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ヤミヨヒメ  作者: 二束
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ヤミヨヒメ  -アンナノネコ-

 その建物は周囲の建物と様相を異にしていた。

 装飾は繊細で、その趣はどちらかと言えば人間よりも夜魔の作り出したものに近いように思えた。

 屋根の上には鐘が取り付けられており、時を刻むその音はなかなか涼やかだ。

 更にその上には剣を突き立てたような装飾が輝いていた。

 前に立ち見上げる私は、その存在感に圧倒されるものを感じた。

「本当に初めてなんですね?」

 仰天している私をハナが笑う。

 私がランス達に連れてこられたのは、教会という場所だった。

 ここ数日、事件も起きないので時間に少々の余裕が出来たランスが教会へ行くというので、ハナが私も誘ったのである。

 しかしその教会というものがどのようなものなのかを私は知らず、それが二人を驚かせた。

 それが人間の信じる神という存在の、その社であると理解したのは、道々に話を聞いてようやくここに至ってである。

 なぜ人がそれを信じるのか、という事は理解出来なかったけれど。

 扉の片側は常に開けられており、ランス達に続いて私もそれを潜った。

 中は暗く、空気は僅かに冷えている。装飾窓から差し込む光が微かに揺れている。

 だが興味を引くのは何よりもそこの静けさだ。

 外では普段と変わらず人々が行き交い、雑踏のざわめきに満ちているというのに、この中はまるで隔離された空間である。

 歩く靴音は明瞭だが、壁に届けばそこで消え、再び響き戻ってくる事は無い。

 ランス達は椅子を前に跪き、目を閉じて何かに祈り始めた。

 私は一人静寂の中へ取り残され、当ても無く歩いた。

 目に映る全てが、人間のものとも夜魔のものとも異なっており、私は興味を引かれた。

 そしてその建物の最も奥で私は一つの小さな像を見つけた。

 それは剣に吊り下げられた一人の男の像だった。

 この建物は全てそれを中心に組み上げられており、人々は皆それの向こうに神を見ているのだろう、その像に染み込んだ情念、あるいは意思のようなものの存在を感じた。

 その真鍮の身体を持つ男は俯いて何を見ているのだろうか。

 届く距離ではなかったのだが、私はそれにそっと手を伸ばしてみた。

「貴方に主のお恵みがありますよう」

 私の隣で一人の娘がそう言いながら祈りを捧げ、そして私に微笑みかけた。

「貴方は今、私のために祈ったの?」

 私は問う。

「女が御衣に触れた時、主は仰いました。その信仰が貴方を救った、と」

 私には彼女の語る意味が分からない。

「貴方が手を伸ばしたその信仰に、お恵みがありますよう」

 そう言って彼女は私の目を見つめ、また少し笑う。

「いいえ、信仰ではないわ。私は貴方の信じる神を知らないもの。父もウルも教えてくれなかったから。ただ、それに祈る少女を知っているだけ」

 ランス達と同様に彼女も意外そうに目を見開く。

 そして彼女は一層優しげな響きで言葉を発した。

「信仰を持つのに遅過ぎるということは――」

「その子は天国に行きたいからと、私に一緒に祈ってくれと言っていた。あの子はこれに祈っていたの?望む場所には行けたのかしら?」

「それは、哀しいですね。でもその子は行けただろうと、私は思います。信じる者を神が放っておくはずはありませんから」

「信じれば誰でも行ける所なの?」

「えぇ、誰でも。ただ真実、心から信じていれば」

 彼女は像を見た。

 私にもそうせよと勧めているのだとは分かる。だがその物腰は柔らかく、強いられる感じは無い。

「心から、というのは簡単?」

 彼女は首を横に振った。

 心の中は複雑だ。

 好きだということは、同時に嫌いということでもあるし、羨望は同時に嫉妬でもある。

 心は自分に所属するものなのだろうが、最も支配しがたい、不自由な持ち物だ。

 それは夜魔も人間も、同じようだった。

「もし今、貴方がそこに旅立つとしたら行きつけるかしら?」

 彼女は驚いたように私を見た。だがすぐにまた微笑む。

 彼女の平静な表情とは微笑みなのだろうか。

「随分、率直に聞くのですね。でも私はそうなるように信じる事を怠らないように心がけています。誰よりも信仰は篤いと思っていますが、それに驕らぬように常に自分を戒め、尚一層信じる心が強くなるようにと努めているつもりです」

 なるほど、良い瞳をしている。

 彼女を見ていると舌に渇きを覚えた。

 私はその欲を塞ぐため、彼女から視線を外した。

「人が皆、この神を信じるのはそこへ行きたいから?」

 彼女は口を開いたが、言葉が出てこない。

 答えたいようだが、その答えを知らないのだろう。あるいは、答えを表すに十分な言葉を知らないか。

「そこに行けるように信じているのは確かですが、そこに行くために信じるわけではないのです。信じる者に救いは訪れますが、救われたいから信じるのではないのです」

 彼女は自らの言葉の不明瞭さに困惑していた。

 誰よりも信じている事を自負していたのに、それを言葉にする事も出来ないのかと苛立っている。

 ただ私はそれでも悪くないと思った。

 私は言葉を作らない種族であるから、言葉が全てを語れない事を知っている。

 人はただそれを知らないだけだ。

 苦心する事は醜い事ではない。

「人が救いを求めて信じるのも確かです。救いを求める事がいけない事ではないけれど、救われたくて信じ始めたわけでもない」

 彼女は言葉を紡ぐ事で少しずつ自分の心を照らし出していく。

 その様は己の言葉に酔っているようでもあったが、光明を見つけた喜びが、酔いの興奮に似通っていただけなのだろう。

「人は信じたいから信じているのだと思います。人は皆、不安なんです。何かを信じなければ、怖くて生きていけない。人が信じるから神が居て、神が居るからまた人は信じるのです」

 人が信じていなければ生きていけないというのなら、夜魔である私はどうなのだろう。

 私は何かを信じているだろうか。

「私が敢えて何かを信じるとすれば、見た事も無い父か。父を強く信じる者を信じているから、私も父を信じたい。でも、なぜか躊躇われるの」

 彼女は自分の懐をごそごそと探ると、何やら茶色いものを取り出し、私の手にそれを持たせた。

 それは手の平よりも一回り大きい程度の小さな本であった。

「これは?」

「信じたいと思うから、疑ってしまう。疑ってしまうから、また信じたいと思う。貴方も、信じるものを探しているのですね、きっと。」

「私に貴方の神を信じろと?」

「いいえ。貴方が貴方の信じるものを見つけられるよう。そしてそれを一心に信じられるよう。私の神が貴方を見守って下さる事をお祈りして、それを差し上げます」

 彼女が私の心配をした事が私にはとても意外であった。

 時に人は他者を犠牲にしてでも、己の保身を図る場合があるからである。

 しかし彼女の表情にそのような暗さは無く、真実私の事を思っているのだと分かった。

 その娘はそういう心に生まれついたのか。あるいは彼女も場合に至れば心を覆すのか。

 人間とは不安定なのであろうと思う。

 それは悪しき事ではないが、儚い。

「お姫様。お祈りが済んだら、お傍に居られないので慌てましたよ」

 ハナが密やかに近付いてくる。

 この建物の中では彼女も珍しく静かだ。

「お姫様、なのですか?」

 私を呼ぶハナの言葉を聞いて彼女が少々驚く。

 どういう冗談なのだろうと呆気に取られているような感じだ。

「えぇ、ハナはそう呼ぶの」

 すると彼女は口元を手で隠しながら小さく笑う。

 私とハナにしか聞こえないような小声で、静寂に融けるような声だった。

「ハナ様は誰にでもご自分で呼び名を付けてしまわれますからね。私もラテ、と呼ばれます。あぁ、自己紹介がまだでしたが、私はラトリーヌと申し、ここの修道女です」

「修道女?」

「神にお仕えする者の事ですわ。中でもシスターラテは熱心で、皆にも優しく、私も敬愛して」

 ハナは己の事でもないのに、なぜか誇るように語る。

 彼女は親しい者の事を語ると、そのようになる事が多く、恐らくラトリーヌもそうなのだろう。

 大抵の場合、私はその人間の過去に興味を持たないので、今度もここから始まるハナの雄弁にはあまり興味が無かった。

「じゃあ、貴方はいつでもここに居るのね?」

「はい。所用で外出する事もありますが」

「ラテの話は面白いわ。聞きたくなったらまた来ても良い?」

 ラトリーヌが微笑んだので、私も微笑み返した。

 一方でハナは私が途中から彼女の話を聞いていなかったので、少々不満そうである。

「ハナも天国へ行けるようにお祈りをしたの?」

「行ければ良いですけど、私がいつも祈ってるのは家族や友人達の事ですわ。私達に常に平穏をお授け下さい、と。私はいつもこればかりです」

 私達、という言葉にハナはその身振りで私やラトリーヌを包んだ。

 もしも彼女が、私が人間ではなく、更には人の血を吸う夜魔であると知ったならば、恐らくそうは言えないだろう。

 だから今はその言葉がとても大切なものに思えた。

 心の片隅で嬉しく感じるのは、屍から引き継いだ人間の心が、私にもまだ少し残っているという事なのだろうか。

 そんな事、ウルにはとても言えない。

「ランス様のお祈りは今日も長いのですね」

 ラトリーヌはそう言いながら、視線の先にランスを見ている。

 なぜか今はその微笑が消えていた。

 いや、ラトリーヌだけではない、見ればハナまでが表情を消し、むしろ僅かに苦しげにさえ見える。

 私はその理由を尋ねた。

 だがラトリーヌは答えず、少ししてハナがようやく重々しく口を開いた。

「お兄様は、お義姉様の事を祈っているんです。教会に来た時だけでなく、朝も夜も、きっと心の中では一日中。お義姉様の病も、その本の出来事のように治れば良いのに」

 私の持つ本をハナは指差す。

 衣に触れれば救いが云々の話か。

「神父様は、それがランス様とアンナ様の試練だと仰いましたが、でも連れ添いが苦しむ中、ランス様の何も出来ない己への憤りは、あまりに、あまりに辛そうです。この試みが一日も早く終わる事を、私も祈っています」

 ラトリーヌはしばし目を閉じて宙に祈った。それを見てハナも同様に祈る。

 だが私はそれよりも、そのアンナという人物に困惑していた。

 ハナに義姉と呼ばれ、ランスの連れ添いという事が何を示すのか。

 私は人間同士の関係にはやや疎かったが、ランス達と交流して多少の知識を得た今ならば分かる。

 そのアンナという女性はランスの伴侶だ。

 彼は一度もそのような事は口にしなかったし、彼の家を訪れた時も目にしなかった。

 およそすれ違うような距離に居ながらも気付かなかった彼女の事に、私は心底意表を突かれた。

 しかし意表を突かれたからといって、私は表情を変えていない。むしろ私が何の表情も作らなかったからこそ、ハナは気付いたのかもしれない。

「お兄様はお義姉様の事をお話していないのですか?」

「えぇ、私は聞いてない」

 ハナはばつが悪いようにやや歪に微笑む。

 それはランスが話してもいない事を悪気が無いとは言え、自分が差し出がましくも話してしまったからだろうと思えた。

 そういう表情の人間を前にした時は微笑むのが良い。それも私は学んだ。

 そうすると人は、この微弱な緊張感を持つ場を和ませようと、言葉を続けてくれるのである。

「お兄様は、話さなかったのではなくて、話せなかったのだと思います。だって、あまりに辛過ぎますもの。どうして良いのか誰にも分からないんです。やる事なす事、全てお義姉様の苦しみになりそうな気がして」

 人が病に侵されるとは、これほど辛い事か。

 ハナはまなじりを下げ、寂しげに兄を眺めて語る。

 ランスはひたすらに祈り続け、石よりも動かなかった。

「お兄様でさえ、祈る以外に何も出来ないんです。お兄様が必死になってこの街を守るのも、きっとその行いが神様に届けば、と思っているに違いありません。お兄様自身は絶対にそんな事を言いませんけど、お兄様が頑張るのは、全てどこかでお義姉様のためなんだと私は思います。お義姉様に何もしてあげられないから、その代わりに、と」

 私の手にした本が震えた。

 開いたわけでもないのに、風に吹かれるようにしてはたはたと紙が繰られ、そしてゆっくり静かに止まる。

「どうしてお兄様達がこんな目に会わなければいけないんでしょう? お姫様、私は」

「ここに、」

 悲哀のあまり情緒の安定を欠き始めるハナを凍結させるように、私は彼女の言葉を遮り、手の上に開かれた文字をもう一方の指で示す。

「ここに、書いてあるわ」

 彼らが願いを捧げるのがその神なら、苦しみを生んだのもその神、そしてそれを和らげるのもその神だ。

 その書に彼女を平静に引き戻す言葉があるのではない。

 彼女を平静に引き戻すため、彼女が信じるその書から言葉を見つけるのだ。

「神を、疑うな。神を、試みるな。」

 さすがは元の持ち主、とでも言うべきか、ラトリーヌは私の指差す文字を言い当てる。

「ハナ、何も出来ないのなら、何もしなくて良いわ。そして、何かが出来るのなら、それをすべきよ。決断が、行動が、必ずしも正しいわけじゃない。でも、決断せず行動もしない事は必ず過ちとなるわ」

 父がなぜ私を生み出したのか。なぜ私を置いていったのか。

 それが分からないから、私は父を信じきる事が出来ない。

 だが私には高貴なものになるという、生の目的がある。

 父を信じるか否かはその目的に関係無く、その目的の遂行に私は迷いを持っていない。

 それ以外に、私に出来る事が無いからだ。

「求めよ、そうすれば与えられるだろう。ここには、そう書いてある。私達は皆、願うしかないのよ。それしか出来ないのだから、仕方が無い」

 ハナの心模様が彼女自身の要素を哀しげに震わせている。

 夜魔としての性質だろうか、要素の震えを通して、私にも心痛が仄かにうつる。

 私は本を閉じ、彼女の手を握った。

 そうすれば私が落ち着くからだ。

 そうすれば彼女も同様に落ち着くかもしれないし、あるいは私から彼女の方へと心が伝わる可能性も皆無ではない。

 ハナは笑った。

 彼女の生命力、心の気高さは特に優れている。震える感情を押し込める事は、困難だが不可能ではなかった。

 そして私は、そういう困難を諦めない者が好きなのである。人間でも、夜魔でも。

「それにしても随分内容にお詳しいですね? お姫様、本当に教会は初めてなんですの?」

 ハナは気丈に振舞う。

 気丈さは魅力だ。ウルの言っていた事は正しい。

 人間は浅ましく、愚かだ。

 だが人の心は決してそれだけではない。

 それは弱いが、弱さは悪ではない。

 弱くても必死に何かをなそうとする様は、ある面で愚かだが、醜くは無い、と私は思う。

「えぇ、初めて。これもラテに貰ったばかり。でも、この本を構成するものが教えてくれたのよ。貴方の信じる言葉、貴方を勇気付ける言葉はここにあるって」

 ハナとラトリーヌは私の言葉を理解出来ず、呆気に取られたようにぽかんと間の抜けた顔を見せた。

 しかし敢えて分かり難く言ったのだから、理解出来ないのなら、それはそれで良いだろう。

 多くを語って私が人間でないと知れてしまうのも本意ではないから。

「本を構成するもの? 紙ですか?」

「聖霊、でしょうか?」

 私の感じる要素を、ラテが人間の言葉に改めようとする。

 でもそれは無意味な事だ。

「分からないわ。概念や感覚は言葉にする事が出来ないものだから」

 ハナはまだ腑に落ちない様子であったが、ラトリーヌは頷いた。

 それはラトリーヌが無条件に信じるという事に慣れているからだろう。

 優しい心だが、危うさもある。

 そしてハナが急に私達の傍を離れた。

 彼女が駆け寄っていく先では、ランスが祈りを終えて立ち上がっている。

 ハナが急に寄り添うものだから、ランスは困惑したようだが、それでも微塵も拒む様子は無かった。

 それからランスは私達を見つけ、それを見てラトリーヌは軽く頭を下げ、更にランスもそれに応じて会釈をする。

 私達と彼らの間には十数歩分もの距離があるというのに、ランスとラトリーヌのやり取りはまるで会話を交わしているようであった。

 彼らの様子は、それぞれがそれぞれの方法で互いを思い合う姿に見える。

 私にランス達を思う、私の方法はどんな様であろうか。

 私は手招かれ、入った時と同じく三人でそこを出た。

「ランス、私はアンナに会いたいわ」

 外界の明るさに私だけが目を細める必要の無い中、私は口にした。

 途端にランスが驚いたのか困ったのか、眉を歪める。

 そのばつの悪い時の表情はやはり兄弟であるためか、ハナと良く似ていた。

 ランスは自分が話してもいない事をまさか私が知っているものだから、戸惑いながらもいぶかしむ様に妹を見た。

 ハナは兄の視線に弁明を試みようとするが、気負いが先走って言葉に詰まる。

 ここで兄妹の納得を待つには思う以上に時間を必要とするだろう。話が停滞して結論が出ないのは好ましくなく、仕方なく私が押し進める。

「ハナを責めては駄目よ。彼女は貴方がそれを話さないでいたとは、夢にも思っていなかったのだから。それに、彼女が私にそれを教えてくれたのは、軽んじていたからではなく、無我夢中なほどに一心だったから。ランスにもそれは分かっているはずよ?」

 自分の言いたかった事を全て私に代弁されたためか、ハナの顔に明るさが広がる。

 そしてその明るさはランスにも反映された。彼もまた、止めてくれる者を期待していたのだろう。

 しかし、彼は私がアンナに会う事を柔らかく拒んだ。

 ランスはその理由を多くは語らない。

 ただ、拒む。

 私はそれ以上無理に頼む事はしなかった。

 彼も必死に何かを守ろうとしているのだ。

 その瞳の誠実さはウルのそれに似通うところがあった。


 その晩、私は考え抜き、そして立ち上がった。

 ウルの名を呼べば、彼は闇の中からすぐさま姿を現す。

「ウル、人間の病を治す事は出来る? 癒えよ、と言えば治る?」

 ラトリーヌに貰った本の一節にそう記されている。

 私が、それも人間などのために、そんな酔狂な事を言い出すものだから、ウルは表情を険しくしていた。

 しかし私はそれにも構わず、彼にその一節を指し示す。

 だがウルは読もうとしなかった。読まなくとも、私の言いたい事は理解出来ているのである。

 ただそれに対して積極的でないだけだ。

「病は生命力の低下によって引き起こされます。原因は大別して二つあり、一つはそれ自体の生命力が衰える場合、もう一つは他者に奪われている場合です。夜魔が病に侵されないのは、その生命力が他の生物とは比較にならないほど大きいからです」

 私が病に侵されない事は、今重要でない問題だ。

 私がそうなるわけでもないのに、人間のためにその癒し方を学ぶ必要は無い。ウルはそう言いたいのだろう。

 彼の言い分は分かる。

 人間を救う事は、私の成長とは無関係だ。むしろその事に費やされる力は浪費である。

 ウルが協力的でないのは仕方が無い。

 だが、なぜかは分からないが、私はどうしても人間と関わり合いたいのである。

 一方で人を殺めなければ生きられない生物だというのに。

 これは、私にこの身体をくれた人間の心が、まだ微かに残っていて、仲間の群れの中へ帰りたがっているのか。

「それで、人の病を癒す事は出来るの?」

「結論から言えば、他者に奪われて引き起こされる病ならば、癒せます。奪われたものは取り戻す事が出来るからです。しかし、衰え、失ったものはもはや戻りません。それらは既にこの世に存在しないのですから」

 私の求めにウルは渋々という様子だが応じた。それは彼の職務が私に知識を授ける事だからだ。

 私がそれを求める動機がどれほどウルにとって不純であろうとも、彼はそれを拒めず、拒まないのである。

「お嬢様が血を吸い、その生命力を己のものとするように、病を引き起こす事で生命力を奪う者もおります。人間は特にそれを病魔と呼びますが、実際は私達と同じ夜魔です」

「もしも病の原因がその夜魔ならば、その者に命じれば良いのね。奪ったものを返却し、病が人の身体から抜け出ていくように」

 ウルは頷いた。

 私は窓を開け放ち、身を乗り出す。

「さぁ、行くわよ。ランスの伴侶、アンナの病を癒しに。私は、ランスの喜ぶ顔が見たいの」

 結局こうなる事がウルには分かっていただろう。私の人間への執心振りは今に始まった事ではない。

 彼はもはや止めることもせず、私が踏み誤らないように監視するため、私に追従する。


 暗闇に染まる家々の屋根を走るように渡っていたが、私はふと立ち止まる。

 勢い込んで飛び出したのは良いが、私は間違ったのではないだろうか。

 間違えば必ずウルが止めると信じていたから、その判断を自身で行う事を疎かにしていた。

 しかし彼が止めてくれるのは、私が夜魔としての格を傷付けそうな時だけで、信じる私の理念が傷付くだけの時、彼は止めない。

 もしもアンナの病が病魔によるものでなかったならば、それは私に手の施しようも無く、ただ悲しいだけだが、それならば良い。

 しかしもしも夜魔の関わる病であったならば、私に彼女を癒す事は出来るかもしれないが、果たして私はそうすべきなのだろうか。

 ウルの教え通りに、夜魔として人間に手を差し伸べる事が躊躇うべきかと考えているわけではない。

 その病魔も己が生きるために人に牙をかけているのだ。

 それを私の自分勝手な理屈で止めさせて良いのだろうか。

 私はランスと親しくしたいし、その伴侶に苦痛を与える者に私は嫌悪を覚える。

 しかしその嫌悪は私憤で、ランスとアンナがどれほど善良だからといっても、その夜魔が悪なのではない。

 私はたった今まで、自分の周りに並べたものだけが善のつもりでいた。

 その並べたものの外側は、必ずしも全て悪なのではない。

 それぞれの必死な様に善悪は無いのではないだろうか。

 いや、むしろアンナの生命を私の手でどうにでもしてやろうと、容易い気持ちで動いた私こそ悪なのではないだろうか。

 無論それはウルが止めない以上、私の格を貶める様な事柄ではない。

 しかし私の心には、悪として映るのである。

「今頃になって迷い始めたのですか?」

 ウルがそっと背後から私に呼びかける。

 その声の静けさは心に優しい。

「私はなんて我が儘な存在なのだろうと思って。ウル、私はどうすべきなの?」

「私はお嬢様の教育者であり、その生き様を決める権限はありません。どうすべきかはお嬢様がお決めになることです」

 ウルは私に道を示すだけだ。

 そこを私が歩いていさえすれば、どんな歩き方だろうとウルは構わない。

 だからウルは多くを言葉にせず、職務に忠実であり、私見を述べる事は無かった。

 しかし今に限ってウルは唐突に己の思いを言葉にし始めたのである。

「ただ、差し出がましい事を述べさせてもらえば、迷うのは途中よりも最後の方が良い。途中でどれほど悩んでも、結局結末は抗しがたい勢いに呑まれる場合もあります。熟慮し、事前に対策を十分練る事は良いですが、まるで怯えるように迷い悩む事は状況に何の影響も与えず、敢えて言えば無意味な事です。今のお嬢様のように」

「私は怯えてなど」

「私にはそのように見えます。さぁ、一度は決めたのでしょう? 人間を救いたいのなら救いに行けば良い。その瞬間に立ち会って、違うと感じたのなら止めれば良いのです。今悩むよりは、事が済んで後悔する方が良い。私はそう思います。お嬢様はご自分の立場を、存在を、自身に対してもっと明確に示すべきです」

 それは私が道を踏み外す前の予防線なのか。

 しかしそれにしては語り過ぎているようにも思えた。

 その私を責める様な、しかし半面で諭す様な口調も、私は始めて耳にするものだった。

 それが私を強制的に停止させる直前の警告でないとは言い切れないが、私にはそれが私にそうあって欲しいというウルの願いのように聞こえた。

 あるいはただの気紛れなのだろうが、ウルが父の命令を超えて私に何かをしてくれた事が、私はとても嬉しかった。

 私の階級が上がった事で、父の命に完全に縛られていたウルの要素が僅かに私の方へ傾いたのかもしれない。

 私は仮定に仮定を重ねて一人楽しんだ。

 もしかするとウルは、私がランスにそうであるように、私の悩み惑う姿を見たくないのか。

 それは私の妄想でしかないだろう。

 口に出せば容易く否定される事が予想出来て、それは私の頭の中だけでの興奮だった。

「行きましょう。ウルの言う通りだわ。まだ救えるかどうかも分からない時に悩むのは、無駄な事ね」

 私が射抜くように前方を見ると、ウルは仄かに微笑んだ。

 私は一層速く高く駆け、街を渡った。

 そして教会の前に降り立つ。

「なぜここに? ランスという者の屋敷へ向かうのではなかったのですか?」

 ウルの問いは当然のものだ。

 心を決めたのだから寄り道などせずに真っ直ぐ向かえば良い。

「でも、アンナの様子を知っておかないと。近付く事だけで苦痛に騒ぎ立てるような症状なら、迂闊に屋敷へは入れないわ。ランスやアンナ、そしてその病魔に警戒されては癒せるものも癒せなくなる」

 私は扉を押した。

 やや堅い手ごたえがあり、すぐには開かず、しかしそのまま触れていると扉の向こう側で閂が重く床に落ちる音がした。

 もう一度押してみると、今度は容易く開く。

 私は中へ足を踏み入れるが、なぜかウルは入ってこなかった。

 この中に危険は無いと確信しているのだろうか。

 教会の堂の中は既に灯りを落とされて暗く、微かな星明りが窓から差し込んで剣に繋がれた男を照らしている。

 そこには私以外に誰もいなかったが、閂の外れる大きな音に気付いたのか、奥の入り口から入ってくる何者かの影が見えた。

「ラテ?」

 私が呼びかけると人影は立ち止まり、その手に持った灯りを私の方に向ける。

 しかしそこから私までは相当な距離があり、蝋燭一本の火では私を照らせない。

 だがその火に照らされた相手の顔はラトリーヌではなかった。

「こ、こんな夜更けに、何か、御用でしょうか?」

 その声は怯えているように聞こえた。

 人間は闇に怯え、そして夜魔はその闇を濃くする。夜更けに私を見た人間が皆怯えるのは仕方の無い事だ。

「ラトリーヌに会いに来たの。彼女はここに居るんでしょう?」

「少し、待っていて下さい」

 その人影はそれ以上私に近付こうとはせず、すぐさま取って返して奥へと消える。

 言われた通りに私が待っていれば、すぐにラトリーヌが手に灯りを持って現れた。

 彼女もまた恐る恐るその光で堂の中を照らしながら進んでくる。

 次の一歩が奈落の淵に踏み込むかもしれないとでも思っているような足取りだ。

 彼女の調子に合わせていてはその灯りが私を照らすよりも早く、窓から朝日が注がれるだろう。

 私は自ら歩み、その光の中へ出た。

 炎が私の存在に気付いて微かに揺らめく。

「ラテ、会いに来たわ」

「こんな遅くにどうしたんですか? それにどうやってここへ入ったんです? 扉は閉めたと思ったのに」

「押したら開いたわ。それよりもアンナの病について知りたいの。彼女がどんな苦しみに襲われているのか。」

 ラトリーヌは少し眉を顰めて、表情に陰を作った。

「それは、やはり私にはお話し出来ません。ランス様やアンナ様の個人的な事柄になりますから、私がそれをお話しする事は失礼な事だと思うのです」

 大切に思うからこそ、話せないのだろう。

 それも理解できる。

 だが、私は彼女を癒せるかもしれないのだ。

 今その小さな礼儀に構って、大きな幸福を逃す事は最善ではない。

「彼女の病を治せるかもしれないのよ? 今ラテが礼をかなぐり捨ててくれれば、私はアンナを癒してあげられる」

「でも、それは、」

「私にそれを教える事は、それは確かに裏切りかもしれない。でも、もし私に彼女を癒す事が出来るとして、貴方が口を閉ざしている事はもっと大きな裏切りになるわ」

「それはそうですが。本当にアンナ様を元気に出来るのですか?」

「分からないわ。でも、可能性はある」

「分からないって、それなら、治せないかもしれない、という事でもあるのですよね?」

 彼女は目を伏せ、私達の足元に広がる暗闇を見つめた。

「賭けに迷っているのね?」

 彼女は静かに頷く。

 もしもアンナを癒す事が誰にも出来ない事だったなら、彼女は無意味に裏切ってしまう事になる。

 それが恐ろしいのだ。

「今悩むよりは、事が済んで後悔する方が良い。今貴方が悩む事は何かを生むの? 後で後悔しようと決める事は、何かを生む可能性があるのよ」

「私一人が罰を受ければ、アンナ様を救えるかもしれない」

 彼女は自らを諭すように呟く。

「大丈夫。もしも駄目だった時は、私も一緒に後悔してあげる」

 ラトリーヌは彼女の神に向かって祈った。

 どんな言葉で何を祈っているのか、私には分からなかったが、深く落ち着いた表情に心を決めたのだという事は分かった。

 祈りを終え、目蓋を上げたラトリーヌは少しずつ、だが彼女が知る限りの事を語ってくれた。

 その情報は、決して多くない。

 だが、アンナを救いたいという気持ちの伝わりは、少なくなかった。

 私はそれに強く背中を押されるように奮い立ち、教会を出た。

「知りたい事は聞けましたか?」

 外ではウルが待っていて、彼の言葉に私は頷く。

 私達はまた街の中を走った。

「ウル、どうして貴方はいつも教会には入らないの? 昼間も傍には居なかったでしょう?」

 私はランスの屋敷へ着くまでの退屈凌ぎに少し問う。

「あの場所は、良くも悪くも人間の思念が強く染み付いておりますので。たとえ人間の思念と言えど、やはり折り重なり大きなうねりとなれば、その場の要素に影響を与えます。お嬢様のように高位であれば気にもならないでしょうが、格の低い夜魔にとっては己の要素を侵されかねないのです。幸い私はそれほど低俗な夜魔ではないので、入ろうと思えばそれも可能ですが、やはり居心地の良い場所では……」

 確かに、あの場所の静けさは、むしろ耳を痛めるほどうるさくもある。

 ウルにとってはその雑音が耐え難いのだろう。

 私は既に彼を超えているのだという事を改めて認識した。

 生まれて初めて見た夜魔は彼であり、どれほど美しい存在かと驚き、憧れ、彼のようになりたくて一心にその後を追った。

 だが私が彼よりも高位になった今、憧れは薄れ、むしろ以前にあったそれは虚しさにさえ変わりかけている。

 私はこの思慕だけは手放したくないと、願うのである。

 だから私は、ランスの屋敷の向かいに着いたとき、勢い余った風を装ってその屋根から足を踏み外してみた。

 ウルがすぐさま手を伸ばし、私の手を掴む。

 その力強さを刻み込むように何度も確認しながら、私はゆっくりと体勢を整えた。

「お気を付けを」

「えぇ。でも貴方が助けてくれると知っていたから怖くは無かったわ」

 そう言って前方の屋敷を見ると、幾つかの窓があり、その一つに確かに私の見知らぬ女性の眠る姿があった。恐らくそれがアンナである。

 私は一足にその窓まで跳び、微かにノックすれば窓は自ら開く。

 一人の女性がベッドに横たわり、そしてそのすぐ横にはランスが椅子に腰掛けたまま眠っていた。

「闇よ、ランスを夢から覚まさないで」

 私は今街中に満ちた闇の一部を借りて、ランスの視界を包むように命じる。これでたとえ目覚めたとしても、彼には何も見えないはずだ。

 窓からウルが入り、続いて夜風も吹き込んだ。

 その冷たさに気付いたのか、女性はその姿勢のまま、ただ瞳だけをかっと見開いた。

 だが彼女は痩せ細っており、首を上げる力も無いようだった。

 だから必死にその瞳だけを動かし、部屋の異常を察知しようと懸命に努めている。

 私は身体を包む闇を払い、彼女の前に姿を現した。

 私が闇から現れると、大抵の人間は怯えた。

 だが不思議と彼女は怖がらなかった。

 私を貫くように見つめ、そこに強い警戒心はあるが、恐怖は無い。

 病に蝕まれ続けた事で、むしろ心の強さを養われたのか、その瞳には達観したような色さえ映る。

「誰?」

 彼女はしわがれたか細い声を必死に捻り出す。それは声と言うよりも、むしろ木の枝が擦れ合うような音だった。

「私は、ランスを哀しませたくない者よ。貴方がアンナね?」

 彼女はしばらく何も答えなかったが、やがて肯定した。

 更に何かを言いたそうに口を開けるが、今度は軋む様な声さえ出なかった。

 彼女がどんな苦痛を感じ、どれほど削り取られているのかが、夜魔である私には漠然とではあるが感じ取る事が出来た。

「ウル、彼女の病は奪い取られたためのもの?」

 私はそっと問う。

「極僅かではありますが、この部屋の闇は濃くなっております。それが病魔かは分かりませんが、その娘に関わる者が居る事は確かでしょう」

 夜魔が居ついた場所は闇が濃くなる。

 至高の人とまで呼ばれる父の城などは常に夜が訪れ続けているほどだ。

「まずはその者を見つけないと、彼女の病を癒せるかどうかも分からないわね」

「病魔は多くの場合、それほど格の高い者はおりません。格が低いから、病を用いて、しかも徐々にしか生命を奪えないのです。そのため彼らに従う要素も少なく、闇で身を隠す事さえ儘ならず、しかし時間をかけて命を吸わねばならないため、人間の目に触れても怪しくない姿をしております。たとえば、鼠や蜘蛛のような、ありふれた小さな生き物に」

 ウルが話している内に、アンナが動いた。

 窓の外を見やり、渾身の力を込めてそちらへ手を伸ばす。

「猫……。猫を。」

 彼女の視線に釣られて私もそちらを見る。

 彼女の言葉通り、そこには確かに黒い猫が真っ青な瞳でこちらを見ていた。

 だが私にはそれが瞳には猫のように映っているだけで、その内実はもっと別の存在である事が感じ取れた。

 その黒猫こそ、探している夜魔なのである。

 もしもそれが病魔ならば、己が病を蒔いた女性に対して私達が何をしているのだろうと様子を伺っているのだろうか。向かいの屋根からじっとこちらを見ていた。

 私は床を蹴り、そのまま風の力を借りてその屋根まで瞬時に移る。

 猫の姿を借りなければ人の前に出られもしない夜魔に、私の速さから逃れる術は無い。

 私の接近に気付いて逃げようと身を捻ったそこに、既に私が居るのであるから。

 私はその猫に向けて手を差し向け、瞳で圧しその自由を奪った。

「尊貴な方、どうぞ命だけはお助け下さい」

 猫の姿のまま人の言葉を発し、不屈の夜魔でありながら容易く平伏した。それほど私とその猫の間には格差があるのである。

「無闇に貴方を害する気は無いわ。彼女の事について教えて欲しいの。でも、その前に、いつまでその姿で居るつもり? 偽りの姿で私を欺き通せるとでも思っているの?」

 猫としての存在は希薄になり、霧散した後にまたその粒が集まり始め、再び形作るそれは人の姿をしていた。

「姿を現す機を与えて頂き、有難く存じます」

 欺こうとしたのではなく、まるでその機会を逃しただけだと言うように開き直って跪いた。

 白く丈の長い衣服を纏い、絹糸のような白銀の髪が肩まで伸びた夜魔だった。

「名前は?」

「ブルィヤールと申します。」

「貴方が彼女に病を埋め込んだの?」

「はい。それが私の生きる術なれば」

 私はそれを危惧していた。

 興味だけで人間を病に落とす夜魔などそう容易く居ないだろう。

 生きるために人を牙にかける事は、彼にしてみれば当然の事なのである。

 それを止めろと言われる事は彼にとって非常に理解と納得に苦しむ問題だ。

「もしも出来る事なら彼女の病を払って。貴方が生きるためだと言うのなら、他の人間をまた病に侵す事を私には止めようも無いし、止める気も無い。でも彼女だけは駄目よ。私の我が儘を聞いてもらえないかしら?」

 ブルィヤールは驚いていた。

 彼には私がよほど高貴な夜魔として映っているのである。

 その私の口から微小な存在である人間を庇護するような言葉が出たので、事態の異常さに混乱しているのだ。

 彼が言葉を失って呆気に取られている間に、屋敷の方からウルが私を呼ぶ。

「お嬢様、娘が猫を連れて来て欲しいと言っているようですが。」

「さぁ、聞いたでしょう? 貴方がどう決めるにしても、まずは彼女のところに行きましょう?」

 私が跳び立つのにブルィヤールも続いた。

 部屋に入るとアンナは彼を手招くように必死で手を振り回す。その細い腕が今にも折れてしまいそうなほどだ。

 だが不思議な事に、ブルィヤールが彼女の傍に立つと、今まで苦しみに荒く乱れていた彼女の呼吸が、雪が解けるように静まった。

「慈愛の御方、私は格の低い者です。本来なら、森の奥で獣達を相手に時折咳きの一つでもさせていれば生きていられる程度の者です。貴方様がそうお望みならば、人間を相手にする事は、今後一切止めても構いません」

 ブルィヤールは静かに話した。

 アンナは私達の会話など聞く気も無いように、ただその苦痛が和らいだ事を喜んで安堵の表情を浮かべている。

「ですが、今私がかけている病を解いたとしたら、この人間は恐らく、狂を発して命を落としてしまう。貴方様はそれを望んでいるのですか?」

「なぜ? 貴方が病を解いて、奪った生命力を返せば彼女は癒されるのではないの?」

 ブルィヤールは私の方へ向き直り、強い視線を投げかける。

 そこに威圧は全く感じないが、彼の訴えたいものがそこにある事を感じる。

「この人間が侵されている病は、私のものだけではないのです。貴方様の仰るように、私の病は私がそうする事で癒す事が出来ますし、そうせよと申されるならやりましょう。ですが、この者を本当に苦しめているものは、私の病ではないのです」

 今度は私が呆気に取られる。

 病を払われては困るので言い逃れをしているのかとも思ったが、その瞳は真実を語る潔さに満ちている。

 では、私にどうせよと言うのか。

 もう一つの病を発した病魔をまた探して来いと言っているのか。

「その病は、誰の仕業なの? 一先ず、貴方だけでも良いわ。彼女を癒して」

「申し上げました通り、私が病を払えばこの者は命を落とします。貴方様はこの人間を殺したいのですか?」

「え? そ、それは、駄目よ。私は彼女を殺したくて言ってるんじゃないの。彼女に元気になって欲しいのよ」

 私は状況の理解に苦しみ、多少の困惑を覚えていた。

「誰の仕業かとも聞かれましたが、私のものではない病が、果たして誰かの手によるものなのかも分かりません。自然と発した病か、あるいは病魔か、どちらの可能性も。ただ分かる事は、私がこの人間を見つけた時には既に命の危うい状況であったという事です」

「どういう事? もしかしてブルィヤールは、彼女の命を引き止めているとでも言うつもり?」

「引き止めている、と言うよりは、歩みを遅らせている、と申し上げた方が正確でしょう」

 あまりにも予想外の答えに私はますます戸惑った。

 まさか私以外の夜魔が人間の命を救っていると言い始めたのである。

 夜魔の口から漏れるはずも無い言葉に私は違和感を覚える。

 そうか。ウルが私の発言を聞いた時の困惑はこれなのだ。

「私がこの人間に与えた病は、ただ身体の感覚を鈍くするだけのもので、手足の自由を多少奪いますが、同時に痛みも曖昧になります。もはやこの人間が感じている苦痛は、そのままでは身体よりも先に心を破壊しかねないほど大きいのです」

 ラトリーヌから聞いた話でも確かに、身体は動かず苦痛が常に襲い、記憶と心を次々と蝕まれていく、という事だった。

 ブルィヤールは彼女の生命力を僅かに奪う事と引き換えにして、彼女に延命措置を行っているとも言える。

「なぜ、人間のためにそこまでするの?」

 まるでウルが私に対して用いるような言葉を私が使った。

「この人間が、私に向かって手を伸ばしたからです」

「手を、伸ばしたから?」

「……はい」

 彼は病によって他の生物を害さなければ生きてはいけない。

 だがそれは飽くまで生きるためで、憎くて害を放つわけではない。

 何も私達夜魔と人間は敵対しているわけではないのだから。

 請うように差し伸べた手がブルィヤールの心に触れたのである。

「私に、彼女を癒してあげる事は出来ない」

「お嬢様、」

 私は絶望の淵に立ち、ウルの呼びかけも聞こえなかった。

 私は何のためにここまでしたのだろう。

 ウルの言う抗し難い勢いとはこれの事なのか。

「私は、やはりもう、良くはならないのですね?」

 静まり返る部屋の中に掠れる声が聞こえた。

 アンナが私達の方を見ながら、その乾いた小さな唇を懸命に動かして、微笑もうとしている。

「私はアンナを病から救いたかったけれど、どうやらほんの僅かさえも今の状況を良くしてあげられない。もしも私達の会話が貴方を期待させてしまったのだとしたら、申し訳ない事をしたわ」

「良いのです。猫の妖精さんが来てくれるこの夜の夢の中でだけは、痛みが和らいで、私は私でいられる。これがあれば、それ以上は望みません。ただ、」

「ただ?」

「ただ、彼の苦しそうな顔を見るのが辛い。いつ目を覚ましても、そこに居てくれる彼の」

 アンナは瞳を動かして、傍で眠るランスを見た。

「彼は、私の病によって、私が苦しむ以上に苦しんでいるように見えます。私ならば、夜はこうして夢を見ることも出来、昼も激しい痛みはあるけれど耐えればまた夜が来て彼の顔を安らかな気持ちで見る事が出来ます。本当に、休む間もなく耐え難い苦痛に襲われているのは、私よりも、彼の方なのではないかと、思うのです」

「あぁ、貴方は優しいのね……」

 私は思わず彼女の手を握った。

 その気丈さに心打たれたのである。恐らくはブルィヤールもその心の気高さに突き動かされたのではないだろうか。

 だがその指は細く脆く、少しでも力を込めれば砂のように砕けてしまうような気がした。

「彼に、もう泣かないでと、言ってあげたい。彼は、いつも笑ってくれるけれど、私には泣いているように、見えるの」

 私はブルィヤールを見た。

 彼女が昼間に痛みを覚えるのは、ブルィヤールが夜にしか訪れないからだ。彼との距離が近いほど、痛みは抑えられるのだろう。

「無理です。私のように身分の低い者は、昼の明るさに圧されて、力を操る事など出来ません。闇の傍以外に居場所は無いのです」

 高貴な夜魔の傍には闇が立ち込めるが、それは夜魔が闇の要素と馴染み易い性質を持っているからなのだろう。

 ウルが教会の内部を不快に感じるように、闇の薄い場所も格の非常に低い夜魔にとっては居辛い場所ということか。

「それなら、私が一塊の闇を半日だけ、貴方に貸し与えるわ。彼女が伝えたい事を伝え終わるまで、傍に居て痛みを和らげてあげて」

 私は片手でその場にあった闇を猫一匹隠すに十分なほど掴み取ると、それに微かな言霊を通してブルィヤールに渡した。

「慈愛の姫君様の望みのままに。」

 ブルィヤールは恭しく膝を突き、私からその闇を受け取った。

 私はアンナの方へ向き直り、彼女に言った。

「さぁ、これで貴方は明日の朝、ランスに伝えたい事を話す事が出来るわ。でも一つ約束して。今貴方の目の前で起きている全ての出来事は、貴方が見ている夢で、この世の出来事ではないわ。それを無闇と他言する事は、貴方にとって災難になる。」

 彼女が私達を夢の中の住人だと言ったから、私は彼女の前でも容易く闇を操って見せたが、本来それは好ましい行為ではなかった。

 人間に力を見せ過ぎる事は、不要な恐怖と警戒の心を起こさせてしまうからだ。

「分かった。とても嬉しいわ、心優しい妖精さん達。でも、私は彼に何を伝えれば良いのでしょう?」

「泣かないで、と伝えたいのでしょう?」

「伝えたい。でも、どんな言葉を使えば? どんな顔をすれば良いの?」

 アンナは私達が作り出した不幸の中の幸福に躊躇していた。

 なぜそれに手を伸ばす事を怖がるのか、私には不思議で仕方が無い。

「貴方がランスの伴侶として、病に侵される前の、明るさに満ちた言葉と顔を使えば良いじゃない?」

 ふとアンナの顔に陰が落ちる。

 彼女はほとんど身体を動かせないのだから、その陰は彼女が顔を俯けたせいではなく、その心情からくるもののためだ。

「出来れば私も、彼が愛してくれたその顔と言葉を、また彼に向けてあげたい。でも私は、そんなものも全て忘れてしまったのです。彼との思い出も、何もかもを病に奪われて、もう彼の妻だった私はどこにも居ないのです。頭の中はもう虫に食い荒らされた葉のように穴だらけで」

 握った彼女の手が震えている。

 その細やかな振動のために、彼女の指が先から少しずつ削れ落ちてはしまわないかと不安になった。

「猫の妖精さんが来てくれて、そこで私は我に返って、まず思ったのは、なぜ私はこのベッドに寝ているのだろうという事でした。そしてランス様が懸命に私の看病をしてくれて。それから私が最初に彼にかけた言葉は、とても許されるようなものではないのに、彼は笑ったのです。その罪深い私の言葉で、これ以上何を言えば?」

「何と言ったの?」

「どうして私にこんなに良くしてくれるのですか、と」

 少し強く手が握られた。感情の昂ぶりが、腕の筋肉を痙攣させているのだろう。

「私は、彼と誓いを結んだ事も忘れてしまっていたのです。愛された事も、愛した事も、全て、全て。」

 彼女の瞳から一筋、流れるものがあった。

 精気の大半を失った彼女の身体に溢れ出して良いものなど無いはずなのに、それでも希薄な一滴にも満たない程度の水が押し出された。

 彼女はその水で、己の罪を洗い流したいのだろうか。

「彼の妻だった女性は、もう死んだのです。今の私は、その女性のものだった愛情を奪い取って生きる、ただの盗人なのです。いつその強盗の罪に裁かれるのかと怯え、彼に触れられる事も出来ない私に、彼の妻でもない私に許されるどんな言葉があるの?」

「もしも貴方が盗人として生きる事に怯えるのなら、私がその生を終わらせても良いわ。一瞬は激しい痛みに襲われるだろうけど、すぐに平穏が訪れるはず。でも安易に決断しないで。本当の貴方は、何を望んでいるのか、良く考えて」

「本当の、私?」

「以前の貴方が死んだと言うのなら、今の貴方はまた生まれたのよ。彼の優しさから逃げるのか、戸惑いながらも怯えながらも彼のために耐えるのか。それを、今の貴方が選ぶのよ。以前の貴方が選べなくなったその答えを、今の貴方が」

「私は、私は、」

 彼女の声が震える。病に渇いた喉が痛むのか。

 涙を流したために数少なくなった水分を集めるように、彼女は一度口を閉じ、しばらく待った。

「私は、生きても良いですか?」

 私は頷いた。

 ウルが良く思わないだろうから言葉にはしないが、私もそうして欲しいと望んでいた。

「彼の傍に居たいです。今の私がもう一度生まれたのだと言うのなら、私はまたもう一度、彼に恋をしました。そんなものでも、盗んだものの返済に充てられるのなら、私は彼をもっと愛したい。」

「大丈夫よ。今の貴方にも言葉はある。その言葉で伝えれば、きっと大丈夫」

 アンナはまた涙した。

 彼女の乾いた皮膚が突然の降雨を吸い込み、明るさを増した。

 彼女がその引き攣る唇で一心に微笑もうとするので、私はその笑みが完成されるのを待たずに微笑み返した。

 それを見てアンナはそれ以上微笑む努力はせず、話し過ぎて疲れたのか、再び眉を顰め、強く目を閉じると、痛みを噛み殺すように歯を噛み締めた。

 私は立ち上がり、ブルィヤールに後事を託すと、ウルを伴って彼女の部屋を出た。

 月明かりも無い屋根の上に立つと、奇妙な疲労と脱力を覚えた。

「慈愛の姫君様、」

 ブルィヤールが見送るようにそこにいて、跪きながら話した。

「残念ながら、私も病魔であれば、形こそ救うようであれども、その実は私もあの人間から生命を奪う事しか出来ません。痛みに狂を発す事は防げますが、身体が死へと赴くのを止める術は、私にはありません」

「その日はいつ来るの? 明日の朝、彼女がランスと幾つか言葉を交わすくらいは、あるのでしょう?」

「早ければ半月、遅くとも一月だと思われます」

「そう。今晩中にもと言うのでなければ構わないわ。その時が来たら、私にも報せてもらえる?」

「御心のままに」

 ブルィヤールは部屋の中に戻っていった。一歩遠ざかればその分彼女の痛みが増す。

 私は、どうしようもない疲労感に天を仰いだ。

「お嬢様、どうぞ涙だけは、堪えて下さい」

 ウルは良く私の心の動きを見抜く。

 だが気付き過ぎるというのも問題だと、この時ばかりは思った。

「違うのよ。哀しいんじゃないの。自分の無力さに憤っているだけなのよ。ランスと同じように。哀しいんじゃないから、涙は流さない」

 私は自分の顔をウルに見せた。彼を安心させるためだ。

 そして私は微笑む。

 けれど私は表情を作る事に失敗していたのか、ウルは微笑み返してくれなかった。

「アンナの言う、愛という概念が私には無いけれど、誰かのために生きたいと思う事が、それなのかしら?」

「私も夜魔ですので、その概念は理解出来ません。しかしその名の下に死を選ぶ人間も居ます。曖昧で、しかし複雑な思いなのでしょう」

「でもそれから、あれほどの苦痛に耐える強さが生まれるのなら、私はほんの少し人間を、羨ましいと思うの。私にもそれほどの強さがあれば、もしかすると彼女を癒せたかもしれない。あるいは人と夜魔の狭間で漂わず、もっと速く鋭く、ウルや父の望む夜魔になれるのかもしれない。」

「夜魔として生まれた事を、後悔しておいでですか?」

「いいえ。父がそう望んだから、私は生まれてきた。それを憎んだりはしない。ただ、自分の不甲斐無さが、どうしようもないほどに、……疎ましい」

 私は周囲の闇を急速に集め、頭からすっぽりと全身を覆った。

 ウルの瞳でも見通せないほどに闇を暗く濃くして、膝の力が抜けるように座り込むと、私はしばらくの間ずっと、頬を流れる雫を誰にも見られないように拭っていた。


次話更新8/24(金)予定



作者ツイッター https://twitter.com/yuki_anno

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