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ヤミヨヒメ  作者: 二束
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ヤミヨヒメ  -スナガクル-

 ある時、ふとウルが言い出した。

「お嬢様、あちら側にも屋敷を持たれてはいかがでしょう?」

 その時私はキリカを相手にダンスという作法の練習をしていたところであったので、ウルの唐突な提案を理解出来ないでいた。

 このダンスというもの、人間の考え出したものらしいが、父はたいそう気に入っているというので私も覚えておくべきだとロザリアが言う。

 しかしこれが容易そうに見えて、なかなかに難しい。

「なぜ? 屋敷ならもうここがあるじゃない?」

「このところお嬢様は、人間達と懇意になさる事をお望みの様子。ならばいっそ、あちらに居を構え、思うままにしていただくのはどうかと」

 確かに私はランスの家を訪れて以来、機会があれば街へ出て彼を探していた。

 彼とする会話は必ずしも生産的ではない場合もあったが、ただ間違いなく私には楽しめるものだった。

 もちろん彼だけでなく、彼の家族と過ごす時間も穏やかだった。

 特に彼の父は厳しいが優しく、私はその姿にまだ見ぬ父を重ねたくなるのである。

「嬉しいわ、ウル。でもどうして急にそんな事を許す気になったの? 以前はあんなに嫌がっていたのに」

「今でも同じ気持ちです。しかしまた嘘を吐かれても困りますし、何より人間を糧とするお嬢様が人間と親しくする事がどれほど困難か、むしろこの方が早く気付いていただけると思いました」

 今でさえその困難さは若干気付き始めている。

 ハナに牙をかければどれほどの美味かと、ふと狂気を覚える瞬間がある。

 だがそれを踏み止まるのは、彼女との会話を失う事を嫌うからだ。

 生産性のない無駄な喜びと、最重要視すべき生命の獲得を、私は天秤にかけ、軽い方を選び取っている。

 それがどれほど矛盾したものかは誰の目にも明らかで、ただ私が目を向けていないだけだ。

 ウルはそれを見ずにはいられない状況の真っ只中に私を放り込もうというのである。

 徐々に開く傷口に気付かないでいるよりは、直ちに深く鋭い傷を開いてやろうと。

「意地悪なことを言うのね」

 顔色一つ変えずにそれを言ってのけるウルに僅かに寒さを覚える。

 だがそれもウルが私を思っての事だ。責める気はまるで起きない。むしろ嬉しくさえあった。

「いかがです?」

「良いわ。屋敷を作りましょう」

 私がウルの思惑にはまらないでいれば、その提案は私に利点が多い。

「それで、どうすれば良いの?そういう事に長けた人間を連れてくる? それとも言霊で出来る事かしら?」

「言霊で建てられれば、早く良い物が出来ましょう。詳しくは研練の妃様にお尋ねになると宜しいでしょう。何と言っても、ご主人様のあの館を建てられたのは研練の妃様で御座いますから」

 私はその城を見上げる。

 そうか。これはロザリアの作り上げたものだったか。

 私はそれを父の建てたものだと思っていたが、実際は彼女が父を守るために建てた砦だったのである。

 私は彼女の元へ赴き、その詳細を問うた。

「あれは一本の薔薇の木よ。風雨を凌ぐ館となれ、と言うだけ」

「じゃあ、まず薔薇の木を探さないといけないわね」

「いいえ、その必要は無いわ。何を用いてそれを作るかは、よほど無茶なものでもない限り何でも構わないわ。私が薔薇を選んだのは、私自身も薔薇だからよ。系を同じくする者に命じるのは、容易い上に強力なの。憶えておきなさい」

「そうすると、私の場合は――」

 私は僅かに想像してみて、すぐにやめた。

 私の本質と同じものを用いて建てた館など、気味の良いものではない。

「何でも好きなものを使いなさい。その場にある石でも十分役目を果たすわ」

「分かったわ。ロザリア、ありがとう」

 私はウルを伴って屋敷を飛び出した。

 人の街へ出た時はまだ幾分明るく、日暮れまでまだ数時間はあった。

 私はそれらしい場所を見つけ、闇で周囲を囲むと、早速作業を始める。

 そこには土や石に限らず、草木も十分にあり、屋敷造りの材料は豊富と言えた。

 私はどのような館にするか念入りに想像し、それが固まると大地に向けて両手を差し下ろす。

「私の名をもって命ず。砂岩よ、草木よ、互いに紡ぎ合い、私を守る砦となれ」

 たちまちにして地面が揺らぎ、まるで隠されていた太古の都市を掘り起こすように、私の城が生え伸びてくる。

 そして私はその様を恍惚として見守り、大地の揺れが収まっても尚しばらくそれが終わった事に気付かなかった。

 だが終わってみてようやく気付いた。

 それは遥かに小さいのである。

 父の城など遠く及ばず、その隣に並ぶあちらの私の館でさえ、目の前の屋敷の数倍はある。

「あちらの私の屋敷を建てたのは誰? あれもロザリア?」

 私はウルに問う。

「あれはご主人様の建てられたものです。お嬢様がご自分で城を建てられるようになるまでの仮住まいとしては十分であろうと」

 私が全身全霊を以って作った屋敷は、父が私を作る片手間で建てたものよりも小さい。

 私は密かに落胆した。己の階級の低さが視覚として如実に表されたからである。

「初めてにしては上出来ね。悪くないわ」

 だがいつの間にか現れたロザリアはそう言う。

「造りも良いわね。足繁く人間の屋敷へ通うだけの事はあるわ。これなら、こちらの世界でも違和感が無い」

 ロザリアはそれをゆっくりと一周する。

 私は既にやや疲れて彼女が戻るのを待たずに座り込んだ。

「壁の色が一様でないわね。それから、柱は少し丸みを帯びた方が美しいわ。あの辺りにはレリーフが欲しいわね」

 ロザリアは次々と何かを指差していくが、本音を言えば私はくたびれ果てていて、それを目で追うのも面倒臭い。

「ロザリア、申し訳ないのだけれど、私は力を使い過ぎて、貴方の指摘を今すぐどうにか出来る余力が無いの。また後で聞く事にしては駄目?」

 彼女は微笑んだ。

「仕方が無いわ。建造物を作るのは、容易い事ではないから。残りの手直しは私がしてあげても良いわよ」

 私は一瞬耳を疑った。

 ロザリアが私のために自ら動くと言っているのである。

 どういう皮肉だろうと考えてみるが、どうにも皮肉とは思えない。

 私が場を繋ぐように微笑んでみると、彼女も微笑んだ。

 どうやら本気で言っているらしい。

「珍しいのね。本当に頼んじゃうわよ?」

「珍しいとは心外ね。まぁ、本当の事を言えば、私はこういう事が嫌いでないのよ。それに、あの城を作ったときの事を思い出して、今は少し気分が良いの」

 彼女は優哀の瞳で屋敷を見ていた。

 その様子を見て、私に断る理由も無い。

「お願いするわ。期待してるわよ」

 彼女が何事か呟いて壁に手を触れると、瞬時にそこから波が走り、壁は一様に真っ白となった。

 その手馴れた様子の彼女には見惚れそうにさえなる。

「あれは何? 失敗なら、取ってしまうわよ。」

 ロザリアは屋敷の上部に大きく張り出した屋根を指差して問う。

 だがそれこそ私の最も苦心した構造であった。

「駄目よ、駄目。取らないで。あれはラバンの居場所なの。彼は屋根の一番高いところが好きでしょう?だから彼が居易いように、広く平らにしたのよ」

 ロザリアはそれを聞いて一瞬理解出来ないような呆れた表情を見せ、次の瞬間には押し殺しきれなくなった笑いを漏らした。

「勘弁してくれ。何も高いところが好きなわけじゃない」

 風と共にラバンが現れ、すぐさま抗議を申し出た。

「でも、いつもあそこに居たじゃない?」

「お前の声が聞こえないように、上へ上へと逃れていただけだ」

「じゃあ、あの高さでは全く足りないわね。でも、今度からこちら側でのラバンの居場所はあそこよ。そのために作ったのだから、活用して」

 しかしラバンはどうしても嫌なようで、必死の抗議を続ける。

 それを見てロザリアが冗談混じりにラバンをからかう。

「良いじゃないの。貴方は護衛なのだから、出来るだけ近い方が良いわ。こちらにも居場所をもらえるなんて、幸福な事よ」

 彼は苛立ちを追い出そうとするかのように両手で激しく頭を掻き回す。

 しかしロザリアは人事と思って彼の様子を楽しんでいるが、私は当然彼女にも用意していた。

「もちろん、ロザリアの部屋もあるわよ。ラバンを羨む必要は無いわ」

 一変、彼女は表情を凍りつかせ、次第に緩んだかと思えば呆れたように肩を竦める。

「ウルの部屋もあるわ。キリカのも」

「私にまで。ありがとう御座います」

 ウルは微笑む。彼は素直だ。

「小さな家だから、誰の部屋もそう広いものではないけれど、でも居場所が無いなんて事にはさせないわ」

 私はもしかすると父に捨てられたのかもしれない。

 居場所が無いという不安は、良く分かる。

 だからその思いが、私にこの不恰好な屋敷を建てさせた。

「さぁ、お腹が空いたのでしょう? もう日も暮れるから行ってらっしゃい。その間に、私の部屋は取り払っておくから」

「そうだな。お前は先に行っていろ。俺はあれを斬り落としてからすぐに追いつく」

 彼女らが微笑むのを見て、私も笑みが零れる。

「それじゃあ、ロザリア、任せるわね。ウル、ラバン、行きましょう?」

 そう言って私達は今夜の糧を求めて街へ出た。

 満たされ、そして戻ってきた時、私の屋敷は十分に装飾され、闇の深い晩であったのに、それ自体が仄かに輝いているようにさえ映った。

 私はキリカを呼び、彼女に屋内の掃除を命じると、それが終わるまでずっと、屋敷を眺めていた。


 人間の世界へ屋敷を持って以来、私は尚一層ランス達との交流を持った。

 彼らに連れられて社交界へ赴く事もあり、また人間の遊戯も幾つか憶え、様々な人間達と出会った。

 多くの人間は私のフレスベルクという名に興味を覚えて近付く、決して悪い者達ではないが、心に清廉さの少ない者達であった。

 しかし、一部の者は十分見るに堪える心を持っていた。

 つまり、ランス達と親しくする事は、食事をするという事に限って言えば私に大きな恩恵を与えていた。

 だが一方でランスの妹、ハナの存在は私を強く惑わせた。

 私が今胸に抱いているこの屍が、ハナであったとしても何ら奇妙な事ではないのである。

 こちらに屋敷を作らせたウルの策略は見事であったと言わざるを得ないだろう。

 人間との親睦と、人間を摂食する私の性質と、これらは私の身体に共生しうる問題ではなかった。

 私がその屍を手渡せば、ラバンは瞬く間にそれを腹の中へ納めてしまう。

 残されるのは、僅かな血の跡と欠片のみ。

「どうした? 不満気だな? 身体の方は悪くない味だったが」

 ラバンが項垂れる私を覗き込む。

 私は自分の口元を拭い、指に付いた雫を舐め取った。

 味は良い。

 だが、気分が乗らない。

「ラバン、貴方はハナの事をどう見てる?」

「言っても良いのか?」

 私は恐る恐る頷いた。彼の答えが半ば分かっていたからである。

 いや、彼でなくとも、人を牙にかける夜魔ならば、その答えは皆同じだろう。

 私だけがそれに目を向けていないだけだ。

「なぜ、お前があの娘の血を吸わないのか不思議に思っている。どう見ているかと言われれば、」

「言われれば?」

「俺ならば、食うだろうな、と」

 そうだろう。

 私もなぜ自分が踏み止まっていられるのか不思議に思う事が多い。

 ウルを見るが彼は清んだ表情で私を見るばかりだ。

 だが彼は恐らく私のこの戸惑いに気付いている。気付いた上で、敢えて無言でいるのだ。

 私が惑うのを楽しんで見ているような、程度の低い感性を持っているわけではない。

 彼もまた耐えながら、私が気付くのを静かに待っているのだ。

 それが最も合理的で効果的な教育方法であると思っての事だ。

「ランス達がもしも、私が人の血を吸う夜魔だと知ったら、どうなるのかしら?」

 耐えかねてランスの目の前でハナに手をかけてしまったら。

 全く有り得ないわけでもない想像に悪寒が走る。

「恐怖に震えて、逃げ出すか、平伏するか、もしくは徒党を組んでお前を追うだろう。そういった例は以前からある。なに、心配するな。人間などどれほど集まっても俺が守ってやる。不本意だが」

「しかしお嬢様、悪戯に人間を刺激する事はおやめ下さい。互いの境界線を越えなければ、夜魔と人間は共存出来るものです」

 境界線を越えている事に早く気付けという事か。

 私は黙してその場を去った。

 確かに、今のままではいられない。


 翌日、ハナが私の屋敷を訪れた。

 ロザリアはどうしてもこちらの屋敷には居たくないようで、暗い世界の方に居る。

 ラバンも傍には居らず、キリカも今はあちらの屋敷の手入れに勤しんでいる。

 つまり、この屋敷には私とハナと、人間の前には滅多に姿を現さないウルだけだということだ。

 ハナは場所に構わず、私ととりとめも無い話をするのが気に入っているようで、私もそれが嫌いでなかった。

 彼女の柔肌は美しく、それに牙を立てればどれほどの快楽だろうかと想像する事はある。

 だが彼女と話している間だけは、なぜかその会話が想像に打ち勝つのである。

「しかしお姫様、叔父の家での花嫁修業というのも大変で御座いますよ。なまじ身内で御座いますから、遠慮も無くもう本当に厳しくて。そもそも結婚相手も見つからないうちから作法だなんだと、お父様はそういう事にうるさ過ぎますわ」

 大抵は彼女が話したいだけ話し、私は聞いているだけなのであるが。

「それに比べて、お姫様は何と言っても良い家柄で御座いますから、結婚相手も引く手あまたで御座いましょう?その上、お美しいのですから、きっと多少の作法なんて。あら、あれはお父様の馬車ですわ」

 ハナは急に立ち上がると窓から乗り出すように通りを指差す。

 見れば確かに見慣れた馬車が通りをこちらへ向かい、私の屋敷の前で止まった。

 降りてきたのはランスである。

 ハナが彼を呼ぶが、彼はこちらをちらりと見ただけで、どうも普段と様子が違う。

 私達は屋敷の階段を降り、彼を向かえた。

 しかし彼は屋敷に入ろうとはせず、ハナを手招くと彼女にそっと耳打ちする。

 その途端にハナは取り乱した。

「えぇ? そんな、そんな事って。えぇ?嘘よ、そんなの。」

 ランスが嘘だと言うのを待つかのように彼の顔を見上げ、彼女は必死に声を絞り出して問うのだが、彼はただ見つめ返すだけだった。

 彼女はもはや堪えきれず泣き崩れ、ランスの胸に顔を擦り付けて、押し殺したように呻く。

 私はまるで理解出来ず、二人の様を見ていた。

「済まないが、今日はこれで失礼するよ。数日経ったらまた来るから。ディードも戸締りには十分に気をつけるんだ。良いね?」

 ランスは涙に咽ぶ妹を抱えながら馬車に乗り、また去っていった。

 私は一人取り残され、急に静かになった空間に退屈を感じた。


 数日は経ったが、ランスは来なかった。

 私は帽子を目深に被り、一人で屋敷を出た。

 もちろん二人の夜魔が私の後をつけているのは分かっている。

 だが、特にウルは私が声をかけないときに無闇と前へ出るような事はしない。

 私は通りを西へ西へと進み、ランスの屋敷へと着いた。

「やぁ、よく来てくれたね。さぁ、とりあえず入ってくれ」

 ランスは微笑みながら私を迎えてくれた。

 しかしその様子に日頃の意気は無く、彼の中核をすっぽりと欠いたようであった。

「この前、あんな帰り方をしたものだから、心配しただろうが、今はもう随分良くなった。ハナは叔父の家に居るが、彼女ももう落ち着いた様子だし」

「あの時、貴方達はとても辛そうな顔をしていたわ。今でも、あまり変わらない。私は、その理由を知っておくべき?」

 なぜだろうか。ランスの曇った顔を見るのは、あまり良い気分ではなかった。

 ウルの微笑を見たいがため邁進する時と同じ心理であろうか。

 常にあったものがそこに無いとは、残念なほどに味気ない。

「貴方にも紹介したと思うが、キットラント家のジュネーが亡くなったんだ。彼女の事を憶えているだろう? 赤毛で、」

「えぇ、憶えているわ」

「彼女と僕とハナは昔からの友人だったんだ。それがまさか、彼女まで事件に巻き込まれるなんて」

 ランスは握り拳を固めて腕を震わせる。

 だがまさか、憶えているも何も、私が牙にかけたのだとは言えようも無い。

 前々から彼が事件と呼ぶ事柄が、私の食事を指すのだという事には気付き始めていた。

 良い気分ではなかっただろうが、特にそれが彼に対して大きな影響を及ぼす事は無かったので、私達夜魔が人を糧とする事は、ある面で受け入れられているのだと思っていた。

 それが夜魔によるものと知る事は無くても、原因はともかく、人は突然に終わりを迎えるものだと。

 人はそう自覚しているものだと思っていた。

 しかしそれに対して彼が今回のように大きく動揺したのは、私にとって意外であった。

「なぜ? 今までは誰がその事件に遭ったとしても貴方はそんなに取り乱さなかったわ」

「それは……」

 彼は少々口ごもる。

 そんな問いをする私に若干の不快感を示した瞬間もあったが、彼はそれを振り払うように首を振った。

「こう言っては、これまで犠牲になった人達に申し訳が立たないが、やはり親友が亡くなるのは特別悲しい。犯人は何を思って、こんな惨い事を繰り返すんだ?」

 その瞳には怒りと悲しみが色濃く映っている。

「貴方は、親しい人が亡くなるのが悲しいのね? 親しい誰かが亡くなるよりは、他の親しくない人の方が平気なのね?」

「そんな事は無い。誰かが死んで平気だなんて、そんな事は。僕には皆を守る責務があるんだ。最も憎むべきは女性や子供ばかりを狙う卑劣な犯人だが、次に責めを負うべきは守る事の出来なかった僕だ。」

 彼は自分の言葉に酔うように立ち上がると、先ほどの表情からは一変して、引き締まった顔を見せた。

「貴方は、誰が死ぬのも嫌なの? 誰にも死んで欲しくないし、誰が死んでも悲しむのね?」

 私はもう一度聞く。

「そうだ。僕は誰にも死んで欲しくない」

 彼ははっきりと答えた。

 その表情にもはや曇りは無い。

「ディード、貴方に礼を言いたい。悲しみに沈んで、僕はもっと重要な自分の責任を忘れてしまうところだった」

 彼は私の手を握りながら真剣な眼差しで私を見据える。

 そう。私が見ていたいと思うのは、こういう力強い彼の姿なのである。

 彼は街の警邏に向かうといって出て行った。その様に迷いは無い。

 だが、私は取り残され、一人迷いに思案していた。


 私は飢えていた。

 最後に血を吸ってからもう五日になる。

 これほど間を空けたのは、身体が完成して以降初めての事だ。

 血を飲みたい、とは思うのである。

 だが、いざ獲物を探しにいこうかと立ち上がると、どうしても躊躇ってしまう。

 理由は分かっている。

 ランスが、もう誰の死ぬのも見たくない、と言ったからだ。

 仕方が無い。

 その言葉で、人の命を奪う事それ自体は納得した。

 だが、ランスとの関係を、その言葉で容易く失う事は出来ない。

 私は父と同じ、支配する、その性質を持った夜魔だ。

 その者を支配していない状態に保持しながら支配するという、およそ矛盾した欲求。

 ラバンなどは私よりもまだ遥かに格上なので、父を介して彼を従えている今、それはその欲求を満たすに十分な関係なのかもしれない。

 だが、もし私がラバンを超える日が来たならば、その力関係も終わる。

 そしてウルはその日が確実に来ると言っている。

 ならば、それを満たせるのは私にとってランスしか居ないのである。

 精神の格に左右されない人間だからこそ、彼はその矛盾を調整し得るのだ。

 今既に感じている充足感を、ただ一言、仕方が無い、と言うだけで捨て去れるだろうか。

「お嬢様、どうかなさいましたか?」

 ウル、彼は恐らく私の内情に勘付いている。

「何が?」

 私は誤魔化す様に問い返してみる。

「いえ、そろそろ食事の時間ではないかと」

「そうね。でも食欲が湧かないの」

「しかし日頃の調子から考えれば、もう三日も過ぎております。食欲が湧かない、とは考えられません。何か問題がおありなら仰って下さい」

「ウルは、私が嘘を吐いていると言うのね?」

 ウルは僅かにたじろぐ。

 食べる気が起きないというのは事実なのであるから、私は嘘を吐いていない。

「まさか我慢しておられるのならば、その理由をお聞かせ下さい」

 しかしそう問われては、言葉で誤魔化す事は出来ない。

「ランスが、誰も死んで欲しくないと言ったからよ。私は彼が悲しむ姿を見たくないの」

「そんな事で我慢を? いったいいつまで、食を断つおつもりなのです?」

「分からないわ。まだ迷っているのよ。私は死にたくないわ。ウル、貴方のためにも。でもランスを悲しませる事もしたくないの。私はまだ、どうすべきか考えているのよ」

 ウルにしてみればそれは容易い問いである。

 そして私にもそれを否定する事は出来ない。

「森で父の事を話してくれたサグリーユは、獣を口にしたと言っていたわ。人を食う夜魔が獣を食べられたのだから、私も獣の血で飢えを凌ぐ事は出来ないかしら?」

 私はふと閃いた名案に表情を明るくしたが、ウルは一層険しく私を睨んだ。

「そんな事をすれば、お嬢様の格が下がるやもしれません」

「でも、やってみなければ分からないでしょう?」

「しかし私にはそれを止める責任と権限が」

「分かってる。私は貴方の事を信頼しているわ。だから、私が重大な過ちを犯した時は躊躇せずに権限を執行して」

 試してみる価値があるのなら。

 私は縋るように、ウルの手を握った。

「でも、私の格が下がらない時には、貴方に私を止める事は出来ないわ。お願いよ、一先ずは私にも試す機会をちょうだい」

 ウルは頷くわけでもなかったが、首を横にも振らなかった。

 私は彼の横をすり抜け、部屋を出る。

「どちらへ?」

「早速、試しに行くのよ」

 だが私が屋敷から出るとすぐにもう一人の夜魔が行く手を遮った。

「鹿狩りか?」

 ラバンは日頃から表情豊かな方ではあるが、その一方で実際の感情とは異なる顔をしている場合も多い。

 だが立ちはだかる彼のそれは明らかに機嫌が良さそうではないものだった。

「貴方はいつでも聞いているのね?」

「俺は、お前が事を終えた後の身体を食べねばならない。お前が鹿の血を吸いたいって事は、」

 ラバンはそこで一呼吸置く。

 まるでそうしなければ堪えきれない何かがあるかのように。

「俺に鹿の肉を食わせたいって事と、受け取っても良いわけだな?」

「いいえ、これは私の」

「更に言えば、俺に人間を食わせる気は無い、って事にもなると思うんだが、間違っていないよな?」

「だから、これは私の都合で、貴方にまで強制する気は無いわ。獣の肉が嫌なら、食べなきゃ良いじゃない?」

 彼の押し殺したような憤りに当てられ、思わず私の方が先に叫んでしまった。

 それに尚更恥を覚え、余計に熱くなるのを感じる。

「だったら俺は自前で人間を捕らえて食っても良いんだな?」

「それは駄目よ。それがランスの身近な人だったらどうするの?彼がまた悲しむじゃない?」

「それもお前の都合だろうが?」

「でも私は、ランスの悲しむ顔を見たくないのよ。街の人を無闇に食べては駄目。どうしても口にしたい時は、私に確認して」

 その一言は彼の逆鱗に触れたのだろう。

 ラバンの顔から一瞬表情が消え、私は彼が諦めたのかと思った。

 しかしそれは嵐の前の静けさというもので、感情の爆発に表情が追いつかなかっただけだった。

 彼が腕を振り下ろしたかと思えば、その手に白刃の閃きがあった。

 私は彼のその憤怒に満ちた表情に怯え、咄嗟に剣を抜き、間一髪その斬撃を受け止める。

「なぜ、俺がお前などの許可を請わねばならん?この被造者風情が、いい気になるな」

 辛うじて彼の剣を防ぎはしたが、その力の前に両手が痺れて痛む。

 彼の剣は真っ直ぐに私の肩を狙って振り下ろされており、私の右手を奪おうとした事は明白だ。

 右腕一本くらい、何人分かの血を吸えば容易く治る。

 以前はそうも思っていたが、今ラバンにそこを狙われた事は非常に衝撃的であった。

 なぜなら、ラバンは父の命令によって私の命を奪う事が出来ない。

 つまりラバンは私の頭と胸を狙う事が出来ないのだ。

 だからそれを除外して敢えて腕を狙ったのは、冗談や警告などではなく、真実私に怒りをぶつけたいという意思の表れなのである。

 ラバンは続けてもう一太刀与えようと、更に腕を大きく振りかぶった。

 ラバンとは日頃の訓練でも剣を合わせている。

 しかし先ほど感じたあの剣の速さと圧力は日頃の比ではない。

 訓練でさえ手玉に取られているのに、実力を発揮する彼の剣を受けきれるはずがない。

「我、万物の支配者たる主の名を借りて命じます」

 だが私は対峙しているラバン以外にも気を払うべきであった。

 ウルが父の名において言霊を用いようとしているのである。

 今この場でウルが静止を命じるのは誰か。

 取り乱した私ならば、甘んじて受けるのも良いだろうが、恐らくは違う。

 だが当然ラバンもそれに気付く。

「被造者が、どいつもこいつも調子に乗りやがって」

 ラバンは狙いを私からウルへ変え、その手を差し向けた。

 あと一呼吸も無く、ウルはラバンの言霊によって消し飛んでしまう。

 だがウルは私を守るためなら、自分の命など僅かばかりも惜しまないに違いない。

 しかし私はそれでは困るのである。

 ウルが消えた街に私が残されたとして、誰がこの後私を導いてくれると言うのだ。

「待ちなさい」

 私は両手をラバンとウルの方へそれぞれ向けた。

 二人のうちどちらかでも言霊を唱えようとしたならば、私がたちまちにもその動きを封じるつもりである。

 ラバンは私よりも随分格上だが、止まれという命令は単純ゆえに精気を大量に用いればラバンといえどその動きを一瞬は止められるはずだ。

 その一瞬の隙にウルが父の名によって彼の自由を奪う事が出来る。

 いくら父の力が働いているとはいえ、気位の高いラバンが被造者、作られた者である私達に拘束される事を選ぶわけが無かった。

「俺は、勝手にさせてもらうからな」

「街の人を食べては駄目」

 彼は私を強く睨むと、一度あからさまに舌打ちをして飛び去っていった。

「これでもまだ、諦めてはいただけませんか?」

 今は加勢してくれたが、ウルもまた大手を振って賛成しているわけではない。

 私を戒めに縛る瞬間がウルの目の前をちらつき、今がその瞬間なのかと迷い惑っている。

「取り乱して、ごめんなさい。ウルにはいつも心配をさせるわね」

「いえ、私は良いのです。私は」

 彼は眉間に皺を寄せたまま、やや不安げに私を見ている。

 しかし私は敢えてそれに気付かぬ振りをして、森へと向かう一歩を踏み出した。


 獣を狩るのは難しい作業ではなかった。

 彼らは人間よりも容易く私達の存在に気付く。

 だがその格は低く、瞳に威を込めて射抜くだけで行動を支配できた。

 私は捕らえた兎を膝に乗せると、その背を引き裂き、溢れ出る血を啜る。

「美味しく、ないわ」

 酷い味とは言わないが、まるで味気無く、砂の混じる河の水を飲み下しているような気分にさせられる。

「獣は、人間に比べれば遥かに格が劣りますから、当然で御座います。格を決めるのは、生命力と、精神と、美貌。純真ではありますが、知性に欠ける獣では、その精神に覆しがたい欠点が。やはり、人間を食する以外に無いのではありませんか?」

 私は手の中で痙攣する兎に口を付け、一息にその血を吸い上げた。

 その醜く異様な光景にウルは一瞬目を逸らす。

 確かに、人の血を吸った時のような、身体に活力が染み渡り、満たされていくような快感が無い。

「でも、飢えは凌げる」

 先ほどまで駆け巡っていた吸血衝動が瞬く間に影を潜める。

 私は兎の身体を地面に置いて立ち上がった。

「しかし、獣で一時を凌いでも、ずっとこのままで良いわけではありません。やはり人間でなければ、お嬢様の格を高める事が出来ないのでは?むしろ今の状態でさえ、獣の血でそういつまでも維持出来るものでしょうか?」

「その時は、人の血を吸うわ。だから私の格が落ち始めたら、ウルが止めるの。私の口に血を注いで」

 ウルがその指で私の唇へ血を塗った時の事が思い出される。

 その一筆が、私と血が初めて接した瞬間だった。

「もし、獣で私の格を上げる事が出来なくても、私は構わない。貴方は、私が完成するまでは、何千年だろうと傍に居てくれると言った。貴方と一緒なら、私もどれだけ時間がかかっても構わないの。人間の寿命は短いわ。ランスが生きている間は、少し足踏みをしても良いでしょう?その後は、ちゃんと貴方に導かれるまま歩むから」

 ウルが何の表情も無く私を見下ろす。

 この表情の時の彼は大抵の場合、その頭の中で様々な思案を繰り広げているのだ。

 彼はあらゆる選択肢を想定し、彼の挙げなかった場所に道は無い。

 ゆえに、その道は最善から最悪まで全て揃っていた。

「でも、ランスを殺すのは駄目よ。今、私にとって彼はとても大切なの。そして更に、貴方がランスを手にかけるという事は、貴方が私の信頼を裏切るという事でもある。貴方への信頼も、私にはとても大事なもの。この二つを失えば、私は著しく心の平静を欠き、生きる気力を失うわ、きっと。ウルがどんな手を施そうとも、生命力と精神を失った私を維持する事は出来ないわよ」

 それはもはや脅迫でもあったが、何よりも私が最も恐れる最悪の選択肢は削除しなければいけなかった。

 私の必死な様に打たれるところがあったのか、ウルは翳を落とした表情のまま、少し微笑んで頷いた。

「分かりました。黒翅公にも、そのようにお伝えしましょう」

「ありがとう。貴方を頼りにしているわ」

 私は意が通じた喜びのあまりウルの胸にしがみ付いた。

 彼はこういう大袈裟な動作をあまり好ましく思っていないが、私はどうしてもしてしまうのである。

 それを私は、私の本質としての人間がそれを望んでいるのかもしれない、と思っていた。


 ウルの懐に飛び込んでみたは良いが、予想外にも彼はなかなか私を引き剥がさなかった。

 彼がそうするものと思っていたから抱きついてみたのだが、こうなると次の展開に困ってしまう。

 私の方から引き下がるべきか。

 しかし自ら飛び込んでおきながら、さも平然と馴れ合う時間の終了を告げるように、離れるのはえげつないのではないだろうか。

 ここで容易く離れて、この全身で表した喜びと感謝さえ希薄になるのは望むところではない。

 ハナは会うたびに私を抱いていたが、その時彼女はどうやって離れていただろうか。

 思い出される彼女の表情を真似て離れれば相応であろうか。

 いや、しかし人間のように大きく表情を崩して笑うのは、ウルの好まないところだろう。

 夜魔らしく離れるにはやはり微笑だろうか。

 とは言っても、そもそも夜魔らしくない事をしているから、ウルに戒められたりするのであって、今更この先に夜魔らしい態度など存在しない。

「お嬢様、」

 そこで更に困惑すべき大事が起こった。

 予想の範囲を容易く凌駕し、ウルが囁きながら私の背に両手を回したのである。

 だが、驚きはしたが、拒絶的ではなかった。

 胸に擦り付ける額に彼の体温を感じる。腰に回した両手にもだ。

 恐らく全ての孤高不屈の夜魔には到底理解出来ないであろうが、私はこういう温もりが嫌いでなく、むしろ好意的であった。

 日の差さない路傍の砂利の上で自我を持ち、その上私の身体は冷たい屍で出来ている。

 私の身体はもしかすると冷えていて、そのために不思議なほど温かさというものに満たされるのかもしれない。

 飲み込んだ血が身体中に広がっていく瞬間や、キリカの手を握っている間、私には根拠の無い安息が訪れる。

 そして今も、非常に強い安らぎがあった。

 それはもはや、吸血時にも近い快感である。

 更にウルがその手に力を込める。

 その瞬間、私は天地が分からなくなって舞い上がった。

 この重力から解き放たれたような心地は以前にも感じたことがある。

 周囲の景色が薄絹を通したようになり、そこかしこが輝いて見える。

「ウル、何?」

 私はウルの内部へ転がり込んでいたのだ。

 出口を探すが、そもそも煙に入り口も出口も無く、彼に押し込まれたならば、彼に引き出してもらうしか方法は無いのである。

「何か妙です」

 ウルが慎重に囁いた。

 しかし彼の内側からでは何が妙なのか良く感じ取れない。

 だが、ウルが正面に見据えた先の茂みが、風ではない何かによって不自然に揺れ動いた。

 そして次の瞬間、その茂みから何かが飛び出し、こちらへ向かって急速に突進してくる。

 ウルが大きく後方へ退き、その衝突を回避すると、問題のものの姿が私からでもはっきりと見えた。

 それはおよそ人型であったが、何かの塊としての範疇も抜け切れていない。

 はっきりと見えはしたのだが、それが何であると言う事は出来ないのである。

 ただ鈍重で見栄えも悪く、しかしながら私達に対して敵意を持っているように見えた。

「あれは何?」

「恐らくは何者かが作り出したものでしょう。それが誰かは分かりませんが。しかし安全なものではない。」

 作られた者。

 そうすると、私やウル、キリカと同じ存在だという事だろうか。

 私は純血種の血を受けた特殊な者で比較の例にならないのだとしても、ウルやキリカと比べてさえその物体はまるで様子が違う。

 それからは一つの生命としての意思のようなものが感じられない。

 愚直に私達を追ってくるその様は、命令を忠実に実行するウルやキリカに通じるものがあるが、あまりに不出来だ。

「あれが作られた者? ウルとは全く違うじゃない。あれも夜魔だとはとても思えないわ」

「私など、ご主人様に作られた者が特別なのです。通常、夜魔が作る者はあの程度で、一つの命令を遂行するためだけに作られ、それが終われば消え去ります。模倣といえど生命を作り出す事は、自然界の掟を大きく捻じ曲げる技術であり、それを維持し続けるのは非常な労力を必要とします。しかしご主人様の格は他の夜魔よりも遥かに高いため、一つの生命にも匹敵する、人格として確立した自我を持つ高位の夜魔を作れるのです」

 父の格が異常なまでに高いため、それに作られたウルの格も相応に高いということか。

 迫り来るそれは夜魔というよりも、むしろ操り人形に似ているように思える。

 その物体は更にウルに向かって接近してきた。

 ウルは大きく跳躍しながら屋敷の方へと戻り始めたが、それはしつこく追ってくる。

 しかし私はそこでウルの様子がおかしい事に気が付いた。

 正確には、ウルがでは無く、ウルの内部にある煌く粒子がである。

 揺れ動くたびにそれらは、まるで病に侵されていくように輝きを弱めていく。

 何に侵されているのか。

 無論、異物である私によってだ。

 私の格がもはやウルよりも高いためだろう。

 それ自体よりも大きな物を容れられる器など無いのである。

 無理に容れようとすれば、それは器を砕く事に等しい。

 己よりも大きな者を内包したためにウルは破裂寸前なのではないだろうか。

「ウル、私を出して。様子が変だわ。私のせいで貴方の要素が傷付いているんじゃないの?」

 しかしウルは返事もせずに回避を継続する。

「私を出して。早く。私にも自分の足があるから」

「そこに居れば、私が生きている限り安全です。このまま屋敷までは何としてもお連れします」

「無理よ。貴方が持たないわ。危険があればラバンが来るから、早く出して」

「ならばせめて黒翅公の到着までお待ち下さい」

 だが最初の襲撃からもう何分が過ぎただろうか。

 ラバンは私を守るために常に一呼吸よりも近い距離に居るはずである。

 ラバンが到着するまで、とは言ったが、今現在こちらに向かっているわけではないのだ。

「違う。ラバンはもう来てるのよ」

「しかし、来ているのなら、なぜ」

「ウルの中に居る限り安全なら、私がここに居る間、彼は私を守る必要が無いのよ。だから私を外に出さないと、彼の助けは得られない」

 ウルはやや沈黙する。

 確かにラバンが来れば私の命は保障される。

 しかし彼が来るという事は、ほんの一瞬だが、私の命を危険に曝すという事だ。

 ウルは逡巡する。

「私を出すのよ、ウル。貴方は自らの命を軽んじてはいけない。私が貴方に感じている重さを、貴方も認識しなさい」

 ウルは一本の木の枝に飛び乗ると、逃げるのをやめた。

 樹下にはたちまちその追跡者が取り付き、彼を落とそうと幹を揺さぶる。

 そこでようやくウルはその懐から、私をそっと取り出した。

 改めて見たウルの表情には僅かだが疲労の色が見て取れる。

 その無茶を叱り飛ばしてやりたい気もするが、私欲ゆえの無謀ではないので、それも出来ない。

「お嬢様、いずれはこの木も折られます。早く退避を」

 私自身の肉眼で見ると、それの様子が良く分かる。

 他に存在する獣などとはまるで異なる物体だとは思う。

 要素を感じればその本質が見える辺りは夜魔に酷似しているが、果たしてこれほど醜いものを夜魔と呼ぶべきかどうか。

 木を揺らす様子から見ると力はありそうだが、これを登って私達を捉えようとしないので、あまり知性も高くなさそうである。

「いいえ。高潔なる夜魔は退かないもの。貴方にそう教わったわ。誰からも逃げず、誰にも屈さず。」

 私には分かっていた。

 これからウルが逃げていたのは、危険だからではない。私を守らねばならなかったからだ。

 ウルにとって真の屈服とは、これに背を向ける事ではなく、万に一つの危険から私を守りきれなかった時の事を言うのである。

「お嬢様、」

「こうなってもラバンが来ないという事は、これが私の命を脅かすほど危険なものではないという事よ。小物は私自身が始末しろって、彼が言ってた」

 この期に及んで見物に徹するラバンに少々苛立ちもするが、日頃の成果を試す良い機会とも考えられる。

 その安全がラバンのお墨付きならば尚更好都合だ。

 私は枝から飛び降り、それから十数歩のところへ着地する。

 途端にそれが木を揺らす事をやめ、私の方へ向かってきた。

 ウルではなく、特に私を襲うという事は、やはり私に流れる父の血が狙いか。

 その格の低さには、たったの一言で十分に事足りる。

 しかし幾ら軽くとも、命に変わりは無いのも確かだ。

 だがこれはその命のやり取りなのである。

 どれほどその差が圧倒的であろうとも、遠慮は無用だ。

「吹き飛べ」

 それが私との距離を半分に詰めるよりも早く、私の声が辺りに響いた。

 人型だったそれは薙ぎ倒されるようにたちまち崩れ去り、本質である一盛り程度の砂に変わる。

「呆気無いわね。世の中にはこんな格の低い夜魔も」

 急に違和感を覚えた。

 周囲の要素の動きが不自然だ。

 恐らくウルが最初に、何か妙だ、と感じたのと同じ気配が漂っている。

「お嬢様、左手の木陰にまだ居ります」

 高所に陣取っていたウルには見えていたのだろう。

 位置を指摘された事でもはやこれ以上隠れて近付く事は出来ないと悟ったのか、またもや何かが飛び出してきた。

 しかし今度のそれは一つではなく、三つか四つの複数の影が動いている。

 私は飛び退りながら剣を抜き、再び言霊によってそれらを一薙ぎに捻じ伏せた。

 その本質はどれもこれもやはり砂である。

 いや、本質だけが同じなのではなく、むしろそれは大量に生産された複製品のように思える。

 個性に欠け、ただ私を狙う事だけを目的とした、程度の低い代物だ。

 ウルが剣を抜き、私の傍へ寄る。

 私達が逃げる足を止めたために、続々と追いつき集まる者達の存在を感じる。

 打ち倒した何倍もの数のそれらが私達を追っていたのである。

 知能が低いとは言っても、皆無ではないようで、私達を囲みながらその円を少しずつ小さくするつもりのようだ。

「警戒すべきは、彼らが持っている力ではありません。彼らが力を持っていない事にこそ注意を払うべきです」

 どれほど居るのか分からないほど数は多いが、言霊の一言毎に十人ずつは砂に出来そうである。

 すなわちこれほど格の低い者をどれだけ集めたとして、私の血を奪うにはあまりに可能性が低い。

 しかし一見それは無謀に見えるが、成功の見込みの無いものに力を注ぎ込む夜魔はいないだろう。

 今見えているほど無謀でないと考えた方が良い。

 あらゆる方向から一息に襲い掛かるそれに対し、右側を剣で、左側を言霊で振り払う。後方もウルの剣に任せておけば不安は無い。

「彼らの狙いは何かしら?」

「彼らのと言うよりもこれを操る夜魔の狙いです。欲しているのはお嬢様に流れる高貴な血でしょう」

「私の中のお父様を? 私を傷つけ、それを奪おうと言うのね?」

「いえ、身体を離れた血は容易くその力を失います。ですからあの砂の被造者だけで血を奪うことはできないでしょう。あれらは単純に、お嬢様を傷つけ、疲弊させることが狙いではないかと」

 正面から向かってくる砂人形達に私は手を差し向ける。

 しかし何者かが背後から忍び寄り、その手で私の口を塞いだ。

「あるいは、お前に言霊を乱発させ、力を使い果たすのを待っているか」

 更に背後から強靭な腕がもう一本伸び、握られた大刀が迫り来る者達を容易く斬り伏せる。

 口を塞いでいた腕の力が緩み、振り返ってみると、そこにはラバンの姿があった。

「いくらこの出来損ないの被造者が相手で、その消耗は微々たるものであっても、言霊は確実に精気を消耗する。相手が微小だからと調子に乗っていると、後で疲労が祟るぞ」

 彼らの推測は信頼性が高い。

 砂人形に私を傷つけられればそれで良し。傷を付けられなかったとしても、私が消耗していれば、その夜魔自身が私と対峙した時に優位に立てる。

 悪戯に危険を冒して剣を用いるよりも、言霊で対処出来るならば、そうしてしまうだろう。相手が微小なら、尚更安易に言霊を用いてしまう。

 よくもここまで罠を張ったものである。

 しかし微小といえども人形を作るにも労力は費やされる。

 私には十分に力を浪費させ、自分の消耗は最小とするには、単純に砂を操るだけでは非効率的だろう。

 ロザリアが言っていたが、己の質に近い要素は操り易いらしい。

 そうすると、今私を狙っている夜魔は、砂かその類の者か。

「ラバン、上空から見ていたんでしょう? 頭目はどこ?」

 しかしラバンは黙したままだ。

 命令により現れはしたが、やはり確執がそこにはある。

「教えて、ラバン。貴方もいつまでも私の傍に居たくないでしょう?貴方が嫌な事は、私もさせたくない」

 傀儡達はどこであろうと一太刀浴びせるだけで砂に変わる。彼らの格が低過ぎて、傷一つでも夜魔として存在するに堪え得る格の最低限を保てなくなるためだ。

 ラバンが前方に大きく跳躍し、その剣を左右に振ったように見えた。

 するとその途端、周囲に激しく砂が舞い、囲みの一端が開かれて道となる。

 その道を走ろうとするラバンを私は引き止めた。

「私が行くわ。ここで大勢に囲まれているよりは、そちらの方が私は安全だと思う。私を狙ってきた者を、討ち伏せる力がありながら、貴方に任せてしまうのは、潔くないわ。今の私ならもう、出来るでしょう?」

 ラバンは立ち止まり、私を睨むようにじっくりと見た。

 眉間に皺を寄せ、私の腕前を値踏みしている。

「無闇と言霊を使うな。その消耗を、人の血で癒したくないのならな」

 私は頷き、ラバンの切り開いた道に踏み出す。

「ラバンは大丈夫?」

「有象無象の被造者どもに何が出来る?お前が後ろの心配をする必要は無い」

 私はほんの少し笑って見せた。

 私が彼を信頼している事を伝えたかったし、彼にも私を信じて欲しかったからである。

 彼は表情を変えなかった。

 それでも私は走り出す。

 その信頼をこの手で掴み取るためだ。

「お嬢様。お一人では、」

「ウルはそこに居て。ラバンの傍に居れば安全だから。ウルの仕事は私を守る事じゃないはずよ」

 私の進む道が少しずつ狭まっていく。

 すぐ背後を砂人が次々と塞いでいき、今にもドレスの裾を捉えられ、引き倒されそうである。

 しかしラバンは背後を気にするなと言っていた。

 左右から伸びる腕を幾つか斬り払い、私は前だけを見て進む。

 徐々に集団から抜け出し、景色が開けてきた。

 目の前に、一人の夜魔が見え、私はその前に飛び出す。

「貴方が、これを操っていた人ね?」

 辛うじて私を追ってきた二つの影を斬り捨てる。

 私の目に映る範囲には、もう私とその夜魔だけとなった。

「貴方は?貴方も、私の血を狙っているの?」

 その夜魔は左腕で右腕を何度か擦る。その手首から先が鋭利な鋼石の剣へと変化した。

 その姿勢、その瞳には明らかな敵意が見られた。

「私はロウチェ。何としてもその血が欲しい」

 褐色の肌の下に、力溢れる頑強な筋肉が脈打っている。

 だが私には分かった。

 彼女は格が低い。

 その本質が私にははっきりと見え、予測した通りに、巨岩である。

「私の方が、優位だわ。それに私を助けてくれる者達のおかげで、私は精気を消耗していない。思惑の外れた今、それでもまだ続けると言うの?」

「ここで引き、現状を維持す、その生は辛い。奇跡の起きる可能性が皆無ならば、死に果てるも本望」

 彼女は剣を構えて向かってきた。

 それは覚悟を決めた表情だろうか、潔さに染まっているが、どこか痛みを覚える。

 彼女は私の心臓めがけて一直線に右腕を突き出す。

 しかし私が彼女に向けて腕を差し出すと、その動きが一瞬鈍る。

 それが彼女と私の間にある距離だろう。

 言葉に出すまでも無く、私がそうなれと強く心に思うだけで、束縛が彼女を襲うのである。

 確かに彼女はそれを瞬時に振り払い、尚私の胸を狙うが、その一瞬はやはり私を大きく有利に導く。

 彼女の剣を僅かに逸らせば、彼女は体勢を崩す。それを立て直すために踏み止まろうとするほど、身体が流れてしまう。

 せめて苦しまぬよう、一太刀で心臓を斬ってやろうと思い、私はその無防備となった胴に薙ぎを打ち込んだ。

 だが異常なほどに重い手応えに違和を覚える。

 その上、彼女の目はまだ闘争心に輝いており、一度は空振りしたその腕をもう一度振り戻してくる。

 私は堪らず飛び退き、安全な距離を図った。

 見れば私の一撃は彼女の衣服を裂いたものの、その皮膚をようやく傷つけた程度である。

「そんな剣で私は斬れない」

 岩の持つ硬いという要素が、夜魔である彼女の中ではより強く作用しているのか。

 一筋の血は垂れたが、その傷は浅く、すぐに塞がれる。

 彼女がどうしても私の精力を削ぎたかったのは、剣での闘争ならば負けないという自負があってのものだろう。

 ならば言霊を用いて彼女を捻じ伏せるべきだろうか。

 しかし私より劣るとはいえ、彼女も一人の純血種の夜魔である。一言で済むはずも無く、当然私の疲労も大きくなる。

 獣で飢えを凌ぐと決めたばかりに、その消耗は好ましくない。

 私は一つの試みを思いついた。

 言霊を使うのは、その思い付きが失敗してからでも遅くない。

 ロウチェが鋭く踏み込み、二度三度と斬り付けてくる。

 力強い太刀筋だが、私はそういう剣の対応に慣れていて、受け流すのは容易い。

 動きの大きい一振りを見極めると、私は彼女の横をすり抜けて、背後の死角へと入り込む。

 当然彼女はすぐさま振り返るが、既に私は高く跳躍しており、そこもまた彼女の死角である。

 彼女が見上げた時にはもはや遅く、私はその首に狙いを定めて剣を振り抜いた。

 確かな手応えがある。

 首を断てば、身体は精神の支配を失って無力となる。頭はすぐに精力尽きて朽ち果てる。

 一撃必倒ではないが、それに次ぐ一薙ぎと思えた。

「剣で、私は、倒せない」

 しかし振り向くとロウチェの首はまだ繋がっていた。

「はずなのに。な、ぜ?」

 だがそれも辛うじて薄皮一枚残したに過ぎない。

 ざっくりと裂けた首筋を手で懸命に抑えながら、彼女は地に膝を突き、荒い呼吸の間に絶え絶えの言葉を呟く。

 その瞳だけはまだ輝きを失わず、死を全く恐れていないようだった。

「私も、剣の硬さ、鋭さの要素を強化したの」

 この剣を受け取ってからもはや久しい。

 剣を構成する要素が私に馴染んでいる今、それは難しい事ではなかった。

 だがそれでも完全に斬り落とすには至らず、彼女に苦しみを与え過ぎている事に辛さを覚える。

「なぜ、私の血が欲しいの?」

 私は剣を構えた。彼女がそれに答えてくれれば、その急所を一突きに貫くためである。

「私は、生まれ出でて、幾千年。しかし力無く、気品備わらず。私より、遅く来た者が、何度と、なく、私を超えていった」

 どれほど歳月を重ねても己は留まり続け、そして若い者が容易く追い抜いていく。

 ロウチェの本質が岩ゆえにその限度が低いのは仕方が無い。

 だが仕方が無いからと、悔しさが消えるわけでもない。

「虐げ、られるのには、疲れた。その血があれば、見返す事、も、あるいは、と」

 私は剣の柄を握り直した。

 彼女の首ががくりと項垂れ、左手を地面について何とか倒れるのを拒む。

「この生、終われば本望」

 私は彼女を貫き通せるよう、激しく踏み込んだ。

 だがそれを合図にしたようにロウチェが動く。

 私の左右に突如、砂人が現れ、その姿勢は既に私の胸と頭を狙っている。

 彼女が地に手を突いたのは、倒れないためではなかった。

 流れ落ちる自らの血で砂を捏ね、急遽それらを作り出したのである。

 首を斬られ、言葉が途切れ途切れになるそれさえも、人形を作る時間に利用して。

 更に私の眼前には舞い上げられた極小さな砂嵐と、心臓に迫る彼女の右腕が見えている。

 彼女は砂に類する夜魔であり、私の目へ飛び込むように砂の要素を操る事など何とも容易い。

 私は彼女の瞳の輝きがまだ失せていない事をもっと考慮すべきであった。

 それは死を覚悟した潔さではなく、望みを捨てていない抗いだったのだと。

 まず左右の砂人を斬り裂く。

 しかし砂嵐は防ぐ暇が無い。どうしても視界を奪われる。

 既に彼女の腕は見えているので、それを振り払う事は出来るだろう。

 だが彼女が更にもう一太刀浴びせてくれば、それが私に届く前に目を開けられるだろうか。

 迷う時間は惜しい。

 動くしかないのである。

 砂が瞳を襲い、暗闇が訪れる。

 その中で目に映った残像だけを頼りに彼女の切っ先を逸らした。

 手応えはある。

 そして彼女の次の攻めよりも速く、私が彼女を貫くしかない。

 私は鋭く踏み込むと、前方を激しく突いた。

 しかし私の手に手応えは無く、代わりに凄まじい風切り音を伴う斬撃が肉を引き裂く音を聞いた。

 ようやく砂粒の要素の懐柔に成功し、瞳が光を取り戻す。

 目の前に彼女の姿は無く、私は混乱した。

 だが私が斬り裂かれたわけでもない。

 そして唐突に何かが地に落下した。

 それはロウチェの上半身である。

 残りの下半身は、私が突いたやや下にあり、ゆっくりと倒れると、幾片かの岩となって砕けた。

「油断するな。俺の仕事が増える。」

 声の方を見れば、ラバンがその剣を手の内に戻し、身体についた砂埃を払っていた。

 私に命の危険が迫った瞬間、彼の身体に父の命令が走ったのだろう。

 ロウチェは疾風一陣と共に胴を両断されたのだ。

 だがそれでも彼女にはまだ息があった。

 心臓と脳が無傷ではあるが、その傷は彼女の格を恐るべき速度で降下させていく。

 このままでも彼女の存在が消えてしまうのは時間の問題だった。

 しかしその表情を見れば、その苦しみが尋常でない事は明白だ。

「待っていて。今終わらせるわ」

 彼女は言葉も無く私を見上げていた。

 それは死を請うているのか。それともまだ、皆無の奇跡を信じているのか。

「還るのよ、嫉妬も野心も無い岩へ」

 私はその眉間に渾身の力で剣を突き立てた。

 ロウチェの最後の咆哮のように、その傷口から噴出するものが私を染め、彼女は静かに崩れ去った。

 私は剣を納め、ラバンに近付いた。

「助けてくれて、ありがとう。助けたくてそうしたのではない、とは分かっているけれど、嬉しいわ。貴方を信じていて良かった」

 彼は背を向け、無言であったが、すぐさま飛び去ろうとはしなかった。

「私に貴方を束縛する事は出来ない。だからこれはお願いなのよ。人間達を食べないであげて。少なくとも、この街では」

「別の街までわざわざ出張っていけと?」

「お願いよ」

「知った事か。そんな面倒な事をするくらいなら、飢えて死んだ方がましよ」

 突然の暴風に私は後退り、そしてもうラバンは消えていた。

 彼は、私の願いを聞き届けてくれるだろうか。

 ただその風にはもはや刺々しさを感じなかった。

「お嬢様、ご無事で御座いますか?」

 茂みを掻き分けてウルが来る。

 どうやら彼も無事なようで、私は安堵の疲れを覚えた。

 真っ赤に染まった両手をじっと見つめ、この手で初めて同種と言うべき夜魔を殺めたのだと強く認識した。

 人間はそもそも根本を異にする種族だからと、無理にでも納得した。

 しかし夜魔が相手でもやはりそのための言葉は、仕方が無い、という以外に無いのだろう。

「夜魔の血は飲めるのかしら?」

 私の全身から熱い匂いが立ち昇り、私は原初的な衝動を覚える。

「普通、夜魔を食す夜魔はおりません。他の生物よりも圧倒的に闘争に優れる夜魔は、ただ食すためだけに仕留める相手としてはあまりにリスクが高いのです。しかし一方で、夜魔は最も高貴な生物ゆえ、それを食する事は他を食するよりも遥かに大きな力を得られます。お嬢様の血が狙われているのも、そのためです」

 私はロウチェだった岩の破片を見た。

 それはもはやただの石で、彼女を夜魔として存在せしめた膨大な精気は私に降り注ぎ、この身を赤く染めている。

「しかし要素を支配する夜魔の性質ゆえに、死後もその夜魔を構成していた要素は他への服従を拒絶します。それを己のものとするには相応の時間を必要とし、また時には己の要素を傷つける場合も。夜魔が夜魔を食すという事は、それもまた一つの争いなのです」

 私は赤く濡れた自分の指を一本、口に含んだ。

 それは確かに血の味であった。

 だが人間とは比較にならないほど快楽に富み、その芳醇さはもはや刺激的でさえある。

 そのような身体を駆け巡っていく感覚を、何かに例えるとすれば、それは激痛だろう。

 美味と感じる上限を容易く超過し、それは私の神経を痛めつけた。

 口に苦く、舌が麻痺するような感触がある。

 しかしその精気はじわりじわりと浸透し、荒ぶる事は無かった。

 あるいはそれは私に流れる父の血がロウチェを容易く屈服させたのかもしれない。

 私は指を更にもう一本、口に運んだ。

 そして全身に付いたそれを、私は森の木々に囲まれながら、順々に舐め取っていった。


次話更新8/10(金)予定でしたが、正常に公開されなかったようなので再掲(8/16)



作者ツイッター https://twitter.com/yuki_anno

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