少女とゴブリン
少女は、自分の迂闊さを恥じていた。一糸まとわぬ姿で池の水に下半身を浸しながら、いかにしてこの窮地を脱したものか。危地にあっても、彼女の思考が鈍ることはない。
白磁のように透き通った柔肌に、淡茶色の長い髪を絡みつかせながら、ルシアは自身を取り囲む一団から小さく一歩ずつ距離を取り、立ち位置をずらそうとしていた。
秘紋魔術の発動体たる杖は、彼らの傍らにある。それを見越して、わざわざ彼女が独りのところを狙って来たのだろう。
少女を取り囲むのは、成人の人間族よりも一回りほど背の低い薄緑色の肌をした妖魔たちだった。地魔族と呼ばれる亜人種である。概してコモン族に比べ非力ではあるものの、集団戦法に長けており数で迫られると決して油断できない相手だ。特に隊長クラスともなれば大陸共通語を解し、統率力にも優れる。その数は五人。他にも兵を伏せているかもしれない。
睨み合いの続く中、華美な飾りをあしらった兜姿のゴブリンが進み出てきた。
少女らしい膨らみのある乳房を隠す素振りもなく、ルシアは不埒者たちの首魁と思しき人物に目を向ける。
「ぐふふふ、お前、油断した。めっさくさ、油断した。わしらゴブリン族、なめたからゴブ」
あまり流暢ではない大陸共通語で、隊長ゴブリンがルシアを嘲笑った。
「せっかくお父様が見逃してあげたのに。ググ、本当に懲りないのね」
「う、うるさいわい。そもそも、この辺りわしらの縄張り。お前らがわしら追い出したゴブ!」
「協定を破って、先に嫌がらせをしてきたのはググたちの方よ。森をむやみに荒らしたり、動物たちをいじめたりしないって誓ったのに」
ルシアに痛いところを突かれ、ググと呼ばれたゴブリンの隊長は一層甲高い声を上げた。
「お、おまえら人間族、ウソつき! 約束とか知らんゴブ。この前、調子悪かっただけ。今度はそうは、いかないない。覚悟しておけゴブ!」
ググはそう叫ぶと、右手を振り上げた。前衛のゴブリン兵二人が慎重に得物を構え、ルシアを挟み込もうとする。杖を持たないとはいえ、相手は魔術師の娘。何をされるか分からないという恐れがあるのだろう。いかにゴブリンが低級の妖魔とはいえ、さすがに前回痛い目に遭って少しは学習したらしい。だが並以上の力を持つ術者なら、利き腕が自由に動きさえすれば、やりようもある。
ルシアは髪の毛に指を絡ませ、低い声音で秘紋を紡いだ。たちまち彼女の髪が長く伸びたかと思うと、生き物のようにうねり、突出してきたゴブリンたちの武器を打ちすえた。髪の房はさらに長く太く、蛇のように伸びると彼らを拘束してしまった。
「な、なんだ、これはゴブ!」
「髪の毛に付与魔術をかけて、強化したものよ。杖がなくても、自分の身体なら多少は強化できるんだから」
「き、気持ち悪いゴブ!」
ルシアも一人の若い乙女である。自分の髪を気持ち悪いと評されては、いくら相手が妖魔とはいえ些か傷つく。えい、と云う掛け声と共に捕らえたゴブリンたちを乱暴に水面へ叩きつけた。さすがにこの一撃は効いたらしく、二人とも白目を剥いて気絶してしまった。
「さあ、もういいでしょう。おとなしく立ち去りなさい。でないと――」
そう言い終わるよりも前に、彼女の右肩を熱風が通り過ぎた。その後、遅れて激痛が走る。何事かと目をやってみると肩口に抉られたような傷ができており、鮮血で赤く染まっていた。突然のことで気が動転し、悲鳴を上げて座り込んでしまう。
「ぐふうふふ、魔術師相手に、何の用意もしてない。なくない。大間違いゴブよ。わしら自慢の短弓に、びびったか。見たことか」
(どうしよう、どうしよう!)
何とかしなければと思うのに、次に使うべき秘紋が一向に描けない。小競り合い程度の諍いは何度かあった。伏兵について可能性を疑わなかった訳ではない。だが、これほど明確な殺意を向けられた経験は初めてのことだけに、いくら聡明とはいえまだ年若い彼女には限界があった。
蒼白な表情で、それでも気丈に顔を上げ、ルシアはググをにらみ据えた。
「そんな顔しても、無駄無駄。おまえ捕まえる。エサになる。今度はあの爺、蒸し焼きになる。おい、逃げないように足も撃っとくゴブ!」
意気揚々とググの命令が下されたものの、一向に第二射が放たれる気配はない。恐怖で目を閉じていたルシアは、ゆっくりとまぶたを開いた。と、そこには信じられないような光景が広がっていた。
見ず知らずの若者が長剣を手に、ググたちゴブリン団と対峙していたのである。精悍な体つきと身に纏った革鎧から、手練れの戦士であることが伺い知れた。彼はゴブリンたちを一通り見渡すと、声高に叫んだ。
「お前ら、食べ物を寄こせ! おとなしく差し出せば、命だけは助けてやる!」