ヤミヨヒメ -ウマレルヒ-
「ベニメウクスを襲っているのは、お前の父の臣下の者達だ」
「父がベニメウクスを?」
「いや、あれは奴らが勝手に起こした行動だろう。娘に対する不殺の命令はまだ解かれていないからな。
お前は何の苦も無く奴の血を手に入れた事で多くの夜魔に憎まれているが、それはあの娘も同じ事。
更にあの娘は身内であるウルを容易く葬るような恐ろしさがある。父と同じ位にまで昇った時に臣下を庇護するとは思えん。
いずれ暴君を頂くくらいなら、芽の小さい内に摘み取ってしまおう、というところか」
確かにベニメウクスには争いを好み、自身の感情に忠実な面がある。
彼女を主に頂けば、庇護を受けるよりも、彼女の機嫌を損ねて消し飛ばされる方が早いかもしれない。
ウルの件でそれが推測の域を超えて確信に変わり、臣下達の一斉蜂起にまで発展したのだ。
「彼らにベニメウクスは倒せるの?」
「言っただろう、不殺の命があると。奴らにベニメウクスは殺せない。
そして認めたくない事だが、あの娘はもう奴らよりも遥かに格上だ。怯えて蜂起する程度の輩など歯牙にもかけん。
不殺の命令が無いとしても、奴らにあの娘は倒せないな」
私は周囲を見回した。
彼らがベニメウクスに敵わないとしても、多少の足止めにはなるだろう。現にラバンはこうして無傷で抜け出してきている。
ならば私は彼女が争いに興じている隙に、父の所まで行って、聞くべき事を聞かねばならない。
森の外れには木々よりも遥かに背の高い馬車が見え、その傍には輝くベニメウクスを見つめるひたすら静かで深い闇がある。もちろん、それが父に違いない。
「本当に行くつもりなのか?」
父の姿を見つけた私にラバンが問う。
「お前には今、二つの選択肢がある。
一つは奴に会い、事の真相を知る道。
もう一つは、今手に入れた血の力でどこまでも逃げきる道だ。
後者を選べば、お前は恐らく生き残れるだろう。どこまで逃げるか分からんが、いずれは皆、貴様に興味を無くす。夜魔とはそういうものだ。
しかし前者を選べば、お前の命は父親次第だ。それは言うなれば博打、それも奴の無関心振りから予想すれば、お前に限りなく不利な賭けだ。
今逃げれば助かる。だがお前はわざわざ、命を賭けに行くつもりなのか?」
私は理由も分からず微笑む。
「分かってるわ。勝ち目の薄い賭けだって。
でもウルとの約束だから、父の真意を聞かないと。
私の生まれた意味を知れたなら、死は怖いけれど、後悔はしない」
私の答えを聞いてラバンは渋い顔をする。私はすぐにその理由を察した。
「何もラバンまで私の賭けに付き合わせる気は無いわ。貴方は貴方の思う通りに」
「馬鹿を言うな。
俺も最後まで付き合ってやる。
何より、お前を守る命令がまだ有効だからな、見捨てたくても見捨てられん」
ラバンは苦々しく笑った。とんだ馬鹿のお守りになってしまったものだと呆れているようでもある。
そして私達はどちらが合図したわけでもなく同時に走り始めた。
父の気配がする方へ一直線に向かう。
しかし私達が動き始めた事にベニメウクスはすぐに気付き、襲いかかる夜魔達を振り切って私達を追跡し始めた。
ベニメウクスの俊足は凄まじく、先回りする大きな弧の動きで追ってきたというのに、忽ち私達の前に立ち塞がる。
「お姉さん、お父様に何の御用かしら?
まさかまだお父様の慈悲にすがって生きるつもりなの?」
「慈悲にすがるつもりは無いわ。もはや死も半ば覚悟している」
「じゃあ、私が殺してあげる。私の夢には、やっぱりお姉さんが一番邪魔だから」
ベニメウクスが恍惚の表情で私を見た。見ただけでもう私を斬り刻む瞬間を想像しており、快感で身を震わせている。
その視線だけでも凄まじい力が込められており、彼女の気力が充実しているのだと分かる。
ラバンが私の前に立ち、その視線から私を守った。
恐らくベニメウクスがこれほどまでに興奮しているのは、初めて得た自由と、激しい闘争と勝利、そして彼女の言うその夢に心弾ませているからに違いない。
「夢と言っても、ついさっき思い付いたのよ。私に反旗を翻した者達を粛清している時にね。
私はこのままあらゆる夜魔を殺すの。世界から夜魔が居なくなるまで。
夜魔の次は、人間、そして動物達も、生きているものは全部要らないわ。
世界は私とお父様の二人だけになるのよ。
他には何も無いから、私はお父様の事だけを考え続け、お父様も私の事だけを見続ける。
素晴らしいでしょう?」
いや、恐ろしい。私は生唾をごくりと飲み込んだ。
確かにベニメウクスは出会った時から、異常なまでに父に執着していた。
しかし実際は執着などという生易しいものではなく、彼女の中には父以外に考慮すべきものが存在していないのだ。
他の夜魔など簡単に葬れると知った今、彼女は彼女にとって最も単純で、最も理想的で幸福に満ちた夢を作り出したのである。
「二人だけでは生きていけない。
獣も人も居なければ、最後は二人とも飢えて死ぬのよ」
しかしベニメウクスはにやりと不敵に笑う。
「大丈夫よ。それもちゃんと考えてあるから。
飢えたら私はお父様の血を吸うの。お父様は私の血を。
互いの血で互いを満たしながら生きていくのよ。
いつまでも飢えないし、どこまでも閉鎖的で完璧な世界よ。
それが私とお父様の世界。
その世界で私達はもう父と娘なんかじゃなくて、何にも囚われない、
新しいアダムとリリスなの」
そのただ一点だけを突き詰め、他は大きく破綻したベニメウクスの夢に私は薄ら寒いものを感じる。
いや、寒さを感じるのは、夢に向かって邁進する狂気に満ちた瞳を見たからか。
ベニメウクスはどれほどの夜魔を斬ったか想像もさせないほど血に塗れた大鉈を、一度頭上で大きく振り回し、私達に向けて構えた。
すぐにラバンも剣を手に構えれば、それぞれの敵対心がぶつかり合い、周囲の要素が緊張しざわめいた。
「お前は先に行け」
ラバンが静かな口調で言った。
しかしこれまでの事を考えれば、ラバンがベニメウクスに敵うとは思えない。
単独で向かわず、私が加勢すべきではないのかと提案しかけるが、ラバンの表情は自信に満ち溢れていて、口を噤む。
そしてその瞬間、ラバンから猛烈な威風が解き放たれた。
その威圧感に私は思わず目を細めるが、ベニメウクスは驚愕したように目を見開いた。
「それが、賢翼公の本当の力?」
ベニメウクスは驚きながらも、どこか嬉しそうにも見え、真っ白な頬が興奮に紅く染まっていく。
「この程度が本当の力かって? まさか。
だがお前がこいつにあからさまな殺意を向けるほど、それに近付くのは間違いない。
俺がお前に抜かれたとき、こいつが死ぬというのなら、お前を止める力が俺に湧いてくる。それがお前の父と俺の間で交わされた契約だからな」
ベニメウクスは凄まじい衝撃を伴いながら私に大鉈を振り下ろす。
だがベニメウクスの殺意が私に向くほどにラバンの力は高まり、彼の剣が大鉈と私の間に割って入った。
私とベニメウクスの距離が僅か数歩に縮んだ今のラバンから発せられる威風は、既に先ほどの数倍にまで増大している。
ベニメウクスは父の契約が己の大鉈を邪魔している事で不満げに歯噛みする。
ラバンは私に目配せして、前進を促した。
「任せて良いのね?」
「被造者のくせに偉そうに俺の心配をするな。
奴に言いたい事があるんだろう? さっさと行って来い」
「逃がすものか。お父様の所には行かせない。」
ベニメウクスはまた激しい敵意を私に向けて威風を発するが、それによってまたラバンの力も高まる。
ベニメウクスとラバンと、最終的にどちらが相手に勝るのか、私には想像も出来ないが、ここは彼に任せる以外に無いと思えた。
木々に囲まれ、月明かりの振り下ろす中、父、セィブルは、一人静かに待っていた。
私が来るのを待っていたわけではあるまい。
だが、ベニメウクスや他の誰かを待っている様子でもなかった。
それなのに、ただ何かを待っているようだった。
「父よ、どうして私を作ったの? 私に何を求めたの?」
「ベニメウクスは、お前を止められなかったか。いや、止められない事は分かっていたが、あるいは、と」
「貴方から多くを受け継いで私は生まれ、そのためにたくさんの恩恵を得たわ。でもそれは私にとって辛い恩恵でもあった」
人に畏怖を与える運命。人を殺める運命。
人の屍ゆえ、激しい愛を秘めた身体だというのに。
「それでもウルは、私に生きろと。私が生きる事には意味があると。貴方だけしか知りえないその意味を、ウルは信じ、そして消えていった」
「その意味を、お前は知りたいのか?」
「そうよ。それを知りたい。私には、貴方を知るたびに、どうしても拭えない疑惑があった。父よ、貴方が私を作ったのは、ただの戯れなのではないかと」
「戯れ。その心が無いわけではなかった」
「でも、もはやそれは許されない。ウルは消えたのよ。それに見合うだけの意味を、私は求めている。貴方にとってウルはただの一呼吸なのかもしれないけれど、私が彼と共にした呼吸は、たった一度ではないから」
「お前には分からんよ。そして私の希望は叶わなかった。お前は、私の期待に応えてはくれなかった。今、お前にそれを言ったとしたら、お前はそれに応えてくれるのか?」
「それは分からない」
「だがお前は、いや、お前を作ったこの私が過ったのだ。その望みは、持つべきでなかったのだ。そこからは何も生む事が出来なかった。それが結末だ」
「それは、今、貴方は私が生まれた意味を、破棄したということなの?」
「そうだな。今、お前が生まれた意味は、無くなった。」
あぁ、ウル。
「父よ、ウルは貴方を信じていた。だから私も、貴方を信じた。ベニメウクスが私を憎んだ時、あるいはそれが貴方の意思ならば、それも受け入れようとさえ思ったわ。貴方が私の消滅を望むなら、それは意味のある事だと、信じる事が出来たから」
私は剣を構える。
「でも貴方はウルを裏切った。そこに意味は無かった。」
父が私に手を差し伸べた。
抱き寄せたいのではない。
「もう私は、貴方を信じない。そして、ウルの言葉に応えるため、私は、」
私は土を蹴る。
「生きる。」
日頃よりも固い。土や風の要素達が私に味方をしてくれない。
「私が生きる意味は、私自身が与える。」
それでも私は、生きねばならなかった。
ウルが消え、ランスが逝き、ロザリアもキリカもいなくなり、ラバンも激しく傷ついた。
それを、ただ失敗だったという父の一言で、無かった事にされては堪らないではないか。
私の生は残酷だった。
人間にも、夜魔にも、そして私自身にも。
数多くの不幸が私と共に生まれた。
でも、私は、それでも私は、生きたい。
悲しみしか生まなかったのだとしたら、私はその悲しみと共に生きていきたい。
何も無かったと言われるよりも、その方がずっと良い。
「お前に命ずる。――元の姿へ」
父の言霊により、私を激しい衝撃が襲う。
腕が千切れそうになり、皮膚が剥がれていく。
燃えるような痛みに足が震え、仰け反りを堪え切れず、地に倒れる。
息苦しさにむせ返れば、どろりと赤い液体を吐き出す。
私はまだ、父に遠く及ばない。
でも、耐えられる。
「私は貴方を斬ってしまいたい衝動に駆られている。この、貴方が選んだこの身体が、その激情に身悶えているの。父よ、貴方は知らないでしょう? 激情は、必ずしも心の乱れではない」
立ち上がろうとすれば、傷口から血が吹き出ていく
「人のそれは、時として美しく、時として気高い。人が我を忘れるのは、浅はかだからかもしれない。でも決して、盲目だからではない。自分が見えないから我を忘れる事がある。でもそのとき人は、必ず他の誰かを見ている。自分よりも、その人を照らしたいと思うからよ」
ランスの血が私の傷を癒していくのを感じる。
あと何度、ランスは私を立ち上がらせてくれるだろう。
でも私は彼が力を貸してくれる限り必ず立ち上がれる。
「貴方にはきっと理解出来ないでしょうけど、これは美しい事だと、私は思うわ」
「確かに、理解出来ん。そして仮にそれが美しいのだとしても、それは悲しみしか生まない」
「えぇ。でも私にはその悲しみで十分だわ」
私は再び走った。
土が舞い、草の葉が跳ねる。
しかしどれも私に応えてくれない。
「蔦よ、足を絡めて。風よ、砂を巻き上げて。闇よ、私を隠して。」
蔦が這い、風が巻き、闇がざわめく。
あぁ、しかし何という瞳だ。
父が睨むだけで、その威圧が全てを呑み込んでしまう。
蔦は自ら枯れ、風は腐り、闇は錆びた。
そして私まで、一歩さえも動けない。
父が、私を指し示す。
「還れ。」
私は崩れ落ちた。
生まれた時と同じように、あるいはそれよりも酷く全身が爛れ、体内からも僅かに腐臭がする。
父は、私という自我が存在する以前の状態に戻そうとしているのか。
「抗うな。苦しまずに終わらせてやりたい。これは、私の過ちだ。お前が苦しむ必要は無い。」
それが父なりの、覚悟か。
生まれてこなければ、数多くの悲哀には会わなかっただろう。
それが父なりの、優しさか。
「嫌。私は抗うわ。生きたいもの。」
だが、既に生まれたものを、生まれてこなかった事には出来ない。
それは同じように見えるが、決して元に戻ったわけではない。元に戻るものなど無い。
ウルがそう言っていた。
傷口からは血が滴る。だがそれも一呼吸で止まる。
ランスに礼を言いたい。
「苦痛に耐えながらも、屈しないのは、夜魔としての心ゆえか。人の心に傾倒しているのではなかったのか?」
「いいえ。これが私の心だからよ」
また父が私に命じる。
火花が弾ける様に、私の身体が血飛沫を発す。
目の前が赤く染まったかと思えば、急に暗くなる。
父が闇で私を覆おうとしているのかと思ったが、実力に天地ほどの開きがある私に対してそのような小細工を用いる必要はない。
だからそれは父の放った闇ではなく、私の意識が消え去りかけたためなのだと悟ったときに恐怖を抱いた。
立ち上がらなければ。
傷を癒し私を抱き起こすランスの手を取ろうと、必死にもがいた。
「無駄な事はするな」
何とか上体を起こした私の目の前に、父が立っていた。
手が差し伸べられている。
剣を、構えな
「お前の気持ちは理解出来ないが、」
血が弾ける。
「察してやれればと願っている」
また、血が弾ける。
「絶対に理解しえないと分かっていながらも、」
骨芯が砕ける。
「お前のために、それを痛切に願う」
錆の味にむせる。
「娘よ、これがお前の罪だと思っているのなら、」
痺れに全身を見失う。
「罪を贖うべきなのは、お前ではない」
瞳が形を崩す。
「娘よ、お前は自分を責めているのか?」
何かが弾ける。
「だが、責められるべきはこの私だ」
再び、何かが弾ける。
「お前が耐えるのは、その苦痛を私の贖罪とするためなのか?」
何かが流れ出ていく。
「ならばそれは果たされた。お前は痛みを感じ、それを見て私は苦しみを覚えた」
何かが撒き散らされる。
「もう、苦しむな。お前に罪は無い」
静かになった。
私はどうなってしまったのだろう。
横たわっているような気もするが、全て液状化して土に吸われているような気もする。
父は、まだそこに居るのだろうか。あるいは、全て終わったその場を、去っていっただろうか。
でもランス、無理を承知でお願いしたい。
この右腕だけでも、もう一度だけ抱き起こして欲しい。
父がそこに居るのなら、剣を握る腕があれば、心臓を貫いてみせるから。
もう一度、右腕だけでも、たった一振りに堪えるだけの腕で良いから。
あぁ、ランス、貴方が悪いわけではないわ。
私の身体はもう、欠片も残っていないのだろう。
小指の先さえ再生しない。
きっと、全て土に吸われていったのだ。
全身に土を感じる。土だけではなく、草も、木も、風も。
飛び散った私の身体の飛沫達がそれぞれの場所で、それぞれに大地や草木を感じているのに違いない。
ならば、私のこの意識は何だろう。
脳も心臓も無い私が、どこに存在しているのか。
大地に融けて、私の意識も一つの要素になったのかもしれない。
だが、ふと何かが繋がる。
要素が夜魔の呼びかけに応えるときは、こんな感じなのか。
いや、違う。これは呼びかけではない。
私は繋がった何かを思い切り振り払った。
感じ慣れた心地良く重い手ごたえがある。
あぁ、ランス、貴方は何て事をしてくれたの。
右腕だ。
私が今振り回したのは右腕なのだ。
すぐに額、胸、瞳、左腕、両足が次々と再構成されていく。
だが同時に、私の中からランスの温もりが少しずつ薄れていくのも感じた。
ランスは、その全てを使い果たして、私を最後にもう一度だけ抱き起こしてくれようとしている。
目蓋を上げれば父の驚愕した顔が目の前にあった。
しかし何という事だろう。
ランスは私の無茶な願いに全てを捨てて応えてくれたというのに。
どうして私は剣を落としてしまっているんだ。
父に剣を向けた瞬間から、あらゆる機会を逃すまいと、決してこの剣は手放さないと決めていたのに。
父の言霊を身に受けている間、私は心のどこかで既に諦めてしまっていたのだろうか。
ランスが応えてくれたのに、私は約束を破ってしまうのか。
いや、まだ約束は生きている。
言い訳かもしれないが、私はまだ腕を振っただけで、剣は振っていない。
もう一度立ち上がり、ランスが作ってくれたこの身体でもう一度、今度こそ剣を父に突き立てなければ。
私はすぐに傍に落ちた剣を拾った。
この距離ならば、あるいは父が再び口を動かすよりも速く腕を伸ばせるかもしれない。
上半身だけを立たせたまま、私は急いで体勢を整える。
だがそこに父の姿は無かった。
確かに、いくら驚いていたとはいえ、父はこの距離で言霊を唱えるほどリスクに疎い人ではなかった。
ならばそれでも構わない。立ち上がり、近付けば良い。
「言いたい事をよくも自分勝手に言ってくれたわね」
剣を地面に突き立て、寄りかかりながら腰を上げる。足が震えて仕方が無い。
「私が自分を責めている? 貴方の贖罪をしようとしている? 違うわ。貴方はやはり理解出来ていない。言ったでしょう? 私は貴方を斬りたいだけ。私に斬られる、それが貴方の贖罪よ。でもそれは私を生んだ過失への贖罪じゃない」
地面から剣を抜く。
もう一度立てて良かったと、心からそう思う。
立ったからといって、父に敵うわけでないのは分かっている。
また倒れれば、もう次は無い。
でも、それはウルの望んだ、何者にも屈しない夜魔としての死。
そして同時に、ランスと同じ、我を忘れられる人間としての死。
「貴方が裏切った多くの者達への贖罪よ」
彼らは父の事を信じきっていたから、もしかするとこの贖わせ方を望まないかもしれない。
でも、彼らは私がそうしたいと望んだわけを、きっと理解してくれる。きっと許してくれる。
抗った私に、ウルは寂しく笑いかけるだろう。
「やはり理解出来なかったか。だが、分からない理由に流されては、贖いにならんだろう?」
私は走った。
身体が軽い。
土が足を上げてくれる。風が背を押してくれる。
そこら中に血の臭いがしていた。
「蔦よ、足を絡めて。木々よ、ざわめきで言葉を掻き消して。風よ、私を押して。闇よ、父の目を塞いで」
私は叫んだ。喉が裂けるように痛む。
だが、要素達は私の呼びかけに応える。
少し前まではあれほど父に傾いていた要素達が、なぜか今は私に味方してくれているのである。
周囲の全てが血生臭い。
飛び散った私の血の飛沫を吸った事で、要素が一時的に私の方へ向いたのか。
あぁ、私の血に溶けていったランス。これは貴方のくれた奇跡なのか。
恐らくはただの偶然に過ぎないだろう。彼の意識はもはやこの世のどこにも存在しない。
でも私はそう思いたいのだ。
「土よ、父の足元をぬかるませて。月よ、静寂で父の耳を閉ざして。ウル、お願い、力を貸して」
両手に残った紫の灰を、剣と共に強く握り締める。
途端に不思議なほど心が奮い立った。
父を斬る決意が、更に堅くなっていく。
蔦が這い、風が吹き、木々がざわめいた。
父が威風を放つ。その視線は突き刺すように全てを震わせる。
だが闇は錆びない。土は涸れない。
私の血が、要素達に父の視線に屈しない力を与えているのか。
父は忽ちそれを理解した。
「小賢しい。刃向かうな」
言霊によって蔦はすぐに枯れる。
視線に抗う力は与えても、言葉に敵うだけの力は私の血に無かった。
しかし既にその一言、その一呼吸分だけ、父は遅れた。
「ウル、私を支えて」
私の心は萎えなかった。
父は、言霊の力なら私も足を止めるだろうと思ったに違いない。
だが私はまだ止まっていない。
その異様なものを見るような表情を見れば、予想外の事に僅かな焦りが生まれたのだと分かる。
そしてその現状に違和を覚える一呼吸分、また父は遅れるのだ。
あと四歩。それだけ駆け寄れば、剣が届く。
長い距離だ。
父はすぐさま私を指し、唇を動かす。
父が語り終えるよりも速く、私は四度足を出せるのか。
躊躇う暇は無かった。
足を出す以外に私に方法が無いのなら、間に合うかどうかは別の問題だった。
「私の名において命ずる。元の姿へ還れ」
目の前を漆黒の何かが襲った。
激しく砕け、液体がばら撒かれる。
闇が朝日に消え入るように、その一片一片が舞うように散る。
まさにあと一歩だったが、間に合わなかったのか。
だが後悔は無い。
私は精一杯を果たした。
痛みは感じない。それさえも父は消し飛ばしてしまったのか。
視界を覆う暗闇が晴れ、父の顔が覗く。
だがなぜ、そんな顔をしている。慌てる様な、悔しむような。
私はもう、指の一つも動か
いや、動く。指だけではない。腕も動けば、足も動く。まだ剣も握っている。
なぜ。
今、理解は無用だ。それは後で良い。
動くのなら、躊躇うな。戸惑うな。
あと一歩を踏み出せ。
「えぇい、このクソったれ。あの小娘だけ投げ入れるつもりが。この畜生め」
私の手は剣を握り、剣は父を貫き、父は地に伏している。
「ラバン、ありがとう。貴方が来なければ、私はもう存在していなかったわ」
「好き好んでお前の身代わりなどになるか。あぁ、俺の腕が」
彼の腕からはだくだくと血が溢れ出て、周囲には漆黒の羽根が舞い散っている。
「その手はすぐに私が治してあげる。でも少し待って。最後に、父と話がしたいの」
「長くは待たないぞ。そんな野郎、早く消しちまえ」
ラバンは笑いながら意識を失った。
倒れ込んでいる彼を見ながら、私も微笑む。
その笑みを父にも向けるが、父は苦しそうに細い息を必死で続けているだけだった。
瞳だけがまだ生を渇望していて、その機会が訪れるのを息も絶え絶えに拒んでいる。
私は父に向かって手を伸ばした。
父の表情が凍りつき、自身の剣を握ろうとしているのか、右腕の痙攣が激しくなる。
「無駄よ。心臓を刺し貫かれた時から、貴方の格は急速に堕ちていっている。もう私にも貴方の本質が見えるわ。剣を構えたって、今の貴方に私の言霊は防げない」
父の腕が、力無く土に落ちた。
「早くしろ。お前は、これを望んで、いたのだろう?」
一声ごとに、父の息が細くなる。
私をこの世に生み出した者が、今急に消え去ろうとしていた。
譬えようもないほど私はこの生とそれを作った父を憎んでいたというのに、言い表せない哀しみが溢れてくる。
どれほど憎んでも、その憎しみさえ父と私の間にある絆だ。
父だけが、私が存在する以前から、私に居て欲しいと願った。私を必要とした。
父だけが、誰に命じられたわけでもなく、私に目を向けていた。
「最後に、私が生まれたわけを教えて」
これまで私に与えられてきたものは全て、生も、出会いも、悲しみも、苦しみも、この心さえ、父に与えられたものだ。
父ほど私に多くを与えてくれた者はないし、恐らく今後も現れる事はないだろう。
その絆が、今断ち消えようとしている。
「それを聞いて、どうする? 私が消えれば、もはや完全に無意味だ」
「それでも良いわ。私が何を誤り、貴方を失望させたのか。私は悔いたいの。消えていく貴方のために」
父は苦笑し、それから大きく呼吸をした。痛みに表情が歪む。
「お前も感じただろう? 人間達の怒りを、憎しみを、敵意を。
私は、この世に生まれた瞬間から、ただ生きようと必死だった。
血を吸う事、それだけが、私の生きる術なら、私は人間達に敵意を抱いた事は無かった。
それなのにだ、彼らは私を敵意の視線で睨み、害悪だと叫びたてた。
私は生き延びるため一心に、血を吸い、夜魔として人間などには揺るぎようの無い存在となる事を望んだ。
そして気が付けば、私はどの夜魔よりも優れるようになっていた。
人間だけではない。夜魔達でさえも私に畏怖を抱き、その畏怖が全ての者を支配した。
娘よ、私の名は、畏怖ではないのだよ。
もはや誰も私に近付くものはいなくなった。
身体は抱き寄せれば良いが、そのとき心はもはや凍り付いている。
あらゆる者が、私の望むままに全てを差し出した。
だが、お前ならば分かるだろうか?
私は、望みが叶えられない事を望んでいたのだ。
至高の存在というのは、孤独なのだよ。
皆が足元に居るが、誰も私の隣には居ない。
孤独だったのだよ、私は。
孤独に耐えて生きていくのは、虚しい事だ。
あるいは誰かがこれを止めてくれればと思う事もあった。
だが、誰にそれが出来よう。
孤高ゆえに孤独なのだ。
お前たちを作ったのは、お前ならば、傍まで来るかと思ったからだ。
お前ならば、同じ虚しさを知るかと思ったからだ。
だが、お前が私の意に応じて、傍まで来たとして、私の求めたものは手に入らんだろう。
私自身以外に、真実私の心を理解出来る者はいないのだから。
やはりこれは一時の気の迷いが生んだ、戯れだったのかもしれん。
」
「父よ、貴方は同じ思いを、寂しさを共有出来る者を私に求めたの?
それとも、私に葬られる事を望んだの?」
「そう思うか。
お前は、そう思ってくれるのか。
嬉しく思うぞ、娘よ。
だが恐らく、それで私の孤独は癒せんよ。」
「ならば、どうすれば?」
「望んだものは必要無い。
望まないものを与えられる事を私は望んでいた」
「貴方が望まないものは何?」
「無いよ、そんなものは。
私は全て、あらゆるものを待ち望んでいたのだから」
「ならば、私は何をすれば良かったの?」
「泣いているのか? 人の顔を持つ、夜魔の子よ。
今、私は孤独だ。
それ以外に結末は無い。
私のために何かをしたいと思っているのなら、もう終わらせてはくれないか?
苦しくて堪らんよ」
父はもう空を見上げて、その瞳には光が無い。
私が胸に刺さった剣を一気に引き抜くと、血が吹き出て私の身体を染める。
「さようなら。」
「あぁ、お前もいずれは孤独を知るかもしれん。だがそれは恐らく、私の虚しさとは違う。これは私にしか分かるまい」
「孤高の人、セィブルの、娘の名において命ずる。」
私は父に手を差し伸べた。
父の心に出来た穴は大き過ぎる。その中にいる父には、どれほど手を伸ばしても届かないのかもしれない。
だが、私はこの手が届けばと、その底から父が手を伸ばしてくれればと手を差し伸べる。
「土に還れ。」
最後に父は微かに笑っているようにも見えた。
だがそれはたぶん私に都合の良い思い込みだろう。
父は、何の音も立てないまま崩れ去った。
ラバンの傷は酷い。私は駆け寄って意識の無い彼を抱き起こす。
彼の格を回復するのに、恐らく多くの時間と食事を必要とするだろう。
私のために傷ついたのだ、彼は余計な世話だと嫌うだろうが、私は彼のためにそれを用意してやりたいと思った。
「あの人が、こんな姿になるなんて。なんて惨めなの。」
振り返れば、そこにはロザリアがいた。
「ロザリア。」
かける言葉も無い。
父を生み、育て、守り、そして常に傍にあろうと願った。
その彼女に、どんな言葉が意味を持つのだろう。
「自分の願いが何かも分からない愚かな人。生きる以外に何も知らないくせに」
ロザリアは、父だった土をその手で掬い、何をするでもなく、表情さえも変えず、ただ見つめていた。
「でも、消える必要は無かった。愚かで、救いようのない人だった。でも、でも、でも。」
ロザリアは何かを堪えるようにその手を強く握る。
指の間から砂が零れた。
父よ、貴方は孤独を感じていたかもしれない。
貴方は違うと言ったが、孤独の先に死を望んでいたのだろうか。
だが父よ、貴方はどうして気付かなかったの?
ロザリアの愛を感じなかったの?
ロザリアに愛を感じなかったの?
それに気付いていれば、父よ、貴方の結末は違っていただろうか。
「ロザリア。」
その答えを知らない私に、かける事の出来る言葉など無かった。
ロザリアは泥濘に膝を汚し、伏せるようにその土を掻き抱く。
父が生まれた時、彼女はそうして父を覆ったのか。
その腕でまた父の骸を抱くのは、どんな気持ちか。
私は目を背けてしまう。
「ロザリア。」
でも何かを言葉にしたいのだ。
かける言葉は無い。
しかし、何かを彼女に与えたいのである。
「行きなさい。彼を助けたいのでしょう?」
「えぇ。ラバンを救いたい。でも、貴方も救ってあげたい」
「この私を? 何から?」
「痛みから。哀しみの、痛みから貴方を救いたい」
彼女は笑った。
泥になっていく土に両手を埋めながら、今までにないような大きな声で、彼女は笑った。
そして急に静まり、囁くように言った。
「行きなさい」
「ロザリア」
「あの人をこんな姿にしたのは貴方でしょう? この痛みを与えたのは、貴方でしょう? それをまた、私から奪おうというの?」
「でも、」
「救いは要らない。痛みだけで十分よ」
「それでは貴方が、」
「もう、貴方からは何も要らない。何も欲しくないわ」
感情のない声だった。
感情を押し殺しているのではないだろう。
今彼女の心には、きっと虚しさしかないのだ。
「行きなさい」
私はラバンを抱えて立ち上がった。
私に哀しみを埋める術はなかった。
私の中にも哀しみしかなかったからだ。
「もし、もしも貴方が、私から何かを欲しくなったら、すぐに来て。私は、貴方から欲しいものがたくさんあるから、もしも貴方が、そうしても良いと思えるようになったなら、すぐに会いに来て」
「約束は出来ないわ」
「良いの。私が勝手に期待して、勝手に待ち続けるだけだから」
私は彼女に背を向けた。
それ以上、泥に塗れる彼女を見ていられなかった。
胸が苦しくて。
「貴方がこうした理由は、きっと理解出来るし、いずれ許せると思うわ。貴方は、そうしなければいけないだけの責任と悲哀を背負っていたのだろうから」
彼女の辛さも背負えればと願うが、私はその術を持たない。
「でも、貴方に会いに行けるようになるとは、とても思えないわ。待つのは酷よ。」
「良いの。私が勝手に待つだけだから。それが酷なら、なお良い」
彼女はもう何も言わなかった。
ラバンを担いで歩いていると、背後で何かが泥の中に倒れるような音がしたが、私は怖くて振り向けなかった。
泥を叩く音に混じって嗚咽のようなものも聞こえる。
でも振り向いてはいけない。
彼女は、もう私からは何も欲しくないと言ったから。
私は怖くて振り向けなかった。
私は、その暗い、闇の塔の最も高い場所から世界を見ていた。
私が父の血を浴びた事で、その城は次の主として私を迎え入れた。
血は引き継いだが、その城は私にとってあまりに高い。
重厚な王座にはまだ父の影が漂い、微小な私は未だその正面に立てば身が竦みそうになる。
「主上、黒翅公がご出立なさるそうです」
ゆっくりと、しかし堂々とした靴音を響かせながら、ラバンが姿を見せる。
右腕は千切れたままだが、案の定私の手を借りて傷を癒すのは彼の意に反すらしく、意識が戻って尚長居するつもりはないのだろう。
「随分、大勢集まったな」
ラバンは窓の下、城庭を見下ろしながら言った。
「今度は、私が彼らの主人?」
そこには何人もの夜魔が傅きながら何かを待ち構えている。
彼らは恐らく父の庇護を受けていた者達で、そして彼らが待っているものとは父の血を受け継いだ私である。
「私より格の高い者も居るわ。父の後を継ぐだなんて、私に出来るのかしら?」
私の不安げな言葉をラバンは鼻で嘲笑う。
「嫌ならやめれば良い。お前はセィブルじゃないんだからな。
面倒なら一人で生きれば良いし、興味があるなら囲えば良い。今のお前はどちらも選べる。
あんな、他人に庇護を求めるような臆病者どもに気を使ってやる必要は無い。お前の好きにしろ」
私の好きなように、か。
言われてみれば、もう私は誰の期待に沿う必要もないのだと気付く。
もう誰も私に道を示さない。
自ら道を探さねばならない、あまりに大き過ぎる開放感に私は思わず身震いした。
それは不安のようでもあり、快感のようでもあり、その瞬間初めて覚えた感覚である。
「ラバンは、私の元に残らないの?」
彼の答えは分かっていた。しかしそれでも悪戯な笑みを作り、冗談のように尋ねてみる。
やはりラバンはやや眉間に皺を寄せ、苦々しく笑った。
「セィブルの命令も解けてようやく自由になったんだ、いつまでもお前に構っているのは御免だな」
「そうね。この先は、自分で自分を守る事にするわ」
私が左手を出せば、彼は笑って握り返してくれた。その力強い腕が何度私の命を救ってくれたかと考えると、握った手を解くのがとても名残惜しい。
「もう、ラバンに会う事はないの?」
ラバンは何も言わず、私の手を放し、そしてその左腕で王の間の扉に手をかけた。
「俺の助けが欲しければ、呼べ。
偶然その声が俺のところまで届いて、俺の気が向いたなら手を貸してやらん事もない」
何と遠回りで確率の低い言い方をしたものだ。特に、気が向けば、などという条件はラバン自身の気持ち次第で、恐らく彼の性質からすればおよそ可能性は無いに等しい。
しかし全く可能性は無い、と言い切らなかった事が、なぜか妙に嬉しかった。
「それは、私との契約?」
「馬鹿を言うな。ただの社交辞令よ」
ラバンはにやりと大きく不敵に笑うと、扉を開けて王の間から出て行った。
すぐに窓から外の様子を伺うのだが、一陣強い風が吹いたきり、また静かになる。ラバンがどこに去っていったのかは全く分からなかった。
「お嬢様、交換して参りました」
私が窓の外を眺めていると、使いに出していた者がラバンと入れ替わりに戻ってくる。
それはキリカである。
ベニメウクスによって両断された時は全く助かる見込みは無いと思っていたのだが、恐らくベニメウクスはキリカが被造者だからと手を抜き過ぎたのだ。そしてその時のキリカには自身の内には納まりきらないほどのウルの知恵を分け与えられていたのである。
ベニメウクスの手加減とウルの灰により、キリカは身体の片側を失いながらも辛うじて屋敷の瓦礫の中で息をしていたのである。
しかしそうとは知らなかった私は、彼女の亡骸くらいは掘り出してやろうと思い、瓦礫の上で悪戦苦闘していると、不意に私を呼ぶ声がするものだから、その時の驚きたるやこの世のものではない。
しかし瀕死には違いなく、私は慌てて屋敷の裏手の森から枝を幾つか取ってくると、ちょうど良い長さにして、彼女の手足に接いだのである。
何とか命を助ける事は出来たが、ホウキに枝を接いだために挙動が前にもましてちぐはぐになってしまった。
忠実なキリカのため、その歪さも近々に解決してやらねばなるまい。
なぜなら、キリカは私の庇護を受ける最も古株の夜魔となる予定だからである。彼女はただのメイドだが、私の臣下として相応の振る舞いをさせる義務が私にはある。
「これが、父がウルを作った時と同じ煙草なの?」
「ウル殿の記憶では、間違いなくそれで御座います」
私はキリカから渡されたその箱を開けてみる。
中には細かに千切って乾かした木の葉屑が入っており、アリューシオの屋敷で見せられた粉末の嗅ぎ煙草と、同じ煙草の名を持つものとは思えなかった。
箱を鼻に近付けて臭いを嗅いでみると、独特の臭いが耳の奥の方まで刺激する。嗅ぎ煙草同様、心地良さを期待すべきものではないようだ。
ならばなぜそんなものをキリカに持ってこさせたのか。
父が好んで吸っていたという話から、それを真似てみたいわけではない。
父はその口から吐いた煙草の煙に知識を与えてウルを作った。
私はそれを真似るのである。
私の手元にはウルの知識と記憶を持つ灰がある。煙草の煙で身体を作り、それに知識と記憶を埋め込めば、それはもはやウルを甦らせる事と同義ではないか。
私はウルを取り戻したかったのである。
「キリカ、灰を返してもらうわね。貴方にはすぐに貴方のためだけの知識を与えてあげるから、少しの間我慢してちょうだい」
私がそう言うとキリカは素直に口を開いて舌を差し出した。
彼女にとっても他人の知識が頭の中にあったのは非常に違和感を覚えるものだっただろう。その上、ウルの知識は彼女の身体には大き過ぎ、頭痛にも悩まされていたはずだ。
すぐにでもキリカに相応しい知恵を与えてやりたいのだが、今の私ではまだ少し、夜魔の格を決めるそのように重大なものを扱うには力が足りない。
キリカの舌からウルの灰を奪うと、彼女はまた本来のおっとりとした表情に戻る。
これで必要なものは揃い、いよいよウルをあの世から呼び戻そうかと思った矢先に、早くも問題が発生した。
この刻み煙草の使い方が分からないのである。
教えてくれそうな人物を探してみるが、目の前のキリカはたった今白痴に戻ってしまったばかりだ。
「フィーユ、貴方使い方を知ってる?」
「存じております、主上。」
フィーユは父の作った使用人であるが、父の命だけでなくベニメウクスの命にも応じるように、セィブルとその娘に仕えよ、という命令を受けて生まれた。
故に、父もベニメウクスも居なくなった今、彼女は私に仕える事でその身に埋め込まれた命令を忠実に実行しているのである。
しかし思慮深いウルに慣れ過ぎていたためか、フィーユの忠実さはやや面倒な所がある。
彼女は煙草の使い方を知っているとだけ答えて、それ以上はどれだけ待っても何も答えない。
フィーユは知っているかと聞かれたから、知っていると答えた。更に彼女からその使い方を聞くには、改めて教えてくれと命じなければならないのだ。
主人の命令には忠実に応えるが、それ以上でもそれ以下でも無かった。
父は使用人の無駄口を嫌ってキリカに言葉を与えなかったという話もある。恐らくフィーユのこの融通の利かなさも父に具合良く調節されているのだろう。
「では、使い方を教えて」
「少々お待ち下さい。今、必要な物を持って参ります」
そう言うとフィーユは部屋を出て行き、またすぐに戻ってくる。
彼女の差し出した皿には一本の細長い管と、火の灯った小さな蝋燭があった。
「まずキセルの雁首に刻み煙草を少し詰め、次に火を入れます。煙草が燃え始めれば、あとは吸い口から煙を吸うだけで御座います」
このキセルは父の使っていたものだろうか。吸い口の金具に僅かな歯形が残っている。
私はフィーユの説明通りにパイプの中で刻み煙草を燃やしてみた。見た目には悪くない様子で煙が昇る。
ウルを呼び戻すまであと少しだ。
私は吸い口を唇で噛み、思い切り吸い込んでみる。
突如猛烈な息苦しさに襲われ、私は激しく噎せ返す。
まるで土砂を肺の中に流し込まれたような気分だ。
苦しさと痛みで無性に腹立たしくなり、私はそのキセルをフィーユに向かって投げるが、彼女はそれを返却命令と受け止め、簡単に取って皿の上に戻す。
咳き込むたびに気分が悪くなるが、確かに口から煙を吐く事は出来たので、眩暈を押して次の段階に進んだ。
私は灰を煙の中に撒いて命じる。
「煙よ、灰よ、誠実さによって姿を持て、忠義によって心を持て、そして思慮深きにして仕えよ」
その言葉も教えられた父の言葉通りである。
私の身体から被造者を作り出すために必要な大量の精気が奪われていく。
そしてそれに伴って煙は人型に集まり、その姿を少しずつ明確にしていく。
銀の髪も、冷静で鋭い眼差しも、時折揺らいで紫に煌く纏った空気でさえ、その姿はウルそのものだ。
その穏やかな表情を見て感極まった私は、やはり何度窘められても彼の胸に飛び込んでしまうのである。
「あぁ、ウル、また貴方に会えるなんて」
私の夜魔らしからぬ行動に戸惑い、私を引き剥がそうとするその仕種も、懐かしいウルの感触である。
私を引き離すと、私の顔をじっと見つめ、ウルは今度もまた言うのである。
高位の夜魔になるためには、このような行為は慎んで頂かなければ、と。
「私は、ウルという方ではありません。」
「私は、ウルという方ではありません。」
私を見つめるウルの顔がそんな事を口にするものだから、私は意味が分からなくて凍りついてしまった。
「ウルじゃ、ない?」
「違います。」
恐る恐る問う私にウルの姿をした者はいとも容易く冷ややかに答える。
「でも、その髪も顔も、まるでウルそのもの」
「それはご主人様がそのように望んだからです。
それとも、その方であるように振舞え、という命令で御座いましょうか?
その方の記憶も知識も御座いますから、ご主人様が望まれるのであれば、その方と瓜二つに振舞って見せますが」
覆したものを再び覆せば、また元の通りになったように見える。しかしそれは、そのように見えるだけで、ただ覆したものを更に覆しただけの事。
落として割ってしまったグラスを再び掬い上げたところで、落とす以前のグラスには戻らない。
過ぎた事を無かった事には出来ない。どんなに繕ってみても、過去を生み出す事は出来ない。
失ったウルをもう一度同じように作ってみたところで、それは限りなく彼に似た彼ではない新しい何者かなのである。
私の頭にウルの教えてくれた言葉が響いた。その音を聞こうと思えば、きっと目の前の彼も同じ言葉があり同じ声を発してくれるだろう。
しかしそれは私と同じ時間を共有したウルのものではない。
「良いのよ。ウルを真似る必要はないわ。貴方は貴方らしく振舞って」
胸に空いた穴を塞ぐ術など無いのだと思い知らされ、私は身体の興奮が失われて急速に冷えていくのが分かった。
その虚しさは誰に当たる事も出来ない、自らの浅はかさが招いたものなのだろう。自然の不条理に憤るよりも、寂しさを覚えた。
「だから貴方に名をあげる。スヴニゥル。それが今日から貴方のための名前よ」
スヴニゥルと名付けられた夜魔は恭しく頭を垂れ、私に従属を誓う。
私が偉大な夜魔になった時に、そうして跪いてくれるのがウルであったなら。
私の脳裏にふとそんな考えが浮かぶのだが、適うはずも無いそんな事を思うのは目の前のスヴニゥルに礼を欠くだろう。
私はすぐにその無礼な考えを追い出し、素直な気持ちで彼の従属を許す。
スヴニゥルを作るために消耗した気力が落ち着いた頃、私は三人の被造者を前に宣言した。
「私達も出発しましょうか。フィーユ、馬車を用意してちょうだい」
「畏まりました」
私はもうこの街にはいられない。
私は日に何人もの人間を糧とせねばならなず、また怯えた人間は街を出て行きつつある。
このまま人間が減り続ければ、いずれこの街そのものが消えてなくなるだろう。
だから私は一所に留まる事を許されない。
私も父のように旅をする夜魔となるのだろう。城はここにあるが、寄り付く事の無い存在になるのである。
「表に居られる方々は如何致すおつもりですか?」
スヴニゥルが問う。
「追ってくるのなら、そのままにしておきなさい。今の私に貴方達三人以外を囲えるほどの力は無いもの。
庇護出来るようになるまで辛抱強く待つのなら、その時は臣下に迎え入れる。
彼らにはそう伝えておいて」
フィーユもスヴニゥルも命令を実行すべく王の間を出て行った。
私は振り返り、王座をまた眺める。
父よ、私は私の生き方を探せるだろうか。
私は貴方を真似て、同じ道を進むのだろうか。
そしていずれ、貴方がそうであったように、不意の孤独に襲われるのかもしれない。
空白の玉座が、まるで私の未来を象徴するようで、私は仄かな不安に胸を締め付けられる。
その不安に一人では耐えかねて、一先ず傍にいたキリカの手を握ると、彼女もそっと握り返してくれた。
了
【あとがき】
この小説は私が学生時分に書いたものです。
当時は良く書けたと思い満足していたものですが、今改めて見ると文章の拙さが目立ち、赤面するばかりです。
いずれ機会があったら文章だけでももう少しマシに書き直したいものです。
このお話は一旦これで最終回となりますが、同じ世界観で書かれた物語が他にも幾つかありますので、それもまた次週以降公開していきたいと考えています。
それでは一先ず、ありがとうございました。
作者ツイッター https://twitter.com/yuki_anno