第8章鍛錬
それからしばらく経った頃、宮廷の前の庭で、李憲が姚崇に剣術の稽古をつけてもらっていた。
もっとも姚崇は年であるため、昔のように自らが直接訓練を行なうことはない。
李憲と姚崇が連れて来て兵士達が剣で戦い、それを横から見ている姚崇が指導をするのである。
姚崇が言った。
「休むか?」
李憲は言った。
「いいえ。結構です」
李憲は強い。
幼少期から鍛錬を休んだ事が無く、その強さは宮廷内でも並ぶものが無いほどである。
しかし、李憲が行なっている鍛錬は驚く程、厳しい。
10数人は居る屈強な兵士達と休み無く打ち合いを行なっている。
さらに、形が乱れると姚崇から注意を受ける。
その結果、李憲はぼろぼろだった。
姚崇はその様子を厳しい表情で見ていた。
姚崇は小さい頃から李憲を厳しく鍛えてきた。
しかし、その指導は理にかなったものであり、今の様に不必要に厳しいものではなかった。
それが厳しいものに変わったのは悠基が皇帝に即位してからである。
それからというもの李憲は従来の鍛錬では納得しなくなり、今の様な厳しい鍛錬を行なうようになった。
つまり、李憲の鍛錬の目的は強くなる事ではない。
自らを痛めつける事なのだ。
それは妹を守るために反逆を行なった結果、失敗し、かえって妹に大きな重荷を背負わせる事になってしまった、弱い自分への自責の念から来るものであった。
もっとも、いくら李憲の覚悟が出来ていても、体はついていかない。
そのため、既に李憲は限界であり、剣技は崩れ、相手をしている兵士達も李憲の様子を心配していた。
そしてついに、ある兵士が李憲に隙があったにも関わらず、そこをつかなかった。
李憲の事が心配で思わず手を抜いてしまったのである。
すると李憲が言った。
「すみません。たしかに今の私は疲れています。ですが手加減はやめてください。鍛錬になりませんから。」
兵士はなおも、鍛錬を続けようとする李憲の態度に感心し謝罪をしようとした。
すると遠くから声が聞こえてきた。
「そこのお前。謝る事はない。悪いのは李憲だ。」
声の主は悠基であった。
悠基は李憲が鍛錬をしていると聞きつけ、急いでやってきたようだった。
悠基は李憲をにらみつけて言った。
「李憲。私はお前に休めと伝えたはずだ。誰も鍛錬をしろなどと言っていないぞ。」
李憲は悠基の態度にも動じた様子を見せず、平然と言った。
「悠基様。休暇をどう使おうと個人の自由であるはずです。邪魔をしないでいただけますか。今は鍛錬の最中なので。」
その言葉を聞いて悠基はさらに怒りを強めた様子で言った。
「これのどこが鍛錬だ。自分を痛めつけているだけではないか。姚崇も姚崇だ。なぜこんな無茶な鍛錬に付き合っている?」
姚崇としては本当はこの様な形の鍛錬には反対である。
しかし、李憲が強く望んだため付き合っているに過ぎない。
そのため遠慮がちに言った。
「李憲が望んだ事ですので。」
すると李憲はこのままでは鍛錬がやめさせられると感じたのか言った。
「無茶な鍛錬も時には必要です。弱い私が強くなるには一般の方法だけでは不十分でス。それにこの方法は古代から存する方法であり、荒唐無稽なものではありません。また私自らが厳しく鍛錬する様子を見せることは近衛兵の士気を高めることにもつながるでしょう。」
悠基は李憲の言葉を静かに聞いていた。
そして冷たい目で言った。
「相変わらず長い話だな。聞く気もおきないぞ。いいからやめろ。部屋で寝るなり、どこかに出かけるなり、休暇の過ごし方なら他にもいくらでもある。とにかく、この鍛錬だけはだめだ。」
李憲は悠基の方を見ずに兵士達に言った。
「悠基様の事は気にするな。鍛錬を再開するぞ。」
李憲は休暇中である以上皇帝の命令に従わなくても良いと考えたようだった。
本来は通らない理屈であるが、悠基の心配する様子を見て、なおさら自らの弱さを感じ、少し意固地になって鍛錬を行なおうとしているのである。
そしてその様子を見て悠基は激怒して言った。
「お前達。剣を全て引き上げろ。従わない者は処罰するぞ。」
兵士達にとって、宰相である李憲の命令よりも皇帝である悠基の命令の方が優先順位が高い。
そのため悠基の命令に従い、剣は全て引き上げられた。
剣を引き上げられ、鍛錬の出来なくなった李憲は言った。
「悠基様。私のような弱い者にとって鍛錬は必要不可欠なものです。なぜそれを禁止されるのですか?」
すると悠基は優しい表情で言った。
「李憲。鞭打ちでついた背中の傷はどうだ?まだ痛むのか?」
李憲は悠基の様子に毒気を抜かれてしまい言った。
「跡は残りましたが、もう痛くはありません。」
すると悠基は言った。
「そうか。跡が残ってしまったか。」
そしてそのまま庭を立ち去りながら言った。
「すまない。もう2度とお前を傷つけさせはしないからな。」
その言葉を聞いて李憲は珍しく冷静さを失ったらしく、柱を力づくで叩こうとした。
しかし、真面目な李憲は直前で思いとどまり、振り上げた拳をそのまま収めた。
「ミー。ミー。」(どうして陛下は李憲殿の鍛錬を見てあれだけ怒っていたのですか?)
一部始終を見ていた悠々が同じく見ていた楊玉環に向かって鳴いた。
それを聞いて陽玉環は言った。
「健気よね。あの娘はね。李憲の事が好きで好きで仕方が無いのよ。それだけに、ああいう鍛錬は見ていられないの。あれは鍛錬とは名ばかりよね。実質は自分で自分を処罰しているようなものだわ。」
それを聞いて悠々は鳴いた。
「ミー。ミー。」(なぜ李憲様はその様な鍛錬を行なわれるのですか?)
楊玉環は言った。
「自分の弱さがつらいのでしょう。あの男はね。傲慢にも陛下を守り支えたいと考えているの。でも、現段階ではあの男は陛下の一番の弱点だわ。この前の一件でもそうだけど、陛下が本当に合理的な選択をするなら、あの男は斬り捨てるべきよ。その事はあの男が一番分かっているから我慢できずに時々ああいう無茶な鍛錬をしだすのよ。」
悠々は鳴いた。
「ミー。ミー。」(でも陛下は李憲様と一緒に居るときは楽しそうですよ。)
楊玉環は言った。
「そうよ。陛下は生まれながらの皇帝っていう性格をしてるけど、自分のそういう部分が嫌いでしょうがないの。だから皇帝で居る自分も大嫌いで、あの男が居なかったら、まともな精神状態を保てないのよ。つまり、あの男は普段どおり暮らして陛下の話相手になるだけで、十分陛下の役に立っているわけ。要は、政治や戦争で役に立つ必要はないのよ。でも、あの男はその事に気付かないでしょ。それがまた陛下を歯がゆい気持ちにさせるんでしょう。」
悠々は鳴いた。
「ミー。ミー。」(人間って面倒くさいですね)
楊玉環は言った。
「そうよね。その点、獣は楽で良いわ。強いとか弱いとか、お腹が減ったとか、眠いとか、好きとか、感情が素直だもの。人間見たみたいにややこしい感情に悩んで余計な時間を浪費したりしないわ。」
悠々は楊玉環の話を聞くと、愉快な様子で鳴いた。
「ミー。ミー。」(でも見てて飽きないですね)
「そうね。一緒に居て楽しいし、時々妙に愛おしく感じる事があるわね。」
楊玉環はそう言い、笑みを浮かべたのだった。




