ヤミヨヒメ -コドクコリツ-
夜明けと共に雨は厳しさを僅かに緩めたが、しかしいつまでも降り止む様子も無かった。
雨は降り続けながらも、雲が時折途切れ、太陽の細い視線が地表を舐める。
天の気候さえも均衡を忘れてしまったかのように思えた。
人間達はその不気味な雨音を避けるように、各々の家に閉じ籠っている。
私も今はその屋根の一つを借り、暗く沈んだ街を見ていた。
「本当に、妹を、あの子を助けて下さいますか?」
私の足元に一人の女が平伏し、請う。
「出来る限りの事はするわ。でも、期待はしない事ね。夜魔に攫われたのなら、既にもう手遅れかもしれない。夜魔は全て、無慈悲だから」
私は女に向けて手を伸ばした。
平伏す頭を上げて良いと言っているのではない。
それが彼女と私の間で交わした契約なのだ。
しかし女はここに至って己の命が惜しくなったのか、契約内容の変更を試みた。
「妹の無事を確認してからというわけには」
私は首を左右に振る。
「言ったでしょう? 夜魔は全て無慈悲だと。貴方の最後の望みを聞いた以上、私ももう長くは待たない」
女は覚悟を決め、私の手を取った。
私は彼女を引き寄せ、忽ちにして命を貪り尽くす。
そしてもはや女の人格を僅かも残さない肉体を、また足元に置いた。
これでまた、ランスの心を傷付けた。そう、ふと思う。
「ラバン、貴方の番よ」
呼んでみるが、ラバンは姿を見せなかった。
「黒翅公も思うところがあるのでしょう。昨晩はお嬢様を守りきれず、またあの人間の娘の事でも責任を感じておられるのではないでしょうか?」
口元を拭いながら、一向に来ないラバンを待つ私にウルが答えた。
私の命を危険に晒した事で、ラバンが責任を感じているだろうか。
いや、恐らく彼はそんな事に執着したりはしないだろう。
ラバンが私を守るのは、父の命令に縛られているためであり、彼自身の意思ではない。
むしろ彼は、己を子守りに貶めている私を忌んでいる風がある。
だが彼が心に陰を落としているとすれば、やはり昨晩ベニメウクスに敗れた事に原因があるに違いない。
私を守れなかったからではなく、ただ敗れたというそれ自体が彼の誇りを傷付けた。
父に捕らわれた事で羽根を捥がれ、最盛期に比べればどれほどの力も残っていない。
しかしラバンにとってそんな事は関係無く、どんな条件、どんな状況であっても、不屈の夜魔の精神は敗れることを許しはすまい。
それも、相手は己を捕らえたセィブルの娘、ベニメウクスだったのだ。
ラバンは今、セィブルの一族を呪い殺さんばかりに憎んでいるはずだ。
ならば敢えて刺激はしないでおこう。
この屍も放っておけば、私の見ていないところで食すはずだ。
彼が私にどんな思いを抱いていようと、ただ私は彼の傷が癒えれば良い。
私はウルを連れ、また街の通りへと出た。
降りしきる雨を避ける事は容易いが、その容易さを人間に悟らせてはならない。私は外套をより深く被り直す。
同じような姿をした人間が慌しく近付き、その外套の下にあるお互いの表情を見ないまま擦れ違っていく。
彼らはきっとランスの部下か自警団の者達だろう。
人間達も、この長い雨の夜を抜け出したくて足掻いている。
私もまた闇の中へ投げ出されたまま、どこへ向かうべきなのか。
ベニメウクスはその善悪は別としても、己の意思を明確に持っているようだ。
ならば、彼女の言うように、いずれ私には父に見限られる日が来るのだろうか。
淡過ぎる不安にふと寒気を覚える。
「ウル、貴方は、父が命じれば私を見捨てるのね?」
水の溜まりを踏む四つの足音が、半分になった。
背後で立ち止まる者に振り向きもせず、私は静かに通りを歩み続ける。
ウルは父に作られた存在であり、父に逆らう事は出来ない。
それを知っていながらも、彼を動揺させるような事を私が思わず口の端に乗せてしまうのは、堪らない孤独感に苛まれたからだろう。
「それがご主人様の命令ならば、私は従わねばなりません」
どれほど求めても否定の言葉が彼の口から現れるわけは無い。
ならば、求める事などせず、ただ黙し、ずっと目を閉じ、ひたすらに盲目の信仰を装うべきであった。
当然過ぎる彼の言葉に私は胸を貫かれ、立ち止まり、振り返る。
「貴方は父のものだから、仕方が無いのよね」
どのように見つめても、ウルは黙し見つめ返す。
父が望めば彼は何の躊躇いも無く私を見捨てると言うのか。
今日まで指導を続けた私に対する愛着などもまるで無いと言うのか。
淡い期待を抱く、ただそれだけのための曖昧な言葉で構わないというのに、彼は何も言わない。
自身の意思でも私に尽くそうと言ってくれたのはウルだけであるのに、その彼でさえも父の一言で容易く私から離れていく。
私は、たった独りで雨に打たれているような気がした。
沈黙するその時間が長くなればなるほど、耳元に響く雨音は大きくなっていく。
ベニメウクスのように強く美しければ、見限られる事も無く、ましてや孤独である事に関心さえ持つまい。
しかし私はたった一人では何一つとして為した事も無いのである。
父の血が無ければ生まれもせず、己が何を食するのかも知らず、一人ではその存在さえ守れない。
手を引かれなければ、歩む道さえ分からない。
だが、手の届く範囲には誰も居なかった。
最も近いと思っていたウルの手さえ、ほんの少しの雨煙で見失ってしまうほどの遠方であった。
「父に打ち捨てられ、その上貴方にまで見捨てられたなら、私はどうして生きていけば良いの?」
「ご主人様の一言で、消し去られてしまうご自身の命が、恐ろしいのですか?」
「確かにそれも怖い。でもそれ以上に、誰にも必要とされず、誰にも望まれず、たった一人でただ無意味に生きていく事が、私は怖い。私には、出来そうにない」
「お嬢様は、比類なき夜魔のお一人となる事が約束されています。一人で生きられないなどという事があるはずが御座いません。多くの夜魔を従え、君臨する一つの明星となるのです。ご主人様の血を受けたお嬢様に、どんな支えも必要無い」
意味など無かろうと、父の血が私を生かすか。
私の胸に巣食う鈍い痛みの不安を洗い流すように、ウルは優しげに唇を動かす。
私は、薄っすらと微笑を返した。
生かすも殺すも、全て父の思惑一つで自由にされるのなら、私が不安に思う事は無い。
私の生は、私自身にとって他人事なのだから。
ウルの言葉は、そのように聞こえた。
「もしも私が父に捨てられる時が来たならば、その時もそう言ってちょうだい。私にはどんな支えも必要無い。どんな救いも必要無い。そう言って貴方も私を見捨てると良いわ。
その言葉があれば、ベニメウクスの言う暗闇の片隅でも、私は一人で生きていけるんでしょうね、きっと」
己の口からこれほど攻撃的で陰湿な言葉が出るとは思わなかった。
ウルがまるで私の事などどうでも良いかのように言うので、思わず苛立ちが口をついたのである。
私は生まれた瞬間から絶え間なくずっとウルを頼りにしきっているのに、ウルはそれと同等の重みを私に抱いてはいない。
彼にとって私は所詮、父の多少手の込んだ玩具なのだ。
捨てて来いと言われれば容易く捨て、すぐ次の玩具を管理し始めるに違いない。
元々彼は父に命じられなければ私の教育係など務めなかったのである。
強制された関係に執着などあるはずも無い。
他に従属する事の出来ない、夜魔の心を持つのなら尚更だ。
裏切られたと喚く私の方が夜魔らしくも無い。
夜魔の世界において、私の苛立ちはあまりに理不尽過ぎよう。
「なぜ、そのような事を仰るのですか?」
理解出来るはずも無い私の憤りに対し、ウルが面食らうのも当然であった。
問うているのか、それとも責めているのか、鋭い視線が私を刺す。
「私は、この生の意味を剥奪されれば、生きていけない。私は普通の夜魔とは違うのよ。純血種でもなければ、作られた者でもない。人間の屍を用いた、歪みの多い存在だから。
でも、貴方は違う。貴方は完全な夜魔よ。あらゆる知識を司り、全て己も他も感情を交えず判断する。
ウルは私を失おうとも、己の生に不安を覚えたりはしないでしょう?
たとえ、今は貴方の全てを私が独占しているとしても。
私という存在が奪われる日、ウルは喪失感を覚えたりしない、きっと」
ウルは否定しなかった。
それが夜魔の姿勢だと、私に教え続けてきたのは彼だからだ。
彼自身もそのように振舞い続け、今この言葉だけを否定出来るはずも無い。
ただ唇を噛み、何事かを口にしようと口を開くが、走り寄る靴音に気付き、また黙した。
私もまた、無闇に剥いた牙を納め、平静を装う事に努めた。
駆け寄る足音が路地から姿を見せ、その者と私はほぼ同時に外套の下の互いの顔を覗き込んだ。
「貴方は確か、フレスベルクのお嬢さんでしたか? こんなところで何を?」
雨除けに深く被った外套のフードの下に見える凛と強い視線はロベルトのものだった。
彼は夜魔を狩る事を生業としている。
私が夜魔である事を彼が知るはずも無いが、その瞳で睨まれると、他の夜魔に対峙した時とはまた異なる緊張を覚えた。
「通りを歩いているのよ。貴方の方こそ何事? こんな雨だと言うのに、武装した人達が街中を走り回っているわ。また何かが起きたのでしょう?」
「いえ、ご心配なさらず。しかし、こんな雨と言いながらも、なぜご令嬢はその雨に濡れながら散歩をしているのです? 外出禁止令を破ってまで」
私達は互いの外套の下から、それぞれの表情を伺い続けた。
フードの隙間から潜り込んだ雨粒が、まるで涙のようにロベルトの頬を伝っていた。
その奥底に猜疑を秘めた視線としずくの通り道はあまりに不釣合いで、私は微かに目を伏せる。
そのまま私の瞳の奥を見つめられ続けては、そこに人間のものとは違う、ただただ深いだけの闇に気付かれてしまいそうに思えた。
「何の理由も無いのなら屋敷にお戻り下さい。僕が送りますし、騒動が不安ならば隊の者を何人か警備に行かせましょう。それとも、詰め所の方で匿いましょうか? 少し騒々しいですが、あそこならいつでも十人以上が待機しています。何か温かい飲み物も用意しますが?」
並べられる言葉は穏やかだが、そこに温もりは無い。
薄暗い雨中を少女が従者とただ二人だけで歩く。
その異常性に狩人としての性が何かを探知しているのだろうか。
その視線から逃れて去る事は容易い。
言葉を以って煙に巻く事も出来るだろう。
だが彼の猜疑心を全く消し去ってしまう事は出来まい。
疑われれば、拭えず、隠し切れもしないものが私にはある。
「私が匿って欲しいと言えば、匿ってやらねばならないだけの何かが起きているのでしょう? 隠さずに教えてはもらえないかしら?」
しかし敢えて問うまでもなく、私には薄っすらと分かっていた。
また、長く不気味な狼の遠吠えが微かに街の空気を震わせていたのである。
それは人間の耳にも辛うじて届き、ロベルトもまたその方角へと視線を向けた。
そしてまた私を見、値踏みするようにくまなく眺めた。
互いの間を緊張とも緩和とも違う、伸縮性を著しく欠いた空気が支配する。
そしてすぐにまた雨中を走る靴音が聞こえてきた。数人が慌しく駆ける乱れた音である。
その靴音の一つにランスが居た。
彼はただ向かい合うばかりの二人を見て、一瞬は呆気に取られたようだが、すぐにそれを振り払い、聞きなれない大声を発した。
「ロベルト、何をしている? ぼうっと立っている暇など無いだろう?」
彼もまた外套を深く被っているが、その陰の下でも蒼褪めた表情が見え、事態の切迫を如実に伝える。
「この雨の中をフレスベルクのご令嬢が歩いていたんだ。何か異常だ」
ロベルトが密かに囁くと、ランスは改めてこちらを良く見、そこでようやく私である事に気付いたようだった。
「何かあったの?」
私が問うと、ランスは答えようとしたが、ロベルトはそれを遮った。
「異常だ。それに、部外者だろう」
「馬鹿な勘繰りはよせ。彼女はハナの何よりの親友だぞ。異常だろうが、部外者だろうが、身内を疑ってどうする」
ロベルトがランスに抱く信頼は絶大なのか、彼はもう一度私を見た後、ようやくその猜疑の視線をやめた。
ロベルトの視線が私から離れたその隙に、夜魔である私が人間の身内かと、私は密かに自嘲した。雨粒が私に怯え、その表情がどれほど歪であったのかを知る。
「それで、何があったのかは教えてもらえないの?」
ランスは唾を飲み込むと、もう一度深く呼吸して、低い低い抑え付けた様な声で話した。
「驚かないで欲しい。実は、ハナが居なくなった。これまであった幾つかの事件と関わりがあるのかどうかも、正直なところは分からない。ただ、叔父の話では、闇夜に溶けるような漆黒の翼を広げ、鳥でも獣でもなく、まして人とも思えぬ何かが連れ去っていくように見えたと」
瞬間、眩い光が街並みを焼き、遥か彼方の遠雷が呻いた。
その咆え声に応えるかのごとく、獣達の声が幾度か響く。
「心配は要らない。僕達できっと何とかしてみせるから。狼ももう、二度と街へは入れないから。だからディードは屋敷で朗報を待ってくれないか」
ランスの顔に浮かぶ微笑が、懸命に搾り出したものである事が、痛むほどに分かる。
その痛みに耐えかねて目を伏せる私の様を、ランスは了承し頷いたと思ったのか、彼はまた外套の襟を深くして立ち去っていった。その仕種に焦りは隠せない。
去り行くとき、ロベルトは一度足を止めたが、振り返る事はなかった。
しかし歩の遅れた彼を急がすようにランスが振り返り、ふと私と目が会えばまた彼は凛とした眼差しを私に向けた。
私は瞬きもせず、霧雨に彼らの姿が煙るまで見送ると、一度目を閉じ、そして激情を瞳に映して天を睨んだ。
また私の手の内から大切にしていたものが奪われようというのか。
ラトリーヌを奪った、狼と、そして私に流れる吸血者としての父の血が憎らしい。
ウルの忠誠心を奪った、己の驕慢と、絶対の支配を司る父の言葉が疎ましい。
そしてまたハナさえ奪われるのか。
私には何一つとして残さない。何一つとして許されない。
ウルの口にした、私には何も必要無い、という言葉が耳の奥で響く。
天は無情にも彼の言葉だけを叶えるのか。
私は振り返りざま射抜くような視線でウルを貫き、そして言い放った。
「ウル、命令よ。今すぐここにラバンを」
しかし私が叫び終えるよりも早く、ラバンは姿を見せていた。
その真紅の瞳があまりにもまっすぐ私を見据えるので、私は堪えていた憤りが弾けるのを感じた。
「ラバン、よくも堂々と私の前に顔を見せたものね」
飛び掛るようにして身を翻し、私はラバンへと詰め寄って、その胸元を両手で引き裂かんばかりに掴んだ。
ウルは当然、衝動に任せたその暴挙を止めようとしたようだが、もはや私の速度はウルの目で捉えられるものではない。
しかし私自身、この手がラバンに何の障りも無く届いた事が意外であった。ウルが私を追えないように、私も遥かに格上であるラバンの動きは掴めないものだと思っていたからである。
両手が届いたという事はつまり、ラバンが甘んじてそれを受けたという事であり、私が何をこれほど責め立てているのかを理解しているという事だ。
掴んで引き寄せた彼の胸元から微かな芳醇の死臭が漂う。乾いた血粉が荒く滑らかな手触りで私の指先を刺激した。
「この血、匂い、一人や二人ではないわね。それに、あんなに深く裂けていた貴方の傷が、今はもうすっかり元通りに」
「お前も傷を癒すため食ったろう。俺も、食わねば癒せない。腹を立てるのは筋違いじゃないか?」
ラバンは淡々と言い放つ。
そう、私も確かに己の命を保つため、大切過ぎる者を打ち崩したのだ。
だがそれは決して、そうさらりと言ってのけるような容易い事ではなかったのである。
「私に黙って、人を狩らないでと、言ったでしょう? 暗黙の約束が、あったでしょう?」
「夜魔の契約は全て言葉の、言霊の力に依る。暗黙など無い」
私は全身の力をもってラバンを懸命に押し、路傍の樹木へ彼を叩きつける。ほんの僅かでも痛みを与えられればと。
「貴方が私の望む全てを裏切る言葉は、それ? たったそれだけ?」
「裏切ると言っても、信じたのはお前の勝手だろう? そんなに興奮するな。ウルが不安がる」
振り向けば確かにウルが私の醜態を痛ましく見つめている。
しかしあろうことか、怒りに視野を奪われた私は容易く不穏な因子を口走るのである。
「知った事じゃないわ。ウルだって本当は私のお守りなんてうんざりなのよ」
私の暴言に驚いたラバンは胸元を掴む私の手を掴み返そうとした。しかしそれよりも早く私は手を離し、空を切る彼の手に嘲笑を握らせる。
そして後方では激し過ぎた私の言葉にようやくウルが決意を固め、父の言葉を借りるべくその手を私に差し向けた。
だが私の昂ぶった感情は、不思議と周囲の気配を明瞭に私へと引き込むのである。次にどの雨粒が舗道に到達するのかさえ、今の私には把握出来た。
ウルがその細い唇を薄っすらと開いた時に、既に私は彼へ拘束の言葉を発していた。
「なぜ、そこまで猛る? あれは、お前のために作られ、お前の事だけを思う者だぞ」
ラバンの真っ赤な瞳に、口を塞がれたウルと、塞いだ私が映っていた。
「今、私が怒っているのは、貴方のせいよ」
一陣の風がその勢いで私の外套を揺さぶり、冷たい外界へ頭部が露になる。
煙るような雨がその流れる方向も知らず、思い思いの方向へ降り、だがその一粒たりとも私を恐れて触れはしない。
しかしなぜだろうか、雨粒が頬を伝うのは。
「なぜ、貴方からハナの匂いがするの?」
「お前の想像しているような事じゃ」
「ハナの事をどう思うか、そう私が聞いた時、貴方の発した言葉はこう。俺ならば、食うな、と。それが貴方の言葉よ。そこにどんな希望を願えと言うつもり?」
ランスの言う、漆黒の翼を持つ略奪者などラバン以外に誰を思えと言うのだ。
振り上げた拳がいとも容易くラバンの胸を打つ。
なぜこんな細腕の怒りを甘んじて受け続けているのか、私は理解出来ずにいた。
ただラバンの瞳は私を見下ろしながら、苛立ちと静寂を、そして悲嘆を抱えているようであった。
それは、吸血を生きる術とする夜魔でありながら、それを真っ向から否定する私を、見下げ果て、呆れ、そしてそれに縛られる己の不遇を思っての事なのかもしれない。
「何か言いたい事があるのなら、はっきり言いなさい。黙ってばかりじゃ、分からないでしょう? この被造者、この小娘って、罵りたいのなら、そうすれば良いじゃない。人の大事なものを勝手に奪っておきながら、そんな冷めた眼をしないで」
ラバンは僅かに眉をしかめたが、やはり何も言わない。
そして私がより一層の力を込めて振り下ろす拳を容易く避け、どこへとも知れずに消え去った。空振る拳が樹皮を激しく打ち据える。
肌に触れる木の呼吸が、不思議なほど私の内側に浸透するのを感じた。
すると不意に表情が緩み、自身でさえ理由も分からないまま、歪な笑みが漏れる。
その様子にまさか臆したわけでもないだろうが、ウルは何ともか細い声で私の名を呼んだ。
私は振り返り、これまでその使用を散々に禁じられてきた、高位の夜魔にあるまじき表情を曝す。
ウルの顔には忽ちにして、ありありと苦悶の色が浮かび、ついに失望させたかと私はまた唇を歪にするのである。
「なぜ、そのように振舞われるのです。まるで自暴自棄である事を楽しむように」
「私の思うように生きろ。お父様の言いつけ通りじゃない。貴方も、心の中では私に関心なんて無いくせに」
ウルは黙した。そして、ラバンが立ち去り際に見せたような、あの何も語らない、語ろうとしない無口な表情をまた私に見せた。
沈黙する事を禁ずるように、通りの向こうで人間が叫ぶ。
「皆、北門に集合だ。女が一人逃げ延びてきたが、まだ何人も森に取り残されているらしい」
「隊長には報告したのか?」
「隊長達はもう向かってる。手の空いている者で二次隊を組んで後を追うぞ」
慌しく乱れた足音が動き出した。
私は考えるよりも早く、その足音を追った。
更に私の後を追うウルが厳しく問う。
「人間の事は、人間に任せておくべきで御座います」
「ならば、私の行いは私に任せておきなさい」
「お嬢様、いい加減になさって、」
僅かに口調を強めるウルを私は見竦める。
まさか自分がウルに対して、このような敵対者を見る瞳を向けるとは予想もしていなかった。
もはや己でさえ、何が自身をこれほどまでに苛立たせているのか分からない。
ただ、苛立っている事に苛立ち、またその苛立ちが苛立ちを生み、何もかもをその色で染めているように思えた。
「では、お気をつけて下さい。私はいつでも、お傍に居りますから」
ウルは苦く囁くと、一筋の煙となり姿を消した。
私もまた、振り返る人間達の視線から逃れるべく、闇で身を塞ぐ。
郊外へと向かう道を一歩進むごとに、血の匂いが鮮やかさを増してくる。
もはや人間の先導を待つまでも無く、私は彼らを追い越し、その匂いの漂う方へ足を速めた。
そして突如眼前に飛び込んできたのは、あまりにも不恰好に倒れ伏す、女の露わな肢体。
近付き、微かに指先を触れれば、既に温もりは無く、見知らぬ顔は私を認識出来ない。
周囲では男達が連れ去られた女達を捜して歩く。
手を伸ばせば触れそうなほど近くに居るのに、彼らはまるで汚物に目を伏せるかのごとく、私と一つの死体に気付かなかった。
亡骸の傍にはあまりにも濃い闇が立ち込めていたのである。人が心底にて恐怖し、目を背ける、夜魔の作り出す闇だ。
その闇が人間を隔離し、人ではない私だけを受け入れていた。
「これは、まさか宵闇の明星、全能の支配者様のご息女様ではありませんか?」
闇の奥から一人の男が粛々と歩み出てきた。
しかしその瞳は私をゆっくりと、僅かの誤差も生じぬように値踏みし、むしろその口の端ばかりのへつらいが無礼なまでに慇懃である。
「貴方は、誰?」
あまりに濃い闇が鬱陶しく目の前を横切るので、私は目を細める。
するとようやくその声の主の表情が細かに見え、その遥か奥で怯えながら震える女達の影が微かに見えた。
「申し遅れました。私はルゥセト。しかし貴方様のように高貴なお方が、私などに何か御用で」
私はルゥセトの横を忽ちにしてすり抜ける。もちろん彼に私の速度が認識出来ようはずもない。
彼がようやく私を見つけたのは、私が女達にかけられた惰弱な束縛を解いた後だった。
もちろん、夜魔であるルゥセトは私の行動を訝しげに見つめる。
「何を、なさっているのですか? それは私が捕らえた獲物。まさか横取りなどは致しますまいな?」
地面に対してやや斜めに立ち、俯き加減から見上げるように私を見竦める。
私は女達の中心に立ち、それ以上の視線によってルゥセトを見定める。
「貴方は古くからここに住んでいた者? 違うわね。人間が連れ去られ始めたのは、ここ数日の事だもの。街を跋扈する獣達も、貴方の仕業?」
「確かに、いかにも私は新参です。しかしそれはご息女様も同じで御座いましょう。それに獣らの事は存じて、いやむしろ便乗したと申し上げるべきか、ですがあれらの事は私のあずかり知らぬところ。その鉾先を私に向けるのはご容赦を」
その時、私の手にひたと何かが触れた。
それは細く白い女達の手で、腕と言わず足にも胴にも、触れた場所を強く握り締めた。
この深い闇の中で、人間である彼女らの目には何も映っていないだろう。自分が腰を下ろす大地はもちろん、自らの手足の所在さえ分からないままで、漆黒の空間に意識だけが放置されているようなものだ。
そこに響く私の声に救いを求め、見えもしない両手を伸ばして何かを掴もうとするのは本能の呼び起こす衝動であろう。
「そう、貴方ではないのね。でも私の狩場でこんな事をされては困るわ。この者達は私が連れ帰る。貴方はどこか遠くに去ってもらえるかしら?」
「これは妙な。私の聞き間違いでしょうか? 連れ帰る、と? 食い尽くす、の間違いでは?」
ルゥセトの頬が歪み、卑猥な嘲りが灯る。
その声を聞いた女達は私が果たして救い主として全面の信頼は出来ない事に気付き、一斉にその手を離した。
しかし、一人だけ、いつまでも私の裾を離さないでいる者が一人だけ居た。
私は視野を鈍らせるぼんやりとした闇を再び払い除け、その人間の顔を見た。
「お姫様、ですか? そのお声は、そうなのでしょう? そうだ、と仰って下さいな」
何も見えていない両の瞳に涙を溢れさせ、手足には引きずられて出来た無数の傷に血が滲み、全身が泥と土埃に汚れている。
だが、それは明らかにハナであった。
彼女は、死んだのではなかったのか。
ラバンから薫ったあの血の匂いは気の間違いか、移り香か。
なぜここで蹲り、何のために私を握り締めているのか。
彼女の生存を喜びたい気持ちは、それが心に生まれるよりも早く、様々な疑問とそれがもたらす混乱に押し流された。
そして私は、すがる様に強く強く握り締められた彼女の腕を、それ以上の力で振り払った。
なぜ自分がそのような行為に及んだのかは分からない。
そのまま触れられている事で、私が人間ではない事が知られてしまうのを恐れたのか。
手を振り払われたハナの表情には驚愕が満ち、次第にそれが恐怖に変わる。
もう一度私に触れようとしているのか、震える指先が闇を漂うが、戸惑う心がその腕を力無く地に落とさせる。
「貴方の知った事ではないでしょう。貴方が行うべきは、私の狩場から今すぐ出て行くことよ」
「申し訳ありませんが、従う事は出来ませんよ。どんな夜魔でも、そんな理不尽な要求、それも生死に関わる要求を容易く受け入れたりはしないでしょう」
「何もここで死に絶えろと言っているのではないわ。私の街で、人を狩る事を許さな」
「恐れながら伺いますが、この街はご息女様のものだと誰が決めたのです?」
「それは父が」
「全能の支配者様はこの街を手放されたではありませんか。いくらご息女様であろうとも、それを無条件に譲り受けるなど、納得する夜魔は居ません。何よりあのお方は偉大過ぎ、その庇護を受けていない者達には狩場を得る事さえ難しいのです。捨てられたこの街を狩場としたいのならば、ご息女様であろうとも、同じ条件で競って頂かねば」
ルゥセトは腰の短剣をゆっくりと抜き放った。
三日月形に反った刃の銀が闇の中で不気味に光り、その背後には鳥でも獣でもない闇よりも深く暗い翼が広がった。
私は何という事をしてしまったのだろうか。
ランスの言っていた黒き翼の略奪者はラバンなどではなく、この下卑た薄笑いを浮かべる低劣な夜魔であったのだ。
それを私は些細な私憤に駆られて恐ろしい思い違いをしてしまっていたのである。
夜魔が言葉以外に縛られる事の無い生物ならば、誤った言葉を発する事がどれほど重大なものかは察するに難くない。
それでもラバンは私の振り下ろす言葉と拳に何度も耐えたのである。
彼が何も言わず、それを甘んじて受け続けたのは、私に浅薄な言葉を自ら破棄させるためか。
そして遂に彼は去った。
姿を消したのではなく、去ったのである。
私の手が届く範囲に、もうラバンは居ないのか。
私は突如として孤独を感じた。
触れるものを皆振り払ったのは私自身であるのに、暗闇に一人で立ち尽くす己の様に心が空しくなる。
その空しさはおよそ恐怖と類を同じくしていたのだろう。
「ウル、傍に居るんでしょう? 早く出てきて」
気が付けば私は無様な表情で叫んでいた。
しかしウルはどのような呼びかけにもすぐさま応え、その揺れ動く紫煙が実態を現し始める。
だがウルの姿が完全になるよりも早く、洪水のような闇が全てを飲み込んだ。
「下賎な私など、どう考えてもご息女様に敵うわけがない。にも拘らず加勢をお求めになるとは、あまりにアンフェアではありませんか?」
何も見えない事に変化は無いのに、女達は恐怖の悲鳴を上げた。闇が暗さを増した事を、本能が知覚したのか。
「お嬢様、どこに居られるのです? 私に触れて頂ければ、我が内にて匿えます。一先ずは暗闇の外に」
「静かに。何か変な音がするわ」
ウルはこの闇によって完全に視界を塞がれているようであった。
しかしそれは私も同じである。
夜魔の瞳を持ってしても見通せないほど深い闇。
それを作り出したルゥセトはよほど闇の扱いに長けているらしい。あるいは、この街で狩り集めた人間の精気を、ただ私を打ち倒すためだけに消費するつもりか。
私の言葉を聞いてウルは黙し、女達も聞き耳を立てた。
聞こえるのは抑えきれなかった女達のすすり泣く声。
だがその陰に隠れるようにして聞こえる、甲高く細い泣くような、しかし歌声のようにも聞こえる微かな振動。
それはあらゆる方向から聞こえてきた。前方、背後、上空、足元、あらゆる方向からである。
私は精霊銀の剣を抜き、その仄かな明るさで周囲を照らす。
そしてそれは全くの偶然であったのだが、その翳した剣にルゥセトの短剣が振り下ろされた。
咄嗟に腕の力を強めるが、あまりにも不意の襲撃に全身が対応できるはずも無く、私は身を捩ってその場を飛び退いて急場を凌ぐ。
だがその打ち払われた短刀は標的を失いつつも振り下ろされ、私のものではない声にもならない悲鳴が漏れた。
誰が傷付いたのか、この暗闇では確認も出来ず、ただハナでない事を祈るだけである。
その悲鳴に怯え、他の女達も擦り切れたような悲鳴を上げ、皆一斉に地に伏せたようだった。
私は跳躍し、女達の輪の中から抜け出す。
ルゥセトの声がそれを嘲った。
「噂通りの方とは、驚きです。まさか本当に人間を庇うなんて。屍の王女様、貴方は人間にでもなりたいのですか?」
声の聞こえる方へ束縛の言霊を放つ。
確かに何かを捕らえた感覚はあるのだが、格下といえどルゥセトも純血種の夜魔であり、私がそこに辿り着いた時には既にもぬけの殻であった。
「人間になれるだなんて思ってないわ。ただほんの一瞬だけ、人と共に生きてみたいだけよ」
また囁くような嘲笑が響く。
「愚かな。全能の支配者様も、見捨てるならいっそ消し去ってしまえば、後の憂いも消えるというのに。しかし、それがあのお方らしい慈悲深さとも言えますな」
そしてまた聞こえてくる奇怪な騒音。
再び私は剣を構えた。
耳を澄ませば聞こえてくる、女達の泣き声、そして不思議な音。更にその奥で聞こえる何かが風を切って迫り来る気配。
私は剣を振り回し、周囲の闇を斬り払った。銀の要素が闇を砕き、私にほんの僅かな視野を与えるが、その距離は一歩分にも満たない。
その明るみへ突如としてルゥセトが侵入してくる。振り下ろされる短剣を受け止めるには十分な距離であるが、攻勢に転じる暇は全く無い。
私はルゥセトから常に一手遅れているのである。
なぜルゥセトはあれほど正確に私の位置を把握出来ているのだろうか。
私でさえ見通せないこの暗闇の中で、格の低いルゥセトの瞳など役に立つはずも無い。
私が再び迫った斬撃を打ち払うと、ルゥセトはすぐに暗がりの中へ逃げ込んだ。
「随分と頑張っておられますが、この闇の中でご息女様に勝ち目はありますまい。どうかここは諦めて、お退きになっては頂けませんか?」
ルゥセトの方でも私がいつまでもしぶとく耐え続ける事に苛立ちを覚えているようだった。
彼もまた己の身を削って私に対峙しているのである。僅かでも早くこの闘争を止めたいのは当然だ。
「音が、止んだわね」
私が呟くと、ルゥセトは小さな舌打ちを漏らし、強く大地を蹴って飛来する。
気になるのは、再び聞こえてきたその音。
微かなのに、不自然なほど耳に障る。軽い眩暈を思い出させるような音。
まさかそれが、ルゥセトに私の位置を教えているというのか。
父の高貴なる血の上に胡坐を掻いて安穏としている場合ではなかった。
どう考えてもご息女様に敵うわけがない、とは良くも言ってくれたものだ。どのような小細工かは知らないが、明らかに私を打ち滅ぼすつもりでいる事は間違いない。
言霊によってこの闇を全て消し去ってしまえば、再び私の優位は揺ぎ無いものとなるだろう。
闇に手を翳してはみたものの、試みる前に躊躇う。
夜魔が闇を払うなどあまりにも滑稽だ。
そこに居るだけで夜魔は闇を呼び寄せてしまうのである。
夜魔は闇より生まれ、死すれば闇に還る。闇が夜魔を創り、夜魔が闇を創ったとも言えるだろう。
夜魔は皆、本質を異にすれども、構成する要素の中に闇を欠いて存在出来る者は居ない。
闇が闇の消滅を命じるなど、矛盾も甚だしく、それを押し通すには多量の精を必要とするに違いない。
私が支配出来るのは、剣に照らされた僅か一歩分の空間のみである。
しかし可能ならばその空間だけでルゥセトを捻じ伏せてしまいたかった。
ルゥセトの振るう刃が見えてからという後手の対応でも、それを防ぐ事は容易い。問題は防いだ上で斬り返す余裕が無い事である。
私は闇に左手を翳した。
言霊を恐れたのか、ルゥセトが何かを蹴って体勢を翻した音がする。
闇が深くて良かった。
ウルが私の思い付きをその眼で見れば、激しく私を戒めるだろう。
心配だからだろう。
そう以前なら考えたに違いない。だが実際は、それが彼の職務だからだ。
ルゥセトが不意に私の視界に飛び込んできた。
振り返りざま、その振り下ろされる三日月の短剣が、私の左腕に深々と食い込む。
「申し訳御座いませんが、その高貴なる血、頂戴致します」
ルゥセトはまたにやりと歪に笑う。勝ち誇ったように。
彼もまた私の血を狙っていたのか。
敵も味方も、私の周囲にあるものは全て父の恩恵か。
いや、そもそも私自身が父の産物であった。私を語る言葉に、父の名が出ぬものは無くて当然だろう。
「血など一滴も流れていないのに?」
それは自嘲が作り出したものかもしれないが、私もルゥセトに微笑み返した。
はっと気付いてルゥセトは短剣を引き抜こうと力を込め、私の腕にまた激痛が走る。
しかし短剣は抜けるはずも無かった。
左腕の傷口を急速に再生させ、その溢れる血肉によって刃を縛り付けたのである。
まさか自分がベニメウクスと同じ事をするとは思わなかった。むしろ彼女のそれを見ていなければ、このように危険な所業を考え付きもしなかっただろう。
だがこれで、防衛と攻勢を同時に行う事が出来る。
「何という、無茶な事を。」
呆然としたルゥセトが、ここで初めて私よりも後手に回った。咄嗟に短剣を手放すと、身を翻して闇の中へ逃げ込む。
しかし振り払った私の剣にはずしりと重い手応えが伝わった。
あの奇妙な音は止み、代わって聞こえてきたのは押し殺したような苦痛の呻き声。
「闇を解きなさい。これ以上、この街で狩りをしないと約束するなら、命までは奪わない」
もはやこの深闇は私にとって無意味であった。
ルゥセトから流れる血の匂いが、私に彼の位置を教えるのである。
「そんなお言葉を信じて降る者が居りましょうか。私とて、夜魔の端くれで御座いますよ。容易く屈するなら、既に全能の支配者様の庇護下に参じております」
ルゥセトは闇の中をまた微かな音を立てながら走り始めた。
その走り行く先は、捕らえられた人間の女達が居るはずである。
まさか彼女らを食して、その傷、その疲労を癒すつもりなのか。
しかし人間の命など知った事か。
ふと頭に浮かぶ、いかにも夜魔らしい思考。
だがその一方で、振り下ろされる牙の辿り着く先にハナが居ない事を祈る。
そしてその祈りが私に衝動的な言葉を与えた。
「私の名をもって命じる。深遠なる闇よ、霧のごとくに融けて消えよ」
闇がざわめき囁く。あの夜魔は己も弁えず、闇を嫌うのかと非難しているようであった。
その不満を押さえ込むのに十分な精気が私の身体から失われ、闇は急速にその密度を疎にする。
しかし周囲を微かな光が照らす頃には既に、ルゥセトは標的とした女まで僅か一歩の距離さえ無く、どう努めても私が近付くより早くルゥセトの牙が女を貫くに違いない。
暗闇のままであれば何が起こったのかも分からず死に逝くものを、私が闇を払ったために余計な恐怖を与える事になった。
だがそれは幸運か、標的の女はハナではない。その女から目を背ければ、ハナは救える。
咄嗟に湧いたその残酷な思考に、己が夜魔である事を思い知らされる。
自分を嘲るが、その女を救う術も無い事は明らかで、私はその女を諦める。そして他の女達を諦めないために、消耗して乱れた己の要素が落ち着くのを静かに待った。
死に睨まれた女は、人間に認識出来るはずもないような短い間に、頬を引きつらせて口を開けていた。
それは、何者かに救いを求めるためか、ただの悲鳴か、もしくは神に祈るのか、あるいは恐怖に強張った顔がそう見えるだけか。ただ薄っすらと口を開き、迫るルゥセトを凝視する。
「さようなら」
ふと口から漏れる感傷的な言葉。しかしそれはどこまでも冷淡であった。
だがルゥセトの腕がその女の肩に触れたと思った瞬間、彼の身体は激しく弾け、擦り切れそうな勢いで大地を滑る。
「夜魔を敵に回してでも、人間を守りたかったのではないのか? そう容易く諦めるのが、お前の信念か」
女の前には黒衣に身を包んだラバンが立っていた。
その真っ赤な瞳は伏せられていたが、静かな言葉が私を睨む。とても鋭く、逃げ場も無いほど私の浅はかさを睨んだ。
打ち伏せられたルゥセトはその激痛に悶絶し、言葉にならない呻き声と共に身体を震わせていた。
ラバンは彼に近付き、その背を踏みつけると、後ろ髪をぐいと掴む。
「お待、お待ちを」
ルゥセトは夜魔でありながら恐怖で顔を歪め、肺を絞るように声を発した。
「ご息女様に、従います。僕となりましょう。だから、どうか命だけは」
私が何事かを口にするよりも早く、ラバンは腕に力を込めた。
引き上げられた首が考えられない方向に曲がり、そしてその後に表現する言葉も無い音を立てて千切れて取れた。
その様を見ていた女達は僅かに絶句し、動揺の静まるのを待って絶叫する。
私にも理解の機会は訪れず、ラバンの手の中でその首が、そして足の下で身体が羽根を持つ獣の姿を曝し、そして霧散し消失していくのを、ただ呆然と眺めていた。
「命は惜しいだろう。だがいずれその言葉を後悔する。あの時、潔く果てていればと、必ず思うようになる」
ラバンは身体を染める返り血を拭いもせず、ただそう呟く。
「ラバン、貴方は」
「お前は人に依りたいのか? 夜魔でありたいのか? なぜ己を曖昧に置こうとする? その狭間には誰も居ない事に気付かないのか?
一人で居る事に怯える被造者のくせに、何もかもを遠ざけ、孤独な場所に居座っているのはお前自身ではないか。
振り上げた拳を打ち下ろす先に居るべきはお前自身であると知りながら、知りながら尚、なぜ正面に立つ覚悟を決めない。
どうせ死から湧いて出た命。失うものも無ければ、自らの力で得たものも無いだろうに。」
ラバンの言葉には何の感情も感じなかった。
それは彼が感情を押し殺しているためなのか、それとも既に私に無関心であったためなのか。
どちらにしても、もはや私に愛想を尽かしてしまったのだろうという事が痛いほど身に染みた。
「私は、ただ、何もかもを」
しかしラバンが私の悔し紛れの言い訳を聞いてくれるはずも無く、また暴風と共に消えた。
弁解さえも拒絶され、私は密かに強く唇を噛む。
「お嬢様、ご無事で御座いますね。力の消耗はさほど無いようにお見受けしますが。しかしなぜ、お逃げにならなかったのですか。一先ず暗闇の外に出れば、そのような怪我も負わずに済んだはずです」
ウルが教育者としての任を全うする言葉を口にする。
私は左腕に突き刺さったままの短剣を勢い良く引き抜いた。その様を見て女達がまた悲鳴を漏らす。
だが私の傷口は剣を引き抜くよりも早く癒え、血の一滴さえその刃に残さない。
「ウル、女達に誓約を。口を塞いでから、街に帰すわ」
「良いご判断です」
不意に聞き慣れた声が私を呼んだ。
「お姫様、助けて下さい。彼女の血が止まらないんです。もう意識も虚ろで。どうすれば良いですか?」
ハナは傷付いた女を抱き、その傷口を必死に押さえていた。しかし血は彼女の小さな手と細い指を嘲笑うように流れ続ける。
その傷は恐らく、私がルゥセトの初手を受け切れなかった時に巻き込まれたためのものだろう。
刃によって胸元を大きく切り裂かれ、もしもその長く深い傷口の全てを両手で押さえるのだとしたら、五人やそこらの両手では足りない。
だが他の女達は目の前の惨状に混乱し、興奮するばかりで、仕舞いには数歩退き傍観する始末だ。
その中でハナだけが特別であったわけではない。
ただ傍にいて、咄嗟に傷口に触れてしまっただけ。
触れた後にどうして良いかも分からず、退きたくても手を離す決心さえ持てないほど困惑しているのである。
「私に、貸してちょうだい」
その傷に、もはや助かる見込みは無い。
死が彼女を貪りたくて、両手を伸ばして待ち侘びているのが見えるようだった。
ハナは怯えながらも、私にその女を手渡した。そしてようやく僅かに退く。
女を抱えた私の周りを忽ち闇が囲い、そしてまた晴れる。
ほんの一瞬の事であったが、女達は気付く。
私の唇が仄かな紅さに染められている事に。
私の腕に抱かれた女の身体がその一瞬で、重要な何かを失い、その代償と言うには惨すぎる穢れに満たされている事に。
恐怖に研ぎ澄まされた本能がそれを気付かせた。
「え? なぜ? お姫様、何が」
呆然と私を見つめるハナの後ろで、女達は悲鳴を上げて逃げ散り始める。闇の産物である私から出来るだけ遠くへ行く事を願って、走り出す。
その悲鳴によってハナもようやく私が異質なものである事を認めたのか、身を翻すと
他の女に続いて逃げ道を探した。
「枝よ、茂みよ、道を塞げ」
私の囁くその一言だけで、木々は両手を伸ばして女達の行く手を遮る。
動くはずなど無いと思っていたものが、目の前で容易く動き、常識を覆された女達は歩き方も分からなくなって、崩れるように大地に座り込んだ。
「ウル、誓約を」
「かしこまりました」
女達は一人の人間ではない紳士が近付くのを怯えながら見つめ、ただ必死に命乞いをする。そして何かを誓えば助かるという事を理解すると、その意味するところも知らずに誓いの言葉を口にした。
「お姫様、まさか貴方が。嘘。嘘だと仰って下さい。私達を騙していたのですか?」
ハナは私の顔を見もせずに、両手で土を強く握り締めて呟く。その瞳から大粒の涙が次々と零れ落ちては、握った土に染み込んでいった。
「嘘じゃないわ。貴方の兄を悩ませている犯人、化け物。それは私だったの」
「身分の差なんて忘れてしまうほど仲良くなれたと思っていたのに。どうして私達を騙したんですか?」
「身分の差じゃないわ。私とハナの間にあるのは、種族の差。その差は、忘れる事なんて出来ない」
「私達を、騙していたんですね?酷い。酷い。本当に、酷い」
騙すつもりは無かった。言葉に出来ず胸が絞まる。
「私は一度だって、自分が人間だとか、自分は化け物じゃないなんて、言った憶えはないわよ」
「酷い。また口先で私を欺いて、酷い。酷過ぎます」
「えぇ、酷いわね。それは間違い無い。ハナの言う通りよ。私は酷い。だって、人間じゃないんですもの」
ハナは両手で激しく大地を叩き、血が滲むほど唇を噛み、何かを堪えるように身体を小さく震わせる。
神に願いが届いたと言ったその唇に滲む血に、欲望を掻き立てる私は何と浅ましい獣か。
彼女の心に輝いた小さな希望を踏み躙ったのが私自身である事を半ば忘れ去りそうな、いやむしろ忘れ去ろうとさえしているような夜魔の心に私は怯えた。
「さぁ、ウルが来た。ハナの番よ。今日見た事を誰にも話さないと誓って。そうしないと、貴方を生きて人間の世界に帰してあげられない。分かってくれるわね、ハナ?」
ハナはその握った土を私の顔目掛けて投げつけた。
土の要素は夜魔である私に怯え、人間の与えた運動など実行するはずは無いのだが、その飛礫は私の頬をほんの微かだが汚した。
それはきっと、その土に彼女の涙が染みていたからだろう。
人間の強い思いが、土の要素を私の支配から守ったのだ。
「この、裏切り者。私の名前を気安く呼ばないで。この人殺し。化け物。悪魔。
貴方なんか、ロベルトさんに殺されてしまえば良いんだ。
貴方なんか、信じなければ良かった。
貴方なんか、貴方なんか、もう、
大嫌いよ。」
たかが人の瞳から零れた幾滴かの水にそれほどの力が籠もるとは思いもしなかった。
それはきっと、それだけ強く彼女が私を憎んだ証なのだろう。
私はその土埃と、まだ溢れてはいない水滴を頬から拭い取って、何もかもに背を向ける。
その場から逃げたくなった、というわけではない。
だがそれ以上その場に居ても、更に何かを失う事はあっても、何かを得る事は絶対にあり得ない事を悟り、私は全てをウルに任せて一人きり屋敷に帰った。
屋敷に戻った私を、ロザリアが待っていた。
ロザリアは帰ってきた私を見るなり、近寄ってきてその平手を私に向けて思い切り振り下ろした。
その平手を防ぐ事自体はそう難しいものではなかったが、むしろ彼女が私を打ち据えようとした事実に私は打ち据えられた。
「何? 私は、何かロザリアの気に障る事でもした? 貴方の教えてくれた行儀作法は、ちゃんと守っているわよ」
「行儀作法に誤りはないわ。見事なものよ。だからこれは、あの方の命令ではなく、私が個人的に貴方に腹を立てているのよ。その意味が分かる?」
「分からないわ」
私がそう応えると、またロザリアは私を打った。
「手の届く場所にいる者達は全て守りたい。手の届かない場所に居る者なら、歩いていってでも守る。そう言ったのは貴方自身ではなかった? それが今の有様は何? あの方の命を受け、貴方のためだけにこの屋敷へ残った者達を悉く侮辱し、傷付けて。もう一人前の夜魔にでもなったつもりなの? もう誰の助けも借りずに生きていけるとでも言いたいの?」
「私はそんな事、言ってないわ。一人では生きていけない。私はそう言ったのに、突き放したのはウルの方よ」
「あの者を根拠の無い言葉で責め立てたのは貴方でしょう? 黒翅公を無闇に疑い、拳で打ったのも貴方でしょう?」
ロザリアは急に激しい口調を収め、物寂しげに言葉を続ける。
「どう見ても、周囲を突き放したのは貴方自身よ。少なくとも、突き放す事を最後に決めてしまったのは貴方」
「私はそんな事、決めてない。最初から皆、父の命令だから私の相手をしてくれただけなのよ。本当は誰も私の傍には居なかった。違う、ロザリア? 貴方もそうでしょう?」
「そうよ。あの方の命令だから貴方なんかの傍に居るのよ。でも、どんな理由だろうと、私達は貴方の傍に居るでしょう? どうして、誰も居ないなんて口に出来るのよ? 今の貴方は、わざわざ誰も居ない場所を選んで逃げ込んでいるようにさえ見えるわ」
ラバンにもそう言われた。
しかし私が人間と親しくする奇抜な者だからと、夜魔達は見放した。
そして私が夜魔という恐ろしい魔物だと知って、人間達も逃げていった。
私は、ただ
「私は、ただ、何もかもを手に入れたかっただけよ。」
ふと気が付くと、私の頬を小さな雫が伝い、そしてその粒が次第に大きさを増す。
ロザリアの手がすうと伸びてきて、その雫を拭ってくれた。
頬に触れる彼女の指が温かく、なぜか私は怯える。
「さぁ、そんな顔をしては駄目よ。あの方の娘でしょう?」
彼女が私から指を離した瞬間に、私は慌ててその手を握った。
私は、その温もりがまた私から離れていってしまう事に怯えていたのである。
私が何かを手に入れたとしても、それは全て父の血がもたらしたものだ。
降って湧いた恩恵を再び奪われる時、それもまた己の力が全く及ばない事に怯えるのである。
「私は、誰にも裏切られたくなかった。信じるのが怖かった」
「一層信じたいから、また強く疑って」
「信じないから、裏切られないわけでもないのに。信じる事と、裏切られる事は、無関係だと分かっていたのに」
孤高不屈の存在である夜魔が、他者との絆に翻弄され涙するなど、純血種であるロザリアの目にはどれほど滑稽に映っているのだろうか。
しかし彼女はそんな素振りなど僅かも見せず、もはや憤りも隠し、ただその表情には慈愛を満たしていた。
「黒翅公は、貴方が口にしたもの以外には、何も口に出来ないわ。それが彼の両手に嵌められた枷だから。だから、彼が貴方の意に反して人間を殺める事は無い」
ロザリアがそっと囁く。
「雫奪の妃、他人の屈辱を、わざわざ説明してくれるな」
気が付くと、窓辺にラバンが音も無く立っていた。
今もまだ赤い目を僅かに伏せ、私を見ようとはしない。
ロザリアはラバンにも薄い微笑を向け、そしてまた私に向き直って言う。
「信じてあげなさい。彼や私がそれぞれにどんな思惑を抱えていようと、確かに貴方の傍に居るのだから。貴方はただ、信じたいと願った己の思いを信じれば良いのよ」
どんなに手を伸ばしても、それぞれの心にまでは届くまい。
しかしその手には、その身体には触れられる。
心は、その身体の中にある。
だから、心も私からそう遠くない場所にある。手の届く場所ではないが、心もすぐ傍に居る。
「そしてウル、あの者は貴方のためだけに生み出された者よ。それは文字通りの意味で、あの者が貴方を見限る事は絶対に無いわ。何かを信じなければ生きていけないと言うのなら、他の何を疑っても、あの者だけは信じなさい」
「でも父が私を見放した時、ウルも私の傍を離れていくわ。そしてきっとベニメウクスか、あるいはまた別の新しい娘の教育をするのよ。私の事なんか忘れたような顔をして。私には、それが最も辛い事なの。耐えられない事なの」
生まれて最初に目にしたものはウルであり、それが私にとってウルをただの教育者ではなくさせていた。
私を育てる父のような存在かとも考えたが、実際はそれ以上に何か重大な位置を占める不可思議な存在であった。
「ウルが貴方以外の教育をする事は無いわ」
「でも父の命令があれば彼は」
「それは無い。言ったでしょう、あの者は貴方のためだけに作られたと? 貴方の教育を終えたら、役目を終えたあの者は消えるのよ」
「え?」
「命令を執行すれば消えるの。被造者とは、そういうものなのよ」
私は言葉を失い、混乱する頭を抱え込んだ。
ウルに自己などは存在しない。だから私を裏切るなどありえない想像だった。
しかし被造者の行く末がロザリアの言う通りなのだとすると、ウルは私を教育するほどに自身の死に近付くではないか。
それでもあれほど一心に私の成長に尽くすのか。
それを私は、勝手な憶測で罵り続けたのか。
戸惑いと自責の念が入り混じり、激しい嘔吐感に襲われる。
息をする事さえ難しくなり蹲る。
その私の無様な姿をロザリアもラバンも、嘲るわけでも呆れるわけでもなく、ただ無表情に見つめていた。
夜魔である彼女達に、私の嘔吐感の意味は理解出来ないだろう。だがそこに理解出来ないものがあるのだという事を、二人は理解してくれていた。
「あぁ、ウル、」
言葉にしようも無い思いが口をつき、彼の名を叫ぶ。
「何で御座いましょう、お嬢様? そんな大声でお呼びにならずとも、私はいつでも傍に居ります」
煙が彼の姿を明らかにするよりも早く、私は彼の胸に飛び込んだ。
その行為をウルは、日頃となんら変わらない様子で窘める。
「ウル、酷い事を言ってごめんなさい。貴方に見放される事が」
「お嬢様はいずれ偉大な夜魔となられるお方です。今はそうでなくても、私を必要としなくなる時がやってきます。私のような些細な存在のために惑う事はお止め下さい」
「でも私は。貴方を失うくらいなら、偉大な者になどなりたくない。お願いよ、私を完成させないで」
ウルは眉間に皺を寄せ、困り果てたようだった。
そして少し語気を強め、私を戒める。
「そのような事を仰ってはいけません。ご主人様が私を教育者として不適格であると判断なされたなら、その時も私は任を解かれるのですから」
「そんな、」
「私の事は良いのです。ですから、そのような事を仰いませんよう」
私は頷くしかなかった。
何をどうしようとも、いずれウルは役目を終えて消えてしまう。
また私の力が及びもしない場所で、授与と剥奪が決められていたのである。
「私の事は良いのです。それよりも、黒翅公に謝罪はなさいましたか? 夜魔というもの、不屈ではありますが、頑なではいけません。明らかに誤ったならば、潔く非を認める強さをお持ち下さい」
ウルは腰に回した私の手をそっと解き、そのまま私をくるりと回してラバンの方に向き直らせた。
ラバンは静かで、どことなく薄っすらと寒い表情で私を見ていた。
私は咄嗟にその視線から目を逸らしてはいけないような気がした。
夜魔にとっての謝罪とは、相手に許しを請うものではない事を悟る。
過ちを隠匿すれば己の心を貶める。
謝罪とは、己の心を貶めないための、自らの精神の高潔さを守るための言霊なのだろう。
「もしも貴方が勝手に人を食べる事が出来たなら、世界中の人間を食べ尽くして、とうの昔に父に復讐を果たしていたでしょうね。
考えてみれば簡単な事なのに、私は早とちりしてしまった。
浅はかな私は、許してもらえる?」
ラバンは唇を開いたが、そこから言葉が出るまでには若干の間があった。
そしてただ一言だけを口にする。
「この一度だけ、謝罪を受け入れよう」
そしてすぐに窓からまたどこかに飛び去っていった。
「ありがとう。」
部屋に残された僅かなつむじ風に礼を述べる。
「これで一段落ね。全く貴方は、あの方の娘である事をもっと自覚なさいといつも言っているでしょう?」
「ロザリアにも余計な手間と心配を与えてしまったわね」
「全くだわ。どうして貴方はそう問題を抱えたがるのかしら?」
ロザリアは眉間に寄った皺を指先で伸ばしながら、呆れたような溜息を長々と吐く。
しかし私はそんな細い吐息にさえ吹き飛ばされそうなほど衰弱していた。
生まれた瞬間から常に傍に居り、そして今後も永久に傍にあるだろうと信じていたウル。
彼が私の元から去っていく問題は、何一つ解決していない。
「あぁ、ウル、貴方を失う日が来るなんて。貴方に褒められたくて、私は様々な事を学んだわ。でも、私が完全な夜魔になったその日に、褒めてくれる貴方が居ないなんて」
自身で口にしてみて、その未来の光景の無意味さに打ちのめされる。
私が生まれた意味を達成した瞬間、私はたった一人で喜ばねばならない。
その瞬間、ラバンは喜ぶだろう。だがそれは私から開放されたが故で、私の喜びとは混ざり合わない。
その瞬間、ロザリアも喜ぶだろう。だがそれは父の傍に戻れるが故で、私の喜びとは形が違う。
父が共に喜んでくれるだろうか。
いや、父は喜ばないだろう。父は私に何も求めていない。だからただその瞬間を受け入れるだけだ。そこに感情は無い。
私の未来が途端に色褪せたように感じた。
「貴方を手放したくない」
その胸に飛び込む私を、ウルは相変わらずの調子で引き離し、厳しく淡々と諭す。
しかし私はその引き離す手を潜り抜け、物分りの悪さを晒しながら何度も同じ行為を繰り返すのである。その度に引き離され、また潜り抜けながら。
その様に業を煮やしたのかロザリアが呆れ果てて言葉を漏らした。
「どうしてもその者を傍に置いておきたいのなら、あの方に譲り渡してもらえるよう懇願してみる事ね」
一条の光を見た私はロザリアの方へ見られたものでもない歪んだ顔を向ける。
「父は許してくれるかしら?」
「分からないわ。ただ少なくとも、貴方があの方にそれを持ちかけるに足るだけの存在にならなければ」
確かに、今の私はあまりに小さく、父との会話さえ容易くない。
ウルを譲り受けるという事は、父の所有物を奪う事であり、私がそれに相応しい夜魔でなければ話を起こす事も出来まい。
しかしウルが役目の終了と共に消える命令を抱えているのなら、彼を消さないためにはその命令を改めてやらねばならない。それを行えるのが彼の主人だけというのなら、私が彼の主人になる以外に方法はないのである。
「分かった。父からウルを譲り受けられるだけの夜魔になるわ」
「そんな被造者一人がそんなに大事かしら? 貴方という人は、本当に分からないわね」
ロザリアには分かるまい。
一人で生まれ、一人で夜魔になれた、あらゆる純血種に私の執着心が理解出来るはずも無い。
私を教育し純血種に比肩する夜魔にするのがウルならば、私が自身を夜魔であると認識出来るのもウルが傍に居てこそだ。
たった一人で己の全てを完成させる事の出来たロザリアに、私の存在が抱えた虚ろさを知る事は出来ないのである。
「ウル、貴方は私が主人では嫌?」
「ご主人様がそれをお許しになるのであれば。お嬢様がそれをお望みになるのであれば。私には異を唱えようもありません」
命令だけが意味を持つウルらしい言葉だった。
彼は私がその命を救いたいと願っている事を喜びはしない。
ウルは生まれた瞬間から被造者であり、その事を何の疑いも無く受け入れている。被造者の命が貴重になりうるものだとは一度でも考えた事はあるまい。
純血種がそうであるのと同様に、ウルにも私の心は理解出来ないのである。
だからそれは私一人きりの感傷で、私の自分勝手な願望なのだろう。
「えぇ、私はそれを望むわ。貴方が異を唱えない限り、私はそれを望む」
私がそう言うと、その意味も分からないくせに、ウルは微笑み返すのである。
「私も、お嬢様の願いが叶う事を願っております」
その言葉に私がどれほど勝手な空想を膨らませ、悦に入ってしまうかも知らずに。
次話更新9/28(金)予定
作者ツイッター https://twitter.com/yuki_anno