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ヤミヨヒメ  作者: 二束
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ヤミヨヒメ  -エル-

 朝の光は眩しい。

 その光の道筋に浮かぶ様々な要素が揺らぎながら煌くのが見えた。

 闇の要素だけがその輝きを恐れるように部屋の奥へ奥へと退き、私の影に逃げ込む。

 私は椅子に座りながら掃除をするキリカの様子を特に意味も無く眺めていた。

 今頃、アンナはランスと話をしているだろうかと思いながら。私の作った闇の衣装はしっかりと黒猫を守っているだろうかと思いながら。

「キリカ、」

 呼びかければ彼女は手を止めてこちらを見る。新しい命令を待っている。

 作業を続けるように言えば、また虚ろな表情のまま、黙々と掃除を始める。

 何度呼んでも彼女はいつも同じ反応で、振り向く事に億劫を覚えたりはしない。

「キリカ、」

 またこちらを向くので、私が手を振って見せると、彼女も同じように手を振り返した。

 私が手を振ったら振り返す。微笑んだら、微笑み返す。手を出されれば、握り返す。

 彼女の女中としての職務にはまるで無関係なそれらの事を教えたのは私だが、彼女は飽きる事無くそれを繰り返す。

 いや、実際に飽きる事無く繰り返しているのは私の方であるのだが。

 キリカはいついかなる場合も私の求めに応じ、己の職務が滞る事を気にも留めない。彼女にとって掃除も微笑みも、全て同じ命令であり、そこに優劣はない。

 しかしそのためにいつまでもこの部屋の掃除が終わらず、更にはこの部屋にいる限り私に邪魔をされ続けるのだから、時には聞こえなかった振りをしてしまおうなどとは思わないのだろうか。

「お嬢様、何をしておいでなのです?」

 部屋に入ってきたウルが、手を振り合う私達を見て、やや眉を顰めながら言う。

「キリカと遊んでいるのよ。正確には、キリカで遊んでいる、かしら。彼女は楽しいとか、そういう感情を持たないかもしれないから。私の独り遊びかも」

「あのアンナという人間の様子を見には行かれないのですか?」

 私は少々考える。

 行ったところで、何を見れば良いのだろう。

 アンナがそれでも何かを伝えられなくて、ランスが哀しんだとしても、私はそれを見たくない。

 アンナが上手く何かを伝えて、ランスを喜ばせたとしても、それは結局私がそうさせたわけでもないし。予想に容易い場面を見に行っても面白味は薄い。

 それに何より、余命幾ばくも無いアンナを前にランスの喜ぶ顔を見たとして、私はその様子を楽しむほど厚顔ではいられない。

「行かない。結局私には何も出来なかった事だもの」

「然様で御座いますか」

 ウルが私に気を使ってくれているのが分かる。

 実際は私の行く行かざるを問うつもりもなく、むしろ行くなどと言い出されては困るのだろうが、他にどんな言葉で私に声をかければ良いのか分からないのだろう。

 彼はただ私の様子を見たいだけで、見守る者が居る事を私に伝えたいだけなのだ。

「ウル、一つ聞いても良い? あまりウルの好みそうではない事なんだけど」

 椅子の肘掛に頬杖を突き、キリカの様子を眺めながら私はぼそぼそと不明瞭な声で話す。

 今朝はなぜか気だるい気分だった。

「何でしょう? 問われれば答えるのが私の務めですから」

「キリカの意思や気持ちを知る手立ては無いものかしらね?」

 私が微笑めばキリカも微笑むが、それは私の命令が返ってきているだけで、いわば私で私に微笑み合っているようなものだ。

 その自己愛とも取れるような関係に、キリカ自身の思いが若干でも混入すれば面白いだろうと思えた。

「キリカに言葉を与えれば、一先ず声を聞く事は出来ますが」

「そんな簡単な事? 彼女は言葉を話せないのでは無かった?」

「それはご主人様がメイドの無駄口を嫌われましたので、言葉を与えられなかっただけの事。改めてお嬢様がお与えになれば、キリカも語る事は出来ます。言葉を奪われていたわけではないのですから」

 奪われたものは奪った者でなければ返す事は出来ない。

 しかし元々持っていなかったものならば、誰が与えても良いという事だろう。

 キリカにわざわざ言葉を与えようとする夜魔がこれまでに居なかったのも当然だが。

「キリカ、キリカ、こっちに来て」

 私が手招くとキリカは掃除を止めて静かに歩み寄ってくる。

 私は立ち上がり、右の手のひらでキリカの首から胸にかけての滑らかな肌に触れた。

 彼女は今度もまた何か私専用の条件反射を教え込まれるとでも思っているのか、その一挙手一投足を色の薄い瞳で懸命に追う。

「私が知る限りの言葉達よ、キリカの中にその音と意味を刻み込め。キリカ、それを用いて思いを口にする事を、私の名において許します」

 私の中から大量の精気が抜け出ていく。

 言葉を与えるくらい容易い事だと思っていたが、吸血を制限している今の私にとっては予想以上の消費だった。

 私自身が日頃あまりにも容易く用いていたので、たかが言葉だなどと考えていたが、知識は夜魔の格を決める大きな要因の一つであり、そう考えればこの消耗は相応であろう。

「どう? 何か言ってみて。これからは何だって話してくれて良いのよ」

 私は彼女の頬に両手を触れて、その赤く薄い唇が動き出すのを今か今かと待った。

 しかしキリカは僅かに口を開いてその小さく白い歯を見せたものの、眉尻を下げたまま、少し困惑したように私を見つめ、どんな音も口にはしなかった。

「なぜ? 失敗したのかしら?」

 確かに力を消耗したのに、彼女に言葉を与える事は出来なかったのか。

 そもそも彼女に何かを喋らせようとする事自体が無理難題であったのか。

 しかしどんな原因であるにせよ、キリカの責任ではない。

 私は彼女の戸惑う表情を変えるために微笑んだ。

 その時である。微笑み返すのであろうと思いながら見つめていた彼女の唇が、震えながらも何とか音を作り出した。

「お、お嬢、様。」

 たどたどしく不明瞭な響きの声だったが、確かに私を呼んだ。

 キリカ自身も始めて聞く己の声に戸惑うように目を見開き、興奮に頬を赤らめた。

「さぁ、何でも言って。今や貴方は伝えたいと思う事を全て言葉に出来るのよ」

 私も激しく興奮していた。

 キリカには色々と教えてきたが、今度のものはこれまでで一番の興奮を覚える。

 己の教育が吸い込まれていく様は悦に入るものがあるが、ウルも私に対してこれを感じてくれていると嬉しい。

 そう思いながら私は尚更に高揚するのである。

「お嬢、様」

「何、キリカ?」

「お嬢様。」

「何?」

「お嬢様。お嬢様。」

 しかしキリカは呼びかけるばかりで、その次の言葉が彼女の唇を潤す事はなかった。

 私の昂ぶりが徐々に引いていくのを見ながら、キリカはその責任を己に感じるのか、眉を垂れ下げながら一層私を呼ぶ。

「ウル、どうしてなの? 話せるようにはなったみたいだけど、何も話そうとしない。」

「たった今言葉を知ったのです。用いる事に慣れていないのでしょう。それに何よりも、キリカの方からお嬢様へ伝えたい事など無いのでは?」

 キリカは私の身辺の世話を忠実に実行するだけの夜魔だ。

 父は彼女にそれに堪えうる程度の知能しか与えず、そのために彼女自身の感情や意思は乏しい。

 言葉はあっても、それを必要とする心が無い。

「じゃあ、次は知性を与えないといけないわね。知性も、外から与える事の出来るものなの?」

「全く不可能な事ではありませんが、しかし言葉を教える事とはわけが違います。知性を操作する事は、その夜魔の根元に関わり、並みの力ではありません。そもそも私のように己の知性を持つ夜魔を作り出す、その事自体が、ご主人様の奇跡の力があってこその業なのです」

 たかが言葉の幾つかを教えた程度で腹を空かしている今の私には荷の重過ぎる仕事か。

 キリカの胸に心を詰め込むのは、またいずれの機会を待とう。

 私は空腹を紛らわすために狩りへ行く事にした。

「それじゃあ、キリカは掃除の続きをやって。折角言葉を手に入れたのだから、鼻歌を歌いながらでも良いわよ。ランスの屋敷のメイドはいつもそうだから」

 そう言ってみても彼女は恐らく歌わないだろうが、その自由はいつでも彼女の傍にあるのだという事を伝えたかった。

 私が手を振りながら部屋を出ると、彼女も手を振り、また細い声で私に呼びかける。

「お嬢様。」

 今はそれでも良いと思った。

 たったその一言しか使い方を知らないようだが、キリカは彼女なりにその複雑とはとても言えない小さな心で懸命に考え、私の思惑に応えようとしてくれている。

 彼女に気持ちと呼べるだけの思念が無いのだとしたら、受け取る私が勝手に想像して楽しむのも良い。

 私は木の葉避けにあつらえた小さなマントを羽織りながら屋敷の外に出た。

 するとちょうどその時、屋敷の前に一台の馬車が止まった。

 その二頭の黒馬の牽く黒装の車はもはや見慣れたランスの屋敷のものだ。

 どちらがそうかは分からないが、その馬のどちらかは何とか言う名で、気立てが良く、ハナのお気に入りである。

 馬車の扉が開き、ランスが降りてくるのかと考えたが、しかし姿を見せたのは彼の父、コンサルであった。

「突然の訪問をお許し下さい。我が家の大事なればどうぞご容赦を」

 コンサルはにこやかではあるが、しかし丁寧な仕種で帽子を取って頭を垂れた。

「何か?」

「これからどちらかへ出掛けられるところでしたか?」

 まさか鹿の血でも吸いに行こうとしていたなどとは言えない。

「いえ。ちょっと森の散策でもと思ったのだけど。それより、家の大事だなんて何事?」

「私も今朝知ったばかりで仰天しているのですが、」

「あぁ、ちょっと待って。それは長い話? だったら椅子に座って話しましょう?」

 私達は屋敷の中へ戻り、バルコニーに置かれた椅子へそれぞれ座った。

 大抵はハナを相手にしていたが、そこにコンサルを通したのは始めてであった。

「それじゃあ、さっきの続きを話して?」

「いや、ランスが領主様に拝謁する事になったのを、つい今朝まで黙っておったのですよ。

 あれが街の治安管理を担当しているのはご存知かと思いますが、その拝謁も近頃の物騒な事柄のおかげであるのが本当のところで御座いましょうが、表向きは領内の士族を集めての懇親の会だと申します。

 そういった場には普通、ダンスのパートナーというわけでもないですが、妻や婚約者を同伴するのが、我ら下級貴族にとってはむしろ礼儀で御座いまして。しかしあの馬鹿息子ときたら、馬鹿正直にも責めを負う場なので一人で行くと言い張るのです」

「でも、アンナは伏せっているでしょう? 馬鹿正直な理由なのかどうかは別にして、彼に伴う事の出来る相手はいないじゃない」

「あ、いや、ご存知でしたか。ならばいっそ話も早いというもの。

 それで私はあれに申したのです。

 領主様がその気ならばあれ一人を呼びつけて責を問うことも出来るが、この度は表向きの理由をわざわざご用意下さっている。そこへあれが叱責されるための顔をして出て行けば、領主様もそうせざるを得ないではないかと。

 ある面では潔いのかもしれないが、一人で赴けば無用な謗りも受けるでしょう。謗りは噂となって千里を走ります。

 いくら私達が小さな家であっても、見栄えも気にせず出て行っては、百害あって一利無しで御座いましょう?」

「そういうものなの?」

「そういうもので御座います。それで何とかランスを言いくるめて、一人で行く事だけは思い留まらせたのですが、」

「今度は、連れて行く相手の事ね。アンナが病気だから」

「その通りで御座います。形だけを繕うのならハナでも良いかと最初は考えたのですが、ちらと話した途端に遠出が嬉しいのか舞い上がる始末で。あれは良く口の動く娘ですから、いくら形だけといっても、そのために余計な問題を起こしかねないと」

 コンサルにとって自分の子供達は頭痛の種のようで、芽吹きそうになるそれらの種を抑え込むようにこめかみを指でぐいぐいと押した。

「それで、ディード様ならば、近頃は息子達とも親しくしていただいているようで、了承していただけるのではと思い、真に無礼かとも思いますが、他に頼れる方もおらず、恥を承知でお願いに伺ったので御座います」

 コンサルはまた深々と頭を下げた。

 恥じ入り、頬は微かに紅潮しているが、その瞳は恥を被る事に躊躇いの無い潔さがある。

 全て息子のためか。

「どうして私なの?ランスに紹介してもらった友人の中にはちょうど良い年頃の人もいたわ。そこを、なぜ私に?」

「いや、その娘らの家にも当たってはみたのです。フレスベルク家よりも家柄が近い事もありますので、むしろ気兼ねなく頼めるかとも思ったのですが……、いや、しかし全て断られました。何しろ形だけとはいえ、やはり妻や婚約者を同伴する席に娘を出して、根も葉もない噂でも立てられては、と」

「あら、私ならそんな噂が立っても構わないと?」

「いえ、いや、そんな滅相も無い。ただフレスベルク家と我が家ではあまりに身分違いですので、むしろそんな噂など立ちようも無いと思われますので」

 コンサルは懐から出した布で額や顎の下の汗を拭った。

 風は冷たいというのに、心の動き一つで熱気を覚える人間というものを少々興味深く観察する。

「でも、私はランスの伴侶だなんて嘘を吐けないわ。だって、それはアンナですもの。遠くの街に出掛けるのは面白そうだけど、そのために伴侶に成りすますだなんて、面倒だわ」

「いえ、何も嘘まで吐いていただこうとは思っておりません。問われればどのように答えて下さっても結構。ただ遠目に見たときの、見栄えを整えたいのです」

「見栄え、ね。貴方達の世界は複雑で大変そうね」

 夜魔の世界には見栄えだなんて内実の伴わないものは何の意味も無い。そんなものはただの一見で看破されるからだ。

「ご承知いただけませんか?」

「良いわ。面白そう。嘘は吐かないし、私は貴方達の常識や理屈に疎いから、もしかするとハナを連れて行くよりも失策となるかもしれないけれど、それでも良いのなら」

 そう答えた時のコンサルは、もう顔中に花を咲かせたように喜び、その勢いでもって私の手を握ると、何度も上下に振った。

 まさかこれほど喜ばれるとは予想もしていなかったので私はたいそう面食らう。

 私には全く理解出来ないが、これは彼にとって必死の事だったのだろう。

 息子の誇りや外聞のために、己はそれをかなぐり捨てて奔走する。

 滑稽だとも思えたが、父親とはそういうものなのだろうか。私は嫌いでなかった。

「それでは、明日の朝に馬車を迎えにやりますので、よろしくお願いいたします」

 そう言ってコンサルは帰っていった。

 明日の朝とはまた随分急である。ランスもよくぞこんな直前まで黙っていたものだ。

「お嬢様は本当に、人間の事に首を突っ込みたがりますね」

 呆れたようにウルが眉を顰める。

「良くなかったかしら?」

「お嬢様の品格に障る問題ではありませんので止めはしませんが。しかしむしろそうする事はお嬢様にとって辛い事となるのではないですか?」

 確かに、私は人を狩る夜魔だ。

 獲物と親しくするなんて、他の夜魔には考えられない行動だろうし、私自身にもそれが後々、いや今でさえも私を苦しめる事は分かっている。

「私の心配をしてくれるの?」

「辛さに耐えかねて、また気を惑われては、と」

「その時は貴方が縛ってくれるでしょう? だから私は安心して好き勝手出来るわ」

「好き勝手していただくために、私にそういう権限があるのではありません」

 ウルの苦笑に釣られて私も笑った。

 それから私達は当初の予定通り、森の散策へ出掛けた。


 北へ向かう馬車に揺られ、私はその小窓から次々と流れ行く景色を見ていた。

 私の隣にはウルがいて、目の前にはランスが、そしてランスの隣には彼の従者がいた。

 自分自身以外の力でもって移動するというのは何とも不思議な気分だ。

 馬が走る程度の速さならば、私にも簡単に出せるが、それは私自身の筋力に要素の働きを上乗せしての事である。

 何の要素も動かない中を潜り抜けていくのは、心と身体のそれぞれの感覚に誤差を生み、妙な違和感を覚える。

 人知れず屋根に便乗しているラバンも同じ感覚なのだろうか。居心地の良い体勢を探して四苦八苦しているようだ。

 私にしてみれば、互いの膝がぶつかるような狭い箱に揺られているよりも、自分で走った方が速く、違和に苛まれる事も無いのだが、しかし同行者が人間である以上、そういうわけにもいかない。

 ラバンも出発した当初は走っていたのだが、彼の方が圧倒的に速いので、しばらく進んでは馬車を待つ必要があった。

 それが面倒だったのだろう、結局屋根に飛び乗ったのだが、何とも落ち着かない様子だった。

「馬車は、苦手ですか?」

 眉間を険しくする私を気遣ってか、ランスは優しげに問いかけた。

「そもそも初めてだから。自分で歩くより楽かもしれないけど、揺れが」

 車輪が小さな石を踏むたびに、籠の中は激しく揺れた。

 その度に硬い椅子へ腰を打ち付けてしまう。

「それは申し訳ない。父が無理を申したばかりに、そんな思いまでさせてしまって」

「貴方がずっと相談しないでいたから、お父さんが色々な人に無理を言って回ったのでしょう?」

「あぁ、それを言われると返す言葉が無い」

 ランスはからからと大きな声で笑った。

 ランスはこの奇妙な感覚に何とも思わないのだろうか。

 人間は要素を感じないというが、こういう場合は便利なものだと羨んでみる。

 しかしそもそも人間の乗り物に夜魔が乗っている事自体奇妙なのだから、この居心地の悪さは自業自得というものだろう。

「本当は、一人で行くつもりだったんだ」

「えぇ、そう聞いてるわ」

 窓の外を森が流れる。

 そう言えば、ロザリアが指差し話してくれた、彼女と父の生まれた森はこの辺りではないだろうか。

 過ぎ行く森を見送りながら、馬車に静寂が満ちている事に、ふと気付く。

「貴方が、そうしようと思った理由も聞いた。責めを負いに行くのだからとか。それも確かに理由の一つだろうけれど、貴方はそれだけのためにハナやコンサルに、貴方の家に汚名を被せる様な無理を通したりはしないわ。まだ、理由があるだろうと、私は思うの」

 ランスの顔が少々引き攣る。

 何かを言いたいようだが、言葉が浮かばないらしい。

「それを隠されながら、貴方の踊り子でいるのは嫌よ」

 私は体裁の良いダンスパートナーとなりに来たのではない。

 夜魔としての不屈の心だろうか。騙されたり、欺かれたり、軽んじられる事は耐えがたかった。

「踊り子だなんて、そんな」

「ねぇ、ランス。私は貴方の家の見栄えを守るために来たのよ。貴方も、見栄えを守らなければと思うから、私を連れてきたんでしょう? それなら、私は共謀者じゃない? だから、貴方だけの理由を教えて」

 私は身を乗り出し、ランスの表情を下から覗き込むように顔を近づけた。

 不用意に近付く事を警戒しているのか、ウルが密かに私の腕を掴んで止める。

 私の悪戯顔にランスは苦笑を浮かべた。

「本当に、貴方には負ける。でも、それを言うと、きっと貴方を不愉快にさせてしまう」

「貴方の言葉なら、どんなものでも不愉快になんてならないわ」

 人間の言葉などで心を揺さぶられるほど私は容易い夜魔ではない。

「貴方に来てもらったのに、こんな事を言うのはとても失礼で間違ってると思うけど、本当は、最初一人で行こうと考えていたのは、アンナ以外に連れて行くべき人はいないと、思っていたからだ」

「知ってるわ。そういうのを、純情って言うんでしょう?」

 そういう心根をもった人間の血は美味だ。

 口の中に生唾が湧き、私は思わず喉を鳴らしてしまう。

 渇望を払うために私は無理矢理に表情を微笑へと変える。

 私の様子がおかしいと思ったのか、ランスは少し呆気に取られたように私を観察していた。

「いや、そんな反応をされるとは思わなかった」

「ここで、どんな反応をするのが普通だと思っていたの?」

「いや、別に。」

 ランスの言葉が掻き消されるように、彼の口から咳が漏れる。

 病であろうか。

「でも、貴方がそうまで固くしていた考えを変えたのはなぜ? 私を、そんな大切な席に座らせても良いの?」

「良いんだ」

 ランスは優しい眼差しを私に向ける。

「アンナに、操を立てるというわけじゃないけれど、そうする事が彼女の望む事だと、僕は思っていた。でも、それは僕の独りよがりだった。そうやって僕がアンナの席を必死に守る姿が、尚更彼女を苦しめていた」

「アンナが、そう言ったの?」

「そうは言わない。でも、僕にはそう聞こえた。掠れた途切れそうな声で、たった一言だけ、もう苦しまないでくれって。たったそれだけなんだけど、彼女の言葉らしい言葉を聞くのは久しぶりで、僕はその願いを叶えてあげなければいけないと、思うんだ」

 他にしてあげられる事が何も無いから、か。

 しかし病魔ブルィヤールは上手くやってくれたようだ。

 朝日の中を小さな闇雲で凌ぎながら、アンナが数往復の会話が出来る程度まで痛みを抑えるのは、簡単な事ではなかっただろう。

「でも貴方はまだその席を守ってる。守らない素振りをしているだけで、貴方は守らずには居られないでいる。守らないでと言ったアンナの言葉を、貴方は達成していないわ」

「そうかもしれないな」

 寂しげな苦笑が、彼の口元に浮かぶ。

「結果として、貴方はアンナを欺く事になるわよ。私はその共犯者にされてしまうの?」

「済まない」

 ランスは深々と頭を下げた。

 彼の父コンサルもそうだったが、人間とは自分ではない他の誰かのために頭を垂れる事が出来る。私達夜魔には到底無理な事だ。

「私は、謝って欲しいのではないわ」

「本当に、済まないと思っている」

 ランスは顔を上げない。

 アンナは、自分の存在がランスを縛り、苦しめている事に、辛さを覚えている。

 ランスは、アンナが解きたがっている鎖に、わざわざ縛られてしまう自分の姿が、彼女を苦しめる事に、辛さを覚える。

 またアンナは、自分のために鎖を付けたまま自由を装うランスに、哀しさを覚える。

 またランスは、哀しむアンナのために、いっそう鎖をきつくする。

 人間というのは、救いようも無いほど愚かで、見るに堪えないほど不器用だと、私は思う。

「でも、そういう心、私は好きよ」

 夜魔とは確かに違う。

 夜魔の基準から測れば、醜くて、価値も無い。

 でもそれは単に、価値の無い方へ力を注いでしまったり、その足掻く様が醜いだけで、人間の心の質そのものがそうなのではない。

 歩き方を知らないから、這いずっているだけだ。

 それを、愚かだと言う事は間違いではないけれど。

「そ、そうかな。そう言ってもらえると、僕も気が楽だ」

 ランスは顔を上げると、照れたように笑った。

 私も合わせて笑ってみせる。

 すると、隣の席でウルが一つ咳払いをする。病だろうか。

 馬車は森を迂回しながら、河に沿いながら、道の上を北へ北へと走った。


 馬車に揺られ続けて、その街へ入ったのはもはや日没後だった。

 馬車はそのまま街を横切り、ある大きな屋敷の中へ入る。

 ランスの屋敷よりも大きく立派で、小さな丘陵がすっぽりとその屋敷の庭だった。

「ここは、僕の古い友人の屋敷で、こちらにいる間は彼の世話になる事にしているんだ。貴方の事も伝えてあるから不自由は無いと思う」

 馬車から降りようとする私にランスが手を差し伸べる。

 足が大地に触れた瞬間、全身の力が不思議なほど抜けて、私はぐらりとよろめき、慌てたウルに抱きとめられてようやく転倒を免れた。

「ど、どうしたんだい?」

「気分が、悪いわ」

 馬車というのは箱に乗せた私の身体を強制的に高速で運び去る。

 本来はそのような高速移動には要素の働きを伴うが、馬車の中ではまるで平静にしている時と同じ感覚だ。

 身体は移動しているのに、精神は止まったままのつもりでいるという違和感。

 その違和感に私は眩暈を覚えていた。

「そうか。少し酔ったんだろう。何か気分の良くなるものを貰ってこよう、その辺りで風に当たってると少しは楽になるはずだ」

 ランスが指差す先にはちょうど腰掛けるのによい高さの煉瓦の花囲いがあった。

「酔った? 私はワインなんて飲んでないわ」

 人間が作ったそういう名前の赤い液体を飲むと、人は大抵意識がおかしくなる。

 私は味も匂いも苦手なので滅多に飲まない。

 当然、移動中も全く口にしていないはずだ。

 しかしランスは何の冗談だと思ったのか、笑いながら屋敷の方へ向かった。何を貰ってきてくれるのだろう。

「お嬢様、大丈夫で御座いますか?」

 ウルが私を抱えながら、その花壇まで近付く。

 馬の蹄がまた鳴り始め、車輪を軋ませながら馬車が車庫へと向かった。

 しかしとんだ乗り物に乗ったものだ。

 私は眉間を押さえる。

「何だ。情けないな。父親はいつも馬車を乗り回してるってのに。お前は本当に奴の娘か?」

 座り込んで前を見れば、いつの間に飛び降りたのか、ラバンがそこに立って私を笑っていた。

 だが良く観察すれば、彼も微妙に顔が蒼い。膝にも力が入らないようで、前に進もうとするが、思いもかけない方向にたたらを踏んだ。

「貴方も情けないわね」

 ひゅうと風が吹き、その程度の風にしては大袈裟に、ラバンは両足を踏ん張る。

 平気な様子を装ってはいるが、彼も相当に頭が痛そうだ。

「ウルは大丈夫?」

 彼の方に頭を預けたまま、少しだけ首を捻って彼を見上げる。

 ウルは煙草の煙という性質上、日頃からやや青白いので顔色からは体調を判断出来ない。

「幸か不幸か、私はお嬢様達に比べれば要素に敏感ではありませんので。高位の夜魔ならば皆覚える不快感だとは思いますが、慣れれば克服出来るでしょう」

「じゃあ、今回はラバンと同じ範疇という事ね。私も随分、純血種に近付いたかしら?」

 ラバンは足元に転がる小石の一つを蹴り上げると、私に向けて弾いた。

 視認する事は出来ないが、要素の影も見えないほど速いわけでもない。私は眩暈の中でも容易くそれを取る事が出来た。

 もちろんそれは私が容易く取れる速さに制限されて弾かれている。

 ラバンは私を傷つけたいのではなく、作られた存在の私が純血種になれるなどと口走った事が気に障っただけだ。

 もともとラバンは私の命を守らねばならないのだから、放っておけば脳を貫通しそうな石飛礫を私では敢えて取らずに、投げてよこしたラバン自身に受け止めさせるのも面白いかと思った。

 勿論、そんな戯れは、一層ラバンを不機嫌にさせてしまうので実行しないけれど。

「お前と一緒だなんて、その方が気分を悪くする」

 ラバンは消え去り際に予想通り皮肉を一つ置いていった。

 そのすぐ後にランスと従者が戻って来るのが見えた。

 恐らくラバンが皮肉をたった一つだけで済ませたのは、近付く彼の気配に気付いたからだろう。

「嗅ぎ煙草と香薬草を貰ってきた。まだ気分が悪いかい?」

 ランスは木製と金属製の箱を手にしており、その銀色の方を私に差し出す。

 眩暈はもう消えかかり、もはやそれらは必要無いとも言えるが、しかし初めて見る品だ。ふつふつと興味が湧く。

 私は黙ってその銀の箱を取って蓋を開けると、中にはややくすんだ白い砂のような、非常に細かな粉末が舞い沈んでいた。

「これは?」

 中身が見えるようにウルへ向けると、彼はそれが嗅ぎ煙草であると言う。

 煙草と言えばウルの本質、つまり正体がそれだが、確か彼の説明で煙草とは草だったような気がする。燃やして出る煙を吸うのだ。

 しかしこれは既に燃えた後の灰のようにさえ見える。更にもう一度燃やすものなのか。

「火は?」

 私は両手で箱を握り締めたまま、ランスに問う。

 私達、夜魔は燃えるものならば何でも言葉一つで燃やせる。白鋼銀の燭台に青く冷たい炎を灯すも自由自在であり、ウルなどは煙としての性質上、燃える要素を多く内包しており、燃え尽きる事無く己を輝かせる事が出来る。

 しかしまた夜魔は好んで人間との間に火種を投げないものだ。

 私はそ知らぬ顔で火を求めた。

「それは鼻で吸うんだ。火の要る煙草とは違う」

 ランスのあまりに簡単な説明では何の事か良く分からず、私はとりあえず箱の縁を鼻に近付けてみる。

 しかし縁が顎の先付近に来た時に、ウルが私の肘を掴んで止めた。

「指や小さじに少量取って吸うのです」

 私が持つ器の中にウルがその長い指を一本差し入れ、灰で染める。

 私は箱を傍に置き、今度はウルの手首を掴んでその指を鼻に近付けた。

 近付けて近付けて、もう鼻の頭に指が触れそうだというのに、特に何も起こらない。

 あるいは私の空気を吸う力が弱いのだろうか。

 もともと私は屍なので、呼吸など日に一度していれば良く、その量も極僅かだ。

 しかしそれではこの粉を吸い込めないようなので、今度は敢えて大袈裟に息をしてみる。

 ゆっくりと吐いて、一気に吸った。

 途端に脳を引き裂かれたような激痛が走る。

 鼻の穴から真っ赤に焼けた鉄杭を突き入れられたような感じだ。

 私は慌てふためいて、その粉の付いた指を少しでも遠ざけようと、ウルを渾身の力で突き飛ばし、私は花壇の裏側まで逃げ込んだ。

 刺激は一過性のものだったが、その後もなぜか鼻から涙が出そうで、誰にも見られないように低木の陰に隠れて密かに拭う。

「お嬢様、お気に召しませんでしたか?」

 指を手巾で拭いながらウルが私の様子を探る。

 全く、鹿肉料理といい、ワインといい、人間というものはよくもこんな愚にも付かない物ばかり考えるものである。

 私が立ち上がると、ランスは私の様子を心配そうに見守る。彼はまさかこの眩暈が新たに起こされたものだとは気付いていまい。

 その証拠に、彼はもう一方の木の箱の方も私に勧め、今度こそ気分が良くなるからと論じる。

 しかし私としては、これ以上脳の中を掻き混ぜられては命も危ういと思え、その箱は拒んだ。

 ラバンはこの様子をどこかで嘲りながら楽しんでいるだろう。あの粉を一掬い貰って、何とか騙してラバンの鼻に詰め込む方法は無いだろうかと思案してみるが、警戒心の強い彼の事なので、私が返り討ちに会うのが関の山に違いない。

「もう良いわ。きっとその内、気分も良くなるから」

「そうかい? それなら、部屋で休ませてもらうと良い。彼がさっき話してた、友人のアリューシオ=ジェイエントゥワール卿だ」

 そう言ってランスは彼の後ろの人影を示した。

 たった今までそれは彼の従者だと思っていたが、言われて目を向ければ確かに馬車の中で一緒だった者とは顔も体格も違う。

 肩幅が広く、胸板も厚い。年齢はランスよりもやや上のように見えたが、それにしては髪に混じる白髪の量が若干多いようだった。

 彼は穏やかな表情で手を差し伸べ、握手を求める。

 だが何とも大仰な名前に関心がいってしまい、その発音に苦労するジェイエン云々の方を私はすぐに忘れてしまうだろうと確信した。

「ディードよ。ここにいる間、面倒を起こさないように心がけるわ」

 私は差し出された右手を握った。

 しかしランスは信用しているのだろうが、私には初見の人物である。左手はいつでも剣に伸ばせるよう、緊張を解かなかった。

 幸いにもそれは不要な心配だったようで、彼は笑みを崩さず、私の気分を心配してか、社交場で出会った他の男性達のように、そこで長々と話を始めたりはせず、すぐに屋敷の中へ案内してくれた。


 私は誰よりも早く、部屋へ通された。

 屋敷の中は外観から想像される以上に広く、その部屋もカーテンショールから調度品まで全て繊細に配置されていた。

 眩暈に煩わされている私を気遣ってか、ランスとアリューシオは私を置いてすぐに立ち去った。

 横になって休むように言われたし、時間としてももはや夜更けだが、残念ながら私は人間ではないので、そう容易くは眠れない。

 夢を見たくて眠る事はあるが、身体を休めるために眠ったりはしないのである。

「遠出してみたは良いけれど、特に何があるわけでもないのね」

 ウルに話しかけてみる。

 だがウルは時間潰しの話し相手には向かない性格をしていた。

 たった一往復しただけで会話が途切れる。

 その時、小窓の錠が不自然に外れ、窓が開け放たれた。

 夜風が部屋に舞い、燭台の炎が一斉に消える。

「おい、小娘、話がある」

 窓枠に手をかけながら、その小さな窓からラバンが身を捩って侵入してきた。

「ちょうど良いわ。私も話し相手が」

「誰がお前の話し相手になどなるか」

 ラバンは素早く、そして激しく拒絶する。

「だったら、何?」

「折角他の街まで来たのだから、久々に人間を食ったらどうだ?」

 確かに最後に人の血を吸ってから、もう十数日が経つ。

「でも、もう人は殺さないと決めたもの」

「それは、あのランスとかいう人間が嫌がるからという下らない理由からだろう? それなら、この街の人間はあの人間と関係無い。食っても良いだろう」

 私は心揺らいだ。

 人の血のあの蜜のような口触りが懐かしい。

「何を迷う? もともと人間の血を吸う夜魔が獣ばかり口にして、そんな無理がいつまで通ると思ってる? 自分の顔を良く見てみろ。瞳は濁り、頬は蒼褪めて、見ているこっちまで気分が悪い」

 私は部屋にあった小さな鏡で私自身の顔を見た。

 しかしラバンが言うような状態には見えない。

「ウル、私の顔、蒼褪めてる?」

 私はウルに顔を向けた。

 だがウルに聞いてみたところで、その答えは分かりきっていた事に気付く。

「人間の血を吸う事を、お勧めします」

 彼は私が人の血を吸う事に関しては、いつでも賛成派だ。

 私は賛成派の夜魔二人に押し切られ、屋敷の外へと連れ出された。

 街はもう静まり返り、全ての灯りは消え、耳を澄ませば街中の寝息が聞こえるようであった。

 通りを歩きながら、家々の窓を覗いて、目に適う者は居ないかと探す。

「おい、これはどうだ?」

 以前は全くこういった事に手を貸さなかったラバンが今日は熱心だった。遠出した事で、気が舞い上がっているのか。

「良いわ。じゃあ、彼にしましょう」

 ラバンの審美眼は感度が高い。数百年間も人間を食べてきたその眼は流石だった。

 鍵を開け、部屋の中へ入ると、その少年をそっと揺り起こした。

 家の趣から見れば、人の社会では裕福でない家のように思える。

「ほら、さっさと願いを聞け」

 ラバンが私を急かす。

「ねぇ、何か願いはある? 私に叶えられる事なら何でも叶えるわ。その代わり、貴方の生命をちょうだい」

 少年はなかなか状況が飲み込めないようだった。

 ベッドの上からこちらを見ながら、何も言わずにじっとしている。

「どうしたの? 私の言ってる事が分かる?」

 彼は首を横に振った。その様は無邪気だ。

「私は今から貴方の命を奪うけど、最後の願いを聞いてあげるって言ってるの。分かった?」

 少年の瞳に驚愕の色が濃く現れる。それでも彼は声を殺して頷いた。

「さぁ、願いを言って」

「僕を殺さないで」

「それは駄目。貴方の生命を奪う代わりに願いを叶えるの。もうその命は貴方のものじゃないわ」

「どうして? 僕の命は、僕のものでしょう?」

 少年は首を振る。その勢いで瞳から水飛沫が飛んでいた。

 だから私も首を横に振った。

「いいえ、貴方のものじゃない。そうしようと思えば、私は願いを叶えずに貴方の生命を奪う事も出来る。だからそれはもう私の――」

「じゃあ、天使様に会わせて」

 少年は私の言葉を遮る様に叫んだ。

 早く願いを口にしなければ、ただ一方的に奪われると思ったのだろう。

「天使?」

 私はラテに貰った茶色い書物を取り出す。指を差し入れて開いた、その一説に、確かにそれらしい記述があった。

「じゃあ、それに会えるよう、祈ってあげるわ。それで良い?」

 少年は首を横に振る。

「ここじゃなくて、教会の方が良いの?」

「違う。祈って欲しいとかじゃない。僕は死んじゃう前に、この眼で見たいんだ」

「残念だけど、その眼で見る事は出来ないわ。その願いは、叶えてあげられない」

「でも、父さんも母さんも、街の皆も言ってたよ。ジェイエントゥワール卿の奥方様は天使に違いないって」

 そう言えば、ハナは私の顔を見て天使の降臨だとか言った事がある。

 まさにその人間らしい表現に過ぎる褒め言葉を、この少年はいかにも少年らしい無垢な心で信じてしまったのか。

「じゃあ、その人に会いに行きましょう。それで良いわね?」

 少年は頷き、差し出した私の手を握った。

 私は少年を連れ出し、その手を引いて歩いた。

 彼は今まで見た事も無い漆黒の街に恐怖を覚えているようで、私の手をしっかりと掴んでいた。その手の主がこれからその命を奪う事も忘れて。

「そのジェイ云々卿の屋敷はどこかしら?」

「お嬢様、ご自分が今どこから出てきたのか、もうお忘れですか?」

 ウルが呆れたように言う。

 言われてみれば、確かに今私が世話になっているアリューシオの名がそれであった事を思い出す。

 多くの夜魔は呼び名に随分と気を使っているようで、その発音しづらいジェイ云々も容易く憶えてしまうのだろうが、どうにも私は面倒な名を憶えられない。ウルには悪いが、私は呼び名にそれほど重きを感じられないのだ。

 私は少年を連れて、来た道を戻った。

 時間はもう人間が眼を覚ましているべき時間ではない。

 それはアリューシオの屋敷も例外ではなく、ほぼ全ての部屋の灯りは消されていた。

 ただ一室だけがまだ明るく、中からランスとアリューシオの笑い声が聞こえる。しかしその部屋には彼ら二人だけで、目当てのジェイエントゥワール婦人は居ない。

 私達は屋敷の周囲を巡りながら、部屋の中を覗き見る。

 屋敷の西側へ回ったとき、ふと視線を感じて、私はそちらを見上げた。

「気高き御方、この屋敷に何か御用でしょうか?」

 女性の細く涼やかな声が二階のバルコニーから降り注いでくる。

 しかし妙なのは、その声を発した女性が僅かばかりの灯りも無くそこに立っている事であった。

 この暗闇の中、私からは彼女の姿が見える。

 だが声をかけてきたのはあちらが先だ。つまり彼女の方からも私が見えているのである。

 それはつまり、彼女も人間ではないという事だ。

 淡い緑の寝衣に身を包み、細く切れ長の眼で私達を見つめている。その短く切り揃えられた髪は限りなく白に近い金色で、風に銀糸を絡めるように揺れる。

 しかし良く眼を凝らしてその肢体を観察すると、確かに人ではない姿が見えた。

「貴方は誰? どうしてそこに居るの?」

 人間の屋敷のバルコニーで、夜風に吹かれる夜魔が居るなど、あまりに不自然である。

 私は思わず質問に質問を返す。

「私は、この屋敷の主、ジェイエントゥワール卿の、伴侶、ですから。」

 彼女はか細い声で密やかに答えた。

 しかし夜魔が人間の伴侶とは異常な状況である。

 そう思いながら、私自身もランスの伴侶を装ってこの街まで来た。

 彼女の状況をとやかく言える立場ではない事に気付く。

 あるいは彼女も、私と同種の変り種なのだろう。

「何か御用ですか?」

「この子が、最後に貴方に会いたいと言ったから連れて来たの。この子は貴方の事を天使だと」

 彼女は寂しげに微笑んだ。

 私は彼女の方を指差し、その先を見るように少年を促す。

 だが、彼はただの人間で、この暗闇の中、私の指がどこを示しているのかも見えない事を思い出した。

「火よ、灯れ」

 私は彼女の傍にあった燭台に命じた。

 小さな炎が闇を払い、彼女の白く繊細な表情を照らし出す。

 少年は驚きながら、しかし期待に満ち溢れながら、見上げた。

 だが、彼の顔にやがて失望の色が現れる。

「どうしたの? 彼女が貴方の会いたがっていた人でしょう?」

「違う。違うよ」

「違わないわ」

「違うよ。綺麗な人だとは思うけど、天使様じゃないよ? ただ綺麗なだけで良いなら、お姉さんの方がずっと綺麗じゃないか。でも、僕の会いたかった天使様はただ綺麗なだけの人じゃないんだ」

 少年は泣き喚く。

 私も困惑したが、何より戸惑っていたのは、突然に巻き込まれた二階の彼女の方だろう。

「でも、貴方の願いは彼女に会う事だったわ。そして私はそれを叶えた。今度は貴方が私に差し出してくれる番よ」

 彼は少々抵抗したが、私が強く睨むと、それ以上は無駄だと悟ったのか、観念して私に身を任せた。

「今度こそ会えるように祈ってあげるわ。それで良い?」

 彼は頷く。

「あの、何をするつもりなのです?」

 状況の理解に苦しんでいるのか、困惑した声が上空より降ってくる。

 しかし血の誘惑に口を開いた私はそれに答える余裕も無く、少年の首筋を自らの牙で切り裂いた。

 彼の身体を流れていた血液が、すぐに私の血管の中を流れ始める。

 私は懐かしい興奮に身を捩じらせながら、少年の肋骨を締め砕きそうなほど強く彼を抱いた。

 朝を迎えた霧のように消え行く意識の中で、少年の唇が私の耳元で何かを囁く。

「あ、天使、様」

 確かにそう聞こえたという自信は無い。しかし他に聞きようも無い、掠れた声だった。

 私が全て吸い尽くして唇を離すと、彼は眼を見開いて何かを見つめながら、息絶えていた。

「何て事を」

 ジェイエントゥワール婦人は目の前の惨劇に嗚咽を漏らした。

「でも、私は夜魔だから」

 口の端に残った雫を舌で掬い、腕に抱いた亡骸は手を伸ばすラバンに渡した。

 そして彼女の方を見上げてみて気付いた。

 彼女は人間の側に立って私を非難しているわけではなかった。

 彼女の背に純白に輝く二枚の翼が広がっている。

 最後に少年が見たものは、これか。

「気を鎮めた方が良いわ。尻尾を出すと正体が人間に知られてしまうわよ。実際に出てるのは、翼だけれど」

 彼女は己の失態に気付き、慌てて羽根を自らの中に仕舞い込んで、その姿が人型であるように努める。

「お前も人間を食うのか?」

 ラバンが少年を抱えたまま彼女に問いかける。

 彼女は答えない。

 だが、肉を食す夜魔に特有の微かな死臭が、私の鼻にも匂っていた。

 彼女が己の本質を曝すほど取り乱したのは、恐怖のためではなく、私の食事を羨んでの興奮、食欲を刺激されたためだった。

「いつから食べてないの?」

 彼女の混乱振りは普通の夜魔ならば考えられない程であり、その飢えが尋常でない事を示している。

 それに、彼女から匂う血の薫りは、本当に微かなのだ。

「分かりません。でも、きっと四月以上は」

「そう。なぜそれ程までに無理を――」

「あっ」

 彼女が悲鳴に似た声を上げた。

 バルコニーから身を乗り出すように、こちらへ向かって手を伸ばしている。

 隣を見れば、ラバンが口を拭っていた。

 それを見ていると今度は何かが飛び降りる音がし、そちらを向けば彼女が地面に降りてきていた。

 そのまま大地に膝を突き、切り揃えられた芝の中を両手で探っていた。

「お嬢様、部屋へ戻りましょう」

 ウルが私の腕を掴んで言う。

 彼女は茂みの中から何かを見つけると、それを自分の口の中に押し込んだ。

「お嬢様」

 ウルの口調が厳しくなる。

 だが私は魅入られたように彼女の姿を見つめていた。

「美味しい……」

 それはラバンの口から漏れ落ちた欠片だ。

 それを頬張りながら、彼女は恍惚の表情を浮かべる。

 瞳には何の景色ももはや映らず、狂気だけがそこにはあった。

「お嬢様。同じ夜魔ならば、目を背けてやるのが情けです」

 感染しつつある狂気を振り払うように、ウルは私を揺さぶった。

 気付けば既にラバンも居ない。

 私は急いでその場を立ち去った。

 背中から聞こえる咀嚼音に不気味なものを感じていた。


 翌朝、私は改めてアリューシオと引き合わされた。

 アリューシオの隣には当然、彼の伴侶が居た。

 彼女は、昨晩の事など口にする様子も無く、人間としての会釈を丁寧に行う。

「エルで御座います。お会い出来、真に光栄です」

 私も、ランスの前で話を面倒にするつもりは無く、彼女に倣って人間の挨拶をした。

「ディードよ。私も、嬉しいわ」

 ランスとアリューシオがそれぞれの事を話す。人間は大抵そうやって、初対面の相手に自分が何者かを肩書きや家柄に頼りながら説明する。

 アリューシオはランスの腕を認めて、あの街の護衛官に推した、いわば恩人だ。

 しかし、ランスの職や、アリューシオのこの国での立場、そして彼らが織り成してきた歴史、それら全てに私は興味が無かった。

 私が興味を持って見るのは、その者自身の有り様であって、恐らく全ての夜魔がそうだろうと思っていた。

「それは、大変な事で御座いますね」

 けれどエルは、街での事件について話すランスに相槌を打ち、切なげに眉を顰める。

 その表情、仕種はまさに人間そのもので、夜魔としての瞳を持つ私でさえ、ふとした瞬間に彼女が人間ではない事を忘れそうになる。

 彼女は本当に、その人間臭い歪んだ価値観で語られる話に興味があるのだろうか。

 それとも、興味は無くとも、人間らしく振舞うために無理をしているのか。

 その真相はどのようであっても、私には出来ない素振りだった。

 それから私達は四人で食事をする事になったが、それは当然人間の食事で、私にはとても口に出来るものではない。

 私は食欲が無いと言い張って、何とか許しを得たが、エルは何も言わずに従っていった。

 慣れれば確かに人間の料理だって食べられるかもしれない。でも結局、それは夜魔にとって無理に耐えている事ではないだろうか。

 なぜエルはそこまで必死になっているのだろう。

 大地に這い擦って食べこぼしを漁ってしまうほど彼女は限界なのに、これ以上何を耐えたいのだろう。

 私はふと思う。

「エルは人間になりたいのかしら?」

 傍に居たウルが答える。

「まさか。そんな愚かな夜魔は居りますまい」

 私も、そう思う。

 私もランス達と親しくしているが、それは興味があるからそうしているだけで、人間になりたいとは考えた事もない。

 でもエルは、人間と契りを結んでまで。

 食卓の方から三人の笑いさざめく声が聞こえてきた。

 私は無性に切なくなって、己の部屋に逃げ込んだ。


 その午後、ランスとアリューシオはその領主とか言う権力者に会いに出かけた。元々それが目的でこの街まで来たのだ。

「行ってくるよ。万が一、僕が留置されたら、貴方だけでも先に帰られるよう、手筈は整えてあるから」

「私が口添えをするから、そんなに心配する事は無い」

 彼らはにこやかな表情を作りながら出て行った。

 しかしアリューシオには悪いが、初めから私は心配していない。その万が一の場合が訪れたなら、私自身でランスを救い出しに行く事も出来るのである。彼の口添えの有無も問題でなかった。

 取り残された私は、良い機会だから人間の居ない席でエルと話そうと思い、すぐに彼女の部屋を訪ねた。

 戸を叩けば、中から彼女の声が聞こえ、私は扉を開こうと力をかける。

 しかし意外な事に扉は施錠されていた。まるでエルをこの部屋に閉じ込めるように。

 そうは言っても、夜魔にとってこの程度の錠は無いに等しい。

 鍵穴に手を触れると、要素が応じてすぐに戸は開く。

「閉じ込められてるの?」

 私はすぐに聞いた。

 その錠が部屋の外側からかけられたものだったからである。

 しかし彼女は意外にも首を横に振る。

「閉じ込めているんです、私を」

「意味が分からないわ。外側から鍵がかけられているし、貴方はその気になればいつでも鍵を外せる。それじゃあ、貴方が貴方自身を閉じ込めてる事にはならない」

「でも、開け放たれた檻よりも、偽物でも鍵のある檻の方が、閉じ籠っていられるんです」

 そう言いながら、彼女は扉を閉め、私が解いたその鍵を改めてかけ直す。

 彼女は自分で自分を閉じ込めているのではない。

 閉じ込められていようと、閉じ込められていなければと、自分に言い聞かせているのだ。

 だから形だけであっても、施錠されていたいのである。

「なぜ、こんな事を?」

 彼女は微かな声で答える。

「私は、ジェイエントゥワール卿の伴侶ですから。」

 その微笑みは、なぜか明るくない。

 そしてそれは私の問いに対する答えにはならない。

「エルは人間になりたいの?」

 彼女は首を振った。予想に反して左右に。

 夜魔であれば皆間違いなくそう答えるであろうから、それはある面で予想通りであるのだが、まさか彼女がそう答えるとは思わなかった。

「でも、その仕種も、表情も、話す話題も、口にする食事も、全部、全部人間のものじゃない? それほど人間を演じながら、でも人間にはなりたくないの?」

「気高き死の担い手様、私もこんな惨めな様ですが、貴方様と同じ夜魔です。興味を持つ事はあっても、人間になんてなりたくない」

 夜魔ならば皆そう思う。ウルに言わせれば興味を持つ事さえ稀だ。

「それならなぜ、そんなに無理をしているの? 昨晩のあの姿、我慢の限度はとうに超えているんでしょう?」

 夜魔としての情けがあるのなら、昨晩の事を口にすべきではないかもしれない。しかしそれを語らずに、彼女の今の状況の異常性を自認させる事は出来ないと思った。

 私は、残酷なのだろう。

「無慈悲の救い主様、」

「ディードよ。そういう呼び名は好きじゃないの」

「……ディード様、限界を過ぎ去っている事は私も知っています。時折、疲労と空腹に気を失い、また気が付くと身体中が血に塗れている。そんな事が数ヶ月毎にあるのです。あまりに異常な事態だとは私にも分かっています。分かっているんです。分かっている、だけど……」

 彼女はバルコニーの方へ近付き、その窓から北西の地平を眺める。

 その窓を開け、昨晩のように庭へと、そして街へと舞い降りる事は容易い。

 なぜ苦痛に耐えながらも籠の中にいるのか。

「貴方をここに縛り付けておくものは何? ここに縛られていなければと、貴方に思わせているものは何なの?」

「私は、アリューシオ様に命を救われたのです。闘争に敗れ、傷付いて倒れた私を、人間ではないと知りながらそれでも助けてくれたのです。私には、その恩がある」

「彼がここに居ろと?」

「いつまで居ても良い、と。でも嫌ならばいつでも立ち去って良い、とも」

「でも彼は貴方を伴侶に仕立て上げてまで、拘束しようとしているわ」

「違います。夜魔である私を、他の人間の目から隠すため、人間の中に紛れ込ませるため、私を伴侶にして下さったのです」

 エルがそう信じて言うのであれば、私に抗う言葉は無い。真実も結果も、見ようによって色を変えるからだ。

 確かにエルの言う事が正しくて、アリューシオも正しい事をしたのかもしれない。

 でも、この状況は間違っている。

 我を失うほど己を殺して、エルのどこに喜びがあるだろうか。

 エルの命は助けられたかもしれない。でも、これほど苦しんで、本当に助かったとは言えないのではないか。

「いつから、こんな事をしているの?」

「十七年前からです」

 アリューシオが今のランスよりも若い頃、そしてハナなどはまだこの世に存在してもいない。

 それほど前からこの苦しみが続いているのか。

「もう、恩は十分返したと思わないの? 貴方は今、恩よりも害を受けているのよ」

「害とは、何でしょう? 人間のように笑う事? 人間の素振りを真似る事? 人間の料理を食べる事?」

「そうよ。それは貴方の夜魔としての尊厳を悉く奪ってしまう」

 エルは窓の外を見るのをやめ、私の方へ向き直った。

 薄く微笑んでいるようにも見えるが、視線には凛然とした強さがある。

「でもそれは、私が耐えれば良いだけの事なのです」

「その耐えるって事が、」

 私は彼女の強い視線に言葉を飲み込んだ。

 実際、彼女はそれに耐え切れていない。

 それでも彼女は耐えているつもりでいるのだ。

 私の目、第三者の目から見た現実を突き付ける事が、私には出来なかった。

「貴方がここに居る事は、彼の願いなのね」

「そう強制された事はありませんけど」

「貴方自身の願いは? エルも、ここに居たいの?」

「私は、」

 エルはまた窓の外を見た。また同じ、北西の地平の果てへ視線を飛ばす。

「私は、森へ帰りたいです。故郷の森へ、帰りたい」

 視線の先にある深緑の茂みを、呼ぶように彼女は何度も繰り返す。

 そして、一つの願いを口にした事で、彼女の中に抑えていたものが溢れるように流れ出てきた。

「アリューシオ様は、優しい良い方です。でも、人間達の中で暮らすのは嫌。またいつ他の夜魔に殺されるかもしれないけれど、仲の良い鳥達、そして獣や草木に囲まれたあの森に帰りたいです。帰りたい」

 夜魔ゆえに多少の激情では表情を崩さない。

 しかしその心の揺れは明らかで、庭の木々に止まる鳥達が、彼女の代わりに慟哭した。

「嫌ならば立ち去っても良いのでしょう? いつでも、と言うのなら、今すぐにでも」

 私はその窓を開け放ち、彼女をバルコニーへ連れ出す。

 恐らくその森から流れてきたような風が吹いていた。

「駄目です。ディード様、私を惑わさないで下さい」

 彼女は私の手を振り払った。

「そんなにも貴方は帰りたいのに、ここに居たくないと叫ぶのに。どうして自分に嘘を吐くの?」

 私は苛立っていた。

 無闇と頑ななエルに対してではない。

 その異常さを、間違いを、彼女に気付かせる事の出来ない自分の力無い言葉に対してである。

 エルは私の手を引いてまた部屋の中に戻ると、窓に鍵をかけて、また自分を閉じ込めた。

「アリューシオ様は私を愛しているのです。人間でありながら、夜魔を、愛してしまった」

 彼女は切なげに私を見た。

 寂しさに満ちたその瞳は潤み、気を狂わせんばかりに美しい。

 そしてそれは夜魔に特有の、妖魅の美貌と視線である。それだけが、彼女が夜魔であった事を辛うじて思い出させる、数少ない名残であった。

「私に愛は分からない。でもその事と貴方が彼の元を去れない事は無関係だわ。それともまさか、貴方も彼を愛してしまったとでも言うの?」

 エルは目を伏せ、首を左右に振った。

 心の片隅で安堵する自分が居る。

 まさか彼女の方でも人間を愛しているなどと言われては、私ももはやお手上げだからだ。

 自分の勝手で始めたお節介だが、やはり夜魔と人間があまりに間違った関係で居るのは見過ごせない。何としても、彼女を正しい場所に連れて行ってやりたかった。

「私にも、愛が何かは分かりません」

「それなら貴方が意味の分からない愛などに、傷付く必要は無いでしょう?」

「でもアリューシオ様は、私無しでは生きていけない、と言いました。それが愛です」

 その言葉の意味は知らない。

 でもエルはその言葉がどれだけ大きな意味を持つか、知っているようだった。

 受けた恩を返すため、そのたった一つの言葉に苦しめられる覚悟を、彼女はしていた。

「私にアリューシオ様は殺せない。だから私はここに居るのです。ディード様、貴方にこの様が見苦しい事は存じております。でも、どうぞ私を放って置いて下さい」

 彼女唇を噛み締め、その小さな痛みでそれ以外の全ての痛みを忘れてしまおうとした。

「でも本当は、森へ帰」

「お願いです。何も言わないで。ディード様、お願いです。」

 彼女は自分の耳を両手で覆い、瞳もぐっと閉じて蹲った。

 それほどまでに拒まれて、もはや私に言葉は無い。

 私は彼女の肩を何度か擦り、それから扉の方へ向かった。

 来た時と同じように鍵を外す。

「ディード様、今の話、アリューシオ様にはしないで下さい」

「話さないわ。話せば私も人間でないと知られてしまうから。でも、なぜ? 何を知られたくないの?」

「アリューシオ様は、お優しい方です。それを知れば、きっと私をあの森へ連れて行ってしまいます。でも私は、鍵も無い部屋では、きっと耐えられない。」

 エルはアリューシオを殺さないため、ここに居る事を自らに強要している。

 鍵があるから、森は遠いからと言い聞かせて、自分の足を、翼を縛っているのだ。

 けれどその鍵を取り払われてしまったら、彼女は自分を留めていられるだろうか。

 瞬く間に飛び去ってしまうかもしれない。それほど彼女は帰りたがっている。

 あるいは、それでも必死になってこの屋敷に残るか。アリューシオを殺さないために。

 だがどちらであっても、エルが今以上に苦しむ事に変わりはなかった。

 私は頷き、そして扉を開いた。

 私の足元を小さな何かが素早く走り抜け、家具の間の隙間に入り込んで消えた。

 部屋の外では女中達が鼠だ何だと騒いでいる。

 私が扉を閉めると、彼女があちらから鍵をかけた。

 廊下の向こうから、一人の女中がホウキを片手に走ってくる。

「これはディードお嬢様。失礼しました」

 私の前でちょっと立ち止まり、騒いでいる事を詫びる。服装は似ているが、その騒々しさはキリカと大違いだ。

 その女中は鼠を追いながら、何とも熱心にまた走っていった。

 しかし鼠は見つからないだろう。

 女中が見当違いの方へ走っていったからではない。

 私の足元を走り抜けたそれが、実は鼠ではなかったからだ。

 この屋敷にはもう十数年、夜魔が暮らしている。

 昼日中から病魔が鼠の姿を借りて走り回っていてもおかしくないだけの暗闇が、廊下の角や天井の隅、様々な場所に溜まっていた。

 夜魔が住めば人が病む。

 この屋敷もすぐにそうなるだろう。あるいは、既に。


 部屋に戻った私は、椅子に深く腰掛け、そして長く溜息を吐いた。

 私自身こんなにも長い息を吐いた事に少々驚く。

「ウル」

「何か?」

 彼はいつもと変わらない様子で私を見ていた。

 私とエルがあれほど激しくお互いをぶつけ合っていたのに、ウルはそれを静観し、何も感じていない様子だ。

 しかしそれも当然で、彼は私以外に興味が無い。それは時に嬉しくもあるが、時に寂しくもある。

 今は、私のお節介に同調してくれず、少し寂しい。

「ウル、どうすれば彼女を、あの森に帰せるのかしら」

「今回は随分と、肩入れなさいますね」

「他人事に肩入れするのは、いつもの事よ?」

「確かに。しかし、どうしてもと頑なな者を相手に、諦められないのは、初めてでは?」

 これまでも自分勝手な理由を持ち出してはウルの眉間に皺を刻むような真似をたくさんしてきた。

 しかし今ほど、どうしても引き下がれない、と強く感じているのは、ウルの言う通り初めてだろう。

「だって、間違っているもの。人間のために夜魔が夜魔で居られないなんて。一方的にエルだけが苦しむのは、おかしいでしょう?」

 私がそう言うとウルは笑った。私は真剣に話しているというのに、それを笑うウルに少々気分を害する。

「何?」

「お嬢様の口からそんな事を聞こうとは思いもしませんでしたので」

「……まぁ、意地悪な言い方」

 ウルから見れば私も無闇と人間と親しくする不可思議な夜魔に違いない。

 しかし私は人間のために己を捨てる事は出来ない。

 共に生きられれば、とは思う。でもどちらかが一方的に苦しむ関係を、続けていけるわけが無い。

「ですが私も、この関係が良いものだとは思えません」

 ウルのその一言で私は不満もどこかへ消え、思わず嬉々としてしまう。満面の笑みを浮かべる己の単純さに、密かながら辟易した。

「もっと正しい、誰も苦しまない関係にする方法は無い?」

「夜魔と人間の正しい関係など、一つで御座います」

「あぁ、それはいい。言わなくていいわ。分かってるから」

 私は慌ててウルの口を塞ぐ。それを言われては私の立つ瀬も無い。

 ウルは唇を押さえる私の手を解き、口にしなかった言葉の続きを話し始める。

「しかし彼らは関わり合ってしまった。関わったから苦痛が始まったのです。出会ったという事を無かった事に出来ないなら、その苦痛も無かった事には出来ない。それがこの世の理で御座います」

「それでも彼女を救う方法は?」

「この屋敷から連れ出すだけなら、手足を縛って連れて行けば良い。今のお嬢様ならば、既にあの者よりも格上。ただの一言でそれが出来ます」

 私にはそれが出来る。己を殺した彼女の格は、無残なほど低い。

 しかしそれはエルの幸福となるだろうか。

 彼女を苦痛から解放する事にはなるだろう。それほどエルは自由を望んでいる。

 でもそのために彼女は裏切りの刻印を付けられてしまうだろう。他の誰でもない、彼女自身の手で、彼女自身の心に。

「ですがお嬢様はきっと、それほど強引な方法で良いのだろうかとお悩みになる」

 ウルは私の頭の中を見透かしていた。

「もうお嬢様に出来る事は、強引な手段しかないのです。なぜなら、穏やかな解決とはあの者が己の考えを変える以外に無く、しかし自分の手で耳を塞いだ者を相手に届く言葉も無い」

「それは、そうかもしれない。そうね。私に出来る事はもう無いのかも。だって、放って置いてくれとまで言われたのだもの」

 人間と夜魔の行く末に待ち受けるものは、底無しの流砂なのだろうか。

 私はエルの事を思いながら、ふと自分の姿を彼女に重ね、空恐ろしさを感じた。

 私の心にあるのは、人間への執着ではなく、興味なのだと、自分自身に言い聞かせる。

 あるいは、この死者の身体が引きずる、生前からの思いなのだと。

 ただ、その心が何であれ、安易に流されるのは良くないと、自らを戒める。

 どんな経路であっても、流されていく先は、砂の底なのだろうから。


 私はそれから出来る限りエルを見ないようにして過ごした。

 人間の振りをして暮らす彼女を見ていると、胸が辛い。

 幸いにもランスは大した咎めも受けなかったようで、表情に明るさが戻っている。

 昨日はアリューシオと狩りに出かけたが、私は行かなかった。

 人間の狩りは残酷だ。

 もちろん彼らも捕らえた獲物を調理し食すが、私が人や獣を狩る事とは根本として違う。

 私は、生きるため食す、だから狩る。

 人間は、楽しむため狩る、そのついでに食す。

 彼らも無闇と命を奪う事はしないが、生命を軽んじる姿勢がある。

 生命を奪う事、冒涜する事も悪い。

 しかしそれよりも悪いのは、他の生物も人間と同じく生きている事に気付いていない事だ。

 私は、楽しそうに出かけていくランスを見た時、堪らない寂しさに包まれた。

 私とエルは取り残され、しかしもう彼女の部屋を訪ねようとは思わなかった。

「どうかしたかい? 今朝からずっと浮かない顔をしているけど。いや、ここ数日ずっとかな?」

 気付けば私は舞踏会の席にいて、ランスの見繕ってくれた料理を片手に、ぼぅっと突っ立っていた。

 ランスは微笑みながらも、どこか心配そうに私を見ている。

 彼は人間で、私は夜魔。

 いや、この会場中、誰も彼もが人間だ。

 私とエルだけが、人間でもないのに、ここに居る。

「ディード、どうかした?」

 もう一度問われて、私はようやく彼に焦点が合った。

「いいえ。ちょっと考え事をしていたの」

「そう。病気とかで無いなら良いんだ。それともここは楽しくない?」

 エルはアリューシオのために人間を装い、食を断った。

 私も、ランスのために人を食べないと決めた。

 同じではないか。

 なぜ私とエルの間に大きな差があると思っていたのだろう。

 いつでも引き返せると私は思った。どうしても駄目な時は人を食べようと思った。

 でもきっと、エルも最初はそう思っていただろう。

 冷たい河に足を浸し、膝を浸し、気が付けば深みにはまっている。

 私は今、どの程度まで濡れているのだろう。

「気分が悪いのなら、屋敷に帰るかい?」

「いいえ。ここに来る事は最初からの約束だもの。ちょっと人が多くて。夜風に当たってくるわ」

 私は料理をランスに押し付けると、二階のテラスの方へ歩いた。

 ランスと親しくする事は、もう一度考え直した方が良いかもしれない。

 確かに彼は興味深く、私にある種の満足感を与えてくれる。

 でもそのために大きな犠牲を払う事になるのなら、私はその小さなこだわりを早々に諦めるべきではないだろうか。

 そもそもウルは反対していた。

 ウルの、そして父の望みに従う事が、私にとって最も重要な事柄だ。

 それを分かっていながら、まだ迷う。

 私は、どうしてこんなにも我が儘なのだろう。

 テラスでも溢れるほどの人間達が歓談している。

 私は闇を薄く広げて、ベールのように頭から被った。人間は本能的に闇を恐れるから、そうするだけで下らない会話の相手にされる可能性が随分と減る。

 部屋の中では楽団が次々と演奏を続け、人々は入れ代り立ち代り、そして相手を変えながらずっと踊っている。

 ダンスはキリカを相手にあれほど練習したのに、しかし実践する気分にならないとは、皮肉なものだ。

 そう思いながら、自然の暗がりから人工の明るみを眺めていた。

 踊る人々の中に、ちらりとエルの姿が見える。

 一度人波の中に見失い、そしてまた現れる。相手の男性は知らない人だ。

 目で追う彼女の足取りは軽やかで、爪先立ちでくるりと回れば、金色の髪が、玉石の首飾りが、スカートの裾がふわりと揺れる。

 何よりその微笑む表情は、とても楽しそうに見える。

 そして近付いてきたアリューシオの手を取ってダンスの輪から離れると、彼と話し、笑い、また話し、それから彼に手渡されるまま料理を口に運ぶ。

 唇の動きを読めば、あの晩、あの庭で取り乱した時と同じ言葉だ。

 おいしい。

 でも今のその言葉は嘘だと分かる。

 なぜなら、それを口に入れたときから、彼女の要素が激しく荒れて、砕けそうなほど震えている。彼女の存在する空間が引き千切られる様に歪んでは、彼女は必死にそれを押さえ込む。

 微笑みながら。

「ウル?」

「ここに居ります」

 私が呼びかければ彼はすぐに答えた。彼がと言うよりも、薄い煙が漂う空間がだけれど。

「やっぱり、間違っていると思うのよ」

「然様で御座いますか」

「つれないわね。手を貸してと言ってるのよ」

「それで、何を致しましょう?」

「街を西へ抜けたところに河があるでしょう? そこに舟を用意しておいて。彼女は私が連れて行くから」

「よろしいのですか?」

「強引かもしれないけれど。でも、間違っているもの」

「今度は随分と肩入れなさいますね」

「えぇ、他人事とは思えないから」

「然様で御座いますか」

 ウルの気配がすうっと溶けるように消えた。

 私は視線を強く投げかけ、エルが気付くように少々の圧を込める。

 どれほど人間の素振りを真似ようとも、やはり彼女は夜魔だ。ただの視線とは異なる、要素のざわめきに気付くと、戸惑うように視線の来る方向を探った。

 そして私と視線が絡む。

 テラスに一人、異様な気配を発して佇む私を、彼女はいぶかしむ様に見つめる。

 私は手を伸ばし、唇だけで言葉を伝える。

「来て」

 威を込めた視線と、音の無い言霊。彼女をほんの数歩操るには十分だった。

 花に引き寄せられる蝶の様に、彼女はふらふらとテラスまで来る。

 しかし外気に吹かれた途端に夢から覚め、自分の片足が暗がりに踏み込んでいる事に僅かな怯えを見せた。

「ディード様、何を?」

「さぁ、手を」

 私は更にぐっと手を伸ばす。エルと私の間にはもう五歩の距離しかなかった。

「私の事は放って置いて下さるのではなかったのですか?」

「私は貴方と手を握りたいだけよ。嫌なら、振り払えば良い」

 エルは探るように私の瞳の奥を覗いた。

 その漆黒の瞳は、どんな闇よりも濃く、彼女には見通せない。

「本当に、それだけですか? 握るだけ?」

「えぇ。私は明日の朝、帰る。貴方には辛い思いをさせたかもしれないけれど、これも出会いでしょう?その記念に、握手をしたいの、人間っぽく。」

 彼女は一歩ずつ確かめながら近づいてきた。そして恐る恐る私の手に、自分の手を乗せる。

「私も、お会い出来て光栄でした。まさかこんな暮らしをしながらまた夜魔に、それもこんな高貴な御方に」

 急に突風が吹いてテラスに出ていた人々が皆騒ぎ始める。

「何です?」

 エルも慌てていた。驚きのあまり私の手を痛いほど強く握る。

「風よ。すぐに通り過ぎるわ。きっと心配要らない」

 人々は皆転倒しないように、両足を強く踏みしめ、手近な物に掴まる。

 屋内の人々は自分達の出す騒々しい音で、外の様子に気付いていない。

「でも、強い風だわ。煽られて体勢を崩した女性が二人、柵を越えて転落してしまうかもしれない」

 私は大きく後ろに仰け反ると、そのまま手摺りの向こう側に身を投げた。

 私の手を握り締めていたエルは、それを振り解くどころか、声を出す間も無く闇の中へ引き込まれた。

 あっという間にバルコニーは遥か頭上。

 私たちは芝地に降り立って見上げる。

 人々は一瞬の突風に慌ててはいるようだが、私が闇を振り撒いた事もあり、転落に気付いた様子は無い。

 だが混乱しているのは人々だけではないようで、エルもまだ律儀に私の手を握ったまま、必死に状況の理解に努めていた。

 私はその手をぐいと引き上げ、彼女を立たせる。

「行くわよ。ぼうっとしないで」

 屋敷を取り囲む茂みをそれぞれの自由な手、私は左手、彼女は右手で膝を擦る小枝を掻き分け掻き分け進んだ。

「ディード様、お待ち下さい。どこに行くのです? ホールに戻るなら、あちらの茂みを抜けた方が入り口は」

「あら、そうなの? でもほら、視界が開けてきた」

 私は通りに出、まるで人間の男性が女性をそう扱うように、彼女を茂みの中から引き出す。

 それから私は西に向かって踏み出した。

 エルはその一歩で私の魂胆に気付く。

「どこに私を連れて行くつもりですか? ホールに戻るのは、そちらではありません」

「この先に舟がある。それに乗れば貴方は帰れるわ。貴方の居場所、故郷の森へ。」

 私が走り出すと、手を結んだ彼女も躓く様に不安定な足取りで動き出す。

 風の後押しを受けて私は益々速度を上げた。

 しかし人間の中で暮らし、要素の扱いを長い間忘れていたエルに、その速度は辛そうだった。

「まさかあの風もディード様が? テラスから転げ落ちたのも故意なのですか? 庭で通り抜ける茂みを誤ったのも、このためですか? この先に舟があるって、どうしてそんな事が分かるのです?」

 エルは走りながら喚く様に質問を繰り返し、私は舌を噛み切ってしまわないかと不安になる。

 今の彼女は正気と狂気の狭間に揺れ、己の舌の味でも我を失ってしまいそうに思えた。

 私は少し速度を落とす。

「偶然ではないのですか? 全てディード様のなされた事なのですか?」

 声を出し易くなったのか、彼女は一つ声の音量を上げて叫んだ。

「偶然、かもしれない。わざと、かもしれない」

 彼女の情熱的にも聞こえる声の響きに比べれば、私の声はあまりに素っ気無い。

 まるでいつもは私とウルがしている会話のようだ。

「お願いです。私に構わないでとお願いしたではありませんか。それを無理矢理、掴んで連れ出すなんて、あんまりです」

 私は急に立ち止まり、振り返る。

 勢いを抑えきれず、エルは私の胸に衝突し、そしてなぜ急に止まったかを問うように私を見ていた。

「止まりたかったのでしょう?」

 僅かの間、彼女は言葉に詰まる。突如、己の願いが叶えられた事を深読みし、余計な不安に悩んでいるに違いない。

「そんなに嫌なら、私の手を振り解けば良いじゃない? 力ずくでも、言葉でも」

「わ、私のような者に、ディード様の御手を振り解く事など出来ません」

「出来るわ。私は一度も手を握れとは命令していない。嫌なら振りほどけば良いとも言った。この手に言霊の力は働いてないでしょう?」

「でも、ディード様が、私の手を掴んで、掴んで――」

 二人の結ばれた手を見てエルは気付いた。

 そしてまた言葉を失う。

「私は、一度も貴方の手を握ってない」

「あぁ、そんな。そんな。こんな事って、無い。」

「私の手を掴んで離さなかったのは、貴方の方よ」

 私の指はあのバルコニーからずっと開いたまま。

 そしてエルの指の爪が私の手の甲に突き刺さっている。

 エルが握り込んだ指を広げると、二人の手はぶらりと容易く別れて下ろされた。

 私の手の傷は、この街で吸った少年の血のおかげで、すぐに癒える。

「私は掴んでない。命じてない。ただ、帰り道を指差しただけ」

 心の底で機会を待って、走り出したのは、エル自身。

 しかしエルは、自分で自分の深層心理を認めなかった。

「そんな、小手先の話術で私を丸め込んで。そんなに私をこの街から追い出したいですか? 森へ追い返したいですか?」

「帰りたくて帰りたくて、走り出したのは、貴方よ」

 エルは俯き、両手を強く握り締めると、肩を震わせていた。

 はっきりとではないが、その頬に何か光る粒が流れたように見えた。

 私は手を伸ばす。

「さぁ、今度こそ手を握りましょう? 貴方の居場所に連れて行ってあげる」

 しかしエルは急に顔を上げると、かっと私を睨んだ。

 その視線の鋭さに私は思わず手を引き戻す。

「小細工を弄すなんて、下劣な! 貴方はそれで満足ですか? 思い通りに事を運んで、気分が良いのか? 優越感で、堪らないか!」

 エルを中心に大気が弾け、周囲の全てを震わせた。

 要素は激しく鳴り響いているが、しかし彼女に共鳴しているわけではない。

 エルの背中に二枚の翼が広がった。

 要素が鳴いているのは、一人の夜魔が消滅する瞬間の到来に、怯え、戸惑っているからだ。

 エルは興奮の限界に達し、怒りと哀しみで我を忘れ、夜魔としての格を傷つけてしまった。

 既に彼女は人間との生活のせいで、夜魔として存在できる最低の限度まで己を削っていたのである。

 格を下げた夜魔は、肉体の維持が困難となり、老いていくように見える。そして次に人型を保てず、本質を曝し始め、最後にはその本質さえ維持出来ずに霧散し、消滅する。

 ウルの話では、消滅した夜魔を構成していた要素がまた自然界へ還り、いずれ集まりまた夜魔が生まれると聞いている。

 しかし今目の前で起きているそれを輪廻の円だからと安穏に見ていられるわけが無い。

「落ち着いて。このままでは貴方が消えてしまう」

「恩知らずになるくらいなら、消えた方が」

「私は貴方に、自由に、夜魔らしく生きて欲しいのよ」

 私は彼女がまた掴んでくれる事を信じて腕を伸ばした。抱き寄せて、気を静めることが出来れば、と。

「アエロコローブの名によって命じます。風よ、集い、裂き貫く矛となりなさい。そして大地穿つ豪雨のごとくに突き刺され」

 エルが夜魔としての名前までも封じていた事に私は驚き、更にまさか彼女が今にも崩壊しそうな身体で言霊を唱えるとは予想もしなかったので、僅かに反応が遅れた。

 彼女との距離は近く、剣を抜く暇が無い。

 鞘に納めたままでも、構えれば効果があるだろうか。

 それに、今や彼女の力は風前の灯だ。その言霊に私を傷つける力があるとも思えない。

 やや不恰好だが、私は鞘から抜かないままに剣を構えた。

 激しい衝突音の後、痛みを覚えた。

 見れば右手の肘の辺りが裂けている。

 そうか。その言霊は、私を構成する要素を直接的に傷つけたのではなく、彼女が最も馴染み深い要素に私の身体を傷つけるよう命じたものだったのである。

「お嬢様、構える時は鞘から抜かねば。刃を向けねば、敵意の証明、反抗の象徴にはなりません」

 私の前には私を庇う様にウルが立ち塞がっていた。

「何だ。守り損か?」

 そして更にウルの前にはラバンがいる。エルの言霊の大半を弾いたのは彼だ。

 もっとも、ラバン自身は結果としてウルを守る事になったので不満なようだが。

 ラバンが手にした大剣を大きく振り上げたとき、過剰に注いだ力の反動でエルの翼が半分、破裂するように飛び散った。

 白銀の羽毛が周囲を舞い、霧のように融けて消える。

 エルは膝を突いて崩れ落ち、全身を地に伏せたまま虚ろな視線をどこかへ向けていた。

 もはや剣で斬り裂くまでもないと思ったのか、ラバンはその腕を静かに戻した。

 私は急いでエルの傍へ駆け寄る。ウルが用心を促すが、もう彼女に何を行う力も残っていない事は明白だ。

「気を確かに持って。平静を保てば、きっとまだ大丈夫だから」

 私はエルを抱き起こした。翼は折れたが、それは言霊の代償として奪われたものであって、彼女自身の存在の消滅はまだ起きていない。もちろん、それは今にも起きそうではあるが。

「数々の、ご無礼、お許しを。」

 苦しげに漏れるエルの言葉に私は首を振る。彼女も信念があって行動したのだ。そこに礼も無礼も何もない。

「お願い、生きて」

「もう、苦しゅう御座います」

「ここで消えるなんてそんなの哀し過ぎる。人間のように生きて、人間のように死んで、それで貴方は良いの? 良くないでしょう?」

 エルの瞳からわっと涙が溢れた。

「嫌です。そんなのは嫌……」

 感情が昂ぶり、一時は身体がまた崩壊し始めた。しかしすぐに、その必死に生を望む精神が消滅の進行を抑え始める。

 身体のいたるところが本質を曝し、羽毛が生え、足は既に鳥の鉤爪に戻っている。しかしそれでも辛うじて、死の到来だけは免れていた。

 だがもはやその姿では、人間の下に戻れないだろう。

「私が無茶をしたせいで、貴方の選択肢を奪ってしまった。舟を前にしても貴方が拒めば、拒めたならば、その心は本物で、その時は本当に貴方を放って置こうと、思っていたのに」

 彼女は震える唇で微かに笑って答えた。

「ディード様の手を握って離さなかった時点で、私はもう選んでいたんです。私が手を離せば、貴方はいつでも諦めました。ここに来るまでの間中、ディード様はちゃんと私に選択肢を与えて下さっていた。私が、無理矢理に連れ去られたい、と心のどこかでずっと思っていたという事です。そうでしょう?」

 私は彼女の頬に触れ、その雫の道を拭う。

 拭っても拭っても、道は新たに作られ、それでも私は拭い続けた。

「森へ、帰る?」

 私が静かに問えば、

「連れて行って、下さいますか?」

 彼女は更に静かに答えた。

 私は彼女を抱きかかえながら立ち上がる。

 私が差し出した手をエルは確かめるように、そして強く握った。

 そして私達は西へ向かおうとするが、ラバンが通りの東を見ていた。

「おい、馬がくるぞ」

 彼の言う通り、近付く何者かの影があり、そして次第に馬の蹄音が聞こえ始めた。

 こんな時間に馬を走らせ、その上、この先は河以外に特に無いこの通りを来る者など、ただの通行人ではない。私達を追ってきたのだろう。

 やはりそれはアリューシオだった。

 彼はエルが北西の森から来た事を知っている。だからエルが街を出るとすれば、その河を渡るはずだと考え、こちらへ馬を走らせたのだ。

 それはつまり、エルが森へ帰りたがっていた事を、アリューシオが知っていたという事である。

 知っていたのに、放さずにいたなんて、惨いにも程がある。

 私は少々の苛立ちを覚えた。

 アリューシオは自ら手綱を操り、近付くと馬上から見下ろす光景の異常さに驚いているようだった。

 自らの伴侶が人の姿を失い、傷付き、そしてまさか自分から彼女を庇う様に少女が立っている。それに加え、剣を持つ男が二人。

 なぜ自分が敵意の目で睨まれなければいけないのか、アリューシオには分からないだろう。

 しかし彼は驚愕してはいるが、その状況に恐怖は無かった。彼は、エルが人間ではない事を知っていたからだ。

「君達も、妖魔なのか?」

「エルもそうよ」

 彼の声を聞き、半ば意識を失っていたエルが反応する。私の肩越しに彼を見、一度目を伏せ、またもう一度見、そしてまた目を伏せた。

 アリューシオは馬を下り、エルに駆け寄ろうとする。

 しかし私は彼を強く見竦め、彼の前進を拒んだ。

「君がエルを傷付けたのか? 妻を返してくれ」

「傷付けたのは、貴方よ。エルは森に帰すの」

「私が傷付けた? 何を馬鹿な。傷付いた彼女を匿い、あらゆるものから守り抜いてきたのは、私だ」

 彼は叫んだ。人間らしい、率直な感情を、恥も見栄も無く真っ向からぶつけてくる。

 それはある種の清々しさを持っていた。

「でも彼女は人間じゃない。人間の振りをする事が、どれほど苦痛だったか貴方は気付かなかったでしょう?」

「それは」

「それでも、貴方から受けた恩のためにと、あらゆる苦痛に耐えていた事を、貴方は気付かなかったでしょう?」

「言って、言ってくれれば、それは私も気付いたはずだ。そのために何か出来たはずだ。エル、なぜ教えてくれなかった?」

「いつもエルは、窓から森を見ていたはずだわ? 気付こうと思えば貴方は気付けた」

 アリューシオは口を開けたまま絶句した。彼の中に思い当たる節があったに違いない。

「でも貴方は気付かなかった。気付きたくなかったから、気付かなかったのよ」

「私は彼女を、エルを、愛しているんだ」

 アリューシオはただ彼女に傍に居て欲しかっただけだ。

 その思いの純粋さは私にも理解できる。

 でも、それがエルを傷付けた事も、揺ぎ無い事実だ。

 その事実の複雑さが、私は哀しかった。

「人と夜魔は生きている世界が違うのよ」

「同じ大地に住む者ではないか。何も違わない」

「違う。人は光に、夜魔は闇に。光と闇が混ざれば、どちらも消えてしまうわ。今、エルが消えかかってる。それに貴方も、エルの持つ闇のために、病魔に侵されてしまう」

「病など、振り払って」

「人と夜魔の間に、幸福は生まれない。お互いを蝕み合うだけ。それって、良い事?」

「あぁ、エル。エル。」

 彼は手を伸ばし、何度も名を呼んだ。

 私の背にもたれながら、エルはそれに気付き、唇を噛んだ。裏切る事に、負い目を感じるのか。

「エル、戻ってきてはくれないか? 我慢なんてしなくて良い。人の振りなどしなくても、必ず私が守ってみせる。だからお願いだ。帰ってきてくれ」

 アリューシオはその瞳から涙を流し、もはやなりふり構わずに叫んだ。

 その様がどれだけ醜いかを彼は知らないだろう。今彼にはエルの事しか見えていないのだから。

 そして私は、一方で醜いと思いながらも、そのあらゆる障害を考慮に入れない愚かだが強い思いをどこかで羨んでいた。

「駄目。貴方にエルは守れない」

「守れる」

「だって、エルは人を、食べるのよ」

 天から雨が、ゆっくりと降り始めた。

 ぽつぽつと道の敷石を濡らし、そして霧のような雨の帯が、通りの向こうから迫ってくるのが見えた。

「っている。」

「え?」

 静かな雨音に混じって、アリューシオの唇が動いたが、私にははっきりと聞こえなかった。

 もう一度彼は、意を決したように、はっきりと言った。

「知っている。」

 確かにそう聞き取れたが、私は理解出来なかった。

 エルが人間を食す事を知っていて、それでも傍に居たいと思うのか。

 あるいは自分をただの食物だと見ているかもしれない者を、恐怖せずにいられるのか。

「エルが、人を食べる事を? 知っていたの?」

「あぁ、知っていた。彼女が正気を失って、街の者を襲った時も、私が隠したんだ」

 霧雨はすぐに豪雨に変わり、あらゆるものを激しく打つ。

 私達夜魔は多少の要素を操って防ぐが、アリューシオは瞬く間に全身を濡らした。

 彼の乗ってきた馬でさえ、木陰を探して雨を凌ぐというのに、それでも彼はそこに立ち続けた。

「彼女を、愛していたからだ」

「愛って何? 普通、人は夜魔に恐怖するものよ。分からない。愛って、何?」

「それでも私は、愛してしまった」

 私を掴むエルの手が震える。

 思いに応えなければと、また自分を追い込んでいるに違いない。

 でもそれでは、何も解決しないではないか。

「駄目よ。確かに貴方は全力でエルを守ると思う。でも、人間に夜魔を守りきれるわけが無い。毎日、毎夜、人を食べる夜魔をどうやって守るの? 同胞を殺されながら、それでもエルを守り、貴方は背徳心に塗れずにいられるの? 貴方にそうさせる事で生まれる罪悪感から、エルの胸を守れるの?」

「今までも守ってきた。毎日、毎夜だろうが、守ってみせる」

 その手を掴めとばかりにアリューシオは手を伸ばした。

 だがエルの手は私を一層強く握り、離さなかった。

「分かってない。貴方は、優しい良い人だけど、何も分かってない」

「何を、分かってないって言うんだ?」

「貴方が今までエルを守れたのは、そう出来るように彼女が己を抑えていたからよ。何をしても人に夜魔を守れたりはしない。自分より大きいものは隠せないでしょう? 貴方がエルを守りたいと言い続ける限り、エルは手足を伸ばせない。人の背中は小さ過ぎるの」

「私の傍に居る限り、彼女は自分を殺し続けるということか? 私が、守り易いように」

 私は頷いた。

「夜魔である事が他の人間に知られれば、貴方にエルを守る事は出来ない。その時、エルは自分の足で逃げれば良い。でも、傍を離れれば貴方が生きていけないと言ったから、エルは逃げられない。だから、人に知られないよう、必死に人間の振りをしていたのよ。自分の命を削ってまで」

 アリューシオはわなわなと全身を震わせ、ふらつく足取りで一歩一歩こちらへ歩き始めたが、私の瞳の拘束に躓き、濡れる舗道に倒れた。

 そして倒れたまま、エルに向かって手を伸ばす。

 あまりに必死な姿に、私は罪悪感を覚え、胸が痛んだ。

「エル、お前は全て私のために耐えたのか。済まない。気付いてやれなかった。でも、どうしてそんなぼろぼろになってまで。お前にとって、私はただの人間だったのだろう? それとも、お前もまさか私に、愛を」

「やめなさい」

 呟くように、呼びかけるように、そして叫ぶように語るアリューシオの言葉を私は遮る。

 その先を言わせたく無かったのだ。

「違うわ。私達は愛が何かを知らない。エルが貴方の傍に居た。それはただの恩よ。傷付けた者と、傷付いた者が、同じ感情であっただなんて、そんな事あるわけが無い」

 突然の厳しい口調にアリューシオは驚き、私の顔を見上げていた。

「勝手な憶測で自分の心を救うのはやめなさい。エルの心を傷付け、惑わすのはやめなさい」

 同じ思いなら、なぜエルだけが苦しまなければいけなかったのか。

 そうあって欲しいと願うだけのアリューシオの不用意な発言が、またエルを苦しめるではないか。

 私は激しく憤りをぶつけた。

 彼は両の拳で地面を叩き、何度も水飛沫を散らす。

 咆哮のような叫び声を上げ、天に拳を突き上げ、そしてもうエルの名を呼ぶのをやめた。

「お願い。もうエルを解放してあげて。相手を苦しめたくない思いが、愛なのではないの?」

 その感情を知らない私が、それでも理解しようと試みる時、私はアンナの強さを思い出す。

 アリューシオは立ち上がり、寂しげな瞳でエルを見つめた。それから、雨音に消えてしまいそうなほど小さな声だったが、彼ははっきりと言った。

「エル、もう行って良いよ。私はお前が居なくなっても生きていける。前に言ったあれは、何というか、人間特有の冗談だ。君は妖魔だから真に受けてしまったんだね。申し訳ない事をした。だからもう、故郷に帰って良いんだよ」

 彼は微笑んだ。

 全身を濡らし、頬を引き攣らせ、笑っているようにはまるで見えないが、彼は笑おうとしていた。

「エル、礼を言うよ。今まで、ありがとう」

 私を掴んでいたエルの腕から力が抜ける。

 そして彼女は私を押し退け、よろめく足でアリューシオの胸に飛び込むと、私の方へ向き直る。

 エルは両足をしっかりと踏ん張り、そして腕を振ると己の爪を剣に変え、私に対峙する。

 その場にいた全ての夜魔が身構えた。

 しかし剣とは力の象徴であり、力を失ったエルの刃など、どんなナイフよりも小さなものだった。

「エル、何をしているの? 行きましょう? 彼も許してくれたじゃない?」

 しかしエルは首を振って拒んだ。

 夜魔にとっての剣とは、切り裂くものである以前に、相手の言葉に抵抗するためのものなのである。

 彼女は私と共に行く事を拒みたかったのだ。

「行くんだ、エル。私に君を幸福にする事は出来ない」

「アリューシオ様、私は貴方様ともう十七年も、共にいるのです。貴方様の嘘が、私には分かるのです。やはり、私にアリューシオ様は殺せない」

「助けた恩ならもう十分返してもらった。だから君が居なくても大丈夫だ。行ってくれ」

「それも、嘘で御座いますね」

 エルはアリューシオを見つめ、微笑む。それは、人間の表情のようにも、夜魔の表情のようにも見えた。

 それはきっと、アリューシオのために人間を振舞いたかったのでも、夜魔としての琴線に触れたわけでもないのだろう。

 エルという存在が、その存在のままに笑ったのだ。

「森に、帰りたくないの?」

 私は問う。

「帰りたいです。でも、アリューシオ様を死なせたくもない」

 彼女の素直な心が風を呼んだのか、雨雲が遠ざかっていく。

「それは恩があるから。だって、私にも愛はわかりません。でも、アリューシオ様が私のために嘘を吐いた気持ちを愛と言うのなら、彼のため多少の苦痛は耐えようかと思える私のこの気持ち、これも愛なのではないかと、私は思ってしまいました」

 そう言って、彼女は私にも笑いかける。身体中の痛みは、とても笑っていられるようなものではないはずなのに。

 その決断の先にある苦痛は、多少などと言える量ではない。

 しかしそれでもエルが懸命に微笑むのなら、私も微笑む以外に無かった。

 エルはもう、決めたのである。

「駄目だ。もう君にどんな我慢もさせたくない」

 アリューシオは拒む。しかし彼も内心ではエルと共に居たい。エルは容易くそれも見抜いた。

「お傍に置いて下さい。今は、森へ帰される方が、苦痛で御座います」

 アリューシオは震える手でエルを抱きしめ、エルもそれに身を委ねた。

 私は立ち去る二人をただ見送る事しか出来ない無力な夜魔だった。

 尚更悔しいのは、その二人の姿を、やはりまだ間違っていると思ってしまう事だ。

 間違いを正す事は出来ず、ましてやそれを許し、見送るとは。

「間違っていたのは、私の方? 夜魔と人は、一緒になれるの?」

 ウルもラバンも、すぐには答えなかった。

 もう雨は止んでいる。聞こえなかったのではあるまい。

 彼らも、私と同じ、割り切れない気持ちを抱えているのだろうか。

「お嬢様も仰った様に、夜魔と人間は、光と闇。それは確かなこと」

「でもエル達は」

 私は言いかけて口をつぐんだ。

 そう、「確かなこと」に逆らっているだけ。

 たとえ間違っていても、逆らうという選択がないわけではない。

「お嬢様には確かな道を歩んでいただきたいと思っています」

 私はウルに微笑んだ。いかにも教育者である彼らしい言葉だったからだ。

 私はウルの期待に応えたいと思った。間違いは犯すまいと。

「良いも、駄目も全部あってのこの世だ。そもそも純血種でも被造者でもない、お前の存在からして間違いみたいなもんだ。間違った奴が他の問題をとやかく言うのも、大間違いだろう?」

 ラバンが笑い、言い過ぎだとウルが訂正を求める。

 穏やかな風が一陣。

 私は、一先ずそれで良いと思った。

「とりあえずは、私が間違えなければ良しとしましょう?」

 私は、二人の夜魔を連れ、アリューシオの屋敷に帰った。


 翌朝、私とランスは私達の街に帰るため、アリューシオに礼と別れを述べた。

 エルは彼女の部屋に籠り、その朝は会えなかった。

 また、アリューシオも何かを語る事は無かったが、ここに来た時と同じあの穏やかな笑みを浮かべてはくれなかった。

 アリューシオはエルを愛したが、やはり夜魔は別種の生き物なのだろう。

 私に微笑めない事は、仕方が無い。

 そして私達は門に近い庭園で、馬車が出てくるのを待っていた。

「ディード、昨夜は結局、先に帰ったのかい?」

 ランスは私の正面に立ち、真っ直ぐ私の瞳を見ていた。

 私は闇に生きる者だ。その太陽のように強く輝く彼の瞳はとても眩しい。

 木陰に座りながら、私は彼を見上げ、晴れ渡る空に目を細めた。

「えぇ。先に出たわ。貴方の名前に傷をつけた?」

 彼は人間で、私が胸の奥の暗闇で何を思っているか、それを見る事は出来ない。

「いや、良いんだ。あまり、面白くなさそうにしてたろう? 僕こそ変な事に巻き込んで申し訳ない」

 ただ私は、エルの落ちた深い穴に、自分も落ちる事に怯えていた。

 私の父セィブルは至高の人とも呼ばれる偉大な夜魔だ。

 その父が、膝元に来いと手を伸ばし、ウルに手を引かれて私は歩いている。

 繋ぐ手を間違えてはいけないのだ。

 たとえランスの差し出す手に、どれほど穏やかな安息を覚えたとしても。

「良いのよ。約束だったもの」

「そうか」

 ランスはずっと私の顔を見ていた。

 なぜそんなにも見つめるのだろうと、私も彼をじっと見上げる。

 私達の視線は絡まり、互いの瞳が細やかに脈動するのを何か不思議な生物を見るような気持ちで見ていた。

 外観はこんなにも似ているのに、私と彼は違う。

 いや、私の本質は人間だったのだから、ただ流れる血だけが私を夜魔にしている。

 この父の血が無ければ、私は人間として、何も恐れず、人々の間に立てたのだろうか。

 ランスの顔を、何の後ろめたさも無く、見られたのだろうか。

「ディード?」

「何?」

 しかしこの身体となった人間は私ではない。

 やはり私という存在はこの血あってこその、この夜魔なのだ。

 仮定の話をする事は無意味だし、何よりウルを裏切っているような気がした。

「どうかしたかい?」

「何が?」

 昨晩降った雨の雫が木の葉を伝い、私の上に落ちてくる。

 それをウルがその細い指で受け止め、私をただの水滴からさえも守った。

「何って。ここ数日、元気が無いじゃないか」

 ランスは私を心配していた。

 その理由が、己にあるとは夢にも思っていないだろう。

「そうかしら? 私は、いつも通りよ」

 ランスは一つ大きく呼吸をし、その間の後で意を決したように話し始めた。

「ディード、もう僕と一緒に居るのは、嫌かな?」

 彼が深刻な顔をして突然にそんな事を言い出すものだから、私は驚いた。

 手探りなのかもしれないが、彼が私の胸の闇に手を差し入れてきたからだ。

「嫌じゃないわ。貴方は面白いもの」

 それは真意だ。

「以前、そう言ってくれた時、貴方はもっと笑ってくれたよ」

 彼の言うその私は、きっと今よりもずっと愚かだったからだろう。

 失うもの、傷付くものがある事を知った。

 一時の興奮に流されて、熱が冷めた時に何も残らない、その恐怖を知った。

 何も持たずに生まれた私が、父の血によって育ち、様々なものを得た。

 得たからこそ、それを奪われる事を拒みたいのである。

「もう、僕と一緒には居たくないと、思ってるのかい?」

「違うわ。でも、」

 ランスが私の心の位置を探し当てたのは、恐らく無闇に手探りしていたのではないのだろう。

 きっと、アリューシオが何事かを彼に言ったのだ。

 私が夜魔である事は伏せたようだが、夜魔と人間が一緒には居られないと、私がランスを拒むべきだと思い始めている事を。

「でも、あまり近付かない方が良いのかもしれない」

 ランスは言葉も無く、私の唇を見ていた。

 次の言葉を待っているのなら、それは肯定の言葉か、否定の言葉か。

 しかしそれが無い事に気付き、朝の爽やかな風とは対照的に不気味な間がそこに生まれた。

 それを埋めるようにランスは急いで口を開く。

「ディード、貴方と僕は遥かに身分が違う。僕と付き合う事で、貴方の家名に傷が付くのではないかと、僕はいつも恐れている。でもそれはきっと、貴方の方がその何十倍も危惧しているだろう。でも、それが笑えない理由? 僕と関わりたくない理由?」

 彼の言う理由とは違う。

 でも夜魔は人間の傍に居るべきではない。

 その当たりでも外れでもない彼の言葉に、私は首を縦にも横にも振れなかった。

「まず私は、父のために生きなくては」

「まだ会った事も無いのに?」

 私は頷いた。

 会った事があるかどうかや、父が帰ってくるかどうかは関係無かった。

 私が生きるための目的は、それ以外に用意されていなかったのである。

「僕に身分の差は覆せない。家名や、父親の名誉を傷付けてまで、僕や我が家と付き合ってくれと言うのは、厚顔でおこがましい事だと思う。でも、貴方がどうしたいのかを教えて欲しいんだ」

「私が?」

「父のためというのも、家のためというのも、重要だろう。でも、ディードが、貴方自身のためにどうしたいのか。それも忘れてはいけないだろう?」

 私は考えた。

 いつでも好き放題に楽しんできた。

 しかし私のため、と思って何かを決断した事は無い。

 父のために生まれた私に、私のためという概念は存在価値が無いではないか。

「分からないわ。ただ、私自身の感情では、貴方との時間を捨てたくない。でもこれは、我が儘よ」

「こういう事を言うと、僕が家のために、貴方の家との親交を絶ちたくないだけで言っているようにも聞こえるだろうけど、」

 彼は私のその我が儘を待っていたのか、急に声に明るみを増した。

「貴方と僕、身分は違っても生きている世界は一緒だろう?」

 違うのは身分じゃない。種族だ。

「お互い手を伸ばせば、届く距離に居る。僕もハナも皆、貴方と一緒に居たい。貴方も同じ気持ちなら、手を伸ばして一緒に居ても良いじゃないか」

 住む世界も違う。私は闇の生き物。

 私はエルが、死の担い手、とまで呼んだ、人間の恐れる存在だ。

「近付かない方が良いだなんて、寂しい事を言わないでくれ」

 でも、切ない事に、確かに手は届くのである。

 ランスの伸ばした手を、私は握らなかった。

 握れば、また離さなければいけなくなる事が嫌だった。

「貴方自身が僕達と居る事を嫌になるまで、もちろん僕はそうならないよう努力するが、その時まで我が儘でも良いんじゃないかな?」

 ランスは笑った。

 空が眩しい。

「そうね。私自身がそう思う、その時まで」

 でもその時はもう遅いかもしれない。エルを見ていると思う。

 しかし人間というのはどうして、自分を捨てて何かを突き動かすのだろう。

 人間は夜魔よりも力が弱い。だから自分も他人も全てを動かす事は出来ない。

 ならば、自分の事だけに力を使えば良いのに、わざわざ自分を捨ててまで他人を動かそうとするのである。

 だがその愚かで必死な姿に、不思議なほど心震えるのだ。人間が要素を震わせているわけでもないのに。

 私は人間を、不思議で、危うくて、無様だと思う。

 でも魅力的で、どこか彼らを羨んでしまうのである。

「さぁ、馬車が来た。一緒に居るのが嫌だったら、この馬車の狭さは本当に苦痛だろうなと思って。本当に思い直してくれて嬉しいよ」

 あぁ、そう言えばこの乗り物は最低の乗り心地だったな。

 人間を羨んだ晴れやかな気持ちも忽ち冷めた。

 人間なんて本当に、知恵や力を無意味に使う馬鹿な生き物だ。

「ウル」

 私は同族の手を握る。

「何か?」

 彼はランスと私の会話が、そして私の出した答えが、少々不服のようだった。

「貴方を信じているわ」

 私は彼の手を両手で強く握った。

 この手なら、きっといつまでも離さなくて良い。

「その時、は私がお告げ致しましょう」

「えぇ、頼りにしてる」

 私は微笑み、ウルも微かに笑った。

 冷たい風が吹いたが、握った手の平だけが温かくて、ウルはあまり好まないのだが、私はもっと強くしっかり握った。

 彼に手を引かれて歩き、乗り込んだそれが馬車だと気付いて、私はまた気が滅入るのである。


次話更新8/31(金)予定



作者ツイッター https://twitter.com/yuki_anno

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