第4章義兄の一日
李憲は政策を決定する省庁である中書省の長である中書令を務め「宰相」と呼ばれている。
世間の評判は柔の姚崇、剛の李憲であり、皇帝を支える二枚看板として尊敬と恐怖を集めていた。
また李憲は仕事中毒である。
幼少期から、詩や、音楽、絵画と言った芸術や娯楽には一切興味を示さず、暇さえあれば、武芸と学問の鍛錬に明け暮れてきた。
その性分は大人になってからも変わっておらず、他の中書省の官僚達が休んで居るところを見たことが無いほど、働いている。
さらに李憲は自分にも他者にも厳しい。
怠慢や不正を見つけると、どんなに立場のある者でも、呼びつけ叱りつける。
賄賂が効かないだけでなく、お世辞や嘘も通じず全てを見抜くため、恐れられていた。
ある時、新人の官僚が李憲に呼びつけられた。
官僚は恐れおののき、李憲の下へ言った。
すると李憲は言った。
「この前の政策ですが立案したのはあなたですか?」
その政策とは税率の見直し案であり、貴族の力を弱め、民衆の生活を助けるものであったが、門下省の反発に遭い、拒否権を発動されて、廃案となっていた。
官僚は、今回の廃案の件の責任を取らされると考え、恐れおののいた。
しかし、真面目な性格から嘘をつくことが出来ず正直に言った。
「はい。今回の政策は、私の経験から立案させていただいたものです」
この男は、元々、平民の出で有ったが生まれつき学業に秀で、科挙で優秀な成績を修めたため、中書省の官僚に抜擢された。
そして、彼は最初の立案を任されることとなり、悩んだ末に実家の家族を想像し、彼らの生活が少しでも楽になる様な、政策を考えたのだった。
もっとも、現実は厳しく廃案になってしまったため、次は貴族との利害関係を調整した上で、皇帝の政敵の力を削ぐ事が出来るような政策を考えていた。
官僚の言葉を聞いた李憲はいきなり、官僚に向かって頭を下げた。
そして言った。
「申し訳ありません。私の力不足です。上手く貴族達を説得できず、あなたの素晴らしい政策を廃案にしてしまいました」
李憲の様子を見て、その言葉を聞き、官僚は焦った。
この時代の身分制度は大変厳格であり、王族で、宰相を務める男が、平民出身の一官僚に頭を下げる等、本来有り得ないことであったためである。
そこで、官僚もまた、頭を下げて言った。
「いいえ。貴族の方々の気持ちも考えず、現実に通りそうも無い政策を作ってしまった私の責任です。申し訳ありません。」
すると李憲は厳しい目で言った。
「謙虚なのは素晴らしい事です。ですが、上司として今後の事も考えてはっきり言います。あなたは間違っていない。」
官僚はその言葉を聞いて驚いた。
そして李憲は話を続けた。
「確かに、あなたの政策は、熟練の官僚達が作ってくるものに比べると、作成に満足してしまい、成立や実現については考えが及んでいませんでした。ですがその内容は素晴らしかった。何より、良いと思ったのは、政策についていた具体例です。これはあなたの実家のお話なのでしょう?」
官僚は言った。
「はい。そうです」
李憲は言った。
「つまりこの政策はあなたの実体験に基づいています。それに家族という形で救いたい対象も明確に想定できている。私は、この政策からは机上の空論を越えた、現実感を感じました。そしてそれこそは政策を立案する上で最も、重要なものであると考えています。」
官僚は李憲に認められたことが嬉しく、思わず涙ぐんだ。
そして言った。
「ありがとうございます」
李憲は涙ぐむ官僚を優しい眼で見つめた。
そして手元にある、扇子を取って言った。
「この扇子には皇室の家紋があしらって有ります。今回のお詫びとしてあなたにはこれを下賜しましょう。」
官僚は感激で手を震えさせながら、扇子を受け取った。
そして言った。
「李憲様。今はまだ未熟者ですが、いずれ、李憲様のお役に立てるようになります。」
李憲は言った。
「期待していますよ」
そして官僚は部屋を出て行った。
すると直ぐに、李憲の補佐官で中書侍郎を務める宋璟が部屋に入ってきた。
宋璟を見ると李憲は言った。
「あなたの話どおり、真っ直ぐな青年でしたね。私の言葉で、迷いが晴れればよいのですが」
宋璟は言った。
「大丈夫だと思います。あの男は聡明な男です。きっと、李憲様の考えを汲み取り立派な官僚となってくれるでしょう」
李憲は無駄話を好まない。
先ほどの官僚の話が終わったと判断すると、自ら話しを打ち切り、厳しい目をして尋ねた。
「ところで、宋璟。例の件はどうなりましたか?」
宋璟は言った。
「皇帝陛下に猫鬼を送り込んだのは、李弘派の貴族の、張易之という者で間違いなさそうです。張易之は猫鬼による呪いを行なった結果、自らの体が穢れる事を恐れ、自らの領民に行なわせたそうです。領民達が証言しています」
李憲はそれを聞くと少し考えた後に言った。
「領民達はなぜ証言をしたんですか?普通は、領主に報復を受けることを恐れて情報の提供は控えるでしょうに」
すると宋璟は言った。
「なんでも、張易之は自らの所領に国の支配が及ばない事を良いことに、ひどく高額な租税を科し、領民を奴隷のようにこき使っているそうです。」
それを聞いて、李憲は言った。
「そうですか。それは酷いですね」
李憲の柔らかな言葉とは対称的に李憲の声や表情には怒りが表れていた。
宋璟は言った。
「はい。ですから領民達は明日の生活にも苦しいほど、貧困にあえいでいます。そこで意を決して私の調査に応じてくれたという事です。」
宋璟は優秀な官僚だが、李憲よりも更に、真面目で、厳格で、正義感が強い。
そのため、さらに言った。
「李憲様。この様な者を許しておくことは出来ません。すぐに処罰しましょう」
李憲は落ち着いた声で言った。
「それは出来ませんよ。」
李憲が同意する事と思っていた、宋璟は驚き、言った。
「なぜですか?」
すると李憲は言った。
「貴族の処罰は皇帝陛下の専権であると定められているからです」
それを聞いて宋璟は反省した。
皇帝陛下の専権である、処罰権の発動を促す宋璟の発言は皇帝に対して指図を行なう、臣下の分を越えた発言ともいえるためである。
同時に、自分と同じ様に怒りを感じていながら、あくまで規則や、君臣の序列は重んじる李憲にあらためて敬意を感じた。
そこで、宋璟は李憲に対して頭を下げ、かしずいた。
「申し訳ございません」
それを見て李憲は、宋璟の真っ直ぐさを素晴らしいと思った。
「気にしないで下さい。あなたのその真っ直ぐさは国の宝ですよ。」
そして李憲は笑みを浮かべその様に言ったのだった。