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ヤミヨヒメ  作者: 二束
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ヤミヨヒメ  -オケイコビ-

 それから数日を置き、私はまた食事をした。

 その時、その食卓に同席したのは少女だったが、彼女の願いは天国に行きたいというものだった。

 私にその概念は分からず、それを叶えてやる術は無かった。

 しかし、彼女がそうして欲しいというので、彼女の生涯最後の数十分を、私も共に祈って過ごした。

 何に対して、何を祈るのか。

 私のその祈る姿は疑いようもなく、形骸であったが、彼女はそれでも納得していた。

 そして私は知る。

 そういう者の血は何とも美味だ。

 まさに味が美しいのである。

 身なりは問題ではない。心を麗で装っているかが重視された。

 そしてその血が身体中に行き渡り、私は満たされながら時を過ごした。

 刻一刻と身体が改変されていくのを、悦びに似た感覚で見つめる。

 視線の先にあるのは屋敷を取り巻き黒く揺れる木々だが、むろんそれはただ目を開いていたから見えていただけのものである。

 そしてその瞬間が来たとき、私はあまりの快楽に身を震わせ、悲鳴に似た咆哮を発す。

 気付いたとき私は仰向けに倒れていた。

 一度は私の声に波打った館が、次の一挙手一投足を静けさで見守っている。

 その静寂の中に居るのはウルだけではない、あのロザリアまでが伺っているのを感じる。

 私は自分自身に何が起きたのかすぐに気付いた。

 見るもの全てが異なるだけではない。肌に触れる空間の感触さえ、以前とは違う。

 私を構成する屍の感覚器を借りたものではない。

 精神があたかもその触手を伸ばしているかのように、直接に周囲を感じていた。

「ウル、ウル、来て。すぐに来て」

 私は部屋を飛び出し、館を飛び出し、その広い庭園で、大声で彼を呼んだ。

 すぐさまそこに彼の姿が現れる。

 興奮した私の様に憂慮の表情を作っていた。

「身体が、完成したわ。分かるのよ。もう身体の中がぴくりとも動かない。だって動かすべきものが無いのだもの。あぁ、安定した身体はこんなに静かだなんて。心臓の音も、骨同士の擦れ合う音も、肉の裂ける音もしない。身体に気を使う必要が無いのよ。私の神経の全てを外の事に使える」

 私はその興奮の勢いに乗ってウルに抱きついた。

 なぜなら、今の私にはウルの本質が薄っすらと見えており、その煙は何とも柔らかそうだと思ったからだ。

 だがウルはその私の腕を優しく解き、一歩退く。

 言葉では無いが、私の行為に警告が発せられたのだと分かった。

「これでもう私は、血を吸う必要が無いの? これ以上血を吸っても、身体は変化しないわよ」

「血は今後も必要とされるでしょう。身体が完成されたのはお喜び申し上げますが、飽くまでそれは器の完成です。今後もそれに血を注いでいただかねば」

「分かったわ。どう、ウル? 見た目に歪なところは無い? 背中を見て。自分では見えないの。綺麗に出来てる?」

「えぇ、それはもう。生まれたばかりの姿からは想像も出来ないほどに」

 私自身でさえ、あの這いずるミミズの集合体のような姿がこうなるとは予想もしていなかった。

 ウルに、必ず美しくなる、と言われていなければ、いとも容易く諦めていただろう。

「ウル、早く私を無防備でない夜魔にして。この身体であちらの世界を出歩きたいのよ。もう身体は完成したのだから良いでしょう?」

 ウルは僅かに考え込んだ。

 まだ早い。

 恐らくそう考えているのだろうが、迷うという事は、それを教える時期が近い事も示している。

 そして今ここで教えなくとも、本日中に私が待ちきれず、人間の世界へ出て行ってしまうであろう事をウルは推察している。

 それをまた父の名の下に制止するのは容易いだろうが、ウルはきっとそれを望んでいないだろう。

 拘束され、倒れ伏す私を最も見たくないのはウルなのであるから。

「分かりました。用意いたしますので、少々お待ちを」

 やはりウルは了承した。

 ウルは屋敷に戻り、私は庭に取り残される。

 木々を抜けて吹く風がとても涼しい。

 屋敷から出てきたウルが手にしていたものは、一振りの剣である。

 以前に見せられた黒鋼のナイフとは比較にならず、柄から切っ先までウルの腕とほぼ同じ程度かそれ以上の長さがあった。

「これで何を?」

 手渡された剣を鞘から抜き放てば、その刃は細く薄く、しかし鋭く美しかった。

 その白む刀身に私の顔が映りこむ。

 ウルがどこかへ向けて手招いた。

 すると忽ちつむじ風が舞い、私の視界を奪う。

 その突風の中を何かが風を切りながら迫り来る音が聞こえ、必死になって目を開くと、上空から舞い降りる者の姿があった。

「ラバンだ」

 風が緩み、その男が私に握手を求める。

 がっしりとした体躯を全身黒衣に包み、瞳だけが真に紅く、不思議な威圧感がある。

 その質にウルやキリカとは違うものを感じる。

 恐らく彼は、父やロザリアと同じく純血種と呼ばれる夜魔。

 私は初めて見るそのラバンという男に用心しながらも、その手を握った。

「貴方は、純血種ね。面倒な名前を持たないなんて、珍しい。貴方も父が私のために残していった人?」

「呼び名はあるが、お前はそれで呼ぶのは嫌なんだろう? お前と下らない言い合いをした挙句、結局ウルに命じられて名乗るのは癪だからな。」

 ラバンは口の端をぐいっと引き、不敵な笑みを浮かべる。

 彼の身長が非常に高い事もあるが、その力強い視線に私は圧倒されていた。

「何、ウル? ロザリアと行儀作法のお勉強した次は、彼と剣のお稽古?」

 唐突に右手が痛み、私は思わずラバンの手を振り解く。

「何?」

 私の手の甲には彼の指の後がくっきりと残っていた。

「華奢な上、まだ格も低いな。こんな虚弱な身体で純血種になれるつもりなのか? はっ、笑わせる。」

「お嬢様に対し失礼でございましょう。その上、手を握り潰そうとするなど、ご主人様の命に背くおつもりか?」

 ラバンに対しウルが激しく食って掛かる。

 私は痛みさえも振り解けはしまいかと、一層強く無闇やたらに手を振り回していた。

「背く? 俺はこいつの命を守れと言われただけだ。背くだ何だと騒ぐのは、殺してしまってからにしてくれ。」

「貴様、何を」

 ウルが自らの手を胸に差し入れると、その煙る懐から一振りの剣が姿を現す。

 しかしそれよりも速くラバンがウルの眼前へと手を伸ばすと、ウルの表情に恐怖が走り、刀身の半分ほどがまだウルの内にあるまま、彼は凍り付いてしまう。

「ウル、剣を仕舞って。ラバンもウルを傷つけないで。貴方が殺したいのは私なんでしょう? ウルにそれを向けるのは夜魔として恥ずべき行為なのではない?」

「言われれば、そうだな。じゃあ、お前を消す事にしよう」

 ラバンの手が滑り、その手のひらが私に向いた。

 緊張を解かれたウルが慌てて私とラバンの間に割り込む。

 だが私にはウルがそうなったような拘束が訪れなかった。

 私はウルを押し退け、差し出されたラバンの腕を渾身の力で引き下ろした。立ち塞がったは良いが、またウルが微動だに出来なくなったからである。

「心配しないで。彼に私は殺せないわ。私を脅しているだけ」

 ラバンがにいっと笑う。

「そうでしょう? 貴方は父の命令によって縛られている。だから貴方は私を殺せないし、私を最悪の危険からも救わなければいけない。つまり、貴方が傍に居れば、私は絶対に命を落とさないって事だわ。」

「それもそうだ。だが死ななければ俺はお前に何をしても良い。死の間際まで痛めつける事だって」

「それくらい構わないわ。命さえあれば、ぼろぼろになっても、また身体は作れるもの。」

 ラバンの不敵な笑みが苦笑に変わり、そして押し殺したかのように呻いたかと思うと、声を上げて笑い始めた。

 こんな表情をする夜魔を初めて見た私は、夜魔がこれほど大袈裟に笑っても良いものかと、ウルに目で問う。

 ウルの方は私の肩をしっかりと握り、まだ彼に対して警戒を解いていない。

「お前は父親が俺にした命令を信じているのか? 見た事も無い父親を?」

「えぇ、そうよ。貴方は最も、心から信頼できる護衛役だわ」

 ラバンは腕を引き戻し、肩を揺らして笑った。

 先ほどまで満ち満ちていた気迫は既に消え失せており、ようやくウルも肩の力を抜いた。

 鬼気迫る緊張はあまり心地良いものではなく、それが無くなるのは好ましい事だ。

 ウルが私の肩から手を離したのは、やや残念ではあるが。

「この俺が信頼出来るとは面白い事を言う小娘だ。それに、手を向けられても全くたじろがない。気の強さだけが取り柄か?」

 ウルが私とラバンを引き離し、緩んだ空気を引き締めようと一つ咳払いをする。

「お嬢様はたじろがなかったのではありません。まだ言霊について知らないのです。今の事は戯れと思う事に致しますが、あまり無闇な事はおやめ下さい。」

「何だ、知らないって? その気の強さはただの無鉄砲か。しかしウル、お前まさか俺にそれを教えろと言うのではあるまいな?」

「言霊とは何?」

「今この屋敷に居る者の中で、貴方様が最も腕が立ち、格も研練の妃様と並ぶほど高い。その上、お嬢様に致死の傷を負わす事を禁じられているのですから、それを教えるのに貴方様ほどの適任者は居りますまい」

「俺は奴を守るよう言われているだけだ。そんな命は受けていない」

「言霊は何なの?」

「ですが私には貴方様にそれを強制する権限がございます。無論、それを行使する事は本意でありません。どうか、お引き受けを」

「ねぇ、何なの?」

 ラバンが思慮のため沈黙し、ウルがそれを無言で見詰める。

 その沈黙さえも激しい駆け引きであったのだろう。私が何度問うても答えは返ってこなかった。

 そして結局はラバンが折れたのである。

 彼には余計な抵抗をしない性質があるようだった。

 私に名を告げたときもそうである。私が無理にでも本当の名を聞きたがる事を見越して、初めからそれを名乗った。

 父の名の下に依ってウルに命じられれば、彼はそれに従わなければいけないのである。

 余計な抵抗が無駄だと分かっていれば、それはしない。

 私の目にラバンは合理主義者として映った。

「言霊とは、夜魔の力の中で最も偉大なものです。言葉で説明しても恐らくは伝わらないでしょう。まずはその身に受けていただくのが早いかと」

「剣を構えろ。俺にお前は殺せんと言っても、五体を引き裂くくらいは出来るし、俺もそうしたい。だがそれではお前がその後に話を聞けなくなる。俺はとっととやって、さっさと話して、すぐに終わらせたいんだ、こんな勉強ごっこを」

 ラバンは肩を竦めて茶化したかと思うと、すぐに表情が一変し、真剣な眼差しで私を見据えると、またその手を私に向かって伸ばした。

 私は剣を両手で握ってみるが、構えろと言われても、どうすれば構えた事になるのか、良く分からない。

「お嬢様、早く構えて下さい。命の心配が無いとは言え、気を抜いては危険です」

「でも、ウル、これ重いわ。それに、どうやって構えるの?」

「相手に向かって正面に構えれば良いのです。対峙するという意思を強く持てば、形は問題でありません。重さも次第に馴染みます。今はそれで我慢して下さい。」

 言われた通りに持ってみるが、やはり重い。

 刀身は細いのだが、やはりその長さが私には不釣合いに思えた。

「重いわ。長過ぎるのよ」

「お嬢様、そんな事よりも今はあちらに集中して下さい。」

 ラバンの周囲で何かが弾けたかと思うと、途端に彼から感じる圧力が急速に膨張していく。

 それまでにも彼からは軽い言葉で隠した憤りを感じていた。

 しかしこれは違う。憤りを超し、既に殺意と呼ぶに相応しい。

「我が名に依りて命ず。消し飛べ」

 ラバンが叫び終えるのと同時に、激しい衝撃が私を襲った。

 暴風に吹かれ、身体の一片一片がそれぞれに剥ぎ取られていくような激痛だ。

 そして実際、何ヶ所かの皮膚が僅かだが削り取られていく。

 しかしそれよりも恐怖を感じるのは、身体の内面が、つまり精神が激しく損傷していくような、冷たい沼に沈んで消えいくような、とてつもない不快感に襲われることだ。

 更にその恐怖はまるで永遠かと思うほど長い。

 抵抗しようと両足に力を込めるが、まるで木を根こそぎ引き抜くように、私の身体は宙に吹き飛ばされ、数十歩分も離れたところでようやく落下した。

「お嬢様、ご無事でございますか?」

 駆け寄ってくるウルの姿が見える。

 心配せぬように何か言葉を発してやりたいが、全身を覆う激痛に身動きが取れない。

 だが私はこの力を知っていた。

 この抗おうにも如何ともし難い力は、興奮して取り乱す私をウルが縛り付けた、あの言葉の力と同じだ。

 ラバンが私を殺せないのも、きっと同じ力だろう。

 夜魔が言葉によって命じた事は、絶対の力を有するという事に違いない。

 それが言霊の力か。

「ウル、凄い。凄く熱いわ」

「私は気を抜かないように申し上げました。なぜ油断したのです?」

 私を抱き起こすウルが血に汚れはしないかと恐れたが、私の身体に融けた少女の血が瞬く間に傷口を埋め、その心配は無用となった。

「良い様ね。誰でも簡単に信じるからよ」

 女の嘲笑が聞こえ、見ると屋敷の窓からロザリアが私の様子を見物している。

 私はウルの手を借りて立ち上がると彼女に言った。言われっぱなしなのが悔しかったからだ。

「あら、信じるのと傷つけられるのは別の話よ。信じたから傷つかないわけじゃないし、信じないから傷つけられるわけでもないわ。それに結局、今の私は無傷じゃない」

 ロザリアは何も言い返さなかった。私のそれがただの負け惜しみだと気付いていたからだろう。私の陳腐な理屈と対峙し、同じ低劣さに塗れるほど彼女は安くない。

「これが言霊ね。理解したわ。ラバンに私を殺す事は出来ないけれど、もしウルがこれを受けたらどうなるの?」

「お嬢様の教育のためかなりの権限を与えられてはいますが、私は純血種ではありませんし、実際の階級は遠く及びません。恐らく、一瞬で消え失せてしまうでしょう」

 確かに、ウルは美しいが、彼よりもラバンの方がずっと大きな力を感じる。出会った時から絶えず覚える威圧感が恐らくそれだ。

「消え失せると、どうなるの?」

「どうなるも何も、それで終わりです。私の存在が無くなります。無くなったものはもう戻りません」

 私の手を握ったラバンにウルが抗議したとき、ラバンはウルにも手を差し向けた。

 もしあの時、ラバンがその気になっていれば、ウルはもう存在していなかった事になる。

 何て恐ろしい事をしてくれたのだ。

 私は無性に腹が立ってきた。

 ウルの顔が蒼褪めるのも当然である。ラバンにしてみれば単なる苛立ちから来た戯れかもしれないが、ウルにとってそれはどれほどの恐怖だったであろう。

「ウル、私が仕返ししてやるわ。言霊の使い方は分かったもの。ラバンを少し驚かすくらい、簡単な事だわ」

 ウルは私を制止しようとしたようだが、私はそれよりも早く、彼の腕を掻い潜って走り出した。

「私の名をもって命じる」

「何だ、おい。ちょっと待て」

 ラバンの表情が驚き焦る。

 しかし私はもう少しの恐怖を望んでいるので止めるつもりは無い。

 ラバンが手を振ったかと思うと、彼の手には幅広で分厚い、大きな剣が握られており、彼は急いでそれを構えた。

「消し飛べ」

 僅かに風は吹いたが、特に何も起こらない。

 ラバンは拍子抜けといったような表情で、軽く笑みさえ浮かべている。

 だが私は身体から一気に力が抜けていくのを感じ、思わず足がもつれて転びそうになる。

 転倒は何とか踏みとどまるが、ラバンのその涼しげな顔は何とも癪であったので、ならば一太刀浴びせてやろうと飛び掛った。

「なかなか威勢が良いな。だが力が弱い。踏み込みも浅けりゃ、返しも遅い。これを鍛えるかと思うと死んだ方がましに思える。だがこんな太刀筋じゃ、傷一つ負えやしないな。」

 私は必死になって何度も剣を叩きつけているというのに、ラバンはそれをいとも容易く弾いていく。

 挙句には剣をどこかに飛ばされてしまう始末だ。

 剣は空を舞い、何度か回転しながら草の中に落ちた。

「残念。貴方をウルに謝らせたかったのに」

「呼んでみろ」

 私は諦めて地面に座り込み、肩を竦めたのだが、なぜかラバンはまだ緊張した面持ちで言う。

「剣を呼んでみろ」

 しかし私にはその意味が分からなかった。

「あの剣の事を強く思いながら、呼べば来ると信じて言ってみろ。それも言霊の力だ」

 なるほど。剣に対してさえも命じれば効果を発揮するのか。

 もしそれが出来るなら、今私は剣を落としてしまっているが、それは握っているのと同じ事だ。

「剣よ、戻って来い」

 落ちた辺りの草が刈り散り、そして忽ち剣が飛来してくる。

 まるで吸い付くように剣は私の手に収まり、私はすぐさまそれをラバンに向かって突き出した。

 だが当然、敵うはずも無い。

 私は手首を握られ、腕を押すにも引くにも動かせず、更に眼前にはラバンの手のひらがある。

 その手で私の頭を握りつぶすのも容易いが、彼が口を動かす方がもっと単純だ。

「参ったわ。悔しい。ウルの仇をとりたかったのに」

「気は強いが、他が一切追いついていないな。奴の血を受けているのでまさかとは思ったが、所詮は作られた者、純血種である俺に敵うはずも無い」

「ラバンは父が嫌いなの?」

 ラバンが手を引き、私を解放する。

 私は疲れのため、そのままその場に座っていた。

「嫌いとか、好きとかではないな。己の支配者が己でない事に憤りを感じているだけだ。出来る事なら、この手で奴を斬り捨て、自由を勝ち取りたいね」

「出来もしない事を言うものではないわ」

 ロザリアが呆れたようにラバンを嘲笑う。

「口を動かすだけなら出来る。これくらい自由にやらせろ」

 ラバンも肩を竦めて茶化す。

 ロザリアは不服そうだった。己の伴侶を殺してやろうと息巻いている男が居るのである。心地良いものでないのは当然だ。

「夜魔は不屈の生き物だものね。貴方の気持ちは察するわ」

「物分りが良いな」

「私の事も嫌いなの? なぜ?」

「お前は嫌いだな。作られた者のくせに、純血種になろうなんて見当違いも甚だしい。そんな奴の護衛をする屈辱を甘んじて受ける自分自身にも腹が立つ。だが、自分自身に怒っても仕方が無いだろう? だから益々お前に苛立つのさ。」

 ラバンがその剣を私の頭に目掛けて振り下ろす。

 その速さに私は全く反応出来なかった。

 しかし彼の腕は麻痺したように動きを止め、刃は私の髪にさえ届かない。

「父の言葉が縛っているの?」

 ラバンは悔しそうに眉を歪め、何も答えなかった。

「お嬢様、鞘をどうぞ。そろそろ言霊について詳しくお教えしましょうか」

 私は引き起こされ、渡された鞘へ剣を収める。

 ラバンも腕を振り、その大剣をどこかへ仕舞った。

「待って。ラバン、貴方はどこから剣を出し入れしているの? ウルのように、煙の中から、というわけでもないでしょう?」

 ラバンがにやりと笑い、再び腕を振るとまた剣が現れる。

 もう一度振れば消え、また振れば現れる。

 私は興味に目を見開いていたが、ラバンは私のその様子を楽しんでいるようだった。

「何? 早く教えて。意地悪は美しくないわよ」

 私がそう催促するとラバンは笑った。嘲笑か、あるいは苦笑である。

 自分よりも遥かに格の低い私が、美について口にしたのがそれほど面白かったか。

「これは俺の爪だ。この俺の鋭く強靭な鉤爪を剣としている。だから俺の意思一つで出すも隠すも自由自在よ」

 なるほど。便利なものだ。

 私は自分の手にした剣を見る。

 私はこれを持ち歩かなければならないし、使うときはわざわざ抜き、終われば鞘を拾って納めなければいけない。

「私もそれが良いわ。まずそれを教えて。私も爪を剣にするわ」

 大声を上げてラバンが笑い始め、良く見ればロザリアまでが必死に笑いを堪えている。

「お嬢様、残念ながらそれは不可能でございます」

「なぜ? 純血種ではないから?」

「いや、違う。これは爪や牙に力があるものの特権だ。お前の正体は人間の骸だろう?」

「獣などを本質とする夜魔は人型となっても、その爪や牙を力の象徴として残しています。そしてその力の象徴を剣として表現するのです。残念ながら、お嬢様の爪はそうではありません」

「そうなの。残念だわ」

「やって出来ない事は無いだろうが、刺し針程度の刃になれば上出来だろう」

 私は自分の手をじっと見た。

 小さな爪に力があるとはとても思えない。

 ラバンの言う刺し針さえも、恐らく過大評価だ。

「あの方も、自分の刃は持たないわ。その程度の事で悔やんでは駄目よ」

 ロザリアが珍しく私を庇った。

 いや、私をと言うよりも、恐らく同じく牙を持たないという父を庇ったのだろう。

 父の伴侶として、力無い両手に落胆する私を笑う事は出来なかったのだ。

「じゃあ、私はこれで良いわ。少し重いけれど」

「剣がお嬢様に馴染めば、その重さも感じなくなります」

 確かに、初めに渡された時よりも扱い易いように感じる。

 だがそれは私がこの重さに慣れているのではないだろうか。

「それじゃあ、言霊について始めてちょうだい。あ、でもその前に、さっき私がラバンに向かって使おうとしたあれは、失敗だったの? 何か間違えてた?」

 あの時、私ははっきりと言葉で強く命じたはずだが、結局何も起こらなかった。

「完全に失敗したわけではない。微かだが力は感じた」

「でもラバンが私に使った時、私は吹き飛んでいったわ。同じ命令をしたのに、この差はおかしいわよ」

「それは当然だ。俺の方がお前よりも格上だからな。命令は上から下へ流れるものだ」

 私の言霊は本来流れない方向へ無理に押し出したという事か。力が弱いのも頷ける。

「お嬢様にはまず、“要素”について理解していただきたい。“要素”とはあらゆるものを構成する因子で、言霊とはこれを感じる事に始まります」

「要素って、たとえばウルの煙の粒のようなもの?」

 ウルの体内へ入ったとき、彼の内側が輝く無数の粒子に満たされているのを見た。

「それも要素です。私だけではなく、炎にも燃えるという要素や、熱さという要素、輝きという要素などがあり、全てのものは様々な要素によって構成されています。夜魔はこの要素を他のどの生物よりも鋭敏に感じる事が出来るのです」

 周囲の草や木に目を凝らすが、それらしいものは見えない。

「要素は目で見えるものじゃない。はっきりと感じるものでもない。だが確実にそこにあることを漠然と感じるものだ」

 目を細め、また開きしながら森を見る私をラバンが窘める。

「続けて、ウル」

「夜魔の持つ高貴な精神の支配力はこの要素にまで及び、また要素もより力のある夜魔の庇護を受けようと格の高い夜魔の方へ傾きます。そこで夜魔の下す命令とはその要素に対して働き、特に言葉を用いて行う強制力の強い命令を言霊と呼ぶのです」

「分かったわ。私がキリカの本質を見抜いたのは、彼女を作る要素を感じたからで、今でもロザリアやラバンの本質が分からないのは、要素が階級の高い彼女達の方へ傾いて、私には感じられないからね」

「物分りの良さは侮れないな。奴の血が全て頭に集まったか?」

 ラバンは皮肉を言うが、ウルは微笑んでいた。

 ウルが喜ぶのであれば、私はどんな皮肉を言われようとも満足なのである。

「お嬢様の言霊が彼に通用しなかったのは、彼の要素を把握出来なかったからです。」

「それに、言い終えたときに激しい脱力感を覚えたろう?」

「えぇ、言われてみれば、確かに全身の力が一気に吸い取られていったような感じがあったわ。」

「要素は夜魔の命に従うとは言え、自分を構成する要素以外は結局他人のものだ。何でも容易く従ってくれるわけじゃない。困難な命令ほど、代償を要求してくる。つまり、精気を奪われるって事だ。今のお前がこの俺にそよ風を吹かすだけでも、それだけの代償を必要としたわけだ。要するに、格の差を思い知れって事だな。分かるか?」

 この疲労感は言霊を使って体力を奪われたためだったのか。

 身体が完成したのを喜んだときは、まだ少女の血が身体に残っていて、溢れ出る生命力を感じていたのに、確かに今は空っぽで何も残っていない。

 剣を振り回して動き疲れたのかと思っていたが、言われてみればこれは肉体的な疲労とは質が違う、根源的な喪失感がある。

「言霊には強大な強制力があるとは言え、幾つかルールもございます。まず言霊には大別して許可と禁絶とがあります。許可とは、その要素の活動を助長する事。風に吹けと命じる事、闇に隠せと命じる事がそれです。もう一つは要素の活動を抑制する、禁絶です。岩の硬いという要素を禁じれば砂になり、炎の燃焼を禁じれば立ち消えます。多くの場合は破壊を伴い、先ほどお嬢様の命じた、消し飛べ、という言霊も、物体の存在を禁じようとする禁絶の命令となります」

 先日、ウルと街へ出たときに闇がウルを隠した事も許可の命令だったのだろう。

 言葉を発しては居なかったが、あの時要素はウルに傾き、その命に追従していたのだ。

 恐らくは、屋根へと飛び移ったときも、風かあるいは土に身体を押し上げるよう命じていたに違いない。

 濁った石を輝石に変えたのも、輝く事を促したと考えられる。

「しかし、要素にとって許可の命は活動を促されるので容易に従いますが、逆に禁絶の命は要素の力を封じてしまうため、実行は許可よりも困難です。つまり、それだけ多くの力を要求されるという事です。そして、許可においても禁絶においても、要素にとって全く不可能な命令は行使する事が出来ません」

「全く不可能と言うと?」

「水に対して燃えろと命じる事や、闇に輝けと命じる事などです。こういった事を命じる夜魔は要素の不信を招き、大きく格を貶める事になります。ご注意下さい」

「分かったわ」

「それに、もうお分かりでしょうが、格の低い者が高い者へ命じる事は出来ません。要素を感じる事が出来ませんから、命令の対象を失っているわけです」

「だが、低い方から高い方へ命令を押し上げる方法も、無いわけじゃない。」

 ラバンがウルの説明に横槍を入れ、私は不覚にも興味を引かれる。

 ウルがそう言うのだから、私はそれを信じるべきなのに。

 だがウルも私が彼を教育者として信頼していないわけではないのだと分かっているだろう。

 これはどうしようもない、私の性質なのだ。

「要素が格の高い方へ傾くのは確かだが、全ての要素が一様にそうなるわけじゃない。つまり、低い方にも動かせる要素が幾つかは存在しているって事だ。しかし高い方へ味方をしたいという性質はどれも持っている。それを振り払ってでも命令を押し通すには、それだけの代償を払えば良い。本来は小さな力で行える簡単な命令に、膨大な精気を注ぎ込めば、低い方から高い方へも要素が動く」

「例えば、傷口よ開けとか?」

「そうだな。致命的ではないが、裂傷を与えられる」

 私はすぐさま腕をラバンに向けて差し出した。

 ラバンは慌てて剣を取り出し構える。

「慌てたって事は、本当みたいね。」

「馬鹿な事をするな。やり返されたいのか?」

「ちょっと遊んだだけよ。ウルを脅かした仕返し」

 ウルが溜息を吐く。

 この行為はあまり良くなかったのだろうか。

「しかしそれも飽くまである程度差の近しい者同士の場合です。あまりにも格差のある場合は全ての要素を奪う事も不可能ではありません。現実に彼は、どんな方法をもってしてもお嬢様の命を奪う事は出来ませんし、どれほど拒んでもお嬢様を守らねばなりません。それはご主人様が彼よりも遥かに高貴なお方であり、彼の要素を全て支配なさっているからです」

「わざわざそんな事をご丁寧に説明してくれるな」

 ラバンが不服そうに憤ってみせる。

「でもそれじゃあ、格の低い者はどこまでも不利じゃない?」

「当然だ。低い者ほど有利な仕組みが在っては、純血種など一晩で消え失せてしまう。強い者が弱い者を支配する。自然とはそういうものだ。」

「それもそうね。ならば、ラバンは何をしたって父の束縛を断ち切る事は出来ないって事?」

「いや、望みはある」

 ラバンは剣を振り回し、私の首を狙って斬り付けてくるが、私にそれが届かない事は分かっていた。

 当然、ラバン自身も知っており、殺意は無い。

 案の定、彼の中の要素が父の命を忠実に守ったようで、刃は私の首の皮さえ裂いていない。

「この剣だけが望みだ」

「どういう事?」

 ウルが言葉を続ける。

「剣は力の象徴であり、対峙した者にそれを向ける事は、その者に敵意を持つという事、従わないという事です。つまり、剣は不屈の象徴となります。それを構える事は、特に自身の要素に対し、自らの不屈を示し、またそれを命じる事でもあります」

「相手の言霊に自分の要素が従う事を拒否出来るって事だ。もちろん、埋めようも無い格差は確かにあり、完全に拒否出来るわけじゃない。だが無防備で受けるよりも遥かに軽い」

「また、夜魔が死を迎えるのは、何も言霊で死や消滅を命じられた時だけではありません。夜魔の急所は心臓と脳であり、それを貫かれれば、どれほど格の高い夜魔であろうとも命を絶たれます。他の傷であれば、どんなに深くともその精気を用いて癒す事は可能ですが、心臓と脳だけは血と精神を司る重要な、夜魔の存在を維持する唯一無二のものです」

 剣でならば、格の低い者でも高い者を打ち倒す事が出来る。

 言霊では決して届かない相手にも、剣ならば歩んだ歩数だけ近付く事が出来る。

「剣ならば、格は無関係だ。ただその肉体的能力のみが頼りになる。たとえ心臓を貫けなくとも、身体に傷を与えればその分の力を削ぐ事も出来る。つまり、相手の格は一時的だが降下し、距離が近付く。差を覆す事だって、不可能じゃない。」

「ラバンはそうやって父を殺すつもりなのね?」

 ラバンが不敵に笑い、剣を握るその腕が静かなる力に強張る。

「ラバンがこんな事を言ってるわ。どうしよう、ウル?」

 私は笑いながら肩を竦めた。

 するとウルも微笑みながら言葉を返す。

「しかし彼はご主人様の前で全く動けませんから。剣で埋められる差など、ほんの僅かなのです」

「そうね。動くなと言われれば、ラバンは止まってしまうのだもの」

「その通りだ。その上、動くなという命令は単純ゆえに強制力が強い。言霊どころか、視線に威を込めるだけで俺の動きは封じられた。それだけの差が俺と奴にはあったという事だ。口惜しい事だが」

 ラバンは笑った。

 それは苦笑であったが、自分の弱さを隠さずに告げる潔さは心地良かった。

「お嬢様、憶えておいて下さい。今後、お嬢様は益々格を高めていかれるでしょうが、それを快く思わない夜魔も当然居るでしょう。そのような者達は、時にお嬢様よりも格上である場合もございます。その時は剣をもって抗うのです。私達も精一杯お守りいたします。また、ご主人様に並ばれるほど高貴な方となられても、支配に抗う者は居ります。それらを相手になさる時も、剣の力を侮ってはなりません。」

 ウル達の語る夜魔同士の闘争は非常に興味深い。

 美しさだ、気高さだと言う半面、その支配は強制的であり、またその闘争は激しく、夜魔の心に強く根を張る不屈の精神を感じる。

 ウルの熱弁を真剣に聞いていた私だったが、そのおおよそを理解してようやく気付くことがあった。

「それで結局、誰が私を狙っているの? ラバン? それに、私は人間の世界に出たいと言ったのよ。夜魔に対する防衛手段は関係あるの?」

 ウルの眉間に皺が生まれる。

 溜息を吐かないだけましかと思うが、結局ウルではなくロザリアから溜息を聞く事になった。

 恐らくウルは更に溜息を重ねる必要を感じなかっただけだ。

「貴方は曲りなりにもあの方の血を受けた娘なのよ。その身体に流れている血がどれほど高貴で、どれほど偉大な力を秘めたものか自覚すべきね。それを手に入れる事があの方の力を手に入れる事になると思う者は大勢居るし、彼らにとって階級の低い貴方はその絶好の機会なの。」

「そういう事だ。お前が奴の血を受けている事を知る者はまだ少ないが、既にそれは外界にも漏れ、もう何人かは狙ってきている。それは全て俺が処理したが。そうだな。良い機会だ。お前もこれで方法を学んだわけだし、これからは自分で自分を守れ。何、心配するな。命に関わるような大物は俺が相手をしてやる」

 血は生命の象徴。

 私が高貴な者になる運命を決定付けられているのは、この血が父のものと同じだからだ。

 それを手に入れれば、誰でも父に比肩出来ると考えるのは、確かに道理である。

「先ほど申し上げましたが、どれほど力が弱い者だろうと、心臓を狙う事は出来ます。それは人間でも同じなのです。人間は私達に対し恐怖を覚えるのが常ですが、人間の恐怖は殺意へと容易に変化します。人間がどれほど微小な存在であろうとも、油断はして欲しくないのです」

 それほど人間は危険なものだろうか。

 子供達は皆従順で、大人も激しく怯えるが命を惜しんで身動きを止める。

 軽んじて隙を見せるつもりは無いが、ウルが言うほどの脅威があるとは思えなかった。

 しかしウルは私のそういう表情を良く読む。

 彼は私から全く目を逸らさず、その冷えた瞳で私を見竦めた。

 彼にとって私が生き、育つ事が全てなのである。その信念の強さを私に測る事は出来ない。

 私はただ彼のため頷き、それを強く心に留めておく事にした。

「じゃあ、早速街へ出てみましょう?言霊を使ったせいで、少しお腹も空いた事だし」

「あぁ、たくさん吸って来い。いつまでもお前を守りたくないからな。早く死なないくらいに格を上げろ」

 ラバンは腕を振り、剣を仕舞うと私に背を向けた。

 彼の足元で風がつむじを巻き、彼はそれに乗ってどこかへ行くつもりのようだ。屋敷に戻るのではないらしい。

「ラバンは行かないの?」

「心配するな。護衛はしてやる。だがいつまでも傍でお前なんぞの話に付き合っていられるか」

 爆発したように空気が弾け、ラバンの漆黒の巨躯が彼方へと飛んでいく。

 私の屋敷に隣接する父の城の方へ行くのは見えたのだが、その頂上は暗い雲に包まれていて、そこで彼の姿を見失った。

「ロザリア、一緒に行きましょう?」

 ロザリアは窓に肘を乗せたまま呆れたように溜息を吐く。

「嫌よ。私も貴方の話し相手にされるのは御免だわ。貴方が作法を学ぶ必要に迫られれば、否が応でも出て行かなければならないのだから、それまでは離れて居させてもらうわ」

 彼女もまた屋敷の奥へと消えていった。

 ロザリアもラバンも皮肉などを口にする事はあるが、表面上は私と円滑に接している。

 しかしその奥には何らかの思いがあり、私を避けようとしているようにも思えた。

「彼女達は私の事が嫌いなのかしら? 父の命だから、仕方なく付き合っているの?」

 私は微かな不安を口にしてしまう。

 しかしウルは優しく微笑んだ。

「ご主人様の命だから、というのは当然あるでしょうが、嫌うという事は無いと思われます。お嬢様はまだあの方々よりも格が低く、しかしご主人様の娘でもある。どのように接すべきか戸惑っておられるのでしょう」

 その笑みは、私を慰めるためか。

 それとも、他者の心情に心を配る私に対する教育者としての思いか。

「そうだと良いのだけれど」

「そもそも夜魔は不屈孤高の精神を持ちますから。主従の関係ならばともかく、父娘の間柄など概念として知ってはいても、目にする事は稀です」

「戸惑って当然、ね」

 私とウルは歩き始めた。

 門に触れればその要素を仄かに感じ、少しの力を加えるだけで門は勝手に開いていく。


 通りへ出ると空が真っ赤に染まっており、私は驚きのあまり立ち止まって仰ぎ見る。

「真っ赤よ、ウル。これは何事?」

「世界は時間と共に空の色合いが変化するのです。今は夕暮れ。もう数刻で夜が訪れれば、闇が空を覆います」

 私は何もかもが赤く染まった通りを眺めた。

「夜魔の周囲は闇が濃くなるのです。ご主人様ほどの夜魔になればその闇もいっそう濃く、屋敷の周囲などは常に夜と同様の暗さに閉ざされます。それゆえ、お嬢様は今まで昼の明るさに気付かずにおられたのですよ」

 ウルの言う通り、空は忽ち紫に変わり、暗さが増していく。

 闇の要素が俄かに活気付き始めるのを感じた。

「行きましょう。暗くなってから家々を回るのは面倒だから」

 私とウルは幾つかの通りを巡ったが、目に適う者にはなかなか会えなかった。

 家路を急ぐ子供らをウルは何度か指差すのだが、私は頷かなかった。

 どの子も良さそうではあるが、私はあの少女のような無垢の瞳を探していたのである。

 あの豊潤で蜜のような口当たりと、そこにある充足感は忘れようも無い。

「あれは何かしら?」

 ふと見ると、丁字路の突き当たりに大きな建物があり、門扉には煌々と灯りが焚かれ、その窓の内もとても明るいようだった。

 私はそれを指差し、ウルに問うが、彼もまた答えに詰まる。

 私達がそれを目指して歩いていると、その建物に次々と馬車が来ては去っていった。

 近付くほどに人々の笑いさざめく声が聞こえてくる。

「これは、社交場だと思われます。人間はあのようにして、互いの様子を伺い、時には親睦を図るのです」

 その建物の中には老若男女様々な人間が居た。

 皆、見栄えの良い衣装を纏っており、何かを話し、何かを口にし、何とも楽しそうである。

「ここで探してみましょう?」

「どうしても、と仰るのであれば止めはしませんが、人目が多過ぎるのでは?」

「大丈夫よ。人間達には外見で私達を夜魔だと気付く事が出来ないのでしょう?食べたい人を見つけても、その場で事に及ぶような無茶はしないから」

 私はそこへ行くため、通りを渡ろうとした。また馬車が一台来、少し立ち止まってそれが過ぎるのを待つ。

「待ちなさい。そんなみすぼらしい格好で行くつもり?」

 馬車が過ぎた通りの向こうには不意にロザリアが居た。

 その靴を鳴らしながらこちらへ近付き、見つめるその視線だけで私を押し戻す。

「ロザリア、来たのね」

「呼ばれたのよ。貴方がそんな汚い格好で入ろうとするから」

 私はウルを見た。

 しかし彼は首を小さく横に振る。ロザリアを呼んだのは彼ではないらしい。

 ならば恐らくそれは、父の命令がロザリアに働いたのだろう。

「でもどこも汚れていないわ」

「あそこに居る人間達と比べてみれば分かるでしょう?たとえ相手が人間でも鳥獣でも、その場にいる誰よりも見劣りするような服装は良くないわ。人間は着飾るのが好きだから、尚更よ」

 確かにそこの人々は赤や青、白に黄の衣装を纏い、また女達はそれぞれ髪に様々な花をあしらっている。

 しかし私は自分の服を気に入ってはいるのだが、これが彩りに欠けているのは事実だった。

「まず服をご用意いたしましょう。お嬢様自ら度々衣装を求めに行かれますのも面倒でございましょうから、本日は仕立ての出来る人間を連れ帰り、それに作らせた後、また後日お出でになっては?」

 だが私がそう簡単に引き下がる者ではない事をウルは知っている。

 私が周囲を見回し、そこにあった花壇に目を留めると、彼はすぐに闇を集めて私達を隠した。

「名も知らぬ小さな花々よ、私を彩りなさい」

 私の言霊を聞いて花達が一斉に騒ぎ始める。

 ある者はその身を絞って私の服を染め、ある者は私の身体を這い上がって花をあしらい、またある者はその身を震わせて香りを撒いた。

「そんな事に力を使うなんて、馬鹿な事を考えるわ」

 ロザリアは呆れて首を振るが、私はそれに構わず両手を広げて彼女に姿を示した。

「まぁ、良いわ。好きにしなさい」

 そう言って彼女は立ち去った。引き止めようかとも考えたが、無駄だと分かっていたので実行はしなかった。

 私はウルと共に歩き出した。

 通りを渡り、人込みをすり抜ける。

 そして入り口の前で若い男に呼び止められた。

「失礼ですが、お名前を」

 自らの名を答えようとする私をウルが制す。

「こちらはフレスベルク卿のご息女様。私はその家に仕える者です」

「フレスベルク卿のご息女様で御座いますね。承りました。失礼ですが、他の街からお越しに?」

「いいえ。あの通りをずっと行った所に屋敷があるわ」

 私は道の先を指差しながら答える。

 しかしその間もウルの口にした名に興味を抱いていた。

 それがまだ見ぬ父の名なのだろうかと。

「はい。もう結構です。エンコット様は既に中に居られます。お帰りの際は安全のため私共がお守りいたしますので、この辺りに居る者へお申し付け下さい」

 若者は深々と腰を折り、その手をさっと入り口の方へ流した。

 しかし私達が入ろうとすると、またも呼び止めるのである。

「申し訳御座いませんが、こちらはお家の方のみとなっております。お連れの方はどうぞ隣の家へお入り下さい。そちらにも十分に食事は用意しておりますので」

「駄目よ。ウルは私の教育者なのよ。傍に居てもらわないと困るわ」

「いや、しかし、これはそういう決まりで」

「心配ありません、お嬢様。私はいつも傍に居りますから」

 ウルが微笑むので私はそのまま入っていった。

 ウルがそう言うのであれば、それは間違いない。彼は常に私の傍に居るのだろう。

 中は凄まじく明るかった。

 無数のランプが天井や壁にびっしりと置かれ、足元に影を落とす余裕も無い。

 幾つかのテーブルが置かれ、それぞれ食べ物や飲み物が用意されている。

 人々はそれを取っていっては食べ、また飲み、そうしながらお互いに言葉を交わしていく。

 その様子は騒々しいとさえ言えたが、屋敷で静けさしか知らない私にはとても新鮮だった。

 私はテーブルの傍に近付き、皿に盛られているものを見た。

 何かの肉のようなものや、様々な菜が並び、どれもただの食事というには美し過ぎる外観であった。

 私が美しい相手を探すのと同様、人も食事に美を求めるのであろうと、私は思わぬ共通点に驚く。

 その時、一条の煙が流れて来、私を取り巻いた。

 もちろん、それはウルである。

 私はまた以前のように闇を纏って来るのだろうと想像していたのだが、彼は人目に触れ難い希薄な煙となって漂っていた。

 だが確かに、この部屋の中は明るく、闇の要素は著しく弱い。

 闇で覆う事が出来ないわけでもないだろうが、私を隠すわけでもなく、ウル一人を不可視とするならば、それで十分と言えた。

「フレスベルクが私の父の名前なの?」

 私はそれがウルだと気付くや否や問う。

 煙は私の首を一周し、耳元で集まった。

 その細かで薄い空間が震え、彼の声を微かに届ける。

「ご主人様自身の名は別にございますが、人間を相手にする場合は概ねその名を。お嬢様も今後、人間に対する時はそれをお使いいただくか、あるいは別に何かお考えになっても結構です」

「そう。でもこの名で父を捜して、見つける事は出来るかしら?」

「仮にその名を知っている者を見つけたとしても、それは人間ですのでご主人様の足取りを全て追う事は難しいでしょう。心配せずとも、ご主人様は必ず戻られます。」

 私もそうである事を願う。

「ところでウル、これは人間の食事よ。とても綺麗だと思わない? これが何かウルには分かる?」

 私は肉料理を指差す。

 長時間煮込んだようで、その形はあまり残っていない。

「恐らくは、鹿でしょう。人間の食の上、これでは原形を想像するのも難しいので、自信は無いのですが」

「食べてみても大丈夫?」

「えぇ、多少であれば」

 私はそれを口にする人々の様子を真似しながら恐る恐る、しかし興味津々にそれを一摘まみ口に入れた。

 まるで酷い味である。

 それを吐き出そうにも、そんな事をしている人間は他に居ないので目立つわけにもいかない。

 しかしそれでも我慢できず、私は一心に窓際まで近付くと、窓を開いて闇を呼び込み、それに隠れながら外へ吐き出した。

「何、あれ? 人はあんなものを食べるの? 良いのは見た目だけじゃない。信じられないわ。」

 その刺激がまだ舌の上に残り、苦味が鼻を突くたびに眉が歪む。

「人間の食は味が複雑なようですから。ご主人様も色々試されましたが、食べ物に気に入るものは無かったようです」

「私の身体になった人間も、昔はあれを食べていたのかしら? ぞっとするわ」

「それでは、そこの飲み物は如何です? ご主人様は気に入られて良く召し上がられましたから、恐らくお嬢様のお口にも合いましょう」

 私はそこにある幾つかの飲み物を順に指差し、ウルのそれと言うものを手に取った。

 グラスに注がれたそれは血のように真っ赤で、ふと私が最初に血を奪った少年の事を思い出す。

 しかしそれは澄んで向こう側が見え、香りも嗅ぎ慣れた血のそれとはずいぶん違っていた。

 しかしまた鹿肉のような目に会っては、それを勧めたウルを恨みかねないので、慎重にほんの数滴のみを口にする。

「これは、何?」

 私は眉を顰めた。

「お気に召しませんでしたか?」

「飲めないとは言わないけれど。とても変な味」

「私は食しませんので分かりませんが、その味が慣れれば癖になるのだと聞いております」

「父はこんなものが好きなの?」

「えぇ。それは大変に気に入っておられます」

 もう一口運ぶが、やはり表情が歪む。例えるなら目と目の間が焦げるような味だ。

「でも私は嫌。もう要らないわ」

 私は人間の食事から興味を失った。

 ならば、後は自分本来の食事に興味を持つだけである。

 そこに立って人々の顔を眺めていると、向こうから男が歩いてきた。

 入り口に居た若者とほぼ同程度の年齢かと思うが、彼よりもやや小柄だった。

「僕はシュナイブ家のエニルという者です。貴方の名前をお聞かせいただけませんか?」

 その表情は微笑みで満ち、日頃ウルの無表情ばかりを相手にしている私にとってそれはやや異常にも思えた。

 ウルとて微笑むべきときはそうするが、今彼にそうさせ続けている理由が分からず、私は密かに警戒する。

 だが周囲を見れば、人とはそういうもののようで、私もそれを真似なければと、やや微笑み、彼の言葉を真似て返した。

「私はフレスベルク家の者よ」

「フレスベルク卿。お恥ずかしい事ですが、聞き覚えがありません。どこか遠くの街から来られたのですか?」

 私は首を横に振った。

 すると彼は少しばつが悪そうに振る舞い、少し話を濁す。

「いや、しかし、今日貴方に出会えた事は僕にとってとても幸福な事です。僕の家は代々」

 それから彼は私が聞いたわけでもないのに、次から次へと家の職は何だ、地位はどれほどだ、仲の良い家は誰だと言い続けるのである。

 気付けば同じような若い男がさらに数人、私を取り巻いており、やれ誰の友人だ、どこの家の者だと、同じような事を我も我もと騒ぎ出していた。

 当然、私にはどの事柄も全く意味が分からず、なぜ私がそれを聞かされなければいけないのかも理解出来なかった。

 そして堪らなくなって私は彼らの話を止める。

 それ以上聞いていても、私になんら利益は無いのだという事は理解出来たからである。

「貴方達の言いたい事は全部聞いたわ。父に伝えてくれと言われた事柄はそうするし、憶えておいてくれと言われた事柄もそうする。だから、今はもう聞かない。どこかへ行って。私は人を探しているの」

 私がそう言い終えると、ある者は明らかに機嫌を損ねて背を向けた。中にはそれでも笑いながら去るものも居たが、半分は苦笑であり、半分はまだ何事かを聞かせようとするのでそれを拒むと、恥じ入って笑い、去った。

 だが最も不機嫌であったのは私である。

 ウルは必要な事以外を口にしないので、話し相手とするには少々退屈であった。

 そして以前こちらに来たときは人間と中々に面白い会話をしたので、もしかすれば今日も、と考えていたのに、彼らときたらこの様である。

「お嬢様、あの者達の中に目当ての者は?」

「居ないわ。やっぱり、ウルの言う通り、子供か若い女性でないといけないのよ。男性を探しても無駄ね」

「あまり長い間話を聞いておられましたので、まさかあの中からお選びになるのかと、内心冷や冷やいたしました」

「大丈夫よ。貴方の教えはちゃんと憶えているわ」

 私が煙に向かって微笑むと、その向こう側で見知らぬ誰かが勘違いをし、小さく会釈した。

 また意味の分からない事を話されても面白くない。そこでそれは見なかった事にしたが、その男は察しも悪くこちらへ来ようとするので私はその場を離れた。

 部屋の中を移動しながら人々の顔を見て回るが、どの顔も今一つ納得するには及ばない。

 仕方がない場合はそれで手を打てば上々だろうと思えるような人物は数人居たが、それでももっと美味いものを味わいたくて私は諦めなかった。

 しばらく様子を見ていると、何やら初老の男性が壇上に上がって演説を始めた。

 少々興味を引かれて見ていたが、やはり意味は分からず、その男性自体にも魅力は無い。

「こういう大人の話は退屈ですね」

 これ以上の収穫は望めないと思っていた頃、その演説に紛れて誰かが私にそっと声をかけた。

 今度はどんな輩だろうと見れば、それは若い娘で、真っ白い肌に大きく黒い瞳をしていた。

 振り返る直前まではまた追い払おうと思っていたのだが、その表情には感じるところがあり、私は彼女の言葉に頷いた。

「お料理は、どうでしたか?私なんて食べ物に釣られて来ちゃったのですけど」

「あまり気に入るものではなかったわ」

「そうですか。実は私も、期待していたほどではありませんでした。人前で食べると、視線が気になってしまって。私はこう、多少お行儀が悪くても、自由奔放に食べるのが美味しいと思うんです。こう、犬みたいに」

 彼女はその両手を口元でかき込むように動かしてみせる。

 そして少し頬を赤く染めて笑った。

「今はもうそんな事をしたら怒られますけどね。でも幼かった頃はまだ許してもらえました」

「私も色々と作法を習うわ。面倒だったり意味が分からなかったりする事はあるけど、それは誰よりも私自身の品格のためだもの。大切なのよ」

 彼女は静かに頷く。

 人の世界の基準はお金だけだとウルは言っていたが、彼女の言うように美しさもまるで悟らない社会でもないようだと思えた。

「でも綺麗な方ですね。同じ年頃に貴方みたいな方が居られるとは、知りませんでした」

 私の顔を見ながら不意に彼女が言い放つ。

「私が?」

「えぇ。見惚れてしまいそうなくらい」

 私は意外だった。

 ロザリアやラバンが口にする事とはまるで正反対の事を彼女が言うからである。

 事実、私はまだ格が低く、ロザリア達には到底届かないし、ウルにもあと一歩及ばない。

 私は私自身をまだまだ醜いものだと思っていたのである。

 しかし人の目にはそう映るのか。

 その外的な美しか測れない人間にとって、身体が完成した私はもはや十分美しいのか。

 私は密かに喜び、打ち震えた。

「でもどうしてこんなものを? 皆の噂の的になっていましたよ」

 彼女は私が腰に差していた剣を少し握る。

「おかしな事? 彼も、彼も、皆、身に着けているわ」

「それはそうですよ、男性ですから。でも女性では貴方だけですよ」

 言われてみれば、剣を帯びているのは皆男ばかりで、彼女の言う通りドレスに剣を差しているのは私だけである。

「おかしいかしら? でも必要なのよ。私を狙う輩から身を守るために」

 彼女は手で口元を隠しながら淑やかに、しかし鮮やかに笑った。

「とんだおてんば姫様なのですね」

 その輝くような微笑を見ながら、私は決めた。

 ウルも耳元で囁き、私は彼女に知られないように小さく頷いた。

「私は好きですよ。私も子供の頃は、近所の子供達とそうやって遊びました。こう、木の枝を持って。懐かしいです」

 そう言いながら彼女は腕を左右に大きく振って見せる。とても愛らしい仕種だった。

「あぁ、ようやく終わりましたね。男の人はあんな話ばかりして楽しいのでしょうか? 私なんていつも、お話が早く終われば良いのに、って思っているんですよ」

 長々と続いていた男性の演説が終わり、人々は皆彼に拍手を送っている。

 彼女もまた私にそう言って微笑みながら、その手は周囲と同じように動いていた。

 そしてその演説を最後にこの催しは終わるようで、人々はまた次々とこの館を後にしていた。

 彼女もまた私に軽い会釈をし、その波に紛れていく。

 私は彼女の後を追い、外へ出ると通りに彼女の姿を探した。

 ちょうど馬車へ乗り込む彼女を見つけ、私はそれを追おうとするが、誰かが私の腕を掴み、力強く引き止める。

「皆様のお屋敷までは我々がお守りいたします。夜道は危険ですので、必ず護衛をお連れ下さい」

 私は手を伸ばすが、馬車はどんどん遠ざかった。

 私はその腕を振り払うようにもがき、それでも掴んだ腕が離れないので、その強情な腕の持ち主を睨む。

「聞き分けのないお嬢さんだ。命を落としたくはないでしょう? 護衛を待ちなさい」

 私はその男を知っていた。

「ランス。また貴方に会えるとは思っていなかったわ。でも、今はその手を離して」

 だがランスは私の顔をじっと見、それでも私が誰か気付かないようで、訝しむ表情を見せる。

 その間も馬車はますます遠ざかり、今にも見失いそうだった。

 彼の腕に対して、緩む事を命じれば、その馬車を追う事は非常に容易だが、このように人目の多い場所であからさまな力を使う事は好ましくないだろう。

 私が密かにウルにそれを追うように頼むと、一筋の煙がたなびいていくのが見えた。

「ランス、手を離して。私の事を憶えていないの?」

 ランスが眉を顰め、更に私の様子を観察する。

 そこでふと彼の中で何かが繋がったのか、急に表情が明るくなった。

「あ、いや、思い出した。でも、まさか、あの時は酷い火傷だったのに。今はまるで別人だ。痕も全く残っていないなんて。あの後、薬を持って戻ったらもう居なかったから心配していたんだ」

「私に護衛は要らないわ。もう護衛役なら居るもの」

「いや、駄目だ。近頃この街で何人も子供らが連れ去られているのを知らないのかい? お願いだから、僕らに護衛をさせてくれ。」

「だから、私は大丈夫だと言っているでしょう?」

「何が大丈夫なんだ? この街の人は誰であろうと、僕には護る義務がある。それはどんな家柄の者でも、たとえお嬢さんでも例外ではありません。待つのは嫌かもしれないが、これは命に関わる事なんですよ?」

 その時、私達の傍で馬車同士が危うくぶつかりそうになり、互いの馬が激しくいなないた。

 それに驚いたランスの腕が僅かに緩み、私はそれを見逃さずに振り解いた。

 彼が私の方へ振り返るよりも速く、私は風を舞わせて彼の視界を遮り、また私自身を闇で覆ってその場を後にした。


 私が馬車の消えていった方に向かって走っていると、ウルと出会った。

 彼に案内されて着いたところはとても大きな屋敷であった。

 それはこれまでに選んだ事のあるどれよりも大きく立派だ。

「今はあの二階、西側の部屋で眠っているようです」

 私達は闇で姿を隠しながらその部屋の窓まで近付いた。

 私が近付いた事で窓の要素が応じ、早く開けてくれと催促しているようにも感じる。

 私は部屋に入り、ベッドの上でぐっすりと眠る彼女の肩をそっと揺り起こした。

「あら、おてんば姫様」

 目を覚ました途端に彼女が素っ頓狂な声を出すので、私は少々驚く。

 他の家人が来はしないかと聞き耳を立てた。

 その間に彼女の方でも事態の異常さに勘付き始めたようで、私とウルの表情を交互に見ながら、徐々に顔を蒼くし、身を強張らせていく。

「こ、これは何? 夢なら、早くそう言って下さい」

 彼女は枕を自分の顔に押し当てながら震えていた。

「夢ではないわ。貴方が魅力的だったから、貴方を殺しに来たの」

 彼女は枕を離し、絶望に満ちた瞳で私を見る。

「あぁ、そんな、まさか貴方が噂の人さらいなの? どうして、こんな事を? 貴方みたいに綺麗なら、身分の高い方と結婚して、それで幸せにだってなれるのに。何のためにこんな事を?」

「生きるためよ」

 彼女は泣き崩れた。枕に顔を押し付け、押し殺したような泣き声が微かに聞こえる。

「貴方の願いを聞くわ。その願いと、貴方の命を交換よ」

 彼女はゆっくりと顔を上げる。

 私を観察し、そしてちらりと部屋の扉を見た。

 その扉までの歩数を測っているのが分かる。

「やめた方が良いわ。恐らく貴方の家族が来ても、きっと貴方の事は救えない。それに私も出来る事なら、貴方の家族まで傷つけたくはない」

「あぁ、お願い、夢なら覚めて」

「その願いは聞けない。夢じゃないもの」

 彼女の目からまたどっと涙が溢れる。

 その勢いが緩むまで、私はしばらく待った。

「さぁ、願いを教えて。食べ物を犬みたいにかき込みたい? それとも、私が剣の相手をする?」

 彼女は笑った。

 私は学んでいた。人はどうしようもないのだと諦めた瞬間、なぜか笑うのである。

 恐らくその時の微笑みの美しい者ほど、良い血をしている。

 彼女は静かに祈った。私の知らぬ神と、父と、母、そして姉に。

「河で泳ぎたいです。裸になって泳ぐんです。昔は皆そうやって一緒に遊んだのに。もう何年もそんな事してない」

 私が差し出した手を彼女は取り、その身を私に預けた。

 抗わないゆえ、彼女の身は軽く、私はその腰に手を当てて彼女を抱き寄せると、屋敷を後にした。

 ウルに教えられるまま郊外の河縁に私達は降り立つ。

「私はここで待っているから。好きなだけ泳いでくれば良いわ。」

 彼女は一歩一歩と暗闇で小石に足を取られないよう慎重に歩き出した。

 そして寝衣を脱ぐと、それを踏み越えてまた水に近付く。

 冷えた夜風が吹くと身体を震わせたが、それでも彼女は水辺まで辿り着いた。

 指を浸し、次は足首を、そして彼女は怯む事無く進み、半ばまでいくと川面はもう腰の辺りまで高くなっていた。

「うわぁ、冷たい、冷たい、冷たい」

 彼女はそこで立ち止まり、河上を望みながら身を縮め、震える声で何度も叫んだ。

「こんな冷たい水に入ったら、後で熱を出すからって、子供の頃でも許してもらえなかった。もう、信じられないくらい冷たい」

 蒼褪めた両手で水を掬い上げては、それを天に向かってばら撒く。飛沫が身体に触れれば震えるのに、彼女は何度も水を巻き上げた。

「でももう良いの。だって私は今晩で死んでしまうんですもの。もう死んでしまうから、何にも気にしなくて良いし、何にも怖くないんですよ。もう何にも。何にも」

 彼女は狂ったように笑っていた。

 そして笑いながら何度も水を叩いた。

 それは飛沫なのか、それとも違うものなのか分からないが、頬をぐっしょりと濡らし、そして彼女は叫びながら、手を振り回しながら、水の中に倒れ込んだ。

 また顔を上げた時にはもう頬も唇も真っ青で、その痺れたようなもどかしい手で自分の肩を温めようと一心に擦る。

 彼女はゆっくりとこちらへ戻って来、寒さでもつれたのか、私の身体に倒れ込んだ。

「貴方の願いは叶った?」

「お願いです。許して下さい。私はまだ死にたくないです。死にたくないんです。お願いします。死にたくないんです。死にたくない」

 私の胸元で嗚咽が漏れる。

「駄目よ。これは貴方と私の間で約束した事でしょう? 私はそれを果たしたわ。貴方も果たしてくれないと」

「嫌です。まだ生きたいです。なぜこんな惨い事を? なぜ私なんですか? 誰か他の人の所に行って下さい。お願いです。どうして、こんな事をするんですか?」

 冷えた身体に、頬を流れる水滴だけが熱い。

「私も、生きたいからよ」

 彼女は顔を上げ、私の瞳をじっと見つめた。

 その真っ直ぐで強い視線はまるで私の何もかもを見透かすようでもあった。

「貴方は、人ではないのですか?」

「えぇ、貴方達の言う所の化け物。私は、血を吸わなければ生きていけない、化け物よ」

 彼女は目を伏せ、私の懐で身を縮めると、それ以上は抗わなかった。

 観念したのか、それともまだこれが夢である事を望んでいるのか、目蓋を閉じたまま、それ以上私の呼びかけには応えなかった。

「じゃあ、血を貰うわよ」

 私は黙り込んだままの彼女の首筋に口付けると、その生命を貪るように奪い取った。


 私はその屍を抱き上げる。

「結末に潔い者ほど美味と聞きます。最後の最後に命乞いとはその女性、最高には今一歩及ばずというところですか? 惜しい事です」

 ウルの冷たく静かな意見に、私は仄かに反発を覚える。

「駄目よ、ウル。飲んだ事も無い身でそういう事を言わないで。惜しいか、そうでないかは、実際に口にした私の決める事だわ」

 しかし私もウルの言う最高の美味に触れた事はない。

 知った風な口を利いているのは私も同じなのである。

 だがウルはその忠誠心から容易く頭を垂れた。不屈だが、頑なではない証である。

「彼女が強い生命力を持っていたから、生きたいという強い願望が生まれたのよ。それらは私を十分に満足させたわ。結果はそれだけ。惜しいも、惜しくないも、ここには無い」

 ずり落ちそうになる身体を私は抱え直す。

 私は彼女を家に帰すため、その河縁から上がろうとするが、気が付くと目の前に立ち塞がる影があった。

 ラバンである。

「それを寄越せ」

 彼が手を伸ばすが、私は彼女を庇う様にきつく抱いた。

「駄目。彼女は家に帰すのよ」

「何のためだ?」

「彼女はそれを望んでいるはずよ」

「そんな約束はしていないだろう? はっきり聞いたわけでもないのに、なぜ分かる?」

 私は言葉を失った。

 それが私の思い込みではないと言い張るだけの理由が無い。

「それを寄越せ。お前にはもう無用の物のはずだ」

「でも、なぜ貴方に渡さなければいけないの?家に帰してあげても良いじゃない?」

「お前が血を吸うのと同じ理由だ」

 私の腕から力が抜け、思わず身体を落としてしまう。

 弾かれた小石同士がぶつかり合った。

「お嬢様、彼はお嬢様が血を奪われた後の身体を食す事を、ご主人様から許されているのです」

「無駄に朽ちさせるよりはずっと良いだろう? さぁ、そこをどけ」

 足元に寄りかかる青白い身体を見た。

 ウルとラバンの言う通りなら、最初に私が命を奪ったあの少年も、ウルの言っていた処理とは、ラバンが食していたという事なのか。

 その次も、そしてその次も、私は彼らを眠るように横たえたはずなのに、私の見ていないところで、ラバンが残された身体さえ奪っていたのである。

「また別の人間を喰らっても良いと言うつもりなら、俺はそれでも構わんが、お前は多くの人間を殺める事を好まないのだろう?」

 私はもはや退く以外に無かった。

 私が離れると、次にラバンが彼女を抱き上げる。

 何か黒く大きな、そしてとても威圧的な何かが閃いたかと思うと、もう彼女は居なかった。

 ラバンの口元が微かに赤く汚れ、周囲の小石に混じって欠片が僅かに残っている。

 その残酷な様を見て、私は自分自身に寒気を覚えた。

 血か、肉か、その差はあるが、どちらも光景は同じだった。

 ラバンもまた、生きるためなのである。

 彼ほど気位の高い者であれば、私などの残りを口にするのは、屈辱的でさえあるだろう。

 しかしそれは、父の許しと言うよりもむしろ命令であり、彼が生きる手段なのである。

「満たされた?」

 私は問う。

 だが彼は応えず、また現れたときと同様に音も無く消えていった。

 私は川面に映る自分の姿に怯え、口元を拭った。


次話更新8/3(金)予定








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