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ヤミヨヒメ  作者: 二束
12/17

ヤミヨヒメ  -ベニメウクス-

 ラトリーヌの献身的な奉仕のおかげで、私は獣によって飢えを凌ぐ必要が無くなった。

 心成しかウルは満足げである。

 もちろん彼の無表情は日頃と変わらず、むしろそれをそのように読み取ってしまう己に不満を覚えた。

 屋敷ではラトリーヌの腕にある、閉じる事の無い傷口が芳醇な気配を振り撒き続け、私はその誘いに乗って彼女を奪ってしまう事が怖かった。

 だから私は街に出た。無表情のウルを伴って。

 街は変わらず、数日前の騒動を治められずにいた。

 人々はまた露天を広げ、以前の生活に戻っているが、その心の中にはあの時の恐怖がまだあることを感じる。

 ランスの部下達が警戒を強め、街中に目を光らせている。

 しかしここに二人の夜魔が居る事に彼らは気付けない。

 ランスの屋敷を訪れた時、彼は頭を抱えていた。

「また僕は、誰も守れなかった。どうすればこの恐怖を終わらせる事が出来るんだ」

 狼に連れ去られた人々の行方は知れず、ほんの数人が無残な亡骸となって森の片隅に置き去りにされていた。

 ランスが街の人達のために出来た事は、ただその亡骸を持ち帰る事だけだったのである。

「貴方の責任ではないわ。全ての人を守るだなんて、誰にも出来ない事よ」

「それでも、僕は、」

 それでもランスは全ての人間を守ろうとするだろう。

 コンサルは息子の様子を見て、首を左右に振り、部屋を出て行く。かける言葉が無い事を彼は知っていた。

 ランスは、不可能だからといってそこにいる者を切り捨てては行けない人だ。

 私は、見切りを付け、私から離れた者を切り捨てて行った。

 ランスは自身ではなく、私を責めるべきだ。

 そこにハナが現れ、口を開いた。

「お兄様、お姫様の言う通りで御座いますよ。その言葉が残酷に聞こえるのなら、ここで自分を責めているお兄様はもっと残酷です。死者に嘆くより、残された者のために笑って下さいまし。それが、お兄様のお勤めで御座いましょう?」

 彼女らしくもない静かで優しげな口調だったが、これまでのどんな口調よりも力強く聞こえた。

 ランスは懸命に微笑んで見せるが、その表情は辛い。

 それでもランスは己を奮い立たせようとしていた。

 残された者を守る事が、最も優先すべき事であり、それ以外に出来る事も無いと彼も分かっていた。

 分かってはいても、己の不甲斐無さを呪いたくなる時がある。私にもそれは分かる。

「さぁ、隊の方が報告に来ておりましたよ。出て差し上げて下さいませ」

 ハナが微笑み、ランスも微笑む。だから私も笑って見せた。

 その兄妹はあまりに気丈過ぎると、私は思う。

 そしてランスは出ていった。

「教会の方は皆、犠牲になったと聞きました。シスターラテも……。私は、悲しゅう御座います……」

 私の心臓が一つ大きく鳴った。

 私の中に流れているラトリーヌの血が、ハナの言葉に答えたように思えた。

 しかしそれは私の思い過ごしだろう。血に意思は無い。

「えぇ、たくさんの人が傷付いた。何よりもその理由が分からない事が辛いわ」

 ハナは頷く。

 彼女にラトリーヌが生きている事は告げられない。

 私が闇に生きる者である事を悟られるわけにはいかない。

 またハナまでも闇に引き込む事は出来なかった。

「まだ私達が小さな子供だった時分の話ですが、シスターラテはお兄様に好意を寄せておりました。神の娘となってからはそんなお話をしなかったので分かりませんが、でもきっとずっとそうだったのだと思います。

 お兄様が街の人達を守る職に就いたから、きっとシスターラテはだからシスターになって、全ての人々を守るために祈っていたのです。

 そんな健気で優しい人が、どうして、そんな人がどうして、どうしてなのですか、お姫様?」

 ハナの瞳には涙が溜まっていた。

 しかし彼女はその雫を落とすまいと必死に堪えていた。

 もはや泣いた方が楽になれるのに、なぜ苦しい方を選ぶのかと、私は彼女の姿に痛みを覚える。

「分からないわ」

 私にはそう答える以外に無かった。

 ラトリーヌは私が彼女を抑圧から解放したと言ったが、彼女が何を抑圧と呼んでいたのか私には分からない。

 だからハナに対して何を告げる事も出来なかった。

 ハナは涙を拭い、小さく頷いた。全ての事象に理由など存在しない事を知っていて、それでも理由を求めずにはいられないのである。

「そうやって自分を信じてくれた人を守れない事がお兄様にはとても辛いはずです。裏切ってしまった気になって、自分を責めて。それが職務でも、悲しむ暇も無くて。

 そしてその暇も与えずにお兄様を立ち上がらせる自分が、私は自分の非情さが疎ましいです。お兄様やシスターラテのように優しくない自分が厭わしいです」

「貴方もそうやって自分を責めるのね」

「え?」

「皆、誰かを助けたいから、自分に残酷でいる事を強いている。だからその残酷さは、優しさと同じよ。貴方も、生き残った人達のために、笑わなくては」

 ハナは小さく笑った。頬に少し紅が灯る。

 そして小さな声で囁くように、悪戯な声で言った。

「お姫様も、残酷ですね」

「でも、同じだからって、褒め言葉にはならないわよ」

 そしてハナは徐々に声を大きくして笑った。

 それが空元気である事は明らかだが、それでも私は涙に曇る表情を見ているより気分が良かった。

 不意に部屋の戸が開き、そこに入ってきた人物を見てハナの表情が一層明るくなった。

 彼女はすぐに駆け出し、その男性の胸に抱きついた。

「ロベルト様!? いつこちらに? 嬉しい。私達を助けに来て下さったのですね?」

 ロベルトと呼ばれた男性はハナの腰を持って彼女を軽がると持ち上げ、全身で喜びを表現していた。

「ハナちゃん、大きくなったねぇ。もう前みたいにロベルト兄ちゃんとは呼んでくれないのかい?」

「前に会ってから五年。ハナももう十七ですわ。大きくもなりますし、言葉遣いだって身に付けたのですよ。いつまでも子供だと思わないで下さいまし」

 ロベルトの腕に支えられながら、ハナは宙を舞うようにくるくると回る。

 そして空を飛びながら、ふと私と目が合うと、彼女は頬を赤らめて身じろぎし始めた。

「ロベルト様、降ろして下さいまし。お姫様が見ております。恥ずかしゅう御座います」

 ロベルトは快活に笑い、ハナをふわりと地面に降ろした。

「どうした? 昔はこうしてやると喜んで、一日中でもせがんでたじゃないか?」

 紅い顔をして裾を整えるハナの頭をロベルトは掻き撫でた。

 髪を乱されたハナは仕返しとばかりに、ロベルトの黒茶色の髪へ両手を伸ばすが、ロベルトは巧みに上体を反らせてそうさせない。

 先ほどまでの悲しみを忘れたように楽しげに戯れる彼女を見ていると、私は自然と微笑が漏れた。

 それを笑われたと思ったのか、ハナは一層恥ずかしそうにし、気を静めようと平静を装った。

「お姫様、こちらはロベルト様で、お兄様の古いご友人で御座います。ロベルト様、こちらはフラス、フレセ、あぁ、フレスベルク卿のご息女様でいらっしゃいます、ディード様で御座います」

 ロベルトは頭を下げ、簡単だが涼やかに礼を行った。

「お目にかかる事が出来、大変光栄です。僕はロベルト=シュトアウル。悪魔狩りを生業としています」

 確かにロベルトは様々に武装しているが、その体格は人間の剣士や戦士の屈強なそれとは違い、細いが強靭で張りのある狩人のようであった。それを例えるなら、剣よりも弓のような力強さである。

 しかしその獲物が悪魔とは奇抜だ。

 ラトリーヌに貰った本の中にしかいないそれを狩るとは何を示しているのだろうか。

「悪魔狩りって何なの?」

「ロベルト様は人々に害をなす化け物を打ち倒してしまうのですわ。この街の騒動も、これできっと解決です」

 化け物、それはもしや私達、夜魔の事を指しているのだろうか。

 人間達が夜魔の驚異から身を守ろうとした、自衛の粋を結集した姿が、彼か。

 腰には長剣を二振りと短弓が一本。その上着には表と言わず裏と言わず無数のナイフを備え、背には何やら様々なものがずっしりと詰まっているらしい鞄を負っている。

 全身刃の塊であった。

 私達の価値観では、刃は敵意の表れだが、ならばロベルトは夜魔に対してよほどの敵意を持っている事になる。

「あぁ、解決してみせる。僕の友人を泣かすような最低の悪魔は、この剣で両断してやるさ。」

 不意にロベルトはその腰の剣の一振りを抜き放った。

 警戒した私は一歩退く。

 するとロベルトは優しげに微笑んだ。私が刃物に怯えて退いたと思ったのだろう。

 その剣は鋼に細い銀の板を幾重にも巻きつけていた。その螺旋に覆った銀を叩いて鍛え、奇妙な刃を持つ剣に仕上げてある。

 何よりも奇妙なのが、その剣の帯びる気配がとても人間の作り出したものとは思えなかったからである。

 銀には僅かだが闇を払う力がある。そういう要素が含まれているからだ。

 その銀を、思念を込めながら鍛え、通常人間の技術では考えられない輝きを与えていた。

 むろん、その輝きとは、目に映る光の輝きではなくて、闇に反する要素としての性質を言う。

 ただ肉を切るだけならば、そこらの鋼のナイフにさえ劣るかもしれない。

 だがその銀の輝きは肉よりもむしろ、暗き闇を切り裂くだろう。

 つまりそれは明らかにその闇の中に生きる夜魔を斬るためだけに、人の信念が作り上げた剣なのである。

 鋼などを私は恐れたりしない。その剣が抜き放たれ、私が退いたのは、その刀身の鈍い反射に気味の悪さを覚えたからだった。

「でも無理はしないで下さいまし。事件が解決しても、ロベルト様が怪我をなさっては、皆喜べませんわ」

「なに、僕には容易い仕事だよ。心配無用だ」

 ロベルトは剣を納め、また笑ってハナの頭を掻き撫でた。

 ハナはまたむくれた表情で、ロベルトに仕返しを試みていた。

 私は、良い気分にはなれなかった。

「さて、挨拶が長くなり過ぎたな。そろそろランスのところに行かないと」

「あ、お兄様なら、先ほど隊の方とお出かけになりましたわ」

「大丈夫、そこで会ったから。何やら北の森の池付近に化け物が出るとかで、早速仕事さ」

「そうで御座いますか。頑張って下さいまし。でも、お気をつけて。ロベルト様も、お兄様も」

「心配御無用。これで、全部解決させられると良いな」

 ロベルトは小さく微笑むと出て行った。

 ハナは屋敷の門まで彼を見送っていった。

 その間に私は小声でウルに話しかける。

「彼、夜魔を狩るそうよ。この街に事件を起こす夜魔を」

「そのようです。気付かれなければ問題は無いとはいえ、あまり関わりになられない方が宜しいのでは?」

「そうね。私も獲物の一人だものね」

 自嘲する私にウルは小さく顔を顰めた。

 またハナが戻ってきたので、私達はそれ以上怪しげな会話をやめた。

 ハナはにこにこと微笑み、もはやこれで騒動は終わると信じきっている。

「でも、騒動が、化け物のせいだとは限らないでしょう?」

 私は問うてみる。

「このところの騒ぎは異常です。怖い化け物など関わってない方が良いのは仰る通りですけど、きっと化け物のせいですわ。そうでないとお兄様がいつまでも解決出来ないなんて考えられませんもの」

 ハナはその小さな握り拳を振り回して、空想の敵を叩く。

 私は頬を打たれるのではないかと少々心配した。それも有り得ない想像ではないからだ。

「それにしても、お兄様もロベルト様をお呼びしたのなら、ハナにも教えて下されば良いのに。黙っているなんて意地の悪いお兄様ですわ」

「仲が良いのね、貴方達と彼は」

 ハナはやや照れて俯き、紅潮する頬を両手で押さえた。

「久しぶりだったので、つい。お恥ずかしいですわ。本当に昔からのお友達なんです。その時はロベルト様も貴族でいらっしゃいました。でも化け物退治の道具を買い集めすぎて、破産したっていう大馬鹿なんですよ。おかしいでしょう?」

 ハナは大きな声で笑うが、夜魔を傷付ける道具を買い漁る男を、私は容易く笑えない。

 ロベルトが持っていたナイフからも全て銀の要素を感じた。確かにそんな買い物をしていれば人間の財など尽きて当然だろう。

「でも本当に良い御方で、今でもお兄様の大親友なんです。普段は手紙の一通も寄越さないのに、私達がこんなどうしようもなくなった時にだけ、ふらとやって来て助けてくれるなんて。私、本当に嬉しいです。皆を幸せにと祈り続けた、それが叶ったような気がしています」

 感動のあまりハナの目が潤む。

 私はただ無感動に彼女を見ていた。

 ラトリーヌは祈る事をやめた。

 ハナは祈りが届いたと信じた。

 公平なのか、そうでないのかも分からない。

 ただ私はその複雑さを眺めていることしか出来ないのだから。


 私はハナと別れ、ランスの屋敷を出た。

 ロベルトの見せた闇を払う剣の純真なる輝き、その禍々しき気配に落ち着きを奪われたからだ。

「ウル、様子を見に行きましょう」

「関わらない事に決めたのでは? 余計な危険を増すだけで御座います」

「でも人間が狩りと呼ぶ行為は殺戮が目立ち過ぎるわ。この騒動に無関係な夜魔まで獲物にしかねない」

「それを確かめようというのですね?」

 私は頷いた。

 人に牙をかける私などが、その報復として狩り出されるのならば仕方があるまい。

 だがその湖にいるという夜魔が、この騒動に無関係ならば狩り殺されるのは理不尽に過ぎる。

 私達は足を森に向けた。

 その森は先日、狼が去っていった方角に近い。

 木々の合間を進んでいけば、微かに血の名残香があった。

 人間には知覚出来ないだろうが、そこで命を落とした者達の断片的な気配が残されている。

 ランスの組織した探索隊が森を突き進んでいき、私達は彼らに見つからぬよう、木の葉や闇に身を潜めて走った。

 本来ならばそこに住むはずの獣や鳥達が見当たらない。

 侵入してくる人間から逃れたのか、死者の気配に怯えたのか、あるいは別の理由か。それは分からないが、正常な様子とは言えなかった。

 森に死と恐怖と、それに伴う静寂が蔓延していた。

 人間の鼻には感じないであろう腐臭も、私の鼻には酷く臭っていた。

 身を隠すために纏う闇がその腐臭に侵蝕されていくような気がして、私は駆ける速度を増す。

 すると不意に視界が開けて、私は湖畔に飛び出した。

 そこでは巨躯の獣が一頭、何ともあどけない仕種で水浴びに興じているところであった。

「ウル、熊だわ」

「そのようですね」

 私はその獣を指差す。

 気配を感じてそれはこちらに振り向くが、大きな身体には不釣合いに小さい瞳が堪らなく愛らしい。

 いや、外観こそ愛らしくはあるが、その瞳にも双肩にも極僅かながらも要素の凝集を感じる。

 その熊は夜魔になりかけている。

 だから私の気配を感じてこちらを見てはいるが、まだ闇を見透かすには至らず、不審感を覚えて戸惑っていた。

 しかし隠れたままではこの熊が先日の騒動に関係があるかどうか調べようもないので、私は身に纏っていた闇を払った。

 その熊から見れば、己一人だけと思っていた水辺に、俄かに見知らぬ女が一人姿を見せたのである。相当に驚いたのか、鈍い唸り声を一つ上げた。

 だがその熊がやはり夜魔であったと思えるのは、その異常事態に対して驚きはしても、恐怖はしなかった事だ。

 それはたちまち走り寄ってくると、巨躯を起こし、その鋭い爪を備えた太い腕を私に向けて振り下ろした。

 だが所詮は昨日今日夜魔になったばかりの獣である。その爪を避ける事は容易かった。

 その熊と私の間にはあまりに差があるのだ。ラバンが手を出す気も起きないほどに。

「人間ガ、森ヲ、穢スナ」

 その牙の間から漏れるのは、咆え声ではなく拙い言葉。

 そしてもう一度腕を振り払おうとしたが、それよりも私が言霊を用いる方が速かった。

「水よ、波立ち、押し流す力となれ」

 その熊が足を浸す湖が突如として高波を発し、獣の足を絡めて引き倒す。

 熊は転倒すると波に飲まれていき、やや距離を置いた場所でようやく立ち上がった。

 状況を理解出来ず、ただ全身を濡らす水を身震いで振り払う。

 やはりその仕種はなかなかに魅力的だ。夜魔としての特性が発揮されているのだろうか。

「森ヲ、穢スナ。人間ハ、出テ行ケ」

 その獣はまた咆える。

 まだ要素を感じられるほどには夜魔として成長していないから、あらゆる事を理解出来ていない。

「獣よ、言葉を覚えた程度で調子に乗らない方が良いわ」

 私は多少の威圧を込めてその熊を睨む。

「黙レ。森ヲ殺ス、人間メ」

 だが熊は牙を剥いて咆え返してきた。

 彼には視線に絡む要素の動きなどまだ分からないので、華奢な女の不遜な態度に怒るのは当然か。

 だがやはり夜魔には階級がある。理屈を知らないからといって私もその熊の態度を許すつもりはなかった。こんな非力な私の心中にも、偉大な父と同じ支配者の気質が僅かなりとも存在していた事に気付き驚かされる。

「私と人間の区別も付けられない癖に良く咆える。不相応に過ぎるとその命、刈り取られるわよ、今この場で、この私に」

 そうして私が強く見竦めると、熊は僅かに唸ったが、すぐに強張っていた全身の筋肉を弛緩させ、私の前に屈した。

 私はようやく視線の力によって相手を屈服させた。多少の脅し文句はあったが。

 むろん、至尊の君と呼ばれる父の眼光に比べればあまりに儚い力である。だが生まれたばかりの頃の私は何をするにも言霊の力を駆使せねばならなかったのだ。その時に比べれば相当の成長ではないだろうか。

 私は密やかに喜び、ほんの少し自慢げな笑みをウルに向けた。

 気付かないのか、あるいはここで褒めては私が付け上がると知っているのか、ウルは無表情のまま何を言わなかった。

 反応のないウルに少々機嫌を損ねながらも、気付かれぬよう振る舞い、私はその熊に言う。

「分かったら傍に来なさい。近くに来ても大人しくするのよ、死にたくなければ」

 熊は頷いたように見えた。そしてのそのそと近付いてきて岸辺に這い上がると私の前で座った。

 通常の夜魔ならば跪く状況なのだが、生憎と熊の身体では肉体的な構造の限度上、両足の関節を伸ばしたまま地に尻をつけて、ただべったりと座るのが精一杯だった。

 しかしその座姿勢もそれはそれでなかなか悪くない。

「人間、違ウ?」

 その熊はまさに見事な巨躯で、座ってもまだその頭は私よりも高い位置にあった。

「そうよ。姿は人間と似ているけれど、私は貴方と同じ類に属する存在。貴方もきっとそのまま生き続ければ、いずれは人型になるわ」

 だが彼は私の言う意味が分からないようで、私を見つめながら首を捻る。

 その仕種の愛らしさといえば、まったく侮り難い魅力だった。

「貴方、名前は?」

 彼はまた首を捻った。

 彼にはまだ名前が無かったのだ。

 自我を覚えたのはつい先日。誰も彼の事を呼んだりはしなかったのである。自分自身でさえも。

「私が付けてあげましょうか?」

「必要無イ」

 それもそうか。不屈の精神を持つ夜魔が、己を屈服させた者から貰う名などに耐えられるわけがない。

 より己の存在を明確に知れるようになってから、自分で名付けるのが良いだろう。

「私が来たのは、この森の向こうにある街の人間を傷付けた者が貴方なのか聞きたかったからなの。貴方が襲ったの?」

「ソウダ。人間、森、穢シニ来ル。許セナイ。ダカラ追イ払ウ」

 先ほどから彼が頻りに訴える森の穢れとは何だろうか。

 それを問うてみても、彼は憤りを訴えるばかりで明確なものを示さない。

 推察して思い当たるのは、木々や土に染み込んだ腐臭か。

 それを問えば、熊は肯定も否定もせず、ただ低く呻いた。

 しかしそれが穢れなのだとしたら、辻褄が合わない。

 森の中で多くの人間が命を落としたから、夜魔に不快な思念が満ち、それをこの熊が憤っているのならば、そもそも原因となった人間を追い込んだ狼が全く別の者の仕業になってしまう。

「狼達に街を襲わせたのは貴方ではないの?」

「違ウ。街、人間ノモノ。森、人間ノモノ違ウ」

 街を襲撃したのはその熊ではない。

 ただ森に侵入してきた人間を襲っただけである。

 この森で自我に目覚めて、最初に持った欲望。

 純血種の夜魔ならば恐らく必ずあるであろう原初的な支配欲を刺激されたのだ。

 彼が人間を襲ったのは、その森を己の掌中にしておくためだったのだろう。

「良く聞きなさい」

 怒りに身を震わす熊を一喝すれば、彼は素直に気を静めた。もちろん、まだ唸り声を漏らすが、猛りを噛み殺すためには仕方ない。

「事の発端は貴方ではないし、責任の全てが貴方にあるわけでもないけれど、でも貴方が人間を殺めたのは事実だわ。だから貴方が人間の報復の対象となるのも、まんざら間違ってはいない。けれど貴方が人間と敵対したのは不幸な事象の重なりによるものだから、一つ忠告してあげるわ」

 全くの無実ならば匿うのも良いだろうと思っていた。

 しかし人間をその爪にかけたのならば、彼には狩られる理由があり、それでも彼を匿うのは不公平に過ぎるだろう。

 それでも忠告を残そうという気になるのは、やはり一方的な肩入れになる。

 私自身も人の敵となる夜魔ゆえ、同族の情か。

「今、人間が森の夜魔を狩り出そうとしているわ。この不本意な連鎖を止めたいのなら、人間達が立ち去るまで貴方は隠れていなさい。人が踏み入ってくるのは耐え難いだろうけれど、今は我慢するのよ。」

 本来ならば彼は人間と衝突するような存在ではないように思える。

 今をやり過ごせば、また互いに距離を置く事も出来るはずだ。

 しかし彼は私の言葉にまた首を捻った。

 ただ人間の侵入を知り、苛立ちで身体を震わす。

「私の言ってる事が分かってる? 今はやり過ごすのよ。それが貴方のためなの」

 彼は牙を剥いて非常に低く、そして長く唸った。

 それから極微かに頷いた。あるいは私にそのように見えただけで、実際には頷いてなどいないのかもしれないが。

「分かった?」

「分カッタ。」

 熊はのそりと立ち上がると、どこかに去っていった。

 巨躯ではあるが、外見はただの獣だ。じっと静かにしていれば人間も見過ごすに違いない。

 ゆっくりと歩くその後姿に、小さな丸い尾が左右に揺れる。

 あの尾は触ると柔らかいのだろうか。少々の興味が湧く。

「あの者、お嬢様のご期待に沿うでしょうか?」

 ウルは問うが、私は答えなかった。

 私の忠告が伝わったかどうかも疑わしい。

 しかしこの後、彼がどのような結果を導くにせよ、私にもはや出来る事は無いだろう。

「少しお節介が過ぎたかもしれないわね。帰りましょう、ウル」

 私達はまた闇を纏い、湖畔を後にした。

 森に踏み込めば、希薄な腐臭がまた鼻をつく。

 あの熊もまた己で決めた境界線の内側を守りたかっただけなのに、噛み違えた歯車はこうも無情な方へ進むものか。

 森の何処かで一頻り長い咆哮が響き、大木が根元から引き抜き倒されたような揺れが地を伝った。

 断末魔の叫びが一直線に天へ駆け上ると、空はそれをあまりにもあっけなく飲み込んでしまう。

「お嬢様のご忠告を聞かなかったようですね」

 叫びの聞こえた方向を、ウルが静寂の瞳で見つめる。その表情はどこか寂しげでもあった。

「彼は私の言った事が理解出来なかったのよ。それにもし理解出来ていたのだとしても、人間を相手に身を屈めている事は出来なかったに違いないわ。彼も、誇り高い夜魔の仲間入りをしたのだから」

「討ったのは、あのロベルトという者でしょうか?」

「分からないけれど、きっとそうね」

 夜魔になりかけているとはいえまだまだ獣の域である。相応の対策を持つ人間であれば狩る事も難しくないだろう。

 互いの境界線を侵し合った果てには一方しか残るまい。

 ただその侵犯も、どちらに罪があるわけでもない。私はそれを酷く残念に思う。

「行きましょう。結末が訪れた以上、もはや長居は無用だわ」

 私は少しずれたストールを肩にかけなおし、また茂みを掻き分けて歩を進めた。

 しかしウルはそこに立ち止まり、未だ咆哮の発信地を眺めている。

 振り返り、目を合わせれば彼は言った。

「様子を見には、行かれないのですか?」

 何ともウルらしくない発言であった。

 夜魔にとって他の夜魔の生死など本来ならば無関心であろう。

 その死は理不尽でなく、抗し難い理由を掲げて立ち尽くしている。

 ならば夜魔はそれを納得していくのである。仕方が無いという言葉で。

 様子を見に行くなどという行為はその規範から明らかに外れていた。

 その行為で何を生じるだろうか。

 何も生じないのならば、その行為に意味は無い。

 夜魔ならばそう考えよと教育してきたのはウルではないか。

「それに、何か意味はあるの?」

 ウルはただ森の先を見つめていた。

 見に行けと強制するわけでもない。黙して帰れというわけでもない。

 そのどちらもが高位の夜魔として間違いではない選択肢なのだろう。

 しかし私はそうしてウルが立ち止まった事に、私に託す彼の望みがあるような気がして、その見つめる方向へ歩む先を変えた。

 途中、隊列を組んで引き返していく人間達と擦れ違った。

 むろん彼らは私達に気付かない。

 ランスやロベルトはまた別の分隊にいるのか、その集団に姿は無かった。

 中には相当の深手を負った者もあり、夜魔の力を思い知ったのだろう、痛みよりも恐怖に震えているようだった。

 更に進み、満ちるのは入り乱れる血の生臭さ。

 そこで私は己の選択を後悔した。

 一頭の獣が巨岩に身を寄せて座り、その身体には幾つもの矢が突き立っている。

 矢だけではなく、鋭利なナイフに切り裂かれた傷も多い。

 その傷口の全てに銀の要素が居座り、獣の身体をじわりじわりと蝕み続けていた。

 生命の源泉である血は留まる事無く流れて、大地の奥深くへと沈んでいく。

 もはやそれに痛みがあるのかも悟らせない濁った瞳で、獣はただただじっと遠い何かを眺めていた。

「一太刀で、一太刀ではないの?」

 私は思わず呟くが、誰に問うたわけでもない。

 その無残な姿を嘆かずにはいられなかった。

 そして同時に、人間に対する苛立ちを覚える。

 同じ死を与えるのなら、なぜこんなにも惨い仕打ちを。

 一太刀で仕留めるだけの技術が無いのか。それともより多くの苦しみを望んだのか。

 獣は残り微かな息で、うわ言の様に呟いていた。

「マモノ、森ヲ守ル。マモノノ森、マモノガ守ル」

 死が密やかに近付いている事も気付かず、それは朦朧とした意識で呟き続けていた。

 人間がそう呼ぶから、それが己の名前なのだろうと、彼は思ったらしい。

 それは己を魔物と呼んだ。

「およしなさい。それは貴方の名じゃないわ。貴方の名は、貴方自身で付けなさい。分かった?」

「……分カッタ。」

 それを聞いて私は安堵する。

 そして、私は自分の剣をつらりと抜いて構えた。

「ウル、貴方のさせたかった事が分かったわ」

 獣の胸には既に小さな螺旋の穴が空いている。しかし心臓に到達しているようでもない。

 きっとそれはロベルトが貫き通せなかった、人の限界を示す惨い傷痕である。

 銀の傷は刻々と獣を蝕み、そのままでもいずれは最後を迎えるだろう。

「人間の手で殺されるよりも、夜魔の手にかかる方が僅かばかり救われます。むろんそれも、慰めになどなりはしませんが」

 ウルが言い終わらぬうちに、私は獣の心臓を刺し貫いた。

 あまりの巨躯ゆえに体表から心臓までの距離は想像よりもずっと長く、心臓を切り裂いたとき既に私の腕は肘の辺りまでその身体の中へ差し入れていた。

 腕を引き抜けば腕に纏わり付く生温い血が皮膜を作り、私から森の風を遮断する。

 獣はがくりと一度大きく揺れ、それを形作っていた要素がふっと散って消えた。

 残されたのはただ大きいばかりの獣の肉塊だけだ。

「私に出来る事も、命を奪うだけよ。私の手で殺めても、救いになどなりはしないわ」

 やはりそれは何も生まなかった。

 結末はなんら変わりない。

 私の行為に意味はあったのだろうか。

 ウルが望んだのは何なのか。

「父も、同じ事を?」

「そういう御方です」

 ウルは私を父と同じに育てたいのか。

 いや、恐らくはその道もあると示しただけなのだろう。

 ウルは、つまり父は私に何かを求めたりはしていない。

 ただ私の歩む様を見ているだけだ。

 その視線に私が勝手に意味を求めているだけなのだろう。

「無慈悲も、慈悲と」

「父の言葉?」

 ウルは頷いた。

 父らしい何とも冷淡な言葉だが、不思議と私に染み渡っていく。

 私の中にも同じ冷たさが、流れていたのかもしれない。

 私は真っ赤に染まった己の腕を見つめた。

 静かな雨がゆっくりと押し寄せ、森の全てを濡らしていく。

 私を覆っていた獣の血もどこかへ洗い流されていったが、それでも私はまだこの手に僅かな血のぬめりが残っているような気がした。

 雨を避けるのも忘れ、流れ去っていく血の川の行く先をずっと見ていた

 身体が冷える。


 その雨はしばらく降り続いた。

 霧の帯を巻くように、雨は街を何度も往復していく。

 私は音も無い雨に染められていく街を窓からじっと眺めていた。

 その雨が街に染み付いた血の臭いを全て奪い去ってくれればと願う。

「ディード様、何を見ているのです?」

 振り返ればラトリーヌが自らの血を注いだグラスを片手に、私に微笑んでいた。

 己から流れ出ていったばかりのそれを手にする様は、どこか儚いものの美しさがあった。

 美しくはあるが、私はそれをあまり好ましく思えない。

 夜魔の生は長く、壊れる美を愛しんでは、あまりに多くのものを失ってしまう。

「長い雨を」

「この辺りは、冬、良く降りますから。雪になれば綺麗なのですけど、それにはまだ少し早いですね。」

 雪か。

 知ってはいるが、まだこの目で見たことは無い。

 雨が凍り、白い綿毛のようになって舞い降る、自然が見せる幻想の風景だ。

 ランスの伴侶、アンナはもう雪を見られまい。

 私にはふと、儚いものばかりが美しいように思えた。

 儚さがそれを美しく見せるのか。美しいものは必ず儚いのか。

 力強い美しさとは、存在しないのだろうか。

 私は真っ白いラトリーヌの手からグラスを受け取った。

 それは口に含めば甘く、喉を通れば仄かな暖かさを残して瞬く間に染み込んで消える。

「私は毎夜でなくても良いのよ。ラテの身体は大丈夫?」

 彼女は微笑みながら、私から空になったグラスを受け取った。

 彼女の肌は透ける様に白く、その奥にあの鮮やかな赤を隠しているとは想像出来ない。

 もはや彼女の中に赤など残っていないのではないかと、私はふと不安になる。

「あ、遠吠えが」

 ふとラトリーヌが呟く。

 耳を澄ませば確かに、静かな雨音に紛れて長い遠吠えが響いていた。

 ラトリーヌが人間の世界で最後に聞いた音も、このような長い長い遠吠えだった。

 脳裏に刻まれた牙の記憶にあからさまな恐怖を見せる事はないが、その音に常人の域を超えた敏感さを得ていた。

 森の果てから響く遠吠えに呼応するかのように、人の飼う犬達も咆える。

 それはただ狼が咆え、犬が応えているだけの、深く考えるまでも無い事柄なのかもしれない。

 しかし私もまた過敏になっていたのであろう。

 どうしてもその夜笛のような咆え声の出所を探り出したい気分になった。

 私がウルを呼んだ事で、ラトリーヌは私のしようとしている事を察したようだ。

「何か、胸騒ぎがします。せめて夜が明けてからになさってはいかがでしょう?」

 彼女はそう言って私を引き留めようとするが、私は首を左右に振った。

 その胸騒ぎはきっと、あの晩その心に刻まれた恐怖の傷跡が疼くからだ。

 反面、夜魔である私に夜の暗闇への恐れは無い。

「大丈夫よ。この屋敷に居る限り、ラテに危険が及ぶ事は無いわ」

 私はラトリーヌの細い首に触れると、彼女はその指を握り返してきた。

 細い身体だ。彼女に自身の身を守る術は何一つとしてないだろう。

 しかし私が外へ出た後も、この屋敷にはロザリアが残る。

 ロザリアはその夜魔としての誇り高き性質ゆえに、他の夜魔の接近を許さないだろう。

 彼女に人間であるラトリーヌを守る意思は微塵も無いだろうが、ラトリーヌがこの屋敷に籠もる限り、結果として彼女がラトリーヌを守ってくれるはずだ。

 私は屋敷を出、咆え声のする方角を目指した。


 木々の合間を分け入るうち、次第に雨は激しく打ちつけ始める。

 雨粒が木の葉を叩き、その音が私の足を止めた。

 両手を広げて感覚を研ぎ澄ませば、何かがこの森の中で蠢いているのを感じる。獣だけではない、より高位の生物の息遣いを。

 だがあちら側からも私の気配に気付いているようで、その存在を雨煙で巧みに覆い、その位置を悟らせない。

 そして不意に巨大な気配が目前に迫ってきたのを感じた。

 前方の木々が突如として歪み、その襲撃者のために道を空ける。

 その隙間から何者かが恐るべき速度で飛び出し、身構えるどころか、視認する事さえ不可能であった。

 ラバンが抱え込むように私を連れ去り、私はその奇襲を辛うじて逃れた。

 しかしその嵐のような影は逃げ遅れたウルを掴むと、彼を容易く放り投げる。

「木々よ、強固に捕らえる檻となりなさい」

 何とか着地したウルは無傷のようだが、彼の周囲にある木々がその影の求めに応じて枝を絡め合い、まさしく檻となって彼を束縛した。

 ウルはすぐさま剣を取り出して斬り付けるが、断つ事は出来ない。たかが木の枝も強力な言霊に保護され、ウルの力では抗しようも無かったのである。

 その強襲者が振り向き、私を見上げた。

「お姉さん、その後お変わりないかしら?」

 栗色の髪の下に大きな瞳が覗く。

 そこにいたのは、ベニメウクスだった。

 表情はにこやかであるのに、その瞳は鋭さを秘め、不気味に輝く。

「何をしに来たの? ウルを解放して」

「何もそんなに怖い顔で叫ばなくても良いでしょう? 姉妹だけで話したいだけ。彼に危害を加えるつもりはないから、安心してよ」

 そう言いながらベニメウクスは一歩こちらに歩み寄る。

 するとラバンは私を背後に隠しながら同じ距離を退いた。

「そんなに警戒しなくても良いのに。私達はお父様の血を引く姉妹でしょう?」

 また彼女は一歩詰め寄り、ラバンはまた私を後退らせる。

 ベニメウクスからは、その小柄な身体からは想像も出来ないほど膨大な威圧力が噴出してくる。

 周囲のあらゆる要素がベニメウクスの存在に怯えきっているように思えた。

「なぜ貴方がここに? また父が戻ってきたの?」

「いいえ、私一人で来たの。お姉さんに会いたくて」

「なぜ急に? まさか、狼に街を襲わせたのは貴方なの?」

 ベニメウクスは僅かにきょとんとした顔を見せ、そして愛らしい口元を微笑ませ、不敵に笑いかけた。

「狼? 違うわ。狼なんて知らない。私が来たのはね、お姉さん、とても大切な事を貴方に報せに来たのよ」

「大切な、事?」

「そう。お父様は尊大で美しく、比類なき方でしょう? だから、」

 ベニメウクスはそこで言葉に間を置き、その瞳の輝きを一層強くする。

 私はそれに悪寒を覚え、気付けばまた一歩退いていた。

「だから、お父様に娘は二人も必要無いのよね。お父様が唯一なら、娘も無二でないと」

 ベニメウクスは一方の手で己の胸に触れ、もう一方の手で私を指差す。

「つまり、私と貴方、どちらかしか要らないの。

 それで考えたのだけれど、先に生まれたのは私の方だし、格が高いのも私の方、見目麗しいのも私、お父様に同行を許されているのも私でしょう?

 それってつまり、私の方が娘として相応しいって事にならない?」

 酔う様に喋るベニメウクスの言葉に対し、突如として枝の檻の隙間からウルが叫んだ。

「それは、ご主人様がそう仰られたのですか? ご主人様が、お嬢様を必要無いと?」

 木の葉に隠れてその表情は見えないが、何とも悲壮な響きがその声にはある。

「お父様の言葉なら、お前は従ってくれるの?」

 ウルはやや黙し、そしてはっきりと答えた。

「ご主人様の言葉なら、従いましょう」

 ウルはいつでも、いつまでも私の味方だと思っていた。

 必ずしも私の命に従うわけではないが、彼の行動は全て私のためを思っての事だと信じていた。

 ウルは常に私のために尽くしてくれていた。

 だが、あまりに尽くしてくれたが故に、私は忘れていた。

 ウルは父のものだ。

 彼が私の味方をしてくれたのも、父のため。

 彼が私にした苦言も拒絶も、父のため。

 彼が私に尽くしたのも、父のため。

 全てが父のためだ。

 その父が、私をもはや必要無いというのなら、ウルがそれに従うのも当然だろう。


 私は裏切られたのではない。

 これは父の生み出した命。

 ここで消える事が父の望みならば、きっと私の生まれてきた意味はそれだったのだ。

 裏切られたのではない。

 ようやく、意味を与えられたのだ。


「しかしご主人様自身が仰るのを聞くまで、私はそれを認められない」

 暗くなりかけた視界に、ウルの言葉がぼぅっと灯る。

「私には、お嬢様をあらゆる事象からお守りする義務があります」

 生を諦めかけた脳に彼の声が暖かい。

「認めないとか、義務だとか、そんなの関係無いわ。どうせお前には何も出来ないんだから。檻の中で大人しくしてなさい」

 ベニメウクスが冷たく言い放ち、ウルは抵抗するように檻へ抗うが、確かにウルがその束縛を破る術はなかった。

 彼女とウルでは格に差があり過ぎる。

 むしろ、ベニメウクスがウルを消滅させない事に疑問を覚えてしまうほどである。

 捕らえ続けるよりも、消し去った方が時間も労力も少ないはずなのに。

 出来ればウルにはそこで大人しくしていて欲しい。

 何かの具合でその牢から抜け出られたとして、彼に出来る事は何一つとして無く、ベニメウクスの心を刺激して消し飛ばされるのが関の山だ。

「さぁ、お姉さん、もうお父様の娘と名乗らない事を誓ってちょうだい。そうすれば私がこの世で最も微小な夜魔に仕立ててあげるわ。何と言っても、やっぱり姉妹ですもの。命を取るのは忍びないの。

 誰にも見向きされない、その足元の石ころよりも無価値な存在にするだけで許してあげる」

 足元の石か。

 確かに私はその石を踏みつけている事さえ認識していなかった。

 私をそれよりも瑣末な存在にする事で、父の娘を実質としてベニメウクス一人にするつもりなのか。

 ならばいっそ殺してくれても。

 ウルとの間にあった距離を知った私の心は弱り果てていたのだろう。ふと頭に安易な終焉を求めてしまう。

 その時、私を庇うように立っていたラバンが不意に振り返り、腕を振り上げると、呼び出した剣で私の頭蓋を斬り裂きにかかった。

 思えばラバンも私を守りたくて守っていたわけではない。

 父の命令に無理矢理従わされていただけならば、今まで己を悩ませ続けた小娘を自らの手で殺したいのは道理だろう。

 父が私を不要と言ったのなら、もはやラバンも私を守る必要は無いのである。

「惜しい。ようやく気分を晴らせると思ったんだがな」

 だがラバンの大剣は私の頭に届いていなかった。

 彼はとても読み取りづらい表情でにやりと笑い、その腕を引く。

「おい、小娘。奴は娘を減らそうなんて言っていないな? 俺への命令がまだ解けていない。これはつまり、奴にまだこいつを生かしておくつもりがあるって事だろう?」

 そうか。ラバンは己にかけられた束縛を確認する事で、ベニメウクスの言葉に潜む真実を暴き出したのか。

 もちろんそのまま私を斬る事が出来れば、それでも良かったのだろうが。

 しかしそれはまだ父が私を必要としてくれているという事ではないのか。

 ならばまだウルは私の味方をしてくれる。

 ラバンはまだ私を守ってくれる。

 私の身体の芯に、新たな活力が湧くのを感じた。

 どんな理由かは知らないが、私にはまだ生きる意味があるのだから。

「ベニメウクス、そうなの? これは父の意思ではないのね?」

 ベニメウクスはやや不満そうに頬を膨らませ、私を激しく睨んだ。

 ラバンによって私はその視線から庇われる。

「ベニ。そう呼んでと、言ったでしょう?

 それから、そう。これは私が勝手に始めた事よ。お父様は知らないわ。

 でもお父様は万物の支配者だから、私の行動に気付いているはず。それでも止めなかったって事は、これはお父様の意思でもあるって事にはならない?」

 ベニメウクスが飄々と言い放つ。

 それに抗議を示すように、ウルは一層激しく牢の格子を斬り付けた。

 そしてベニメウクスは更に威圧感を増して、また一歩踏み出した。

 私を一呑みにするような強大な気配に押されぬよう、私が剣を抜き放つと、それよりも速くラバンが剣を手に飛び出していた。

「先に敵意を見せたのは、お姉さんの方よ。それは了承しておいてね。」

 ベニメウクスが微笑み、私はその狡猾な罠に嵌められた事をようやく悟った。

 敵意の刃を先に向けたのが私ならば、ベニメウクスは私を斬り刻んだとしても自衛であったと言い張れる。

 父を納得させるだけの言い訳をベニメウクスは掴んだのだ。

 そしてベニメウクスは束縛の言葉を叫ぶ。

 影さえ残さず迫っていたラバンが、切り取られた絵画のように空中で静止した。

「無惨ね、賢翼公。子守はそんなに身体に応える? 貴方のお話も色々聞いたけれど、お父様に牙を剥いた、無謀だけど果敢で強かったあの賢翼公と同じ方とは思えない」

 ラバンほど高位の夜魔でも、ベニメウクスには及ばないのか。

 ラバンとの間にさえこれほど大きな差があるとは予想も出来なかった。

 いや、先日会った時よりも彼女は成長しているのだ。父自らの手解きによって、急速に。

 それでもラバンは渾身の力でようやくその束縛を振り解くと、再びベニメウクスに斬りかかった。

 二人が交差する瞬間、ベニメウクスはその小さく細い腕をしなやかに閃かせる。

 気が付けばその腕に、巨大と言ってはその半分も表せないほど異常な形状を持った剣を握っていた。

 そしてその刃に触れたか否かに関わらず、ベニメウクスの周囲にあった木々が一斉に倒れていった。

 その中に、血飛沫を上げて倒れる、木とは異なる影が一つ。

「驚いた?」

 私は声も出せず、寒気に震えた。

「私の牙は、大きいの。」

 私を見つめるベニメウクスの微笑みに、私はどうしようもないほどの戦慄を覚える。

 夜魔の持つ剣は力の象徴である。

 ベニメウクスが自身の牙を剣としているのなら、その剣の大きさはまさに彼女の力が常識を外れて大きい事を示しているのだろう。

 その小柄な身体にはあまりに不釣合いなほど大きく、枝払いに用いる鉈のようにも見えるが、それよりもむしろ分厚く巨大で、それは柄の付いた鉄扉のようであった。

 一見すれば大雑把な造りのようであるが、その実その刃は露を発すほど鋭い。

 その上、大気の要素がベニメウクスの持つ異常な力を恐れ、その刃への追従を願い出ている。

 周囲のあらゆる要素が、その刃に斬られるよりも、自ら断ち裂けて彼女に媚びようとしているのだ。

 彼女の大鉈に比べれば、私の剣などもはや刃と呼ぶにはあまりに頼りない。

 気付けば私は、竦んでいた。

「なぜ、こんな事を?」

 認めたくなくても、恐怖で声が震える。

 この場を逃れる方法は無いものかと、惨めな視線で周囲を探り続けた。

「お父様がね、時々お姉さんの話をするの。

 傍に居るのは、いつでも私なのに、遠く離れた貴方の事をふと思われる瞬間があるのよ。

 ねぇ、それって、癪でしょう?

 私だけが優れた娘なのに、私だけを見てもらえないなんて。

 ゴミ屑の塊みたいな貴方が、全て私に降り注ぐべきお父様の視線を、ほんの数秒でも奪うなんて許せない。

 ゴミ屑はゴミ屑らしく、暗がりの隅の方で人知れず蠢いていれば良いのよ。

 お姉さんも、そう思わない?」

 ベニメウクスは、父の頭から私を追い出してしまいたいのか。

 そうして自分だけが至高の夜魔セィブルの、たった一人の特別な娘になりたいのか。

 それならば確かに、ここで私を殺してしまうよりも、醜過ぎる存在に変えて生きさせる方が目的に適うだろう。

 ここで死ねば私は成長途上の夜魔として父の記憶に長く残るかもしれない。

 しかし醜さを曝せば、父は私に見切りを付け、恐らく忘れ去ってしまうに違いない。

 ベニメウクスは、私の身体や心ではなく、存在を殺したいのだ。

 振り上げられる大鉈に反応して、私も全身に力を込める。

 だがその重い厚造りの刃を受け切れるとも思えない。

「お嬢様、お逃げを」

 ウルが叫んだが、私は動けなかった。

 身体が竦んでいたのもあるが、ベニメウクスから逃れられるはずもないと思った心の竦みが、私を縛り付けていた。

「良いわよ、逃げても。無様な姿を曝してくれるのなら、私の手間も省けるってものだわ」

 ベニメウクスの狙いは、私の夜魔としての格を貶める事にある。

 逃げては彼女の思う壺な上、逃げ切れる確証も無い。

 ならば万に一つに全てを賭けて、剣で彼女の脳か心臓を突いた方が助かる見込みはある。

 それは明らかなのに、しかしなぜ私はこんなにも怯え、一歩も動けずにいるのか。

 ベニメウクスがゆっくりとこちらに詰め寄ってくる。

 距離が縮まるほどに、私の胸の鼓動は激しくなっていった。

 その時、ベニメウクスの背後で何かの影がゆらりと立ち上がる。

「待て、小娘。それ以上そいつに近付けば、後悔するぞ」

 ラバンが大剣を構えて立ち上がっていた。

 しかし彼の身体は左肩から大きく裂け、左腕が繋がっている事が不思議で仕方が無い。

 その得物の大きさからも力量の差は歴然であるのに、立ち上がって何が出来るのだろう。

 もはや何をしても私を守る事など不可能なのだから、遂行方法の無い命令は無効にならないのか。

「賢翼公、これは姉妹の問題よ、黙っていてもらえないかしら? 後悔すると言ったって、子守に成り下がった貴方に出来る事など無いでしょうに」

「お前はついさっき、俺を話に聞く姿とは別人だと言ったな?」

「言ったけど、それが何?」

「お前がそう思うのも無理はない。力の大半をお前の父親に封じられ、ただの子守に身をやつしては、俺自身でさえ別人だろうと思いたくなる」

「だから、何? 結局、貴方に何も出来ない事は同じでしょう?」

 ベニメウクスはラバンの遠回しな会話に苛立ち、また私に向かって数歩を歩み、遂にその鉈が私に届く距離にまで至った。

「そいつを守るためなら、封じた力を使える契約でな」

 突如としてラバンから発せられる威風が爆発的に増幅していく。

 彼を構築する要素が激しく奮い立ち、猛烈な振動と共に一対の雄々しい漆黒の翼がラバンの背に浮かび上がった。

 それは傷のために格を下げ、本質を曝したが故に現れる翼とは明らかに異なる。

 ラバンの内から溢れ出る力ある要素の波が、彼の本質に近い形状に凝集しているのである。

「さぁ、噂に聞いた賢翼公に会わせてやろう。そして後悔するが良い」

 ベニメウクスは薄っすらと笑みを浮かべて、ラバンの方へ振り返った。

 夜魔としての本能が、強者を屈服させる機会に恵まれた事を喜んでいるのか。

 ラバンの翼が一つはためいたかと思うと、既に剣同士が打ち合う音が激しく響いていた。

 続けて幾度もあらゆる方向からラバンの剣は高速に旋回してベニメウクスを襲い、私にはその太刀筋どころかラバンの影を追う事さえ容易くない。

 ベニメウクスはその鉄扉のような剣を振り回し、辛うじてラバンの斬撃を受け止めているが、防戦一方なのは明らかだ。

 幾重にも振り下ろされる刃の衝撃と重圧によって、ベニメウクスの小さな足が徐々に雨でぬかるんだ土の中に沈んでいく。

 衣服は雨に濡れ、時と共に重さを増しているというのに、それでもラバンはそれを感じさせぬほど尚益々翼を閃かせて速度を上げていった。

「お嬢様、今の内にお逃げ下さい」

 ウルが叫ぶ。

 だが私は目の前で繰り広げられる驚異的な躍動感に目を奪われ、半ば腰を抜かしていた。

「でも、でも、ラバンが勝っているわ。私とベニメウクスの距離が近いほど、ラバンは強くなるかも」

 一歩踏み出せば、次のラバンの斬撃はベニメウクスにも受けられないほど速くなるかもしれない。

 私は、身体の重心を前方に移していく。

「早く逃げなさい」

 だがウルは信じられないほど激しく叫んだ。

 日頃冷静で物静かな彼の口から零れた音とは思えないような激しさである。

 ふと私の顔に、何かが飛んできて付着した。

 頬に触れてその何かを指に取る。

 雨粒ではない。雨は高位の夜魔を恐れて、その肌を無闇に濡らしたりはしない。

 指先に付いたそれはどろりと生暖かく、鼻に近付ければ錆の匂いがした。

 血だ。

 それも、この匂いはラバンのものに間違いない。

 しかしなぜだ。ラバンは先ほどからずっと主導権を握っているのに、なぜ彼の血が飛んでくるのか。

 私は目を凝らし、必死に彼の姿を追った。

 鬼気迫る表情。地を蹴る両足。力強い両翼。振り下ろされる右腕。

 そして千切れ飛びそうな左腕。

「そんな、馬鹿な」

 ベニメウクスの初手によって斬り裂かれた傷が、今も大きな口を開いたままだ。

 封じられていた本来の精力が供給され、その傷は治るはずではなかったのか。

 しかし今この激しい雨に打たれながらも勇壮に闘うラバンの姿からは尋常ならざる力を感じる。

「雨に、打たれている?」

 おかしい。ラバンほど高位の夜魔が雨に濡れるなどありえない事態だ。

 本当にラバンには奪われていた力が注がれているのか。

 本当に父とラバンの間でそのような契約は結ばれていたのだろうか。

 それは、私から注意を逸らすための、詭弁、

 その瞬間、剣同士のかち合う音が、肉を裂く醜悪な音に変わった。

 ベニメウクスの大鉈が切っ先より血飛沫を舞わせ、更に再び旋回してきてはその側面でラバンの身体を激しく打ち伏せた。

 泥濘に叩き落された二枚の翼は既に亀裂を生じ、それでも尚羽ばたこうと震えて揺れる。

「賢翼公、そんな嘘に私が怯んで退くとでも思ったの? 話に聞いた賢翼公の実力はこの程度じゃないもの。身を削って発揮しただけの力では、騙されないわよ」

 泥に塗れ、傷口からは止め処もなく血が流れる。それでもラバンは瞳をぎらぎらと輝かせて立ち上がった。

 外部から注がれる力など無く、己の命を燃やしながら。

 そうまでして私を守ってくれるのか。

 私はラバンを縛る命令の鎖を密かに呪った。

「我が名に依りて命ず。大気よ槍の穂を模して貫く力となれ」

「風よ、逆巻きなさい」

 ラバンの差し向けた腕から凄まじい圧力で風が溢れた。

 しかしそれはベニメウクスの一言で忽ち向かい風に変わってしまう。

 ラバンの投げ放った槍はあろうことかラバン自身の身体を刺し貫いた。

 そして限界を迎えたように、彼の翼は砕け、そして舞い散っていった。

「もう良いでしょう? これ以上姉妹の話に首を突っ込むなんて、野暮な事よ」

 ベニメウクスは私の方へ向き直り、微笑んだ。

「靴が、汚れてしまったわ。雨は好きだけど、足元が泥濘むのは嫌ね」

 振り下ろされるラバンの剣撃のため、くるぶしまで泥に沈んでいた足を彼女は引き上げた。

 そしてベニメウクスがその足に手をかざし、一言にも満たない言葉を用いると、泥の要素は怯えて離れ、彼女の足元はまた愛らしい美しさを取り戻す。

「それで、お姉さんはどうするの? 大人しくする? それとも、抗う?」

 ベニメウクスの瞳に残忍な輝きが灯る。

 ウルは繰り返し逃げろと叫ぶが、逃げ切れるものか。それに、逃げればウルやラバンはどうなる。

 ベニメウクスの狙いが私である事は明白なのだから、ここで私を仕留めさせ、満足させるのが二人にとっては最も安全なのではないか。

 私は意を固め、剣を構えた。

 ベニメウクスの心臓を貫く事が出来ればそれが最善だが、失敗に終わったとしてもウル達を守れる可能性が高い。

 心を決めても、死への恐怖に足が震える。

 それでも私はその震える足で走り出した。

 屍で出来た身体ならば、もう一度死に塗れるとして、何を恐れる必要がある。

 そう心で何度も叫ぶ。

 私は渾身の鋭さでベニメウクスの心臓目掛けて腕を伸ばした。

「そう、抗うのね。腐ってもお父様の娘なのだもの、容易く屈服されたらどうしようかと思ったわ」

 腕には思い手応えを感じるが、肉を貫いたそれとは違う。

 ベニメウクスの前に鉄扉が立ちはだかり、私の剣はそれによって阻まれていた。

 そのままベニメウクスが私の剣を弾くと、その大鉈の発する刃風だけでも身体を引き裂かれそうに思う。

 しかし怯むわけにはいかなかった。

 何度も剣打を繰り返し、同時に周囲のあらゆる要素を利用して、勝利の機会を手繰り寄せようと試みた。

 むろん私とベニメウクスの間には大きな差があり小細工などそう容易く通用するはずもない。それでも万が一を狙い続けた。

 だがベニメウクスは私の用いるあらゆる手段を次々にそして確実に防いでいく。

 彼女の表情には常に薄っすらと笑みが浮かび、私が足元にも及ばない事を楽しんでいるようだった。

 ベニメウクスはその大鉈を様々に変化させ、私の剣を軽々とあしらう。

 大鉈は、長槍、大鎌、大包丁、大鋏と多種多様に形を変えるが、果たしてその変化に意味があるとは思えない。

 己の牙を刃としているのなら、どんな形にするのも思い通りなのは当然だろうが、それに費やされる精力も皆無ではないのである。

 大鉈だけでも十分に捌ける私の剣を、わざわざ余計に力を浪費して防ぐ必要性は全く無い。

 それはまさにベニメウクスの戯れであった。

 無意味に力を浪費し、それでも私が一太刀として触れられない、この圧倒的な差に生じる優越感を彼女は恍惚として楽しんでいるのだった。

 ベニメウクスは大鎌の背で強く私を突くと、そのまま押し切り、私を木の幹に激しく打ち付けた。

 その行為も鎌ではなく、外に刃を向ける形状の牙ならば私を両断出来ていたはずだ。

 私は遊ばれていた。

 鎌の背が一層強く押し付けられ、胸骨が折れそうなほどきしむ。

「悔しい? 悔しいなら、無様に泣けば? そうしてくれると、私の手間が減るのだけど」

 ベニメウクスの悪辣な性質は計算ずくのものか、持って生まれたものかは分からないが、敵対者の神経を逆撫でて心揺さ振るには効果があり過ぎる。

 それも夜魔の有り様の一つではあろうが、恐らく私とは対極に位置するに違いない。

「貴方の思い通りには嵌らないわ」

 私は剣を振り下ろし、当然の事としてベニメウクスはそれを受け止めるが、私は彼女に微笑んで見せた。

 笑っていられる理由など何一つとして無いが、奸言に踊らされるのは癪なので、無理矢理にでも頬を引き上げるのだ。

 私を苛立たせるのがベニメウクスの狙いならば、彼女を打ち払った後に好きなだけ苛立てば良い。

 今は気丈でいる事が肝要だった。

 気丈でなければ万に一つの機会さえ生み出す事は出来ないだろう。

 ベニメウクスを退けられる見込みなどおよそ皆無に違いない。

 そこに希望などありはしないが、絶望するにはまだ早い。

 絶望も、死の間際まで無用だ。

 そしてもう一刃、絶望の訪れを拒む剣がベニメウクスに向けて突き出された。

 ラバンがまたも立ち上がったのである。

 ベニメウクスにとっては何度捻じ伏せてもその度に立ち上がってくる彼の姿が己への侮辱に見えるのだろう。不満げに歯噛みしつつ、その瞳を更に鋭く強く輝かせた。

「敗者や被造者が、いつまでも小生意気に。勝てなければ跪く。それがルールでしょう? 私の遊び相手をするなら、ルールをわきまえてくれなくちゃ、面白くないじゃない」

 ベニメウクスの気迫が爆発したように思えた。

 その気迫によるものか、あるいは大鉈か、それを視認する事は出来なかったが、気付けば私は背を預けていた大木と共に泥濘の中へ薙ぎ倒されていた。

 そしてベニメウクスが足元の泥を私に向けて蹴りかけると、泥の要素が彼女への全面的な協力を申し出、まるで津波のような勢いで私を押し流していく。

 その間にも彼女は既にラバンに対して身構えており、その大きく美しい蛇眼に威を込めてラバンを見貫いた。

 散々に傷付いたラバンが、もはや遊びをやめたベニメウクスの視線に耐えうるわけもない。

 その長い硬直の間にベニメウクスは悠々と、足元の小石を幾つか見繕って拾い上げる。

「小石よ、楔となり、翼を縫い止めなさい」

 ベニメウクスの投げ上げた十数個の小石は、彼女の言霊を受けて忽ちに太く鋭利な杭となった。

 そしてその全てが立ち止まるラバンに向けて嵐のように降り注ぎ、彼の全身をくまなく貫き、彼は呆気無く大地に打ち込まれた。

 激しい咆哮をあげながらラバンはその束縛から逃れようともがくが、楔は深く、彼の全身はもはや全く動かせなかった。

「賢翼公、今度こそ大人しくしていて。用があるのはお姉さんだけなの。下手に首を突っ込まれると殺しちゃうかもしれないでしょう? 大切なお父様の手駒を減らす気は無いんだから」

 彼女がラバンに向けて悪態をつくその隙に、私は再び襲いかかる。

 しかしもう彼女に遊ぶつもりがない事を私はすっかり忘れており、その行動は極めて迂闊であった。

 ベニメウクスほど要素の支配力に優れた夜魔が視覚的な奇襲などに惑うはずもなく、私が振り下ろされる大鉈に気付いたのは大地に平伏したずっと後の事だった。

 泥の中に倒れ込むのは何度目だろうか。

 それでも未だ生き延びているのは、ベニメウクスが私を根底から屈服させるために鉈の刃ではなくその背や側面ばかりを用いているからだろう。

 仰向けに倒れ込んだ私をベニメウクスが蔑みの目で見下ろしてくる。

 堪えようと思っても耐えがたい屈辱を覚え、精神の安定を欠く。

 まるでベニメウクスの思う壺であった。

 そしてまた立ち上がる間も無く大鉈は振り下ろされる。

「被造者のくせにお父様の娘を名乗るなんて、お姉さんはなんて恥知らずなの?

 あれの血族は被造者だと、陰口を叩かれる私やお父様の気持ちが分かってる?

 きっとお父様も貴方を疎んじておられるわ。

 それでも貴方を生かし続けているのは、厚かましくも貴方がお父様の恩情にすがって生きようとするからよ。

 そんな惨めな姿に憐れみを覚えてしまうほど優しい、慈悲深いお父様は自ら終焉を告げてあげる事が出来ずにいたの」

 ベニメウクスは私を罵倒しながら鬼のような形相で何度も何度も大鉈を振るった。

 その大鉈をまるで防げずにいる私の様に楽しみを見出したのか、憤怒は徐々に寒気を帯びる薄笑いに変わっていく。

 打ち据えられる度に身体の骨が砕けても、飲んだばかりのラトリーヌの血がそれを次々と癒してくれはする。ただ、痛みだけがどこまでも溜まり続けた。

 その痛みの中で私はいずれ来るかもしれない機会を虎視眈々と待ち、身体のどの部位を奪われようとも、その時のために右腕と剣だけは手放すまいと心に強く思っていた。

「だからもうお父様の憐れみを請わないで。もう、お父様を苦しめないで。

 私が察して自ら立ち上がったように、お姉さんも自らの足で相応しい場所へ赴くのよ」

 私の行くべき相応しい場所とは、ベニメウクスの言う暗闇の隅の方か。

 父も内心ではそれを望んでいるのだろうか。

 ふと心が折れそうになる。

 抗いようもない状況だが、抗う必要も無いのではないかと。

 逃げよと叫ぶウルの声が聞こえた。

 ウルはそれを父自身の口から聞くまで認めないと言っていたな。

 ウルが信じないのなら、私も。

「行かない。ウルが信じないものを、私は信じない。父の口からそれを聞くまで、私もそれを認めない」

 その一言はベニメウクスの逆鱗に触れてしまった。

 彼女は倒れている私の首を片手で強力に掴むと、雑草を引き抜く様に持ち上げた。

 あまりの息苦しさに、いっそその握った手の中の大鎌で刈り殺してくれればと考えてしまう。

「生意気。どうしてお父様の苦悩が分からない? お前を生んだ後悔を察しない? 生意気な被造者め。お前のものでない血に自惚れて、いい気になるな。いい気になるな。いい気になるな!」

 ベニメウクスは喚き散らしながら私を振り回し、木々や大地、茨の茂み、目に付く全てのものに私を打ち付けた。

 服は破れ、肉が裂け、裂けた傷から血が飛び散る。

 身体の傷は忽ちにして癒えるが、ベニメウクスの凶暴性はそれよりも速く私を傷付けていく。

 徐々にボロ布のように成り果てていく私の様を見ながら、ベニメウクスは嬉々とし始めた。

 額から噴き出た血に眼球を覆われ、曇った瞳を虚ろに彷徨わす私を掴み上げながらベニメウクスが笑う。

「ゴミだ。ゴミ屑だ。こんなのゴミより穢らわしい」

 見下ろせば手の届く距離にベニメウクスの頭はあるのに、身体は痛みに麻痺して動いてくれず、意識さえも昏倒しそうである。

 その無力な様子がまた更にベニメウクスを楽しませてしまい、彼女の喜びはもはや狂乱に変わろうとしていた。

「あぁ、どうしよう? このまま殺しちゃいたい。

 殺しちゃ駄目なのに。殺さない計画だったのに。色々考えて決めたのに。

 でも我慢出来ない。どうしよう? ねぇ、殺したいよ?

 殺して良い? ねぇ、殺しちゃうよ? ねぇ、殺すけど、良い? 殺しちゃうね?」

 むろんベニメウクスが私の了承など待つはずも無い。

「ベニメウクスが命じます。……消し飛べ、ゴミ」

 彼女の唇が消滅を命じると、掴んだその腕から猛烈な衝撃が放たれた。

 全身が千切れ飛ぶような寒気に根源的な恐怖を覚える。

 たった一言で彼女の興奮は冷め遣らず、留まる事無く幾重にも言霊は唱えられた。

 これでとうとう私も粉微塵に消し飛び、数多の要素に紛れていくのだろう。

 そして要素の一つとなって、ウルの悲嘆にくれる顔を見るのか。

 もはや痛みも薄れゆく中、私は恐怖と哀しみと静寂を覚え、そしてそれさえもぼんやりと消えていった。


 腹部に鈍く、しかし激しい痛みを感じて目が覚めた。

 意識があるという事は、私はまだ生きているのだろうか。

 泥濘に倒れながら、全身に雨が冷たく降り注ぐ。その雨の雫に私は辛うじて生き延びたのだと痛感する。

 その辛うじて残った生命力を揉み消そうとしているのか、朦朧とした意識で見上げればベニメウクスが私の腹を何度も何度も踏み蹴っていた。

 少しずつラトリーヌの血に身体は癒され、意識も激痛も明確になっていく。

「お父様が……、私にまで戒めを埋め込んでいるなんて……。

 どうしてそこまで、こんなものを守ろうとするの?

 こんなものを。こんなもの。こんなもの」

 当然だが、彼女の強力な言霊に耐えたのは私の身体ではないらしい。

「貴方も、私の命を、奪えないの?」

「黙れ。何かの間違いだ。私はお父様の娘なのよ。特別なのよ。お前を殺せないなんて事、あるわけがない」

 大鉈がその刃を私の頭蓋に向けて振り下ろされる。

 しかし刃は空中でぴたりと静止し、私の毛髪さえ傷付けなかった。

 ベニメウクスはその現象に逆上し、更に加速をつけて鉈を振るうが、私の顔にはどれ一つとして届かなかった。

「そんなの変だ。私はお父様のたった一人の特別なのに。どうして私にまで、こんな戒めを。こんな事、おかしいよ」

 きっとベニメウクスの中にも、ラバンと同じように、私の命を奪えない命令が埋め込まれているのだ。

 流れる血は限りない支配権を約束するものでありながら、生まれたてであまりに無力な娘を守るため、父が発した命令。

 恐らくは父の庇護を受ける全ての夜魔にその命令は授けられたのだろうが、ベニメウクスは自身でそれに気付かず、また娘である己だけは免れるであろうと信じきっていたのである。

 父に娘を減らす意思がないという事実を、振り抜けない大鉈が静かに物語る。

 ベニメウクスが懸命に考え組み立ててきた理屈が、覆された瞬間だった。

 彼女は力無く腕を垂れ、唖然としている。

 半面で私は密やかに活気が蘇るのを感じた。

 ベニメウクスに私を殺す事が出来ないのなら、諦めない限り私は彼女に挑みかかる事が出来るのだ。

 つまり私は命のやり取りにおいて、ベニメウクスに決して負けないという事だ。

 そして勝利の機会をいつまでも待てるという事でもあり、微かな機会にさえ臆する事無く挑めるという事である。

 まさに今が最初に訪れた些細な機会か。

 ベニメウクスは取り乱しながら私の腹部を散々に踏みつけ、注意も散漫に喚き散らしている。

 小柄な彼女の心臓には上体を僅かに起こせば届きそうである。

 残るは痛みに痺れる右腕の自由さえ戻れば良い。

 ラトリーヌの血が私に与えてくれる活力はもはや限界に近いが、それでも辛うじて私は右腕を動かすに至った。

「私に殺せないからといって、お前が勝てるわけじゃない」

 私がベニメウクスの心臓を狙う意を決したと同時に、彼女の怒号が響いた。

 既に大鉈は下から上へ振り払われており、冷たく刺す様な視線が私に向けられている。

 気が付けば私の腕は肩口からごっそりと削ぎ取られており、それからようやく出血と痛みに襲われた。

 私の、私の腕はどこに。剣は、どこに消えたのか。

 事態を理解しようとしても突如襲い来る眩暈が私の思考を遮った。

 歪む景色の中でベニメウクスが笑っているように見える。

「どう、お姉さん? 私の毒牙は猛烈でしょう? でも大丈夫、すぐに解いてあげるから」

 ベニメウクスが指を鳴らすと、毒が私の要素を蝕むのをやめた。

 徐々に意識が明瞭になり、それと共に彼女の牙への恐怖がまた一層大きくなっていく。

 ラバンはこの太刀傷にあれほど耐えていたのか。

 ラバンの敵わなかった大鉈に対して私が挑もうなど無謀も甚だしかった事を思い知る。

 しかし格下の夜魔には剣だけが頼りなのに、もはや打つ手は無いのか。

「お姉さん、私また考えたのだけど、聞いてもらえる?」

 見上げればベニメウクスの穏やかな笑顔があった。

 あれは眩暈に景色が歪んでそう見えていたのではなく、実際に笑っていたのか。

 だがこの状況で不意に出現した微笑みに私は薄ら寒さを覚えた。

 しかしベニメウクスは飽くまで穏やかに話を続ける。

「認めたくない事実に錯乱してしまって、本当にごめんなさい。

 お姉さんの腕を斬り取ってしまうなんて、ぞっとして、ようやく目が覚めたわ。

 お父様は貴方に生きていて欲しいみたいだから、私ももうお姉さんに色々と嫌な事を言うのはやめにしようと思うの。

 でも、これだけの事をした後で、お姉さんも簡単に私と仲直りしたり出来ないでしょう?

 だから私に一つ強力な言霊を使って。

 お姉さんも気分が晴れるし、私にも良い罰になる。

 さぁ、遠慮しないで。剣で防いだりもしないから」

 何を思っているのか、ベニメウクスは大鉈を己の内に戻した。

 剣があれば千載一遇の好機であるのに、右腕の消えていった方向が分からない。

 しかしベニメウクスの狙いはどこにあるのか。

 本当に、私との和解を望んでいるのか。

 もしも本当ならば、彼女の魔手から己とウルとラバンを救えるが。

 だがベニメウクスの瞳はどこまでも深く冷たい。

「あぁ、でも私の方がずっと格が高いから、出来るだけ強力な言霊でないと、その腕と同等の罰にはならないわね。

 そう、ね。消滅の、消滅の言霊を使って。

 怖いけど、きっと耐えられるから大丈夫。

 もし耐えられなくっても、自業自得だもの。それだけの事をしたのだから、仕方無いわ。

 その時はお姉さん、私の代わりに貴方が、お父様の傍に。

 お願い、約束よ」

 ベニメウクスは寂しげに微笑むと、静かに瞳を閉じた。

 確かに彼女の姿勢にはまるで抗おうとする意思が無い。

 真実、この行いに対する罰を欲しているのだろうか。

 疑う余地も多いが、信じる余地も微かにある。

 ベニメウクスは己がセィブルの娘であるという事に並々ならぬ誇りを抱いている。

 己が想い描いていたほどその特別性は濃くない事に気付き、茫然自失になったのだとしたら、罰や死を欲したとしても不思議は無い。

 ベニメウクスもまた、心に儚さを抱えているのか。

 求めるのなら与えてやるのが、美しい少女への慈悲かもしれない。

 私は残された左腕を持ち上げると、ベニメウクスに差し向けた。

「信じるな」

 全身を杭に貫かれ、それでも懸命に絞り出した声でラバンが叫ぶ。

「信じて、お姉さん」

 ベニメウクスはラバンの声にも表情を変えず、ただ瞳を閉じたまま迷いも無く、無垢の美貌を曝す。

 その様はあまりに優雅で美しく、格の違いをまざまざと思い知らされる。

 そのベニメウクスに対して、右腕を失った私の言霊など、どれほどの効果があろうか。

 彼女の言う通り、剣を納めた無防備な状態でも彼女は私の言霊に耐え抜くだろう。むしろその肌に傷をつけるかどうかさえ疑わしい。

 そう、疑わしいのである。

「私の名をもって命じる」

 私は咄嗟にベニメウクスの策略を読み取った。

 この誘いは彼女の罠に違いない。

 周囲に存在する様々な要素の内から私に従いそうなものを探す。

 どの要素もベニメウクスに敵対する事を恐れ、私の求めには応じないだろう。

 唯一つ、肌皆離さず持ち続けていたそれを除いては。

「剣よ、来たりてこの者の胸を貫け」

 弾き飛ばされた私の右腕はどこに落ちたのか分からない。

 しかし剣は私の言葉に応え、何処からか風を切って飛来する。

 その風切音にベニメウクスは目を見開き、剣の舞い来る方角を探すが、私は残された左腕で泥を掴んで投げ上げ、その視界を奪った。

 もちろん泥などベニメウクスの肌に届く前に、その視線に振り払われる。

 だが彼女が泥を睨んだその一呼吸で、剣は彼女の心臓まであと一歩まで迫る事が出来たのである。

 あとはどうかその切っ先が届く事を、ただただ祈るだけ。

 もはや大鉈を呼び出し、剣を打ち払える間合いではない。

 視線や言霊で剣を懐柔するにも僅かに時間が足りないだろう。

 刃を素手で掴んだとしても、彼女の細い指を斬り落とすだけで、剣は止まらないはずだ。

 そうやって私が勝利を確信しているというのに、ベニメウクスはなぜかその薄い微笑を絶やさずにいたのである。

 すぐさまベニメウクスは剣に対して左手をかざした。

 掴むつもりなのかと思えたが、彼女の思考は私の予想を遥かに凌駕していたのである。

 ベニメウクスが手を伸ばしたのは掴むためではなく、その刃に自らを貫かせるためだった。

 手の平から進入した刃は彼女の腕の中を突き進んでいく。

 一方でベニメウクスの肉体も外傷に対して素早く応答して再生を始め、閉じようとする傷口が剣の進行を阻むごとく刃を締め付ける。

 ベニメウクスは貫かれていく左腕を巧みに動かし、剣の進行方向を心臓から遠ざけた。

 そして剣の刃はベニメウクスの肘から突き出して再び外気に触れたところで、完全に動きを止めた。

 切っ先から血の雫が一滴落ちる。

 私の剣が手の平から肘までを貫いて、奪えたものはたった一滴の血だけなのか。

 ベニメウクスが突き刺さった剣を握って一息に引き抜くと、既に彼女の傷は癒やされていた。

「物凄く痛かったわよ、お姉さん。

 心臓まで届くかと思って、少しぞくぞくしたわ。」

 ベニメウクスは私の剣を指先で弄び、そしてしなやかに腕を振るったかと思うと、私の方へ投げ返した。

 倒れた姿勢から起き上がる間も無く剣は飛来し、私の身体を鈍い衝撃が襲った。

 投げ返された剣は、私の身体のすぐ隣の泥へ突き立てられており、その向こう側で私の左腕が主を失っていた。

 失われた両腕の傷口を森の風と雨が舐め、あまりの激痛に私は耐え切れず悲鳴をあげた。

 この痛みに耐えるくらいなら、ベニメウクスの毒に蝕まれて昏倒している方が何倍も楽なのかもしれない。

「でも約束は守ってよ。

 消滅の言霊を使ってと、お願いしたでしょう?

 剣を飛ばしてくるなんて、ルール違反だわ。

 その左手は、違反罰だから、怒らないでね」

 悲鳴の中でベニメウクスが不満げに笑う。

 ただ痛みを望むのならば、消滅の言霊にこだわる必要はないだろう。

 やはり彼女の真意は罰を欲していたのではなかった。

「貴方の思い通りには、嵌らない」

「なんだ、気付いていたの? お姉さんも、人が悪いわね」

 ベニメウクスが頬をぐいと引いて微笑みながら、残忍に私を見下ろす。

 彼女は私との和睦など望んでいない。

 今のベニメウクスは憎しみのあまり、ただ私を殺したくて仕方がないのだ。

 しかし大鉈や言霊によって直接に私を葬る事が出来ない。

 そこで私に消滅の言霊を使わせようとしたのである。

 私とベニメウクスの間にある格差はとてつもなく大きく、私からベニメウクスへと消滅など命じられようはずもない。限り無く不可能に近い命令なのだ。

 それに気付かず私が安易にその命令を口にしていれば、私は膨大な精気を奪われていただろう。

 ベニメウクスは、そうして私が自ら干乾び、格を下げ、消滅していく事を、甘言により誘っていたのである。

「じゃあ、こんな方法はどうかしら?」

 この両腕の傷も私の格を著しく下げている。

 夜魔として存在出来なくなる瞬間が少しずつ迫ってきているような気がする。

 ベニメウクスはその瞬間が一秒でも早くなるように、出来る限りの手で手繰り寄せるつもりか。

 再び取り出された大鉈が私の腹部へ突き立てられた。

 下半身の感覚が完全に失われ、同時に猛毒が神経を焼く。

 激痛は毒によって猛烈な不快感に変わり、激しい嘔吐感が脳内を駆け巡り始めた。

 ベニメウクスは鉈を引き抜くと、私のすぐ傍に座り込み、胸像のようになった私を満足そうに眺める。

 私の体内へ何かが侵入してきた。

 未だ経験した事のない異物感に、残された僅かな全身で痙攣する。

 見ればベニメウクスが私の断ち斬られた腹部の裂け目に、その小さな両腕を差し入れていた。

 ベニメウクスは楽しそうに私の中を掻き混ぜ、それから何か紐状の物をずるりと引き抜いた。

 それは紛れもなく私の腸であり、ベニメウクスは痛みと不快感に痙攣する私に構わず、それを力任せに引き千切って捨てる。

 続いて次々と私の臓器はベニメウクスによって抜き取られ、森の泥の上へ捨てられていった。

 毒と激痛の混合物に私は明瞭な意識さえもはや失い、口から唾液を垂らしながらただ降りしきる雨を眺めていた。

 私の身体を激しく傷付ける事で、格の下落を早めようというのだろう。ベニメウクスはこれまでになく真剣な表情で黙々と作業を続ける。

 そして私の中身をほぼ全て掻き出してしまったベニメウクスが残された僅かな臓器に手をかけて小さく呟く。

「これは、何かしら? 取れないわ。

 何だか変な感触がして、掴めない」

 ベニメウクスは右手を入れてみたり、左手を伸ばしてみたり、大鋏を突っ込んでみたりと、色々な手を尽くすがその臓器だけはなかなか取り出せず、悪戦苦闘していた。

 ベニメウクスが引き抜く事も、握り潰す事も出来ないのなら、その臓器は心臓だろう。

 それを傷付けた瞬間に私が死ぬのなら、ベニメウクスは手出し出来ない。

 傷の隙間から私の内部を覗き見て、ようやくベニメウクスもその脈動する器官が何であるか悟ったようだった。

 これ以上傷付ける臓器も無くなり、ベニメウクスは不満そうだった。

 確実に私の最後は加速度を上げて迫ってきているが、それはベニメウクスの望む速さよりも遅いのだろう。

 彼女は両腕に付いた私の血を雨に洗わせながら、次の方法を考えた。

 それはすぐに思いついたのか、今度は私を抱え上げると、激しく揺さぶり始めた。

 弛緩した首が頭を支えられず、脳が揺れ、毒で歪んだ景色が更に激しく震える。

 朦朧とした意識でも、ベニメウクスが私の心臓を振り落とそうとしているのだろうという事は分かる。

 彼女自身に千切り取ることが出来ないのであれば、熟した木の実を枝から取るように、揺すり落としてしまうつもりなのである。

 揺れる度に意識が遠退く。

 単純だがベニメウクスの選んだ手段は効果的だった。

 なす術も無く揺れる私へ、死が鎌首を上げて迫り来る。

 死に恐れはあるが、それよりも恐れるのは私の生を望んでいた父やウルを裏切ってしまう事だ。

 父は私に、私の思うように生きよと言ったが、その結果こうして淘汰されていくのも、納得してくれるだろうか。

 父ではない者の手で葬られる私を、ウルは悲しんでくれるだろうか。それとも、力無い私に落胆するであろうか。

 私がそんな事を考えていると、不意にベニメウクスは私を投げ捨てた。

 首を上げる余力はもはや無く、しかし耳元で泥を打つ雨音の隙間から、彼女の声が聞こえた。

「命の危機に、ようやく本当の力が解放されたの? あの話は嘘じゃなかったのね」

「嘘など吐いても仕方ない。お前がそいつに直接手を出せない事が予想外だっただけだ」

 それはラバンの声である。

 彼はまたも立ち上がったのか。全身を楔に貫かれていたはずなのに。

「でも身体中、穴だらけじゃない。傷が深過ぎた? 私の毒も辛いでしょうに。無理をし過ぎね。解放された力は自分の治療に当てるべきだと思うわよ」

「俺もそう思うが、そいつの命を救えという命令が、待ってくれそうにない」

 泥の中を駆ける音が聞こえ、更に刃同士のぶつかり合う音も響いた。

 私の命に危険が迫った今、ついにラバンの奪われた力が解放されたというのなら、私にはまだ助かる希望がある。

 ならばラバン、どうか一秒でも早くベニメウクスを退けて欲しい。

 もう私は、それほど長く待てそうにないように思う。

「御二方とも、剣をお納め下さい。主上からのお言葉です」

 金属の打ち合う音の中に突如女の声が割って入った。

 ラバンとベニメウクスは一時剣を納めたようだ。

 そして次に聞こえたのは、まさに父の声である。

「ベニメウクス、どこにいるかは聞かぬが、私は街を発つ。同行するならば早々に戻れ。夜明けまでは待たん」

「お父様はどちらの方角に行くか仰った?」

「東の方と伺っておりますが、主上はしばしばご気分で行く先を変更なさいますので、ご同行なさるのなら戻られるのが宜しいと思われます」

「戻れ、小娘。これ以上争って時間を失うのは、お互い望まない事だろう?」

「そう、ね。仕方が無いわ。賢翼公ともう少し手合わせしたかったし、お姉さんの息の根も止めたかったけど。お父様に置いていかれるのはもっと嫌。今日は見逃してあげる」

 私は駆け寄ってきたラバンに抱き上げられた。

 両腕は無く、残っているのは胸から上だけで、命さえ消え入りそうであったが、私は彼の腕に抱かれてようやく安堵を覚えた。

 視界には不服そうに私を一瞥し、背を向けて立ち去るベニメウクスが見える。

 もう一つの影はフィーユか。彼女はベニメウクスに声をかけた。

「邪眼の姫様、牙で傷つけた者がいるのなら、全て毒を解いて来いと」

「お父様が? 仕方ないわね。」

 ベニメウクスは不満そうにフィーユを睨むと、指を鳴らした。

 彼女の視線にフィーユは微かに竦む。

 しかし私の中から毒の歪が消えた。

 痛みが輪郭を明らかにし、苦痛が噛み締めた歯の間からも思わず叫びとなって漏れる。

「苦しいだろうが、毒に要素を侵されるよりもましだ。もう少し辛抱していろ」

 ラバンが囁いてくれるので、私は可能な限り頷いて見せた。

「邪眼の姫様、ウル殿も解放すべきかと思います」

「お父様はそこまで言っていないでしょう? フィーユ、お前からの指図なんて受けないわよ」

 フィーユはベニメウクスの前に怯むばかりであったが、口だけは止めなかった。

「確かに主上はまだそのように仰っておりませんが、私がこれを報告すれば恐らくそうお命じになると思われます」

 ベニメウクスは明らかにむっとしながらも、納得したように頷き、ウルの拘束を解いた。

 それから彼女は現れたときと同じように凄まじい速さで去っていった。

 フィーユもそれに続いて風に乗り、消えていく。

 彼女らの影が消えて、私はようやく安堵した。

 気付けば既にウルが檻を抜け出て傍に来ており、私の様子を不安げな表情で見る。

 不安なのは私も同じだ。今にも命の火が消えそうな気がするのだから。

「屋敷へ戻る。ウル、お前はこいつの腕や足を探して持って来い」

「分かりました。黒翅公、お嬢様をお願いします。お嬢様、諦めてはいけませんよ」

 ウルを安堵させる言葉を何か発したいと思ったが、今の私の状況で彼を安堵させうる言葉など無いのは明らかだった。

 ただ懸命に頷くのみである。

 ラバンは私を胸に抱えると、風を纏って走り始める。

 一歩ごとに風を蹴る振動が私にも伝わり、心臓を揺さぶった。

「ラバン、待って。もっとゆっくり」

「急がねば、お前の身体が朽ちる」

「でも、心臓が、落ちそうなの」

 ラバンは私の顔を見つめると、おもむろにその片腕を私の身体の中に差し入れた。

 傷口の中をラバンの腕は進み、鼓動弱まる心臓を見つけると、それをそっと支えた。

「これで良いか?」

「えぇ、良いわ」

「良い気分ではないだろうが、我慢しろ」

「えぇ」

 体内に異物感はある。

 ベニメウクスの細い腕よりもずっと強い異物感だ。

 しかしその異物感は排他感を呼び起こすものではなかった。

 ラバンは絶対にその心臓を傷付けない。

 その安堵感が私を落ち着かせていた。


 私の姿を見た途端、ラトリーヌは蒼褪め、無表情のまま凍りついた。

 両手足を失い、胸像のような姿になってもまだ生きている種族に対し、彼女が怯えを覚えるのは当然だろう。

 取り乱して逃げ出さないのは、私の傍にいようとする、その誓いが強く心を支えているからか。

 ラバンはラトリーヌに近付き、静かに私を手渡した。

 血まみれの彫像を胸に抱え、動転したラトリーヌは震える唇でラバンに問う。

「ディード様は、助かるのでしょうか?」

 人間の常識をもってすれば助かるはずなどない。

 しかしラトリーヌは、その無力な人間である己の手へと渡された事に意味を感じたようだった。

 ラバンも恐らくそのために私を屋敷へ連れて戻り、彼女の手に渡したのである。

「血を、飲ませてやれ」

 ラトリーヌは頷く。

 私は微かな声でそれを拒絶する。

 この傷を癒すために血を吸うとすれば、きっと命まで吸い尽くしてしまわねばならない。

 そして私は血の渇望の強さゆえに、血を吸い始めれば中途で踏み止まれないだろう。

「駄目。ラテ、やめて」

「良いのです。そのための、私なのですから」

 ラトリーヌは私を抱えたまま座り込み、それから腕の包帯を解いた。

 毎夜閉じてはまた開かれる傷口が、仄かな香りを発して私を誘う。

 拒み続ける私の口へ、ラトリーヌの傷口が触れた。

 甘い感触に意識が惚ける。今の私にとってそれは毒に似ていた。

 血の誘いに抗う理性は既に無く、舌先で傷口を撫でると、抵抗も無く開き、ゆっくりと血は溢れてきた。

 その溢れ出る流れが命の本流であり、失われる事の重大性は理解しているのに、それが喉を通れば身体は私の制御下を離れ、ただひたすらに吸い貪ってしまう。

 一口飲み込む毎に、全身を這い回る痛みは徐々に鎮まり、半ば混濁していた意識も静寂を取り戻してくる。

 遅れて戻ってきたウルが私の胴へ下半身を添えると、それぞれの切断面が互いを呼び合って繋がり、補われた精気によってまた私に両足の感覚が少しずつ蘇ってきた。

 死の恐怖から一歩一歩確実に遠ざかりつつある現実に、私はこれまで感じた事がないほどの安堵を覚えた。

 そして私は思わず、その安堵がラトリーヌの命と引き換えであった事を忘れてしまっていた。

 気が付いて私が傷口から離れれば、ラトリーヌは蒼白な顔で私を見おろしながら、壁にもたれていた。

 私は、己の身体を癒す事に、いや真実を言えば血の味に、夢中になり過ぎて、遂に彼女を殺してしまったのか。

 彼女の死が、私という存在のおぞましさが、私の心に激しい恐怖を呼び起こす。

 しかしラトリーヌは真っ青な顔を僅かに動かし、震える私に小さな微笑を向けた。

 私はまだ、辛うじてラトリーヌを殺めていなかったのだ。

 恐怖が全て安堵に変わる中、変えようも無い私自身の性質が寒気を呼ぶ。

 もう一度、ラトリーヌの傷口に口を付ければ今度こそ私は留まる事無く彼女の命を吸い尽くすだろう。

 そのような私の様子に気付いたのか、ラトリーヌはもはや上げる事さえ苦労するほど衰えた腕で、私の髪を撫でた。

 微笑む唇の隙間から小さな白い歯が覗き、弦を震わすような声で私に囁いた。

「私の事は気にせず、傷を癒して下さい」

「でも、これ以上吸えばラテを殺してしまう。今、運良く止められた、この機を手放す事は出来ない」

「しかしまだ両手を癒さなければ。ディード様のためにこの命を捧げる事が私の望みなのです」

 ラトリーヌは私の口元へ腕を押し付けようとする。

 私はそれから逃れようとするが、両手も無く足もまだ完全に回復していない状態では身を捩って彼女の膝の上から転げ落ちるのが限度だった。

「そんなに、私の血を吸うのが嫌ですか?」

「貴方の命を奪ってしまうのが嫌なのよ」

「それならば、私が命を失う限界まで、私の血を吸って下さい。危うくなれば、私がお止めしますから。少しでも多く、私で傷を癒して下さい」

 ラトリーヌは床で無様に蠢く私を、再びその胸に抱き寄せた。

 彼女の身体の温かさに、不思議と気分が落ち着く。

 人間の一途過ぎる心が、暗い夜魔の心に明るさを灯すのか。

「本当に、止めてくれるの?」

「はい。私を信じて下さい。私が、ディード様を信じているように」

 私はまた、ラトリーヌの腕に牙をたてた。

 彼女の合図にいつでも応答出来るように、ゆっくりゆっくりと飲み込む。

 一口飲んでは彼女の様子を窺い、また三口飲んでは大丈夫かと尋ねた。

 ラトリーヌは微笑み、大丈夫だと頷く。

 三口飲み、それから五口飲み、飲み込んでもまだ溢れ出る血流を口に含み、悦に入る。

 次第に私は血の味に酔い始め、ただ傷口を舐める事に没頭していった。


 傷口が閉じたわけでもないのに、もう血は滲まなくなった。

 その瞬間はあまりに突然だった。

 血の流れ出なくなった意味を私はまず理解出来ず、それでもラトリーヌが何も言わずに私の頭を押さえるので、私は彼女の腕にしゃぶりつくと傷口を強く吸った。

 つるりと一口分の血が吸い出され、私は喉を鳴らしてそれを飲み込む。

 それからは、もうどれほど吸ってみても、血は出てこなかった。

 私は現実に気付く。

 ラトリーヌの腕から牙を離すが、それ以上身動きも出来ずに、ただただ嗚咽を漏らした。

 ラトリーヌが私の頭を押さえていたのは、まだ血を吸っても良いという意味ではなかった。

 私の髪を撫でていた腕が、ただ力無く落ちていただけなのである。

 それを私が勝手に都合良く解釈していただけだ。

「助けて。ウル、起こして」

 ラトリーヌの膝の上でもがく、腕の無い私をウルが抱き起こす。

「違う。私じゃない。ラテを起こすのよ。ラテが、……眠ってしまった、ラテが」

 ウルは私の肩に右手を繋げながら言った。

「それは、不可能で御座います。」

 立ち上がって見下ろせば、思い知らされる。

 壁に寄りかかるラトリーヌの顔は白く、その瞳は静かに優しく閉じられ、唇はもう動かない。

 私が、ラトリーヌを殺めた。

 ウルの腕を振り払ってラトリーヌの傍へ駆け寄り、癒えたばかりの右手で彼女の肩に触れる。

 その振動でラトリーヌの身体はぐらりと揺れ、彼女が倒れてしまわぬよう、私は慌てて抱きしめた。

 私の頬に触れるラトリーヌの頬は、まだこんなにも温かい。

 その彼女がもう既に死んでいるなどとは思えなかった。認めたくなかった。

「ラテ、起きて。目を覚まして。気を失っているだけなんでしょう? 目を、開けて。笑って。もう一度、声を聞かせて」

 取り乱す私の姿をウルは僅かに諌める。

 しかしその声に厳しさは無い。今の私には取り乱す必要がある事を、知っているのか。

 抱きしめたラトリーヌの肩が微かに揺れたように思えた。

 小さな希望に私の胸は高鳴り、ありえるはずの無いものを信じた。

 抱き締めた腕を緩め、恐れと期待の両方を心に抱えながら、ラトリーヌの顔を見た。

 微笑んで、いるのである。

 ラトリーヌは微笑んでいた。

 やや虚ろながらも薄く目を開け、小さな笑みを浮かべている。

 奇跡が起きたと私は思った。

 無条件にひたすら信じ続けたラトリーヌの心が奇跡を呼んだと確信した。

 私は夜魔でありながらも、思わずラトリーヌをまた強く抱き締めた。

 ラトリーヌの心の強さが、消え行く命を紙一重で留めたに違いない。

「違います、お嬢様」

 天へ舞い上がるような心地でいる私を、ウルは唐突に現実へ引き戻した。

「え?」

「違うのです、お嬢様。もう一度、良くご覧下さい。」

「え? 何を、言っているの? ラテは、生き延びたのよ」

「良く、ご覧下さい」

「生きているもの。まだ、生きてる。生きてるの。ラテはまだ、生きてるのよ。そうでしょう?」

 ウルは私の問いに答えず、ただその目でラトリーヌをもう一度見よと言い続けた。

 だが私はもう抱き締めたその手を緩められずにいた。

 そして彼女の生存を何かに対して訴えるように叫び続け、他のあらゆる物音を掻き消そうとした。

 しかし本当に掻き消したかったのは、冷酷だが温かいウルの声でもなく、激しく冷たい雨音でもない。

 私は、抱き締める手を緩めて、もう一度ラトリーヌの顔を見るのが怖かった。

 けれど強く抱き締めるほど、耳に囁く彼女の声が近くなって、認めざるをえない現実がそこにあるのを思い知らされる。

 私の耳に届くそれはもう、あの澄んだラトリーヌの響きではなかった。

 抱いている間にも少しずつ冷えていくラトリーヌの身体。

 彼女は確かに、目を開け、微笑み、そして声を発した。

 しかしそれは奇跡などではなかった。

 私がそうしてくれと言ったからだ。

 屍である私が、ラトリーヌの屍に対して命じる事は、あまりにも容易い。私自身でさえその事に気付かなかったほどに。

 あの完全な白色であったラトリーヌの魂は、もうこの世のどこにも存在していないのだ。

 彼女の肉体からその白色を奪い去り、言霊により穢し辱めたのは、この私だ。

 私はそれ以上、この耳に囁く醜悪な音を聞きたくなくて、彼女の身体を手放した。

 死を宿したラトリーヌの身体は穢れてしまった。

 だが私が彼女を手放したのは穢れに触れたくなかったからではない。

 死から生まれ、屍を本質とし、命を貪り奪って生きる、このわたしの方が遥かに穢い。

 この穢れをこれ以上、ラトリーヌに移したくなかったのだ。

 手を離したラトリーヌの身体は、支えを失って床に倒れ、それでもまだ私の命令を実行し続けた。

 ラトリーヌの唇を使って放たれる、彼女のものではない言葉。それは耐え難い苦痛に思えた。

 私が命令を解くと、それはようやく死者の相を見せ、私を強烈に打ちのめす。

 ふらふらと立ち上がる私を、ウルの胸が迎えてくれた。

 ウルは夜魔としての性質や身分のために、私を抱き締めてはくれない。

 しかしそれでも、その暖かな胸を貸してくれた事が既に最大限の配慮である事は、私にも分かった。

 私はその胸にひたすら顔を押し付け、唇を噛み締めていた。

「慰める言葉も持たない事を、お許し下さい。お嬢様がお辛い時に、私はいつも何も出来ず。お許しを」

「辛いと言っても良いの? 哀しいと言っても、良いの?」

 高貴な夜魔になるならば、心を乱してはいけない。

「出来る事なら、言わないで頂きたい。しかし辛さ、哀しさは既にお嬢様の心に生まれたので御座いましょう? 私には、それを抑える術さえないのです」

 抑える術ならあるはずだ。

 父に許された権限で、私の心を束縛してしまえばいい。

 それなのにウルが私を戒めないのは、私の泣き喚くままにしておくのは、今日だけは今だけは心乱す事を許容してくれているのか。

 慰めの言葉も無いなど、嘘までついて。

 私は、この胸の温かさで、これほどまでに慰められているのに。

 ウルは私の左肩にそっと左手を繋ぐ。

 神経が繋がると、左腕を掴むウルの手の感触が脳へと伝達された。

 私が取り乱す事は、全くウルの望まない事であろうに、それでも私に哀しむのも仕方が無いと言ってくれるのか。

 そんな優しさを見せられては、私はもう、泣けないではないか。

 戻ってきたばかりの両腕で、私はウルに強くしがみ付いた。

 止めども無く溢れ続ける涙をウルの胸で何度も拭い、もう流れてくるなと心に願う。

 泣いた分だけ、ウルが悲しむ。

 心乱した分だけ、ラトリーヌのくれた命が無駄になる。

 そう思うほどに、溢れてくるのは、なぜなのだろうか。


 ようやく頬が乾いた頃、私は瞳を赤くし、力なくウルの胸に額を擦り付けていた。

 振り返ればそこにある、ラトリーヌの死の証を見るとまた辛さが溢れそうで、私はウルから離れられずにいた。

 そして懸命に絞り出した声はか細く震えていた。

「ラバン。」

「何だ?」

 彼は静かに答える。

「良いわよ。」

 私の言葉を理解しているのだろう。

 ラバンはやや黙し、それから一層静かな言葉を発す。

「もう少し、待っても良いんだぞ」

 しかし私も既に意を決していた。

 私はラトリーヌの血を吸い、命を奪ったのだ。

 残された彼女の身体にも、行き先がある。

「貴方も、酷い傷のはずよ」

 名残を惜しむ時間は欲しい。

 現実を哀しむ猶予は欲しい。

 だがもうラトリーヌの全く存在しないこの世でにおいて、それは私たった一人の孤独な行いではないか。

「俺の傷ならば、そのうち治る。

 それよりもお前だ。

 人間とそうなるなど、俺には思いもよらない事だが、大切な者を失う気持ちは俺にも分からないではない。

 後で悔いぬために、今は泣き叫ぶのも良いと、俺は思う」

 ラバンの声とも思えないような優しい響きでそんな事を言われては、せっかく抑え込んだ涙もまた溢れ出してしまうではないか。

 締め付けられる胸の痛みに私はまた一層強くウルにしがみ付く。

 そのウルさえも、また優しげな言葉を、残酷に私へ投げかけるのである。

「そうしておられれば、私からお嬢様の涙は見えません。どれほど激しく泣いても、私は止めたりいたしませんよ」

 しかし二人は私を買い被っている。

 私が涙するのは、ラトリーヌの死を悼んでの事ではないのだ。

 確かにラトリーヌを失った事は尋常ならざる哀しみである。

 だがそれ以上に、人を殺めねば生きていけない私自身を呪っているのだ。

 それを流すのは、哀しみからではなく、恐怖からなのである。

 だから、己の性を思い知らせる、彼女の亡骸に目を向けられずにいるのである。

「ラバン。腐っていくラテを見たくないのよ。お願い、彼女を食べて」

 言葉通りの意味を信じたのか。それとも、私の内面を悟ったか。

 ラバンはラトリーヌを抱き上げた。

「そうやってウルの方を見ていろ。すぐに済む」

 ラトリーヌは、こんな不甲斐無い者に命を捧げる事などを望みとしたのか。それで満足だったのか。

 どうして、私が血を吸い尽くすのを黙って見ていた。

 命を奪いそうになったら、教えてくれると約束したはずなのに。

 その約束を信じて、私は安心しきっていたのに。

 人間などの言葉を信じて、甘えきって、それで勝手に裏切られたような顔をして、こんな夜魔のために、どうしてラトリーヌは命を捧げたのか。

 振り返ったそこには、ラトリーヌなど存在していなかったかのように振舞う世界があった。


次話更新9/21(金)予定



作者ツイッター https://twitter.com/yuki_anno

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