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ヤミヨヒメ  作者: 二束
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ヤミヨヒメ  -チチノコト-

 身体が完成してからは来る日も来る日も三人の夜魔達の教えを受けていた。

 ロザリアからは立ち居振る舞いを、ラバンからは剣術を、そしてウルからはその知識を授けられた。

 血を吸うたびに、力の昂りを感じた。

 器に血を注ぐと言ったウルの表現は正しい。

 その水かさが増すほどに、私の格も高まるのを感じた。

 しかし私は不安を覚える。

「ウル、父はいつ戻ってくるの?」

 器の際はまだ見えず、私は自身が完成しないのではないかとふと考える。

 見えもしないその日に私は父に会えるのか。

 この注いだ命は、果たして無駄になりはしないだろうか。

 無意味だったと捨て去られるには大き過ぎる。

 その命も。ウルも。

 私は密かに怯えた。

「ご主人様は必ず戻られます」

「いつ?」

「それは、ご主人様がお決めになることです。私達はただ準備し、その日を待つのみです」

「本当に戻ってくるの?」

「間違い無く」

 ウルは表情も無く、静かに答える。そこに迷いは無い。

 私の不安を見抜いたのか、その静寂を分け与えようと、その優しい手で私の肩に触れる。

「ご主人様が、仰いました。いずれ戻る、と」

 その言葉は納得するだけの確かなものと為り得ない。

 それをウルに伝える事は出来なかった。

 ウルは父を絶対的に信じているのである。

 しかし私は、ウルのようには父を信じられない。

 ウルが信じるものを私も信じたいが、私の信頼は無条件に湧いてこない。

 私はそれを探して駆け出した。

 もちろん、ウルには血を求めに行くと言って。

「あぁ、貴方か。心配していたんだ」

 求めれば与えられるのは、父が与えた恩恵なのか。

 飛び出した人間の街は明るい昼に包まれ、私はそこでランスに出会った。

 彼は言葉に詰まり、それでも何かを伝えようと明るく微笑む。

「あの晩以来、お嬢さんの姿を見かけた者が居ないから、本当に心配しました。不甲斐無い事だが、益々物騒な事件が増えるばかりで、まさかどれかの被害者がお嬢さんなのではないかと。僕の思い過ごしで良かった」

「貴方が私の心配をするの? なぜ?」

 ウルが私に構うのは、私を育てる事が彼の存在意義だからだ。

 ラバンが私を守ろうとするのは、逆らえない命令があるからだ。

 だが、私にはこのランスという男がなぜ私を心配する理由があるのか分からなかった。

「それは、僕にこの街の治安を守る責任があるからです。それに、フレスベルク家の方に何かあっては、僕だけでなく一族諸共に首を刎ねられてしまうかもしれない」

 彼は冗談のように笑うが、私に笑みを返す余裕は無かった。

 彼が父を知っているような、正しく言えば、フレスベルクの名を知っているような口振りだったからである。

「父の事を何か知っているの?」

 人間を問い詰めたところで無駄だと言っていたウルは正しいだろう。

 そんな方法では到底父までは届かない。

 だが一歩でも進めるのなら、私は迷わなかった。

「変な事を聞くお嬢さんだ。自分の父親でしょう?」

 ランスは怪訝な表情で私を見る。

「私は父を知らないのよ。だから知りたいの。ランスが知ってるフレスベルクの事を教えて」

「一緒に住んでいるわけではないのかい?」

「えぇ。父は私が生まれる前に旅に出たと聞いてるわ。ねぇ、貴方は何か知ってるの?」

 ランスはやや考え込んだ後、ふっと力を抜いて肩を竦めた。

「実は僕自身はほとんど知らないんだ。でも僕の父なら何か知っているかもしれない。あの晩、お嬢さんだけ護衛できなかった事を父に話したら、真っ青になってしまってね。貴方のことを心配していたのは、僕もそうだが、たぶん父の方がずっと激しい」

「じゃあ、貴方のお父さんに会わせて」

 ランスはすぐに私が彼の屋敷へ赴く事を快く許してくれた。

 だが不意に気配を感じ、私はそこにウルが居る事を悟る。

 その姿は見えなくても、ウルは絶対に私の傍を離れないのである。

 先を行くランスには気付かれないよう、私達はひっそりと囁き合った。

「お嬢様、人間と親しくする事はあまり好ましい事では」

「これは私の格を下げてしまうような事?そうではないのでしょう?」

「確かに、お嬢様の品位に関わるような大事では御座いませんが、しかし」

「じゃあ、ウルは黙ってて。お願いよ。私の好きにさせて」

「しかし、」

「どうしても父の事を聞きたいの」

「ご主人様の事ならば、私にもお答え出来ます」

「でもウルは、人の目に映る父の姿を知らないでしょう?」

 数秒の沈黙が訪れる。

 私は自分の言葉を後悔した。

 知識はウルを形作る重要なものだ。

 それに欠けた部分があるなどとは、それが仕方の無い欠けだとしても、口にすべきではなかった。

「ごめんなさい」

「いえ。くれぐれもお気をつけて。私も常にお傍に居ります」

 距離が離れた事に気付いたのか、ランスが立ち止まりこちらを見ていた。

 私は彼について歩き、彼の屋敷へ向かった。

 辿り着いた彼の屋敷は、それほど大きなわけではないが、趣のある良い家だった。そこかしこに花が咲き、良い香りに包まれている。

 彼が扉を開ければ、一人の年老いた使用人が出てきて、また来客を告げるために戻っていった。

「そう言えば今更だけど、まだ名前も聞いていなかった。正直、僕もフレスベルクの名前に圧倒されていてね。宜しければ、お嬢さんの名前を教えていただけませんか?」

 私はふと戸惑う。

 私自身の名を彼に教える事は私の不利益に繋がるのだろうか。

 しかし黙すわけにもいかないだろう。

 人間に教えたところで高が知れているというのなら、構わないのだろうか。

 ウルの潜む暗がりに問いかけの目線を送るが、それは静寂を保ったままだった。

 私の思うようにしても良いということか。

「ディード」

「ディードか。優しい名だ。皆には何と呼ばれているんだい?」

 それを口にしてもウルは動かなかった。

 許される範囲の行動だったのだろう。

「教育係のウルにはお嬢様って。名前ではあまり呼んでくれないの。護衛のラバンにはお前。父の伴侶のロザリアには貴方。ウル以外は小娘と呼ぶ事もあるわ。あまり好きじゃないけど」

「小娘って、それは酷い言われようだ。それも、貴方の父の伴侶って事は、貴方の母親だ。そんな人にまで本当にそう呼ばれているのかい?」

 ランスが呆れる中、家の奥から少々太った年配の男性が慌てて駆け出てくる。

 その慌てようは、自分の足に躓いて転びそうになるほどだ。

「申し訳御座いません。フレスベルク卿のご息女様がいらっしゃるというのに、お出迎えも出来ず。今、妻に飲み物の準備をさせておりますので、どうぞ中へ」

 真っ白の髪を整えながら、彼は満面の笑みで私を迎えた。

「ディード、こちらは僕の父のコンサルです。父上、街の警邏をしていたら、先日お話したフレスベルク卿のお嬢さんと偶然お会いしたので、連れてきました。父上にお尋ねしたい事があるようで」

「早速なのだけれど、父の事に」

「あ、いえ、こんな庭先で立ち話などでは申し訳が立ちません。どうぞ中でゆっくりとなさってください」

 コンサルは私の問いを遮ってでも、どうしても中に入れというので私はそれに応じた。

 ウルがやや警戒を強めたのを感じたが、ランスもこのコンサルという初老の男性もその表情は明るく、私はそれほど不安ではなかった。

「いや、しかし、こんな低級貴族の屋敷にディード様のような方がお出で下さるとは、末世までの誉れとなりましょう」

 中庭を眺める椅子に私が腰掛ける様を見て、コンサルは何とも嬉しそうに笑って言った。

 目に映る庭は、決して広いとは言えないが、良く手入れの出来た良い景色である。

「しかしこのランスは無礼な事を言いはしませんでしたでしょうか? 剣ばかり興味を持って、教養の無さは我が息子ながら情けないほどで。口の利き方には気をつけろと、毎日のように口を酸っぱくして言っているのですが、一向に良くならず。全く、本当にお恥ずかしい」

「でもディードも敬語は苦手のようだから、おあいこでしょう? もしかして、内心で苛立っていたりしていますか?」

「いいえ、そんな事無いわ。話したいように話すのが自然というものよ」

「そう言ってもらえるとありがたい。さぁ、父上、彼女の質問に答えてあげてください。別に僕の言葉使いがどうだという話を聞きに来たわけじゃないのだから」

 快活に笑うランスを見ながら、コンサルは少々不服そうだった。

 しかしその瞳は飽くまで優しげである。

 父親が子供を見る目とは必ずこういったものなのだろうか。

「それで、私にご質問とは何でございましょう? 私に答えられる事があれば良いのですが」

「私は父の事をほとんど知らないの。それで、貴方ならフレスベルクの家について何かを知っているだろうからと、ランスが」

 コンサルは少々難しい表情をした。

 顎に蓄えた髭を何度かゆっくりと撫でる。

「残念ですが、ディード様のお父様について何かを知っている、というわけではありません。確かに息子にはフレスベルク家といえば大変な身分の方だと言いましたが、私もそういった噂を、それも百年以上も前の話を聞いたに過ぎません」

「百年以上も前となれば、ディードのお父上ではないですね。直系の方としても、お祖父様か、またその上か、更に上か」

「それに結局は噂で、当然私自身が見ていたわけでもありませんから、お嬢様のご希望に副う答えが出来るとはとても、とても」

 私は内心でがっかりしていた。

 もちろん夜魔である以上、その感情をあからさまに表すことはしないが、嘘を吐いて微笑むほど上機嫌でもない。

 それでも私は無表情のまま考え、どうせなら聞いても損は無いだろうという考えに至る。

「良いわ。それを話して」

 コンサルは大きく息を吸い、一呼吸おいて気持ちを落ち着けてから話し始めた。

 それはここではないずっと遠い街での話だった。

 その遠い街、つまり異国の概念が私にはやや理解しがたかったが、その意味を詳細に聞く事に意味は無く、私は父について知る事を優先した。

「そこは国都で御座いまして、フレスベルク卿は何事かによって王の城へ招かれたので御座います。驚愕すべきはこの時の事でして、噂になるのも当然の事が起こりました」

「父上、勿体つけずに早く仰って下さい」

「その城中に居た全ての者がフレスベルク卿に跪いたのです。無論、国王までもが。フレスベルク卿を家臣に加えようとしたのか、中には国王の座を譲ろうとしたのではという噂も御座いますが、その理由は分かりません。ただ事実だと言われているのは、そのフレスベルク卿が一国の王さえも跪かせるほどの大人物であったという事です」

「そ、それは、全然おあいこなんて言っている場合じゃなかったな」

 コンサルの話を聞いてたじろぐランスの様子が可笑しかった。

 私が微笑むと、彼も照れ笑い、釣られてコンサルも苦笑する。

「それで、貴方が知っている事は全部?」

「大した事も知らず、申し訳ない」

「良いわ。何も無いよりはずっと」

 その時、誰かがその屋敷の中へ入ってきて、何か大きな声で話しながらこちらへやってくる音がした。

「お父様、お父様。この前話して下さった、フレ何とかのお姫様が来てるって本当? 見せて、見せて、私にも見せてくださいまし」

 ころころと転がるような声が屋敷中に響き、それを聞いてコンサルはまた眉を顰めて呆れたように首を振る。

 その騒がしさが最高潮となったところで飛び込んできたのは一人の少女だった。

「あら、お兄様もお帰りでしたのね。お父様、こちらがそのお姫様?」

 緩いカールのかかった豊かな金髪が魅力的だが、同じ年頃の少女の中では比較的大柄で、私よりも頭一つ分、恐らくキリカと同じくらいの背丈だろうか。

 目鼻立ちは凛々としていて、コンサルやランスと良く似ている。

 その少女が父や兄を押し退けながら私の前に立った。

「お会い出来て光栄です。コンサルの娘、ハナで御座います。この度、お近づきになれたのも何かのご縁。今後も親しくお付き合いさせていただければ我が家にとって何よりの幸福で御座います」

 その騒々しさから一変、声を改め、姿勢を改め、その仕種は小麦が風に揺れるごとく優雅であった。

 しかしその本質はそう容易くは変わらないものである。一通りの動作を終えた後にもそれが継続されるわけではない。

「お兄様、お兄様、ご覧下さいまし。小さいですわ。ハナの肩までしかありません。その上、この可愛らしいお顔をご覧下さい。神の奇跡か天使のご降臨に違いありませんわ。それに手なんて、こんな。あら、傍に来て気付きましたけど、とても良い香りが致しますわ。スミレか何かみたいな。さすがはお姫様ですわね。同じ年頃だというのに、こんなに私と違うのはなぜで御座いましょうね?家柄が違えばこんなにも美しい方が生まれるのですね。私、本当に驚きましたわ」

 彼女は一人で騒ぎながら、次々と私の肩や手、髪に触れていく。

 その様は何とも無邪気という以外に無く、身の危険など感じようも無い。

 私は警戒を解いて、なすがままに流されていた。

「おい、ハナ。お嬢様に失礼だろう。それに、何だ、お姫様というのは? かえって無礼ではないか」

 コンサルが渋い表情でハナを叱りつけた。

 彼女は私を掴む手をやや引き、それでも未練を残して少々反抗する。

「でも、王様よりも偉い家柄だと仰ったのはお父様ですわ。そこのお嬢様なら、お姫様ではありませんか」

「いや、確かに、そのようには言ったが。しかしそう気安く触れて良いようなお方では」

 コンサルは少々ばつが悪そうに顔を顰める。

 それを良い事にハナは主導権を取り戻し、また私に向き直って手を握った。

「お姫様と呼ばれるのはお嫌いですか? 私は是非ともそうお呼びしたいのですが」

 もともと私は呼び方にさほど執着しない性質であるので、面倒に過ぎる呼び名でなければ断るわけも無い。

「貴方がそうしたいのなら、どう呼んでくれても構わないわ」

 そのハナという女性は何とも快活な少女であった。

 ランスにも言える事だが、彼らには溢れ出るような輝きがあった。

 生命力と言えば簡単だが、それだけに留まらない力強さがある。

 彼らは容易く笑い、また無駄な言葉でも惜しまず発した。

 私の教わってきた夜魔とはまるで対極に居る事を感じていたが、それに醜さや浅ましさは感じなかった。

 夜魔としての精神的な美しさ、高潔さを感じるわけではない。

 だが彼らのそれも確かに、輝きを放つ煌きだと思えたのである。


 ランスの屋敷を出た頃にはもう夕暮れであった。

 通りに立つとウルが密かに傍へ寄る。

「コンサルという者の話していた事、あれはご主人様の事で御座います」

 ウルは私の心を察したのか、私が聞きもしないうちに話し始めた。

 純血種の夜魔とは物質や鳥獣が年経て生まれるものであるから、あるいは人間などよりも非常に長命なのではないかと考えていたのである。

 幸いな事にその予想は正しかったようだ。

「その国は、西の小国。今ではもう無い上、私もその名までは存じませんが、そこへご主人様が訪れたのは、百年どころか三百年以上も前の事です」

「人はその王が跪いたのは父の身分が高いからだと結論付けたようだけれど、その実際は何だったの?」

「ご主人様の格がその場の誰よりも遥かに高かったのは事実で御座います。本来、そういった感覚には鈍い人間達でさえも、ご主人様の威風を知り、若い者は怯えて座り込み、老いた者は生を諦めて膝を屈し、女はその抗いがたい魅力に平伏しました。ご主人様はその者らのあまりに憐れな様子にお心を痛め、誰に牙を向けるわけでもなく立ち去ったので御座います」

 姿を見るだけで跪く、か。

 それに比べて今日の私は、ハナに何とも容易く触れられている。

 私と父の差は想像も出来ないほどに大きいと感じる。

 もしも父と同じ高さまで上り詰める事が私の完成なのだとしたら、その道程は果たしてどれほどの長さだろうか。

「私はそれほど格の高い夜魔になれるかしら?」

 ふと口をつく不安。

 ウルは微笑んだ。

「えぇ。時間はかかるかもしれませんが、いずれ必ず。それまで私は、たとえ何千年であろうとお供いたしますよ」

 ウルは必要な事以外には全く動かない。言葉も、表情も。

 だからこそ私は、その微笑、その言葉が信じるに足るものだと思うのである。

「ありがとう、ウル」

 私は彼の語る父の事を聞きながら、自分の屋敷へ向かう道を歩いていた。

 そこでふとウルが言葉を切り、問う。

「ところでお嬢様、お出かけになるときには、お食事に、と仰いませんでしたか?」

 そう言われてみれば、確かにそのように言って屋敷を飛び出した。

 しかし実際は、人間から父の話を聞きたかっただけで、空腹感は全くない。むしろ、今血を吸ってくれと懇願されても、恐らくは断るだろう。

 一人の血を吸うと、それが私の体内に行き渡り、完全に馴染んでしまうまでは新しい血を入れる気にならないのである。

「どうしても人々に父の話を聞きたかったものだから。街に出たかったのよ。だから、あれは嘘だったの。怒ってる?」

 ウルは眉間に極小さな皺を作る。

 だがその声は穏やかだった。

「怒ったりはしません。ただ嘘はあまり好ましい事ではありませんので、今後は控えていただきたい。あちらへ出たいのであれば、そう仰って下さい。もはや止めはしませんから」

 まだ早い。

 そう言って止められたのはいつの話か。

 私は彼に認められゆく自分を嬉しく思っていた。


 屋敷へ着くと私はすぐにロザリアを探した。

 ウルから父に関するある程度の事は聞いたが、それは父がどこでどんな夜魔を屈服させたとか、そういった英雄譚で、もちろん私はそれを嬉々として聞いたが、一方で他の話も欲したのである。

 ロザリアならば、父の伴侶と言うだけのものを話してくれるのでは、と思ったのだ。

 彼女はバルコニーに立ち、ただじっと北の空を眺めていた。

「ロザリア、話がしたいのだけれど、良い?」

「悪いと言っても、貴方は諦めないでしょう?それで、何の用?」

 彼女はそこにある椅子へゆっくりと腰掛けた。

「ところで、ロザリアが私の母親なの?」

 一瞬で彼女の眉間にびっしりと皺が走る。

「何を唐突に馬鹿な事を」

「でも、今日人間と話していて聞いたわ。父の伴侶は、つまり私の母なんだって」

 彼女は全く呆れた様子で溜息を吐く。

「わざわざ人間の関係に当てはめて考える必要はないでしょう? 貴方にはあの方の血が流れているから、それは父娘と呼ぶとしても、私は貴方の誕生に何ら関わりが無いのよ。お願いだから母親だなんて気味の悪い事を言わないでちょうだい」

 彼女はそう呼ばれた事が酷く気に入らないようだった。

 確かに言われてみれば、彼女に理がある。

 ロザリアはやはり父の伴侶であって、それ以外ではなかった。

「早く本題を話して。こんな下らない前置きはむしろ要らなかったわ」

「父の話をして」

「なぜ私が? そんな事なら、ウルに聞けば良いでしょう?」

「以前、私が取り乱したときに、聞かせてくれようとした話。ロザリアだけが知っている父の事よ。事実を語るウルの知識じゃない。貴方の瞳が見ていた父を教えて」

 彼女は大きく溜息を吐いた。

 面倒だと思っているのかもしれないが、私の目には話す事を躊躇っている様にも見えた。

 ならば、もう一押しで聞けそうだ。

「それじゃあ、私がロザリアの正体を言い当てたら話してくれる?」

「私よりずっと格が低いのに? 勘で当てるつもりなの?」

「きっと当たるわよ。だって父の話を聞きたいもの」

 彼女は苦笑した。

 彼女の笑みにはなぜか単純な明るさというものが無い。常にそれは、悲哀か、自嘲か、暗澹を孕んでいた。

 私はそれを少し、寂しく思うのである。

「貴方は本当に遊びが好きね。良いわ。貴方が言い当てたなら、話してあげても」

 私はもう一押しを押し切った事を楽しみ、不敵に笑ってみせる。

「薔薇よ。ロザリアは薔薇。鋭い棘が痛々しい野薔薇」

 私には見えていたのだ。

 彼女は当たるはずもないと高を括っていたのだろう。一瞬驚きに目を見開き、次には誰かに教えてもらったのではないかと訝しむ。

「分かるはずが無いわ。私にはまだ貴方の本質である人の屍がはっきりと見えているのよ。それくらい貴方と私にはまだまだ大きな差があるのに」

「私にも見えているもの。きっと父の血のせい。私自身の階級を超えて、父の血が私に要素を感じさせているのね。もちろん、貴方を前にすれば悉く要素が貴方の方に傾いているのを嫌味なほどに感じるけれど」

「勘で言い当てるのでは無かったの? あの方の血のおかげか何かは知らないけれど、最初から見えていたなんて、反則ではないの?」

「私は勘で言い当てるなんて、全然言ってないわ」

 彼女は呆れて首を振り、肩を竦めると少し笑った。

 彼女も結構、遊びは好きなのである。

 それに腹を立てて頑なに口を閉じるような性質はなかった。

「良いわ。それなら、あの方が生まれた時の話をしてあげる。それで良い?」

「えぇ。是非」

 彼女は椅子に深く腰かけ直すと、その肘掛に身体を預け、そしてぽつりぽつりと話し始めた。

「あの方が生まれたのは、そう遠くない、ここからでも見えているあの森の中よ。

 貴方に私の本質を見抜かれたから話すのだけど、私もその森に居たわ。

 あの方と私は一緒に生まれた。敢えて言えば、私が生まれ、そのすぐ後にあの方が。

 夜魔として生まれる前の私は、その森に生えた野薔薇だった。

 毎日、茂みだった私の中を獣が通り、時には人間も足を踏み入れていた。兎や鼠は良いのだけれど、それを追う狐や狼や、もちろん人間も私の棘で身を傷つけていった。

 すると当然、血が滲んで、葉を伝い、茎を伝い、土に染み込んだの。

 血は生命の根源だって事はもう憶えたでしょう?

 血の染みた土で私は育ち、更に大きく、より鋭い棘を持って、また獣達の血を奪った。

 そうしていつしか、私はその生命に満ちた土の上で夜魔としての自我に目覚めたのよ。

 それから私は自分の根を下ろしている場所、つまり自分の居場所を守るため、頑なに棘を振り回し続けた。

 私はきっと、その力ある大地から離れては生きていけないと、恐れていたのね。

 そうしてまた多くの者が血を流した。

 気が付くとその血を吸い続けた大地も、自我を持っていた。

 それがあの方、貴方の父親よ。

 もしも、人間のような関係を当てはめるなら、

 私が奪った血であの方が生まれたのだから、私はあの方の母なのかもしれない。

 土であったあの方の力を吸って生まれたのだから、私も娘なのかもしれない。

 共に育って生まれたと言うのなら、あるいは姉弟なのかもしれない。

 ただ私は、生まれたばかりでまだ何の力も無い、今にも消え入りそうなほど格の低いあの方を守って生きた。

 なぜなら、あの方は私にとって、たとえ夜魔に生まれ変わろうとも、根を下ろした場所だったからよ。

 私は、あの方を守らなければ生きてはいけない。

 あの方も、私に守られなければ生きてはいけない。

 互いが居なければ生きていけないのなら、それは伴侶なのだと。

 あの方はそう言ってくれた。

 私はあの方が生きるために多くの血を奪い、それを口にしてあの方は少しずつ成長していった。


 そして気がついたら、あの方は遥か高みに居られたのよ。

 もう、私が守る必要も無いほど高くに」

 ロザリアは微笑んでいた。

 それが自嘲なのだと分かる事は辛かった。

「ここから先は、貴方がウルに聞いた通りだと思うわ。今にして思えば、ほんの一瞬の話よ」

 彼女は静かに立ち上がった。

 そのまま屋敷の中の暗闇へと身体を消そうとする彼女を私は呼び止める。

「私は、貴方のために何が出来る?」

 なぜそんな事を言ったかは分からないが、ただ彼女の中にある大きな穴を埋めてあげたかった。

「何? 私の血を吸うつもり?」

 私はロザリアのそんな皮肉を嫌いではない。

 それが彼女の強さの証だからだ。

 私はただ黙って彼女の答えを待つ。

 彼女が何も言わずに去ったなら、何もするな、という彼女の望みを私は叶えてあげたい。

「早く美しくなりなさい。そうしてあの方の傍へ行くか、それとも手を離れてどこかへ去るかは貴方の自由だけど、早く私の前から消えて欲しいわ」

 その言葉の意味に反して、口調は意外なほど柔らかい。

「分かったわ。貴方を早く私から解放する」

 彼女は静かに、そして極微かに、微笑んだ。

 私にその意味を察す事は出来なかった。


「黒翅公ならば、あちらの屋敷に居られますが、私がお呼び致しましょうか?」

 ロザリアと話した後、私はまだ父の事を知りたがっていた。

「黒翅公って?」

「ラバン様を探しておられたのでしょう?」

「ラバンの事? 名前が幾つもあると本当に面倒ね」

「それで、ラバン様を探していたのでは?」

「えぇ、彼を探しているの。でも呼ばなくて良いわ。ウルには彼を呼び出すだけの権限があるかもしれないけれど、彼はそういうものを行使されるのをとても嫌っているようだから」

「では、お嬢様が出向かれますか。今は彼の方が格上なので、それも宜しいでしょう」

 ウルは窓の外に見える父の城を指差した。

 その指の先は遥か天を示していて、その尖塔の先は雲を掠めようとしている。

「あちらの屋敷はどんな様子なのかしらね? 前から少し興味はあったのよ」

 それは父が己の居城とし、闇立ち込めるまで座した椅子だ。

 ウルの語る栄華と繁栄の象徴がそこにはあるような気がした。

 私は期待に胸膨らまし、思わず笑みを作る。

「いえ、扉はご主人様によって封じられておりますので、中へ入る事は出来ません。外部を昇っていく事になりますが、それでも行かれますか?」

 ウルの口振りでは、ラバンも後々は私よりも下になるのだから、わざわざ出向かずに呼び出してしまえという様子である。

 しかし私は、内部が見られない事は確かに残念ではあるが、それをよじ登るのもむしろ面白そうだと感じた。

「行くわ」

 血を吸うほどに不自由だった身体から解き放たれ、要素の働きを強く感じるようになる。

 私は身体を動かす事が嫌いではなかった。

 私とウルはその城の足元まで行った。

 それを見上げると覆い被さる様な威圧感に襲われる。

 ラバンはその先まで一息に跳んでいるのだから、風の要素を使役する彼の感覚の鋭さに私はようやくながらに気付き舌を巻く。

 私は一足でどこまで届くだろうか。

 私に協力し得る全ての要素を動員して私は跳び上がった。

 土が私の足を押し上げ、更に風が巻き上げるように吹く。木々や草が少しでも風を強めようとざわめいた。

 しかし所詮は生まれたての夜魔である。

 屋根を四つ分ほど跳べば精一杯であった。

 その屋根の傾斜は鋭く、また屋敷には父の匂いが染み付いていて、しがみ付く私を異物と捉えているのか、あまり優しくない。

 私は滑り落ちない内に昇りきってしまおうと、すぐに次の一歩を踏み出し、そうして次々と屋根から屋根へ移動した。

 それにしてもこの城の構造は何とも複雑である。

 ちょうど木の枝ぶりのように、進んでは分かれ、伸びてはまた分かれている。

 私は下方から聞こえるウルの先導に従って黙々と昇り続けた。

 ようやく塔の先端が幾つか見え始め、その一つにラバンが居るのが見えた。

「何をしに来た」

「父の話を聞きに」

 屋根の急な坂に虫のようにへばり付きながら私は答える。

 そしてまた一つ跳んだ。

「俺は雫奪の妃ほど奴と長い付き合いがあるわけでもない。お前が聞きたがっているような話は無いな」

 また一つ跳ぶ。

 勾配は徐々にきつくなり、危うく転びそうになるところを、間一髪踏みとどまる。

「落ちる前に諦めて戻れ。ここまで来ても、もてなす話は出てこないぞ」

 ラバンにとっては過ごし慣れた坂に奮闘する私を見て、彼はさも可笑しそうにする。

 そこまで辿り着ければ話を聞かせてくれ、と賭けを持ち掛けたいが、生憎にも私は口を開く余裕さえない。

 だが、あと一歩。それで彼の屋根へ足が届くと思ったその一歩。

 最後の一歩だったのだが、私は体勢を崩した。

 上体がぐらりと大きく揺れ、左足の爪先だけを残して、他は中空に浮く。

 かろうじて風の要素が私を押し戻そうと懸命に働いているが、僅かに力及ばない。

「落ちるのか?」

「そうみたい」

 私としては強気に振舞うだけで精一杯である。

 ここで取り乱しては、吹き上げる風も容易く途切れてしまう。

「この高さから落ちると、お前は死ぬのか?」

 しかしラバンは何とも冷静、むしろ無関心な様子で私の無様に堪える姿を見物していた。

「試した事がないから知らないけど。たぶん、そうだと思う」

 そしてもう限界である。

 傾き過ぎた上体が遂に左足を釣り上げ、私は完全に落下体勢に突入した。

 かなりの高さである。

 地面に激突すればほぼ間違いなく無事では済まないだろう。

 だが一方でその高さの分、考える時間はやや長く用意されている。

 地面に柔らかくなるように命じる事はどうだろうか、と私は考えていた。

「全く、世話が焼ける」

 その呟きが吐き捨てられるのと同時に、ぬうと腕が伸びてきて、私のドレスの腹部辺りを掴んで引き戻した。

 屋根の上へ叩き付けられるように倒れ込んだ私は慌てて掴まる物を探してしがみ付く。

「命を危険に曝すな。俺が守らねばならんのだから」

 ラバンはほとほと呆れ果てたように言った。

 その鋭利な塔の先頭に立ち、漆黒の髪が強風に吹かれて激しく揺れている。

 私が身体を貼り付けているその場所からはなぜか生臭い臭いがした。

「何、これ? 変な臭いがするわ」

 風に吹かれてだんだんと臭いはどこかへ流れ去っていくが、その錆びが饐えた様な感じはあまり心地良くない。

「ついさっき、お前を狙ってきた奴の返り血だ。ここで風に吹かれていれば、その内臭いは消える」

 彼の衣服はあまりにも黒く、返り血など見えない。

 だが確かにその臭いは血に似ていた。

 私は鼻を屋根から遠ざけ、座り直す。

 周囲を見渡すと、人々の町がとても小さく見え、遥か彼方の森や池、大地が見える。

 街の傍を流れる河はどこまでも長く伸び、その先には葡萄の房の様に街が幾つもあった。

 足元には私の小さな、小さな屋敷も見える。

「私の屋敷はあんなに小さかったのね」

「純血種二人と被造者二人、どっちつかずの小娘が一人、それで過ごすなら、あの程度だろう? もっとも、純血種が互いの自由を束縛せずに過ごす時、広すぎる屋敷なんてこの世には存在しないがね」

 彼の自由を束縛しているのは私だ。

 だから彼はいつもここに居て、屋敷へは入らないのか。

「見て、屋敷の裏に私がキリカに捨てさせたゴミが集めてあるわ。私はあんなにも沢山の無駄を捨て去って生まれたのね。感慨深いわ」

 下方を指差しながら笑う私に、ラバンは渾身の溜息を聞かせる。

「そんな事を言うために来たわけじゃないんだろう?」

「えぇ、父の」

「話す気は無いと言ったはずだ」

「じゃあ、貴方の正体を」

「雫奪の妃と同じ手に乗ると思っているのか?」

「見てたの?」

「常に守るって事は、常に監視しているって事だ」

 彼はその真っ赤な目をぎらりと光らせ、口の端を釣り上げて笑う。

「それなら、貴方が話してくれたら、代わりに私が貴方の願いを叶えてあげるわ」

「はっはっ、笑える話だ。例えば何を叶えてくれるというんだ? 俺に遠く及ばないお前が」

「何でも良いわ。私に出来る事なら、何でも」

 彼は押し殺した笑いを堪えきれずになり、弾けたように声を上げた。

 響く場所のないここでは、声は天空に吸い込まれ、尚更に追ってくる静寂が私を嘲る。

「何でもか。だがお前に出来る事は俺にも出来る。わざわざお嬢様のお手を煩わせる必要も御座いません」

 彼は恭しく頭を下げ、明らかに私を皮肉っている。

 だが彼の言うことはもっともだった。

 彼が浅はかな私に苛立ったとしても、私は彼に大人しく殺されてあげる事も出来ない。

 仮に、私がウルの期待を裏切って自分の命を投げ出し、彼の凶爪を受けるべく大人しくしていたとしてもだ。

「そうね。父の言葉に縛られている貴方に、これ以上何かを強いる事は酷だったわ。私の考えが浅薄だった」

「殊勝だな。必死な様は笑えるが、浅薄だとは思わない。自分を軽んじるな」

 風向きが激しく二度三度と変わり、私は振り落とされまいと屋根の僅かな凹凸にしがみ付く。

 風に視界を奪われ、私は目を閉じて必死に体勢の維持を試みた。

 恐らくそれも命令のためだろうが、目を開けば、ラバンが私の肩を押さえ、過ぎ行く暴風の中勇壮に立っていた。

「だが、今回だけだ。今回だけ、お前のその心意気に応じてやろう。ここまで昇ってきた褒美と思えば割りの良い報酬だろう?」

 彼は悪戯っぽく微笑み、話し始めた。

 その間も、私が振り落とされないようにしっかりと肩を握りながら。

「では、俺も雫奪の妃を真似て、初めて奴と会った時の事を話そうか。

 今から数えれば、二百年、いや三百年前か?

 とにかく、近くは無いが遠くも無い頃の話だ。

 理由は知らんが、奴には他の夜魔を狩り歩く習性がある。

 恐らくは今、奴が居ないのもそういう事だろう。俺に興味のある話じゃないので詳しくは知らん。

 純血種の多くは他者を支配したいという感覚を持っている。

 それは己に強い不屈の精神があるからだ。

 他者に屈服しないためには、他者を服従させれば良い。

 その感情の心底には恐らく、そういうものがある。

 奴はそういう感情が恐ろしく強い。

 夜魔を見ると屈服させずにはいられない男だ。

 まぁ、これは俺の私見だが。

 そういうわけで奴がたまたま俺の傍を通りかかった。

 互いに何の恨みがあるわけでもない。

 見て見ぬ振りをして背を向ければ、互いに通り過ぎるだけよ。

 だが俺も奴も背を向ける事は出来なかった。

 それが夜魔ってものだ。

 後はただ争うのみ。

 賭けるのは、互いに己の支配権で、

 そして結局、俺がそれを奪われた。

 以来、この身体は奴の物よ」

 ラバンは自虐的に微笑む。

「その時、ラバンが勝っていれば、ラバンが父を使役していたのね」

「いや、恐らくはすぐに消滅させただろうな。屈服させた夜魔をいつまでも飼うなんて妙な癖を持っているのは奴だけだ」

「どうして? ラバンのように優秀で忠実な者が居れば、とても役に立つわ」

「たとえば娘の子守をさせたりか? だがその忠実というのが難しい。本来、この世で最も屈し難い生物である夜魔を平伏させ続けるなど、どれだけの力を必要とするのか見当もつかない。奴だけの恐るべき所業だな」

 ラバンは父との力量の差を痛感している。

 しかしそれでもまだ彼自身の自由を奪い返そうというのか。

 それが、砂漠に埋められた一つの塩粒を掘り当てるよりも困難だということはラバン自身も良く理解しているだろうに。

 それでも、いつ訪れるか知れない、あるいは来るはずもない、その一瞬の機会を虎視眈々と狙うのか。

 それまで何百年続くか知れない屈辱に耐えながら、彼はそれを待つのか。

「さぁ、俺の話は終わりだ。そんなに俺を見ても、もう何も出んぞ。これはここまで昇った褒美と言ったろう? これでも払い過ぎたくらいだ」

 彼の心中を察しようとすると、私はその重圧に眩暈さえ覚える。

 それでもそうやって容易く微笑むとは、何と高潔な精神だろう。それほど強靭でなければその重圧の前に容易く折れてしまう。

 しかしその心さえ容易く捕らえてしまうとは、父はどれほど格の高い夜魔なのだろうか。

「私が父に頼んで、貴方の支配を貴方に返してもらうのはどう?」

 確かな約束は出来ないが、もしも彼がそれを望むなら、それは彼に出来なくても私には出来る事。

 だが彼はそれを喜ばなかった。

「やめてくれ。父親に奪われ、その娘にお情けで返されたんじゃあ、良い笑いものだ。恥の上塗りは御免だな」

 彼の支配権は彼一人のものだ。

 一人でそれを奪い返し、一人でそれを守る。

 そう彼が望んでいるのなら、私に出来る事はもう何も無い。

「俺が下まで連れて行ってやる。お前が危うく下りていくのをはらはら見ているのは馬鹿らしいからな」

 転落しないように掴んでいた腕をそのまま彼は引き上げ、まるで本でも持つように私を小脇に抱えると、一瞬の猶予も無く宙へ跳んだ。

 彼の周囲を風が吹き荒び、私達を運んでいく。

 確かにそれは落下していたのだが、むしろ舞い上がっていくようにさえ感じられた。

 大地に着いた衝撃はあったが、それは着地の衝撃と言うよりも、その後にラバンが私を捨てるように手を離したからだ。

 私が土埃を払いながら立ち上がると、もうラバンはまた遥か空へ飛び去る途中だった。

 下降はなかなか心地良かったが、昇るときはどんな感触なのだろうかと、ふと考える。

 面白そうなのでもう一往復してくれとは、怖くてとても言いだせない。


 翌朝、珍しくもロザリアが私の部屋を訪れた。

 そしてただ私に父の話を聞きたいかと尋ね、私がそれに頷けば彼女は黙って去り、入れ代わりでウルが入ってきた。

「研練の妃様がお嬢様を森へお連れせよと。ご主人様の事を知る方がそこに居られるそうです。お望みであれば、ご案内いたします」

 私は嬉々として立ち上がった。

 今日はラバンとの辛い剣術の稽古もせず、ウルと森へ散策に行ける。その上、相手は誰か分からないが、父の話まで聞けるというのだから出来過ぎた筋書きである。

「キリカ、服を取ってきて。ズボンよ、ズボン。それからつばの長い帽子と丈夫な靴も」

 私は大声でキリカを呼び、自分はすぐさま今のドレスを脱ぎ去った。

 キリカはすぐに現れ、私の着替えを手伝った。

 キリカに持ってこさせた衣装はどれも以前、街で玉石と交換してきたものである。

 特にこのズボンに始まる一連の揃えは私が自分で見立てたもので、ウルの様子を真似て集めたものだ。

 だからこそ今まで着る機会が無くて困っていたのだが、森の散策ならばうってつけではないか。

「どう、ウル?」

 男装した私を見てウルは呆れ果てたように眉間に皺を作る。

「どう、と言われましても。それはお嬢様ご自身の趣向ですので、悪いとは申し上げませんが。しかし、本当に貴方は他の夜魔からは予想しがたい」

 苦笑しながらも彼は私に着替えよとは命じない。

 彼が止めないのであれば、これは許される範囲なのである。

 念には念を押して、身だしなみならばロザリアにも聞いておくべきだろう。

 私は廊下に飛び出し、急ぎ彼女の部屋へ向かった。

 私はまだ帽子と剣を身に着けていないので、それらを持ってキリカが私の後をついてくる。

「どう?」

「どうも何も、私が貴方の前に呼び出されないのなら問題は無いって事でしょう? わざわざ見せに来ないでちょうだい。さぁさぁ、舞い上がっていないで、さっさと出発なさい」

 ロザリアは頭痛をほぐす様にこめかみを指で押しながら、長い長い溜息を吐いた。

 あっちへ行ってくれとばかりに彼女が手を振ると、私の目の前で部屋の扉がひとりでに閉まった。

 私が振り返ると、キリカが手に帽子と剣を持ち、いつもの無感動な調子で立っている。

 それを受け取り、礼を言うと、彼女はまたいつものように微笑を返すのである。

「じゃあ、行ってくるわ。部屋に脱ぎっ放した衣装は仕舞っておいて」

 屋敷の入り口で見送るキリカに手を振ると、彼女も手を振る。もちろんこれも私が教えた。

 私はウルに先導され、森の奥へと分け入った。

 屋敷から離れるほどに闇は薄くなっていくが、やはり覆うように伸びた枝のせいで中は薄暗い。

 足元に鬱蒼と草が生い茂る中、それでも微かな獣道を選びながら私達は進んだ。

 獣達が遠巻きから警戒するように私達を眺めている。

 彼らには私達がこの世で最も高位の生物である事が分かっているのであろう。

 怯えてはいないが、迂闊に近付く事は決してなかった。

 そうしてどれほど歩いただろうか。

 枝間から差し込む光が丁度真上から降りるようになった頃、私達は一つの小さな家に辿り着いた。

 小屋のようだとは言っても、人間の作ったそれのように如実な形があるわけではない。

 木々達が互いに身を寄せ合い、枝を絡め合い、そのように見えるという、一種独特の気配を持っていた。

 小屋の周囲にはやはり濃い闇の霧が立ち込めている。

 それはそこによほど格の高い夜魔がいる証だ。

 それに警戒したラバンがすぐさま私達の傍へ現れ、私の前に歩み出る。

 私はラバンの背後に隠されるようにして小屋の中へ足を踏み入れた。

 その暗がりの奥から低く静かに呻く様な声が聞こえてくる。

「セィブルか? 珍しい。今更わしに何の用がある?」

 その声の主は小屋の中に座り込み、人間の老人に似た風貌を持ってはいるが、単に老いた者ではなく、磨り減った末の姿のようにも見える。

 悪臭と言うほか表しようも無い臭いがしていた。

「セィブルって誰の事? 私達の中にそんな名の者はいないわ。」

 その男がゆっくりと顔を上げ、こちらを見た。

 見たとは言ったが、その瞳に光は無く、もはや見えていないのは明らかである。

「違うのか? 確かに声は違うが、同じ匂いがするのはどういう事だ?」

 男はその細い枯れ木のような腕を伸ばして私を指差す。

 ウルが密かにその名が父のものである事を告げる。

 そうか。セィブルが父の名か。

 突然告げられる真実に私は感嘆する。

「同じ匂いがするのはきっと、私に流れる血が同じだからよ。私はセィブルの血を受けて生まれた、彼の娘」

 男は驚いたように私をじっと見、むろんそれは姿ではなく匂いか気配だが、そして納得したようにまた俯いた。

「貴方は誰? 私は父の話を聞きに来たの。貴方が父の事を知っていると聞いて」

「以前はサグリーユと呼ばれたが、もうその名で呼ばれなくなって久しい。今はただ朽ちゆく者と。わしに何を話して欲しい? 彼の事を、その娘に請われたとあれば話さねばなるまい」

 私は前へ進み出ようとした。

 しかしラバンはそれを遮り、飽くまで庇う姿勢を見せる。

「貴方から見た、父の姿を。父はどんな人なの?」

「難しい事を言う。彼の姿を最後に見たのがどれほど前だったのかも思い出せないというのに」

 彼は一つ大きく息を吐き、その澱んだ瞳で天を仰いだ。

「彼は慈悲深い。そう、とても慈悲深かった。

 周囲の者に余計な重圧を与える事を特別嫌っていた。

 それは人間や鳥獣、あるいは草木、岩や水に至るまで、全てに対して等しく厚い慈悲を持っていた。

 娘を名乗る者よ、お前も血を吸うのだね? 匂いで分かる。

 彼も人間の血を吸うが、己が満たされただけで容易く満足する男ではなかった。

 血を奪われた肉体がただ無意味に腐乱していく様を、彼には黙って見ている事が出来なかった。

 いや、実際にはただ黙って見ていた。眼を背ける事も出来ずに。

 朽ちていく様を、どういった心地で見ていたのかは分からないが、ただじっと。

 そうしてある時、彼に従う者の中から、その屍を食す者を選んだ。それがわしだった。

 お前の隣に居る者は、わしが彼の元を離れた後に選ばれた、後任か? 似た死臭がする。

 血を抜かれた身体を食すのがどれほど味気ないか、そこのお前には分かるだろう?

 血は生命の象徴。それを欠いた食事など、満たされるはずも無い。

 だが、彼の思惑は正しかった。

 わしはそれでも十分に生きる事が出来た。

 満たされる事は無いが、飢える事も無い。

 人間は死後朽ちる事が無くなり、彼はそれを見る苦悩から解き放たれた。

 全ては確かに円滑だった。


 だがある時、一人の人間の娘が、彼に言ったのだ。

 なぜ人ばかりを殺すのか、と。

 彼は生きるためだと答えた。

 しかし気丈な娘だった。怯えながらも尚まだ彼に食って掛かった。

 人間を殺さないで欲しい。人間は闇に生きる者達を殺さないではないか。自分を、殺める最後の人間にして欲しい。

 それが娘の主張であった。

 だが彼は言った。

 快楽のために殺すのではない。生きるために殺さねばならない。人間も生きるために獣や草木を殺す。人間がそうであるように、他を生かすために己を死なす事は、我らにとっても難しい。

 更に彼は言う。

 お前は、鳥獣に請われれば、それを殺める事をやめ、飢える事も厭わないのか?

 その娘とて、まだ生まれて数年程度ではあるが、それでも少なくは無い数の命を食してきた事を自覚していた。

 わしの目に娘は窮したように見えたが、それでもしばらくしてまだ抵抗を続けた。

 自分は今後一切の生命を殺めないから、わしらにも人間を殺めない事を誓え、と娘は言った。

 彼は彼女を試す事に決めた。


 人間の生命は脆い。

 娘は見る間に痩せ細り、しかしそれでも娘は己の言葉通りに何も口にはしなかった。

 それを彼はただじっと見ていた。

 目を向けるにはあまりに酷い惨状だというのに。

 時折、人間の食事を作らせては彼女の前に置いた。

 それは彼女を不憫に思っての事か。あるいはその信念を試みていたのか。

 だが娘はただそれを狂気の目で見つめるだけで、信念は惨いほど頑なに貫いた。

 そしてもはや娘が己の力で瞬き一つ出来なくなった時、彼は娘に近付いて言った。

 全ての人間がお前と同じ程に強いのであれば、我らも飢えて尚良しと思おう。

 しかし、多くの人間達がそうではないように、私もそうではない。

 私は生きたい。

 ゆえに人間を殺さないとは誓えない。

 だからお前も生きよ。

 他者のために命を捨てる心は強い。

 だが実行に移すほどの強さはむしろ危うい。

 そう言って彼は娘の口に一摘まみの肉を押し込んだ。

 娘はその身に残った最後の力を振り絞ってそれを吐き出したかと思うと、そこで事切れた。


 彼は娘の亡骸を抱き寄せ、その首筋に牙を立てた。

 その干乾びたような身体から何滴の血が吸えるというのか。

 その半ば腐りかけた醜い身体から得られる力はむしろ彼に悪い影響をもたらすかもしれないのに。

 それでも彼は、己の前で無為に命が果てていくのを嫌ったのだろう。


 彼は慈悲深いが、そのためにどこまでも残酷になれた。

 残酷さもまた、慈悲と言えるのだろうか。


 わしにはそれほどの残酷さは無く、また慈悲も無かった。

 だから娘のその、血を奪われた後の身体をどうしても口にする事が出来なかった。

 わしも彼も不殺の誓いは立てず、その娘に対しては裏切りを行ったのだろうが、どちらが強く裏切ったのかと言えば、恐らくそれは彼女から目を背けたわしの方だろう。

 娘の名は何と言ったか、思い出せない。

 あの亡骸は、無意味に朽ち果てていったのだろうなぁ……」

 彼は昔を思い出しているのだろうか。

 その歪んだ眼球が細かに揺れる。

「それからわしは、屍を口にするたびに己の罪が重くなるような気がしていた。そしてついに耐え切れなくなり、彼の元を離れ、ここへ逃げ込んだのだよ」

「それ以来、人を食べていないの?」

「人間は滅多な事ではこんな森の深部まで来ない。初めは堪え切れずに獣を食いもしたが、次第に獣達もそれに気付いて近付く事は無くなった。わしはただ一人、ここで朽ちるのよ」

「それが貴方の感じている罪の、貴方なりの贖い方なのね?」

「安直で、しかも自分勝手ではあるが、そのつもりでいる。だが、いつこの贖罪が終わるのか、わしは不安でもある。屍とは言え、わしがこれまでに食した命の数は計り知れず、蓄えられた生命力はいつ尽きるのか。食を断ってからわしの格は落ち始め、身体は腐敗し、瞳の光も失った。それでもまだ昔奪った生命が一方でわしの腐敗を癒しもする。この苦痛がいつ終わるのかと、いつも考えてしまうのだよ」

 彼の言う通り、彼の格は緩やかに低下していっているが、その高さはまだ計り知れない。

 このまま低下を続けて、それが無に帰すのはどれほど先の事か。

「辛いのなら、私が終わらせてあげられるけど、どう? その苦痛に耐え続ける事が、貴方の贖罪だと思っているのは分かるけれど、その不安に苦しむ事もまた同時に贖罪だったと私は思う。貴方は十分に苦しんだのだと、私は言ってあげる事が出来る」

 私に彼を言霊によって消す事は出来ないが、彼がそれを望むのなら、この剣をもってその心臓を刺し貫く事は出来る。

 だが彼は軋む首を苦しそうに左右へ振った。

「お前は優しいな。お前にも彼と同じ慈愛と冷徹があるのかもしれん。だが、恥ずべき事に、わしはまだ、こんな姿に成り果ててもまだ、生きたいとどこかで思っているのだよ。死ぬのはやはり、恐ろしい」

 私は剣から手を引いた。

「貴方がそう言うのなら、きっとまだ贖罪は終わっていないのね。貴方に死の覚悟が出来た時、それが貴方が罪を贖い終えた時なのよ、きっと。その時、私の助けが必要なら、私の名を呼んで。私の名は、ディード」

「………。あぁ、ディード……。ディードか……。そうか。良い名を付けられたな」

「それじゃあ、今日は父の話をありがとう」

 彼は苦痛に顔を歪めながら私を見ていた。

 辛い事を思い出させたせいで、より一層強い苦痛が彼を襲っているのかもしれない。

 私達は、そっと彼の小屋を後にした。


次話更新8/10(金)予定
















作者ツイッター https://twitter.com/yuki_anno

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