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ヤミヨヒメ  作者: 二束
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ヤミヨヒメ  -ソウレツ-

 数日が経ち、街には肌を切るように冷たい風が吹いていたが、降り続いていた長雨は止み、屋敷の闇を射抜きそうな日差しに包まれた。

 ハナは私の事を誰にも話していないだろう。

 いや、正確に言うならば、彼女にかけられた呪いが、あの日の出来事を話させない。

 だがもはや私達は以前のままではいられなかった。

 私と彼女達の間にはもう、目を背けるには大き過ぎる空隙が広がってしまった。

 ハナと改めて顔を合わせたわけではない。それどころか、彼女達の屋敷がある方角に一歩を踏み出す事さえしなかった。

 ハナが私に向けた憎しみが消えるはずが無い事に気付いていたからである。

 ハナが裏切りと呼ぶ私の我が儘が許されるはずもない事に気付いていたからである。

 それは今に始まった事ではないだろう。夜魔が人間と親しくするなど、それが許されない事は最初から明らかだったではないか。

 夜魔と人間の狭間で曖昧さに浸っている事はあまりに危険である事を知った。

 私は、夜魔となる決心をするべきなのだろう。

「分かり切っていたことだものね。私は夜魔なのだから」

 敢えて言葉にして口に出せば、私自身の心に不思議なほどすとんと腑に落ちる。

 しかし、なぜだろう?

 腑に落ちた場所のその裏で、どこか居心地の悪いものもあった。

 私の心の中にある、奇妙な異物のようなもの。

「これってもしかして、この身体が僅かに引きずってきた人間の心の名残かしら」

 私が戯れにそうウルに尋ねると、彼は表情一つ動かさず即座に答える。

「そのようなはずはありません。以前その身体の持ち主であった人間は死んだのです。確かにその屍からお嬢様は生まれましたが、お嬢様とその人間との間に繋がりはありません。死ねば、それで終わり。その先には、続きも、名残も無いのです」

 ウルはそう言って、私の陳腐な仮説を一蹴にて終えさせる。

 確かにその通りだ。私に人間であった記憶など無い。

 それはきっと、私が純血種でも被造者でもない不完全な夜魔ゆえ、心さえも不完全なのだろう。

 そしてこれは、人間との決別の時か。

「フレスベルク家のご令嬢、一緒に来てもらえますか」

 人間には見えるはずも無い、屋敷へと繋がる暗闇の小道に、ロベルトは灯火を手にしながら立っていた。

 いや、その場所はまだ辛うじて日の光が届く。

 ロベルトが立っていたのは、人間と夜魔の境界線の上だった。

 彼の姿は、人間の世界へと出向こうとした私を遮る門番のように見えた。

「気付いたのね」

 ロベルトに言われるがままに、私は導かれ、どこかに連れ去られる。

「えぇ、それが僕の生業ですから」

「まさか、ハナが話した?」

「彼女は怯えたままで、何も。でもそれは話しているようなものです。疑っている者が彼女を見れば、すぐに気付きます」

 昼の喧騒を抜け、一度街の外に出ると、そこは隔離されたように果てしなく静かであった。

 人々の活気ある声が遠雷のように微かな響きを届け、そしてそれさえも林の中に分け入れば聞こえなくなった。

「いや、正直に言えば、僕一人では全く気付きませんでした。ご令嬢の様子が妙だと思ってはいたけれど、悪魔について何か知っているだろう、あるいは悪魔に魅了された憐れな人なのだろうと、その程度に思っていた」

 ロベルトはぴたりと歩くのを止め、振り返る。

 その視線は既に、悪魔を狩る者としての鋭い眼差しに変わっていた。

「だがまさか貴様自身が、悪魔であったとは。あの時は、人の生き血を吸い尽くす貴様の姿に、驚くよりも恐怖に足が竦んだ。貴様から数歩の距離にハナが、僕の大切な友人が居たというのに、竦んで一歩も動けなかった」

 そうか。ロベルトは私がルゥセトを滅ぼし、そして傷付いた娘の血を奪い尽くす様を見ていたのか。

 どうやらこのロベルトという男は夜魔の、闇の気配に敏いらしい。

 と言うよりも、闇を見るのに慣れているというべきか。

 普通、人は明るい方を向く。それは闇を恐れ、光を好む人間の本能的なものだが、極稀にその本能が狂ってしまった人間もいる。

 いつかランスと行った街で会った、なんとか言う貴族の男もそうだ。

 そして、きっとこのロベルトもそうなのだろう。

「驚かすつもりはなかったのよ。怯えさせるつもりもね」

「だが今日は違う。もう情けない姿を曝すつもりは無い」

 ロベルトの表情には覚悟の色がありありと映っている。

 夜魔を前にして恐怖を感じない人間は居ない。

 しかしもはやロベルトに混乱は無く、恐怖だけならば押し殺す事も難しくなかった。

 ロベルトはその腰に刷いた銀の螺旋剣に手をかけ、その不気味に光る刀身を抜き放つ。

 夜魔を殺すために磨き上げた人間の技術がどれほどのものか想像もつかないが、彼の表情は自信に満ち、明らかな敵意と殺意が私に向けられた。

 その鋭い視線に対し、私は咄嗟に叫ぶ。

「待って。殺さないで」

 ロベルトはいっそう緊張の糸を張り詰めさせ、眉間に皺を寄せる。

 その表情が示すものは押し殺すような怒りか。

「今更、命乞いをするのか? 数え切れないほどの人間を殺してきたくせに、いざ自分が逆の立場に追い込まれると、そんなに命が惜しいのか」

「惜しいわ」

「やはり悪魔だな。どんなに容貌は美しくとも、その中身は傲慢で浅ましく、醜い。そんな命を乞うたところで、神が許すはずも無い」

 ロベルトは剣を強く握り直し、駆け出すために重心を前方に傾け始める。

「待ちなさい」

 私は急いで、彼の身体を言霊で縛った。

「ロベルト、貴方は勘違いをしているわ」

 彼は束縛を振り解こうと苦心しながらも、訝しげに私の顔を見る。

「私が乞うているのは、貴方の命よ。惜しんだのは、貴方の命。もしその敵意でその一歩を踏み出していれば、貴方は助からなかった」

「何を、言っているんだ?」

「自分の首に、手を当ててみれば分かるわ。そっと、慎重に、気をつけて触るのよ」

 ロベルトはゆっくりと己の喉に手を近付ける。

 そしてある時、ふと指先に触れる冷たい刃の感触に気付いたのだろう、彼の額から一気に滝のような汗が吹き出した。

 その存在に触れられてしまえばもはや隠れている意味も無い。身を包んでいた闇を払ってラバンが姿を現す。その手に握られた大剣は髪の毛一本の隙間を残して、ロベルトの首に添えられていた。

「もう、剣を下ろしてあげて。そのままでは呼吸さえ満足に出来ないわ」

 あまり気乗りはしないようだったが、ラバンは私の求めに応じた。

 強く張り過ぎた緊張の糸がぶつりと切れたのか、ロベルトは崩れるようにその場に座り込む。

「お前に敵意を向けた者まで助けるつもりか? お人好しにも程がある」

「彼に私を殺す力が無い事くらい、ラバンなら分かっていたでしょう? ラバンに護衛の命令は働かなかったはずよ。それなのに、貴方は彼を殺めようとした。何か嫌な思惑を感じるわよ、ラバン?」

 私がそう言うと、彼は苦々しく顔を歪めて、小さく舌打ちをする。

 およそロベルトを殺めれば、私がその血を吸うとでも考えたのだろう。そして血を奪い終わった後の身体はラバンのものだ。

 ラバンは身勝手な私の食事に翻弄され、満足に力を補給出来ないでおり、その好機に一案を持ち及んだとしても仕方が無い。

 それほど、夜魔にとって飢えとは耐え難いものなのである。

「ラバンは下がっていて。これは人間に関わり過ぎた私の責任だわ」

「良く自覚しているじゃないか。そうまで言うなら、好きにすれば良い」

 ラバンは苦笑しながら、また姿を消した。

 私はすらりと剣を抜き、そしてその切っ先をロベルトの方に向ける。

「僕を殺すのか?」

 ロベルトは冷や汗を拭って再び立ち上がり、剣を片手で持ち、半身に構える。

「殺して身を守れるならそれも良いけれど……。だけど貴方のような狩人は他にも大勢居るのでしょう? だったら貴方を殺めたところで身を守ることにはならないわね」

 ロベルトはその懐から取り出した銀のナイフを、鋭い動作で投げつける。

 人間も鍛錬次第でこうも素早い投擲を行うものかと感心したが、所詮は人の技であり、それを防ぐ術は数千とある。むしろその銀の要素でさえ、人間のために夜魔である私と敵対する事に怯えている。

 足元の小石を剣の切っ先で弾き、迎撃に向かわせると、短剣は安堵したように地に落ちた。

「人間の力など夜魔の前では全くの無力だと知ってちょうだい。夜魔を狩るなんて、夜魔と人間の間に余計な争いを生むような真似はもうしないと誓ってもらうわ」

 ロベルトは続けて幾つも短剣を投げるが、私はその全てを容易く払う。

「余計な争い? 何の罪も無い人々をいとも理不尽に殺しているのは悪魔の方だろう。争いを投げかけたのは貴様達が先だ。その復讐を、余計だと、無駄だと言うのか?」

 ロベルトが彼の傍にあった木の幹を叩くと、私を取り囲む木々の枝葉の陰から無数の矢が放たれた。

 それらは私を仕留めるため事前に仕掛けられていたのだろう、全てが銀の鏃を構えて飛来し、あらゆる角度から私を狙う。

 当たる見込みも無いナイフを幾つも投げ続け、ようやく仕掛け矢の暴風圏に私を誘い込んだつもりか。ロベルトは形勢逆転を確信したのか、その瞳が僅かに笑む。

 だが私は誘われて追い込まれたわけではない。人間の策謀など全て無駄である事を示すべく、敢えてそこに足を運んだのだ。

 林が作る自然の中に、仕掛けが放ついかにも不自然な要素が点在していた。巧妙に擬装はしているようだが、要素を見る夜魔ならば仕掛け罠の存在を見破る事は難しくない。

「燃え落ちよ」

 そして私のその一言だけで、全ての矢の矢柄と羽根に火が灯り、忽ち燃え尽きると、姿勢を崩した鏃は悉く飛行能力を失った。

 全ての矢がおよそ同時に燃え上がったため、その炎はあたかも爆発のように渦巻き、激しい気流の波がロベルトに吹き付ける。

「復讐? 私は貴方の恨みを買った覚えは無いのだけれど。それを復讐と呼べるのかしら?」

 私が歩めば炎が私の靴を焦がすまいと道を空けてくれる。

 その様を見てロベルトの表情にまた恐怖が滲み出てきた。

 こんな化け物は見た事が無い。

 声も出せずに薄く開かれた彼の口はそう言って諦めてしまいたいだろう。それでも屈せずにいるのは彼の信念が全身の震えを何とか抑え込んでいるからか。

「腰が抜けそう? こんな高位の夜魔と対峙したのは初めてなのでしょう?」

「これが、魔術。神の摂理を覆す、悪魔の所業か」

 言霊を見るのも初めてなのだろう。

 いくら狩人と呼ばれるまでの名声を得ているとしても、たかが人間の技術で高位の夜魔を仕留められようはずもない。

 しかしそれでも彼がそれを生業としていられたのは、これまでに対峙した夜魔が全てその技術で足りる程度の低俗な夜魔であったからに違いない。例えば、夜魔と呼ぶには力足らず、獣と呼ぶには力余る、言葉を解する巨熊などである。

 高位の夜魔は、その外観では人間と見分けがつかない。しかし私に気付いてしまったロベルトは不運と言うほか無い。

 ロベルトは無知から安易に矛先を向けてしまった。そして争い始めた以上、もはやどちらかの槍が折れるまで争いを終える事は出来ないのが道理である。

「この下衆な悪魔め、この程度で屈すると思うなよ」

 ロベルトは懐から小さなガラス瓶を取り出し、コルクの栓を抜く。

 瓶から零れる液体はただの水のように見えるが、しかし教会の空気と同じような、夜魔に反する強い気配を感じた。

 ロベルトはその水で自身の両手と剣とを洗い清める。その清らかな水は剣に刻まれた螺旋の溝を満たし、銀の輝きをよりいっそう強めた。

「ロベルト、私の事を悪魔と呼ぶのは止めてくれないかしら?」

「人を食う化け物を悪魔と呼んで何が悪い? 貴様はそう呼ばれるだけの罪を犯してきたという事だ」

 そう叫ぶと同時に、ロベルトは大きく踏み込み、螺旋銀の刃が突き出される。

 そのしなやかな筋肉を十二分に用い、また弾ける様な気迫で実際の力よりも強く鋭く感じられる。

 しかしそれもやはり人間の限界を超えはしない。

 人間の常識では私のような細腕でその剣を払い退ける事など出来ない。

 だが夜魔の腕には様々な要素が付き従う。私自身は力を込める必要も無いまま、剣が勝手に彼の刃を受け止めるのである。

「私は貴方に何か悪事を働いた? 理由も無く唐突に、悪人、と呼ばれて貴方は良い気分でいられる?」

 夜魔自身は自分達を呼ぶ言葉を作らない。

 言葉を欲したのは人間で、私達を呼ぶために彼らは、夜魔、魔物、化け物と様々な言葉を作り、そして私達もそれを利用した。

 魔とは人智の及ばぬ、理解の域を超えた力を、そしてその所有者を呼ぶ言葉だ。だから私達を魔と呼ぶのは理に適っていよう。

 しかし理解も出来ないというのに、なぜその力を悪しきものと決め付け、憎みなじるのか。

 悪魔と呼ばれる度に、私は不当に評価され、貶められている気分になるのだ。

「貴様は人を食った。それが理由だ」

 ロベルトは諦める事無く、しなる枝のように次々と左右から斬り返してくる。

「生きるためでも? 人間だって、己より弱いものを殺して生きているでしょう?」

「人間は、悪魔のように生き血を啜ったりはしない。生きている内から臓物に食らいついたりはしない」

「犬を使い、馬を使い、恐怖で散々に追い回した挙句に、一矢では仕留められずに幾度も刃を突き刺して狩る。そしてその時、人間は意気揚々と悦に入った表情を見せるわ。それが果たして私達よりも善であると、貴方は自信を持って言えるの?」

「黙れ。悪魔の言葉は一見理あれども、結局は人を騙し堕落させるものだと、神は説かれた」

 ロベルトが剣を振るうたびに、螺旋銀の吸い上げた水が雫となって飛び散る。

 人の思念の染み込んだその水滴は私に従属する闇をほんの僅かだが蝕んで蒸発する。

 削られた闇はすぐに繕われ、その雫が私の肌に届く事は無いのだが、人間が持つ信念、いや夜魔への憎しみと執念に驚かされる。

「言葉で心を折れると思うな。貴様の言葉に堕ちるくらいなら、斬り殺された方がましだ」

 斬り殺された方がまし?

 そのつもりがあれば、もうずっと前に事に及んでいる。

 人間の理解力はあまりに乏しい。不相応に知識が多く、理路整然と物事を考え過ぎるのだ。

 私が彼らの常識から外れている事は理解出来ても、どれほど外れているかを測る事は出来ず、ゆえにその先の思考が全く的外れなものになる。

 ロベルトの突き出した刃を弾いたその瞬間に、私は既に彼の後方十歩ばかり離れた距離にまで移動出来る。

 それは純粋に速さの問題だというのに、ロベルトは幻覚にでも惑わされたつもりでいるのだ。

 だからその幻覚の仕組みを解き明かせば、まだ己に勝機が残っていると思っている。

 それこそが幻想だというのに。

「なぜそんなに夜魔を憎むの? 他の誰が殺されようと、貴方はまだ生きている。貴方を大切に思う人もいる。夜魔に挑むという事は、全てを失うという事なのよ」

 突き出された刃を剣で絡め取り、そのまま天に放り投げる。螺旋剣は二度三度と煌めきながら回って落ち、地に突き刺さった。

 そして喉元に突き付けられた切っ先の鋭利さにロベルトは大きく唾を飲む。声を出せばその震えで刃が首を裂いてしまいそうに思えただろう。

 私は彼の憎しみの根源が知りたくて、剣を引く。

「貴様に話して何になる」

「狙われる理由も分からないまま、納得出来るとでも?」

 ロベルトは心の底から夜魔を憎んでいるようだった。口は堅く、頑なに殺せと喚くばかりである。

 殺めるのは容易いが、それでは残された者達が哀しむばかりで、何も解決しない。

 何を解決と呼ぶのかは知らないが、彼を殺める事だけは違うと分かっていた。

 私はロベルトの瞳を強く見つめる。夜魔の視線に見竦められ、ロベルトも合わせた視線を逸らせない。

 ロベルトの心には幾重もの扉と錠が連なっているだろう。

 しかし夜魔の視線に込められた強い畏怖と魅了の力を注ぎ込めば、錠の幾つかは緩む。

 私程度の瞳に言葉を強いる力は無いだろうが、誘い出すには十分であった。

「七年も前か。貴様ら悪魔に奪われたんだ、家族を、そして大切な婚約者を。

 その悪魔は暗闇の中から突然現れ、不気味な声で皆を震え上がらせた。

 圧倒的な力で全てが薙ぎ払われ、当時の僕には抗いようもなかった」

「その夜魔に大切なものを奪われたのね。それも、貴方の目の前で」

 夜魔は人を食す事に何の罪悪感も無い。ゆえにその行為は何とも堂々と行われる。

「姉も妹も、エルミナも、皆必死に命乞いをしたんだぞ。

 聞く耳も待たないのならまだ良い。だがそいつは言葉の意味が分かっていながら、懇願する彼女達をいとも面白そうに食い荒らし、恐怖するほど旨そうに笑みを浮かべていた。

 目の前で最愛の人が食われていく様を、少しずつ少しずつ削られるようにこの世から消えていく様を、どんな気持ちで見ていたか貴様らに分かるか?

 いっそ殺せと叫んでも、食う以外の殺しに興味が無いと、凄惨な光景をいつまでも僕に見せ続けた。

 その時の奴の獣のような眼を、残虐な表情を、それを憎んで何が悪い。それを恨んで何が悪い……」

 何も悪くない、と言うべきだろうか。

 しかし夜魔は暴虐の生物ではない。己が食する以外の殺生など好むものではない。ロベルトが凄惨な光景を見せられたと言うのなら、それはただ目の前で食事が行われ、結果としてそれが彼にとって凄惨な光景に映ったというだけに過ぎないだろう。

 そして夜魔の表情は人間のそれと比べて陰が深く、冷酷なものだ。

 更に、飢えを満たす快感は人間などに理解しようも無いほど鮮烈なもので、時によっては笑みも零れる。

 夜魔を人間の言葉で表現するだけで、こんなにも惨たらしく語られてしまう。

 ロベルトが夜魔を憎む事になってしまったのは、それさえも不運であると言う以外にないのかもしれない。

「悪魔に挑めば全てを失うと言ったな? だがもう失って惜しい命など無い。復讐の決意だけが今の僕を生かしているんだ。憎む事でしか、もう生きていけない」

「貴方は全く何も理解していないのね。復讐? それでしか生きていけない? 短絡的過ぎる結論だわ」

「憐れな奴と嘲るなら、他の悪魔にも言い広めれば良い。人の恨みの深さが僅かでも伝わるなら、嘲笑されても悔いは無い」

「恨みの深さなんて伝わらないわ。だって私は貴方の仇でもなければ、その夜魔の事も知らない」

「だが貴様も同じ悪魔だろう」

「同じよ。夜魔であるという点ではね。でも私はその夜魔と何の関わりも無ければ、恨みを向けられるいわれも無い。それとも人間の社会では、見知らぬ他人の犯した罪で裁かれる事があるの?」

 ロベルトは小さく唇を噛み、そして微かに息を整えると、唐突に己の足をナイフで突き刺した。

 その痛みによって私の束縛が振り解かれたのを感じる。

 ロベルトは僅か一足の距離から続けざまに三本のナイフを投げると、そのまま背後に大きく仰け反り、私がナイフを払う隙に転がって距離を取る。

「復讐でしか己を保てないと言ったろう? 僕を支えているのは、復讐の決意と、それを助ける神の加護だけだ」

「いいえ。貴方のしてきた事は復讐じゃない。八つ当たりよ。それも、無意味に命を奪うだけの、とても残酷な」

 ロベルトは私の言葉を振り払うように、次々とナイフを放ち、仕掛け矢を作動させる。

 しかしもう彼自身で認めていたのだろう。

 私に殺意を向ける事が復讐とは呼べない事に。

 憎しみを失った刃にはもう鋭さが無く、私が剣で弾くよりも先に、威風に臆して自ら地に落ちた。

「ならばどうすれば良い? あの化け物を見つける術も無いんだぞ。どうやって恨みを晴らせば良い? 人間は貴様らに比べれば僅かな時間で死ぬ。僕が叫ばなければ、エルミナの死など容易く風化してしまう。僕は是が非でも、どんな大罪を犯そうとも、エルミナの仇を見つけようと」

 全てのナイフを投げ尽くし、仕掛け罠も使い果たすと、ロベルトは大地に膝を突き、仰ぐように天を見る。

「貴方は無我夢中だったのね。理解出来なくはない。でも、無関係の夜魔を殺めた。それを許す者は、

 いいえ、そんな事は分かっていたのよね。貴方は最初から誰にも許されない覚悟を決めていた」

「はは。魔物のくせに、良く人の心を読むんだな。いや、人の心を読んで、容易く挫くからこそ悪魔か」

 彼の顔に自嘲が浮かぶ。

「抗う気が失せたのなら、もうこんな事は辞めるのね。貴方の生業は夜魔と人間の間に余計な不和を生むわ。私は恨みも無い争いで命を落とす者を見たくない。それが夜魔であっても、人間でもね」

 私の言葉がよほど意外だったのか、ロベルトは目を丸くして呆けたように私の顔を見ていた。

 何らかを考えているのだろうという事は察せられるのだが、その内容は分からない。

 ただしばらく互いの顔を見合った後に、ロベルトは不意に己の髪を掻き乱し、一頻り激しく笑った。

 そして落ち着いた時には、彼の表情にそれまで映っていた押し込めたような陰りが晴れたように見えた。

「妙な事を言う悪魔だな。いや、貴様らは全てそうなのか? 皆、本当に、食う以外の殺しはしないのか? あの晩、僕が生かされたのも、そういう事なのか?」

 私は何も答えなかった。

 夜魔の中で私は不自然な存在だから、私の思考を全ての夜魔に共通するものと自信を持つ事は出来ない。

 だが、私は誇り高き精神を持つ夜魔に、理由も無い殺生を好む陰惨な質の者は居ないと信じている。

「貴様に会ってしまったのは、神の加護を私憤に用いた罰という事かな。悪魔などに己の筋違いを思い知らされるとは」

 私の沈黙をロベルトは肯定と受け取る。

「しかし、もうこの姿が僕なんだ。狩人である事を辞める事は出来ない」

「なんて不器用な」

「そうだな。だがあの晩に僕が生き残ったのも、憎しみに駆られて狩人となったのも、避けようのない運命。神が僕に与えた使命なんだ。僕は神兵としての務めを果たさねばならない」

「本当に、不器用ね」

 ロベルトは一度挫かれた敵意を再び揺り起こす。

 いや、その表情には既に死を決めた覚悟がある。

 狩人でない己をもはや忘れてしまったのだろう。今、狩人である事も捨ててしまえば、ロベルトには何も残らず、その先を生きていく自信も無いという事か。

 それも潔いと呼ぶべきなのだろうが、そこには美しさよりも憐れな哀しみを覚えた。

「神よ、僕をまだ見放していないのなら、貴方の敵を打ち払う奇跡を」

 ロベルトは横跳びにその場を離れると、螺旋剣とは別に刷いていたもう一振りの剣を抜く。

 しかしその剣は何の変哲も無いただの鉄剣で、森の獣を狩るには相応だろうが、夜魔の闇を斬る力は微塵も持たない。

 懐を探るが既に小瓶に入れていた闇払いの水ももう使い切った。

 七年間、夜魔を狩り続けた経験から彼も知っているのだろう。何の力も無いただの武器に夜魔の命を絶つ事は出来ないと。

 夜魔を消滅させうるのは、闇に反する銀の刃か、より強い闇を凝集させた夜魔の刃だけなのである。

 しかしロベルトは諦めず、首から提げた小さな真鍮の像を額に押し当て祈る。それは彼の信じる神を模った、剣とそれに繋がれる男の像だ。

 そして手の平ほどの本を開き、そこに書かれた言葉を囁くように読み上げる。まるで鉄の刃にその言葉を練り込むように。

 それは恐らく、そうする事で何の力も無い鉄に、彼の言う神の加護を、夜魔を払える力を与えたかったのだろう。

 その試みは間違っていなかった。

 しかし夜魔が教会を拒むのは、そこに神の像があるからではない。

 教会で汲み上げた水が闇を払うのは、神が清めた水だからではない。

 夜魔に傷を負わすのは神ではなく、人間の強い思いがそこにあるからだ。

 もはや闘争心を挫かれたロベルトの言葉に、彼の言う神の加護は備わらない。

 彼は狩人として生きてきた中で、鉄の無力さを知り尽くし、神が己を一度たりとも救わなかった事を、あの晩から七年、嫌というほど思い知らされてきたのである。

「キリカ、私にも書を」

 幾ら唱えても己の剣に降り注ぐ加護など何も無い。

 要素の見えない人間であるロベルトも、本能的な感覚でそれに気付いていた。

 しかし諦めきれず、他に術も無く、愚かだと自覚しながら、いつまでも続ける。

 彼がその一節を読み上げる前に、キリカが屋敷から私の本を届け、私の差し出した手の上にそれを置く。

 私が開くまでも無く、その本は私の意志を察し、言葉を選んだ。

「いつまで、わたしはあなたがたと一緒におられようか。いつまであなたがたに我慢ができようか」

「その子をここに、わたしのところに連れてきなさい」

 私とロベルトの声が重なり、歪な和音でもって空気を震わす。

「おしかりになると、悪霊はその子から」

「出て行った。そして子はその時いやされた」

 ロベルトは信じる言葉を囁きながらも、驚愕の表情で私の唇が動くのを追う。

 そして口は開けたままなのに、次の一節は音にならなかった。

「なぜ、悪魔がその書を持っている? なぜ悪魔がその書を読める? それは、神の言葉だぞ」

「あなたがたの信仰が足りないからである、と書いてある。言ったでしょう? 私は悪魔ではないと。夜魔が恐れるのは人間の信仰という名の執念。夜魔は悪ではなく、ゆえに貴方の神の敵でもない」

 一筋の風が吹いて、ロベルトの書は容易く紙を左右にはためかせる。

「生への執着を削がれた貴方の言葉は力を失い、もはやそれは何者かが残した音の連なりでしかない。私はただの音を恐れたりしない」

 ロベルトの手から鉄の剣が滑り落ち、激しい音を立てて地に倒れる。

 しかしそれでもその書だけは、硬い表紙が変形しそうなほど強く握り締めていた。

「そして次の一節は、」

「この山にむかって、ここからあそこに移れ、と言えば、移るであろう。」

「この山にむかって、ここからあそこに移れ、と言えば、移るであろう。」

 また二人の声が重なる。

 私は傍にあった木に手を伸ばし、その枝の一本に触れた。

 ロベルトは半ば茫然自失ながらも、次に起こる事を待っているのか、ただじっと私を見ていた。

「私の名をもって命じる。花、開け」

 私が握った枝は僅かに震え、そして忽ち蕾を膨らませると、季節外れの真っ白な花を咲かせた。

 他の木々が冷たい風に朱の葉を散らす中に、ただ一振りの枝だけが白く咲き誇る。

「幻覚か? それとも、悪魔の技なのか?」

「私程度の力ではこれが相応だけれど、同じ事よ、山も花も。命じれば、その通りになる。それを奇跡と呼ぶか、魔術と呼ぶか、それは人間の勝手だけれど」

 私が話し終える前にロベルトは駆け寄ってきて、私の両肩を掴むと、激しく揺さぶった。その表情に苛立ちと怒りは見えるが、殺意は無く、私は彼の望むままにさせた。

「馬鹿を言うな。神と貴様ら悪魔が同族だと? 馬鹿を言わないでくれ。人は貴様らを信じたりしない。貴様らに祈ったりしない。そうだろう? 神は、神は人を食ったりしないじゃないか」

 ラトリーヌという修道女を私は知っている。

 彼女は私を信じ、私に祈り、そして私に食われて死んだ。

「私は貴方の神のことも、他の夜魔のことも良く知らない。ただ確かなのは、これが私ということよ」

「神は光だ。貴様ら闇の住人と同じなわけがあるものか。神と悪魔は対極の存在だ」

「知らないわ。だから私には分からないわね。貴方たち人間の言う神だの悪魔だのなんていう境界線は」

 ロベルトの腕に力が入り、彼の指が私の肩に刺さるかと思うほど痛い。

「私は、夜魔の対極にいるのは人間だと、思うわよ」

「悪魔は神の対極に位置する敵だと決まって――」

「ほらね。私達は、分かり合えない」

 私は微笑んだが、ロベルトは泣いた。

 泣いて泣いて、私を掴む力がふうと抜けたかと思うと、その場に崩れた。

 彼にはもはや闘争心も信仰心も失い、その活力の無さたるや空蝉のようであった。

 私が無用となった剣を鞘に戻すと、ロベルトは何とも意外そうに、そしてどこか懇願するような目で私を見た。

 恐らくそれは死を願っていたのだろう。

 この先の生に意味はもう与えられないとでも思っているのだ。

 だからとて私に、死を与える権利も、生の意味を与える義務も無い。

 私もこの大地にただ生きているだけの存在なのだから。

「ウル、ロベルトに誓約を。もう夜魔を傷つける事の出来ないような楔を打ち込んで」

「全く危なげも無くお済みで。成長なさいましたね」

「世辞は要らないわ。人間を圧倒するなんて当然だもの。少しも嬉しくない」

 ウルに認められる事は喜べるのだが、夜魔に比べて明らかに弱者である人間を屈したところであまりに当然過ぎて、評価されるものでもない。

 いや、真実は私の心底にまだ人間と離れたくない気持ちがあるからか。

「確かに。しかし、その慈悲と無慈悲が混在する矛盾。それをいとも容易く抱えられるところが、良く似てこられました」

 私の無慈悲は、慈悲深き父譲りか。

 偉大な父の血が刻一刻と私をその色で染めていっているのだろう。

 それは確かに喜べるかもしれない。表情を崩すほどの喜びではないが。

 私は夜魔らしい冷徹な表情で、ロベルトが闇に誓うのを見下ろしていた。

 つい先ほどまで存在さえも自然に反し、全ての人間の敵だと信じていた夜魔に対して誓いを立て、ロベルトは己が世の最低の醜さまで堕ちたつもりなのだろう。

 誓いの言葉が終わると共に、また一筋涙が零れ、仰天したかと思うとそのまま後ろに倒れた。

 全身を大地に委ねたまま、ロベルトは泣きながらも、高らかに自嘲し続ける。

 争いの終わったその場にもはや用は無く、私はその笑い声に背を向けて去る。当然そこに慰めなどは残らない。

 だがロベルトがそんな事を言ったのは、慰めや救いが欲しかったからではないだろう。

 何かに飢えていたわけでもなければ、何かを欲したわけでもない。

 ただただ己を襲った理不尽さに打ちのめされていただけだ。

 人間の理解を超えた世界の光景に、涙し、笑い、叫び、あらゆる抗いを試みたのだ。

「はは。なぜ貴様らはいつも僕を生かす? それが最も酷な事だと気付きもしないで」

 もちろん、どんな抗いも世界に対しては無力だったのだが。


 明くる日の晩、一匹の黒猫が路地を抜け、私の屋敷を訪ねてきた。

 それに気付いたのはキリカである。

 二階のバルコニーに落ちた枯葉を集めていたキリカが、一心に階下を見つめながら私を呼んだ。

 しかしその時、私は部屋の中に座り、伸びてきた髪の毛先をウルが切り整え、何度も梳ってくれるのを何とも良い気分で楽しんでおり、折角憶えた言葉を必死に用いるキリカには悪いが、彼女に応じている場合ではなかった。

「キリカ、少し待っていて。これが終わったら行ってあげるから」

 キリカはまだ熱心にそれを凝視したまま、私の言葉通りに少し待つ。

 少し待ってから、またすぐに私を呼び始めた。

「もう少し長く待つのよ。必ず行くから」

 キリカはやや長く待ち、また私を呼び続ける。

「キリカ、必ず行くと言っているでしょう? どうして待っていてくれないの?」

「お嬢様、行くまで待てと命じれば良いのですよ。キリカに時間など正しく判断出来ようもないのですから」

 キリカに判断を委ねた私の非か。私が理不尽過ぎたのだろう。

 キリカはただ命令を忠実に実行する者である。ゆえに主人の言葉には驚くほど鋭敏かつ繊細である。しかし一方で、自身の中で物事を処理する能力は著しく低い。

 常にどこかが僅かに歪んだ様に佇む、その美しい姿を見ていると、つい彼女に知性が無い事を忘れてしまう。

 キリカはいつも、言葉を与えられた時の幽美と、言葉の無い時の白痴美を行き来していた。

 しかし私が改めて待機を命じる前に、ウルは全ての工程を終えてしまった。

 やや名残を惜しみながらも、キリカにいつまでも名を呼ばせ続けるわけにもいかず、私は彼女の待つバルコニーに出た。

「キリカ、いったい何を見つけたの?」

 キリカの視線の先には屋敷の巨大な鉄門があり、その向こう側の路地から小さな黒猫が真っ青な瞳でこちらを見上げていた。

 動物は人間よりも鋭敏で、尚且つ闇をさほど恐れない。その猫も人間の世界から何かの拍子にここまで迷い込んで来たのだろうか。

 いや、だがその猫は私の姿を認めると、姿勢を正し、瞳を伏せると僅かに頭を垂れる。

 私はその様に見覚えがあった。

「キリカ、ハサミと櫛を片付けよ。床に落ちた髪も掃いておきなさい」

 ウルの言葉を聞いて、キリカはすぐにその命令を実行し始める。

「ウル、面白い客が来ているわ」

 私が猫を指差せば、ウルも傍に来てそれを見た。

 門の格子は猫が身体を通すに十分な幅があるのだが、黒猫は相変わらず門の前で蹲ったまま動かずに居る。

「あの猫、見覚えがありますね」

「言われてみれば、そうね。あんなに瞳の青い猫、そうは居ないもの」

 私はウルを伴い、階下へと降りた。

 屋敷の外に出てきた私を見ても、猫は門よりこちらに近付こうとせず、私が傍に寄るのを待ち続けているようだった。

 数歩の距離まで近付いて、格子越しに見下ろすと、猫はやや怯えるように震える。

 なるほど、見覚えがあるはずである。その震える様を見てようやく思い出した。

「慈愛の姫君様、ご機嫌は如何で御座いますか? ご命令により、恐れながら参上致しました」

 口を開いた猫が平伏して喋る。

「ブルィヤールね。いつからそこで待っていたの? 猫の姿なら門を潜るのも容易いでしょうに」

 私が名を呼べば、猫は忽ち姿を変え、白面の夜魔が現れる。

 初めて会った時は一目で夜魔であると察したが、今度は遠目では気付かないほど良く化けて訪れたものである。

 この短期間で姿を隠すのが上手くなったわけではあるまい。恐らくは闇が濃いこの城の周囲では、夜魔の力を阻害する要素が極めて少ないからだろう。

 人間の匂いが染み付いた街中では、格の低いブルィヤールの力など不完全で当然である。

 ブルィヤールは視線で僅かに天空を指す。

「許しも無く勝手に門を潜っては、あちらの大魔様に何をされるか」

 その視線の先は雲の中だが、ラバンの視線が返ってくるのを感じる。

 ラバンが私に危害を加える気の無い夜魔を斬る事は無いのだが、ブルィヤール程度の夜魔にとってはただ強大であるというだけでもラバンや私が恐ろしいのだろう。

 空腹の苛立ちからか、近頃のラバンは夜魔が僅かでも敵意を持って敷地内に入ると瞬く間に処理してしまう。その早さたるや、事が全て済んでようやく私が気付くほどだ。

 そんな夜魔に見竦められては、門を潜りたくても身体が動くまい。

「猫の姿で近付くからよ。堂々と姿を曝さないから、ありもしない叛意を疑われるのよ」

「皆様のような大いなる方々の前で堂々となど、私程度の者には難しゅう御座います」

 私がブルィヤールと他愛無い話を続けていると、ウルが一つ咳払いをする。

「お嬢様、そろそろ話の本題に入ってはどうでしょう? 先に延ばしても、結末は変わりませんよ」

 いや、聞くまでもなく、ブルィヤールが私を訪ねてきた意味は察している。

 ただそれを実際に言葉として聞く覚悟を決めるまで、他愛無い話で時間を費やしたのだ。

 私は一度目を閉じ大きく深呼吸をして、もう一度前を見る。その時にはブルィヤールも表情を改めていた。

「言って」

「アンナという人間が、つい数刻前、死にました」

 アンナは、痩せ細った外見は目を向けるのも躊躇われるほどであったが、それに反して内面は凛々と美しい人間であった。

 病魔ブルィヤールの予見した通り、一月は持たなかった。

 夜魔の力を見せた私を、何の怯えも躊躇いもなく受け入れた、ただ一人の人間だ。

 もっとも、彼女は私を夢の中の妖精と思っていたのだが。

「人間は、簡単に死ぬわね。誰に殺められたわけでもないのに、勝手に生を終える。擦り減っていくように、ふっと」

「夜魔の時間は長いですから、それに比すればあらゆる生物が瞬く間に消えていきます」

 ウルはそう言うが、私の自我が芽生えてからの、ほんの僅かな時間にどれほど多くの人間が居なくなった事か。

 人の血を吸う私がそれを言うのは奇妙なものだが、ただ食すだけでなく、僅かな一時とは言え心の一部を占めた人間達も消えていった。

 これは夜魔らしからぬ感傷であろう。

「最後は、どんな様子だったの? 貴方の力で、穏やかに?」

 病魔ブルィヤールがアンナにかけた病は、全身を麻痺させ、痛みさえも鈍らせる。

 しかしブルィヤールは首を左右に振った。

「大変苦しんだようです。私は、傍に居りませんでしたから」

「貴方はアンナに憑いていたのではないの? 傍に居なかったとはどういう事?」

 見当違いにも、私はブルィヤールを責めるように言葉を強めてしまう。

 アンナのように心の清らかな者が、ようやくの平安となる死の間際まで苦しむとは、なんと痛ましい事か。

 ブルィヤールもそのやりきれなさを覚えはせずとも理解しているのであろう。私の誤った責めに抗う事無く頭を下げる。

「居なかったのではなく、居られなかったのです。

 慈愛の姫君様もご存知とは思いますが、あの屋敷に夜魔狩りを得手とする人間が参りました。

 その男、人間とは思えぬほど勘が良く、娘に近付こうにも容易くはない次第で御座いまして」

 あぁ、ロベルトか。彼はこの屋敷に続く暗闇の小道に気付いた人間だから。

 ブルィヤールが纏う程度の薄い闇は見透かされ、ただの猫ではないと知れてしまう恐れは確かにある。

「その男が屋敷に居る間、私は娘に近付けず、娘は苦しみ続けなければなりませんでした。

 そして昨晩、その男がようやくにして屋敷を去り、私は密やかに娘の枕元まで近付きましたが、私も病魔なれば施す術は無く、既に痛み和らげようとも無意味な程で御座いました。

 その時には、長く続いた痛みにもう心が屈し、間近に迫った死に恐怖を覚えていたのです。

 現実味を帯びた死の前で、どれほど身体の痛みを和らげようとも、それ以上は心のみにても苦しみ、散々に苦しんで苦しんで。

 そのうちに朝が訪れ、朝日が昇れば私は立ち去らねばならず、私が立ち去れば身体の痛みがまた戻り、心も身体ももはや限界に達し、逃げ場無く、私が猫の足で二十六歩離れた時、娘は逝きました」

 ブルィヤールがあまりにゆっくりと、そしてあまりに詳しく語るので、見てもいないのにその光景が鮮烈に思い浮かぶ。

 私は夜魔であり、人間の恐怖する顔を数え切れないほど見てきた。

 アンナの顔に浮かんだ恐怖はどのようなものであろうか。

 知識が豊富なだけに、想像力も豊かである。

「今、屋敷の様子は?」

「夜魔狩りの男は街を出ましたが、娘の死を惜しんで多くの人間が集まっております。そのため私に中の様子を窺い知る事は容易くありませんが、集まった者達の応対をしているのは屋敷の老夫婦で、娘とつがいであった男は姿を見せていない様子。恐らくは、部屋の中に籠もっているのかと」

 ランスには認め難く、耐え難い現実だろう。

 ランスのあらゆる全てはアンナを中心に組み立てられていると、ハナは評していた。

 事実そうだろう。人間の心に疎い私の目にさえ、ランスの中の重大な部分をアンナが占めていた事に気付いていたのだから。

「ウル、彼の様子を」

「様子を見に行かれるのですね? そう仰られるのではないかと、思っておりました。このところ、お嬢様は人間の敵対者としてのお姿を、甘んじて受け入れておいででしたから」

 甘んじて、とは妙な言い方だ。

 人間にとって夜魔は恐るべき敵対者であり、私がその夜魔なのだ。

 抗いもせず受け入れたように言うが、あまりにも明確な現実に抗いようもないだろう。

 夜魔と人間が混ざる術も無い、異種の存在である事は、覆しようのない現実なのだから。

「しかしもう、我慢も限界で御座いましょう? その姿勢は、お嬢様本来の質とは違う。そう感じているのは、誰よりもお嬢様ご自身ではないかと。

 心に浮かんだ欲求を否定は出来ますまい。

 偉大な夜魔として、そのような夜魔らしからぬ欲求を抱いた事がまず悪う御座いますが、抱いてしまった欲求を偽り、身と心の疎通を断つ事は尚悪い」

「行っても良いの?」

「思い浮かんだからには、お行きなさいませ。しかしいずれは、そのような不適切な事を思い浮かばぬ夜魔になって頂かねば」

 私は頷く。それが偉大な夜魔になる条件というのなら、いつか必ず身につけてみせよう。

 遥かに上位である私が、下位のウルに対して許しを請い、あまつさえ説教を受けているのである。その珍妙な光景にブルィヤールはいささか困惑しているようであった。

「ブルィヤール、貴方も用もなくここに残っては、ロザリアの機嫌を損ねるわよ。その辺りまで一緒に行きましょうか」

 私はさっさと歩き始めるが、ブルィヤールは付いて来ない。

 私が振り返ると、そこにはロザリアが居て、ブルィヤールは彼女の前に跪いていた。

「人間の葬列を見に行くのね?」

「えぇ。まさかロザリアも来るの?」

「この私がそんな馬鹿な事をするとでも? 私がわざわざ貴方の前に来る理由は決まっているでしょう。

 そんな格好で葬列は見に行けないのよ。まず全身、黒衣である事。そして女は特に顔を隠さなければいけないの。帽子か、面紗でね」

「なぜ? それに、私は黒いドレスなんて持ってないわ」

「なぜと言われても、知らないわ。葬列なんて夜魔には無い儀式ですもの。そんな事をするのは他の獣にも滅多に居ない。

 さぁ、ドレスが無いのなら諦めなさい。元々、あまり好まれた行為でもないのよ」

 私の思い込みかもしれないが、ウルの方からも、このまま諦めてくれればと言うような視線を感じる。

 私の中でも、良い機会だから諦めるべきではないかと仄かな意見が生まれる。

 しかしその時、私は妙案を思い浮かんだ。

「闇よ、絡まれ」

 私がそう口走るのを聞いて、ロザリアは大きな溜息を吐いた。

 私の言葉に従って、周囲の闇が集まり、今私の纏うドレスを形作る全ての糸に絡まった。

「これで良いかしら?」

 闇がドレス本来の色を覆い、染めたわけでもないのに、およそ瞳には漆黒に映る。

「全く、貴方という人は、馬鹿な事ばかりよくも次々と思いつくものね」

「常識外れな生まれ方をした娘だから」

 私はキリカにつばの広い帽子を持ってこさせ、それも同様に黒く見せかける。

 ロザリアは眉間に皺を寄せて苦笑した後、何も言わずに屋敷に戻っていった。彼女が戻ったという事は、これでもはや問題は無いのであろう。

 私達は、暗い路地を抜けて明るい光の灯る人間の通りに出る。

 黒衣の私は、紫煙をたなびかせ、足元には黒猫を引き連れて歩いた。

 そのまま大通りに出ると、ロザリアの言っていた通り、私と同じような黒衣を纏った人間達がランスの屋敷の方角から歩いてきて擦れ違う。

「こんな時に教会が無いなんて。葬儀はどうするのかしら? このところの騒ぎで、護衛隊の人達はこんな時でも街の警備を休めないし」

「神父様も居ないのに、葬儀は出来ないよ。エスミュゼル卿はどこかの街に使いを送って、そこの神父様に来てもらえるよう頼むみたいだ。でも、こんな小さな街に、そうそうすぐ来てくれるかどうか」

「アンナ様は良いお方だったのに、こんな事って、不憫で堪らないわね」

「あぁ、全くだ。本当にこの街はどうしてしまったんだろう? 噂通り、本当に恐ろしい悪魔が住み憑いたなんて事は」

「ちょっと、怖い事を言わないでよ。ただでさえ教会が壊れて、皆不安なのに」

 そこでその人間達は声を潜めてしまい、それ以上の会話は聞こえなくなった。

 しかし気付くとその人間達は道向かいに居る私の方を見ている。視線には堪えようの無い不安を感じる。

 まさか、私がその噂に聞く街に住み憑いた夜魔であると直感で察したのか。

 いや、噂など不安があれば実の無い所にも立つもの。彼らが私を見たのは偶然に違いあるまい。

 素知らぬ顔で対すれば、私が人間などに見透かされるわけが無いのだから。

 そして案の定、その人間達はすぐに視線を進行方向に戻して立ち去った。

 そこでようやく私は気付く。

 彼らが見ていたのは、私ではなく、私の後ろ。そこにある瓦礫、少し前まで教会と呼ばれていた廃墟だ

 あの晩、私と狼とで散々に破壊したまま、僅かばかりも手を施されていない。血生臭さは雨によって流されたようだが、そこで果てた修道女や獣の思念が名残香のように染み付いている。しかしそれもいつかは風化して世界を形作る要素の中に散っていくのだろう。

 瓦礫の中に、不自然に表紙の曲がった本が落ちていた。

 いや、落ちていたというよりも、持ち主の手に返されたと言うべきか。

 ロベルトから何もかもを奪ったのは、全て夜魔の仕業に違いないのだろう。

 夜魔は常に奪うばかりで、何を与える事も無い。

 良く考えれば、人間も獣達も、己より弱いものから何かを奪ってばかりだ。

 いずれ何もかもが奪われ尽くし、この世界から何も無くなってしまう時がくるのだろうか。

 そんなただ不安だけを掻き立てる、答えの出しようも無い事を考えながら、私は通りを静かに進み、ようやくランスの屋敷が見え始めた。

「もはや日も暮れたと言うのに、思いのほか人間がまだ残っておりますね。遠巻きに様子を伺うだけにしますか? それとも、中まで侵入してあの男に会われますか」

「今聞かれても決められないわ。一先ずはランスの様子を見てみましょう。あぁ、でもきっと、私と話をする余裕は無いでしょうね」

 ランスの屋敷の中やその前の通りには、少なくは無い人間がまだアンナの傍を離れられず残っていた。

 ランスやアンナと歳の近しい者が多く、皆心から彼女らを慕っていたのだろう。ある者達は悲しみを紛らわすように沈黙を避けて話し続け、ある者は天を仰いで言葉も無く立ち尽くし、ある者は人目も憚らずその場に泣き伏している。

 言葉を発す気力のある者は皆同様に、なぜアンナが、なぜこんな時に教会が、と結局同じ事ばかり口にしているとも気付かず、繰り返し繰り返し嘆き続ける。

 その時、屋敷の中から一人の男が、コンサルに見送られながら現れた。

 扉で一言三言交わした後、くるりと表情の無い顔をこちらに向ける。

 その途端、私の足元を歩いていた黒猫ブルィヤールは突如として全身を震わせ、押し殺したような声で早口に言い捨てた。

「慈愛の姫君様、無礼をお許し下さい。ご縁があればまたお会いする事もありましょうが、その時はよしなに」

 ブルィヤールは忽ちに家々の隙間へと身を捻って駆け込んでいく。

 そして私は彼とは逆に、その場から足を動かさず立ち止まり続けた。

 屋敷の前の人込みから、一直線に私の瞳と視線を絡ませてくる男がいたからだ。

 身に纏う黒衣は、周囲の人間達に馴染むが、その本来の色が蒼銀であると夜魔の瞳には容易く分かる。

 その男が着ている黒衣は私が闇で染めたそれと同じ方法で目を欺いているのだ。

「あの男、人間じゃない。それに、私に気付いてるわ、あんな遠くから」

 素肌に僅か、冷たい気配を感じて全身が緊張する。

「どの男ですか、お嬢様? まさか、なぜ夜魔が人間達の中に?」

 ウルは気付かなかったらしい。

 たまたま目の合った私とブルィヤールだけが気付いたのか。

「見てよ、ウル。あっちも私達を見て――」

 男が消えた。

 私はその男をずっとこの目で追っていたのである。互いの視線を外さぬよう、ずっと見続けていたのに、突如としてその姿が完全に消え失せた。

 いや、正確に言えば私はほんの僅かだけ目を離したと言わざるを得ない。

 瞬きをするため、目蓋を下ろしたその瞬間だけ。

「あぁ、やっぱり来たか。あの屋敷に居れば、いずれ貴様は来ると思った」

 不意に強大な気配が背後に現れ、同時に私の耳のすぐ隣、吐息を感じるほど傍で何者かが囁く。

 ぞくりと全身に寒気が走り、冷や汗が噴出す。

 私が振り返った時には既に、先ほど見失った男がそこに居て、私に向けて剣を振り下ろす途中であった。


次話更新10/5(金)予定



作者ツイッター https://twitter.com/yuki_anno

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