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ヤミヨヒメ  作者: 二束
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ヤミヨヒメ  -ヨヲアルク-

 数日間、正確には八度日が昇り、同じ回数の夜が訪れた、その間、私は自分の部屋に籠もり続けた。

 血を飲んだ時のような激しさではないが、その後もその力は私の中で巡り続け、緩やかにではあるが私を改変していた。

 それは極僅かな痛みを伴い、私はその痒いような酔うような熱っぽさを楽しんでいた。

 時折、大きく皮膚が裂け、膿か、あるいは不必要な組織片が押し出されてくる。その傷もすぐに癒え、非常に満足のいく結果、つまり肌が得られた。そして時には、再び裂けた。

 そうやって部屋にごみが増えると、実際にはそれほど溜まっていない場合でも、私はキリカを呼び、それを片付けさせた。

 そしてそれが終わるのを待って、時には待ちきれない時もあったが、私は彼女を伴って鏡の部屋に行き、育ちつつあるが未だ不完全な私自身を興奮と苛立ちがない交ぜになった心地で眺めた。

 その間、ウルやロザリアには会わなかった。

 しかし屋敷の中にロザリアの気配はあり、単純に私からも彼女からも互いに会おうという意思がないために会っていないのだろう。

 ウルの方は、気配が無かった。いや、正確に言えば、気配にざわめきがなかった。

 恐らくウルはどこか私のそばで息を殺して潜んでいるに違いない。

 ただきっと、私が顔を見せろと言うまで、そうして私に会わないでおくつもりなのだ。

 ウルが傍に居ると私が心を乱す。

 それはあの食卓だけでの話だというのに、ウルは律儀にも私が許しを与えるまで、それを遂行し続けるつもりなのだろう。

 だが同時に教師として、この大げさな動きを好む生徒から目を離せないでもいる。

 キリカを話し相手にどこへも随伴する私を見ながら、どこかでウルは表情を冷たくしているに違いない。

 つまり、その数日間、私は十分な楽しみに恵まれていた。

 だがやはり、再びその時が訪れた。

 空腹である。

 時が経つほどに、まるで泉の水が干上がっていくように、生命を象徴する力が枯渇していくのを感じた。

 それは私の身体が作られていくほどに明確さを増し、加速するように膨らんでいった。

 私は、部屋を出、屋敷を出た。

 屋敷の中からロザリアの声が響き、振り返るとすぐそばに居た。

「どこへ?」

「一緒に来る?」

 私がそう言うと彼女はそれ以上何も言わず、やや呆れたような顔を見せると、そのまま闇に自らを屋敷の奥へと運ばせた。

 私は門に手をかけ、力を込めてそれを引く。しかし門は外観よりもずっと重く、僅かに揺れるが、それ以上ではない。

 もっと身体ごと倒れるように引っ張れば、あるいは開けられるのかもしれないが、そんな無茶な事をして腕でも千切れてしまっては面倒だ。

「ウル、いつまで見ているつもりなの? 街へ行くから、これを開けてちょうだい」

 私が大声を上げると、周囲の木々が密やかに揺れ、この闇の中ではそうそう訪れる事のない騒々しさに驚いたようだった。

 すぐ傍の空間に小さな風が吹いたかと思うと、その揺れ動いた空気が仄かに色づき始め、それは忽ちウルの姿となった。

 彼の本質が煙であるがゆえに出来る事なのであろうが、便利なものだと思い、少し見入ってしまう。

「どちらへ?」

 彼は格子に手をかけながら問う。

「服と、食事よ」

 ウルが門を開ける。

「宜しいのですか?」

 彼の顔がまるでいつもと変わらぬ無表情であったので、もしやあの時の事など全く憶えておらず、気にも留めていないのかとも思ったのだが、そうでもないのだろう。

 彼は彼なりに、私が取り乱した理由を考えていたのか、少なくともあのような事が再び起きては堪らない様子だった。

「えぇ。宜しいも何も、仕方の無い事なのでしょう? 貴方がそう言ったじゃない?」

「安心いたしました。」

 私は暗い道へと歩を進めた。

 そう、仕方が無いのである。

 そう思う以外に、私に何が出来よう。

 私は、奪う者としての役割に徹する事を決めていた。

「ねぇ、ウル。私はこんな姿で人の世界へ出ても良いのかしら? それに、まだ私は人に対して無防備ではないの?」

 最後の曲がり角を曲がり、あと数十歩で光を浴びる頃、私はふと問う。

 通りを行く人々の服は様々であるが、誰も私のように血塗れであったりはしない。

「えぇ、お嬢様ご自身であちらへ出られるのはお止め下さい」

「またウルに全て用意してもらっては、ここまで来た意味がないわ。屋敷を出る前に言ってくれれば良いのに」

「それでは、私がお隠しいたしましょう」

 そう言うとウルは私の手をとり、それを自分の胸へと押し付けた。

 しかし私の手に、触れた、という感触は無く、ただ僅かな温もりだけを感じながら、彼の懐の中へぐんぐんと呑み込まれていく。

「便利ね。これで私は見えなくなるのね」

 私はまた少し羨みながら、また一方で興味を膨らませ、彼の奥へと転がり込んだ。

 どのような感じかと彼の内側を説明するのは難しい。

 私は風に巻き上げられるように宙へ浮いているようにも感じるが、どこかへ落下しているようにも思われる。

 周囲は仄かに紫に煌く粒子で満たされ、それがウルの本質を示しているに違いない。

 手足を自由に動かす程度には問題ないが、その範囲がどこまで続いているのかは分からず、しかしすぐ傍に外界の景色が透けて見えてもいる。

 理解はし難いが、それを諦めて、慣れれば思いのほか居心地は良かった。

「まずは、どちらへ?」

 あらゆる方向からウルの声が響き、私の鼓膜を静かに震わせる。

「最初は食事よ。新しい服を汚したくないから」

 ウルは光の中へ進んだ。

 彼が足を踏み出すと、私の居る空間も微かではあるが、それに合わせて揺れ動いた。

「相手はウルが選ぶの?」

「私が選んでもよろしいですが、お嬢様が選びたいのであれば」

「選びたいわ。では、この通りを真っ直ぐに歩いて。見つけたら教えるから」

 ウルは黙々と歩き続け、私はその中で周囲を見回しながらくつろいでいた。

 通りを歩く人々には、老いた者もいれば若い者もいる。男性、女性、太った者、痩せた者、身なりのみすぼらしい者、見栄えの良い者。

 だが、私はふと気付く。

 何を基準に選べば良いのか。

 ウルに尋ねようかとも思ったが、またそのような事も知らないのかと呆れられるのは、少々癪である。

 そこで私は外観に優れる者を選ぼうと決めた。

 これまでに学んだ事から考えると、美しい者は格が高く、格の高い者は強い力を持っているのである。

 ならば恐らく、食を選ぶときも、同様に美しい者を選べば十分な力を得られるに違いない。

 しかしなかなか気に留まる者は現れず、私はウルに様々な通りを歩かせた。

「お嬢様、まさかご自分では決断出来ませんか?」

 ウルはまだ私が食事に対して躊躇っているのかと気を配る。

「いいえ、心配しないで。単に目に適う人が見つからないだけだから」

 しかしそれは中々見つからなかった。

 見栄えの良い者を探すと言っても、誰も彼もあまり美しいとは思えなかった。

 その理由は単純で、私の周囲にいる者達が美し過ぎるのだ。

 ウルは人間の男性など比べものにならない艶やかさであるし、女性にしてもロザリアはおろか、キリカにさえ敵う者はいない。

 これではウルやロザリアが人間を蔑視する理由も良く分かるというものだ。

 私が人間を良く思おうとするのは、恐らく私の本質ゆえであろうが、あるいは誇大妄想か幻覚の類であったのかもしれないという気さえしてくる。

「あ、ウル、彼にするわ。あの赤い服の人」

 その時、一つの建物から出てきた人物に私は目を留め、すぐにそれを指差した。

 指差したところで、私はウルの内側に居て、もしかするとウルの目に私の行動は映らないかもしれなかった。

 しかしウルは、私の動きが見えているのか、あるいは赤い服という言葉だけで察したのか、その男性の方へ向きを変える。

「お嬢様、本当にあの人間で宜しいのですか?」

 だがウルはあまり気乗りしないようであった。

 確かに少々年をとっており、髪には白髪も見える。だが他の人間よりは姿勢も堂々としているし、何より身に着けている衣装が立派だった。

「いけないの? 今まで見た中では一番綺麗な格好をしているわ」

「実際に血を飲んだ事の無い私が申し上げるのも差し出がましい事かと思いますが、あの者のような老人からは十分な精気を得られません」

「なぜ? 美しく高貴な者ほど強い力を持っているのではないの?」

「それも間違いではなく、そのような答えに至っていただけた事を嬉しく思います。しかし、人間の社会は合理性を欠いており、真実に美しく力ある者が支配力を持つとは限らないのです。彼らの社会において不相応な位階に就いたものは、往々にしてやたらと着飾り、自らを大きく見せようとするのです」

 衣装だけで選んでは良くなかったようだ。これで決定権をウルに奪われるかと思うと、少々悔しく思う。

「分かった。彼はやめるわ。それなら、どんな人なら良いの?失敗したから言うけれど、本当はどうやって選べば良いか分からないわ」

「人間は、見た目こそ私達に似通っているため、その存在は基本として美しいものです。しかし精神の高貴さを基準としない非合理的な仕組みが、彼らの精神を徐々に蝕み、その本質としての美しさは失われていきます。それどころか、多くの場合、人間は年経るほど浅はかな邪念にとらわれ、その質は粗悪なものとなります。即ち、人間は生きるほど急速にその格を下げていくと思っていただければ結構です。ですから、先ほどのような老人であれば、食事として十分でないばかりか、その邪念がお嬢様の身にあるいは悪影響を及ぼすやもしれないのです」

「理解したわ。それで、どんな人なら良いの?」

「人間の社会は主に、男によって成り立っており、そのため質が衰えるのは男の方が早いと聞いております。そこでお嬢様が飲むに堪えうる者は、幼く無垢な者か、あるいは心身の清らかな乙女かと」

 実際に血を飲まねばならないのは私なのに、何とも詳細に語り上げるものだ。

 まるで何度も血を吸って試行錯誤を重ねたかのようなウルの言葉に私は少々気押されていた。

 もちろん、試行錯誤を繰り返したのはウルではないだろう。

 その知識も、父がウルに与えたものか。

「でも、子供も女性も居ないわ」

 改めて私は周囲を見回してみるが、男性の方がずっと多く、僅かに居る女性や子供も貧相な表情をしており、美しさや高貴さは無いように思われた。

「今、こちらの世界は夜でございますから。人間の特に女や子供は男達よりも暗さを嫌うようで、夜はそれぞれの家に籠もっているのです」

「では、どうするの?今日は諦めるべき?少しくらいなら、我慢出来るわよ」

 私は、空腹のためにやや小さくなったように感じる自分の腹部をさすった。

 脇腹に大きな亀裂の様なひびがあるのを服越しにも感じる。

 次の食事ではこれも癒えるのかと考えた。

「いいえ。探します。人間の都合にお嬢様が合わせる必要はありません」

 周囲の闇が濃くなる。

 私の眼ならばまだこの暗さを見通せるが、恐らく人々には無理だ。

「なぜ姿を隠すの?」

 闇に囲まれたウルを人間は見る事が出来ない。ただそこに陰を感じるだけで、目には何も無いように見える。

 しかしそこに暗いものが存在している事を、見えなくても心のどこかで知り、やはりその暗さに本能が恐怖を覚える。

 無意識ながらも私達から視線を逸らそうとする人間達を、私は憐れむように眺めた。

 こんなにも人は、容易く、そして不可避に恐怖を感じてしまうのかと。

「人間は夜魔を恐れますから。明らかにそれと分かるような力は見せない方が良いのです。強過ぎる恐怖は反抗を招き、それは決して好都合にはなりえません」

 ウルは僅かに膝を曲げ、またそれを伸ばしたかと思うと、周囲の景色は既に家々を足元に見ていた。

 内部の空隙にいる私にその多くは伝わらないが、ウルに大きな動きは無かった。まるで階段を一つ上るだけであるかのように、ウルは屋根へと跳び移ったのだ。

「今のは、人には出来ない動き? それとも、ウルにだけ出来て、私にも出来ない?」

「人間には不可能です。しかしお嬢様は必ず出来るようになります。身体が完成されれば、すぐにでも」

 ならば、早く出来るようになりたいと思った。

 出来る事なら、ウルが姿を隠した闇についても知りたい。

 そのために私とウルは子供を捜した。

 家々を巡り、子供らが寝入る部屋の窓を開ける。

 窓は必ず固く閉ざされていたが、ウルが触れれば容易く開いた。

「ウル、彼よ。身なりはあまり綺麗でないけれど、眠っている表情が優しげだわ。彼に決めるのは、どう?」

「よろしいかと思います」

「では、彼を起こして」

 ウルはその手でそっと少年を揺り起こした。

 不意に目を覚ました少年は、周囲をしきりに見回す。ウルがまだ姿を隠したままでいることを私は忘れていた。

 その姿は見えないが、何かが異様だと気付いているのだろう。

 彼は怯えるように部屋の隅へ走り、うずくまると反対の隅を見つめ続けていた。

「ウル、私は出るわ。貴方は好きなようにして良いわよ」

「お嬢様が、姿をお見せになるのであれば、私もお供しましょう」

 少年の目にはどのように映っていたのであろうか。

 誰もいないと思っていた部屋の中に、いつの間にか一人の男が立っていて、またその懐から血塗れの女が一人歩み出てきたのである。

 恐怖に凍りついたまま、カッと目を見開き、叫びたいようだが声も出ないようだった。

「怯えないで。貴方の血を貰いに来たの」

 私はもう躊躇わない。

 それを教えたくてウルに少し微笑む。

「どうして、僕なの?」

 掠れる声を絞り出しながら、少年は問う。

「理由は無いわ。貴方が良さそうだと思ったから」

「それはもう、止めには出来ない?」

 何とか生き残ろうとしている。それは当然の事だ。

 そして、私も当然、生き残りたい。

 どちらも生きるのは無理。

 それは仕方の無い事なのだ。

「ウル、今更止めにする事は出来るの?」

「お嬢様が人間の都合に」

「駄目みたいね」

 怯えた少年は、その小さな手をぐっと握り、自分の膝頭を三度叩いた。

 彼の目から、どうしようもない悲嘆の涙が落ちる。

「でも、貴方の命の代わりに、他の願いを叶えてあげるわ」

 この数日間、ずっと考えていた答えだった。

 これは仕方の無い事だとは思っても、ただ奪うだけに慣れる事なんて、私は出来ないと思った。

「お嬢様、人間と取引など」

「ウルは黙っていて。こうでもしなければ、私はまた同じ過ちを繰り返すかもしれない。あんな屈辱は、もう嫌なの」

 ウルは私の教育者だ。私にまたあの無様な姿を晒させるような事を、彼に出来るわけが無い。

 彼は静かに口を閉じた。

 言いたい事は多いだろうと、その目を見れば分かる。

「ありがとう」

 私は少年に一歩近付いた。

「さぁ、何でも言って。叶えられる事なら、叶えてあげるわ」

 少年は私の顔をじっと見上げた。

 その捕食者がただ甘言を並べるだけの不実な者かどうかを値踏みしている。

 そしてその涙を手のひらで一気に拭い去ると、彼は覚悟した表情で語り始めた。

 その言葉が終わるときが自分の最後の瞬間なのだと、心を決めたのだろう。

「故郷に居る、父と母に、お金を送って」

 お金が何かを私は知らなかった。

「ウル、お金は何? 私が彼の故郷に送る事は出来るもの?」

「私もその詳細な概念は存じ上げませんが、人間が最も重視する基準です。その多寡で人間は階級を決め、それを消費する事で他人のものを障り無く奪うのです。階級に関しては全く感心しませんが、その互いのものを交換する仲介となりうるものを作り出した事は評価すべき点です。私達には必要の無いものですが」

「私はそれを持っているの? 彼の故郷に送れる?」

「私がご用意いたしましょう。その量と、その者の故郷が分かれば」

「ありがとう。用意してちょうだい」

 私は少年に微笑んだ。

「良いわ。その願い、叶えてあげる。お金は、どのくらいあれば良いの? 貴方の父や母はどこに居るの?」

「じゃあ、お給金の、三ヶ月、うぅん、もっと五ヶ、六ヶ月分送って。父さん達の家は、旦那様が知ってる」

「貴方は知らないの?」

「僕は知らない。僕が凄く小さな頃に、この店に出されたから。お父さんの顔も憶えてない。」

「そう。私も父の顔を知らないわ。偶然ね」

 私がそう言うと、彼は少し笑った。

 その表情の意味は分からないが、彼が私と笑顔を交わしたいというのなら、その程度の願いも叶えてやろうと思った。

 私も、少し微笑む。

「お姉さんも、寂しい?」

「さぁ、どうかしらね?生まれた時から知らないのだもの、初めからずっと寂しいのかもしれないけど、たぶん寂しくないんでしょうね。」

 少年はまた少し笑った。

 にやにやと、照れるように笑い、私にその理由は分からなかった。

「僕も実は寂しくないんだ。旦那様は、僕が寂しいだろうと思って、色々と気を使ってくれるけれど、本当は寂しくない。どこかに父さんは居て、僕の事を考えたりしているかもしれないんだ。そう思うと、寂しいどころか、ちょっと楽しくなるんだよ」

 私の父は、どこかで私の事を思ってくれているだろうか。

 私の事をもう忘れてしまっているのでなければ良いけれど。

 ふと思い、私はウルを見た。

 だが彼は無表情で私を見つめるだけである。

 私が人間と長く会話する事を快く思っていないのは明白であるし、私がまだ何かを躊躇っているのではないかと不安げでもある。

「さぁ、時間よ。貴方の願いは叶えてあげるわ。だから、血をちょうだい」

 私は手を伸ばした。

 少年の手もすうっと伸び、私の指に触れる。

 彼は自ら歩み寄り、私の腕の中でその身の全てを委ねるように寄りかかった。

「お嬢様、ご自身で奪われるのですか?それとも、また私がいたしましょうか?」

「私がやるわ」

 ウルがそっと黒鋼玉のナイフを差し出す。

「要らない。私にはもう爪と歯がある。私の力でやりたいの」

 その弛緩しきった身体を抱き寄せると、少年の首筋に脈打つ血の管が見えた。

 今まさに迫り来る最後の瞬間を、ただ淡々と待ち続けるように、時を刻んでいる。

 私はその首に爪を這わせ、露になった管に唇を寄せると、そっと断ち切った。


 指で唇を拭う。

 指先が桜色に染まり、私はその爪に付いた一滴も舐め取った。

「それじゃあ、彼の旦那様を探しましょう。ウル、彼の旦那様は誰なの? お金はすぐに用意出来るもの?」

 私は快感で頭が痺れそうになる中、出来る限り平静を装いながらウルに言った。

 身体の中を何かが蠢いているのが分かる。

 それは私自身の肉達であり、それぞれにあるべき場所を探して、身体中を探索しているのだ。

「旦那様とは彼の主人の事でしょう。この下階は金と引き換えに靴を与える場所で、そこに行けば恐らく主人も居りましょう。金はすぐにキリカが持ってまいります」

「そう。ここには靴を置いているの?なら良い機会だわ。その靴も見ていきましょう?」

 私は歩き出した。

 左足を踏み出すと、それがぐっと伸びたように感じた。

 ようやく真っ直ぐに立てる。

「お嬢様、この者はこのままでよろしいのですか?」

 私は振り返る。

 ウルが自分の足元を指し示し、そこには少年が糸の切れた人形のように不自然な体勢で座り込んでいた。

「ウルが嫌がるかもしれないからと思って諦めていたのだけれど、貴方の方から言ってくれるのなら、私も言うわ」

 私はウルの顔を見、そしてもう一度少年だった者を見た。

 今後私の行く先々にはこれが満ちるのであろう。

 私はそれを、せめて何事も無かったと彼の身体が勘違い出来るように、訪れた時のまま、彼の寝床で眠らせてやりたかった。

「いいえ、これはやはり貴方に任せるわけにはいかない。私自身の手でやるわ」

 私はそれを遂行した。

 ウルには何の説明も与えなかったが、彼は何も言わなかった。

 私は恐らく彼が何事かを言って、私のこの行動を批評するであろうと予測していたのだが、それは無かった。

 気の済むままにさせておこう。またあの時のように狂を発されても面倒だ。

 きっとウルはそう思いながら、少年を抱えた私を見ているのだ。

「お嬢様、キリカが参りました」

 遺骸に毛布をかけた私が振り向くと、窓枠にキリカが居り、彼女はふわりと音も立てずに室内へ足を下ろした。

「いつ呼んだの? 気が付かなかったわ」

 私はキリカの手を握った。

 彼女は私の思うままにさせてくれる。

 この数日間、彼女ばかりを相手に時を過ごしていたものだから、私はいつの間にかそうすることを気に入っていた。

「どんな小声であろうとも、主の呼ぶ声はキリカに聞こえます。聞こえるようにご主人様が彼女に命じたのです」

 迂闊にキリカの事を悪く言うことは出来ないな。

 そう思ってみるが、特に彼女に欠点なども見当たらないし、何よりそれで傷つくような心を彼女は持ち合わせていないだろう。

 私が握っている方ではない、反対の手でキリカは何かを私に差し出す。

 それは仄かに蒼く、ほとんど角の無い、小さな石だった。それが二つ。

「何?」

「ここへ来る途中、キリカに拾わせたものです。私達にはさほど価値の無いものですが、人間には大いに価値があります。金の代わりになります」

 私はそれを手に取った。

 指で表面を擦ると微かに青色が濃くなる。ところどころ向こう側の景色が歪んで見えていた。

「こんなもの、どこにあったの? 全く気付かなかったわ」

「目に付き過ぎて気付かなかったのでしょう。私達の世界ではありふれておりますから。屋敷からこちらの世界へ出る小道にもたくさん落ちております」

「それがお金になるの? 便利なものね。」

 私がそれを手のひらで転がしながら眺めていると、ウルはその一つを取り、もう一つを残したまま私の手を強く握らせた。

「人間にも精練の技術がありますので、それを持つ者であれば良いのですが、普通このままでは人間はこれに価値を見出しません。ちょうど二つありますから、方法をお教えしましょう」

 ウルはその石を両手で包むと、父の名において言葉を語り始める。

「万物の支配者たる主の名において命ずる。輝け」

 ウルが手を開くと、そこには凍てつくように激しい輝きを放つ青の鋼玉があった。

「美しいわね。私もやりたいわ。どうすれば良いの? 早く教えて」

「私はご主人様の名に依らねば出来ませんが、お嬢様ならばただ強く思うだけで出来るはずです。その石の内に隠れている美に対し、輝くよう命じるのです。キリカに対してそうするのと同じように」

 輝け。

 私は強く念じた。私にはその石の本来を剥き出しに出来ると思いながら。

 当然出来ると信じていたから、私は疑念も無く手を開いた。

 私の手の上に先ほどよりもやや小さくなったかと思われる、玉石があった。

「出来たわ。ウル、見て。出来てるでしょう?」

「お見事でございます」

「では、行きましょう。これを彼の主人に渡すのよ。靴も選ばないと」

 私はウルからもう一つの石を受け取り、そしてそれをキリカに持っているように渡した。

 それからキリカの手を握りながら階段を下り始めた。

 ウルはキリカの後ろを歩く事を不服に思っているだろうか。

 見上げた彼の表情からは分からなかった。

 下の階の部屋は、上にあった部屋よりもずっと大きく、所狭しと靴が並べられていた。

 その靴に紛れるようにして、あまり見栄えが良いとは言えない小柄な男が立っている。

 その表情は驚愕に凍ったように固まり、階段を下り行く私達を一心に見つめていた。

「貴方がこの家の主人? 貴方に聞きたい事があるのだけど」

 男は突如として一歩退く。すると、彼の傍にあった棚にぶつかり、棚はぐらりと揺れたかと思うと、大きな音と共に倒れていった。

 その音に驚いて、男はまた何かにぶつかるが、次に倒れたのは彼の方であった。

「何なんだ、あんたらは? どうしてそんな所から降りてくる?ヂノはどうしたんだ?」

 床にしりもちをついたまま、男は一息に言葉を並べ立てた。

 私としても、そのどれから答えるべきか、僅かに迷う。

 まず、私達は容易く名乗ってはならないようだから、最初の問いに答えるとウルに窘められるだろう。

 次の質問も、上の部屋から降りるにはこの階段しかなかったのだから、理由など答えようも無い。

 ヂノは、上にいた少年の事だろうか。

「怯える必要は無いわ。貴方まで殺める気は無いから」

「お嬢様、人は私達に恐れを抱くもの。怯えるなと言うのは、むしろ酷でございます」

 まさにウルの言う通りで、男は尻を床に引き摺りながらも、少しずつ私達から遠ざかろうとし、その口を大きく開けては必死で息をしている。

「もし、ヂノというのが上で寝ていた子供の事なら、彼は自分の寝床で死んでいるわ。その事で彼の主人にお願いがあるのだけど、貴方がそうよね?」

「何なんだ、あんたら? あぁ、何であの子が死なねばならないんだ? 殺したのは、あんたらなのか?なぜ、こんな事を? あぁ、神よ、お助け下さい。」

「そんなに一度に幾つも質問されても、答えられないわ。それに、先に聞いたのは私よ。貴方が彼の主人なの?」

 しかし男は床に額を摩り付けながら何やら叫び続けるばかりで、仕舞いには泣き出す始末である。

 私が何度問いかけても、彼は助けを請うばかりで、殺すつもりがないというのも全く伝わらない。

 呆れたように私はウルに向かって肩を竦めると、彼は業を煮やしたかのように突如進み出た。

「人間よ、命を惜しまないのなら、いつまでもそうしていなさい。もしも明日まで生きたいのであれば、お嬢様の言葉に耳を澄ますべきだろう」

 そう言いながら、ウルはすぐ傍にあった薄汚れた布をその男の目の前に投げ下ろした。

 ウルは苛立っているのだろうが、それは恐らくその人間の態度に対してではなく、私が人間とした約束、つまりウルにとってはつまらない事柄に私がいつまでも時間を費やす事に対してだろう。

「ウル、手助けしてくれるのはとても嬉しいけれど、私は彼の命を奪うつもりはないわ。嘘は駄目よ」

「ですが、これでこの者はお嬢様の言葉を聞く気になりました。それにお嬢様にその気がなければ、私がやりますから、あながち嘘でもない。たとえ人間との約束といえども、それを反故にする事はお嬢様の格に傷をつけます。障りとなるものを取り払うのが私の務めです」

 確かにウルの言葉は効果的であった。

 男は投げられた布を急いで拾い、それで顔を拭くと、もう泣き喚こうともせず、こちらを伺っている。

 だが、その布は何か汚れたものでも付いていたのか、男の顔には黒や茶の筋が幾つも塗られていた。

「では聞くわ。貴方は上に居た子の主人なの?」

「は、はい、そうでございます。友人のまた友人が生活に困っておりま」

「詳しい話は要らないわ。あまり関係無いから。私はその子の命と交換でお金を渡すと約束し、彼の給金の六ヶ月分を、彼の両親に送りたいの」

 私はキリカから石を二つ受け取る。

 男にそれを渡すため近付こうとするが、それをウルが非常に小さな声で制止した。

 自分から近付くのは好ましくないのだろう。

「これがそのお金の代わりよ。受け取りに来て」

 男は身を屈めたまま私の足元まで近付いてくる。

 まるで不恰好な椅子が歩いているようだった。

 私は男の差し出す手のひらに石を転がした。

「今は二つしか持っていないのだけど、これで六ヶ月分には足りるかしら?」

 男は自分の手の中にある鋼玉を食い入る様にして見、それから声を震わせながら言った。

「い、いえ、申し訳ありませんが、まだ足りません。も、も、もう一つ、頂きたい」

「そうなの? でも今は持っていないわ。キリカ、急いでもう一つ」

「お嬢様、騙されませんように。その男、欲を出して嘘を申しているのです。恐らく、一つでも十分過ぎるほど足りましょう」

「そうなの? でも、ウルもお金に関しては疎いのではないの?」

「疎いのは確かですが、全く分からないわけではありません。それに、この者の顔を見ていれば分かります。これが欲に曇った顔です。お嬢様も、良く見、憶えておかれると良いでしょう」

 私は男の顔をじっと見た。

 男はたちまちに赤面し、視線をどこか分からない方向に逸らしてしまう。

 その恥じ入った表情は、何とも愚かだ。

「二つで足りないというのは嘘?」

 男は私とウルと、そしてその石を何度も巡るように見、しばらく黙っていた。

 確かに、曇っている。

「欲で命を失いたいのですか?」

 男の顔が一層赤くなる。まるで今にも燃え上がりそうだが、あまりその様は見たくない。

「も、申し訳ありません。私ごときには一生かかっ」

「じゃあ、これは返してもらうわね。言い訳は要らないわ」

 私は石を一つ取ると、それをまたキリカに握らせた。

 男の表情に後悔の色が滲み出る。

 いつ解放の時が訪れるのかとこちらの、特にウルの様子を伺っていた。

「こ、これを売って、あの子の故郷へ金を送るのは、う、承りますが、」

「許しも無く、不必要な発言は好ましくないですよ」

「ですが、あの、あの子の、し、死は何と言って伝えれば?」

 あの子は、父がいつも自分を思ってくれていると信じていた。

「そうね。思いの先に居るはずの人が、急に居なくなるのは寂しいわね」

「お嬢様には関係の無い話でございましょう?それに、何をしてもその寂しさは消えぬもの。わざわざお手を煩わされる必要はございません」

「消えないのだとしても、薄める事は出来るはずだわ」

 私はウルの顔をじっと見つめる。

 それは懇願であるが、同時に根比べでもあった。

 夜魔として全くの間違いであったのなら、私がその選択肢を挙げた時点でウルは厳しく教えを説いただろう。

 だが、今のウルの口調は、呆れた風ではあるが、まだ穏やかだ。

 彼の周囲に紫の粒がときに輝き揺れている。

 許されるのなら、私は出来る限り思うようにやりたいのだ。

 その欲求は私が純血種と似て非なる不安定な夜魔ゆえか、あるいは浅はかな人の骸ゆえか。

「分かりました。しかし、ありのままを伝えてはなりません。先ほども申し上げましたが、人間に余計な警戒の種を与える事は無益です。」

「それなら、病のせいにすれば良いわ。急な病ならば、誰にも起こりうる事。仕方が無かったと、思う以外に無いわ」

「しかし、な、何の病と言えば、あれの父親を納得させられましょう?」

 病の名など知るものか。

 ウルの言葉を借りれば、名はそれを欲しがる人間が付けたものだ。

 私はただそれの存在を知っているだけで、名も知らなければ、侵された事も無い。

「それくらい、貴方が考えなさい。お嬢様はあの子供が憐れゆえ、幾つもの恩情をお示しになってはいるが、それが貴方にも与えられるとは夢にも思わないほうが良い」

 私に答える言葉が無い事を悟ったのか、ウルは代わりの言葉を用意する。

 それを聞いた男は、ますます背を縮め、額で穴でも掘るつもりなのか、頭を床に擦り付けていた。

「それじゃあ、次は靴を選びましょう。本当の事を言うと、足の形が変わってきたせいで、今の靴は凄く気持ちが悪いのよ。良いものが瞬く間に用意される事を望むわ」

 変わってきた、と言うよりも、整ってきた、と言う方が正しいのだが、つまり今までのようにただ足と呼ばれる肉の塊を突っ込んでおけば事足りる程度の靴ではなく、踵から爪先までを正確に包み込む逸品が必要となったのである。

 私が言い終わるや否や、ウルは店内を動き始めた。

 私を美しく高貴な者に育てるためには全てを惜しまぬ人である。私の我儘には時折渋い表情も見せるが、正しい道を行くとき、彼は無口だが忠実である。

 しかしその忠実は父のためのものであり、彼には申し訳ないが、私は彼の選ぶ靴に退屈さを覚え始めている。

 せめてウルが父ではなく私のためだけに、私の希望を僅かでも聞いてくれたならば、たとえ何を選ばれようと私は満足であろうに。

「貴方も何か選んできなさい。それが貴方の生業なのでしょう?」

 私は平伏するばかりの男に言った。

 そこでいつまでも怯えを見せられるのは、あまり気分の良いものではなかった。

 しかし、ウルは彼を動かした事を不満に思うだろう。

 己の働きだけでは信用できず、その補いを人間にさせている。

 ウルがそう感じる要因は十分にある。

 もはやそれは侮辱とさえなりうるだろう。

「キリカ、貴方も何か探してきて。私が履くと良さそうなものを」

 キリカも行けば、私が総力を挙げて探索に乗り出しているという構図になるだろう。

 事実、私は新しい靴を心待ちにしていた。

 私が握っていたキリカの手を離すと、彼女は傍にあったものから順々に手に取り、その少し垂れ下がった目でゆっくりと吟味する。その表情は純真で、良いものを選ぶ事に一心不乱である。

 しかし彼女もまた、私の興味に沿うか否か、あるいは私にどのようなものを身に着けて欲しい、といった考えは持たない。

 それが彼女の性質だ。

 だが、キリカも確かに忠実である。

 そのような彼らの事を、私は嫌いでなく、むしろ好ましく感じていた。

 ただ思うのは、特にウルの忠誠を揺ぎ無く受けている、父への羨望と、嫉妬であった。

「お嬢様、残念ながらこの店に、お嬢様に相応しいほどの品は御座いませんでした。その中で敢えてお召しになられるならば、こちらはいかがでしょう?」

 倒れた棚に腰掛けていた私の背後に、ウルがそっと歩み寄る。

 その手には一足の靴があり、それは慎ましくもあるが、どこか凛然としている。

 それを選んだのは、私のためか、それとも父のためか。

 そう聞いてやりたいのだが、悔しいかな、不覚にも私は気に入ってしまうのである。

「履くから、そこに置いて。貴方は不相応と思っているかもしれないけれど、それでも貴方が履いても良いと言ったのだもの、全くの不出来ではないのでしょう?私はウルを信頼しているわ」

 気に入ったなどと言っては、父の思う壺なのではないかと、感じた。

 だからそれは単なる卑屈だったのかもしれないが、ウルは微笑んだ。

 そこで微笑む事が、もしも父がウルに与えた命令だったとしたら、私は疑いようも無く父の掌中の猿であろう。

 それを思えば、ウルの全てが父の意思に見えてしまう。そしてそれを考えるのは無意味な事だ。

 私は小さく笑みを返し、靴を脱いだ。

 つるりと滑らかな素足を私自身でさえ初めて見、素肌に風を感じて僅かに身を震わす。

 これでこそ足だ。

 私は出来栄えに感嘆し、それが自惚れだと気付くまでしばらく時間がかかった。

 足元に揃えられた真新しい靴に爪先を立てる。すると私の足は靴の中に、まるで水でも注ぐようにするりと吸い込まれていった。

「具合は、いかがです?」

 ウルが手を出したので、私はそれに掴まり立ち上がる。

「悪くないわ。えぇ、とても良い」

 ふと見るとキリカも一つ決めたものがあるようで、まだ他のものも吟味していたが、その手に一足抱えていた。

 私が彼女を呼ぶと、すぐに鑑定を止め、その靴を私の前に示す。

 ウルの持ってきたものとは趣が全く違うが、やはり夜魔が選んだものと言うべきだろうか、その選択は悪くない。

「ウルはどう思う? 私はこれも欲しいわ」

 彼は頷いた。

 その表情は厳しくも無ければ、不服そうな様子でも無い。

 私は微笑んだ。

「ありがとう、キリカ」

 靴を手にしたまま彼女も微笑んだ。

 私がそう命じたからである。

 その作られた表情に感情は無いが、繰り返す事でいずれそれが宿ればと、仄かに望んでみる。

「こちらは、いか、いかがでしょうか? 当店、で、一番の品物でございます」

 平伏す男が誇らしげにそれを掲げる。

 一番だと言うからには、それがウルやキリカの選択よりも優れていると思っているのだろう。

 彼に忠誠心は無い。しかしその靴を掲げるのは、私がそれに目を留める事を望んでいるのか。

 そしてその先に何を欲しているのか。

「気に入らないわ。これが一番だとは思えない」

 過飾であった。

 確かに一見すると煌びやかであるが、そこに実は無い。

 内包する清らかさがなければ、どれほどの飾りももはや虚しいのである。

 なぜ男がこれを一番と掲げたのか。

 なぜ私がそれを一番とは到底思えなかったのか。

 それはきっと彼と私とでは見えている美に大きな隔たりがあるからだ。

 それが人間と夜魔の距離だ。

 私は憐れに思った。彼を通し、人間を。

 私に拒絶された理由も分からず、そこにある困惑と痛惜さえも空しい。

「この二足を貰っていくわ。代わりにお金が要るのでしょう? どれくらいあれば良いの?」

 男は僅かに逡巡する。

 私にもその理由は分かった。だが彼を急かしたのはウルであった。

 男はウルの顔を見、ごくりと唾を飲み込んだかと思えば、また平伏してようやく答えた。

「いえ、これほどの宝石ならば、ヂノの給金を引いてもまだ、靴の、代金などには、十分過ぎるほどでございます」

「そう。じゃあ、残りは好きにすると良いわ。欲しかったのでしょう?」

 男は額を床に擦り付ける。

 その様子を見る事に全く楽しみは無いので、私はそこを出た。

 出かけにウルが男に何事かを言っていたようだが、よく聞こえなかった。

 しかし、男の表情が青くなったところを見ると、その内容は想像に難くない。

 そして私達は服を探しに出かけた。

 また私はウルの中に潜り込み、すれ違う人間達の格好を見ながら、次はどんな服を着ようかと、想像に胸を膨らましていたのである。


次話更新7/27(金)予定




作者ツイッター https://twitter.com/yuki_anno

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