ヤミヨヒメ -ムシバムモノ-
薄く笑った瞳の上からまっすぐに伸びた切っ先。
その斬撃を今すぐ防がなければ、私は忽ち死に果てるに違いない。そして恐らくこの夜魔は私の屍から父の血を奪うつもりなのだ。
私に剣を綺麗に抜いている暇は無く、鞘に最も近い左腕で柄を逆手に握って、ぐいと引き抜く。
しかし相手は私がその程度の対応をしてくる事など当然予想していたのだろう。
襲撃者の顔に冷徹な笑みが浮かんでいる。
相手は一振りずつ剣を握り、右腕で私の頭を、左腕で私の胸を狙っていた。
そのまま一対の剣を振り抜けば、私がどちらを防ごうとも致命傷となる。突如として背後に迫った理由は、僅かでも私が対応する時間を奪うためか。
見れば男はしなりの効きそうな細長い柔軟な腕をしている。
二振りの剣のどちらかしか防げないという甘い状況ではなく、左手一本では一振りさえ防げない。
良くぞここまで考えたものである。
どちらかの一振りで私の両手を完全に塞ぎ、残る一振りを何の抵抗も無く私の心臓か脳へ食い込ませるつもりなのだ。
だが唯一つ計算違いをしている。
「私にだって、二振り目の剣はある……!」
襲撃者の冷笑がやや曇る。
私は僅かも躊躇わず、心臓に迫る一振りに狙いを定めた。
剣と剣が打ち合い、私は両手に力を込めて、その刃が身に触れる前に辛うじて止める。
そしてもう一振りの剣も私の頭に達す事は無く、襲撃者の表情が苦く歪んだ。
私の二振り目の剣とは、ラバンである。
私の命に危険が迫れば、必ずラバンが動く。私に対応出来ぬその一振りも、ラバンならば必ず間に合うと信じていた。
信じていたからこそ、私は私自身で防ぐべきその一振りに躊躇無く全力を投じたのだ。
だがその互いの総力を傾けた剣戟のかち合う激しい衝音が闇夜に響き、人間達が騒然とし始めた。
そしてその次の瞬間には彼らの視線全てが間違い無く私達の方に向き、私達が人ではない事に気付いてしまうだろう。
周囲に闇の幕を張って姿を隠すか。
しかし極僅かとはいえ、そのために用いた精力の分だけ、私は襲撃者に遅れを取ってしまう。
そんな無謀な真似は出来ない。この襲撃者は明らかに私よりも格が高いのだから。
私は相手の剣を押し返すと、両足で地面を蹴り、瞬く間に人間の目から逃れられるだけの距離を走った。
だが相手も高位の夜魔であり、私を容易く逃がすわけが無い。
私がどれほど走っても、襲撃者との距離は一定に保たれ、その双剣が繰り返し叩きつけられる。私はラバンの助けを借りながらそれを必死に防ぐが、一振り弾くたびに姿勢が揺らぎ、街を出る間も無く、遂には足を縺れさせて転倒してしまった。
「我が名に依りて命ず。風よ吹き荒れよ」
倒れた私を庇ってラバンが言霊を叫ぶ。およそ触れるような至近距離から竜巻のごとき突風を受けて、襲撃者はその両手の剣を防御に費やして退く。
その隙に私は立ち上がり、ようやく落ち着きを持ってその者の顔を見た。
男は蒼銀の衣を身に纏い、その髪は灰色ながら威によって輝き、金色の瞳は獣の獰猛さを連想させる。全身に荒々しい雰囲気が漂っているのに、どこか洗練されていて鋭美である。
何よりも特徴的なのは笑うと頬まで裂けているのかと思えるような、釣り上がった口の端と、そこに見える左右一対の大きく鋭い牙である。
その牙こそ恐らく、男が両手に握る剣の本質か。
「貴方は誰? 急に背後から襲うなんて。誇り高い夜魔の中にこんな卑怯な人も居るとは思わなかったわ」
「卑怯とは心外な。だからまず声をかけたろう? あの一言がなければ貴様などあの場で真っ二つになっていたはず。本当に卑怯な真似をしていれば、貴様はもうここにいないさ」
男は目を細め、私の甘い負け惜しみをさも面白そうに嘲笑する。
しかし男の言う事は正しく、あの瞬間に男が私の耳元で囁かなければ、私は己の死にすら気付く間も無く斬り裂かれていただろう。
「でも正直なところを言えば、ここまで梃子摺るとも思わなかった。と言っても、それは全部アンタの手柄だけどね」
男はその握った剣の切っ先でラバンを指差す。
「流石は古に天覆う黒翼の大魔と呼ばれた野郎だ。もっとも、今じゃその面影も無いがね。さっきの言霊も案外本気だったんだろう? 分かるぞ。何たってもう俺の方が格上なんだから」
男はラバンを嘲笑し、その嘲笑もやがて家々の壁に反響するほどの大笑いに変わる。
対するラバンは表情を崩さず、一見平静であるが、己の尊厳を何よりも重視する彼が内心穏やかであろうはずが無い。
「ラバン、知っている人?」
「名はフールー。正体は、狼だったか?」
「おいおい、人の正体をぺらぺらと簡単に。しばらく見ない内にアンタも卑劣漢になったものだ」
「この小娘を守らねばならんからな。背に腹は変えられん」
相手の本質を知ると知らぬでは、その対応にも如実に差が出る。フールーに格で劣る私に僅かでもその差を埋めさせるため、ラバンは敢えて夜魔の精神に反する発言も厭わなかったのだ。
そして無我夢中に移動する途中で引き離してしまっていたウルが、その時ようやく追い着いた。
「ふむ、加勢がまた一人、か。被造者のようだが、良く出来てるね。さすがはセィブル。まぁ、俺ももうすぐその力を手に入れるわけだが」
「やはり私に流れる父の血が目的なのね?」
「そんなの当然だ。貴様のような被造者にあのセィブルの血が流れていて、その上その護衛をする大魔は子守に疲れ果てて、見るも無残に弱ってる。真っ当な夜魔なら狙わない方がおかしい」
「では、争わないわけにはいかないわね」
「もちろん。でも三人で一人を相手にするのも気が引けるんじゃないか? だからこちらも戦力を補強させてもらおう。長々と話している間に、やっと追い着いた事だし」
フールーが言い終わらぬ内に通りの四方八方から狼の群れが忍び寄る。群れの中には狼面人身の異様な姿をした夜魔も居た。
その獣面の夜魔は、一見すると獣から夜魔に成ったばかりの者のようにも見える。しかしその開いた顎から漏れる声は他の狼と同じか、かろうじて言葉らしき僅かな多様性を見せるだけだ。その瞳にも野性の力強さはあるが、夜魔特有の物事を見通し冷めた理知が無い。
恐らくその者達は、フールーの手で無理矢理に夜魔相応の力を付けさせられたに違いない。言葉を覚えるよりも早く、ただ牙と爪だけを育てられたのだ。
そしてきっとその成長には街で捕らえた人間から奪った精気が用いられているのだろう。精気を奪う、それはつまり血肉を喰らう事を意味している。
場に居るあらゆる夜魔が己の剣を握り直す。
「ラバン、信頼してるわよ」
「奴は俺が仕留めてやるが、癪な事にお前に構う余裕が無い。お前は自分の身を必死で守れ」
「分かった。ウル、貴方は離れているのよ。これは貴方が手を出せる水準の闘争じゃない」
「いえ、お嬢様をお守りするため、群狼の相手程度はさせて頂きます」
何かが舗道を蹴る音が響く。
その瞬間、私の目の前に既にフールーの姿がある。
「作戦は決まった?じゃあ、早速始めよう。」
もはやそれは決定的である。私はフールーの神速についていけない。
私の目の前をラバンの剣がよぎり、それ以上フールーが接近するのを阻み、次いで今度はラバン自身の身体が私達の間に割って入る。
私は慌てて一歩退くが、相手はフールーだけでなく、数え切れない程の狼が軍隊のように連携しながら襲ってくる。
その統率された無人格な動き。たかが獣が夜魔である私に何の恐怖も無く歯向かうその様。それはまさに教会を襲った狼達のそれと一致する。
狼を使ってこの街を執拗に襲い、多くの人間の命を奪い続けたのはフールーだったのだ。
それはきっと、人を食して私から血を強奪する力を蓄えるため。
ラバンとフールー、それぞれの剣が激しくぶつかり合う。
獣達は唸りながら牙を剥き、私がそれを斬り裂くと、断末魔の声を上げて果てる。
私達の争う音はあまりに激しく、いくら真夜中の郊外とはいえ、眠っていた人間達を起こしてしまうのは時間の問題だった。
家々の窓の戸が微かに開き、弱いランプの光が恐る恐る漏れる。
このままでは取り返しのつかない事態になると分かっていても、フールー達の猛攻は凄まじく、人間への対策を講じるまでの余裕など無い。
「もう少し弱ってるかと思ったのに、さすがに黒翅公の名は甘くない、か」
「随分と余裕だな。そんなに自信があるなら、さっさと言霊で消し飛ばしたらどうだ?」
「とんでもない。無駄に力を使って、またアンタを下回ったら大変だ。優位を手放さず、じっくりやらせてもらう」
フールーも自覚しているようだが、彼とラバンの差はそう大きくない。
だがフールーの方が確かに格が高い事は、追従する要素の多さで分かる。そしてその要素の差が、たかが剣撃の応酬といえども徐々に、だが確実に影響していた。
二人の剣が打ち合う音、それが間違い無くフールーのリズムで奏でられているのだ。
私がラバンに加勢する事でその僅かの差を覆せれば。
私の命に危険が迫るほどにラバンの力が解放されるのなら、フールーに近付いて我が身を曝せば尚勝機はある。
しかし群がる狼達が道を阻み、いくら斬り払おうとも後から後から現れて減る事が無い。中でも群れに紛れるように徘徊する狼面の夜魔が、その格は問題にならぬほど低いのだが、獣の手応えの軽さに慣れた中での不意の抵抗感にリズムを狂わされる。
その数の圧力は特にウルに対して顕著に現れる。意識では私に気をかけているようだが、実際の行動は己の身を守るだけで精一杯だ。
「ウルは退いて。酷だけど、貴方には何も出来ない。命を大切になさい」
「しかしお嬢様、」
その時、フールーの剣がラバンの心臓に迫る。
闘争の術に優れたラバンはそれを辛うじて間一髪避けるが、そのために大きく退いてしまい、結果としてフールーが完全な自由を得た。
当然そのまま一気にラバンを攻め立てるものと思われ、ラバンも体勢を立て直しつつ襲撃に備えて防衛色を強める。
しかしフールーは私達の予想を裏切って、ウルの方に向かったのである。
ウルの目前に出現したフールーは彼に手を差し向ける。
「名に依って命ず」
フールーは私達の戦力を徐々に削ぎ落とし、確実に仕留めるつもりなのだ。ゆえに、滅ぼすに最も容易いウルを第一に狙ったのである。
「剣よ、貫け」
「馬鹿が。己の身だけを守れと言っただろう……ッ」
私は咄嗟に剣を投げ、フールーの口封じを試みた。
だがフールーはそれを見て不敵に笑い、ウルに差し向けていた手を戻して、私の剣をあっさりと弾いて捨てる。
そして身を捻ると忽ち私の目前に迫った。
そこでようやくラバンが私を馬鹿と呼んだ意味と、フールーの笑った理由を悟る。
フールーは初めから私がウルを庇う事を予測していたのである。
彼はアンナの死によって、私がランスの屋敷を訪れる事を読んでいた。普通の夜魔ならば思い付くはずの無い私の行動を読んだという事は、それだけ私を十分に観察していたという事である。
私のウルに対する固執振りも当然知っていたはずだ。
フールーにしてみれば、ウルを始末出来ればそれも良し、私という大物が釣れれば尚良しというところか。
思慮も浅く罠にかかる私をラバンが罵倒するのも無理は無い。
私は気が動転して、フールーに向けて手を伸ばす。しかし私からフールーに対してどのような言霊が通るのか。例えこの場を無理矢理に凌いだとしても、その後が辛くなるばかりであろう。
自身でこの窮地を脱す術が無く、私は瞳だけを動かしてラバンに助けを請う。その時、彼は既に動き出していた。
側面から慌てて駆け付けたラバンが身体ごと衝突するようにフールーを視界の外に連れ去ってくれる。
しかしその突進があまりに強引過ぎたため、フールーによって幾筋かの噛み傷を受けてしまっていた。
その瞬間もフールーはほくそ笑むのを止めない。ラバンが間に合う事さえも予想の範囲内だったと言うのか。
「さぁ、獣ども、一斉に喰らいつけ」
ラバンの突撃に退きながらもフールーは叫ぶ。
命を受けた狼達が狙うのはもちろん、武器を捨て無防備な姿を曝している私である。
足に牙を立てようと走り寄る狼、そしてその後方から大きく跳躍して首筋を狙う狼も居る。
私はすぐさま剣を呼び戻すが、どう考えても狼達の方が近い。
だがもう一度ラバンの援護を期待する事は無理な話であり、今度こそ己の力で身を守らねばならない。
私は両手で頭を庇い、両足で強く大地を踏みしめると、衝撃に備えて重心を低く構えた。
食いつく直前に開かれる狼の顎、その中に並ぶ唾液でぬるりと光る牙。それが自身の腕に食い込む様を腕の隙間からじっと見つめていた。
ほぼ同時に十頭は下らない数の獣が私に噛み付くのを感じた。全てが同様により深く牙を捻じ込もうと激しく首を振る。
ウルは私の名を叫び、ラバンは顔を顰める。
フールーは手を休め、勝ち誇ったように高笑う。
「良くやった、我が眷属どもよ。さっさと戻って来い。牙に付いたセィブルの血を、早く俺に見せろ。」
だが狼達は尚激しく首を捻るばかりでフールーの呼びかけに応えようとはしない。それどころかますます多くの獣が私に牙を剥いて飛び掛る。
「どうした? 来いと言ってるんだ。貴様ら獣の分際でセィブルの血をものに出来るわけが無いだろう? 俺が血を手に入れ、貴様らは俺の庇護を受ける。我らで決めた契約を無視する事は許さんぞ」
フールーは憤り、凄まじい威風を放つ。群狼達は怯え、尻尾を足の下に挟んで伏せた。
「フールー、怒っては駄目よ。彼らは契約通り頑張っているのだから」
私の発言に、夜魔達の表情がまるっきり正反対に転じる。
フールーは困惑しているのか、その細い目を精一杯に開いて唖然としていた。
「お嬢様、ご無事で?」
「全く、肝を冷やしたが。良く守ったものだ」
ウルとラバンが私に微笑みかける。
「奪ってもいない私の血を、持っていけるはずが無いでしょう? 命令は聞かないんじゃない。聞けなかったのよ」
狼達の牙はどれ一つとして私の肌を傷付けていない。
呼び戻しておいた私の剣が、腕に食いついた狼を串刺しにして引き剥がす。
私は腹部を噛む狼の首を掴むと力任せに引き剥がし、引き返してきた剣に向かって突き出すと、剣はそれも貫いて私の手に戻る。
更に私は身を捻り、足を大きく振ってドレスのスカートに食い付いていた獣を振り解く。振り解かれた獣が吹き飛んで向かう先にはウルが居り、鋭い太刀捌きで忽ち斬り捨てる。
全ての牙を退けた私は完全に無傷で、血の一滴どころか、ドレスの生地さえ傷めてはいなかった。
「ドレスは外界と自身を遮断するもの。その性質を何百倍にも強化すれば、獣の牙も防げる。闇を絡めたこの黒衣なら、それも難しい事ではないわ」
フールーは眉間に皺を寄せ、歯を食い縛ると低い唸り声を漏らす。丁度、狼が相手を威嚇する時のような唸り声だ。
「人間などと親しくする。被造者にこだわる。全く聞いた通りの風変わりな娘だとは思ったが、まさかそんな奇想天外な方法で牙を凌ぐとは予想外だよ。まさかいつでも襲撃者に備えてそんな服を着てるのか?」
「いいえ、今日だけよ。貴方の襲撃が急過ぎて、闇を解く暇も無かっただけ。それがまさかこんなところで役立つとは、私自身でさえ驚いたわ」
「貴様の思考を読んだ俺の知恵と、息吐く暇も無く攻め立てた俺の速さが仇となった、か。全く笑える話だね」
フールーは眉間の皺を緩め、口の端を大きく歪めて苦笑する。
どういう合図か分からないが、狼達は斬られた仲間の空席を埋め、隊列を整え始めた。
「貴方、今、聞いた通り、と言ったわね? 誰か私の事を、ランスやウルへの執着振りを貴方に話した者が居るという事?」
「他にも、食人を躊躇うとか、その本性は人の屍だとか。夜魔は貴様が思うよりも噂好きなのさ。その上、貴様のような幼子が、突然万魔の頂点に立つと聞いて、陰口を叩かずにいられる夜魔は多くない。
特に、セィブルの旗下に居る連中は、自身では貴様の命を奪えない呪いとやらがあるらしく、俺に望みを託そうと色々喋ってくれた。
よほど貴様の事が気に入らないらしい」
父の庇護下にある夜魔は父の命によって私の命を奪う事が出来ない。
そこで父の息のかかっていないフールーに私の情報を垂れ流し、殺害を依頼したというわけか。
私の脳裏に一人の夜魔が浮かぶ。
「ベニメウクス……」
彼女は父のただ一人の特別な娘になりたくて、もう一人の娘である私を激しく嫌悪していた。
彼女も巧妙な手口を次々と思い付く狡猾な質を持っており、どこかフールーとも通じるような面があるだろう。
しかしラバンは私の邪推を否定した。
「あの小娘なら、そんな他人任せの回りくどいやり方はしない。むしろこいつがお前から奴の血を得るなど我慢出来んだろう。あれの頭の中は自分と父親の事しか無いからな」
「そう。俺が最終的に目指すのは、セィブルの打倒でね。あの娘とは利害が一致しない。
もともと貴様を殺さず、血を手に入れる方法は幾らでもあるんだ。
だから、自分で貴様を殺せないから俺に頼る、なんて体の良い言い訳なんだよ。
自分の力では手も足も出ないから他人に頼るわけで、そういう下等な奴らだからこそ簡単に何でも喋るわけだ。
ベニメウクスって娘も妙な奴らしいが、しかし格に相応の誇りを持ってる。天地が覆っても俺に協力などしないだろうね」
私はどれほど多くの夜魔に憎まれているのだろうか。
生まれの特殊さゆえに受け入れられないとは聞いていたし、覚悟もしていたが、まさか他の夜魔に誇りを失わせるほど憎まれるとは想像もしていなかった。
考えてみれば無理も無いのだろう。
世界の創造者、万物の支配者と称されるに相応しいまでの強大な力。
他の夜魔がどれほど望んでも手に入る道理の無いその力を、私はただ生まれただけで手にしていたのである。
それも何千、何万という年月を過ごして生まれた純血種などではなく、父のほんの一言で唐突に生まれた被造者などがその力を約束されたのである。
あまりの理不尽さ、堪えきれない憤りがそこに生じるのは当然と言えば当然か。
「いや、でも一番役立ってくれたのは、あの娘か。これが済んだら、礼でも言いに行くべきかな?」
「何? ベニメウクスは貴方と関わり無いのでしょう?」
「確かに関わり無いが、あの娘はラバンを散々に痛めつけたろう? お蔭様で俺が優位に立てたわけよ。
幾らこの俺でも、黒翅公と呼ばれる大魔が万全の状態では勝利に確実性が無い。
色んな奴を焚き付けて、力を削ごうとしたんだが。まぁ、言葉で簡単に動くような奴では大した効果が無くてね。
あと何年続ければ良いのかとうんざりしていたところに、あの娘が飛び込んできたのさ。
全くの予想外だったが、本当に良く働いてくれた。あの晩は笑いが止まらなかったね」
フールーはにやにやと笑いながら、自身の左肩口から胸にかけてすぅと指でなぞる。
「あの晩の傷、実はまだ治っていないんだろう? 傷口だけ塞いでも、俺には分かるよ。あれは人を食わずに癒せる傷じゃない」
その指がなぞるのは、ベニメウクスがラバンを斬り裂いた太刀筋である。
「治っていないから、どうだと言うんだ? 臆病者の相手には丁度良いハンデだろう?」
フールーは唐突にラバンに斬りかかった。
その憤怒に満ちた斬撃をラバンは巧みに捌いて距離を取る。
「言葉に気をつけろ、ラバン。もう貴様は古の黒翅公じゃない、ただの子守だろう。今は俺の方が格上なんだ。いつまでも大魔気分でいるのは許さんぞ」
「咆えるな、畜生が。臆病者をそう呼んで何が悪い? 至高の夜魔が来ると聞いて遥か大陸の東の果てまで逃げたお前のどこに臆病でないところがあると言う気だ?
今度も、こんな小娘に奴の血が流れていると聞いて、恥も知らずにのこのこ戻ってきたのだろう?
その上、敗北を必要以上に恐れて、極端に策を弄し、結果こんな生まれたばかりの小娘に卑怯者と罵られる始末だ。
この臆病者を笑わずに何を笑えと?」
フールーの瞳が血走り、怒りでこめかみに浮いた血管が細かに震える。
「東方に行ったのは、こことは違う種族の人間が居ると聞いたから、食ってみたくなっただけだ。戻ってきたのも、久々にここの人間を食いたくなったからで、セィブルとは関係無い。それを逃げたなどと都合良く解釈して」
「都合良く? お前を追い立てたのは俺だった事を忘れたか?
お前が怯えきって逃げる様を嫌と言うほど見せ付けられたのだがな。
それが勘違いだったとは、今更ながら驚かされる」
「もう良い。いつまで喋っているのも無駄だし。殺してやるから、その後でゆっくり後悔するが良い」
フールーは両手の剣を指先で巧みに回転させながら、そのリズムを徐々に速めていく。すぐにリズムは先ほどまでよりも明らかに速くなり、ラバンがそれを凌げるのか私は内心で不安を抱いた。
「ウル、貴方は退くのよ。これは命令なの、従って。私はラバンにとって足手纏いだけど、私の足手纏いは貴方なの。もう一度同じような窮地を迎えるわけにはいかない。分かって」
私の言葉にウルは微かに悔しげな陰を見せた。
私もそんな酷い事を言いたくは無かったのだが、父の血と己の命を守るため、躊躇う事は出来ない。
それはウルもすぐに察してくれる。
「申し訳御座いませんが、退かせて頂きます。お嬢様、どうかご無事で」
「えぇ、分かっているわ。ウルは辺りの人間の処理をしてちょうだい。危険の無い範囲で構わないから」
しかし忠義心の篤いウルの事である。何も持たずにふらふら屋敷まで戻ってくれるはずも無いだろう。
予測出来ない場所に残って危険に遭うよりは、適当な役目を与えておく方が安心出来るというものだ。
これで、人間達が家屋の中から私達を伺う視線も気にせずに済む。
「心得ました。お任せ下さい」
私はウルが煙となり、獣達の包囲を抜けていくのを見守る。
フールーの目標は私の血であり、私達の戦力が減るならばウルの生死には拘らないだろう。何らかの方法によってこれ以上ウルを狙う事はあるまい。
ラバンとフールーは再び剣を打ち合わせ、その衝突音は雷鳴のようでさえある。
フールーは益々速度を上げ、その両腕にも力が漲る。空を切る一振りでさえも天を裂いてしまいそうに思えるほどだ。
しかしそれはどこか直線的で、攻めるリズムも単調である。両腕の力にばかり頼って、踏み込みは浅く、彼の恐るべき神速の足はまるでちぐはぐな動きをしている。
フールーは目の前のラバンを斬る事に固執し過ぎて、あの二重三重の搦め手で挑む己の姿勢を忘れてしまっているようだった。言うなれば彼は怒りに冷静さを失ってしまったのである。
冷静さを欠くほどに、夜魔の格もまた傷ついていく。
もちろんそれは降って湧いた幸運ではない。
フールーがそのような性質の者であると十分に知った上で、ラバンが謀ったのである。
しかしラバンとて直線的な質を持っており、小細工の無い闘争を好む風がある。それでも敢えてフールーを挑発したのは、私のため、そうしなければ私を守れないためか。
およそ間違いなく、ラバンは今己の非力さを、失った力を思いながら、密かに悲嘆しているに違いない。
私はそんな闘争を長引かせたくはないと思った。
直線的に攻め続けるフールーを、ラバンが巧みに捌きながら少しずつ押し返し始める。
フールーが己の激情に気付くのも時間の問題ならば、今を好機と呼ぶ事に疑いは無く、ラバンに加勢して一気に押し切る事が最良と思えた。
群がる狼達は私がラバンに近付く事を阻むように立ち塞がるが、私は強引にでも斬り進んだ。しかしウルがこの場を退いたために、全ての獣達が私を狙うようになり、距離は思うように縮まらず、私は苛立った。
私が非力さを曝している事にも構わず、ラバンはついにフールーを追い詰め始める。
フールーは街路樹を背負ってようやく、自身が冷静さを失った事に気付き戦慄したようだが、既に彼にはもうそれ以上退く空間が無い。
焦りに目を見開いたフールーを見下ろし、ラバンは咆哮一閃して剣を振り下ろした。
街を吹き飛ばすような爆音と閃光が辺りに走り、要素に緊張が走る。そして不意に静寂が訪れると、フールーの背負っていた街路樹が炎を吹き上げながら真っ二つに裂けて倒れた。
私も狼達も言葉を失い、動くのもやめて、その力の爆発を凝視する。狼達の瞳には明らかな恐怖が映る。
「ラバン、私達が勝ったのね? もう街を襲う狼の群れも来ない。一度に大勢の人間が命を落としたりもしない。これできっと、ランスの心も和らいでいくのね?」
フールーは私から父の血を奪うため、凄まじい勢いでこの街の人間を殺めた。それに乗じた夜魔も少なくは無いだろう。だがこれでその勢いも衰えるに違いない。
この街に居座るのが非力な私だから、他の夜魔には格好の狩場に見えてしまっていた。ならば私がこの街を父に返上すれば、その威光を恐れる者達はこの街に近付こうとさえしないはずである、フールーが遥か東に逃げ去ったように。後は私が、父にこの街で狩りをせぬよう、ただ懇願すれば良いだけだ。
それを請うにはまだ私の地位があまりに足りないが、たったそれだけの懇願で街が夜魔の支配から解放されるのである。
次々と理不尽に死んでいく友の姿に、ランスがもう涙する事が無くなるのだ。
結果として私はランスを騙し続けた。ハナが裏切り者と呼んだ理由を、誰よりも私自身が理解している。
だからそれだけが、私が彼らに、私の蝕んだこの街にしてやれる、償いなのである。
ラバンに駆け寄る、私の目頭がなぜか熱くなった。人間などのために喜び、更には心揺らして頬を濡らすとは、こんな愚かな夜魔ではまたウルやロザリアやラバンに何を言われるか分からない。
だが、私のその他愛無い心配は、あまりにも無残に徒労と化した。
「やっぱり、変な娘だね。自分も人間を食うくせに、その人間のために泣くなんて。それは矛盾だよ」
フールーの声に私は近付く足が凍り付く。
そしてラバンの身体が大きく揺れて、数歩たたらを踏んだかと思うと大地に片膝を突いて低い呻き声を漏らす。
今度はフールーがラバンを見下ろし、勝者の笑みを浮かべた。
私にはその瞬間に何が起きて、なぜラバンが膝を折っているのか理解出来ず、ただただ唖然とするばかりだ。
「人を食って喜びながら、人を殺めて悲しむ。忙しいね。その上、無意味だ。俺達、人間を食う夜魔にとって、それはただ生きるための手段だろう?喜びも悲しみもしない、ひたすら淡々と過ぎる、自分が生きている限り終わる事無く続けていく、そういう無感動で不可避な行為だよ。貴様は夜魔のくせに、どうしてそれをそんな重大事のように思っているんだ?呼吸をするのと大差無い、そんな行為を」
「ラバンに、ラバンに何をしたの?」
にやりと笑うフールーの周囲で要素が荒ぶって震えている。特定の要素だけが激しく膨張し、それ以外の要素はその要素に怯えたように萎縮していた。その余韻が言霊の作り出したものである事に疑いは無い。
しかしなぜだろうか、私はその大きく弾けた要素が何を象徴しているのか理解出来ない。
炎ならば、燃やす要素、暖める要素、輝く要素、灰を生む要素など、数え切れない要素で構成されているが、そのどれをとっても働きの分からない要素など無い。
だが、フールーの腕に纏わり付くその雄々しい要素は、私が今まで見た事の無い、未知の姿なのである。
「知ってどうする? ラバンを斬ったら、次は貴様だぞ。さぁ、我が眷属ども、まだ争いは終わってないんだ。怯える暇があるなら、さっさと噛み殺せ」
フールーは深く息を吸うと、剣を振り上げ、ラバンの頭目掛けて一気に振り下ろした。
私はなす術も無く、獣に囲まれながらそれを遠くで見ていた。
「誰を斬るだと? この畜生風情が。妙な言霊を覚えた程度でいい気になるな」
だがラバンも古に名を馳せた夜魔である。そう容易く果てるわけも無かった。
振り下ろされた剣を辛うじて受け止め、押し戻すようにふらりと立ち上がる。
しかしその動きは鈍重で、あの瞬間に受けた何らかの傷が浅くない事は目に明らかであった。
フールーは畳み掛けるようにラバンへ手を差し向けると、口早に言霊を唱える。
「血肉に潜む蒼き神槌、高きより低きへ、溢れて出でよ」
その瞬間、また要素が大きく揺れ動き、あの巨大な閃光がラバンを包み込む。
一度はラバンも耐えた言霊だが、しかし膝を突いたそれをそう何度も受けて無事に済むわけがない。体勢を崩した所に、今度こそフールーの凶刃を受けてしまうだろう。
私は獣達を掻き分け、強引に前へ出る。
私の挙動に気付いた獣達は行く手を阻もうとするが、しかし心の片隅にその強大な要素の動きに臆した部分があり、その動作に躊躇いがある。その隙を突いて私は一気に轟音鳴り響く閃光の中に飛び込んだ。
光の中は熱気が渦巻き、その張り詰めたような空気が肌を切るように刺激して通り過ぎる。要素達は既に役目を終えて平常の姿に戻ろうとしており、光も徐々に和らぎ、熱気も次第に大気へと放出されていく。それなのに、その渦に触れた皮膚の毛穴が全て逆立っていく。
恐怖を感じて身が竦むのではない。内的な心理の反映として身の毛が弥立ったわけではないのだ。ただ外部から揺り起こされたかのように、肌が萎縮してそうなってしまう。
光が薄れ、その中央に黒い影が見え始める。
それはもちろんラバンなのだが、辛うじて剣を正面に構えて両足を踏ん張っているものの、それはもはや風が吹いても倒れるほど力奪われた姿である。
すぐにまた別の影が光に飛び込んできて、ラバンに向けて一対の剣を振り払う。
ラバンはそれに対応しようとするが、言霊を受けた直後の身体が思い通りになるはずもなく、振り下ろされる剣に対して僅かに目を見開いただけだった。
今度は私がラバンを助けなければ。そうでなければ次に歯牙を向けられるのは私なのである。私一人ではフールーに抗しようもないではないか。
しかし私はラバンほど剣に巧みではない。無理矢理に二人の間に割って入ったとしても、結局その牙を身に受け、父の血を奪われてしまう。そうなれば父の力を手に入れたフールーに忽ち消し飛ばされて終わりだ。
私は走りながら足元に落ちていた小石を幾つか拾うと、手の中で僅かに温まるのを待つ。石の要素はすぐに私に馴染み、命ぜられる瞬間を待ち始めた。
「私の名をもって命じる。小石よ、打ち震え、押し流す衝撃となれ」
私が渾身の力を込めて小石を投げると、それらは互いにぶつかり合い、次第に数を増やし、速度を増し、大河の流れのごとくフールーとラバンに打ち付けられた。
フールーは己の身体に当たるものだけを容易く見分けると、両の剣にて打ち払う。もちろん私もそんな石礫の二十や三十でフールーに傷を負わす事が出来るなど思ってはいない。しかし彼の両手を一時的に縛る事が出来た。
その隙にラバンは抵抗も出来ずに飛礫を身に受けながら押し流されてその場を離れる。石を受けた傷は浅くないが、それでも心臓を切り裂かれるよりは良いだろう。そんな強引な方法しかないのかと文句を言われるだろうが、まずは争いが終わらねばそれさえも聞く事が出来ないのだ。
フールーは私の機転にやや渋い顔を見せたが、すぐににやりと表情を崩す。恐らく、結果としてラバンが動けなくなった事に変わりなく、私から血を奪う絶好の好機であると思ったのだ。
その予想はきっと間違っていないだろう。なぜなら、私が今同じ理由で強大な危機を感じているからである。
フールーが私の傍まで辿り着く前に、私は左右に剣を振るって獣面の夜魔を切り払う。獣の牙ならば黒のドレスで防ぐ事も出来るが、その獣の域を超えた者だけは警戒を解けず、フールーと争う前に少しでも遠ざけておきたかった。
しかしフールーはやはりとてつもなく速い。私が獣面の夜魔を浅く斬り付けただけで、既に私の心臓目掛けて剣を突き出している。
慌てて身を捻りながら剣を打ち払うも、更にフールーはもう一本の剣も振り下ろす。だが私はそれも辛うじて防ぐ事が出来た。恐らくはフールーも先ほどの言霊に己の精気を随分と使ってしまったのだろう。体内の自身を構成する要素が荒れて、十分な力を出せずにいるのだ。
そう考えて納得出来るだけの威があの言霊にはあったのである。
しかし言霊によって出来る体内の要素の歪は、すぐに平衡化して治まる。
もう何振りかを受ける間に、打開策を見つけなければならない。
私は利用出来る何かを探して周囲を見回す。獣達が竜巻のように閃く刃に巻き込まれまいと、どこか怯えたようにフールーへ期待の視線を向けている。
フールーに抗しうる何かを探そうとしても、私は彼の刃を凌ぐ事に精一杯で、視線を逸らす余裕もすぐに無くなってしまう。それどころか、フールーの視線に含まれる微弱な束縛が私の動作に僅かずつでも確実に障害を与え始めた。
己より高位の夜魔を容易く退けられるわけが無かった。
弱者は敗れ、強者が生き残る自然の掟からは、いくら夜魔といえども逃れられないという事だろう。
速度を増したフールーの剣がまた、私の心臓目掛けて突き出される。
私の両手はもう一振りの剣を抑え込むために使用済みで、その一突きを防ぐ術が私には無かった。
「我が名に依りて命ず。炎よ、燃え盛れ」
むろんその言霊を口にしたのはラバンである。ぼろぼろの腕をこちらに差し向けて、己の身体を起こす事も後回しに、爛々と鋭い眼を輝かせていた。
その言霊と共にフールーの背中を炎が走り蝕む。
フールーの顔には苦悶の表情が広がるが、それは彼の動きを止めるほどではなく、もう僅かで得られる父の血を前にどんな痛みも意に介すわけがなかった。身体の一部を奪われようとも、構わない覚悟があるだろう。父の血はあらゆる犠牲を払うに値するだけのものなのだから。
しかしフールーはその血に固執し過ぎて視野を狭めてしまった。
なぜラバンが、得意とする風の要素を用いず、炎などという鈍い痛みを選んだのか。
つまりラバンは痛みや怒りによってフールーの注意を引く、あるいは行動を阻む意図でその言霊を使ったのではない。
フールーの切っ先が私の胸に触れ、その刃が肉の中を滑らかに裂き進む。だがその切っ先が指の第一関節程度の長さまで埋まった所で刃は原因不明の障りによって僅かに侵攻速度を鈍らせた。
それはどれほど苦痛に耐えようとも抗し難い現象である。
炎に焼かれた背中の皮膚が爛れて縮み、前方に伸ばそうとするフールーの腕を極僅かだが引っ張ったのだ。
それは肉体の不可避な反応であり、どれほど高位の夜魔であろうとも血肉を有する限り免れる事は出来ない。
その一瞬の隙に私は身を捻り、辛うじて心臓への直撃を避ける。
そのまま剣はずるりと胸を貫き通して背中へ抜けた。
死をすり抜けたとはいえ、やはりそれは猛烈な痛みで、私は耐え切れず無様な悲鳴を上げる。
私を殺せなかった事にフールーは微かに苛立ちもしたが、深々と突き刺さった己の剣を見れば、目を見開いて嬉々とする。
その剣を引き抜かれれば、父の血が奪われる。
私は傷を急速に再生させ、血を流すまいとするのだが、その剣は私よりも遥かに高位の夜魔の牙、力を象徴する要素の凝集であり、私を構成する血肉の要素は萎縮して再生は遅々として進まなかった。
フールーがにやりと笑って剣を引き抜くと、抜かれた分だけ刃が血糊をべったりとつけて顔を出す。私は血を奪われまいとして、引き抜かれた分だけ身体を押し付けて、また刃を傷の中へ押し込んだ。
私の浅はかな抵抗にフールーはあからさまに苛立ちを見せる。剣を一気に引き抜くため、彼が腕に力を込めるのが見えた。
私は咄嗟に、フールーが立つ足元の土を指差し叫ぶ。
「私の名をもって命じる。大地よ、木々の如くに聳え立つ塔を起こせ」
忽ち地面が揺らぎ始める。
フールーは慌て、私の指差した足元を見るが、その瞬間に彼の立つその場所が急速に隆起して彼を持ち上げた。
剣を引き抜かれるのは一時的に凌いだが、突き刺されたままの私はぶら下がるように宙吊りになる。激しい痛みが私を襲ったが、剣を引き抜くためにフールーが腕に込めた力を、剣にかかる私の体重を支えるために使わせる事が出来た点は悪くない。
そのまま私の重さに耐えかねて血の付いたこの剣から手を放してくれれば、これ以上望みようの無い結果なのだが、私程度の重さでそれを期待する事は難しいだろう。フールーが、闘争の最中に剣を手放す事がどれほど愚かな事かを熟知している純血種の夜魔ならば尚更である。
だが私はフールーの足元を隆起させた時に自身の新たな特性に気付いた。
土を踏むとは、土に己を支えさせる事。つまり踏まれた土は踏んだ夜魔の支配下に置かれたと言っても過言ではないという事だ。
しかし私は自身よりも高位の夜魔が踏みしめるその土を、いとも容易く操ったのである。
それは私が土の要素と、通常の夜魔としての位階を超えて、馴染み易いという事を示している。
夜魔は己の本質に近い要素と馴染み易く、その支配力、使役力は他の要素に対するものと比較するまでも無く高い。ラバンが風を、ロザリアが木々や花を容易く扱うのもそのためだ。
しかし私の本質である屍骸と土に何の関わりがあるだろうか。
いや、実際に土の要素が追従を願い出ているのは屍である私自身に対してではなく、私に流れる父の血に対してであろう。
その血は、土より生まれた至高の夜魔の血なのである。
父の血が私に砂礫の支配権を貸し与えてくれたか。
私はその恩恵を無駄にせぬため、すぐさま次の言霊を叫び、石、砂、埃や塵芥に到るまで大地の要素に連なる全てを呼び寄せて、自身の身体に付着させる。
石を纏った私の体重は急速に増していき、あとはフールーが私の重さに耐え切れず剣から手を放すか、あるいは私の身体が支え切れずに傷口から裂けて落ちるかのどちらかだろう。
フールーも私の思惑などすぐさま察して、残るもう一方の剣を振り下ろす。
だがそれは私も予期していた事で、宙吊りのままでも剣を振り上げて食い止める。
胸の傷口にかかる重量はますます大きくなり、今にも引き裂けんばかりに痛む。
しかしフールーの腕もしなやかで鋭い動きをする筋肉ではあるが、持続的に大きな力を出すのには向いていない。
彼はついに一方の剣を己の内に戻すと、両手で私の体重を支え、そしてそのまま私から引き抜こうとした。
私も剣を引き抜かれまいと、両の手でその刃を握り締め、必死に食い下がる。
私の重量はその間も確実に増え続け、そしてフールーが無理矢理にでも私から剣を取り戻そうと両腕に力を込めた瞬間である。
彼の剣の細く鋭い刀身が大きくしなったかと思ったら、想像もしていなかった大きな音を立てて真っ二つに折れ砕けた。
支えを失って宙に放り出された私は真っ逆さまに転落し、やや柔らかくなってくれたようだが、地面に激しく打ち付けられた。
フールーも剣が折れた反動で体勢を崩し、塔の上から転落していくのが見えた。それは拙い反抗だろうが、僅かでも希望があればと、私は土の塔へ彼に向かって倒れるよう命じる。
激しい崩壊の音が轟く中、私は立ち上がり、剣を構える。フールーがたかが落石程度で退くはずもない。
案の定、土煙の中にぬうと立ち上がった影が、私に鋭い視線を向けていた。
胸に刺さったままの折れた剣を引き抜くと、その全てが赤に染まっている。私はその自らの血を舌で拭って飲み込み、父の血を一滴たりとも渡さぬ覚悟を見せ付けて、折れた剣の切っ先はこれ見よがしにどこか遠くに投げ捨てた。
フールーは怒りを押し殺すように、眉間に皺を寄せ、私を強く見竦める。一方の牙を折られ、口元から垂れる一筋の血を指で拭った。
「惜しかったけど、畜生にくれてやるほど私の血は安くないの。残念とは思うけど、諦めてちょうだい」
「被造者風情め。これくらいで俺に勝ったつもりか?」
拭っても拭っても溢れてくる牙の血をフールーは懸命に抑える。
それは一見すれば、たかが口内を僅かに傷付けただけの傷口に見えるだろう。
だが事はもっと重大であった。
夜魔にとっての力の象徴は剣であり、フールーのそれはすなわち牙である。二振りの剣、二本の牙の一方を失ったフールーは、夜魔の力の大部分を失ったに等しく、大きく格を下げてしまった。
血がすぐに止まらないのは、彼の格が今もなお降下し続けている証なのだ。
もちろん、その予想もしていなかった展開を誰よりも深刻に理解しているのはフールー自身である。だから私の挑発に対しても必死で冷静さを装う。
彼が最も警戒しているのはラバンだ。その牙の傷が元で、彼よりも格を格を下げてしまったのではないかと恐れている。
剣を支えにのそりと立ち上がるラバンの姿を横目に捉えながらフールーは剣を構えた。
私もラバンと視線を絡ませる。彼の瞳に見える闘争心は微塵も色褪せていない。
「勝ったつもり? いいえ、違うわ。勝つつもりなのよ。
やっと血も止まったみたいだし。覚悟は決まった? じゃあ、早速続きを始めましょうか」
私が土を蹴るタイミングに合わせて、ラバンも動作を開始する。私達はほぼ同時にそれぞれの剣でフールーに打ちかかる。
フールーも一振りと半分の剣でそれを凌ぎ、私達を押し戻すが、そのどちらを先に襲うべきか僅かに逡巡する。フールーの惑いによって、彼に合わせようとしていた獣達も同様に動作が遅れる。
一度は牙を突きたてた相手だ。次こそは仕留めてみせるという気概なのだろう。フールーは私を選び、狩猟者の眼を私に向け、獣達にはラバンを襲わせる。
しかし今の一太刀で自身の階位がラバンのそれを下回っていた事を確信したのだろう。ラバンを完全に視野の外へ出す事が出来ず、視点が私に集中しきれず、手元も酷く甘い。
ラバンもそれに気付いて、敢えて視野の端に向かって移動し続ける。
フールーの注意力はますます散漫になり、判断力も衰えたのか、切っ先も無い折れた剣で私を斬り付けようとする始末だ。
その空振りを好機に私が剣を突きつけると、彼は完全に戸惑って不用意な姿勢で剣を受け止める。私の一撃を避けたとはいえ、その瞬間にラバンは完全にフールーの意識の視野からも消え失せ、ようやくフールーがラバンを見失った事に気付くのは、背に彼の一太刀を受け終わってからだ。
痛みのためにフールーは完全に判断力を失ったのだろう。背中を斬り裂いたラバンに注意を移してしまい、目の前にいる私からさえ眼を逸らしてしまう。
ほんの一瞬であったため心臓を貫くには到らなかったが、それに限りなく近いところまで突き刺した感触が私の手に響く。
フールーは身体を大きく仰け反らせて、地面に倒れると、そのまま転がるように私達から距離を取る。その様がどれほど滑稽で無様だろうが、もはや気に留めるつもりはないようだった。
「東方に逃れた時に、付けられた名がある」
街路樹に寄りかかりながらフールーは揺らぎつつも立ち上がり、唐突にそんな事を言い出した。
東に行ったのは、父から逃れるためではなかったと、あれほど否定していたのに、余裕が無くなったのかあっさりと口の端から真意を零し、また自身でそれに気付く節も無い。
「曲天真君、と。
高みの夜魔どもは皆、名を呼ぶ事さえ憚られて、本当の名とは別の二つ名を持っているものだろう? アンタは黒翅公とか、賢翼公とか呼ばれて。セィブルなんて幾つ呼び名があるのか本人も知らないんじゃないか?
曲天真君と、そう呼ばれた時、俺もようやく偉大な夜魔の仲間入りをしたんだと、実感して震えたよ」
樹皮に手を当ててフールーは深く息を吐き、呼吸を整えた。
「どうして曲天と、天を折る者と呼ばれたか、貴様に分かるか?
なぜなら、この強大な要素を操れる夜魔は俺の他に居ないからよ」
咆哮一声、フールーの触れていた街路樹が砕けるように裂けた。
木の内部から、あのラバンを打った未知の要素が、フールーの腕に絡まるように引きずり出され、腕が差し向けられるままにその要素は激しい閃光と爆音を伴って私を飲み込んだ。
私は閃光に包まれる瞬間、確かに剣を構え、言霊に対すべく自身の不屈の誇りを強くしたのに、要素を防いだという感触がまるで無い。
全身を内側から焼かれるような鈍い痛みと、神経と肉体を切り離されたような不自由感が私を襲った。
だが自身の身体で接してみて、その要素が何であるのかにようやく気付く。
知らぬ要素ではなかった。だが身近に感じる機会はおよそ皆無で、まさかそれを持ち出す事の出来る夜魔などいるはずも無いという思い込みが、私の判断を鈍らせていたのか。
「これ、は、稲妻、ね?」
意識は明らかなのに、舌も唇も麻痺したように引き攣ってしまう。
フールーはその滑稽さを微かに笑うと、剣を構えて私に近付いてきた。
私の身体は意識に反してまるで糸が切れた人形のように崩れ落ちて大地に膝を突いて微動だにしなくなる。
ラバンほどの夜魔がたった一言の言霊で容易く、それも一度ならず二度までも膝を屈した力がこの稲妻にはあるのだ。
それは先ほどラバンがフールーの背を燃やしたのと同じ理由。
稲妻に触れた者はその種族、格の高低に関わる事無く確実に、筋肉が痙攣し、神経が焼尽し、全身の自由を奪われるのである。一時的ながらもその麻痺は、血肉を有する限り必ず受ける稲妻の性質なのだ。
だからたとえ稲妻のそれ自体に私の血を奪うほどの力が無いとしても、フールーはただ悠々と平伏した私に近付いて剣を突き立てれば良かった。
この言霊を覚えた自信が、彼を東方から帰らせた何よりの理由となったに違いない。
ラバンは私を守るべくすぐにフールーへ向けて接近を始めるが、フールーの合図によって周囲の獣が一斉にラバンに飛び掛る。
むろんの事、ラバンならば獣の包囲など容易く斬り伏せて突破するだろう。フールーもまさかラバンを数の圧力だけで制す事の出来る相手だとは思っていない。
フールーは立ち止まり、その腕をラバンの方へすうと伸ばした。
フールーの前進を止めた事は、一先ずラバンの思惑通りと言うべきだろうか。しかし次の瞬間にはラバンが抗す術の無い言霊に膝を折ってしまうだろう。
それでは結局、主導権をフールーに握られたままではないか。
「我、命ず。血肉に潜む蒼き神槌よ、溢れ出で、彼の者を穿て」
その言霊による麻痺は防ぎようも無い事を既にラバンも承知していた。ラバンは大きく跳躍してフールーの指が示す直線上から身を伏せる。
身を置いたそこに多くの獣が牙を向いて飛びつくが、稲妻に打たれるよりはましか。
私は唯一動かす事の出来る脳でそう思った。
ラバンもきっと同じ事を考えていただろう。
しかしフールーの不敵な嘲笑を見た時、私は背筋が急速に冷えるのを感じた。
私自身の恐怖というよりも、この場に溢れる様々な要素が震える怯えが私に伝わったように思えた。
空間に閃光が走る。
だがラバンはフールーの腕が指し示す方角から逃れたのではないのか。フールーの言霊はその示された方向に命令の及ぶ対象を見失い、施行される事無く霧散する。それが言霊の逃れられざる法則だと私は教育されてきたのに。
フールーの言霊はまずラバンの周囲に居た獣達を巻き込み、彼らを次々と引き裂くと激しさを増して津波のように広がる。
稲妻は瞬く間に天を覆う雲のように立ち込め、幕を被せる様にラバンを包んだ。
その稲妻からは逃れられない。
私は戦慄に自然と湧いた生唾を飲み込む。
フールーの腕がどの方角を指し示そうとも構わず、生じた稲妻は周囲のあらゆるものを引き裂きながら、必ず対象を打ち貫く。
いかにもそれは稲妻の性質だが、良くここまで利用したものだと感嘆するしかない。
だが納得の出来ない点が一つある。
「なぜ、狼達まで巻き込むの? 彼らは貴方に庇護を求めて従う者達でしょう? それを貴方の手で葬るなんて、契約に違う、いいえ、それはもはや裏切りよ」
「だったら何だと言うんだ? 貴様に、セィブルに敵対すると決めた時から、尋常ならざる犠牲が出る事は、既に皆覚悟している。たとえ俺の神槌に引き裂かれようとも、それが貴様らに勝つ一手となるなら、俺達の中に階となる事を躊躇う者など居ない」
「でも貴方の稲妻は、仲間を犠牲にし過ぎる。まるで犠牲が多いほどに、大きく勢いを増すように」
私は血の気が引くのを感じた。
稲妻のもたらす悲惨さを表現すべく口の端に乗せた言葉が、ただの表現に過ぎないという確信が無い。
思わず口にしたその言葉通りに、フールーの言霊は犠牲が多いほど勢いを増していた。
そしてなぜその稲妻はフールーの指し示した場所から突如として出現するのか。
火を灯すなら、燃える要素に命じなければならない。
燃える要素の無い場所に火は灯らず、大気の要素の無い場所で風は吹かない。
なぜフールーの言霊は、その要素の無い場所に稲妻を落とせるのだろうか。
稲妻の要素は遥か天にあり、稲妻は天から落ちてくるのが道理ではないのか。
まさか、獣らの命を生贄に、無理を道理に曲げているのか。
「どうして? 稲妻は、天から落ちるものではないの?」
「山を焼き、塔を砕く雷は、確かに天から落ちてくる。それは間違いないさ。
だが東方の人間はそんな簡単な事も分からず妙な思想を持っていた。
雷が木に落ちるのは、なんと木の中にそれを呼び寄せる何かがあるらしい。
笑えるだろう?俺も笑った。愚かなくせに何を小難しく考えてやがるってね。
だが実際、樹皮に手を触れてみればどうだ。極僅かだが奴らの言った通りに雷の要素が確かにそこにあった
木だけじゃない。血肉を有して生きるものは鳥も獣も全て雷の要素を秘めている。」
私は自身の身体を見つめ直す。指先を動かせば、その血肉の動きに紛れながら、注意していなければ見落とすような仄かさで、電雷の要素が揺れる。
「見つけたろう?
だがそんな小さな雷じゃ、何も出来ない。
だから俺はその微弱な要素に周囲の要素を蝕んで育つ事を許可したんだ。
残念ながら雷を取り出す時、血肉はそれに内部から蝕まれ、裂け、吹き飛んでしまう。
それはあらゆる夜魔を屈しうる神槌を振るうための生贄だ。
セィブルを超える夜魔となるためなら、俺はどんな犠牲も厭わない。他の何を踏みつけにする事も躊躇わない」
「貴方も、必死なのね」
ようやく手足の痺れが抜け始め、私はふらふらと立ち上がる。
フールーが長々と己の開発した言霊の自慢話をしてくれたおかげか。麻痺の残る内に斬られていれば、私に防ぐ術は無かったのだが。
しかしそれはフールーが己の力に酔い、機を見誤ったからではない。
饒舌さで余裕があるように見せていたが、フールーも一歩として身動きできなかったのである。
いかに小さな稲妻とはいえ、天の大業の片鱗を幾度も振り下ろしたのである。その精気の消耗たるや並みの言霊の比ではないだろう。
他の命を屠って行使する言霊など、要素の反感を買い易く、要素の支持を得られなくなる。そこに立っているだけでもどこか周囲に孤独に似た寒さを感じているだろう。
何千に及ぶか分からない獣達を従えても、稲妻を用いるがため、彼はあらゆるものから距離を置かれてしまう。
その寒さが、彼の消耗からの回復を遅れさせ、私に自由を取り戻す時間を与えたのである。
「でも、何もかもを犠牲にしてまで手に入れるべきものなど無い」
剣を振るうに足るだけの力が腕に戻ったのは、私もフールーもほぼ同時であった。
互いに弾けた様に駆け寄って、それぞれの剣に全力を込めて打ち合わせる。
私はフールーの体内の精気の揺らぎが治まる前に、フールーは私の痺れが全て抜け切る前に、相手の剣を押し切ってしまおうと渾身の力を振り絞る。
「貴様に分かるものか。セィブルの血こそ、何を犠牲にしても手に入れる価値のあるもの。生まれた時からそれを手にしている貴様に分かって堪るものか」
「ロウチェという夜魔も私の血を欲しがっていた。でも彼女は、仲間を自らの手で犠牲にはしなかった。その卑劣さに心を腐らすよりも、潔く果てる道を選んだのよ」
「黙れ。潔く果てた? 諦めた、の間違いだろうが。なぜいつも弱い者が諦めねばならないんだ? なぜいつも強者が全てを奪っていくんだ?
どんな事をしてでも、たとえ卑怯と罵られようと、その非情な法則を覆そうとして何が悪い?」
フールーは眼を血走らせ、牙を剥き出しにして叫び続けた。
その咆哮に彼が積み上げてきた全ての憤怒が満ちていて、私はたじろぎそうになる身体を必死に支える。
「獣ども、何をぼうっと見ている。こいつの首でも腕でも、どこか牙の立つところを探して喰らいつかないか!」
だがフールーの言葉に応じる狼は居なかった。皆、稲妻の糧とされるのを恐れているのである。
フールーが父セィブルに近付くために犠牲にしたのは、何よりも彼らからの信頼だったのだろう。
「言ったでしょう? 貴方のそれは裏切りだと。結果は同じ犠牲なのだとしても、敵対者の手にかかるのと、味方の牙に伏すのでは心証が違う。
感じるでしょう? 従う者の命さえ生贄にする貴方に怯える要素を。貴方に従う事を拒む要素の動きを。
分かるでしょう? それと同じ事が、狼達の心の中でも起きているのよ。
残念だけど、もう言葉だけの指示では、彼らを動かせないわ」
狼達はフールーと本質を同じくする者達である。その言霊による命令には従わざるを得ないだろう。
しかし逆を言えば、もはや彼らの心を失った今、フールーは言霊を用いる以外に獣の牙を動かす術が無いという事でもあった。
フールーは折れた牙をぎりぎりと噛み締め、威風を発するが、それは獣達を尚更怯えさせるだけだった。
「だったら、そこに倒れてる奴の首筋でも噛み千切っていろ。無抵抗の奴にさえ牙を立てぬと言うのなら、我が眷属と言えど、どんな庇護も受けられないと思え」
獣達は尾を腹の下に巻いて低く呻く。
彼らとて一度はフールーに己の運命を全て託した。
今フールーを見限れば、後は弱者として生きていくだけである。
獣なのだから、それが分相応の当然だとも言えよう。しかし一度でも希望を見てしまったならば、その後の平凡な現実はあまりに色褪せて淡く、惨めに見えてしまう。
まず初めに動いたのは獣面の夜魔だった。彼らはもはや獣に戻る事も適わず、生みの親であるフールーを失えば夜魔として生きる事も難しい。彼らは咆哮を上げ、獣達を掻き分けてラバンの方へ向かう。
それに触発されて獣達も動き始める。
ラバンは大地に横たわったまま、彼らの咆え声が聞こえている様子は無い。あの激しい雷雲に包み込まれたのだ。全身の麻痺はそう容易く抜けるものではないだろう。
フールーは己の指図が通った事ににやりと笑みを漏らす。彼も己がどれほど苦しい状況に居るかを理解しており、命令一つさえ通るかどうか不安なのだ。
私はその笑みが生んだ油断を突いて、彼の剣を横に受け流す。フールーは意表を突かれて僅かに体勢を崩すが、すぐに立ち直って荒々しく横一線に剣を振り抜いた。
しかしその一振りは粗雑で大きく、私は容易く避けてフールーから距離を取る。
フールーは次の私の一撃に備えて身を低く構えるが、私が今目標としているのは彼ではなかった。
まさにその牙をラバンの心臓に突き立てんとする獣面の夜魔に向けて、私は剣を放り投げて、その夜魔を貫いてからもラバンを守り続けるよう剣に命じる。
一度窮地に立っていながら、今再び剣を手放した私を、ウルがここに居れば、ラバンの意識があれば、散々に諌め罵ったはずだ。
むろん、口を動かす事の出来るフールーは私を嘲笑して剣を振り上げながら迫り来る。
「また同じ過ちを。黒衣で獣どもの牙は防げても、俺の牙は防げんぞ」
だが私は何もかもを守りたいのだ。
私の命を守るために、何かを見捨てたくは無い。
何かを守るために、自分を犠牲にするつもりも無い。
ただ全てを同じ価値観で守り通すだけである。
「大地よ、尖塔のごとく隆起し、彼の者を貫く槍となれ」
私は何をするにも過ちを犯さずにはいられない愚か者だろう。
しかし同じ過ちを繰り返す、学習も出来ない愚か者ではない。
何の考えも無しに剣を手放したわけではなかった。
父の血に頼った言霊で土に触れれば、忽ちその一握りが鋭い穂先を携えてフールーを貫かんと急速に伸びる。
もちろんフールーはそのような単純で直線的な刺突など容易に避けて尚向かってくる。
私がその大地から生えた尖塔を握ると、すぐにそれは私の意に応じて長槍へと姿を変えた。むろんそれこそが剣を手放した私の新たな刃である。
横薙ぎに強く振り払った槍は轟音を立てて大気を斬る。刃に触れればフールーといえども真っ二つに出来ようが、剣の俊敏さでさえ触れられないフールーに豪重な槍が届くとは思えない。
しかし槍の作る間合いは長く、槍を避けながら私のところまで辿り着こうとしても、いかにフールーが俊足でも一度の回避では届かず、そして避けるたびに速度が殺がれ、その隙に私が後退すれば、永久にフールーは私に手が届かないだろう。
避けきれず剣で受け止めれば、それは土石を練り固めた槍である、重さに腕が痺れ足元は揺らぎ、距離は更に広がる。
私が竜巻のように振り回す槍の暴風圏内をフールーは突き進む事が出来ず、苦々しく顔を歪める。
このままこれを続けていれば、フールーは私の血を奪えず、しかし一方で私もフールーに傷を負わす事が出来ない。
私が当たりもしない槍を振り回すのは、ただ時間が過ぎるのを待ちたいからだった。
時間が経てばラバンが稲妻の麻痺から解かれ、彼がきっとフールーを仕留めてくれる。
他力本願の姿勢を笑われるかもしれないが、フールーほど力のある夜魔を私一人で退けられるとは思えないのだから、それ以外に術が無いのである。
しかしフールーもラバンを自由にはしたくない。業を煮やしたフールーは私に手を差し向け、言霊を叫ぶ。
槍の作る暴風圏内には獣達も入れず、彼らを犠牲にした稲妻も私までには届かない。
彼が選んだのは極純粋で、しかし強制力の高い言霊だった。
「我、命ず。屍の娘、動きを止めよ」
その言葉を聞いた瞬間、全身が凍りつく。まるで皮膚の内側から紐を結んで引っ張られるようだ。
だが動きを止めれば忽ちフールーに心臓を貫かれる。
私は激しく叫んで威風を発し、その糸を断ち切ってまた槍を振り続けた。
フールーは仲間を犠牲にした事で、要素と敵対してしまった。稲妻に焼かれて消えていった狼達が霧散して周囲の要素へ溶けていっているのだから当然である。
フールーがどれほど高位の夜魔であろうと、要素の支持を受けない言霊には本来の一割程度の力も宿らない。
何度束縛を試みようと、私はその度にそれを断ち切る。束縛の力と断ち切る力、私達は互いに同じだけの消耗を続け、その距離は平行線を辿る。
そうする間にもラバンは少しずつ自由を取り戻していくだろう。
フールーは何を思ったのか、唐突に私とは全く関係の無い方向に走り出す。
獣面の夜魔を一突きに伏すと、無抵抗になったその夜魔を私の方へ投げて寄越す。その夜魔を緩衝材にして、強引に私の槍の内に飛び込むつもりなのだろうが、そんな獣を一人巻き込んだくらいで速度が緩まるほど、槍も私の意志も軽くは無い。
だがフールーの思惑は私の想像よりも恐ろしいものだった。
槍の穂先が獣面の夜魔を叩き伏せる直前に、フールーが再び束縛の言霊を放つ。それはほんの僅かな束縛なのだが、夜魔の身体がその瞬間に一歩分私へと近付いた。
そこで私はようやくフールーが真に狙った戦略に気付く。
焦りがフールーをそのような暴挙に及ばせたのだろう。その行為が今のような劣勢に陥る原因であろうに、彼はもはや立ち止まれないところまで追い込まれていた。
槍が獣面の夜魔に触れた瞬間、その身体がフールーの言霊によって稲妻に変わる。
己を窮地に追い込むその言霊はもう使わないだろうと思っていた私が浅はかだった。彼は心の底から、父の血を手に入れるためなら何を犠牲にしても構わないと信じている。
稲妻は槍を砕きながら私の腕まで伝わり、皮膚を焼いた。
私の身体が麻痺に揺らぐのを確認するとフールーは一息に距離を詰め、私の心臓に向けて剣を突き出す。
しかし私が咄嗟に槍を手放したためだろう、私の麻痺はフールーが期待したほどのものではなく、完全な無抵抗には陥っていない。その上、フールー自身も言霊の行使による消耗で動作に精密性を欠いている。
その突き出される剣の刃を素手で掴みとって捻る様に心臓から遠ざける。掌から血は流れるが、全てが私の方へ流れ落ちてくるように腕を挙げる。
その一突きで私の命を奪えると思っていたフールーは言霊の消耗に揺れる身体を無理矢理に動かしたので、それが失敗に終わった今、体勢の制御を失って私を押し潰すように倒れ込んだ。
大地に倒れた事で身体が土に触れる。私はフールーの剣を抑えている方ではない、もう一方の手で土から短剣を作り出すと、目の前にあるフールーの首筋目掛けて振り下ろす。フールーは私の手首を強く掴んで短剣を防ぐ。
私達は重なり合って地面に転がり、片腕で剣を相手に突き立てんとし、もう一方の腕で相手の剣を封じる。
フールーに覆い被さられ、息苦しさを感じていたが、力で劣る私は彼の身体を跳ね除ける事も出来ず、ただ必死に状態の維持に努める。
「小娘、無事か?」
ラバンが意識を取り戻したらしく、掠れた声で私を呼ぶ。
「ラバン、速く助けに来て」
「急かすな、今行ってやる。待っていろ」
待てとはラバンらしくも無い言葉だ。
恐らくはまだ口を動かす程度にしか回復していないのだろう。身体も動けば私の様子を伺うまでも無く剣にて行動を起こしているはずだ。
フールーは僅かに頭を上げ、ラバンの様子を伺い、まだ数秒の猶予がある事を確信すると、瞳に不気味な色を落として私の顔を見下ろした。
私を組み伏せながらフールーはその口を大きく開き、獣の形相を見せる。
その開かれた口に牙が輝くのを見た時、私は自分が渇きを癒すために血を吸った兎の事を思い出した。思い出したというよりも、思い知ったと言うべきか。屠られる弱者の心理状態をである。
野生の狼は獲物を狩る時、まず四肢で相手を組み伏せ、そしてその強靭な牙で肉を引き裂く。
まさに今フールーは私を組み伏せ、その顎を大きく開く。
夜魔の格を決める重要な要因にその外見や仕種の美しさがある。
フールーのその獣の野生を前面に現した姿は彼の格を大きく傷付けるだろう。しかし彼は父の血を手に入れるためなら、己の誇りも捨てる覚悟をしていた。
何もかもを犠牲にする覚悟と言ったが、彼のそれは夜魔の考えうる限界を逸脱している。
フールーは父の血の誘惑、いや、父自身の持つ魅力に狂わされてしまったのだ。
近づく者は夜魔さえも惑わし、破滅に導く。それもまた、父の血が授けた恩恵なのか。
私は心にふと哀しみを覚え、フールーを見上げる。
フールーは小さく唸る様な咆え声を発し、次の瞬間にはその牙を剥いて私の口元に喰らいついた。
抵抗する術も無いまま口内を貪られ、その不快感が私を支配する中、奇妙なほど鈍い痛みと共に、舌を噛み切られ、奪われた。
口中に自身の血が溢れ出すが、舌が無いためその味は感じない。ただ鼻腔に錆の匂いが尋常でなく広がる。
フールーは私のまだ脈打つ肉を銜えながら、恍惚とした表情で唇を離す。
恐らくそれは私が血を奪われたからだろう。ラバンが威風を発し、彼の周囲を飛び回っていた私の剣を掴んで投げると、フールーを貫いて吹き飛ばした。
私は父の血を守れなかった屈辱に塗れながら、一人で大地に倒れたまま天を眺める。
フールーは精霊銀の剣を腹部に突き刺したまま、銀に自らの要素を蝕まれていく事も意に介さず、優越感とこれから訪れる栄光によって堪えようの無い高笑いを漏らす。
ラバンが走り出す音が土の中を伝わり、私の耳に届いた。きっとフールーが父の血を己がものとして手の届かない強大な夜魔に変わる前に、無我夢中でぼろぼろの今のうちに斬り捨ててしまうつもりなのだろう。
「やめて、ラバン。もう良いのよ。闘争は終わり」
「何を悠長な。力を手に入れる前に仕留めねば、取り返しのつかぬ事になるぞ」
「その心配は要らないわ。落ち着いて、ラバン。貴方もまだ身体が痛むでしょう?」
私はゆっくりと立ち上がり、口元の血を拭う。失った舌や頬の肉はすぐに再生した。
フールーは勝ち誇ったように私とラバンを見下し、笑う。
「そうだぞ、ラバン。セィブルの力を手に入れたら、被造者の娘や子守など相手にしないさ。だからそんなに怯えるなよ。古馴染みが念願を果たしたんだ、もう少し嬉しそうな顔をしたらどうだ? 何ならアンタも臣下に加えてやるよ。平伏してこれまでの非礼を詫びるなら、の話だがね」
そう喋りながら、フールーは私の舌を何度も噛んで味わい、ようやくずるりと飲み込んだ。
その挑発にラバンは荒らぶるが、私は懸命にそれを抑えるよう頼み、ラバンの闘争心を静める。
「フールー、ラバンを侮辱しないで。
貴方に彼を貶める権利は無い。
ラバンは言う通りの子守りだし、そのせいで古のそれとは比べようも無いほど衰えているのも確かかもしれない。
だってラバンは何も食べていないんですもの。仕方が無いでしょう?」
フールーは私の下らない発言に気分を害したのか、私の剣を引き抜くと、こちらに投げて寄越した。
「だが俺が勝った。
結果はそれだけだよ。言い訳は聞きたくないね」
「でもラバンがまだ失っていないものがあるわ。
それは、誇り。
ラバンはどんなに辛くても、それだけは守り続けた。
私の血を奪おうと思えば、いつでもそれが出来る距離に居たのに、そうはしなかった。
屍以外を口にする事を禁じられ、力を蓄える事も出来ず、父との差は広がるばかりなのに、安易な道を選びはしなかった。
それは彼に、誇りがあったからよ。
分かるわよね? 誇りって――、貴方が失ったものよ」
「小生意気だね。
折角、見逃してやると言っているんだぞ?
命が惜しいなら、身を小さくして震えていろよ」
フールーが剣の切っ先を私の胸に当て、軽く手を突き出せば心臓を切り裂けると、私を脅す。
「何もかもを捨てた貴方にラバンを笑う資格は無いわ。
それにもう貴方は、笑う事も出来なくなる」
フールーの突き付ける剣が小さく震えだす。
その時はフールーもなぜ己が震えているのか分からないようだった。
だがその震えは徐々に激しさを増し、すぐにフールーの全身が痙攣するようにがくがくと揺れ始める。
自身の身体に起きた異変に戸惑い、震える右手を左手で支えるが、その左手も歪み、重力の向かう方向も分からなくなって崩れるように倒れ込む。
「貴様、何をした? 俺の身体に何をした?」
フールーは恨みを込めたような視線で私を射抜く。
私はただ静かに左右へ首を振った。
「私は何もしてないわ。
貴方が夢中になり過ぎただけよ。父の血を手に入れる資格さえ捨ててしまっただけ。
牙は折れ、全身傷だらけで、仲間を裏切り、要素に見放され、誇りも捨てた。
そんな貴方が持っている器に、父の血は大き過ぎる。濃すぎる。もはや受け止めきれない」
フールーは私の言葉が理解出来ない様子で唖然としていた。
その間にも彼の眼球は両端から充血が進み、鼻からもつうと血が垂れる。
「ごめんなさい。貴方が形振り構わず振る舞い始めた時から、私はもしかしたらこうなるような気がしていた。
何とか耐えて、何とか凌ぎ続ければ、最後は父が貴方を殺してくれるんじゃないかって。
そう気づいたのに私はつい、黙っていてしまった。
ごめんなさい。貴方はもう、死んでしまう……」
「な、何を言っているんだ……? セィブルが、俺を殺す、だと……?」
垂れた血に触れ、指先に付着したほんの一滴の赤い染みを、フールーは戸惑うような、恐れるような虚ろな目で見つめた。
「夜魔が夜魔を食すというのは、それもまた一つの争い。
貴方は私との争いに勝利したけれど、そのために形振り構わずくたびれ果てた今の貴方は、その父の血との争いに敗れようとしている」
「馬鹿な。たった一片の肉だぞ。たったそれっぽっち血に、この俺が負けると言うのか? たった数滴の血を受け入れる力も無いと言うのか? この、曲天真君が?」
「残念ね。そう呼ばれた時の勇壮な貴方なら……、いいえ、誰かに付けられた名前で満足してしまう前の、父に従うことを拒み続け逃れ続けていた頃の貴方なら、その程度の血、容易く自分のものに出来たのかもしれない。きっと貴方は焦り過ぎたのよ」
私の冷めた口調が蔑みに聞こえたようで、フールーは何か悪態を叫ぼうとした。しかし肺を破って溢れた血液が喉を駆け上がり、激しく咽び返してしまう。
父の血はフールーの体内を駆け巡り、内側から蝕んでいるようで、フールーは異物感に強く発熱する身体を皮膚が剥げそうなほど掻き毟る。
ほんの僅かな血に内部から肉を引き裂かれ、次々と内出血を起こし、フールーの青白い皮膚は次第に赤黒い斑に覆われていく。
フールーは全身を抱いて苦しそうに悶え呻き、大地に頭と言わず身体と言わず激しく打ち付ける。痛みと苦しみがフールーの格を凄まじい速度で下落させていく。
私の中に流れる血が、これほどの苦痛と不幸を生み出すものかと密かに恐怖した。
甘い匂いで夜魔を引き寄せながら、触れれば猛毒のように侵すなんて。
「お前に罪は無い。だが、苦しみを覚えるなら、身を守れる力を持て」
私の怯えを察してか、ふとラバンが呟く。
「俺はいつまで頼りになれるか分からんぞ」
その無表情な言葉により深い哀しみを覚え、私はラバンの顔を見られなかった。
フールーは苦しみながら地を這いずり、その震える手で私のドレスの裾を掴む。口を開くたび血を吐きながら、それでも必死に私を見上げて何かを訴えかける。
爪の間からも血は滲み、瞳の充血は既に裂け、片目を潰して溢れ出ている。
彼の苦痛たるや想像も及ぶまい。
その悲惨な姿に彼の眷属達はなす術も無い事を悟り逃げ散っていった。
「俺の中からセィブルの血を吸い出してくれ。もう奴の血は要らない。苦しいんだ。身体の中を焼き鏝で裂かれるみたいに」
「私が父の血を吸い出せば、苦しみは治まるかもしれない。でも父の血だけを選べるほど私は器用じゃない。貴方の命を奪わない保障は全く無いわよ」
フールーは全身を激しく痙攣させ、その眼窩からは涙のごとく滔々と血を流し、ただ必死に苦痛からの解放を求めた。
彼の性質からすれば、死を求めているのではないだろう。
ただ父の血が彼の内に起こす破滅が、死よりも恐ろしいのである。
私はフールーの求める通りに、彼の身体を抱き寄せ、上着を剥ぎ、そのしなやかな首筋を露にする。
そしてそっと唇を寄せ、牙を立てると、内出血ではちきれる寸前だった皮膚が弾け、どろりと熱い血が喉の奥まで勢い良く流れ込んできた。
フールーの香りがする血に混ざって、時折父の血が私の体内に戻ってくる。
その度に痛みが引くのか、フールーは恍惚とした表情で溜息を吐く。
二つ名を持つ大魔の血は刺激的で、仄かに甘く、微かに苦く、錆が舌を痺れさせる。荒々しい力を秘めた血液だが、私の体内に落ちると忽ち父の血に屈服し、馴染んでいく。
血を吸うほどにフールーの痙攣は小さくなっていくが、生命の本質たる血を失っていくために死の弛緩が広がっていく。フールーはもう自身の意思では指一本さえ動かす力も無く、だらりと全身を私に預けてくるので、私は彼の身体を落としてしまわぬように強く強く抱き支えた。
「あぁ、こんなはずじゃ、無かったんだけど、なぁ。」
私にさえ聞き取れないような微かな声でフールーは呟いた。
そして長い長い溜息を吐き終えた時に丁度、彼の内包していた血液が全て私の中に移った。
フールーは眼を開いたまま息絶え、死後もどこか狂気を映す金色の瞳で何かを虚ろに眺める。一方は潰れてしまったが、残された眼球はまだ綺麗な色をしていた。
「ラバン?」
「同族を食う気にはなれん」
ラバンは私の顔も見ずにそう言って、フールーの身体を受け取らなかった。
彼の言う通りだ。
私の瞳はその外観を第一に見る。故に人間も夜魔も同じように捉えてしまい、得られる力の差はあれど、その血を吸う事に心理的な差は無い。
だがラバンの見る人間は食すべき獲物で、夜魔は自身と同じ類に属する者達なのである。
夜魔の本質はそれぞれといえども、同族食いに嫌悪を覚えるのは無理の無い事だ。
私もラバンのように自らのおぞましさから目を逸らす事が出来れば幾分かは気も楽になったろうか。
私が両手を緩めると、抜け殻の身体はぐにゃりとだらしなく崩れ伏し、生前であれば疑いなく屈辱を覚える滑稽な姿勢に留まった。
天頂高くに昇った月だけが、フールーの最後を哀れんでいた。
フールーの血を我が身に収めてこそ確信する。
彼の力で稲妻を扱うのは大変な過負荷であっただろう。いや、天の運行であるそれを容易く操れる夜魔など少ない。
フールーが敗れた原因を私は急ぎ過ぎたためだと言ったが、それだけではなかった。
稲妻という分不相応な言霊に頼り過ぎたのも敗因。
しかし一方で稲妻を用いなければ、勝機は無かったのも事実である。
稲妻を自在に操れるようになるまで、自身の格が高まるのを待つべきであっただろうか。
だが彼を焦らせたのは、何よりも私の成長が侮りがたい速度であったからだろう。
私がフールーを脅かすほどの階位に上がるには、まだかなりの時間を要しただろう。しかし生まれて数ヶ月も経たぬ内に下位の純血種に比肩する成長力が彼を焦らせた。
稲妻を使えば勝てず、使わずとも、勝てず。
焦れば敗れ、待っても敗れる。
フールーが父の力を手に入れる可能性は、初めから無いに等しかった。
だが何かの夢を見て、火中に身を投げてしまい、挙句の果てに屍だけを晒して逝ってしまった。
その屍も長い時間を必要とする事無く要素を散らして大気や大地に還っていくのだろう。
一人の力ある夜魔の消滅に、要素は怯え、戸惑い、さめざめと泣くような独特の振動を、甲高く叫ぶ悲鳴に似た昂ぶりを見せる。
むろんそれらは実像において限りなく静寂で、ただひたすら虚構を聞く夜魔の耳にだけ煩かった。
それが私に出来る唯一つの礼儀だろうと、フールーの身体が少しずつ泡のように弾けて消えていくのをじっと見ていた。
そんな中に突然、要素が一斉に静まり返るのを感じる。
ふと視線を上げれば、優しげな光を降り注ぐ月の中から何者かが駆け下りてくるのが見えた。
「下がれ。」
ラバンが叫び、私の肩を掴んで後方に引き倒す。私は突然の事に足を絡ませ、ラバン諸共に転倒した。
辺りに凄まじい衝突音が響き、やや遅れてやってきた一陣の風が艶やかな花の香りを運ぶ。
衝突の土煙が晴れる中、爆心地に取り残されたフールーの身体が、頭部からゆっくりと真っ二つに裂けた。
その左右に分かれてしまった顔には屍でありながら驚愕と恐怖を映しているように見えた。そしてもう一度地面に倒れるよりも先に要素を散らして消えてしまった。
自然に還っていく要素を、その中心で無表情に見送るのは、私の愛らしく残酷な妹、ベニメウクスである。
「お父様の血を奪われたわね、お姉さん?」
次話更新10/12(金)予定
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