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ヤミヨヒメ  作者: 二束
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ヤミヨヒメ  -シヲススル-

 私は闇の中で待った。

 時折、僅かな明かりが人の住む世界から零れ落ちて私の醜い足を照らしたが、私はすぐにその足を闇の奥へと隠した。そして足を闇に戻しても、すぐにその光へ手を伸ばそうとして一歩進み、また醜さを恐れて一歩下がった。

 何度も、何度も闇と光の境を往復し、私はその変化の無さに飽き、五度目の往復を終えると私は立ち竦んだ。

「お嬢さん、何をしているんだい?」

 この私に声をかける者がいるとは予想もしていなかったのである。

 ウルの声とは明らかに違う。

 ウルの声。細く微かで、囁きが私を包み込むように広がる、慈愛の象徴と冷淡な表情を併せ持つ、ウルの声。

 しかし今私に呼びかけたその声は、ただ純粋で、疑いなどなく、どこまでも消えない中心を持ち、ただ私を見つめる正直な強さを含んでいた。

「こんな夜更けに裏通りに隠れているなんて。何か事件にでも巻き込まれたらどうするんだ」

 優しげな響きで声は広がっていたが、私はその強い響きに臆していた。

 しかし心地良さも感じていた。

 未知の経験に恐れを抱いた心が急速に安息へと落ちていくのを、私は確信に近い感覚で他人事のように見ていた。

 私はそっと右腕を闇から声の方に伸ばし、そして左手は闇の中へと沈めた。

「貴方は誰?」

「僕か? 僕はランス=エスミュゼル。貴族の端くれだよ。さぁ、早く家に帰るんだ。家が無いわけではないんだろう?」

「ランスが貴方の名前? 貴方は人間なの? 私は向こうの屋敷に住んでいるわ。私の家を見た事がある? 普通の人間には見えない屋敷なの」

 私の気分は高揚していた。

 ウル以外の存在と言葉を交わしたのは初めてだったから。

 私はこの瞬間、私の心の中に「好奇心」が明確に湧き起こるのを感じた。

 もちろん、ウルとの会話に退屈していたわけではない。

 ただ、ウルは常に私を高貴な存在に上昇させるためにしか口を開かず、それ以外の目的では何も無駄な言葉など無い。仮に反応したとしても表情を変えるだけであった。

 しかしこの見知らぬ男は私に対して、ウルからは得られない何かを供給してくれているのだと私は即座に気付いてしまったのである。

 理由は分かっている。

 ウルの半分は既に私が支配してしまっているからだ。

 私の命令のほとんどが、およそウルにとって絶対であり、ウルは必ず私の言葉の範囲でしか行動をしない。彼はそう父に命じられていた。

「僕が人間かだって? 面白いジョークだけどね、お嬢さん、今は笑ってあげる事が出来ない。普通の人間では見る事も出来ない屋敷なんてどれほど大きく豪華なのか想像も出来ないが、そんな高い身分のお嬢さんがこんな時間にこんな場所にいるのは良くない」

「良くない事なんて無いわ。ウルが一緒に来ているんですもの。そうだ、貴方をウルに紹介するわ。貴方はこんなに面白いんだから、ウルもきっと気に入るわ」

「駄目だ。そのウルという人が誰なのかを僕は知らないが、こんな時間にお嬢さんのような若い娘を路地に置いていくような者は信用できない。僕はこの町の治安管理を任されている者でね。お嬢さんを引き摺ってでも連れて帰るのが僕の責務だ」

 この人間は不思議と私の話を聞かないのだ。

 話は聞いている、でもその言葉に従わない。

 それがウルには無かった新鮮な喜びを呼んでいた。

「きっとウルも貴方を気に入るわ。ウルは人間を良く思っていないのよ。でも貴方ならきっと気に入るわ」

 私は心の底からウルとこの男性を会わせてみたいと思っていた。察しの良いウルの事である、私がウルの中に無い何かをこの男性から学んで欲しいと思っている事がすぐに分かるはずだ。

 中心から輝きを放つ生命のような力がランスにはある。

 ウルは言うなれば闇だ。彼の本当の姿である煙よりも尚偉大で、より包容力に富む闇だ。全てに平等で優しく、何もかもを許して包み込む闇。

 だがウルは優し過ぎる。全てを私と私の父のためだけに注いでいる。

 ウルには己というものが無い。

「帰りなさい。これ以上は言いたくない。今すぐ、帰りなさい」

「帰らないわ。私と一緒にウルを待ってくれない? ウルは私の食事と、私の服を用意しに行っているのよ」

 ふっとランスの顔は無表情になった。

 私は不意に恐怖を覚えた。そしてランスの無表情を見上げたまま止まっていた。

 夜魔である私が感情に左右され動きを止めた。その愚かで尊厳の無い行動に、私は屈辱を感じていた。

 私は尊貴なる者になると心に決めていたのに、それを躓かせたランスに腹を立てた。そして腹を立てている私自身と、私にそうさせたランスに尚更腹を立てた。

「乱暴な事はしたくないが、お嬢さん、貴方を引き摺ってでも連れて帰る、と僕は言ったはずですよ?」

 ランスは光に向けて伸ばした私の手をぐっと掴むと、やや強引に、しかし優しく私を輝きの中へと運び出した。

 しかし彼の動きは唐突で、私の未完成だった肩の筋肉の数本が皮膚の下で千切れ、暖かな内出血を誘発していた。そして神経を切断されそうな指先は僅かに痙攣し、私の意に反して何度かランスの指を強く握った。

 私は闇に留まろうと爪先に力を込めてみたが、不完全な身体はもともとバランスが悪く、引かれるままに倒れ込む。完全に倒れてしまうのを防ぐために私は右足を前に踏み出したが、それが私にとって初めて全身で光を浴びた瞬間だった。

「光が……、光が私を照らしているわ」

 それは軽い歓喜と奇妙な困惑を伴った言葉であった。

 光の向こうに行くのは、まだ早い。

 そうウルに言われ続けてきた。しかし今私の立つ場所こそが、その場所なのだ。

 光を見つめながら私の顔には仄かな微笑が浮かぶ、そして私はその表情のままランスを見上げた。

 ランスにはきっとこの高揚が分からないだろう。この光に満ちた世界の他にもう一つ、闇に沈んだ私達の国がある事を知らないランスには、この喜びを味わいようがないのだ。

「これは、ひどい火傷だ。いや、火傷なのか?」

 その喜びを今すぐにでも口にして伝えてあげたい。

 しかし私はそう出来なかった。ランスの言葉で気付いたのだ、彼が私の姿に怯えた事に。私の姿は彼を怯えさせるに十分な異形であった事に。

 袖の千切れたドレスからは鱗を剥がれた蛇のように波打つ左腕が伸びている。私を暗闇から引き摺り出すために掴んだ腕が右腕で良かった。そうランスは思っているはずだ。

 そして見つめる私の瞳を嫌うようにランスは視線を外す。驚愕する自分の気持ちを私に悟られたくないからか、それとも帽子の下に現れた私の爛れた頬を見たためか。

「貴方が私を闇から引き出した。貴方が私に光を許した」

 それなのに貴方は私を拒んだ。

 喜びは言葉になり私の口を動かしたのに、不満はただ小さな頭痛として通り過ぎていった。

 私は首を傾け、帽子の影を顔全体に落とし、握っていた彼の手を離した。

 そして当然のようにランスの方でも、再び私の手を握ろうとはしない。

「薬を、薬を買ってきてあげよう。いや、薬だけでは心配だ。医者を紹介してあげますから、ついて来なさい」

 まるで押し殺した動揺が蓋を押し退けて這い出てきたような口調でランスは言った。

 薬とは何なのだろう?

 医者とは何なのだろう?

 しかし私はランスについて行くわけにはいかなかった。

「薬とは何なの? 医者というのも何か知りたいわ。でも私は貴方について行かない。ここで待つとウルに約束しているの」

 その時、ひょうと強い風が吹いた。路上の土埃が滑るように舞ったが、なぜだか風は私に触れなかった。

 だから私はつばの広いこの白い帽子を醜い手でもって抑える必要もなかった。

 そしてその風からは嗅ぎ慣れた安堵の馨りがした。

 だから傍まで来ている事は分かっていた。

「何なんだ、この風は。不気味な、」

 ウルが戻ってきたのよ。

 そう私が言うよりも早く、風自身が威をもって答える。

「下がりなさい。この方は貴方のような人間が軽々しく声をかけて良い方ではない」

 私の背後に控える深い闇の奥からウルの静かでありながら明瞭に響く声が、まるで周囲の空気さえ揺らさぬよう流れ出てきた。

 闇の発した言葉は私を過ぎ、強くランスを震わしたのだろう。ランスは顔の筋肉をぴくりと硬直させると、闇の底へと必死に目を凝らしたようだった。

 しかし人間の目にその闇は暗過ぎる。

「下がりなさい。その方に触れる事は、私が許しません。」

 ウルの声が僅かだが低くなった。

 ウルは私がこのランスという人間と話をしていた事が酷く気に入らないようだった。

 これは、私の格を貶める行為だったのだろうか。

「貴方が、ウル殿か? この、お嬢さんに薬を、差し上げたい。火傷によく効く薬なのです。僕がすぐに買ってくる。それぐらいは、許してもらえるでしょう?」

 ランスは筋肉の硬直か、それとも恐怖か、とにかく声を微かに震わせていた。

 可哀想な事だが、私は思わずその様を滑稽と思ってしまう。表情に出して笑ってしまわずに済んだのは私が夜魔であるためか。

 ようやくに逃げ口を得たとでも言うのだろうか、ランスはやや早足に行ってしまった。まさか私の傷のために急いでいるのではないだろう。時にウルの声は繊細すぎて背筋が凍るのである。

 あれが恐怖の作り出す顔か。

 私は去り行くランスの影を追いながら、そんな事を思っていた。

「言い過ぎではないの、ウル?彼はきっと怯えていたわ」

「人間は我々に対した時、怯えるものなのです。夜魔、妖魔、妖精、魔物、妖鬼、化け物、いろいろな呼び名を我々に対して人は用いますが、全て無知ゆえの恐怖が生んだ言葉なのです」

 無知なる人間に関わるのは無意味だ。

 ウルがそう言っているのだという事は私にもすぐにわかった。

「我々に夜魔という言葉を用いたのも人間が最初でした。それ以前、我々はただ己を自身と呼び、敢えて言葉を必要とはしなかった。用いるには便利な言葉だが、欲する心は浅はかなのです」

「でも、彼と話している間、私は退屈しなかったわ」

 そしてウルは悲しい顔をするのだ。

 いつものように私が安易に言葉を発すると、ウルは表情を曇らす。

 指し示す教えの道から頻繁に一歩を踏み外す私にウルは眉を顰める。だが敢えて言葉に出して修正はしない。

 これもまた間違いではないのね。

 キリカに礼を言った時のように、正解でもなく、間違いでもない行為。

 私にはそんな曖昧で不可思議な境界線を綱渡りしていく傾向があるようなのだ。

「さぁ、屋敷へ戻りましょうか。食事も衣服も用意出来ましたから」

 ウルは僅かな反抗を見せる私をなだめるように柔らかな声を発した。

 やはり私は、この包容に富んだ声のウルが良い。

「でも食事は街で取るのではないの? ウルはそう言ったわ。」

 結局、屋敷で食事をするのであれば、私はこの街まで出てくる必要もなく、ただ屋敷で待っていれば良かったのではないだろうか。

「本来ならば、そうです。しかし状況が変わった。私は貴方をこれ以上、この街の人間達の中に置いておきたくないのです。なぜなら、貴方はまだ夜魔として無防備過ぎる」

「私がランスと話していた事で、ウルはそれに気づいたのね?」

「そうです。これは私の過ちでした」

 その僅か過ぎる過ちを直ちに取り繕おうとするウルを私は頑なだとは感じず、むしろ潔いと思えた。

「良いわ。帰りましょう、ウル。これでウルには、無防備でなく、夜魔として大成した私をもう一度街へ連れてくる義務が出来たのでしょう? それまで待つ事にするわ」

 ウルは言葉なく頷き、暗闇の小道へと歩み始めた。

 そして私は自分の口が、待つ、と言葉を放った事を思い出していた。

 何を待つというのだろうか。

 人が住む明るい街へと出る機会を待つのだろうか。

 しかし私はほんの数日もすれば再びこの光を浴びたくなり、ウルを伴ってこの暗がりの路地、その闇の出口へと赴きたくなるだろう。当然、その衝動を抑える事などなく、私はここまで醜い足を引き摺りながら歩き至るに違いない。

 ならば私は何を待ち、どの衝動を抑えるのか。

 恐らくそれは、ランスとの会話だろう。

 私の意志のまったく及ばない、完全に私からは切り離された存在との接触。

 それを私は待たねばならないのだ。

 それはランスでなくとも構わないだろう。

 しかしその相手は私自身で見つけなければならないに違いない。それをウルの提供に任せれば、そこに私の求める「他者感」は無いだろう。

「私、不思議だわ」

 私はウルの背後を歩きながらも、唐突に口走り、突然立ち止まった。

「何が不思議なのですか?」

「私には支配したい心がある、と言った事があるわよね?」

「確かに、憶えておりますが。その原因には答えられない、貴方自身で見つけるしかない、とお答えしたはずでは?」

「その疑問は今も答えを私自身で探し続けているわ。でも今はそれではないの。」

 ウルは静かに私を見つめ、言葉を待っていた。その湧水の涼やかさを思わせるような瞳に、私は羨望を覚える。

「支配したい心は今でもある。でもそれと同時に、支配出来ないものも求めているのよ。支配出来ないものを、支配出来ない状態のままで所有したい欲。これは矛盾ではないの?」

 ウルは呆れているのか、それとも驚いているのか、あるいは理解出来なかったのか、僅かに眉に皺を寄せ、そのまま言葉無く私を見ていた。

 私は暗く澱んだ瞳を小さく瞬かせ、ウルが私を納得させ、制御するのを待っていた。

「私には、ご主人様や他の純血種が持つ「支配欲」というものが存在しません。ですから、それがどのような感情で、どのような思いを自身にもたらすのか想像する事も出来ない。ましてや貴方は純血種でもない。私には理由を答えるすべも無く、更にその行き着く先を暗示する事は尚の事出来ないのです」

「ウルは私を高貴なる者へと導いてくれるのではないの? この感情の良否だけでも、せめて示して欲しいのに」

 私にウルを責める気持ちは僅かばかりも無かった。しかし言葉はウルを責めていた。

 無言の無表情がほんの少し翳ったように見えた。その翳りの下でウルが何を思っているのか、察する事の出来ない自分が恨めしく思えた。そしてそもそもウルの輝きを曇らす自分の不用意さを愚かしく感じた。

 私は再び歩き始めた。暗闇の小道をウルよりも前に立って。

 そうしなければ、きっとウルはその表情を曇らせたまま、何かの答えを示そうと苦心し続けただろうから。

 あるいは、ただ静かに黙って、答えを持たない事を暗示し、私を突き放すだろう。

 そのどちらも、私の望む結果ではなかった。

 私の背後でウルの高く静かな足音が響いている。

 私はそれを聞いて密かに満たされた。

 今の私では、まだウルを従わせる事が出来ない。

 しかしながら、この黒の街道で私はウルを背後に控えて歩いている。

 偶然の構図。まさに形だけの君臨で、私が足を止めればそれは儚く崩れ去るだろう。

 だが、私が歩き続ける限り、この支配は終わらないようにも思え、私は一心に歩いた。

 私は、僅かに満たされていった。


 私の食卓は無闇に大きく長く、四角だが角は無く、楕円にも見えるがその四辺は限り無く直進し、むしろ反り返り、床に対して苛立つ様に悠然と構えていた。

 そこには私だけの椅子が添えられ、食卓の支配者たる私の到来を待ち望んでいた。

 その私はウルの見立てたドレスを纏い、上機嫌と不機嫌の境を往復していた。

 新しいドレスは仄かに黄味を帯びた白で、以前のそれとは違い、肩の細さを露にし、胸元は大胆に変貌しようとする慎ましさを匂わせていた。

 しかし私の胸肉が心臓の鼓動に合わせて脈打つ瘤のような血流に震え上がり、世辞も浮かばぬほど醜悪な顔でそこに居座っていた。根を張るように蔓延る卑猥なる爛れと共にである。

 それを選んだのはウルだったが、果たして選ばせたのは誰かと問う事は出来なかった。

 ウルの目がそれを選んだのならば、私は満足しよう。

 以前と似たものが着たいと言った私の要望がそうさせたのであれば、半ば満足しよう。

 ウルの目を通して見知らぬ父がそれを選んだのならば、私は憂鬱なのである。

 不満であるとは言うまい。ただ満たされるものは何も無い。

 私は父に何の感情も抱いていなかった。

 顔も知らず、声も知らず、名さえも知らず、ただウルだけが彼の存在を主張していた。ただそれはウルの主人であって、私の父ではなく、私にとって父と呼べるものは、私が蔑みの肉塊であった頃にその穢れを光から護ってくれた暗く尊大な闇なのである。

「さて、それじゃあ、食事を始めてちょうだい」

 私は椅子に腰を下ろすなり言い放った。

 苛立っているわけではない。

 むしろそのドレスは私の感性に良く添っていた。その手首と肘を締め上げるようなデザインも私好みだった。

 ただその広い食卓に私だけが腰掛け、ウルはその傍らに控え、そこに距離を感じていた。

 ウルが僅かに身体を震わすと、彼の内なる紫煙の底から一人の少年が歩み出でた。

 私はその様子を、ただ無表情なまま見守っていた。これから何が行われるのかを、ウルの口が説明するのを待ち望んでいたのである。

 少年の方でも、呆気に取られ、そして次第に恐怖を覚え、ウルと私のどちらにすがり付くべきかを値踏みしているようでもあった。

 ウルはその寒く涼やかな視線を少年の方へは全く向けず、少年はそれを恐れて私の方へ一歩を進めた。

 しかし私の方でも、視線を向けはしたが、その瞳は焼けた泥のように濁り、ひび割れる様に隆起した頬の爛れが、少年の一歩を戒めているのだろう。

「私はこれからどうすれば良いの?」

 私にこの少年を如何にせよとウルは言うのか。

 私は既に飢えて仕方が無いのである。

 この少年に給仕をさせるというのであれば、早くキリカでも呼んでその方法を教え込めば良い。

 私は苛立つがゆえに飢え、飢えるがゆえに苛立っていたのである。

「それは彼女が」

 ウルはそこに控えたまま答えた。唇をほとんど動かさず、彼の声だけが動いていた。

「偉大なる方の娘、その少年を手元へ引き寄せなさい」

 女性の声が食卓に響いた。

 私の座る食卓の真向かいに見渡すには深過ぎる闇が漂っている。響きはそこから発せられていた。

 声が響くという時点で、その女性はキリカとは異なる。キリカは言葉を与えられていないのだから。

 少年は己を拘束すべしと突如響いた声に驚き、歪んだ机にしがみ付いた。

 しかし私はその聞きなれない声にも驚く事は無く、ただ、あぁ彼女もまた父の残したものか、とうんざりした様に左の瞳をことさらに曇らせるのである。

 偉大なる方の娘とは、私の事か。

 そこに疑う余地は無かった。

 私はその張り詰めたように響く声の言うがままにしようと思った。

 彼女が父の残したものだというのであれば、彼女もまたウルと同じく、私がここに生まれ、ここで生きる意味を与えてくれる存在なのである。

 私はその少年の怯えきった手を引こうと椅子から腰を浮かせた。

 しかし声の主は声にならぬ溜息を漏らし、更にこう続けた。

「そんな事では話にならないわ、尊貴なる方の娘よ」

 その苛立ったように、吐き捨てるように連なる言葉が食卓を揺るがせた。

 私の方も、ならばそれを説明せよという気持ちで、間違っているという浮いた腰を椅子に沈めないまま不自然な姿勢で静止していた。

「姿見えず声のみ震わす人、手を伸ばさずにどうして彼を抱けるというの?」

 また食卓には溜息が満ち、言葉にする事も面倒な苛立ちを彼女は囁いた。

「貴女は本当に至福を満たす方の娘なの? そんな程度の事を、この私に、麗しく薫る方の伴侶であるこの私に、それを問うと言うの?」

 偉大で、尊貴で、至福を満たし、麗しく薫りさえする我が父の伴侶か。

 私は父を知らないから、どれほど偉大に薫るのか測りようも無い。その伴侶と言われても、私はほんの僅かばかりに恐れ戦く事さえも不可能なのである。

「ウル、私が彼女に姿を見せるように言う事は出来る? まだ無理かしら?」

「残念ながら、今のお嬢様がこの屋敷で支配出来ている者はキリカの他に居りません。」

 私はウルとの間に密かな会話を持った。

 密かではあったが、それは私が声を殺していただけで、ウルの方は何も変わらずただ静かな響きを途切れ途切れに唇から零していた。

「近い内には? 彼女に命じるのは、それともずっと先の事?」

「今も刻一刻と貴方は成長し、向上しています。しかしあの方との差は大きい。いずれこの屋敷のあらゆる者を統べる事は保障されていますが、待ち望むには遠い日でしょう。反面、気付けば至っているほど近くもある」

 その保障は喜ぶべきであろう。

 けれど私は飢え、枯れ果てる間際なのだ。

 彼女を越える日を待ち望む意思は無かった。

「では、ウル。貴方が彼女に命じて。私に姿を見せ、私の前で父の事を荘厳な方と呼ぶ事を止め、そして私が尽きる前にこの渇望を満たす方策を授けるように」

「しかし、あの方は」

 ウルは僅かな躊躇いを見せた。その静寂の表情から確かなものは得られないが、私にはそう思えた。

 ウルのように美しく聡明な者でさえ、恒輝の方とでも呼ばれているであろう父の伴侶には及ばないのであろうか。

「ウルが出来ないのであれば、私が感情的な言葉で彼女を呼ぶわ。音を上げた彼女が私の口に何かを詰め込むほど直情的な騒音で」

 ウルがそれを望まない事は分かっていた。

 感情は、心の揺れなのである。揺れとは、歪みであり、調和の美から遠ざける禁忌なのである。

 私は不思議とその禁忌に何の恐れも抱いていなかった。

 一方でウルはそれを最大限に拒み、常に私をそれから遠ざけようとしていた。

 私は、ウルを脅迫しているのである。

「ウル、貴方はまさか、この私にわざわざ、この足を動かしてまでその娘のために何かをさせるつもり?」

 呆れているのか、苛立っているのか、彼女は鋭い言葉でウルを縛った。

 その声を聞くと、夜露に首筋を舐められる様に部屋は熱を失っていった。

「それがご主人様に全てを任された私の役目ですから」

 ウルは毅然としていた。細く涼やかな眉の間に皺を寄せて、ただ私の近くに立っていた。

「ありがとう、ウル。ごめんなさい。」

 私のその言葉に、ウルは少し戒めるように私の眼を睨み、そして口元で極僅かな笑みを作った。

 その謝るという行為は、また間違いであったのかもしれない。ただ今回ばかりは例外と認められたのであろう。

私はウル以外に謝るのはもうすべきでないと結論付けた。

「万物の慈しみ、生の支配者、死の体現者たる主の名において、許された僅かな範囲の内の支配を代行し、貴方に命じます。主の娘の前に姿を現し、主の名を表さず、主の娘の渇きを癒すように努めるよう」

 ウルは小さな声ではあったが、そのようにはっきりと言葉を並べた。その言葉は蜘蛛の糸さえ震わせぬほど静けさに満ちていたが、天を引き裂く雷鳴の轟きのように屋敷を駆け巡ったように思えた。

 途端に食卓の向こうに煙る暗き闇が少しずつ晴れ、私の目が彼女の姿を見通し始めた。

 彼女は大きな椅子に腰掛け、万物に対してやや斜めに構えていた。闇を編んだような黒衣に転々と赤が彩られ、彼女の髪が輝くような赤みを帯びた金色であることも合わさり、食卓の端に大きな炎が灯ったようにさえ見える。暗闇を内側から焦がすような激しく静かな炎だ。

 私はようやく目に映った彼女の肢体をじっと見たが、彼女の方も今更始めたわけではない様子で既に私を凝視していた。その瞳は暗い深紅色で静粛ではあるが憤然としているようでもあった。

「来い、と言えば来る。たかが人の子など、わざわざ手を差し伸べるまでもないでしょう?」

 彼女は頬杖をついたまま、逆の手の人差し指で食卓を二度、とんとんと叩きながら言った。

 その様は優雅であり、指を振るう微かな動きにさえ芳醇な香りが付き従っていた。

「来なさい」

 私は少年に命じた。キリカに命じた時と同様に、私がそれを要求する許可は当然そこに存在していると信じながら。

 怯え顔だった少年は私の一言を聞いた途端、表情を僅かにトロリと緩ませ、まるで当然そうするべきであるかのように私の言葉に従った。

 一歩また一歩と確実に私へと近づき、己の運命を全て私に委ねるよう。

「あの方は美しく、瞳に意を込めて見つめるだけで、言葉に出すまでも無く人は自ら擦り寄っていたというのに」

 彼女が父の面影を誇る。瞳に力の無い私を呆れるように。

 私は少年から目を逸らさず、またその手招く腕を微動だにもさせず、ただ彼を招き寄せる事だけに全ての意識を傾けていた。

 もしも私が彼女の言葉に揺り動かされていたならば、少年への拘束は緩み、その様を彼女が嘲笑うか、あるいは同様の心理によって大きな溜息を吐くであろう事は容易に予想出来た。

 少年が私の膝まであと一歩という距離に迫ると、私は彼にそっと右手を差し伸べる。

 何の抵抗も無く、少年の身体は私の腕の中にストンと落ちた。

 少年は私の言いつけどおりに全てを成し遂げたのだ。

 途端、彼の表情に再び不安の色が戻ってくる。縋るべき命令が無くなったことに心が気付いたのだ。

 私は少年を抱いたまま、闇の向こう側にいる彼女の方を見た。少年も私の視線に釣られたのか、その先を見たようだったが、またすぐに私の顔を見た。

「何を、見ているの、ですか?」

 それは私が最初に聞いた少年の声であった。その一音一音が私やウルの気を逆立てはしないかと酷く慎重に、惨いほどに震えて途切れながら囁いていた。

 私はそこでようやく少年には彼女が見えていなかった事に気付いた。食卓の上に用意された燭台には青い炎が灯されている。その微かな光は少年と私の顔を照らしていたが、恐らく傍らに立つウルの表情までは届いていないだろう。ましてや向かいに座る彼女までは言うまでも無い。更に彼女は私にこそ目視を許したものの、至尊の方とは何ら関わりの無い存在にまで姿を現すはずは無いと思えた。

 少年は何よりも闇を恐れていたのである。

 故に最も青光の強い私の席へと近づけた事は、少年にとってまさに一条の光と思えたに違いない。

 既に闇に怯える事の無い瞳を得てしまった私には、その褒美を思いつく事は出来なかったであろう。しかし偶然とはいえそれを彼に与えられた事を私は心の内で、ウルにさえ気付かれぬような密やかさで楽しんだ。

「貴方の食事は実に容易い。相手に心を許させ、全てを差し出させ、その時に全てを奪い尽くしてしまえば、それで貴方は満たされる」

 だがその暗闇から高らかに宣言する彼女の声が、少年から全てを奪ってしまった。

「呼び寄せた時と同じように、言葉の力を借りれば殊更に容易いのでしょうけど」

 最も簡単な方法で行えば良い。それが分相応なのだから。

 彼女はそう言いたいのだ、と私は考えた。

 父はまた威ありし瞳などを用いて巧みにそれを差し出させているのだろう。

 しかし私は方法になどこだわるつもりは無かった。その威が私の向上に不可欠なのであれば、徐々にでも身に着けていけば良い。

 ただ今は一先ずの充足を優先したかったのだ。

 私は少年を見た。少年の方でも私を見、そして先ほどよりも強く警戒していた。

 それは、見上げた顔に酷くひび割れた爛れがあったためか。それとも、今抱かれている腕も略奪者のものであったからか。

「何を差し出せば、良いのですか?」

 彼は問う。

 そして私も自らに問うた。

 何を奪えと言うのか。

「それをさしあげれば、家に帰れますか?」

 それも私には分からなかった。

 ただ、少年にとってこの暗闇は不安であろうと思った。暗さに恐怖を覚える人間にとってこの深い闇は苦痛であろうと。

 だから私はただ答えた。

「貴方がそうしたいのであれば、私はそうなるようにしてあげたい」

 父の伴侶は再びその細く長い指先で食卓の縁を叩いた。

 恐らく人間の発する声を聞く事、そしてそれと言葉を交わす私に嫌気を感じているのだろう。

 ウルの方は見なかった。敢えてその曇る無表情を見る必要は無いと思った。

 ほんのわずかにウルが揺らめいたかと思うと、彼は既に私のすぐ傍まで来ていた。

「お嬢様、これを」

 彼の手が私に向かって木の葉を差し出していた。

 いや、それは木の葉のような形をした、小さな一片のナイフだった。

 言われるがままにそれを手にとってみると考えていたよりもずっと重い。その手触りは金属のようでもあり、石のようでもあり、あるいは蝋のようでさえあった。

「これは何?」

「貴方の爪も歯も、食事するにはまだ幼過ぎると思いましたゆえ、勝手ながら用意させていただきました」

 私は私の右手を確認した。それはウルの言うとおりで、指こそ分かれたものの、その先端は外界の刺激に臆病なほど繊細であった。

 しかし、私が聞きたいのはこの黒鋼玉の小刀を渡された理由ではなくて、それを何に用いよと言うのかである。

「これで、何を?」

 私はウルの顔を見上げた。

 そしてウルは、食事の作法は全て彼女に聞け、と言うように我が父の伴侶の方を見た。

 私は続いて彼女の顔を見た。

 しかし彼女は、その程度の事はそちらで勝手に済ませろ、と言うようにウルを見据えた。

「そのナイフを使って、その者の首筋でも手首でもお好きなところを切り裂けば良いのです」

「それから?」

 私の言葉を聞いて、ウルが僅かに眉を寄せる。そしてウルはちらりと彼女の方を見やるが、彼女も同様に眉を顰めて私を眺めていた。

 束の間を経て、彼女が呆れたように声を発し、静寂が崩れた。

「それからも何も無いでしょう? 貴方はそれで求めるものを得られる」

「求めるものって何なの?」

「貴方は食事がしたいのでしょう?」

「えぇ、そう」

 そう答えるのと同時に、私は一つの問いを得た。

 そもそも私の食事とは何なのだろうか。

 これが生まれて初めての飢えである。何を以って満たすのかを未だ知らなかった。

「自分の欲しいものも分からない、とでも言うつもり?」

 そうだ、と答えるのは躊躇われた。彼女がまた機嫌を損ねてしまうと分かりきっていたからである。

 そこに、責め立てられる事に不服であった私にそっとウルが言葉をかけてくれた。

「ご主人様は人の生命の根源を奪い、己のものとします。それが食事です。生命の根源とは、以前お話したように、血です」

「私も血を奪うの?」

「分かりません。ご主人様の血を受けた以上、お嬢様もそうなのだと思い込んでいました。ご自分ではお分かりにならないのですか?」

「分からないわ」

 また少し、沈黙が支配権を得た。

 私の腕の中で少年はがたがたと震えていた。闇が敷き詰められている事に怯えているのか。

 私は蝋燭の傍にもっと近づけるよう、少年をいっそう強く抱き寄せた。

「皆、そうではないの?」

「全ての者が同じわけではありません。何を求めるかはその者の本質にも関係しており、その格にも大きく影響しています」

 だから私も父と同じものを求めるとウルは思っていたのだろう。

「ウルは?」

「私は純血種でもなく、その本質はただの煙。息をしていれば十分なのです」

 私は食卓の向かいに視線を向けた。途端に彼女が小さな溜息を吐く。

「私が答えるとでも?」

「いいえ。誰も正体は明かさない。そうでしょう?」

「私の事が知りたければ、早く美しくなりなさい。そうは言っても、人の骸ごとき、いくらあの方の血を頂いたとて高が知れていると思うけれど」

 私は鋼玉のナイフを握りなおした。

 刃の峰に出来たばかりの親指を沿え、何度かその切っ先を閃かせた。

 その刃が燭台を映すと、少年の顔が仄かに青らむ。

「や、やめて下さい。お願いです。家へ、帰してください」

 少年が震えるので、私はより強い光の下へと彼を抱き寄せた。そうする事で彼の恐怖を払えると確信していたからだ。

 しかし少年はより激しく震え、その振動で私の腕は千切れそうなほどだった。

「彼は怯えているわ」

 私は彼女に訴えた。彼女ならば、少年が何に怯えているのかを知っていると思ったからである。それはつまり、私が少年の怯える理由に全く思い当たらなかったという事だ。

「怯えるのは、貴方のせいでしょう? あの方ならば、そんな事はないわ」

 私の醜さが少年を傷つけているのかと、私は自分の顔を影で隠した。

「大丈夫。安心しなさい。事が済めば、貴方は家へ帰れる」

 父に及ばない点を補うには言葉を以ってしなければならない事は既に学んだ。

 途端に少年の震えは止まる。しかし、少年の表情には未だ消し去れない不安が残り、私のナイフをじっと見詰めていた。

「いいえ、帰れません。貴方に血を吸われたら、僕は死んでしまって、帰れないんです」

 その淡々とした口調は、まるで他人事のように自身を語っていた。私の言葉が不安と共に彼の人格さえも閉じ込めてしまい、そこに侵入した別の何かが少年の口を借りているようであった。

 死というものは、知っている。

 私が人の死の後に生まれた者だからだ。

 それは私の始まりであり、私を構成するものだ。

 ただ、その意味するところ、指し示す事態は、知らずにいた。

「ウル、死とはそういうものなの?」

「死とは、そういうものです」

 ナイフを握る私の手が冷える。

「でも、私はそれから始まったわ」

「確かに、貴方の基底には死が存在し、それを外して貴方の始まりを語る事は出来ないでしょう。しかし、それは飽くまで貴方が始まる直前までの状況に過ぎず、死は貴方を構成する以前の何者かに終わりを告げただけなのです。言うなれば、貴方自身が死に侵された事は一瞬たりとてございません」

 私は少年を見、そしてナイフを見た。手の中で何度かナイフを転がし、そして腕を倒して少年から刃を少し遠ざける。その距離が彼に僅かでも安堵を与えるならばと思いはしたが、効果の無い事は分かっていた。

 少年を抱く腕にまた再び力を込める。彼の体温が私の胸に伝わり、私の濁る脈動が彼を締め上げている。

 少年が私のもたらす結末に恐怖を抱いている事は明らかであり、出来る事ならば私の腕を振り払って飛び退きたいと考えているかもしれない。しかし私は少年を怯えさせたいがために腕の力を増したのではなかった。

 私が今支配出来ているのは、この両腕で抱えられる領域だけなのである。

 言葉を発せばキリカは動いてくれるだろう。叫べば恐らくウルを、そしてそれを介して彼女をある程度は思うように出来る。

 しかし、少年を恐怖から遠ざけるという事を思うと、その程度の支配は不確かさを有していた。

 私の腕から逃れた場合、恐らく少年の結末の決定権はウルの手に落ちるだろう。私にそれを止める手立てはあるのだろうが、成功の見込みは薄い。

 ならば、少年を恐怖から遠ざけるためには、私が権限を有していなければならなかった。

 少年が私の腕の中にいる間は私の支配下なのである。

 右腕に少年を抱き、左手には死を握り、それがこの場で最も安定した空間だと思えた。

 そしてその左手を精一杯に伸ばした距離が、私が彼に与えられる最も確実で、最も遠い恐怖との距離なのである。

「帰りたい?」

 私は少年に問う。

「それをお許しいただけるのであれば」

 私の言葉によって激情を封じられた少年は、しかしそれでも精一杯に生存を望んだ。

 それは私が私として存在する以前には人間であったためだろうか、それとも刻々と目を覚ましつつある夜魔としての本能が叫ぶからであろうか、少年から決定的なものを奪ってまでこの渇望を満たす事は、果たして畜生のように浅ましくはないかと、果たして私の品位を傷つけるのではないかと考えられた。

 しかしそうして私が考えにふけることは彼女の気にそぐわなかった。

「早くその手を振り下ろしなさい。それとも、まさか貴方は、人などに同情でもしているの?」

 彼女は私と同席しているこの時間が今すぐにでも終わる事を望んでいるようだった。

 彼女が私に苛立つ理由は分かるが、なぜ私に苛立とうとしているのかは分からなかった。

 私の不完全な外見が気に障るのか。あるいは、時折皮膚を裂いて流れ出る腐血の臭いのためか。

 それを彼女に問うのは無意味だった。

「お嬢様は人間に同情なさっているのではなく、ただ御自身の手を人の血で穢す事を躊躇っておいでなのです。そうでしょう?」

 ウルが私に問いかける。まるで、高貴な夜魔ならば、そのように考えよと言うように。

「えぇ、同情しているのではないわ」

 確かに同情とは異なっていた。

 私の望みを叶えるために、少年の生きたいという望みを叶えないのは不公平だと思えたのだ。

 まず、少年の望みを叶え、然る後に私の飢えを満たすことが最良だという結論に至っていた。

 つまり、他者の血を奪うという以外の方法でだ。

 ウルは息をするだけでも良いというのだから、私も他の方法を模索してみても損はないだろう。

 そもそも私の食事が生命を吸う事だなどと言い出したのはウルであり、ひいては父のせいであり、私自身でさえ本当にそれを求めているのかは知らない。

 他に正解はあるかもしれないのだ。

「私は、他の方法を試したいわ。良いでしょう、ウル?」

「もちろん構いません。私が手配いたしましょう」

 ウルは優しく微笑んだ。もちろんそれもごく小さな表情であったが。

 ウルに任せておけば安心だと私は思った。ウルならば、私の意を汲み、確実に私を高みへと導いてくれるだろう。

 それはウルを通して父が私によこした目的であったが、生まれ出でてより何も所有していない私が唯一胸に抱いている願望だ。

「あの方は自分の食するものは全て自分の手で奪い取っていたわ。まるで、その糧となった生命を身体に刻み付けるかのように、慈しみ深く」

 私に身を委ねていた少年は、私の腕の中でもがいた。私の腕に断裂の痛みが走る。

 私とウルとの言葉に一条の光を見たのだろう。彼女の言葉に私が心を変える前にこの館を去らなければと、己を束縛する腕を振り解こうとしているのだ。

「ご主人様と何もかも一緒にする必要は無いでしょう。肝心なのは、お嬢様に高潔な方となっていただく事ですから」

「お願いするわ、ウル」

 私は腕を解き、彼は私から一歩離れた。

 ウルが少年を一度見下ろすと、彼は硬直したように身を縮め、そしてウルの後をついて食卓から遠ざかっていった。

 私が少年を家まで送っても良いと思ったが、私は彼の家を知らないし、何よりウルはそれを絶対に許さないだろう。まず人の街に出て行く事になるし、また人のために時間などを割く事になるからだ。

 しかし、私は何を食せば良いのだろう。

 己の渇望は益々荒ぶってきているというのに、それがどこに向かおうとしているのか、私は分からずにいた。

 ウルが居なくなった今、私はそれを目の前の彼女に問うべきかと考えたが、彼女は答えるはずもないと分かっていた。

「良いご身分ね」

 彼女が皮肉を口にする。

 しかし正確に言えば、私にはそれが皮肉かどうかは分からなかった。ただその口振りからそのように思えただけだ。

 私が父の娘だからか。ならば、父の事を知らない私にとってそれは皮肉となりえない。

 私が一つの食事を前にしながらそれを手放したからか。ならばそれも、欲するものを知らない私には皮肉とならない。

 私がこのような醜さでありながらウルを従えているからか。恐らくこれが最も皮肉に近いだろう。

 ウルが私に仕えてくれるのは、父の命があるからであり、私自身に因るものではない。ウルを真実に私のものにしたいという衝動は身体の緩やかな形成を待てず、常に焦りを渦巻いていた。

 彼女の皮肉はそれへ投げ込まれたのである。

「えぇ、ウルは私が父と等しいくらいにまで成長すると言っているわ」

「それは喜ばしいわね。本当に、そんな奇跡が起こるのならば」

 彼女はそう言いながら席を立った。

「どこへ行くの?」

「貴方が今食事をしないのならば、私がここに居続ける理由はないわ」

 確かに彼女は私の飢えを癒すために現れた。それを私自身が一旦休止してしまったのだから、彼女がここを離れるのは道理かもしれない。

 まるで私と僅かでも一緒の時を過ごしたくないといった様子が見て取れた。

「でも一人でウルを待つのは退屈だわ」

 そんなことは関係無いと、私を見下ろす彼女の目が言っている。

 しかし彼女が私を見下ろすのならば、私はただ彼女を見つめ返すだけである。

 見続ける事で彼女の何かを知る事が出来るかもしれない。

 刻一刻と私が成長しているというのならば、だんだんと彼女の正体が見え始めるかもしれないではないか。

 そのようにして時間を過ごすのも悪くないと思い、私は嬉々として彼女を眺め続けた。

「相手ならば、誰か他の者にでも頼めば良いでしょう? なぜ、この私が、貴方の暇潰しを手伝わなければならないの?」

「だってキリカを呼んでも、彼女は喋らないもの。貴方と居る方が楽しいわ」

「私も貴方とお喋りをする気はないわよ」

「良いのよ。ただ見ているだけでも私は楽しめるから」

 彼女は首を振り、深い溜息をついた。

 私の我が儘勝手な言動に呆れ果てたといった感じだろう。けれど一方でその口元は少し笑っているようにも見えた。

「ただ見られるだけでは、私が楽しくないじゃない?」

 彼女は先ほどまで自分が座っていた椅子の背もたれを再び握った。彼女がもう一度私の前に座ってくれるまであと一歩である。

 私は彼女を再び座らせるというゲームを始めた。彼女を言葉で束縛出来ない今だからこそ出来る遊びだ。

「貴方も私を見れば良いじゃない? さっきからずっと私を睨み続けていたのだから、もう少し続けてみても良いでしょう?」

「面白いから貴方を見ていたとでも思っていたの? とんだ思い上がりね。」

「違うの? では、どんな気持ちで見ていたのか教えて?」

 彼女はまた私を見た。眉間に皺を寄せる、先ほどと同じやり方で。

「貴方に教える必要は無いし、教えても仕方の無い事よ」

 私に教えても仕方の無い事とは何なのだろうか。

 私に無関係な事柄によって私を見続けていたという事は無いだろう。だからその理由は私に関連しているに違いない。

 だが、それを知ったところで私にはどうしようもない事柄、つまり直接に私の関与する事が許されていない事柄だ。

 そこまで考えると私はすぐに思い当たった。

「父ね。父の事が理由で私を見ていたのね? 違うかしら?」

 彼女は表情を濃くした。私の予測が的を射ていたという事だろう。

「教えても仕方の無いことだわ」

 彼女は不服そうだったが、私にはその理由が分からなかった。恐らくそれこそが私を睨み続けていた理由であろうとは察したが。

「確かに、聞いても仕方の無いことだわ。だって私は父の事を何一つとして知らないもの」

「貴方の意識が生まれるずっと前に、あの方は行ってしまわれた。貴方という遊びに飽きてしまわれて、捨てられたのでなければ良いけれど」

 もしも私に血を与えて生み出した事が、ただ気紛れの戯事なのだとしたら、私がここに存在している意味は無くなってしまうではないか。

 それは同時に、ここに残されたウルや彼女の存在さえも空しくしてしまう。

「それは困るわね。ウルが、きっと、悲しむわ」

 私を育てるためだけにウルは生まれ、生き続けている。

 私はともかくとして、ウルにそのような寂しさを味合わせる事がないように祈った。

「そうね。私も、そうならないように祈りたいわ」

 彼女は私を見、そしてウルの消えていった闇を見、最後に窓の外をちらと見、そして少し目を閉じた。

 彼女が偶然にも私とともに祈ってくれた事を私は密かに喜んだ。

 彼女もウルを気に入っているためか、あるいは彼女自身のためか、その理由は私の知るところではなかったが、私も彼女とともに再び祈った。

 彼女の祈りは深く、私が言葉を発しようとした時、彼女はまだ暗い夜を見ていた。

「父の事を教えて。もし、貴方が、そういう事を話しても良いと思うならば、だけれど」

 彼女はその滑らかに反り返る人差し指で、椅子の背もたれを端から端までゆっくりと辿った。

「聞いたところで、あの方が帰ってこなければ」

「探しに行くわ。その時は、私が探しに行く。だから教えて」

 私がウルの言う高貴なる者になった時、その時に父が私の事を忘れていたならば、私は父を探しに行かなければならないだろう。

 ウルを無駄に朽ちさせないために、私は私自身にひっそりと命じた。

「貴方も分かっているとは思うけれど、多くは語れないわ。それが」

「それが私達、夜魔の誇りだから、ね」

 彼女は私を見て、少し微笑んでくれた。眉間は珍しく穏やかであり、それを恥らうように顔を傾ける。彼女を囲う闇がざわめきたち、その姿態を束の間私から遠ざけた。

 そして再び私が彼女の姿を見た時には、私達が最初に顔を合わせた時と同じように、椅子に深く腰掛け、その身体を片側に大きく委ねていた。

「貴方を座らせたわ。言葉で縛る事なく、思う結果になった」

 私は部屋中に響き渡る歓声を上げた。

 突然の爆発に彼女もやや警戒して私を見据えている。

 近くにウルが居たならば必ず、お嬢様、と私を呼んだだろう。そしてそれ以上は語らず、ただ私の目を見て、無駄な私の熱を下げるためにただ冷たくあり続けたに違いない。

「私が勝手に始めた遊びなのよ。貴方は私と一緒に居たくなさそうだったから、それを抑えてしまうゲーム」

 彼女は大きく溜息をついた。それももう見慣れた光景といえる。

「そうと知っていれば、座らなかったわ。あの方について話す気になったのが、愚かしく思えてくる」

「駄目よ。ゲームには私が勝ったのだもの。父の事を話してほしいわ」

 彼女は呆れたように頭を振り、眉間の皺を人差し指と親指で和らげようとした。

「でも待って、まず貴方の名前を知りたいわ。また貴方と話がしたくなった時に、私の父が私のために残して行かれた私の父の伴侶、と言いながら貴方を探すのは大変だもの」

 彼女はまた少し笑った。

 呆れている。そう言った方が彼女の心情を正しく表せるのかもしれないが、そのような表情を向けられる事は嫌いでなかった。

 夜魔というものはもっと表情の少ないものだと教えられているつもりだったが、彼女を見る限りではそうとも思えない。

 ウルは感情の揺らぎに怯え過ぎているのではないか。

 あるいは、ウルが私に辿り着けと示す先は、彼女よりも遥かに遠いのか。

「研練の妃。あるいは、雫奪の人。時には、鋭館の主と呼ぶ者も」

「そういう呼び方は遠回しで嫌いだわ。貴方にも誰かから貰った名前があるのでしょう? 父は貴方を何と呼ぶの?」

 彼女は少し口を閉じた。

 名を思い出しているわけではあるまい。その様はまるで、過去から静かに歩んでくる名の響きを待っているようであった。

「ロザリア。」

 彼女は小さく呟く。

「あの方のくれた最初のものがそれだった。そう呼ぶのはあの方だけだった。今、その名を娘である貴方に呼ばれるとは、皮肉なものだわ」

 あたかも私が彼女の名を奪っていくかのように寂しげだった。

 父はもう彼女の名を呼ばないのだろうか。

 その名を呼ぶ権利が、今私に譲り渡されていく儀式のように、彼女は名を口にした。

「私はディード。でもウルはあまり呼ばないわ。きっと最初にその名前を聞いたとき、私があまり気に入らないと言ったせいね。貴方も好きなように呼んで。もっとも、貴方の方から私を呼ぶ事は少ないかもしれないけれど。」

 ちょうど私がそんな皮肉を言い終わらない内に、ウルが姿を見せた。

 これから父の話を聞こうと期待していたので少々残念ではあったが、それはウルの用意してくれた食事の後でも十分に間に合う。

 ロザリアとの会話を楽しんではいたが、それは肥大する飢餓から首から上だけを隔離した結果、舌を動かす以外に楽しむ術が無かったためとも言えよう。

「お待たせ致しました。こちらを」

 私の前にウルはグラスを差し出した。

 グラスの口は広く、底は深く、しかしステムは短い。どこか椀のようにさえ見える。

 そのグラスの中では液体が揺れ、静かに波紋を広げていた。

「これは?」

 私はそのグラスを手に取り、その縁を口元まで引き寄せる。

 それは問うまでもなかった。

 その鼻の奥を微かに震わせて過ぎ去っていく香りは芳醇とさえ言えようが、それが内包する鮮烈なる衝撃は骨髄を支配し、指先にまで痺れを呼んだ。

 それは私がこの数日間、果てしなく慣れ親しんだ匂いである。

 今とて、この左腕の薄皮一枚を傷つければ、呻くように流れ落ちていくだろう。

「なんて事、」

 血液である。

 私はそれがまるでこの世で最も儚いものであるかのように両手を添えた。

 それから手を離せば掻き消えてしまうような気がして、食卓に戻す事さえ出来ない。

 なんと鮮やかな色であろう。私から出ていった濁りとは違う。

 それはまるで液状化した炎である。

 薄いグラスを通して伝わる温度は私の体温よりも僅かばかり高く、手のひらをゆっくりと焦がしていくようにさえ感じる。

 液面はいっそう揺れ続け、それはあたかも脈動のようであった。

「ウル、彼はどうしたの?」

「聞かなくとも、貴方も分かっているのでしょう?」

 答えたのはロザリアだった。

 私だって、分かってはいる。

 だからなのか、ウルは何も言わない。

「ウル、彼をどうしたの?」

「早くお飲みを。肉体を離れた血液は急速に精気を失います。飢えを満たすに十分残っている内に、お早く」

 グラスの中で波紋が揺れ、その一波ごとに血液が何かを失い、微かだが確かに少しずつ黒ずんでいくのが見えた。

 しかし私は全身の神経を焼き切られ、身動きも出来なかった。

 私は何かを叫びたかったが叫ぶ言葉は見つからず、しかし何かを捻り出そうとするように唇を薄っすらと開き、そしてただ震えていた。

「早くなさい。渇いているのでしょう?」

 ロザリアは言うが、私は少年の名さえ知らなかったのである。

 今、両手で包んでいるそれはもはや私の支配を離れている。それはむしろ、私を束縛しているのだ。

 先ほどとは、器が、違う。

 ただそれだけの事だが、私は激しく困惑し、しかし明確に理解もしているのだが、叫ぶ理由さえ見つけられないのである。

「ご無礼を致しますが、お許しを」

 そう言うとウルは私に寄り添った。

 そしてグラスの液体に人差し指を浸し、その指で私の上唇をすっと撫でた。

 私の開いたままの口に一滴にさえならない雫が流れ込む。

 恐るべき快感が私を引き裂いた。

 確実に私を満たしていく興奮の快楽がそこにはあった。

 狂喜の震えが私を麻酔から解放していく。

 そして次に訪れたのは、その快感が消え去ってしまう恐怖だった。

 私は弾けたように動き始め、両手でグラスを運ぶと、呼吸も忘れ、貪るようにそれを飲み干した。

 一口ごとに体外と体内の血流同士が衝突し、新たな大河を生み出しているのが分かる。

 飲み干し、飢えは満たされた。しかし満たされたが故に、更なる飢餓を覚えていく。

 元通りではない。それ以上を私の身体は求めているのだと知った。

「なんて事、」

 これほど満たされるとは、想像を超えていたのである。

 私は両手で口元に付いた液体を拭い、そして手のひらに付いたそれさえも口に運ぶ。

 さらには、ウルの手首をもぎ取るように掴むと、彼の指までも舐め上げた。

「お嬢様」

 ウルが窘める。

 もはや部屋の中にその匂いは無い事を知る。

 そして激しさは容易く遠退いていき、残された興奮も少しずつ冷めていった。

 それでもまだ私はウルの手を握り、ただすがるように呻いた。

「違う。違うのよ、ウル」

 飲み下した血は、私の体内を駆け巡り、心が拒絶を望んでも、既に私を構成する一因子となっていた。

 鼓動の源泉を吸い尽くした細胞の一つ一つが活力を滾らせ、あるものは増殖肥大し、あるものは破裂し体外へと吐き出される。

 私がこの数日をかけて行った形成とは比較にならない速度で、それは私が理解するよりも速く私を再構築していく。

 大腿の肉がまるで老木の樹皮を引き剥がすように削げ落ちていき、その下には既に無垢の皮膚が芽を出し、軽い痛みと共に弾力を獲得する。

 私はその鮮やかな痛みを感じながらも、椅子を蹴り捨てて大地に跪く。

 その間もウルの手が私を奈落から掬い上げてくれるとでも思っているのか、額を強く擦り付けていた。

「何が違うのですか?」

 ひび割れては再生していく私から流れ出した血がウルの手を褐色に染めていく。

 ウルはその生温さを振り払う事も無く、ただひたすらに静かな言葉を発し、中身をばら撒き続けている私とは対照的だった。

「私は血など望んではいなかった」

「浅ましいまでに貪り、微睡ろむ様な恍惚の顔を見せておきながら、変な事を言うのね」

「私は彼から血を奪うつもりなど、死を与えるつもりなどなかった」

「人間などに同情する必要はありません。彼らとてまた別の生物から多くを奪っている」

「姿形こそ似てはいるけれど、人間と私達は根本を異にしている。同情なんて、する意味が分からないわ。それとも、貴方の本質が叫ぶのかしら、同族を殺めるなって」

「同情ではないわ。ただ、私も飢えを満たすのだから、彼の願いも叶えてあげたかったのよ。だから言ったはずよ、他の方法を、と」

「それは、血の奪い方に関してではなく、血を奪う行為自体を考え直したいという意味だったのですか?」

「えぇ、そうよ。私はそういう意味で言ったの。それなのに、どうして。どうしてウルはそんな風に聞いてしまったの?」

「残念だけれど、私にもそのように聞こえたわ。これは、貴方の過ちね」

 ロザリアが私を見つめた。その表情は密かに険しく、呆れているようにも見えるが、むしろうんざりとした不快の色が見える。

 ウルは私と手を結んだまま、ただ私を見下ろしていたが、全く表情は無く、尚更に私は寒気を感じた。

「お嬢様、お気をお静め下さい。貴方の意図を汲み取れなかった事は申し訳なく思いますが、もはや事は済みました。終わった事に心を乱すのは、誰のためにもなりません」

「でもウル、私は、血を奪う以外の方法でも満たされる事が出来ると、他にも正解はあると思っていたのに。」

「では、貴方がウルの指に喰らいついてまで求めたそれは、正解ではなかったと言うつもり?」

 食卓の下には私が狂気の中で取り落としたグラスの破片が輝いている。

「いいえ、これ以上に無いほど、これ以外には、考えられないほどだった……」

 だからこそ私の嘆きは放たれる先を失い、くすぶるように私を焦がすのだ。

「ならば、済んだ事で、ましてや人間などのために、気を昂ぶらせる事はお止め下さい」

「あれほど貪欲に貪っておきながら、奪う気は無かったと言い張る事は、奪われた者をいっそう辱めるようなもの。何も人に加担する気はないけれど。奪う者と奪われる者、どちらもお互いの姿勢を全うしなければ」

 そのとき私の左目から滔々と何かが流れてきた。

 それは頬を伝わり、顎の先で一つの雫となると、そっと床に落ちた。

 私はウルを掴んでいる方ではない左手でその流れに触れてみる。

 流れはぬるりと生温く、指先は赤黒く染まった。

 私の眼窩から流れていたのは血液だったのだ。

 それは悲哀の情で流れてきたものではない。

 人の血を吸った身体が新たな瞳を作りたいと、左の眼窩に収まるくすんだ色の前任者を排除しようとしているのだ。

 私の左目の眼球は濁った色のまま破裂し、もはや跡形も無く解されている。

 その空いた隙間には既に次の瞳の芽が生え、それを育む血床が満たされていた。

 その血床が揺れては溢れ出し、頬を濡らしていたのだ。

「でも私は、彼を家に帰してあげたかった」

「あの人間に牙をかけなかったとして、そのとき貴方はまた別の者から血を奪わねば満たされない。貴方はそうしなければ生きてはいけないのよ。貴方か、人間か、どちらかしか生き残る事は出来ない。貴方が生きるという事は、そういう事なのよ」

「でも、私は、彼を帰してあげたかった」

「でも生き残ったのは貴方でしょう?毅然となさい。あの方の娘として生まれてきた自覚が少しでもあるのなら」

 ロザリアは立ち上がった。その表情は明らかに苛立っている。私の言動が父の娘としては最悪なのだろう。それは憤怒にさえ見えた。

 私を伝った血流が床を這い、彼女の足元まで迫ったとき、彼女は一歩退き、靴が私で穢れるのを嫌った。

「お嬢様、これは仕方の無い事であり、同時にお嬢様が思っておられるよりもずっと些細な事でございます。本日はもうお部屋へお戻り下さい。落ち着いてゆっくりと考えていただければ、きっとお嬢様にも納得いただけると思います」

 ウルは私の手をやや強く握った。

 私と彼の手のひらの隙間に流れ込んでいた液体がぬめり、あまり良い感触ではなかった。

「分かったわ。迷惑をかけたわね、ウルにも、ロザリアにも」

 私もウルの手を握ってみる。やはり同様の感触がした。

 そうしなければ生きていけないのならば、納得するほか無いのだろう。

 ならば、納得する方法も教えてくれれば、と方向だけを示すウルを僅かに恨んだ。

「それなら、ウル、せめて彼の身体だけでも、家に帰してあげて。彼は最後まで帰る事を望んでいたから、せめて」

 ウルは私の顔を見ていた。

 私はウルの言葉を待っている。

 そして私はウルの手によって、ぐいと引き寄せられたかと思うと、彼に寄りかかるようにして立っていた。

「それは出来ません」

「どうして? そんな事でも私の品位は傷つくの?」

「いえ、そうではなく、もはや身体も無いという事です。」

 私は耳を疑った。

 彼の血を飲み干してしまったのは私だが、その身体までもが今では存在していないと言う。

 ならば、もはやこの世の中で彼に所属していたはずの全ては失われてしまったという事ではないか。

「どうして? なぜ、そんな事になるの? 彼は血を奪われるだけで終わるのではなかったの?」

 私はウルの胸に額をすり寄せ、その行方を聞きだそうと、また彼の手を強く握った。

「血を抜いた後の肉体は、お嬢様にとって全く無用の物ですから、相応に処分を致しました」

「相応の処分って何? いいえ、それよりも重要なのは、ウルの言う処分というものは、果たして可逆的なの? それとも、もはや取り返しのつかない、覆す事の不可能なもの?」

 私の中で小さな火が灯るのを感じた。

 ウルは束の間の静寂を纏い、私もまた彼の胸で頬の血を拭うのを止めた。

「覆したものを再び覆せば、また元の通りになったように見えます。しかしそれは、そのように見えるだけで、ただ覆したものを更に覆しただけの事。過ぎた事を無かった事には出来ないのです。あの欠片をお嬢様が再び掬い上げたところで、貴方が落とす以前のグラスには戻らない」

 私は床に散らばった光る粒を見た。

 触れてもいないのに皮膚が裂けたような気がした。

 その痛みのような刺激が体内を走り抜けると、先ほど私に灯った火が大きく弾けた。するとその火は瞬く間に広がり、幾重にも並んだ燭台の輪舞が中央から一斉に動き出し、激しく燃え上がった。

「なぜ、そんな事をしたの? 彼のこんな結末を望んだのはウルなの? ウルは彼の望みを僅かばかりも叶えてやりたいとは思わなかったの? 私が彼の望みを僅かなりとも叶えてやりたいと思っていた事にウルは気づかなかったの? 気づいていながらも、ウルは気づかない振りをしたの? 気づいていたからこそ、敢えてウルはこんな事をしたの?」

 私が一音発するごとに、ますます激しく燃え上がってくるのが分かった。

 私の内を焼くこの火は、もはや業火となり、何によればそれを消せるのか分からない。

 心臓の鼓動が炎に当てられて強く脈打ち、その脈動に焚き付けられて炎は益々激しくなる。

 火が強くなるほど私の中には私自身が燃え落ちていくような恐怖が生まれた。その恐怖も風を生み、炎をなお強くしていく。

「お嬢様、」

「うるさいっ。こんな結果を招いたのは貴方よ。貴方が望む、望まざるに関わらず」

 私はウルの声を掻き消すように喚き散らし、ありったけの力で掴んだ彼の手を突き飛ばした。

 ウルはよろめきながら退き、息を切らす私を見ては明らかに驚惑の表情を浮かべる。

「ウルは私の教師で、保護者で、良き理解者であると信じていたのに。私は裏切られたと感じている。それは凄く嫌で、そんな事思いたくないのに、貴方は私にそう感じさせた」

 恐らくこれがウルの恐れる激情なのだ。

 これまでも強い感情の波は私に訪れていた。しかしそれは私が私の心の池に石を投げつけて起こした波紋で、いつまでも私の池を溢れる事は無く、むしろ私はその模様を楽しむ事さえ出来た。

 しかしこれは違う。波紋が波紋を生み、重なり合った波はより高くなっていく。それは周囲を飲み込みながら溢れ出し、私はその波から身を守るだけで精一杯なのだ。

「落ち着きなさい。貴方が取り乱して、何がどうなると言うの? 失くしたものを悔いるわけでもない、その振舞いに何の意味があるの?」

「それはウルに言ってあげて。彼の身体を捨ててしまう事に何の意味があると言うの? 彼の身体を残していて、何がいけないの? この振る舞いは、ウルに対する抗議なのよ」

 私の怒声にロザリアは眉をしかめた。

 私の振り回す腕から血飛沫が散り、彼女はそれに触れまいと身体を捻る。

 それほどまでに私は汚らわしいかと新たに怒りを覚えるが、私の足元に散らばる排泄された肉や体液は穢れきっていて、なるほどいかにも醜悪であった。

「お嬢様、そのように一時の感情に流されます事は、お嬢様の品位を打ち崩す重大な過ちでございます。何事か気に障る事があったとは思いますが、ここは堪えてもらわねば」

 ウルは私に近づこうとした。また手でも握れば私が大人しく床に崩れ落ちるとでも思っているのか、その手をこちらに伸ばしている。

 しかし私は自分の指をウルに向かって強く突き出し、まるでそれは短剣か何かを構えているような気持ちで、ウルを拒絶した。

「何事か、ですって? ウル、貴方は私が何に腹を立てているのか分かっていないのね? 未だに私の心を察する事が出来ていないのね?」

 ウルはたじろいだ。それと同時に、不快であるようにも見えた。

 私がなぜこうなってしまったのか、ウルはまるっきり分かっていないわけでもないのだろう。

 それが恐らく人間の子供のせいだとは分かっている。

 しかしなぜ人間などのために。

 そういう不理解と不快。

「残念ながら」

 その口調は私を責めているようでもあった。

 それは私が今まで聞いたウルの物静かな唇から生まれた響きの中で最も嫌なものだった。静かだが静かなだけではない。冷たいが、冷たいだけではない。

 ウルは美しく、その仕種の全てには紫の煙が光の粒となって追随し、煌いている様に見えていた。むろん、その言葉でさえもである。

 しかし今私の聞いたそれには清らかな輝きが無かった。

 そこにあったのは薄暗さ。

 暗闇なのではない。ただ輝きを失った、喪失の表れだ。

 私は心のどこかで彼の言葉をそうさせた自分を悔い、また同時に密かにたじろいでいた。

「しかしお嬢様、今の貴方の行動が、ご自身にとって非常に不利益なものである事は分かっています。私は貴方の教育者として、それを止めさせなければならないのです。都合の良い事を言うようですが、それを分かってはいただけませんか?」

 私は濡れた頬を拭い、その凝固しつつある飛沫をウルの足元へと投げつけた。

 私自身、心のどこかではウルの言っている事の方が正しいのだろうと思わないではなかった。

 確かに人と私は姿形こそ似ているが、人の持つ闇への恐怖は私に無い。

 そして何よりも、この無残な姿態の私であるにもかかわらず、夜魔は人間よりも遥かに高尚であると、理性や知識以前に感じ知っていた。

「残念だわ。分からない」

 しかしだからといって、それを無闇に、楽しむわけでもなく、ましてや悲しむわけでもなく、ただ闇雲に踏み躙る、あるいは夜魔として真っ当な、そのような心を私はまだ持ち合わせていなかった。

「万物の慈しみ、生の支配者、死の体現者たる主の名において」

 睨み付ける私を見ながら、ウルは寂しそうに目を細める。そして私に腕を差し向け、その薄い唇を震わせながら何事かの響きを発し始めた。

「今ならまだ間に合うわよ。気を静めて、自分の行動がいかに浅はかだったか、考えることを勧めたいわ」

 ウルが言葉を紡ぎ始めると同時に、ロザリアはそう言った。

 私もそうすべきなのだろうとは思う。私はまだ生まれたばかりで何も知らないし、何よりウルを怒らせたり悲しませたりしたくない。

 けれども、放り投げたグラスが地に落ちるまでに止まらない事と同様に、私も転がり始めては留まれないのだ。

「嫌よ。私には私の道理があるもの。正しくないのだとしても、今私がそう考えているんだって事をウルに知ってもらわなければならないわ。その前に気を静める事なんて出来ない」

「そう。それほどに頑なでありたいのであれば、私はそれを否定しないわ。この私が折角、譲歩を勧めているというのに。残念ね」

 ちょうどその時、ウルの響きが止んだ。

「許された僅かな範囲の内の支配を代行し、貴方に命じます。己の右腕で左腕を、また左腕で右腕を束縛せよ。己の右足で左足を、また左足で右足を踏みしめよ。熱の去るまで、老石のように地に伏し繋がれていよ」

 それは一瞬の出来事だった。

 ウルが私に命令を下したのだという事は理解出来た。そして当然、そんなものに応じて堪るものかと、なお強くウルを睨んでやろうと思った。

 私は確かにそうするつもりだったのだ。

 だが私は、憶えていなければならず、また悟っていなければならなかったのだろう。

 ロザリアのように高潔な質の者が、今の私のように汚泥に塗れた者の前に姿を現す事など、自らの意思で行うはずもないという事を。

 ウルの言葉は鼓膜を突き抜くような響きだった。途端に脳が痺れ、前も後ろも分からなくなり、足を掬われたのか、それとも天地を覆されたのか、凄まじい衝撃に背中を襲われた。

 壁に取り付けられた窓越しに微かな星の煌きが見え、そこでようやく自分が崩れ落ちたのだと知った。

 確かに私は、この長さの異なる両足を踏ん張り、自己を大きく見せようと両手を翼のように閃かせていたのに、今はどうだ。あたかも力尽きた古木が倒れ果てたようではないか。

「ウル、私の腕はどうなったの? 足は、どこに行ったの?」

 強打した肩甲骨は穏やかな温もりを感じ、皮膚が裂けたのだと分かる。そしてその傷も吸い上げたばかりの血が悉く塞いでいくのを感じる。

 しかし、手足だけはその存在を全く見失ってしまった。

 元々、人の屍を繋ぎ合わせて作られた身体だ。だからその一部がいつ何時、私の想像も及ばぬ方法によって奪われたとして不思議は無い。

「ご心配せずとも、繋がっております。心をお静めになれば、また元のように動かせます」

 全てウルの言葉通りになったのだと悟った。

 左の腕で右手を抱え、右腕で左手を抱えている。それがどのような様かを私の目は捉えないが、奪われたものを取り戻そうともがく事さえ許されていない事は分かる。

「あぁ、これが、これが言葉の力……。そうなのね? これが命令されるということ。

 ロザリア、貴方が姿を見せてくれたのは、全く貴方の意思に反していたのね」

 この食卓において起こった事の中に、何一つとして私の意に沿ったものは無かったのだ。

 ロザリアが、あるいはウルもそうだが、彼女たちが私のためにしてくれること。それは私と彼女たちの間に起こった会話や交流の結果ではない。ただ、父の命令がそうさせていただけなのだ。

 私は容易く外観に騙され、そうとも気付かず全て私の思うがままになっていると思い込んで有頂天になっていた。

 私が激情を駆ったわけは、ウルが私の意志を悉く退けたからだ。

 しかし何の事は無い。初めから私の意志が介在する余地などこの屋敷の中にはなかったのである。

「早く立ち上がった方が良いわ。今貴方が倒れている床は、酷い腐臭よ」

 ロザリアがまた一歩遠ざかる靴音が響く。

「これはウルの仕業なのね? なぜ、こんな事を?」

「私は、貴方を高貴な方にするためにここに居るのです。そして、それを実行するために必要な権限をご主人様から借り受けており、本意ではありませんが、今それを行使させていただきました」

 私は父の作った操り人形で、ウルはその糸を切るハサミを渡されたという事か。

 屈辱。屈辱である。

 命令に支配されるということが夜魔にとってどれほど心蝕まれることなのか、私は我が身を持って実感した。

「我慢ならないわ。私は何を間違えたの? 誰かの願いを叶えたいと願う事は、間違っている事なの? 自分の望みが全く叶えられていなかった事に苛立つ事は、そんなに間違っている事なの?」

 私は横たわったままに叫び立てた。

 少しだが動かす事の出来る肩を揺すり、背を丸めては伸ばし、残された僅かな自由で床を打ち鳴らした。

「貴方がどのようにしたいと望むべきかを、私のような純血種ではない者、望む事のない者に指し示す事は出来ません」

「ならば、なぜ私の願いを聞いてくれないの? なぜ私にこんな仕打ちを?」

「ただ、常に心を平穏に保っていただけますよう。荒ぶるがゆえ、締め付けるのです」

 喚く度に唾液が飛び、やや宙を舞ったように見えたが、それらは全て私の顔に落ちた。

「気をお静め下さい。私達の世界に、声を荒げて解決する事などないのです。貴方は、願いの叶え方を間違えた。そしてそれはもう過ぎた話なのです。今は悔いるよりも、早く立ち上がる事が先です」

 ウルは私を抱き起こし、手にした薄布で血や唾液に汚れた顔を拭ってくれた。

 その囁き声は優しく、蕩ける様に甘く、ゆえに私が誤ったのだと悟らざるをえない。

 私が憤っていたのは、ウルに対してではないのだ。

 だから、ウルにはその理由が理解出来なかった。

「ウル、手を離して。自分の血肉に塗れる方が、相応だわ」

 私は己の力無さに拳を振り上げたのに、己を打ち据えるほどの気概も無く、ただ闇雲に振り下ろしていただけだった。

「お嬢様、」

「行って、ウル。ここから立ち上がるのに、貴方の手は必要無い」

 気付かされた瞬間に、私の中の燭台は全て砕け、燃え盛っていた炎は霜がかかるように消えた。燃え残った部屋には、裸身の私だけが取り残され、燭台の欠片で傷つかないように身動きもせずに蹲っていた。

 そこに自由は無い。凍えるように寒く思えた。

 私の頬を何かが流れ、ウルは驚きながらもそれを拭おうとする。しかし私は首を傾け、それを拒んだ。ウルの思い通りにさせたくなかったのか、あるいは流れるままにしたいと思ったのか。それは分からない。

「行きなさい、ウル。貴方が傍にいると、私はきっと心を静められないわ。私を一人にして。貴方もよ、ロザリア」

 今はもはや激情は消え失せたが、自らに対する強い失望が満ち、およそ平静とは呼べず、それはウルの前で尚更に強かった。

 瞳から流れるのは、少年に対する哀惜か、ウルへの仕打ちに対する自責か、己の不甲斐無さへの嘆息か。

 その全てが正しいようにも思え、また異なるようにも思えた。

 私は身を捩ってウルの腕から転がり落ちると、そのままただ静かに、流れ落ちていくものの生温さを、不快なのか心地良いのかも覚えず、ただそれを感じていた。

 私は激しい嫌悪感に捕らわれ、その行く先のなさにひっそりと背を震わせた。その嗚咽を聞かれる事は酷く恥ずかしい事に思え、血が滲むほど唇を噛んでいた。

「無様ね」

 背中にロザリアが遠ざかっていくのが聞こえた。

 言葉は刺さるように吐き捨てられたが、憐れみなどを見せられるよりも遥かに心地良い。

 間違いなく、今の私の姿は目を向けようもなく無様だったのである。

 私はそれを自認しなければならないのだ。もう二度とこのような場所には堕ちないと、己に対して誓いを立てなければならないのだ。

 ロザリアはただ見たままを言っただけだろう。私を責めるのでも、また護るのでもない。

 だが私にはそのあるがままを語る言葉が必要だったのである。

 部屋から彼女の気配が消え、私は安堵と寂しさを同時に感じていた。

 そんな中、ウルは立ち上がるのを躊躇っているようだった。

 そこにウルが居る事が私の卑屈を刺激する事を彼も感じ知ってはいるようだったが、一方で身動きも取れない私をそのままにしていく事も出来ないようだ。

 私をこのように横たわらせたのはウルであるというのに、今その優しさはむしろ酷であると言ってやりたいが、私にそうする気力は残っていない。

 ウルが察していながらも去れずにいたのは、ただ私の許しを望んでいたからである。

 私が向けた憤怒の矛先が、真実ウルに向いていたわけではないと言って欲しいに違いないだろう。

 自分が間違っていた、そう私に言わせたいのだ。

 だが私は無口でいた。

 全てをウルに憤っていたとは言えないが、一面でウルを責めたい気持ちは真であった。

 そして、私が愚かだった事は、敢えて口に出さずとも既に認めている。

 何より私は、ウルが傍に居る限り、ウルを許せそうにない。

 だから噛み締めた唇を動かす気にはならなかった。

 ウルはそれを察したのか、あるいは諦めたのか、ついに立ち上がり、少しずつ私から離れていった。

 最後に私はウルに少しだけ触れて欲しいと心に思ったが、それは都合の良い願いである。

 ウルが消え、部屋の温度が尚下がり、私は凍えた。

 瞳から流れるものは止めどもなく、横たわる血溜まりと混ざり合っては固まっていった。

 これが流れ終える頃、私はまた立ち上がれるのだろうと思ってみたが、その止め方を知らないから私はいつまでも自分で自分を抱き締めていた。

 やがて微睡み、意識は淡く霧を孕みゆく中、視界だけが生きていて、私の作った赤い湖が少しずつ乾いてはひび割れていくのを見、時間が流れるのを待っていた。


 窓から光が差し込み、私を照らしていた。

 見上げれば薄い月が空にあり、汚れた床から身を起こす私を惨めな気分から救ってくれた。

 手に触れる赤は全て一様に乾き、指先を掠めるだけで錆びた砂に変わる。

 私は自分に付いた赤い泥を払い、その下に現れる肌を凝視した。

 膿んでは裂け、裂けては閉じ、また膿む。それを繰り返して肌は純粋に近付いていく。

 私が少年から奪って手に入れたものとはこれだったのかと、その出来栄えを自惚れだとは気付かぬまま見入っていた。

 まだ細かな傷跡が幾つも存在しているが、その手触りは以前を予想もさせないほど滑らかだ。

 のたうつように脈打っていた血管も、湧水の一流のように涼やかである。

 奪ったがゆえに、得たものがある。

 これを得るために、私は生まれ、存在し続けていくのであれば、私は奪わざるを得ないのである。

 仕方の無い事だ。

 ウルの言っていた事は正しいのだろう。

 悲哀はある。だが、変えられない、認めねばならない事実が、そこにはあった。

 些細な事だとは思わなかったが、たとえ重大だからといって、私にそれをどうする力も無いのも事実だった。

「キリカは居る?」

 既に奪った。それを虚ろには出来ない。私は既にそこへ立ってしまったのだ。

 ロザリアの言う、奪う者の姿勢で居るべきだろう。既にその立場へ立ってしまったのだから。

 私の呼びかけに答えてキリカが姿を見せた。濃紺の服に黄金色の髪が揺れ、まるでこの闇と月光のように美しかった。

「キリカ、部屋を汚してしまったわ。綺麗にして欲しいの。お願いしても良い?」

 ウルがどこかで見ているかもしれない。一瞬そう考えて周囲を見回すが、彼はそんな半端な真似はしないだろう。居ないならばどこを見回しても居ないし、居るのならば私の目の前に居るはずだ。

 キリカが歩くと、彼女の足元で赤黒い砂が舞い上がり、彼女の靴に付着した。

 それ自体は全く清廉ではないというのに、なぜか月明かりを絡めて輝こうとしていた。

「あの月は、空の傷口のようね。だから私に優しくしてくれるのかしら?」

 問いかけてみるが、キリカが答えるはずもない。

 しかし私も答えが欲しくて口を開いたわけではない。

 だから私の言葉に対して無言を返してくれるキリカとの会話は今の私に好都合と言えた。

 私は錆びた埃の中で座り込み、月に照らされる傷だらけの腕を何度も擦る。

 寒いのだ。

 血を啜り、己の体温が上がったのか、部屋の空気がやけに冷たく感じる。

 身体は得たが、そのために削り取られた隙間がどこかに在って、そこに風が吹き込んでいるようだった。

 キリカがその髪の中に手を差し入れると、彼女の手には一房の髪が握られていて、それは彼女から分離しているのだが、同時に一体にも見え、すなわちそれはホウキとなった。

 彼女がそれを手にして床を擦ると、塵は彼女のホウキを辿り、彼女に包まれて穢れを鎮めるのである。

「キリカ、こちらに来て」

 私は彼女を手招いた。

 キリカは命じられるままに、その無表情を動かす事もなく、私の方へと歩んでくる。

 私を中心に赤茶けた砂漠が広がり、それを渡るキリカの裾に舞い上がった砂塵が纏わり付いていく。

 私は彼女を穢しているのだろうか。それとも彼女は穢れないのだろうか。

 そう考えながらじっと私はキリカの顔を見ていた。そんな私を見ながら、キリカは僅かに微笑む。それを見て、私も極微かに頬を緩める。

 でも恐らく、キリカが笑ったのは彼女に何らかの心理があったからではなく、そうせよと以前に教えられたからだ。

 キリカに言葉は無く、感情も無く、ただ命じられた事を一心に行うだけだ。

 でも私は、彼女の微笑に共鳴し、無意識に心を揺らしてしまうのである。たとえキリカ自身の心は揺れず、それが私の一方的な勘違いだとしても。

 彼女は私の隣に立ち、その右手には一本のホウキを握りながら、次の命令を呆然と待ち続けた。

 私がそっとキリカの裾を掴むと、彼女はそのひょうと細長い身を屈め、私を見つめ返す。

「キリカ、もし、もし貴方が嫌でなければ、ここに座って、そして私の肩に手を添えて欲しいの。もし、キリカが床や私に付いた血で汚れる事が嫌でなければ、なのだけれど」

 もはや腐臭はないが、私の身体に散りばめられた傷口は、まだ時折血を滲ませ、破滅を始まりとする再生を望んでいる。

 もしキリカが私に触れれば、その青い袖が赤い穢れを吸い上げてしまうだろう。紫の服を着たキリカを見て、ロザリアはきっと眉を顰めるに違いない。

 しかしキリカは躊躇う様子も無く、私の右側で膝を折って座ると、その細長い左手を私の右肩に乗せた。

「違うのよ。私がして欲しいのは、そうではなくて、こちらの肩に手を置いて、抱いて欲しいの。」

 また言葉が足りなかったのかと、自分を少し呆れ笑い、キリカの手を自ら左肩に回した。

 忽ちにして彼女の手のひら、腕、肩、胸、それだけでなく膝や脹脛までが、私の血やその錆によって汚れていく。

 キリカにそれを気にする様子は無く、彼女は私が望むままにしてくれた。

「ありがとう。」

 やはりキリカは微笑む。それが彼女に与えられた命令だからだ。

 もし、汚れる事が嫌でなければ。

 そう言った私の凍えた肩をキリカは抱いてくれている。

 でもそれが、キリカが凍えた私の肩を暖めてあげたいと思った、という事とは全く異なっている事を私は分かっていた。

 それは言葉を使った戯れに過ぎない。

 キリカはただ命じられた事を忠実に実行するだけで、そこに彼女の感情は無い。

 だから、嫌でなければ、と口にしながらも、私は彼女が嫌だなどとは絶対に思わないと分かっていたのだ。

 もし、貴方がそうしてあげたいと少しでも思ってくれるのならば。

 そんな風に言ったならば、きっとキリカは私に触れてくれなかった事も理解している。

 彼女は何かを望んだりはしないからだ。

 命じられる事に、彼女は拒絶も希望も抱かない。

 それを知っていながら、それでも私がそんな言葉を使ったのは、きっと慰めて欲しかったからなのだろう。

 それをキリカから得る事は出来ないから、せめて形式だけでも自分で整えたかったのだ。

「私とこうしている事が嫌になったら、部屋の片付けに戻っても良いわよ」

 私は彼女に身を預け、胸に頭を寄せながら空を見上げた。

 もちろん、キリカが仕事に戻るはずが無い事も計算した上でこうしている。

 月が私達を照らしていて、私も月を見ていた。

 キリカも月を見ているだろうかと考えてみたが、恐らくキリカは表情の無いままただ虚ろに何かを見ているだろう。

 それでも私は、その視線が月の方に少しでも向いていれば、そう考えるだけで十分に楽しむ事が出来た。

 あぁ、とても暖かい。

 私はそれに飽きるまでずっとそのままで過ごしていた。


次話更新7/20(金)予定


作者ツイッター https://twitter.com/yuki_anno

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