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ヤミヨヒメ  作者: 二束
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ヤミヨヒメ  -タダノカナシミ-

 賢狼の夜魔、フールーは死んだ。

 私から父の血を奪うことには成功したが、その血によって誇り高き心臓を内側から食い殺されてしまった。


「お父様の血を奪われたわね、お姉さん?」


 薄藍のドレスに幾つかの花をあしらい、小さな足を真っ白な靴が包む。栗色の柔らかそうな髪の下には大きく愛嬌のある瞳が覗くのだが、それは私を冷ややかに見据え、手に握られた大鉈も仕舞われる気配が無い。

 私は立ち上がり、彼女の眼に呑まれぬよう、心と身体を強く保つ。

 ベニメウクスはそれを悟り、薄く笑った。

「怖がらないで良いのよ。

 私達は加勢に来たの。血を奪われたまま放っておくと大変な事になるから。

 でも無駄足だったみたいね。まさかお姉さんが私の到着前に自分で解決してるなんて、思いもしなかったわ」

「私達って、ベニメウクス以外にも誰か来ているの?」

 ベニメウクスは眉間に小さな皺を作る。

「私の事はベニって呼んでと、何度も言ってるのに。

 お姉さんが血を奪われた瞬間から大勢ここに向かっているわよ。

 私の足は他の誰よりも速いから、皆の到着まではもうしばらくかかると思うわ。

 それにね、お父様もこっちに急いでるの。

 あぁ、もう本当に嫌になる。

 どうしてお姉さんはそんなにお父様の手を煩わせるの?

 お父様もお父様よ。お姉さんにばかりこんな過保護、ずるいわ。

 お父様は優しいからこそ私のお父様なのだけど、こんなのはちょっと嫌なの」

 ベニメウクスは眉を顰め、切なげな色香を漂わせる。

 彼女から少女の身体に似つかわしくないその艶やかさを感じるのは、彼女がまた夜魔としての格を高め、魅了の力を増したからだろう。

 彼女の瞳に見える嫉妬の炎に、私は思わず身震いしてしまう。

「もう大丈夫だから、心配しないでと父に伝えて。

 私は貴方に憎まれたくない。だから今、私と父が顔を合わせる必要は無いわ」

 私は嫉妬の炎を小さくしようと試みたが、ラバンが微かに腕を引っ張り、彼女との距離を縮めないよう促した。

「お父様はもう事態が解決した事くらい気付いているわよ。万物の支配者なんですもの。

 でも引き返して下さらないの。近付いてきているのを感じるわ。

 そんなにお姉さんの事が心配なのかしら?

 でも本当はただの気まぐれでしょうね。お父様が行く先を決める時はいつもそうだもの」

 道の向こうからウルが戻ってきた。

 随分とたくさんの人間がフールーとの争いを見ていたのだろう。ウルには目撃者に禁句の誓約を結ばせるよう任せていたのだが、その数が少なくは無かったようで、彼はやや疲れているように見えた。

 私の無事を見て一瞬は穏やかな笑みを見せたのだが、しかしベニメウクスの姿を認めると途端に表情を硬くして微かに身構える。

「邪眼の姫様、何用で御座いますか?」

「お姉さんがお父様の血を奪われたと聞いたから、慌てて駆けつけたのよ。

 お父様ももうすぐ到着するわ。気まぐれなお父様の事だから、この街を通過しちゃうかもしれないけど、万が一立ち寄られた時のために、お前は屋敷で出迎える準備をしなさい」

 純血種が被造者に対して当然のように用いる冷ややかな言葉と、姿さえ見ないまま話すその態度。

 ベニメウクスは偉大な夜魔としての姿を十分に確立していた。

 あろう事か私は、その小さく凛々しい様にほんの一瞬憧れてしまう。

 その全てが私の未だ身につけていないものだった。

「ではなぜ剣を握られたままなのです? 事態は収拾したので御座いましょう? もうそれは必要ありません。お納め下さい」

 ウルの従順ではない態度にベニメウクスはあからさまな嫌悪感を示す。そして彼女がその目で少し見竦めただけで、遠目でも分かるほどウルの顔に冷や汗が噴き出した。

「良いから、お前は黙って言われた通りにしなさい。私は屋敷に戻れと言ったのよ」

「狙いはまたお嬢様なのですね。先日の事で、諦めては下さらなかったのですか?」

 ベニメウクスは一転して嬉々とした表情になり、唇の左右を大きく開いて不敵に微笑んだ。

 私はまたその笑みに薄ら寒いものを感じる。何度向けられてもその笑みは私に本能的な恐怖を覚えさせるのだ。

「そうよ。だってお父様の血を簡単に奪われてしまうような人を、いつまでも野放しに出来ないもの。

 それにどんなに努力しても、私はお姉さんの事を我慢出来ないの。

 本当に努力したのよ。お姉さんの事を好きになるにはどうしたら良いのか考えたし、お父様がお姉さんの事を考えている時は私も心配する振りをしようと頑張ってみた。

 でも駄目。

 出来損ないの被造者が私とお父様の傍にいるだなんて、もう耐えられない。」

 ベニメウクスはいかにも不満そうに頬を膨らませてみせる。

「逃げる準備をしておけ」

 ベニメウクスの主張が続く中、ラバンはそうそっと私に告げる。

 確かに彼女はまたここで私を惨めに貶める何らかの手段を用いてくるだろう。彼女はまた一回り格を高め、一方で私とラバンはフールーとの争いを終えたばかりで疲弊している。

 一先ずの退却は、口惜しいが、最善の選択である。

「しかし邪眼の姫様はお嬢様の命を奪う事が出来ないのではありませんか? きっとまた徒労に終わります。ですから、どうぞお引取りを」

 今争えば私達に勝機がまるで無い事をウルも良く察していた。

 強大なベニメウクスを前に彼に出来る事はただ口を動かす事だけで、しかしそれでも精一杯に私を守ろうとしてくれていた。

「心配要らないわ。ちゃんとお父様のお許しは得ているから。何でも私の好きにして良いんですって」

 ベニメウクスのあどけない表情が満面の笑みで輝く。

 私達は一瞬、凍りついたように言葉を失っていた。

「まさか、ご主人様がそのような事を仰るはずがありません。

 邪眼の姫様はまた私達を謀っておられる。そうでしょう?」

「馬鹿を言わないでよ。お前は私を嘘吐きだとでも思っているの?」

「しかしご主人様のお言葉を聞くまでは」

「私が血の一滴も守れないお姉さんを生かしておくのは危険だと言えば、お父様はそうかもしれないと言ったわ。

 妹として私がお姉さんの処遇を考えますって言えば、お前の思う通りにすれば良いって。

 これがお父様の言葉よ。納得した? 納得したら、さっさと屋敷の準備に行きなさい」

 思う通りにすれば良い。

 私も以前父に同じように言われた事がある。

 父は娘をどのように育てたいという明確な形を持たないようだった。娘に何も期待せず、ただ自身で判断し行動して育っていく様を眺めていた。

 ベニメウクスも私と同じ、選択の自由を与えられているのだろう。

 私が父から受け取った意味とは異なるようにも思うが、確かにベニメウクスは父に全てを好きにして良いと言われた事は間違いないのだろう。

「いや、ご主人様ご自身からの沙汰で無い限り、私は。フィーユ殿、そうだ、フィーユ殿にご主人様のお言葉を運んで頂き――」

「煩いわね

 どうして私を信じないの?

 私が本当って言ったら、それは本当なの。

 被造者め、そんなに私を信じられないならお前に用は無いわ」

 ウルは必死だった。しかしそのために執拗に食い下がってしまった。

 ベニメウクスは癇癪を起こして、小さな足で小さな地団太を踏むと、冷めついた目でウルを睨み付けた。

 激しい束縛がウルを襲い、空間に縛り付ける。

 それでもベニメウクスの苛立ちは収まらず、彼女はすうとその手をウルに向けた。


 ウルの顔が忽ち蒼白になる。しかし彼は震える声で必死に叫んだ。

 そう、まさに必死な声で。

「お嬢様、お逃げを。生き延びるのです。

 生きて、ご主人様に事の真相をお確かめ下さい。

 貴方は生きるべきだ。

 生きて、真相を聞い――」

「馬鹿な被造者、消えなさい。」

 周囲の要素が鳴いた。

「あぁ、ウル、駄目、駄目、消えては駄目よ、消えないで、消えないで、ウル――!」

 自分でもわけが分からないほど素早く身体が反応し、叫びながら縺れる足で駆け出し、ウルをベニメウクスの言霊から救うべく急いだ。

「違う! 逃げるんだ! 前に出るんじゃない!」

 ラバンが叫ぶ。しかし私は無我夢中で、ウルを助ける事しか頭に無かった。

 私は風も土もあらゆる要素の力を借りて走った。まるでフールーの俊足が乗り移ったような気分になった。

 あと僅かでウルに届く。

 手を伸ばして彼の身体を突き飛ばして、ベニメウクスの伸ばした腕の直線状、言霊の通り道から彼を押し出す。

 たったそれだけの事だ。必ず間に合う。

「支配を代行し命ず、止まりなさい」

 私の足が急に走るのを放棄して、数歩歩いて立ち止まった。

 それはあまりに強力な言霊だった。

 私に対して父の言霊を代行出来るのは、私の教育者だけである。

「貴方は、そこに。こちらに来るのは、まだ早い。」

 目の前でウルの姿が崩れた。

 止まっていた足がまた私の命令通りに走り出し、まだ辛うじて人の形をしている煙に向かって身を投げる。

 両手でそれを掴もうとするのだが、青紫の煙は指の隙間をすり抜けて、より遠くに散らばってしまう。

 何度も、何度も捕まえようと手を必死に振り回してみても、その度にますます煙は散って薄くなり、最後には何も見えなくなってしまった。

 私はウルだった煙が漂っていた空間の真ん中に、情けない格好で座り込んだまま、それでも意味が分からず両手を広げたり、抱き締めてみたりし続けた。

 名を呼べば、またその煙が集まって人の形をとってくれると信じてみるが、それは無かった。

 耳元にふと纏わりつく煙が何かを囁かないかと耳を澄ましてみるが、ただ風が煙を散らす音ばかりが聞こえた。

 ようやく何かが理解出来始め、堪えようも無い無様な悲鳴が身体の奥底から溢れてきたが、誰もそれを戒めてくれなかった。


「ふふ、やっちゃったわ。

 私の思う通りにしちゃった。

 もう、震えが起きそう。

 お父様の大事な手駒を消しちゃうなんて。こんな自由、初めて……」

 ベニメウクスは興奮で頬を紅潮させ、満足げに恍惚の表情を浮かべた。

 私も身を震わせながら、風に散っていく煙を眺めた。

「もう少しだったのに。もう少しで届いたのに。どうして止まれだなんて言ったの?」

 煙を連れ去る風を抱き締めてみても、空虚な感触は酷く無機質で、どんな温もりも感じさせない。

 本当は彼が私の足を止めた理由も分かっている。

 そうしなければベニメウクスの言霊の餌食になっていたのは私だったからだ。

 ウルをベニメウクスの示す直線状から押し出したとしても、代わりに私の身体が取り残される。

 それは分かっていた。分かっていたけれど、私ならば彼女の言霊に耐え抜く事が出来たかもしれないではないか。

 僅かでも可能性のある方に賭けたかったのに。

「じゃあ、次はお姉さんね。それとも賢翼公が先に?」

 ベニメウクスは剣を頭上高く上げるとそれを片手でくるくると回し始めた。それを見て周囲の要素は悉く彼女の庇護下に集まっていく。

 私は怒りに身を任せて剣を抜き放つ。

「さすがは腐っても私のお姉さんだわ。でも覚悟してね。一瞬で終わらせるのは趣味じゃないの。凄く長くて、とっても苦しい時間をお姉さんにあげる」

 もう苦しい時間は始まっている。

 私が覚悟などする暇も無く、ベニメウクスはウルを消したではないか。

 彼女のにやにやと笑うその顔に傷の一つもつけられれば多少は気も晴れるに違いない。そんな事が本当に可能だとは少しも思わないが。

 私が土を蹴った瞬間、何か強烈な衝撃に襲われ、吹き飛ばされた。

「あら、やっぱり逃げるの? 夜魔が敵に背を向けるなんて、なんて情けないのかしら」

 嘲笑うベニメウクスの姿が見る間に遠くなる。

 よく見れば私はラバンに抱えられており、ラバンは大きく跳躍しながら、屋敷の方へと走り続けた。

「離して! 私は逃げたくない。ウルの仇を討つのよ! ベニメウクスは私を直接殺せない。だからきっと最後は私が」

「もうあの娘はお前を殺せる。ベニメウクスがフールーの身体を斬った時、俺がお前を引っ張ったのは、あの瞬間、お前の命が危険に曝されていたからだ。

 あの娘が言った通り、思い通りにして良いと奴が命じたのなら、それは同時にあの娘の中の不殺の命令を否定したに等しい。

 あの娘がそこまで意図して謀ったのか、それとも奴も承知の事なのかは分からんが。

 少なくともお前があの娘に対して優位に立てる理由はもう何一つとして無い」

「そんな……。じゃあ、どうすれば良いの? ラバンもいつまでも私を抱えて逃げ続ける事は出来ないでしょう? 私は、ウルの仇を」

 そこで私は投げ捨てられた。

 気付けば既に屋敷の庭に居て、ラバンはそのまま屋敷の中へ入っていった。

 すぐにキリカが出迎え、草に寝転んだままの私を助け起こす。

 ラバンはロザリアを探したが、屋敷の中には居なかった。

 キリカに問えば、彼女は窓の向こうの森の先を指差す。

「ご主人、様に」

 キリカの言語力ではそう伝えるのが精一杯であったが、ロザリアは父に会いに行ったのだと分かる。

 ロザリアは父の動きに関しては特に敏感だ。父の接近に気付いて出て行ったのだろう。

 しかしベニメウクスに狙われて、今こそ彼女の助けが欲しいのに、居ないなんて。

「ラバン、教えて。どうすればウルの仇を討てる? 私が彼女に勝つ方法は何か無いの?」

 するとなぜかラバンは苛立ち、私の胸倉を掴んで怒鳴った。

「仇を討つだと? 被造者のためにそこまでして何になる。

 お前がベニメウクスに敵う術は無い。仇も討てない、命も落とす。

 無駄死にに憧れる暇があるなら、逃げ切る方法でも考えろ」

「でも、でも私は、」

「めそめそ泣くな。お前は至高の夜魔の娘だろうが」

 いつの間にか私は両目にいっぱいの涙を溜めてしまっていた。

 ラバンがまた私を突き飛ばし、私は屋敷の床に転がる。

「そんなに仇を討ちたいか! ならば本当にそれをウルが望んでいたか聞いてみろ!」

 聞いてみたいし、知恵も貸して欲しい。でもウルはもう居ないではないか。

 そう言いたくても、言葉にするのが哀しくて、私は黙ってラバンを睨む事しか出来ない。

 しかしラバンはその視線に怯みもせず、今度はキリカを掴んで私の隣に投げて寄越す。

 キリカはされるがままに倒れ、私が手を握ると、起き上がりもせず握り返した。

「ウルの身体の一部を、そいつに植え込んで、知識と記憶を用いる事を許す、と言え。

 死の直前、奴が何を思っていたのか聞いてみろ。

 奴が仇を討って欲しいと、本当にそう言うのか聞くが良い」

「それで彼の声を聞けるのなら、今すぐ聞きたい。

 でも、身体の一部なんて無いじゃない。

 ベニメウクスのせいで、ウルは煙になって消えたのよ。風に乗って飛んでいってしまったのよ。

 必死になって集めようとしたのに、全部、全部、どこかに行ってしまったの」

 するとラバンはすっと手を伸ばし、握り合う私とキリカの手を指差した。

 握った手の中に、極僅かだがざらりと荒い感触がある。いつも握っているキリカの手はもっとしっとりと柔らかいはずなのに。

 手を開いてみれば、そこには紫に輝く灰があった。

 あったと言うよりも、むしろ無いに等しいほど、ほんの数粒の灰。

 ウルの身体の欠片だ。

 煙になってしまった彼を引き止めようと振り回した手は、何も掴めていないわけではなかった。

 煙の真ん中で、私は灰の雨を浴びていたのだ。

 私はすぐにその灰を指に一摘み取ると、キリカの口の中に押し込んだ。

 キリカはされるがまま口を開いて、舌にその灰を受け止める。

「ウルの記憶を、知識を貸し与え、用いる事を許す。私の問いに、彼の言葉で答えて」

 キリカの胸に手を当てて命じると、今まで鈍く焦点の合っていなかった彼女の瞳が、急に鋭い眼差しを私に向けた。

 私は思わず顔を明るくし、叫ぶ。

「ウル?」

 しかしキリカは首を横に振る。

「違います。私はキリカです。私はウル殿の知恵をお借りして、その中からお嬢様のご期待に沿う答えを探すのです。申し訳ありませんが、私はウル殿にはなれないのです」

 あのキリカが私の目の前で滑らかに唇を動かし、流暢に語る。

 その口調はウルのそれに良く似ていたが、確かにそれは彼の言葉を借りただけのキリカの声であった。

 私は彼女に知識を与えただけで、それだけでキリカが居なくなり、ウルが生まれるわけではない。

 私は見当外れの期待をしてしまったのだろう。

「お嬢様、お聞きになりたい事があるのなら、お早く。私ごとき矮小な召使にウル殿の知恵は大き過ぎます」

「分かったわ。

 まずは、まずは何を聞けば良いのかしら。

 そう、ウル、ウルの仇を討ちたいの。どうすれば良いの? どうすればベニメウクスに一矢報いる事が出来る?」

「それはお止め下さい。ウル殿はご自身のためにお嬢様が危険に曝される事など望みません。今はお逃げ下さい」

「逃げて、逃げてどうするの? ベニメウクスは執拗だわ。きっとどこまでも追ってくる」

「ご主人様に、真相をお確かめ下さい。

 ご主人様がお嬢様をお見捨てになるはずが御座いません。顛末をお伝えすれば、必ずご主人様がお助け下さいます。

 お嬢様はウル殿の教えから一歩も違わず、偉大な夜魔へとこれ以上ないほど順調に歩んでおられます。

 それをご主人様が不満と仰るはずはない、とウル殿は信じておられました」

 私の顔に自然と自嘲が漏れた。

 顔が緩んで堪えていた涙がつうと流れる。

「買い被りだわ。私はウルの教えを踏み外してばかりだったのに。

 父が見放しても、全然不思議じゃない妙な夜魔なのに。

 純血種でも被造者でもない、曖昧な存在なのに」

「しかし私も信じております」

 キリカの言葉に意表を突かれ、私は少々驚く。

 彼女は少し垂れ下がった目で私を真っ直ぐに見つめていた。

「今のは、キリカの意見?」

「はい。私も、お嬢様は素晴らしい方であると信じております」

 私はふと虚しさを覚えた。

 ウルの口調で、ウルの記憶を語る。

 でもそれはキリカだ。

 急に夢を覚まされたような気分になった。

「やめて。ウルの言葉で貴方の気持ちを語らないで。

 ウルの言葉は、ウルのものなの。

 ウルの言葉では、ウルの気持ち以外、語って欲しくないの」

 我ながらどうしてそんな酷い事を言ったのか分からなかった。

 彼の言葉にもう一度触れる事が出来た。その酔いを醒まされた事が小さな苛立ちを生んだのだろう。

「申し訳御座いません。」

 キリカは視線を伏せ、寂しげに謝る。

「……あぁ、ごめんんさい、キリカ。私はもう限界だわ……」

 私は彼女の手を握り、言い過ぎた事を詫びた。

 相手がウルならば、誰彼構わず容易く詫びる事を窘めるのだが、ただの召使であるキリカは何も言わなかった。

 その時、屋敷のドアが激しく叩かれる。

「ノック、ノック。

 ノック、ノック。」

 もちろんその声はベニメウクスである。

 何とも嬉しそうに大きな声で彼女は扉を叩いていた。

「お嬢様、お逃げを。一先ず逃げて、邪眼の姫様に対抗出来る力を蓄えて下さい。

 ウル殿のお見立てでは、エスミュゼル家の兄妹、ベルメール家の三女と末弟、フェント家の幼い三姉妹の血が、特に多くの力を得られると。

 それらの血を吸ってご主人様の所までお逃げ下さい。

 ご主人様が本当にお嬢様の死を望まれているのか、お確かめ下さい。

 お嬢様には生まれ、生き続ける意味があると、ご主人様だけが知る理由があると、ウル殿は信じておられました」

 キリカはすうと立ち上がり、つかつかと屋敷の扉に向かって歩き始めた。

 命令を受けたわけでもないのに、その迷いの無い姿勢で動くキリカを見るのは、非常に強い違和感があった。

「ノック、ノック。

 ノック、ノック。」

 ベニメウクスは徐々に扉を打つ激しさを増していく。

 彼女ならば扉を破る事など容易いだろうに、いつまでも叩き続けるだけなのが酷く不気味だった。

「お嬢様、ウル殿が、最後までお供出来なかった事をお許し下さい、と」

 キリカは自分の髪を一束掴むと、それをホウキに変える。

 彼女が小さく振り返り微笑んだ瞬間、扉が大きく斬り裂かれて吹き飛んだ。

「どうして誰も、どちら様?って言ってくれないの?

 私が、ノック、ノック、って言ったら、そう言うのがルールでしょう?」

 ベニメウクスは頬を膨らませ、何か意味の分からない事で立腹しているようだった。

 いや、しかしそれも戯れの内なのだろう。

 瞳の奥は獲物を狩る遊びに嬉々として輝いている。

 目の前にベニメウクスが来た事で、格の低いキリカの全身が、いや彼女を構成する要素そのものが怯えて震え始める。

 しかしそれでもキリカは私に寂しげな笑みを向け、小さな声だったがはっきりと言った。

「お慕い申し上げておりました」

 私は意表を突く彼女の言葉に、意味が分からず面食らってしまう。

 私が素っ頓狂な顔で見ていると、キリカはそこでまたいっそう明るく微笑みかけた。

「愛とは、死をも厭わぬ覚悟を生む言葉」

 キリカはそのウルの言葉に似た、私に混乱しか与えない響きを放つと、正面に向き直り、ベニメウクスと視線を合わせる。

 ベニメウクスは被造者が遠慮も無しに真っ直ぐ己を見るので、やや眉を顰める。

「その言葉は、ウルの? それともキリカの?」

 しかし私がそれを問うよりも早くキリカは走り出す。凛々しくホウキを構え、猛々しい雄叫びを発しながらベニメウクスに向かっていった。

 牙を持たぬキリカにとってはそのホウキが剣なのだろう。

 だがそれはどこまでいってもホウキであり、剣ではない。

 その貧弱な枝でベニメウクスの大鉈に立ち向かう姿は無謀と言うよりも無様で滑稽、そして彼女を走らせた原因の全てを私に抱えさせる事が残酷であった。

 キリカが身体の恐怖を抑え込んでベニメウクスに刃向かったのは、私を逃がす時間を少しでも多く捻出するつもりだったのだろう。

 だがキリカとベニメウクスの格には天と地ほどの開きがあり、どれほどの時間を作れると言うのか。

 それはおよそ無意味に、ただ私の心に哀しみだけを残す以外に何も出来ないまま、命が一つ消える事ではないのか。

 その場に居る誰もがキリカの行動を無駄だと思っていた。もちろん、ウルの知識を得たキリカ自身もそれに気付いていたはずだ。

 ベニメウクスは自分の優位性に浸りきり、何か楽しい遊びに興じているような笑みで、キリカを懐近くまで迎え入れる。

 キリカがその長身から一直線にホウキを振り下ろせば、ベニメウクスの額に間一髪届きそうになるのだが、それは当然ベニメウクスがそこに到るまでキリカを野放しにしていたからである。

 私はキリカの無駄死にを黙って見ている事など出来ず、ベニメウクスが戯れている内に戻れと叫ぶ。

 いや、実際には叫べなかった。

 叫ぼうとしたのだが、唇を動かすよりも速く、ベニメウクスが動いた。

 瞬く間にその行為が完了する鋭さで、大鉈は振り下ろされ、ホウキを何の抵抗も無いかのように折ると、キリカの肩口から体内へ進入し、屋敷の床までを真っ二つに裂いた。

 その刃があまりに鋭利なため、血肉の組織はもはや繋がっていないのに、キリカの身体は分かれる事無く弛緩する。

 まず右手がホウキを取り落とし、次に膝が折れる。そのまま仰向けに倒れ込むと、床に触れた衝撃でようやく左右が別方向へ転がった。

 不自然な方向へ曲がった首がこちらを向いていて、瞳はもう虚ろな澱みに侵されている。

「キリカ、戻ってきて。これは、命令よ。キリカ。」

 ようやく私の唇が動き、何度もキリカを呼ぶが、彼女は無表情のまま転がる。条件反射のように教え込んだ、あの歪な微笑みも返ってこなかった。

 あっけない。

 あまりに貧相で簡単な幕切れではないか。

 ウルの時は無我夢中で気付かなかったが、命が失われる瞬間とはこんなにも無表情なものなのか。

 私がどれほど大切に思っている者であっても、世界はそれが失われた事に気付く気配も無いまま、何の変化も無く日常を続けていってしまうのか。

 私は震えた。

 哀しみもその一因である事は確かだ。

 だが最大の原因は自身の死を想像してしまったからだ。

 きっと世界は、私の死も容易く消費して過ぎ去っていくに違いない。

 ならば私が生まれた意味は何だったのか。

 生まれた時には既に、偉大な夜魔になるという目標があった。父の与えてくれた生きる理由だ。

 しかしベニメウクスが今それを阻もうとしている時、父はなぜ私を助けてくれないのだろう。

 父は私の生の意味が剥奪されても良いと思っているのか。

 いや、そもそも意味など始めから存在しなかったのか。

 それを想像すると、忽ち自分の何もかもが無意味に思え始める。

「ウルが信じたものを、お前は信じるのではないのか?

 震えて泣くくらいなら、奴の真意を確かめて来い」

 ラバンが私の肩を力強く掴んで言った。既に片手に大剣を握り、フールーからの連戦とは思えぬ威風を発している。

「名の挙がった人間達の血を吸う時間くらいなら、俺が都合してやる」

 ラバンが前に出ると、ベニメウクスはその薄笑いを続けながらも、やや意識を張り詰めたように見えた。

 衰えたといえどもラバンは古に名を馳せた強大な夜魔だ。被造者を葬るように容易く当たれる相手ではない事をベニメウクスは知っている。

 私は意を決し、屋敷の窓を破って逃げ出した。

 ラバンの言う通りである。ウルが最後にそれを望んだのなら、私はそれを達成しなければならない。

 ウルの言葉は常に私の成長だけを思って発せられていた。

 ならば、父に真意を、私が生まれた意味を問う事は、私にとって必要不可欠なものに違いないのだ。

 逃げ出す私の情けない後姿をベニメウクスは高らかに嘲笑う。

 そして刃のぶつかり合う音がして、その笑い声を掻き消した。


 私は路地を抜け、家々の屋根を伝い、ウルが名を挙げたエスミュゼル家を探す。

 もう真夜中だと言うのに、人間達はなぜか騒々しく街の中を歩いていた。彼らは皆、口々に悪魔だ何だと大声で叫びたて、その様子はおよそ混乱の極みである。

 父がこの街に近付いてきている事で、人間達の心に抱えている不安や恐怖が昂ぶってきているのか。

 風にその名を聞きながら、私はエスミュゼル家の屋敷の前に辿り着いた。

 私は名を憶えるのが殊の外苦手だ。

 屋敷の前に立ってようやくランスの姓がエスミュゼルであった事を思い出す。

 他に名前の挙がったベルメール家にでも行こうかと思い、一度は踵を返した。

 しかし私も明日の朝まで生きている保障など無い事がふと思い出され、せめて最後にランスと一言だけでも交わしたいと思ってしまった。

 隣家の屋根から覗けば、アンナの部屋に蹲るランスの影がある。

 私はふわりと部屋の窓まで跳び移り、その小さな格子窓を静かに開けた。

 突然部屋の中に吹く夜風に気付いて、ランスは私を見た。

「やあ、ディード……」

 二階の窓から女が入ってきたというのに、ランスは驚かなかった。

 その部屋が暗闇だからというわけではなく、ランスの顔は影で曇り、何が起きたのか想像出来ないほど疲弊しているように見えた。

 床に直接座り込み、身体を支えるのも辛そうに壁に身を預けている。ランスは礼儀正しい人物であったのに、今は私が来たというのに腰を上げようともしない。

 それはきっとアンナの死が、彼を支えていた何かを奪い去り、自暴自棄にさせたのだろう。

「アンナの病が治れば、貴方に是非紹介したかったよ。

 一度は快方に向かったと思ったんだけど。そんな奇跡、そう簡単に起こらないものだね」

 ランスは力無く微笑む。

 人が微笑むのは、相手に微笑んで欲しいからだ。相手の微笑で、自分の沈みきって真っ暗な心を少しだけでも照らして欲しいからである。

 だから私も、密かに犯してきた罪の贖いを意味して、微笑み返した。

「貴方は時に冷ややかな事を口にするけれど、それは心の優しさを押し殺すから、溢れてくるのだろうと、僕は思う。

 アンナは人に優しい言葉をかけようとするあまり、自分に優しくない人だった。

 二人はきっと仲良くなれただろうに、どうしてこんな」

「駄目。それ以上言っては駄目よ。

 その、どうして、には答えが無い。言うほどに辛くなるだけ」

 突然言葉を制された事にランスは面食らい、照れたように頭を掻く。

 だがその表情のまま涙がつうと流れたところをみると、きっと彼は言いやめる事が出来ず、心の中で最後まで口にしてしまったのだろう。

 その涙を手の甲で拭い、彼はまた支えの無い今にも崩れそうな笑みを見せる。

「隣に、座ってくれないか」

 しかし私は躊躇った。

 ランスは私を信じきっている。疑う気持ちが湧く余地も無いような顔をしている。

 だが私は、己が夜魔である事を隠して、人間であるように振舞う、裏切り者の殺人鬼だ。

 本当はこうして数歩の距離に立っている権利さえないように思える。

「お願いだよ。隣に、座って欲しいんだ。

 目でもはっきり見えないそんな暗い遠くじゃなくて、もっと近く、息遣いが聞こえて、香水が薫って、肌の温もりが伝わるような近くに。

 ここに貴方が居る事を確信出来るような近くに、来て欲しいんだ」

 彼の言葉に不安を感じた。

 大切な者を失った後に、自身の中には何も残らないのではないかという恐怖。

 それには私もつい今しがた心を蝕まれたばかりだ。

 その空白を何かで埋めたいのではないだろう。しかし支えも無いままでは倒れてしまう。

 ランスは私をその支えにしたいのか。

 いや、それも違う。彼は彼の力で自分を支えたいのだ。支えきれなくなれば、傍に居る私を巻き添えに倒れてしまう。そうならぬよう自分を奮い立たせたいのだ。

 しかしランスは人間で、私は夜魔。私に彼を励ます力などあるはずがない。

「でも、私は、

 ランス、今日は貴方にお礼とお別れを」

「座ってくれ、ディード。君の話は聞くから。

 聞くから、傍に来てくれ。そんないつでも出て行けるような、窓辺に立っていないで。

 僕は逃げない。だから、貴方も逃げる準備をやめて」

 なぜだろう。私は気付いた。その一言で何かを察した。

 ランスはもう知っている。私が人間ではない事を。本当は何者であるかを。

 ランスはもう知っている。

「いつ、気付いたの?」

 私が問うても、彼は答えなかった。そして涙でぼろぼろの笑みを向け、沈黙で傍に来るよう訴えていた。

 私は根負けして、微かに微笑を交わすと、彼の隣に小さく座り込んだ。

 私は自身の両手で自身の膝を抱え込み、彼は自身の足を伸ばしてその上で両手の指を絡ませ遊ばせていた。

 少しの間、その静寂が私達の間を行き来していた。

「皆、貴方の噂をしているんだ。

 夜中に通りを歩いていたとか、狼の群れの中も平気で走っていたとか。

 そんなのは誰にでも一つや二つありそうな、他愛無い噂だけどね。

 酒場の主人なんて、風体が怖いからという理由だけで、色んな噂の的になってる。挙句には家の地下室で悪魔信仰の教祖をやってるって話まである。もちろん、そんな噂は根も葉もない性質の悪い嘘だったけど」

 人々はこの街を覆う闇に不安を抱き、噂としてそれを吐き出す。その噂がまた人々の不安を煽り、また一つ先に進んだ噂が生まれる。闇がどれほどの深さか見えない人間だからこそ、自身で勝手に想像を膨らませ、際限無く闇を濃くしてしまう。

 人間とは不便なものだ。

「じゃあ、どうして私だと気付いたの?」

「貴方だけ、噂に続きが無かった。

 誘拐された被害者達も、皆何かに怯えて口を塞いでいる」

「察しが良いのね」

 目撃者達に語らない誓約をさせたのが、むしろ不自然に映ったか。

 語ろうとした者もいただろう、人は噂が好きだから。しかし呪いに喉を焼かれ、そのような者でさえ語れない。

 ランスのように必死に真実を求める者が、その不自然さに気付くのは必然なのかもしれない。

「この街で起きた数々の悲惨な出来事は、全部貴方が? どうして? 何かこの街に恨みが?」

「一度にそんなに聞かないで」

「すまない」

 しかし私は贖罪のため全ての問いに答えなければなるまい。

「私はほんの一部。でも、きっと全て私達、人間ではない者の手によるものだから、貴方から見れば、同じ事ね。

 私達は人間に恨みなんて無い。生きるために、必要だったの」

「生きるために? 貴方は、いったい何者なんだい?」

「私は吸血鬼よ」

 やや長い沈黙がある。

「そうか」

 ランスは乾いた笑みを作り、合点がいった様子で微かに頷いた。

 たったそれだけの反応であった事に私は驚かされた。

 正体を知れば、怯えるか、憤るか、少なくとも平静ではいられないと思っていたから。

 ハナも、ラトリーヌも、激しく取り乱したから、ランスもそうなるだろうと覚悟していた。

 それなのにランスは、この肌も触れそうな距離から、ほんの少しさえ遠ざかろうとはしない。

「私が怖くないの?」

「怖いさ。震えそうなほどね」

「でも、そうは見えない」

「貴方には僕がパンやワインのように見えるのかな?」

 私は答えなかった。

 肯定しても、否定しても、真実とは異なるように思えたからだ。

「そう考えると、堪らなく怖いよ。」

 しかしランスは私の沈黙にさえ微笑む。私がその問いに沈黙するような者だからこそ、恐ろしくは無いのだと言うように。

「ハナがね、貴方に謝って欲しいと言っていたよ。妹にも、本当の事を話したのだろう?」

「そう、ハナが」

「ごめんなさいと言うばかりで、他には何も話さなかった。妹にも口止めをしたんだね」

「えぇ、それが私達の生き方だから」

 騙していたのは私なのに、なぜハナが謝るのだろう。

 あんなに腹を立てていたのに、どうして謝るのだろう。

 夜魔である私には何も理解出来ないのに、なぜか胸が締め付けられて息苦しい。

 痛む胸を押さえ、微かに呼吸を乱す私をランスは笑った。きっと彼には、この感覚の理由が分かっているのだろう。

 それはもしや人間だけが持つ感情か。

 私が生まれてからずっと悩まされている、私の中の未知の心か。

「彼女は今どこに?」

「ロベルトに連れ添って街を出たよ。憔悴しきった彼を放っておけなかったみたいだ。それに、もうこの街に居続けるのは、」

 ランスはやや言葉を躊躇う。私がその言葉を代わりに口にする。

「恐ろしい?」

 言葉を接いでも彼は尚戸惑い、沈黙によって微かな肯定を匂わす。

「それが当然だもの。仕方が無い」

 ふとラバンの近付く気配がした。

 血の匂いはしない事から、ベニメウクスに斬られて逃げたわけでも、彼女を斬ってきたわけでもない。

 何か上手い方法で彼女を撒いてきたのだろう。

 音も無く、ちょうどこの屋根の真上に舞い降りた。

 私も最後にランスの顔を見る事が出来て、気持ちが程よく落ち着いた。

 心の中には、今まで生きてきた理由を知りたいという、不思議な高揚感だけが残される。

 無人になってしまったアンナのベッドを見つめるランスの横で、私は静かに立ち上がり、闇に向かって歩を進める。

「行ってしまうのかい? ここには、僕に会いに来ただけ?」

 部屋を歩く私の背にランスは言葉を投げる。

 やはり彼は察しが良い。

 夜魔である私が、ただ人間の顔を見るためだけにここまで来るはずがないという事に気付いていた。

「貴方は、吸血鬼、なんだろう?」

「この窓を開けるまでは、そのつもりだった。

 でも貴方はもうたくさんの大切な者を失った。この上、貴方の命まで奪えないわ」

 唐突にランスは立ち上がり、私の腕を青痣が出来そうなほど強く掴んだ。

 私は驚き、彼の顔を見上げると、その表情には苦しみが満ち、もはや幽鬼の相であった。

「この上、僕だけ残していくつもりかい?」

 アンナを失った事で、ランスは死にたがっていたのだろう。

 しかし自身で命を絶つ気力さえ残っていなければ、そんな事を頼める友もいない。

 ただ私だけが、何の躊躇いもなく彼の命を奪える、人ではない者だ。

 彼は夜魔がどんな生物か全く理解していない。殺戮を好む悪魔だと考えている可能性もある。

 だからその懇願が、私にどれほど残酷な思いを与えているのかに気付いている様子はなかった。

「疲れたのね? もう、辛い?」

「疲れた。もう辛い」

 私は彼の身体を抱き寄せ、その首に牙を立てた。

 ランスも私を強く抱き締め、私の背骨は軋みそうになる。

「貴方は、酷い人ね」

 聞こえないような小声で不満を漏らす。

「すまない。」

 聞こえているはずがないのにランスは私の耳に囁いた。

「知らなかったとは言え、僕達は貴方に勝手な事ばかりを望んできたんだろうね。

 でも、貴方はいつもそれに応えてくれた」

 彼の身体がとても温かく、その熱が伝わるほど、私は安心を覚える。

 人間というものはなんとその身の熱い生物であるかと、今改めて気付いた。

 そして、自らの身体の冷たさを思い知らされる。大切な者の命を自らの牙で奪う事に不思議なほど無感動でいる自らの冷たさを。

 血の味に酔い、鏡で見ずとも自分の眼が獣のような輝きを映しているであろう事が察せられる。

 私はその残虐性、そしてそれは私の覆しようの無い本性である、それをランスに知られたくなくて瞳を閉じた。

「僕やハナを、愛してくれて、ありがとう」

 私は彼の言葉にはっとして唇の動きが止まる。

 彼は私をいっそう強く抱き締め、私はなされるがまま、応じるように絡める手を密にする。

 口を離せば唇に彼の体温が絡まり、傷口から溢れそうになる血をまた舌で一掬い舐める。

 私にはランスの言葉の意味が分からなかった。

「どうして礼を言うの? 私は貴方達の日常を掻き乱し、奪い去っただけ。

 愛って何? 分からない感情を私が抱くわけがない」

 ランスは青褪め始めた顔で小さく笑うと、私の頭に手を添え、首筋から溢れる血に私の唇を押し当てた。

 そうして私の中に注ぎ込まれていく生温かいその優しさを私は慈愛と呼びたい。

 その味はまるで私が人間の敵として生まれながらに背負うその罪を、許す、とただ一言だけ、しかし繰り返し何度も囁かれているようだった。

 血を吸うほどにランスの身体は冷えていくのに、彼の腕が私を抱く力は徐々に強くなる。

 背骨は痛いが奇妙なほどに心地良い。このまま抱き締める強さがある限界を超えれば、私達は互いの身体を構成する境界線を突破して混ざり合うような気がしていた。

 私の本質は人間の屍、しかしその性質は夜魔。

 半人半魔の私なら、その境界を越える事は可能なのかもしれない。

 ふと淡い妄想に浸って夢を見るが、結局一つになれるのは血液だけだ。それも完全に一方的な搾取による。

「貴方の中に愛はあるよ。確かに貴方は愛を知っている。

 でも、誰もそれを言葉で説明出来ない。だから誰もそれを分からない。

 分からなくても、貴方の中にそれはあるんだ。

 少なくとも僕は、貴方の中にそれを感じたのだから」

 無いものを感じるはずがない。だから私の中に愛はある、か。

 ランスは最後に全く思いもかけない事を口にして逝った。

 境界を超えた瞬間に彼の腕が何度か激しく私を抱き締めたが、それは単純に筋肉の痙攣が原因である。むろん、その境界とは生と死の間にあるそれだ。

 思いもかけない言葉ではあったが、私は困惑しなかった。

 それはそもそも理解する事が不可能な言葉であったため、私の脳はただそのままの音として捉えて収めた。

 私が彼の腕を解くと、その身体はだらりと床に伏せる。

 私は血に酔う獰猛な眼つきのまま、それを見下ろし、高揚する本能を落ち着かせるように、瞳から僅かな水分を放出した。

 水は頬をゆっくり伝うのだが、あまりにも夜魔に不似合いなそれは私自身でさえ流れている事に気付かぬまま、すぐに乾いて消える。

「さようなら。」

 夜魔らしい、何の名残も見せない顔で振り返ると、私は窓を開けて街に飛び出した。


 窓から身を乗り出して手を伸ばせば、ラバンがそれを掴んで屋根の上に引き上げてくれた。

 私は屋根の下にある命の失せた肉体についてラバンに目配せする。

「男は美味くない」

 しかし彼はただそれだけを言って、遠くを見ていた。

 その言葉が真意か、それとも私に気を使っているのか、それは分からない。

「彼は、アンナの所に行けたのかしらね?」

 私の屋敷がある方角を見つめていたラバンは、不意を突かれたようにやや呆れた顔で私を見る。確かに私の言葉は夜魔にあるまじき、人間に対して感傷的に過ぎる思想だっただろう。

「知らん。だが、行けただろう、と言うのが人間どもの通例だ」

 ラバンはそう私の意に沿う言葉を選んだ。

 しかし結局はそう問うた私自身でさえ、ランスは私に飲み込まれて、意思も何もない一握りの生命力になったのだと分かっていた。

 ランスはどこにも行けていない。行けたとしても、ただ心臓に押し出されながら私の体内を巡っているだけだ。

 ラバンはまた彼方に視線をやる。私もその視線の先の空を見る。

 人間にとってその空はただの闇夜に見えただろうが、夜魔の瞳に映るその空は地獄の蓋が開かれたようであった。

 そこに幾千の夜魔が集まっている事は分かる。

 しかし同時にその気配が凄まじい勢いで消えていく。

 気配が消えるたびに要素が鳴き、震えながら夜魔の死を悼むが、あまりにも次々と夜魔が散るため、要素の悲鳴は幾重にも重なって、まるで天を焦がす炎のように立ち昇っている。

 そしてその炎の中心に見えるのは、ベニメウクスの息吹である。躍動感に溢れ、周囲を囲む要素の泣き声を楽しむように、その場で唯一影を持たない煌きのようである。

「これは、どういう事なの?」

「ベニメウクスを襲っているのは、お前の父の臣下の者達だ」

次話更新10/19(金)予定



作者ツイッター https://twitter.com/yuki_anno

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