それでもなお、俺から少しでも距離をとろうとするかのように、必死に壁に背中を押し付けている。
息遣いは荒くなり、その呼吸音は俺の耳まではっきりと届いてきた。そして俺を見上げるその瞳には、怯えが浮かんでいるように見える。こいつがこんな表情をするのを見るのは、初めてだった。
こんな顔もするのか。そんな素朴な感想が頭の片隅に浮かぶ。
襲われるとでも思ったのだろうか。
「心配するな。別に何もしやしない」
俺は毛布をベッドの上に放りなげると、両手を肩の高さまで上げた。
少女を暴行したりするような輩は世の中――特に倫理もへったくれもないようなこの辺りにはいくらでもいるが、少なくとも俺はそんなことをする気はない。仕事で殺せと言われたならばそうするが、今はそうではない。
「ほら、そいつを渡せ」
俺は腕を下ろし、右手を差し出した。
だがアイは、ナイフの狙いを俺から外そうとしない。その切っ先は、小刻みに震えている。
「何かする気ならとっくにやってる。さあ、そいつを渡してくれ。お前に乱暴なことはしたくない」
力づくで奪うのは簡単だ。だがそれは本意ではないし、なによりアイを余計に怖がらせてしまうだけだろう。
根競べだ。俺はアイが折れるのをじっと待つ。
すると観念したのか、アイは一度右腕を引っ込めると、手の中でナイフを半回転させて柄を俺に向けてきた。
「そうだ、それでいい」
俺は手を伸ばしてナイフを優しく取り上げる。
「文句があるならいくらでも言え。ちゃんと聞いてやる。だけどこいつは無しだ」
アイは答えない。だが言葉自体は耳に届いたはずだ。それをあいつがどう受け止めたまでかは分からないが。
俺はアイに背を向けると、冷蔵庫から缶ビールを取り出し、ソファに腰を落とした。取り上げたナイフをテーブルに横たえ、缶のプルタブを開けて一気に飲み干す。
大きく息を一つ吐き出し、空になった缶をナイフの横に置く。
やはり、アイは俺のことを何一つ信用していなかったのだ。ナイフを隠し持っていたくらいには、ずっと警戒していた。俺と一緒にいて心休まる時などなかったのだろう。
急に酔いが回ってきたのか、頭がくらくらしてきた。
昨日の朝から起きっぱなしだ。徹夜は無理じゃないが、起きていてもやることはない。
一度寝るか。とソファーの上でアイの方に背を向けて横になる。
「寝るんなら電気消して寝ろ」
そう言って目を閉じる。
しばらくして、背後からもぞもぞと動く音が聞こえた。
何をしているのだろうか。一応さっきのナイフは取り上げたが、全身を調べたわけではないので、まだ何か隠し持っているかもしれない。さっきの様子からしていきなり襲い掛かってくるようなことはしてこないと思うが、念のため目を開けて耳を澄ませる。
「ねえ」
不意に、アイが声を発した。
それが俺に向けられたものだというのは明らかだ。だが俺は、寝てる振りをしてあえて返事をしなかった。無視していたらアイがどうするのか、それを見るか聞いてみたかった。
「ねえ、起きてるんでしょ」
再び、アイが呼び掛けてきた。
俺はどう対応すべきか暫し逡巡する。
どうやら俺が寝ているとは思っていないらしい。カマをかけているだけというのも有り得るが、そもそも横になってからたいして時間も経っていない。
「ねえ、フランク」
一瞬、俺は体を起こして振り返りそうになった。
記憶にある限り、アイが俺の名を口にしたのはこれが初めてだ。
それに気のせいかもしれないが、さっきより声が大きくなっていた。いつもの淡々とした喋り方とは違い、どこか懇願しているようにも聞こえた。
このまま続けるか、少しの間悩んでから、
「なんだ」
俺は横になったまま返事をした。
きっと、これ以上続けても意味はないだろう。もう一度繰り返すか、あいつが諦めるかのどちらかになる。
「なんで……わたしを連れてきたの」
「どうした急に」
俺は起き上がり、振り向く。
「前に言ったろ、ただの気まぐれだ」
「そんなわけない」
「どうして」
「何の理由もなく、わたしみたいのに構うわけない」
なるほど。やはりというか、思っていた通りかつての俺と同じ考えだ。そしてそれはほとんどの場合において正しい認識だろう。
どう答えたものかと考えあぐねる。理由などないと突っぱねるのは簡単だが、それでは納得しないだろう。
「そうだな……」
とはいえ、返すべき明確な言葉も見つからない。
「最初に会った時、お前は人を殺すことに対して何の負い目も感じていないように見えた。それで親近感がわいたのかもな。俺もずっとそうだったから」
あの時の感情を、なんとか言葉にしてみる。これが正しいかは自信がないが、嘘を言ったつもりはない。
アイは少し目を伏せたが、すぐには何も言い返してこなかった。
「そんなところだ。今ので納得できなきゃ出て行けばいい。別に止めやしない。そんでもし食うのにでも困ったらいつでも来い。そしたら面倒見てやる」
これ以上引き伸ばさないように、俺はそれだけ言うと電気を消して再びソファに寝転んだ。
暗闇の中、無言が俺たちの間に横たわる。
また何か言ってくるだろうか。そんな考えが頭の中を緩やかにめぐる。
だが、それっきりアイが話しかけてくることはなかった。
翌朝。
ベッドの上ではアイが無防備に寝息を立てていた。
***
淀んだ空を厚い雲がゆるやかに流れて行く。
年季の入ったアパートの裏。
壁際に設置された錆びの目立つバスケットゴールの前では、十代くらいの男四人がボールをめぐって二対ニの対戦をしている。
やることもないので、俺は浅黒い染みのついた壁にもたれて、その様子を眺めていた。
見た目の歳や身長は皆同じくらいだが、一人だけ突出して上手い奴がいるようだ。規則正しいドリブルの音と、仲間に向けた活気のある声。放られたボールは見事にネットを揺らすこともあれば、ボードやリングに弾かれ鈍い音を発することもある。
と、気配を感じて振り向くと、隣にメーディがいた。
「最近何か面白いことはあったか」
挨拶もなく、そう訊ねてきた。
「いや、何も変わらんよ」
「そうか。聞くところによると、子供を世話しているそうじゃないか」
虚をつかれ、俺は一瞬動揺した。その話題を振ってくるとは予想していなかった。
「なんの話だ」
「惚けるのはよせ」
「惚けちゃいない」
この誤魔化しには何の意味もないだろ。
あいつのことを隠して生活しているわけではない。むしろ、何処かで誰かに見られていてもおかしくはない。となれば、メーディが知っていても何の不思議もない。そして口ぶりからして、鎌をかけているというわけでもなさそうだ。おそらく、確信を持って言っているのだろう。
だがこの時俺は、何か嫌な臭いを感じた。それが奴の言葉を肯定することを拒んだのだ。
「まあ、いい。お前がそう主張するなら好きにしろ。俺は依頼を伝えるだけだ」
そしてメーディは、あることを言った。
いつもと変わらぬ様子で。
ゆっくりと、バスケットボールが転がってきた。そして俺の足に当たり、止まった。
時たまそうしているように、その日俺は、アイを連れて買い物に出かけた。
アイは特段買い物に行きたがりはしないのだが、そうでもしないとなかなか家から出ないので、何回かに一度連れ出しているのだ。そして今日も、普段と同じようにアイを車に乗せて、行きつけの雑貨店に向かった。
「何か欲しいものがあったら持って来い」
店に入ると、俺はアイと分かれて食料品の棚に向かった。特に考えることもなく、いつもと同じものをカゴの中に放り込んでいく。
でかい店ではないが、背より高い棚をはじめ、所狭しと至る所に品物が置かれていて、少なくとも俺が生活で必要とするものはここで手に入る。。
そうしていると、新しい客が来たらしく、入口のドアに取り付けられているベルが鳴り、店員の「いらっしゃい」という不愛想な声が聞こえた。
俺はミネラルウォーターを手に持ったまま、入口の方に目を向ける。だが商品が雑然に押し込まれた棚に視線を遮られ、向こうの様子は見えなかった。
心なしか、胸の鼓動が高鳴ってくる。
それを無理やり無視し、ペットボトルをカゴに投げ入れる。
と、バチバチバチッというスパーク音と、アイの悲鳴が聞こえた。
俺は反射的にカゴを手放して懐の銃を掴み、周囲を見回す。だが、目に見える範囲では何も異常はなかった。
声のした方に駆けていく。
場所は二つ隣の棚の裏だった。
そこでは、アイがぐったりと倒れていた。
そしてその向こうに、スタンガンを持った男が立っている。
「あんたがフランクか」
「ああ。メーディが言ってた奴か」
状況を理解し、俺は銃から手を離した。力の抜けた右腕が、だらんと下がる。
「おい、ここで騒ぎを起こすんじゃねえ」
「済まないな、もう終わりだ」
「ならさっさと出てってくれ」
「そうするよ」
男は奥から怒鳴り込んできた店主をあしらうと、意識を失っているアイをそのまま抱え上げた。店主はそれ以上は何も言わなかったが、レジカウンターに手をついて俺たちを睨んでくる。
「そういうことだ。こいつは貰っていく」
「もっと穏便にやってくれると思ってたんだが」
「どうしようとこっちの勝手だ」
そう言って、男はアイを抱えたまま店から出ていった。
「お前が連れてる子供を探している奴がいる」
そう、メーディが言った。
「要はお前が引き渡すかどうかって話だ。もちろん引き渡すならそれなりの金が出る」
つまり、アイを売れということだ。
俺は承諾することも拒否することも、すぐにはできなかった。
いつもの仕事と同じく受けるべきだという当たり前の考えと、何処からともなく湧いてくるそうしたくないという感情がせめぎ合っている。
「拒否したらどうなる」
「さあな、そいつは俺の知るところじゃない。ただまあ、碌なことにはならんだろうな」
「誰なんだ依頼主は」
「そいつは俺の口からは言えない。分かってるだろ」
「そうか」
あまりにも間抜けな質問だった。
どちらも聴くまでもない事だった。
俺がアイの引き渡しを拒めば、相手は穏やかではない手段に訴えてくるだろう。そして、メーディは依頼者の秘密を漏らしたりはしない。
そしてそれらの情報は、俺の判断を後押しする役に立ってくれはしなかった。
「ちゃんとした答えは明日聞く。どうするかはお前の勝手だが、まあ、俺としては賢い判断をしてくれることを祈ってるよ」
メーディは俺の肩に手を置くと顔を覗き込んできた。そしてそのまま背を向けると立ち去って行った。
途中だった買い物を済ませて店を出る。
アイを連れ去っていった男の姿はもうどこにもない。
あいつは――アイは、これからどんな目に遭うのだろうか。
アイの引き渡しを要求してきたのが誰なのかメーディは教えなかったが、ある程度であれば想像が利く。おそらく、アイに恨みを持ってる連中だろう。あいつは生きるために、俺に会うまでに何人も殺してきたはずだ。それによってどこでどんな恨みを買っていてもおかしくはない。
親を殺された。
兄弟を殺された。
子供を殺された。
友人を殺された。
仲間を殺された。
恨みを抱く人間には事欠かないだろう。
そんな奴らがアイを前にして一体どうする。
自らの手で殺すだろうか。きっとこれが、一番温情的な処遇だろう。他は考えたくはない。想像しようとすると、胸の奥がざわざわしてくる。
俺は車の運転席に座る。
キーを差し込むと回さずそのままにし、買ってきた商品の紙袋から缶ビールを引っ張り出した。
プルを開け、常温で保管されていたそれを一気に流し込む。ぬるい炭酸液が口の中と喉に与えてくる刺激が、悶々とした感情をかき消してくれることを期待しながら。
一缶を丸々飲み干し、酒気を帯びた息を吐き出す。
少しばかりすっきりし、胸のモヤモヤも霧散していった。だが代わりに、なんとも言えない空虚さが残った。
形はあるのに、中には何も入ってないような感覚。
二本目の缶ビールに手を伸ばす。
車で帰ることを考えれば、酒はほどほどにしておくべきだ。酩酊状態でまともに車を走らせる自信はない。
だが気付けば、二杯目の酒に口をつけていた。