ヤミヨヒメ -ジュンパク-
その数日間は、平穏だった。
父の手によって街では十三人の人間が命を奪われたが、幸いにも私の親しくする者たちは無事であった。
恐らく、ウルが父に掛け合ってくれたのだろう。私が余計な事に気を惑わさないために。
もちろんランスはたった一晩でそれほど多くの命が犠牲になった事を激しく悲しみ、また憤っていた。
それが私と同じ血を持つ父の仕業である事をランスに告げる事は絶対に出来ず、私は後ろめたさを覚えた。
ハナは私の手を握り、その残虐な事件に怯える。私も同じ牙を持つ事を彼女は知らない。
ラトリーヌは死者に救いが訪れる事を祈り、そして生きる者にも祈った。私もその祈りを受けても、良いのだろうか。
街中に死が溢れ、死が痛みと悲しみを連れてきた。痛みと悲しみは街に静けさを振り撒いた。
その数日間は、あまりに静寂だった。
だがその静寂は突如として、簡単に破られてしまう。
その日、私が飢えを誤魔化すための鹿狩りから戻ってくると、街は様相を一変していた。
幾つかの家の扉や窓は打ち破られ、所々に血の匂いがする。
近付いて様子を伺うが、既に誰も居なかった。
隣家に聞けば状況も分かるかと、戸を叩くが、確かに中に誰か居るような気配はあるのに、怯えて顔を見せない。
「ウル、これはどういう事?」
「分かりません。ですが、この辺りだけではないようです。通りのあちらにも、戸の壊れた家がありました」
先行していたウルに追いつくと、確かに二件や三件の被害ではない。
耳を澄ませば、遠くで何かの破壊音、そしてその直後に人の悲鳴が聞こえる。
私は一先ずその悲鳴の方向へ走った。
ウルが警戒を促す。
「ラバン、どこに居るの?」
私が大声で呼ばわると、突如目の前の通りに彼が姿を現す。
一声呼んだだけで出てきてくれるとは、状況は案外に油断出来ないらしい。
「何が起きてるの? 貴方なら分かるでしょう?」
ラバンは道端の何かを指差す。
私は立ち止まり、それを見た。
それは血で付けられた、何かの足跡。
その血は人間のものだったが、その形は人間の足跡ではなかった。
「獣の足跡だ。獣が人間を狩っているんだろう。それも珍しい事だが、それよりも妙なのは、襲ったその場で食ってない事だな」
通りのあちこちに血が飛んでいるが、確かに倒れた人間の身体はどこにも無い。
ただの獣なら食べ荒らした名残があるだろうし、血痕ももっと多くて良いはずだ。
「連れ去ってるのね? 夜魔が獣を駆って人を集めているんだわ。そいつはどこ?」
「聞いてどうするんだ? お前の命には無関係だろう?」
「でも街の人を守らないと」
「いつから人間を守る事にしたんだ? お前が人間を食わない事は決めたようだが、守るとは決めてないだろう?」
確かにラバンの言う通りだ。
しかし街の人が死ねばランスが悲しんでしまう。
「でもランスが」
「お前の父親が街の人間を食った時、お前は何も言わなかったろう?」
強張っていた肩の力が抜ける。
私に人間を守る資格は無い。
己も人を殺める存在でありながら、他者が生きるため人を狩るのを害するなど、矛盾している。
「今、外出するのは危険です。自宅に戻って戸締りを」
通りの小道から二人の武装した青年が走り出てきた。
その一人にぼんやりとだが見覚えがある。ランスの部下だ。
「街に入った狼は我々で何とかしますから、安全が確認されるまで避難していて下さい」
人間の身は、人間自身で守れば良い。
私が介入するのは一方的過ぎる我が儘だ。
「えぇ。貴方達も頑張って」
私はまた走り出した。
一頭の狼に追われる女性がこちらに向かってきて、助けを求めてウルの腰にすがりつく。
獣は大きく跳躍し、その女性に向けて襲い掛かっていく。
だがほんの一瞬でウルはその狼の首を斬り落した。
女性は地に腰を下ろしたまま、何度も礼を述べるが、ウルはそれを聞く様子も無く、また歩き始めた。
ウルは恐らくその人を守ったのではないだろう。狼が向かってきた事で、己にも被害が及ぶ可能性があったからだ。
私は恐怖のあまりその場に泣き崩れる女性を見て口を開く。
「泣く暇があるのなら家に帰ってしっかり戸を閉めなさい。貴方の身を貴方自身が守らなくてどうするの?」
女性はぴたりと泣くのをやめて私を見上げると、目を大きく見開いていた。
そしてまた泣き始めるが、己の足で立ち上がり、まるで私達からも逃げるようにどこかへ走っていった。
「ラバン、頭目はどこに居るの?」
「自分の街を狩場にされるのが気に入らないのか?」
「確かに、気分の良いものではないけど」
ラバンは首を左右に振った。
「分からん。街中にそれらしい気配は感じない。ただの獣かもしれん。せいぜい夜魔になったばかりの、まだ獣の姿で居るような低俗な奴だろうよ。だが油断はするなよ。」
「えぇ、分かってるわ」
私は剣を抜き放った。
白い刀身が曇り空に映える。
「屋敷に戻るのではないのですか?」
ウルが眉間に皺を寄せる。
この狼達が私を襲ってくるのではないのなら、屋敷に閉じ籠るのが最も安全だろう。
「私の領域を侵されたまま、放っておくのは夜魔の名折れでしょう? 今は休息中だけれど、ラバンの言うように、この街は私の狩場だわ」
その言葉はウルを納得させた。
眉間の皺は消え、私に従うという強い意思を示す。
「それで、どうするつもりだ?」
「親しい人だけは守るわ。それも奪われてはあまりに屈辱的だもの。ウルはハナを、ラバンはラテを守って。私はランスのところに行く」
「なぜ俺が手伝わなければならん? お前を守るのは仕方が無いとしても、人間を守る気はない」
ラバンの言う事ももっともだが、彼の協力は不可欠だ。
その狼達は扉さえ破るのである。私達で守らなければ危うい。
「お願いよ、ラバン。私の領域を侵されないためなの」
ラバンは私の教育官ではないので、その言葉はあまり効果がなかった。
だが効果のあった一人の夜魔がラバンに強い視線を向けている事に私は気付いた。
「仕方が無い。それなら、あのハナという娘を守ってやる。たかが獣などにあれをくれてやるのは惜しいからな」
ラバンはウルに束縛される事を嫌い、すぐさま意見を変えた。
またいつかのようにラバンが怒り心頭に達すかとも思えたが、そうならなくて私は安堵する。
しかしラバンがハナの方へ行った事で、ウルがラトリーヌを担当する事になったが、ウルは教会が苦手なのである。
私は更にウルと交代して、彼をランスの方へ向かわせた。
私達は散り散りに別れた。
私は通りを教会に向けて走っていたが、その途中で数頭の狼に襲われた。
もちろんその程度のただの獣に手傷を負う事は無い。
しかし、私を襲ってくるとは奇妙だ。
獣は私が人間ではない、最高位の生物であると本能のどこかで気付くはずだが、その狼達は構わず向かってきた。
正気では、無いのか。
何も分からないまま、教会に辿り着くと、教会の横側の窓から一頭の狼が硝子を割って入っていくのが見えた。
私は急いで教会の中に呼び込む。
甲高い悲鳴が堂に響き渡る。
見えたのは、腰を抜かし座り込むラトリーヌと、跳び上がった狼の大きく開かれた顎。
「剣よ、貫き通せ」
私は言霊を叫ぶと同時に精一杯の力で剣を投げ放った。
すると剣は、投げた私さえ驚くほどの速度で飛び、牙が届くまさに寸前で狼に突き刺さり、そのままの勢いで教会の壁に縫い止める。
ラトリーヌは驚愕と恐怖で凍りついた顔のまま、その串刺しになった狼を見つめていた。
狼は壁に刺さったまま、その剣を抜こうと必死にもがく。
その生命力はただの狼とは違う。体躯も二回り以上大きいが、それだけではない。
もがきながら呻くその鳴き声が、明瞭ではないが、何か言葉のようにも聞こえるのだ。
この狼はまさか、夜魔になったばかりの獣なのだろうか。
夜魔はまず言葉を解する事から始まる。
私も身体が醜い時から、言葉だけは分かっていた。
「ディード様……」
ラトリーヌがこちらを見ている。
私は腰の砕けた彼女を助け起こした。
「なぜ急に狼が?」
「分からないわ」
もがいていた獣が、最後の咆哮をあげると、がくりと項垂れる。それでもまだ多少痙攣していたが、それもすぐに無くなり、泡のように消えた。
剣に肉体を傷付けられ、教会の空気に要素を蝕まれたのである。格の低い夜魔などすぐに消滅してしまう。
だがそれを見て理解に苦しむのは、普通の人間であるラトリーヌだ。
「どうなっているのです?」
壁から剣を引き抜く。
今消えた狼が、街を襲う全ての狼を先導していたのだろうか。
これで事態が収拾すれば良いのだが。
「ディード様、答えてください。何が起きているのですか?」
「分からないと言っているでしょう? でも貴方は私が助けるわ。大丈夫よ」
教会の周囲に居る狼の気配が少しずつ多くなっていくような気がする。
私はラトリーヌを抱き寄せる。
感じる気配はただの獣のそれと大差無いが、あまりに数が多い。
私一人ならば剣を振り回して走り抜ける事も出来るだろうが、今はラトリーヌを抱えている。
それらの狼達が夜魔かあるいはそれに操られている者達ならば、この建物の中に居る限りこちらが優位だろうか。
しかし思案する時間は少なく、巨狼の破った窓の穴からまた七頭の狼が飛び込んでくる。
教会に染み付いた人間の思念が狼達の要素を揺さぶり、操られていたものはその束縛が緩んで、己の置かれた状況に困惑し始めた。
だがその内の二頭はただの狼ではないらしく、苦痛に身を捻るが、それ以上の闘争心で痛みを押さえ込んで向かってきた。
群れを作る動物らしく、残りの五頭もそれに続いて襲ってくる。
私はラトリーヌをそこに残し、一歩前に出、剣を振る。
斬り損じ、狼を逃してしまえばラトリーヌが危うい。
一振り毎に身体は熱くなっていくが、頭を出来る限り冷静に保つ。
七頭全てを斬り終えるのは一瞬の出来事で、血飛沫がまるで八重の花びらのごとく散った。
「あぁ、神よ、どうか私達をお救い下さい。これが裁きならば、私達に悔い改める機会をお与え下さい」
ラトリーヌは跪き、返り血を浴びた像に必死に祈った。
その祈りは、あの静かで心安らぐような静けさではない。
天の先まで届くよう、喉が張り裂けんばかりの叫びであった。
両目から止めど無く涙を流し、その頬で赤い飛沫と白い涙が混ざって落ちる。
しかし彼女が祈りの言葉を叫ぶ間にも、次々と獣達は飛び込み、ついには正面の扉も破られてしまった。
斬り裂く度に狼達の眼光が怪しく輝きを増していく。
私は、もはやこの建物に何の力も感じない事に気が付いた。
夜魔の力を阻害する人の思いの凝集が、拭い去られている。
私が撒き散らした狼の血によって、塗り潰されてしまったのか。
ラトリーヌを守るためにその建物に拠っている事はもう無意味だった。
「立つのよ、ラテ。祈るよりも、今は逃げないと」
「でも、祈れば神が救いの手を」
数十は下らない数の獰猛な獣に囲まれ、ラトリーヌは錯乱しているのか、必死にその神へすがり続ける。
そして私も祈れとばかりに私の裾を引っ張り、跪かせようとする。
しかしそんな事をすれば二人で獣の餌になってしまうのが目に見えていた。
狼達は獣らしからぬ狡猾さを見せ、椅子の陰に隠れながらひそやかに近付いてくる。
ほんの一足の距離まで近付いたものを私は椅子ごと斬り捨て、狼達に警戒心を植え込む。
「救いの手はいつ来るの? 私の手を取って。この手は、今すぐに貴方を助けられる」
ラトリーヌは一瞬迷い、そして私と彼女の信じる神を交互に見た。
「ディード様、皆を助けて下さい」
そしてラトリーヌは私の手を力強く握り締めた。
「奥には、まだ皆が眠っています。彼女達も、」
ラトリーヌは私から離れ、その扉へ駆け込んでいく。
私は急いで彼女を追おうとするが、すぐに彼女はまた戻ってきた。
ラトリーヌの後ろから続々と同じ格好をした修道女が駆け出てくる。
「寝所に狼が。マナが、マナが、」
修道女達はそう言って泣き叫んでいたが、逃げ込んだこの堂の中にも既に多数の狼が侵入している事に気付く。
ある者は一層強く叫び出し、ある者はもう声も出ず凍り付き、中には諦めたようにわなわなと座り込む者もいた。
しかし逃げ延びてきた修道女は十名ばかりもいる。
「ラテ、彼女達を一箇所に集めて、動かないで。ばらばらに行かれたら、守りきれない」
私の声でラトリーヌは彼女達を壇上に集め始めた。
寝所の方から来た狼が彼女達のくるぶしに喰らい付こうと勢いを増す。
私は跳躍し、剣を狼の頭蓋に叩き付けた。
しかしそちらから来る狼の数も尋常ではない。
堂の入り口と寝所の方と、まるで挟み込まれるようだ。
私が寝所の方角に気を取られた隙に、狼の一匹が壇上に上がったらしく、悲鳴と共に女達が一斉に堂の中央へ向けて移動を始めた。
まさかそのまま正面の扉から外へ逃げ出すつもりなのか。外にどれだけの狼が居るか分からないのに。
そしてその扉までの通路を行くには、左右の椅子に潜む狼を凌がなければならない。
その逃げ道の選び間違いに彼女達が気付くのは、大きな跳躍と共に襲い掛かる獣の影を見たときだろう。
しかしその集団にはラトリーヌも居るのだ。
「動くな」
その堂内に居る全ての存在に私の言霊が響き渡る。
その凍った時間の中を最も早く動けるのは、当然私自身だ。
「剣よ、地を這う影を刈り取ってしまえ」
投げ上げた剣は高速で回転し、修道女達の周りに円を描くように飛んだ。そして椅子の足も狼の足も構わず全て斬り捨てていく。
一先ずは彼女達を守れただろうか。
しかし年経た夜魔としての狼が、私の束縛をいち早く解き、私の背後に迫った。
襲い掛かるその牙も、剣があれば防ぐ事は容易い。
だがその刃は今、人間などのために宙を舞っているのである。
高位の夜魔が周囲にいないとはいえ、無闇に剣を投げ放すべきではなかったか。
私は振り返り、その今にも首筋に喰らい付きそうな牙を、両手で押さえた。
手の平に牙が突き刺さり、激しく痛むが、致命傷ではない。
「ディード様、まだ来ます」
ラトリーヌの声が聞こえた。
彼女が叫んだという事は、この堂にいる全ての生物が言霊の束縛を解いたという事であろう。
両手で一頭の牙を押さえているというのに、更にその後方から二頭が走ってくる。
「剣よ、戻って来い。そして獣を穿て」
修道女達を守っていた剣が回転を止め、鋭い速さで戻ってくる。
そして私の脇を掠め、その二頭を一度に貫いた。
床に突き刺さった剣を更に私は呼び戻す。
飛来した剣は、私が今両手で押さえている狼の背から口まで一気に突き抜け、飛び出したところで、私の右腕の中に握られる。
「ラテ、中庭へ逃げるわ。あっちにはまだ居ないみたい」
教会の小さな庭を私は指差す。
庭に面した窓や扉はまだ破られていない。この堂からそこへ直接出る道は無いが、窓を突き破れば行ける。
私はラトリーヌの方へ手を差し伸べた。
しかし目に映ったのは怯えきったたくさんの瞳だった。
私は彼女達の瞳に映る自分の姿を理解した。
雫滴る剣を握り締め、全身を真っ赤に染めた、そんな私を優しく見つめる事の出来る人間などいない。
ましてや、その血に塗れた手を握れる者など。
「ディード様、貴方は、」
ラトリーヌの唇が震えている。
言霊を使ってまで修道女達を助けるべきではなかった。
今彼女達は牙を剥く狼達よりも、未知の存在である私の方に何倍も恐怖を感じている。
私は、迂闊だった。
何もかもを守ろうとし過ぎて、それが手の届く距離から遠ざかっていく事に気付かなかった。
「ラテ、私は貴方を助けたい。来て」
そうしている間にも狼は彼女たちに喰らい付こうと走り寄っていく。
私はそれよりも速く駆け、修道女達を牙から守る。
そして彼女達は離れていく。狼からではなく、私から。
「どうして、私達を守ってくれるのですか?」
ただラトリーヌだけが竦んだ様に取り残されていて、潤む瞳で私に問う。
「守りたい。そう思うからよ」
「でもディード様は、」
「そうよ。私は、人間じゃない」
その言葉に恐怖を爆発させ、修道女達は叫び声をあげた。
そして我先にと走り出し、堂の出口に雪崩れ込む。
ラトリーヌは、それを止めたいのか、それとも自分も行きたいのか、その集団へ手を伸ばす。
だがその手は私に掴まれ、彼女はそこに留まる。
「信じてくれない者を、私は助けられない。でも、ラテだけは、貴方だけは助けたい」
「人ではないのに、なぜ?」
外に駆け出て行った女性達の悲鳴が響いた。
狼に追い立てられ、どこかに連れ去られていくのか、声はどんどん遠ざかっていく。
「貴方の、話す声、気に入ってるの」
ラトリーヌはいぶかしむ様に私を見つめた。
心の理由など、大抵は簡単で、時に的外れなものだ。
彼女にそれは伝わるだろうか。
そしてラトリーヌは唐突にもがき、私の腕を振り解くと、走り出した。
離れていく後姿を、いつまでも見ている余裕が私には無く、また襲い来る一頭の獣を斬り伏せる。
それと同時に窓を打ち破る音が堂に響いた。
しかしそれは狼ではない。
「ディード様、急いで下さい」
その破壊音は、ラトリーヌが中庭に続く窓を破った音だったのである。
既に彼女は庭に降り、私も続いて飛び込むように庭へ出る。
もちろん狼達は私達の後を追って走ってくるが、私はまた剣を投げて命じた。
「剣よ、舞い踊れ。閃く刃にて全てを斬り裂け」
剣は窓枠に立つと狂ったように踊り、不用意に近付く獣を餌食にする。
狼達が進みあぐねている隙に、私はラトリーヌを抱えて隣家の屋根へ跳んだ。
剣を戻し、下を見れば何頭もの狼が私を見上げながら咆えている。
夜魔になりかけの狼はその爪を建物の外壁に突き立てて登ってくるが、数は少なく、相手をするのは容易かった。
ふとラトリーヌが響く遠吠えに気付く。
どこから聞こえるのかは分からないが、はるか遠くから風に乗って微かに聞こえてくる。
それを合図にしたように狼達は次々と街から去っていった。
追いかけて事の真相を調べようかとも思ったが、ラトリーヌを連れている今それは難しいだろう。
どこかから煙がたなびいてきた。もちろんそれはウルだ。
煙がそっと私に囁きかける。
「お嬢様、その娘に夜魔である事が知れたのですね?」
ラトリーヌは屋根の傾斜に転がり落ちないよう、煙突の縁にしがみ付いている。
私は彼女を見ながら、小さく頷いた。
「どうなさるおつもりですか?」
「どうすべきなの?」
「何より厄介な事は、他の人間に話が広まる事です」
「きっと彼女は誰にも話さないわ」
「そうかもしれませんが、確実性を考えれば、誓約させるのが良いでしょう」
誓約とは誓いと呪詛の言霊である。
ラトリーヌは私とウルの小さな話し声を聞きとめたのか、振り返って私を見上げた。
「狼は、行ってしまいましたね」
「そうね。一先ず安心かしら」
「これから、どうしましょう?」
教会はぼろぼろに崩れ、仲間達もどこかに行ってしまった。
ラトリーヌの瞳に虚しさが映る。
「ラテ、約束して欲しいの。私が、人ではない事を、誰にも話さないで」
「分かっています。ランス様や、ハナ様に、知られたくないのですね?」
ラトリーヌは微笑んでいた。
一度は私に怯えたその目で、今は笑っていた。
「口に出して誓うのよ、私に。これは契約なの。その言葉で私はラテに呪いをかけるわ」
「呪い?」
ラトリーヌは私の言葉をそのまま繰り返す。
その言葉のおぞましい響きに怯んだ様子は無い。
あるいは、先ほどまでの目まぐるしさで、頭の中が一時的に無感動になっているのかもしれない。
「ラテが誓いを破ったら、そうね、声を失う程度が妥当かしら?」
問いかけると煙が頷いた。
もちろんラトリーヌにウルの煙は見えず、私が中空に話しかけているように見えたはずだ。
「誓いを破ろうとすれば喉が焼かれる、そういう呪い。さぁ、誓って」
ラトリーヌは私をじっと見、それからそっと静かに首を左右に振った。
「お願いよ。貴方を人間の世界に戻すために、私はそれを誓ってもらわなければいけないの」
「ごめんなさい、ディード様。でも私は誓いたくないです」
「誓いを破らなければ、ラテに害は無いのよ」
またラトリーヌは首を振る。
「呪いに怯えているのではありません。私は気付いたのです」
ラトリーヌの見上げる優しげな瞳に、見慣れない強さが滲む。
「ディード様が手を差し伸べて下さった瞬間に、私は今までの信仰よりも、貴方を信じました。人ではないと分かって驚きましたが、でも人だと思っていたから信じていたわけではないのです。人でないと分かったから、信じられなくなるわけではないのです」
それはもう、神にひたすらすがっていたラトリーヌの瞳ではなかった。書に癒しの言葉を必死に探していたラトリーヌではなかった。
「もう、帰る家も崩れました。共に暮らした皆も今は居ません。そして何よりも、人でも神でもない貴方を信じてしまった私は、もう人々の社会に戻れません」
ラトリーヌは私に向けて手を伸ばす。
私にその手を取らせたいのか。取らせて、何がしたいのか。
「ラテは、どうしたいの?」
「お連れ下さい。ディード様の傍で、信じ続けたいのです、貴方を」
私はウルを見た。
ウルは何も言わず、微動だにしない。
否と言わないのであれば。
「もう人には会えなくなるわよ」
私はラトリーヌの手を握った。
「良いのです。狼によって一度は失った命。ディード様のお傍に」
彼女は私が支える事を信じきって、勢い良く立ち上がった。
案の定、体勢を崩して転げそうになる。
だが私も肉体的な筋力は微々たるもので、ラトリーヌを引き戻せず、むしろ彼女の重みに引っ張られる。
二人を引き止めたのは、素早く実体化したウルだった。
ラトリーヌはウルが突如現れた事に驚き、目を皿のように丸くする。
私はそれを見て笑い、ラトリーヌも照れて笑った。
その様子にウルだけが眉を顰め、私に何やら説教をしていた。
明くる朝の街は、昨晩の騒動のせいで普段の何倍も騒がしかった。
街に残された傷跡は深く、特に一般の人々が住む北側の地区が激しく襲われていた。恐らくは貴族の館よりも粗末な造りの民家が襲うに容易かったからだろう。
行方知れずとなった人の数は知れず、ランスは捜索隊を組織して出て行った。
ウルとラバンはどうやら上手く働いたようで、ランスもハナも夜魔の暗躍には気付いていないようだ。
ただハナの愛犬が、飼い主を守ろうとしたのか、昨晩の遠吠えに反応してしきりに咆え声をあげていたらしく、不安を覚えたハナはずっとその犬を抱えて部屋に閉じ籠っているという。
だが私の見解では、恐らくその犬はラバンの存在に怯えたのではないだろうかと思う。動物の感覚は人間のそれよりも鋭いから。
もちろんそんな事をラバンに言ってみても、彼はそんな下手は打たないと言う一点張りだろうから、敢えてその意見を口にはしないのだけれど。
街の中でも教会の有様は酷いものだった。
堂の中は血と骸と刀傷で溢れ、いかにも私の通り道らしい惨状である。
一夜にして無人の館となり、人々は協力し合いながら清掃に励むが、誰もその後この建物がどうなるのか知らなかった。
この館を修復したくても、その責任者がもう居ない。
いや、人々の間では居ない事になっている。
生きてはいるが死者となったラトリーヌは、常闇の世界にある私の館に連れて行った。
人間を連れ込んだ事で、ロザリアなどは特大の溜息を吐いたが、それ以外の問題はなさそうだった。
もともと夜魔は己に関わる事でなければとことん無関心なものだ。
ラトリーヌは客間へ通されると、疲れのためかすぐに横になって眠った。あの館に住む夜魔は皆無口なので、誰も彼女の眠りを妨げないだろう。
しかし私が街を一人でゆらゆらと歩いていると、ウルが静かに、しかし普段に比べてやや騒々しく現れる。
彼は何か妙に焦っていた。
「お嬢様、屋敷にお戻りを」
ウルが慌てるとは珍しいものである。よほどの重大事なのだろう。
私は走り出し、屋敷に続く小道へ入った。
一歩毎に景色を覆う闇が濃くなり、夜魔の世界へと変わっていく。
辿り着き、見上げた屋敷はいつもと何ら変わらなかった。
いや、耳を澄ませば僅かに騒々しい。
この屋敷が騒々しくなるとは、確かに何か特殊な事が起こっているようだ。
「屋敷の裏へお回り下さい。私どもではどうにも手が出せない問題なのです」
屋敷には高位の夜魔が四人も居るというのに、それでも解決出来ない事柄を、私にどうせよというのか。
そう思いながらも、私は急いで屋敷の裏へと回った。
屋敷の裏は若干の庭が広がり、その先は森である。
裏には既にラバンとロザリアが居り、何かを静かに見定めている。
私もその方向に目を向けてみる。
言葉が出ない。
だが見覚えはある。
あまりに奇妙だが、言葉にして認めなければいけない事実がそこに示されていた。
「あれは、私?」
それは声にならない叫び声を天に放ち、己の存在を主張する。
かろうじて人の姿に見えはするが、煮崩れたような両足を引き摺り、爛れに塗れた両手を振り回している。
漆黒の髪は長さも揃わず、その下に見える瞳は灰色に濁り、視線を彷徨わせている。
時折皮膚に血が滲み、裂けては腐臭をばら撒いた。
「恐らく」
そこにあったのは、生まれたばかりの私の姿だったのである。
今の私とは、まるで異なる生物のようにも見えるが、その醜さは今も私の脳裏に焼きついたそれと同じで、私は自分の本質をまざまざと見せつけられた。
その穢れの塊は咆え、もがく。
そして私の姿を認めると一層強く耳を裂くような声で叫んだ。
ロザリアは耳を塞ぎ、表情を歪めていた。
それは呻きながら身体を捻り、揺すり、そしてその足を一歩踏み出す。
だがその物体は微動だにしない。
更に激しくそれは身体を揺すり始める。
するとその背後からキリカが飛び出てきて振り回される。
良く見ればキリカの細長い両腕が醜い私の腰にしっかりと回されており、左右に激しく揺さぶられながらも彼女は必死でしがみ付いていた。
「これは、どういう事なの?」
「恐らくはお嬢様が身体を完成させる過程で切り捨てられた無駄な部分に自我が芽生えたのだと思います」
確かにキリカに捨てさせた身体の不要物は屋敷の裏手へ集められていた。
だが、飽くまで捨てたはずのそれがなぜ意思を、つまりなぜ夜魔に変わったのか。
それに答えたのはロザリアである。
「貴方を夜魔にしたのはあの方の血でしょう? そのほとんどは貴方の身体に残っているだろうけど、その一滴でも体外へ流れ出ていたのなら、それを帯びた遺骸がもう一人の夜魔を生み出したとしても不思議ではないわ」
「どこかへ行こうとしているようなのですが、やはりご主人様の血を持つ存在を他に渡す事は避けねばなりません。しかし手立てが無く、」
「キリカに押さえさせているのね」
その物体はキリカを振り解き、どこかに向けて走り始める。
しかしすぐにキリカが再び捕らえ、辛うじてその場に押し留めた。
森に逃げかけた時に折り取ったのか、それは一本の枝を手にし、その不恰好な剣によってキリカを何度も激しく打ちつけ、また身体を揺さぶった。
打たれたキリカの肌は腫れ、裂け、血が滲み、時折癒えるが、痣の増える方が速い。
「どうして方法が無いの? あれの格は高くない。ラバンでもロザリアでも、ウルにだって何か方法はあるでしょう? 束縛を命じるとか、最終的には消滅も仕方が無いわ。父の血を外に漏らさないためだもの」
「既にそれも試みましたが、」
私はラバンの方を見る。
ラバンは首を左右に振って答えた。
「俺にあれの命は奪えなかった。お前と同じ発生をしたあれの命も、俺は守らねばならないらしい。面倒なものだ」
私は人間の腐肉と父の血から生まれてきた。そしてその物体も同様にして生まれた。
それはむしろ私が斬り捨てた部分と言うよりも、私の一部、いや私自身なのだ。
父がラバンの身体に埋め込んだ命令が、私自身とその鏡面の私を区別せず働き、ラバンを無力にしてしまっているのだろう。
「じゃあ、ロザリアは? 貴方ならば私も消せるはずだわ」
「駄目なのよ。私の棘であの方を傷付けない、血は流させない、そう誓ったのよ、私自身に。あの方の血が僅かでも流れているのなら、私はあれを傷付けられないわ」
純血種である二人が手を出せないと言う。
それならば私がやるしかあるまい。
もう一人の私を葬るのが、私自身の責務である事は当然だ。
しかし捨てられ、忘れ去られた場所で生まれたそれを、産声をあげた瞬間に、母親、あるいは姉、もしくは同一の存在である私の手で命を絶たれるとは、あまりに惨い誕生である。
私は、後ろめたさを覚えた。
「躊躇うな。あれは生まれる予定の無かった者だ。躊躇えば、俺はあれを守ってしまう」
一瞬で終わらせなければ、ラバンが父の命令を実行し、恐らく私の腕一本あたりを持っていってしまう。
しかし生まれる予定は無かったのだろうが、それは既に生まれた命なのである。
消し去る事は、生まれなかった事にする事ではない。
それは、今生まれたばかりの命を、ただ勝手に奪う事。
その物体はまた一声激しく咆える。それは咆え声というよりも、叫ぶ言葉に近い。
もちろんその音の連なりには意味があり、私を震撼させた。
「放セ。私ヲ自由ニ、シロ。私ヲ、留メルナ。」
そしてキリカの顔をその木剣で殴打し、続けて倒れ込むように彼女を突き飛ばした。
キリカは屋敷の壁に激しく背中を打ちつけ、崩れるように倒れこむ。しかしそれでもまだふらふらと立ち上がり、穢れに向かっていった。
「私ハ、自由ニ、ナリタイ。構ウナ。
邪魔ヲスル者ハ、嫌イ。」
キリカがまた打たれ、頬に血が流れる。
私はその存在を消す事に躊躇いながらも、キリカがただ黙々と傷付けられていく様を見ている事は出来なかった。
走り寄り、その木の枝を叩き落すため、剣を抜く。
しかし振り下ろした剣を受けたのはラバンの大剣だった。
突然の事に驚いた醜い私が闇雲にその棒を振り回し、その一つがラバンの背に食い込み、さすがの彼も数歩たたらを踏んだ。
「馬鹿か、お前は? 剣を抜けば要素が敵意に気付くだろうが。無闇な事をするな」
要素に気付かれれば、ラバンに護衛の命令が下ってしまう。
私は剣を納め、今も殴打されるキリカとそれとの間に割って入った。
振り下ろされる一撃を素手で受け止める。
激しい痛みに左腕の感覚が消し飛び、恐らくは折れたのだろうが、それには構わず右腕で棒を握り、これ以上それが振り下ろされるのを拒んだ。
「私のキリカを傷付けては駄目。貴方には同情するけど、これは許さない」
見竦めると、それは怯えるような表情を見せた。もっとも、顔中がひびや爛れに覆われていて、その表情は明確でないが。
「痛イノハ嫌。傷ツケルノハ嫌。
誰モ、傍ニ、来ナイデ。
一人ハ嫌。」
それは矛盾を矛盾とも思わず叫び続ける。
足を引きずり、逃げようとするが、全身を不明確な腕で掻き毟り、思うように前へ進まない。
「醜イ身体ハ要ラナイ。身体ガ痛イ。
綺麗ナ身体ハ、ドコ?」
その身体が常に疼く様な痛みに襲われている事を私は知っている。
「身体ガ痛イ。モウ嫌ダ。
誰カ、助ケテ。
私ハ何ノタメニ、生マレテキタノ?
私ガ生キル意味、何?
私ガ生キル意味、無イノ?」
私の身体にも痛みが走る。
その叫びが、どれも私が叫んだ事のある言葉ばかりだったからだ。
ただ私が口に出さなかっただけである。
「助けて欲しい?」
その私はこちらに振り向いた。
真っ赤に染まった灰色の瞳で、私を見ている。
それが自分で自分を哀れむ事だとは分かっていた。
認めたくない思いと惨めな思いを混ぜ合わせ、それを慈悲と勝手に解釈して、私は躊躇いを捨てる。
「私の名をもって命ず」
私はもう一人の私に腕を差し向けた。
早口で唱えきってしまわねば、またラバンを巻き込んでしまう。
しかしその私は向けられた腕に怯え、一際大きな叫び声をあげる。
「嫌ダ。死ニタクナイ。勝手ニ生ンデ、勝手ニ殺スノ?
醜イカラ?
綺麗ナ身体ガ欲シイ。自由ノ身体。
血ヲ飲マセテ。
血ヲ飲マセテ。
身体ガ渇ク。誰カ、血ヲ頂戴。
死ヌノハ嫌。ダカラ、誰カ、血ヲ。」
「私の半身よ、消滅せよ」
その叫びを聞いている暇は無かった。
だから存在が消えていく悲鳴の中で、それは後れて響く木霊のように頭を揺さぶった。
切り裂く嵐の直中で、その身体は細かく千切れ、千切れた片もまた砕け、そして構成する要素を自然の中に散らしていく。
それは消え入りながらもまだ何かを叫ぶ。
生に執着するわけでもなく、生きたいと望むわけでもなく。
死に怯えるわけでもなく、死を迎えるわけでもなく。
「誰カ、私ヲ連レテ行ッテ。
私ガ行クベキ、場所ハ、ドコナノ?」
それはただひたすらに、今を否定し、訪れる未来を否定する叫び。
現状の維持も、先の展開も望まない叫び。
自身でさえ想像できない理想を誰かが不意に渡してくれる事を望んでいるのか。
それは何も望まないまま消えていった。
彼女が死の間際に呼びかけたのは、あるいは父か。
私が生きる意味は、何なのだろう。
私が辿り着く場所は、どこなのだろう。
父はいつかそれを教えてくれるだろうか。
酷く胸が虚しくなる。
「キリカ、大変だったわね。ご苦労様」
私は傷だらけになった彼女に触れた。
「美しき、お嬢様。」
虚しくなった胸に痛みを覚える。
キリカが微笑んでいるのに、私は笑い返す事が出来ず、逃げるようにその場を離れ、自分の部屋に飛び込んだ。
己の内面にある矛盾を、醜さを曝したような気がして、恥ずかしくて誰にも顔を見せたくなかった。
美しいと呼んでくれる、その顔はただの上辺に過ぎないように思えたから。
部屋の窓から遠くを眺めていた。
何を見ていたわけでもなく、ただ漠然とここではない遠い地を目で追っていた。
私が捨てたもう一人の私が、なぜ今頃になって生まれたのかは分からない。
ただそれは私の双子の妹などというものではなくて、恐らく私の内面を映した鏡だったように思えた。
荒れ狂うその鏡面を言霊によって消し去ったが、実際は消えたのではなく、また私の心の中に戻しただけだ。
あるいは、鏡像を消しただけで、その実像はこの胸にいまだ存在している。
胸の中に認めたくない思いがあって、でも認めないわけにはいかなくて、しかし決断が怖くて目を向けられずに要る私を、鏡面の私が指差して嘲笑っているような気がする。
私は軽い眩暈を覚え、既に爛れを隠しきった胸を押さえた。
扉をノックする音が聞こえた。細く柔らかな音。
ウルだろうか。
その扉に鍵はかけていない。
私に何かを言いたくて入ってくる者を、拒むつもりは無い。
けれど、自らその扉を開いて迎え入れるほどの気力も無かった。
そうやって自ら決断する事を拒むのに、他の誰かが決断してもたらす結果を私の内面は不満に思うのだろう。
それは否定出来ない。
もう一度、扉は叩かれ、また私は何の応答もしなかった。
すると今度はそっと扉が開かれた。
現れたのはウルではなく、ラトリーヌだった。
「ディード様、先ほどは大変な騒ぎでしたが、大丈夫でしたか?」
「起こしてしまった?」
ラトリーヌは大切な仲間達をたった一晩で失ってしまった。
そして人間の世界を捨てる決断をして、信じていたものも手放した。
もっと眠っていたかっただろうに。
「いえ、時刻はもう昼前ですから。夜が明けないのは妙なものですね」
「それで、私に何か用かしら?」
ラトリーヌは少し私に近付く。
「ディード様は、人の血を吸うのですか?」
「聞いていたのね?」
「屋敷の窓から、見ておりました。ディード様が、心配で」
生きたいと望む断末魔の咆哮。
渇く身体を血で潤したいという、隠し切れない私の欲望が吐露された。
「えぇ、そうよ。怖い?」
ラトリーヌは首を振って否定した。
「ディード様は私を助けて下さいました。貴方が何であろうと、私は恐れません。」
凛とした瞳で私を見つめ、差し出した手の中には黒鋼玉のナイフを握っていた。
彼女は無条件に何かを信じる術を身につけている。
その純粋さには危うさがあり、醜い私は信じられる事に僅かに後ろめたさを感じた。
「何をするつもりなの?」
「今度は私が、ディード様を助けたいのです」
ラトリーヌは握ったナイフを己の左腕に突き刺すと、ほんの僅かの力でもって肌を切り裂いた。
私は何が起きているのか理解出来ず、ただ魅入られたようにじっと見ていた。
白い絹のような肌に黒い刃が埋もれて進み、僅かの間を置いて裂けた隙間に赤い肉が覗く。
途端に部屋中に薫り立つ甘さが充満した。
「ラテ、何をしているの?」
ラトリーヌはグラスを取り出すと傷口に押し当てた。
切れ目から少しずつ血が溢れ、一滴、また一滴とグラスの中に落ちていく。
「ディード様は、血を飲まねば生きていけないのでしょう? 私達のために、それを控えていると聞きました」
見る間にグラスは満たされていき、それでもその腕からは止まる様子も無く滔々と血は流れていく。
しかし流れていくのは血だけではなく、ラトリーヌの命も少しずつ流れていってしまうような気がして、私は慌ててその傷口を押さえた。
だが私の指の間からも、血は滲み、溢れ、生命の力強さを思い知る。
「優しい方。でも、その優しさには、自身に毒を盛る恐ろしさを感じます。だから私は、ディード様の変わりにその毒を飲みたいのです。貴方を失くしたくはないから」
「私はまだ死なないわ」
「でも、僅かずつでもそれに近付いているのなら。さぁ、どうぞ飲んでください」
差し出されたグラスの中で真っ赤な波紋が広がっては薫りを生み出す。
ラトリーヌは微笑むが、私は命を垂れ流すその様に凍り付いていた。
「どうして私の代わりにラテが死に歩まなければいけないの? 代わりに貴方を死の淵に追いやってまで生きたくはない。そうするくらいなら貴方以外の血を飲むわ。私は、貴方が言うほど優しくない。昨日まで貴方が信じていたもののようには、慈悲深くないのよ」
しかしラトリーヌは一層優しげに微笑み、その小笛の音色のような声で囁く。
部屋に満ちる血の香りと、その笑みと声は混ざり合い、私の心にあまりに甘美な色を映す。
「昨日私は命を落としました。ディード様は、私が落とした命を拾ったのです。この命は、貴方のものなのです。お好きにして良いのですよ?」
「私のものだというのなら、また貴方に返すわ。だからお願い、私を誘惑しないで」
私は溢れ出しそうな飢えを獣の血で封じ込んでいた。
その上に、意思を持った私の躯を消し去るため、また折れた左腕を癒すため、多くの精力を消耗した。
今目の前にあるグラスから立ち上る熱い湯気を前に、どうして空腹を忘れていられよう。
心は拒むのに、口に唾液が湧き、唾を飲み込めば喉が鳴った。
「命を返すと仰るのなら、私はまた貴方に捧げたい。命を奪って欲しいのです、ディード様に」
ラトリーヌの瞳に妖しげな色気が輝き、微笑んだ仄紅い唇から小さな歯が覗く。
左腕からは今もゆっくりと血は流れ続けているのに、その痛みも忘れたように私を見つめる。
私はラトリーヌの様子がおかしい事に気付いて、堪らず私は顔を背けた。
「ラテ、貴方は魅了されているわ、私に。夜魔の瞳には力があるのよ。早く正気に戻って」
父を見た時に私の瞳に映った狂気。
それがラトリーヌの瞳にもあるような気がした。
彼女は闇の濃い場所で夜魔を見つめ過ぎたのだ。
それも、あらゆるものを失った隙だらけの心のままで。
「ウル、来て。ラテを私から引き離して。彼女を元に戻して」
しかしウルが来る様子は無い。
私に血を捧げるという者を、ウルが引き離すわけがなかった。
「私は魅了されてなどいません。自分の意思で決めたのです。でも、もしも貴方に魅了されているのだとしたら、それは瞳にではなく、その優し過ぎる心にです」
私の瞳に涙が滲んだ。
買い被られる己の不甲斐無さを知っているからである。
彼女にそう思わせた己の罪深さを知ったからである。
「駄目よ。私は貴方を死なせたくない。自らの手で殺すために助けたのではないわ」
ラトリーヌは私の鼻先にそのグラスを差し出した。
「ならばせめて、このグラスだけでも」
流れ出ていった血はもはや彼女の中には戻らない。
彼女が腕を切り裂いた瞬間に、それが私の中に入る事は、決定されていた。
「グラスだけ。分かった。グラスだけね。それだけよ。それだけ」
私は差し出されたグラスに触れる。
ラトリーヌの指の温かさと、それよりもやや熱い血の温かさが伝わり、私の喉を刺激した。
グラスに唇をつけると、僅かな錆びの苦味を感じる。
そしてそれを追うように押し寄せる鮮やかに甘い快感の波。
ラトリーヌの血が美味である事は出会った時から想像していた。
それをようやく手に入れたという背徳的な充足感が、快感を尚更強くしていく。
急ぐ必要は無いのに、奪われる恐れも無いのに、私は一息にグラスを空にする。
狂いそうな興奮の中、それを押し隠すように平静を装い、私は言った。
「ラテ、もう要らないわ。だから腕の血を、止めて」
人間の傷は容易くは治らず、何か布を巻く必要があると言うので、私はそれをラトリーヌに渡した。
私が傷口から抑えていた手を離すと、ラトリーヌは縛るように布を腕に巻きつけていく。
私は自分の真っ赤に染まった手の平を見つめる。
小さなグラス一杯では、足りない。
望まない言葉が頭に響いた。
しかしその手の平に付いた血も、もうラトリーヌの中には帰らない。
ならば、この血だけ。手に付いた血だけ。それだけ。
私は指をしゃぶり、手の平から手首まで一滴も残さずに舐め取った。
人間の血を吸う快感は、他に類を見ない。
抗し難い狂気がそこには潜んでいた。
ラトリーヌは手に布を巻きつけ続け、その布には血が染みていく。巻いても巻いても、染みは広がり続けた。
気が付くと私はラトリーヌの膝に抱かれていた。
滑らかな仕種で髪を撫でられ、安らかな気持ちを覚える。
しかし私はその膝で彼女の腕に喰らいつき、その血を啜っていた。
巻いていた布は私が引き裂いたのだろうか、ラトリーヌの腕を掴んだ私の指に切れ端がこびりついている。
その布に染みた血の痕を見た時に我を忘れたのだろうか。
私は恐ろしくなって、突き立てていた牙を離すと、彼女から飛び退いた。
それでもラトリーヌは微笑みかける。
「殺しても、良いのですよ?」
その狂おしい囁きを振り払うように私は首を激しく振り、部屋の隅に逃げ込むと顔を覆った。
「お願い。もう私を惑わさないで」
両目から滔々と涙が溢れ出してしまう。
私の中にある、覆い隠していた本性を思い知らされた。
私はどれほど口や心を偽ってみても、結局は血に狂う浅ましい存在なのである。
いや、浅ましいのは、それを認められないこの心だろう。
ラトリーヌはまた腕を縛り、私はもう一度彼女に襲いかからないために目を背けていた。
それでも部屋に染み付いた血の匂いが私を誘い、気持ちとは裏腹に心が昂ぶってしまう。
私は心を静める何かを求めた。
「ラテ、血が止まったら、あれを読んで。貴方の声が聞きたい」
ラトリーヌは微笑みながら、小さく頷いた。
私達は互いに本を取り出し、もはや二人とも信じていないその一節を、ゆっくりと同調するように指でなぞった。
「また明日も、グラス一杯の血を差し上げます。私は貴方が神の使いではないかと、少し思うのです。だから私は、身も心も貴方に、全身全霊を貴方に捧げます」
ラトリーヌは本の言葉の合間にそんな事を言った。
私はその一節を本の中に探し、すぐにそれは本からではなく、彼女自身から出た言葉なのだと気付いた。
すぐにまた彼女は本の言葉に戻り、何事も無かったように進んでいく。
「違うわ。私はただの生き物。純白だけで作られたわけじゃない」
「それでも良いのです。貴方は抑圧された私の魂を解放して下さいました。ディード様がどんな存在であろうとも、それが神の救いだったのではないかと、ふと思ったのです。それだけで、私には十分なのです」
「違うわ」
それ以上、私は何も言えなかった。
ラトリーヌの信じる心は、純粋で頑なである。
ただ響く彼女の声を私はじっと聞いていた。
身体には血が、心には詩が注がれ、満ちていった。
次話更新9/14(金)予定
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