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ヤミヨヒメ  作者: 二束
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ヤミヨヒメ  -イダイノヒト-

 私達の帰り道には強い向かい風が吹いていた。

 風を受けて重くなった箱を、二頭の馬が苦しそうに引っ張って進む。

 だから私達は馬を休ませるため度々立ち止まり、帰るべきあの街は一向に近付かなかったのだが、しかし馬車に乗るのが苦手な私としてみれば、この休息もまた非常に有り難かった。

 休んでは数里進み、また休む。

 その繰り返しで道程の半分ほどを来た時にはもう日暮れに差し掛かっていた。

 だがまたそこで一陣大きな風が吹き、馬車が左右に大きく揺れた。

 馬はそこで完全に歩みを拒否してしまった。

 足を折り、その場に座り込むと、頭を地に擦りつけ、放心したように口を開けていた。

 ランスや御者はその様を見て首を捻る。その馬達は力も強く、主人の命令も良く聞く賢い馬で、こんな事は以前に無かったのだ。

 馬達は息も荒く、全身の筋肉が細かに震えている。手を触れればその肌はとても熱かった。

 私は横たわる馬の首を何度か撫でる。

 この馬はハナがそうやって首を撫でると、とても嬉しそうにするのだ。

 しかし今はあまり喜ばず、むしろ少々嫌そうだった。ハナでなければ駄目なのだろうか。

「疲れたんだろう。今日中に着けると思ったけど。夜も休み休み進んだとして、着くのは明日の朝かな。ディードは馬車の中で眠ると良い」

 ランスは言った。

 しかし私は何かを感じた。

 こうして手を触れていると、馬達はまだ肉体的には疲労などしておらず、その筋肉と血の脈動は十分に力を残している気がする。

 ならばなぜ走らないのか。

 その虚ろな視線。震える身体。下げられた首。

 私にはそれが一瞬、何かに怯え、平伏しているように見えた。

 夜魔の暗闇に当てられた人間は大抵、このように平伏す。

 まさかこの馬達も私の闇に当てられたのだろうか?

 いや、それならばきっと往路でも同じことが起きているはずだ。

 それは私の思い過ごしだろう。

 雨でぬかるんだ道と強風に疲れただけ。そう考えるより他に無い。

 私達は馬車の中で馬が立ち上がるのを待った。

 やがて馬は歩き出し、その足取りはゆっくりだったが、その後は無事に街へ辿り着いた。

 既に、朝日が昇っていた。


 馬車から降りた私をハナが猛烈な抱擁で迎える。別れていたのはほんの数日だったのだが。

 彼女の家のために私が立った事がそれほどまでに喜ばせたのか。私は気恥ずかしく思う。

 しかしあまり強く抱き締められていると、私の腕と肋骨が砕けそうなので、喜ばせ過ぎるのも考えものだ。

 ランスは馬車でそのまま私の屋敷まで送ろうとしたが、正直言って馬車はもう懲り懲りである。

 丁重に断り、私はウルと二人で街を歩く事にした。

 道は雨に洗われ、埃は沈んで、空気が澄んでいた。

 しかし何か妙な気配が街中を包んでいる。

 人々の暮らしは普段と同じように見えるのに、どこか違和感を覚える。

 昨日までは人間達の生活の息を帯び、脈動していた街が、今日は怖いほど静かに思えた。

「ウル、何か妙じゃない?」

 ウルは何度か周囲を見回すが、また無表情に私を見た。

「私は何も。お嬢様は何か感じるのですか?」

 今はもうウルよりも私の方が、感性が鋭い。

 では私よりも格の高い夜魔に尋ねるべきかと思い、周囲を探す。

 既にラバンは居なかった。

 やはり何かが起きているのか。それともラバンは先に屋敷へ戻っただけか。

 彼が見つからないので、私はロザリアを頼る事にした。

 常闇の屋敷に着くとキリカが迎えてくれる。

 長旅で埃を吸った服の着替えを彼女は既に用意していた。

 身だしなみの教育官であるロザリアに支持されたのかもしれないが、手際の良さは有り難い。

「キリカ、ロザリアは部屋に居る?」

 私のコルセットを締め上げると、キリカは窓の先にそびえる城を指差し、口をもごもごと動かす。

「麗しき研練の妃様」

 キリカが私を呼ぶ以外の言葉を使った事に驚く。

 心が無いために、言葉を用いる必要性を覚えない。そう思っていたのに、なぜ新しい言葉を使う気になったのか。

 良く考えればキリカは私が居ない間、ずっとロザリアと一緒にこの屋敷で過ごしていたのだ。

「研練の、って確かロザリアのことよね? 彼女にそう呼ぶよう教えられたの?」

 キリカは頷いた。

 ロザリアも高位の純血種らしく、下位の被造者であるキリカの言葉の有無など気にもしていなかっただろうに。

 しかしいざ言葉を持ったとなると、試してみたくなったのだろう。彼女は良く興味を深くする人だから。

「他に何か教えてもらった?」

「美しく麗しき研練の妃様」

 あぁ、ロザリアは何を教えているのだろう。

 思わず肩の力が抜ける。

 まったく、戯れ好きだとは思っていたが、考えている事の良く分からない人だ。

「美しきお嬢様」

 唐突にキリカが私を見下ろしながら、表情も無くそう囁く。

 悔しくも少々気分が良い。

 微かにロザリアの思考と触れたような気がして、妙に照れる。

「お嬢様。美しい、お嬢様。麗しきお嬢様。」

 私の心が揺れた事に気付いたようで、更に私を喜ばせようと思ったのか、彼女は何度も連呼する。

 私に靴を履かせながらもキリカのそれは止まらず、私は徐々に自分の頬が紅潮していくのを感じた。

 気分が良くなり過ぎて、むしろ心乱れそうだ。

 私は恥ずかしさに堪らなくなり、両手でキリカの口を塞ぐ。

 それでも彼女はまだ私の手の下で唇を動かしていた。

「駄目。駄目よ。そんなに何度も繰り返さないで。繰り返し過ぎるのは、むしろ効果が無くなるわ。分かった?」

 口を塞がれたままキリカは頷き、ようやく唇を閉じる。

 一通りの着替えを終え、部屋を出る。

 キリカが父の城を指差すのならば、あちらに行けばロザリアに会えるのだろう。彼女は城を眺めて昔の思い出にでも浸っているのか。

 しかし、屋敷の階段を降りると、そこには見知らぬ者が居た。

「誰?」

 その夜魔は私の声に振り返る。

 身なりは正しく、顔立ちも涼やかだが、あまり格の高い者ではなかった。

 彼女に敵意は感じない。

「私は、幸福を統べる方、つまり貴方様のお父君の側仕えをしております。名はフィーユ」

 彼女の服装はどこかウルに似ており、およそ同様の職務を受けるため父に生み出された者だろう。

 しかし彼女よりもウルの方が随分と格上だが、それは恐らく私の教育係という大役を兼任しているからだ。

「もしかして、父が帰ってくるの?」

 彼女はその淡緑色の瞳を私に向け、言葉の意味を理解しようと間を持った。

「いえ、……主上は既にお戻りです」

 私はすぐさま飛び出し、父の城を見る。

 扉の錠は封を解かれ、全ての鎧窓が開け放たれていた。

 それは先日までの凍りついた城ではない。再び呼吸を始め、時を刻んでいる。

 しかし、この街に着いた時から感じている妙な空気は、まさか父の気配だったのだろうか。

 城の窓からは重圧を含む闇が溢れ、流れ落ちている。

 私の父とは、これほど強大な夜魔だったのか。

 ウルは私をその階位にまで育てようと言うのである。私は期待と興奮で身震いした。

 私の到達点は予想以上に高く、全ての支配権を約束されたと言っても過言ではない。

「主上からのご伝言を、宜しいですか?」

 震える自らの身体を抱き締める私に、フィーユが声をかけた。

 彼女も自分の任務を携えて私のところへ来ているのである。

 私は興奮のために彼女をないがしろにしてしまっていた。

 私が頷くと、彼女は語り始めた。

 しかしその言葉を発しているのは彼女の一片舞い散る木の葉のような細い唇なのに、聞こえる音は先ほどまで聞いていた彼女のものではなくなっていた。

「娘よ。拝謁を許す。またすぐに旅立つゆえ、長くは待たん」

 それは男の声で、内容から察するに恐らくまだ見ぬ私の父の声だ。フィーユはまさに父の言葉を持ってきたのであった。

 しかし娘である私に、初めてかけた言葉が、ただのこれだけか。

 そのあまりの短さ、内容の薄さに私は唖然とした。

 いや、顔を合わせればきっと積もる話もあるはずだ。

 私も聞きたい事は山ほどある。

 父の立つ、高みから見た景色はどのようなものか。

 あらゆるものが私の目線とは異なって見えるはずだ。

 その全てを知りたい。

 夜魔の世界とは。人間の世界とは。

 それを知れば、あるいはランスとも憂慮無く接せられるかもしれない。

「ウル殿も既にお出でになっております。貴方様もお急ぎを」

「分かったわ。すぐに行くと伝えて」

 フィーユは小さなつむじ風に姿を変え、城の中へ戻っていった。

 私は何度か自分の身なりを確かめると、入り口に向かって歩き出した。

 私が近付くと薔薇の城は口を開き、私を迎え入れた。

 扉を潜った瞬間に、私は想像を絶する光景に目を見開いてしまう。

 金銀、宝玉で作られた数々の装飾品。壁、そして天井を飾るのは、繊細かつ雄大な彫り物。

 目に映る全てのものが必ず美しさで満たされていた。

 しかし驚くのはそんな事ではない。

 この城に集まる夜魔の数だ。

 その広間には、いや、広間だけではない。階段にも二階の通路にも、更にはその上の階も、その上も、あらゆる場所に夜魔が居り、それぞれの感情を秘めた視線で侵入者である私を一斉に見つめた。

 純血種も居れば、被造者も居る。私より格の高い者も、低い者も居て、数百は下らない。

 更に驚くのは、その全てが父の支配下にある事だ。

 そして生まれたばかりでありながら、父と同じ血を持つ私を、ある者は蔑み、ある者は憎み、ある者は敬い、またある者は羨んでいた。

 ラバンやロザリア、そしてウルもこの群集の中に居るのだろうか。あるいは、また別の部屋か。

「ディード様」

 私の名を呼んで、向こうから近寄る者が居る。

 いや、しかしそれはおかしい。

 私は自分の目を疑った。

「またお会い出来て光栄です」

「……なぜ? なぜ、貴方がここに?」

 それは、エルなのだ。

 北の街でアリューシオと時間を共にしているのではなかったのか。

 自らの命を危険に晒してでも、アリューシオの傍に居る事を願ったのではなかったのか。

「真理の調停者様の馬車に乗る事を許されたのです」

「父に、連れて来られたの?」

「連れて来ていただいたのです。こちらへ来る途中、ディード様の馬車ともすれ違いました。お気付きになられました?」

 馬が居竦んでしまったのは、巨魔である父の気配に当てられたせいか。

 しかし今はそれよりも彼女の事である。

「アリューシオは、どうしたの? 貴方が傍を離れれば、彼は――」

 アリューシオはエルと一緒でなければ生きてはいけないと、それほど彼女を必要としていたのに。

「彼を、見殺しにしたの?」

「いいえ。彼はあの街で生きております」

「え?」

 私は理解出来なかった。

 あの晩、私が見た二人の心は真実ではなかったのか。

「ディード様がお立ちになった後すぐに、至上の御方がお出でになり、人間に捕らわれる私に目を留めて下さって仰ったのです。望むなら、連れ出してやる、と。私が彼の事を話せば、至上の御方は彼から私に関する記憶を奪い、私を心身共に解放して下さったのです」

 記憶とは知性。その者の生命の根幹に関わる重要なものだ。

 それを容易く操るなど並大抵の業ではないが、この父ならば出来ると言うのか。

 しかし、私があれほど苦心した問題を、たったの一言で、そして私から見ればあまりに理不尽な形で解決するなんて。

「なぜ? エルは、エルはアリューシオの傍に居たかったのではないの?」

「夜魔はやはり、人間の傍には居られません」

「そんな。あの時、エルはそう言わなかったじゃない?」

 エルはしばし黙すが、僅かに微笑み、なぜか頬を紅潮させた。その表情は、幸福そうにさえ見える。

「至上の御方のお姿を仰いだ瞬間、私は、傍にお仕えしたい、全てを委ねたい、そう思いました」

「それで、全てを捨てて、全てを覆して、父に同行を懇願したの?」

 エルはますます頬を紅くし、恥ずかしげに頷いた。

 しかし逆に私の方は蒼褪めてしまう。

 私は裏切られた気分だった。

 夜魔と人が、それぞれを蝕みながらも必死に寄り添う事を望む。

 その心は危ういが美しく、繊細な結晶石の彫り物のようだと思っていたのに。心のどこかで羨んでさえいたのに。

 それを父は、エルは、こんなにも容易く嘘にしてしまうのか。

 私は夜魔の心というものが途端に虚しく思えた。

 その虚しくなった心に怒りが満ち、私はかっとなってわけの分からない言葉を叫ぶと、城を飛び出して、自分の屋敷に逃げ込んだ。


 私は部屋の扉も窓も全て施錠し、私と外界を切り離す。

 キリカだけを殻の内側に置き、肩を抱き締めさせて、自らを慰めていた。

 窓越しに薔薇の城の胎動を感じると、何か穢されるような気がし、窓にカーテンを下ろす。

 次第に時が夕暮れへ近付くに連れ、城が帯びる闇の気配はますます濃くなり、部屋のどこにもその逃げ場は無くなり、私はまた逃げるように屋敷を出た。

 キリカを連れて人間の街へ出ると、夜魔の尖塔を中心に広がる夕闇から逃げるように、もっとも光の強い場所を探して歩く。

 そしておよそ日没と同時に私は教会の中へ逃げ込んだ。そこが夜魔の放つ気配とは最もかけ離れた空気を持っていたからである。

 私は中へ入り、椅子に腰掛けると暗く複雑な影を作る天井を見上げた。

 あの嘘ばかりで作り上げられたような夜魔の心は、私の中にもあるのだろうか。

 もしもあるのならば、それを吐き出してしまいたくて、私は何度も深く息を吐いた。

「どなたか、まだおられるのですか?」

 ふと堂の中に声が響く。

 それは戸を締めに来たラトリーヌであった。

「ラテ。私よ」

 彼女は私の姿を確認し、微笑むが、ふと言葉を失う。

 そこで私は彼女に名を教えていなかった事を思い出した。

「色々とお話はしましたのに、名前を聞いていなかったなんて、妙なものですね」

 彼女は私がそこに居た理由を聞いたりはしなかった。

 ただ傍に居り、信仰の本から慰めと癒しの言葉を抜き出しては、清流の水音のような声で囁くのである。

 その言葉のどれ一つとして、今私を悩ませている問題を軽くはしなかったが、その囁き声は私を慰めた。

 私は自らの片膝を抱え、堂の静寂に耳を傾ける。

 そしてふと、私の方から本の内容ではない言葉を吐いた。

「私では、アンナを助けられなかった。貴方に辛い決心をさせたのに」

 彼女は本に目を落としたまま、今読んでいた一節を指先で撫でていた。

「先日、ランス様が来られた折、お聞きしました。ディード様のお薬でも駄目だったのなら、もうこの国にアンナ様を治せる医者や薬師は居ないのかもしれません」

 彼女は私が夜魔であるとは知らないので、私が何か高価な薬でも用いたと思っていた。

 しかし彼女の言う通り、もう人間にアンナを救えないだろうという事は正しい。

 恐らくその病は夜魔によって引き起こされたものだから、夜魔にしか治せない。

「でも、アンナ様はほんの少しの時間ですが、ご気分が良くなったと聞きますので、全くの無駄というわけでも無く、私はほんの少し安堵いたしました」

 アンナは病のために記憶を失ったというが、私はふとそれが父の仕業ではないかと考え付く。

 父は私と同じ吸血する夜魔で、病魔ではない。

 だがアリューシオからエルを引き離すためだけに彼の記憶を消し去った人だ。

 だからアンナの記憶を奪ったのも父である可能性も無くはない。

 私はそれが稚拙な憶測だと分かってはいたものの、エル達の事象に拍車をかけられて、激しく苛立った。

「もはやアンナ様のために祈る事しか出来ないというのなら、今度こそ私がお役に立てます。今まで私は祈る以外に何も出来ず、とても辛う御座いました。でも今はただひたすらに祈れます。だって、それしか出来ないのですから」

 ラトリーヌは寂しげな表情を浮かべ、しかしそのまま微笑んだ。

 その慈雨のような笑みに照らされて、私の心の苛立ちが火勢を弱めていく。

「ラテは、優しい人ね」

「優しくされたいから、優しくなろうと励むのだと思います。私には他に、出来る事などありませんから」

「与えるから、与えられ。施すから、施され。そういう一節があったわね」

「はい」

 彼女は本を見ている。

 人間には己を削って他人に尽くす傾向がある。

 そしてそれを美徳と信じられる、強く危うい心がある。

 私は夜魔だから、それを妙に羨んで見ていた。

「ラテ?」

「何ですか?」

 私とラテは互いに目を合わせもせずに俯き、それぞれ手の平と本を見つめている。

 その本に私を救う言葉が無いのは知っている。その本が救うのはそれを信じている心だけだ。

 でも私は、この憤りに燻る心を冷やして欲しくて、彼女の声を聞きたかった。

 夜魔ではない、人間の言葉になら、ふと私は救われそうな気がしたのである。

「愛って何かしら? 貴方は知ってる? それは、容易く嘘に変わってしまうような、浅ましいものなの?」

 ラトリーヌはしばらく黙っていた。

 私も静かに答えを待っていた。

 彼女がすぐに答えなかったのはきっと、答えが分からなかったのではないだろう。

 ただ、答えるための言葉があまりに少ない事に気付かされたのだ。

 それでも、彼女は懸命に口を開いた。

 口を開けば、言葉は天より与えられる。

 私は彼女の姿に本のその一節を重ねて見ていた。

「人の心は複雑です。本当の心を認めたくなくて、自分の心にさえ嘘を吐く事があります。でもその嘘さえも信じ込んでしまって、気が付くと本当の心と区別が付かなくなっていたり、でもふとした瞬間にまた嘘と気付いて戸惑ったりします。真実の思いも、そうやって自分で隠したり、見つけたり、時には失くしてしまったり、また生まれたり」

 ラトリーヌは自らの胸に手を当て、探る内面を一つずつ、拙いが確かな言葉に変えていく。

 私にそれはあまりに複雑で理解し難かったが、何かを感じたように思えた。

「人の心は本当でもあって、嘘でもあるようなものばかりで出来ているのだと思います。本当や嘘という区別は無くて、ただそこに何かがある。そう思えるような」

「愛って?」

「私にも分かりません。とても大切に思う事や、自分よりも優先して思う事、一緒に居たいと思う事。どれも愛から生まれる思いですけれど、その思い自体を愛とは呼ばないように思います」

「じゃあ、何が愛なの?」

「分かりません。ただ、自分を突き動かす強い思い」

「それが愛?」

「いえ、その思いがある場所に、愛が生まれるのだろう、とふと思いました」

 彼女は恥ずかしそうに赤面していた。

「急に変な事をお聞きになるので、驚きました。胸がどきどきします」

 紅くなった顔を見られて、ラトリーヌは気恥ずかしそうに顔を背けた。

「私の知らない感情だったから、とても気になったの。それを嘘にされるのが、理解出来なかったのよ」

 ラトリーヌはこちらを向いて微笑んだ。まだ顔は紅いが、恥ずかしそうな様子ではない。

「大丈夫ですよ。人には必ず、心のどこかにある感情ですから。ディード様も、いずれその思いを見つけますよ」

 ラトリーヌがその手を私の胸に乗せた。

 彼女の手の平から感じる脈動は激しく、私とは異なるリズムに不思議な気分を感じた。

「そう、かしら」

「そうですよ」

 でも私は夜魔だから。

 全ての人間にある感情でも、私には無いかもしれない。

「ディード様を突き動かす思いは、この胸にたくさんあるように思います。だから、いずれきっと、見つける日が来ますよ」

 もしもそうなら、早く見つかると良い。そう思った。

 だが、期待はしない事にした。裏切られるのは嫌いだ。

 ラトリーヌがずっと微笑んでいるので、私も微笑み返した。

 しかしラトリーヌは急に慌てたように何かを指差す。

 私がそちらを見ると、そこには青い顔をしてへたり込んでいるキリカがいた。

 私は驚いて、ラトリーヌ以上に慌ててしまう。

「どうしたのでしょう? お水を持ってきます」

 ラトリーヌは急いで奥へ行こうとするが、私はキリカが具合を悪くした原因に気付いて、彼女を呼び止めた。

「大丈夫よ。外の風に当たれば良くなるわ」

「でも、真っ青ですよ?」

「外に出ればすぐに治るの。本当よ。じゃあ、今日も面白い話をありがとう」

 私はキリカを抱き起こして入り口に向かってふらふらと歩いた。

 彼女は教会の空気に圧されて倒れたのである。

 格の低い夜魔は、教会に染み付いた人間の思念に己の要素を揺さぶられてしまう。

 幸いにもキリカは格が低いと言っても、私の父、至高の夜魔セィブルの作った夜魔である。眩暈だけで済んだようだ。

 しかし気分が悪いのなら、入った瞬間に言えば良いものを。

 だが良く考えれば、連れて来た以上、彼女は離れろと命じられるまで、傍に居続ける人だった。

 単純だが忠実で、一方自我に欠けており、己の身よりも命令を優先する。

 扉を開けて外の空気に触れると、たちまちにして彼女の顔色は本来の青白さに戻った。

「気持ちが悪いのなら、そう言って。折角、言葉をあげたのだから」

 彼女の心でもばつが悪い事は分かったのか、キリカは眉尻を一層下げて頷いた。

 その殊勝な態度に私はすぐに彼女を許してしまう。

 私はこれからこちら側の屋敷にでも戻って、時間を潰そうと思っていた。

 昨日まではあれほど会いたかった私の父に、今はなんだか会いたくなかったのだ。

「主上がお待ちです」

 だが教会から出たその通りにはフィーユが立っていた。

「嫌よ。会いたくなくなったわ」

「しかし先ほどは、すぐに行くと。既に主上にはそうお伝えしております」

「気が変わったのよ。拝謁は命じられたのではなくて、許されたのよ。私には拒絶する権利があるわ」

 フィーユは何事かを考えるように、指で下唇に触れ、眉間に皺を寄せた。

 ここで彼女に食ってかかる事に何の意味も無いのだが、父の事が癪で仕方が無かったのである。

 彼女にしてみればまさに八つ当たりの被害だ。

「貴方様が拝謁なさらない事に問題は御座いませんが、大抵の場合、主上の許しはおよそ命令と同義の様に思われます」

「他の夜魔がどう受け取っていようと、私には関係無いわ」

 フィーユはまた何か考える。

 今の彼女の職務は私を連れて行く事なのである。

 フィーユも、ウルと同じく父の命令には絶対的に服従している。

 だから彼女はそれを実行するために必死なのだろう。

 何を言えば私が頷くか、考えを巡らせていた。

「今、貴方様が拝謁なさらない事で、ウル殿が責めを負う恐れがあります。ご自身の側仕えをお助けになる気は起きませんか?」

 彼女が考えた末に持ち出したそれは、私の急所を見事に突いていた。

 だがなぜウルが責められねばならないのかと、私の心にまた余計な苛立ちを与えたのも確かである。

 フィーユはつむじ風となり去ったが、私はそこから城へと向かう途中ずっと、何と言って父に抗議してやろうかなど、色々と考えていた。


 見上げた城の闇の深さは尋常ではなかった。

 城主がいるとこれほどにも変わるものかと、僅かに驚く。

 私はキリカを屋敷に戻し、父の待つその城へ入っていった。

 幾つかの扉を開けて、父の部屋、つまりこの城の王の間に飛び込んだ。

「ようやく来たか、娘よ」

 玉座に腰掛ける父の、あまりにも予想とかけ離れたその姿に私は驚く。

 ランスの父コンサルのように、私の父も多少老い、威厳に満ち、そして豊かな包容の雰囲気を纏っていると思っていたが。

 しかし見上げた父の姿はあまりに若い。

 長く豊かな銀の髪が獅子のようにたなびき、威厳を遥かに超えた力で私を威圧する。

 細く長い手足のあらゆる動きに要素が追従し、視線一つにも稲妻のような力がある。

 その顔はあまりに美しく、男性とも女性とも違う、根源的な完全美がそこにはあった。

 問い詰めるために叫びたい言葉が山のようにあるというのに、口を開ければ舌が乾き、喉が焼けて裂けそうである。

 それは明らかに恐怖であった。

 全身ががくがくと震え、汗が噴出し、膝を射抜かれたように力が抜ける。

 気が付けば私は、その蒼黒色の床に平伏してしまっていた。

 意識を失いそうなほど恐ろしいというのに、なぜか興奮に心臓が高鳴る。

「顔を上げる事を許す」

 全身の束縛が緩み、肩に乗せられた重荷が減ったように思えた。

 私はゆっくりと顔を上げ、また父の顔を見る。

 心臓の鼓動が急速に速くなる。

 叫ぶ言葉などもはや忘れ、それでも呆けた様に口を開けたまま、ただただ父の姿に見入る。

 この高鳴りで破裂しそうな心臓を、このまま父の手で握り潰されたい気分だ。

 そして、腕をべっとりと濡らした私の血を、父に飲み干してもらいたい。

 その一滴の血の雫として、父と一つになりたい。

 私は天も地も分からなくなるような快感と欲望、そして恐怖に身悶えた。

 何かを言葉にしようとは思う余裕も無いのに、唇が勝手に音を出す。

「父よ。私の、私の血を、貴方の中に。私は、貴方と一つに、一つになりたい。」

 父はその様子を見ながら、薄く微笑むような唇から長い長い溜息を吐く。

「誰か娘を正気に戻してやれ。話も出来ん」

 進み出たのはウルだった。

 しかし私は彼の手を振り払い、父の方へ這いずる様に身体を進めてしまう。

 こんな惨めな姿をウルに見せたくないと心のどこかが思っているのだが、身体は言う事を聞かない。

 ウルは私に何かを言い続けているのだが、私にそれは聞こえない。

 ただ父の傍に行きたいという思いだけが頭の中で響き続けていた。

「ウル、もう良い。言葉だけでは戻らぬ。一度部屋の外へ連れ出せ」

 今度は私の知らない屈強な夜魔が、私の両手を掴んで持ち上げた。

 私は父の近くに居たくて堪らなくて、引き離そうとするその力に懸命に抗った。

 しかし気の触れた小娘一人の力など知れたものである。

 私は容易く追い出され、部屋の扉が再び閉まる。

 父の姿が見えなくなって、私はふと我に返った。

「お嬢様、お気は静まりましたか?」

 傍にウルが居た事に驚く。

「え、えぇ。何だかわけが分からなかったけど。今は大丈夫よ」

「ご自身に何が起きたかご理解出来ますか?」

 己に何が起きたのかをゆっくりと思い出してみる。

 まず恐怖に駆られた。

 父の格は高過ぎる。目が合っただけで己の支配権を瞬時に全て奪われ、私を構成する要素が悉く屈した。

 だから不屈の夜魔でありながら、勝手に身体が平伏してしまったのだ。

 そして畏縮した要素を父の美貌がたちまちに捉え、私は我を失うほど魅了された。

 それがあらゆる夜魔を屈服させ、また束縛する父の力なのだ。

「たぶん、分かるわ。恐怖と魅了は夜魔の基本的な力だもの。そう、そして父は、……偉大な人。私が想像していたより、遥かに」

「今のお嬢様ならば大丈夫だと思っていたのですが。何か心に揺れをお持ちでしたか?」

 確かに私は父に対して苛立っていた。その苛立ちをぶつけたくて勢い込んでいた。

 その隙を突かれていたのか。

「えぇ、ちょっとだけ」

「では、それはお忘れ下さい。心を無防備にしなければ、正気を失う事もありません」

 私は理解した。

 私でさえこの有様なのである。

 エルに父の魅了を防ぐ手立ては何一つとして存在しなかっただろう。

 格の低い彼女の心は、たちまち父の魅力の虜となり、全てを投げ出してしまったのだ。

「宜しいですか?」

 扉に手をかけたウルが問うので、私は頷いた。

 心の平静を保たなければ。

 何度も自分に言い聞かせ、また父を見上げた。

「気分は、良くなったか?」

 激しい圧力を感じる。

 だが心も含めて全身を緊張させ続けていれば、今度は辛うじて耐える事が出来た。

「はい」

 父が微笑む。

 その仕種全てが恐怖と魅力に満ちているように思えた。

「人間に随分とご執心のようだな」

「はい」

「人間は口にせず、獣の血で飢えを凌いでいると聞いたが。そうなのか?」

「はい」

 私の成長の様子を全てウルから聞いているのか、父はそれを確認するようにゆっくりと問いかけ続けた。

 私の振る舞いを父がどう思っているのか、その口調や表情からは全く分からず、私は若干の不安を覚えていた。

「私のような、力ある夜魔になるのは嫌なのか?」

「いいえ。いずれは父のようになりたいです」

「そうか」

「私はもっと、急いだ方が良いですか?」

「いや、構わんよ。お前の思うようにすれば良い。私はもっとお前が成長していると思っていたが、それも私の勝手な推測だ。お前がお前なりに育つ事が私の望みなのだから、私の事は気にするな。」

 父は私に何を望んでいるのだろうか。

 何のために私を生んだのか。

 それを聞こうと口を開いたが、私は問うのをやめた。

 なぜなら、私がそれを知る事で、父の思い通りの方向に育とうとする事が、父の最も望まない事ではないかと思ったからである。

 もしもそれを望むのなら、父はウルを通して何よりも先にそれを私に教えただろう。

「何か、言いたいのか?」

 口を開けたままの私に父は問いかける。

 私の口から漏れた問いは、エルの事だった。

「エルを、彼女とアリューシオをなぜ引き離したのです?」

「エル? あぁ、アエロコローブが人間相手に用いていた名だったな」

「はい。彼女達は、一緒に居る事を強く望んでいました」

「だが、夜魔と人間ではないか。いつまでも共には居られんよ」

 やはり父のような夜魔には当然の事柄であった。

 下らない事を言っているような目で、私を見据える。

「でも、二人は互いに傷付けあっても良い、それでも一緒にと」

「思いは強かろう。しかし傷付けあう、そこに幸福は無い。充足は無い。お前も、一度は引き離そうとしたのだろう?」

 確かに父の言う通りだ。

 だが、父はあまりに強引ではないか。

「引き離すその痛みを消す術が、私にはあった。お前には無かったが、私にはあった」

「でも、二人は」

「ならば今、誰が不幸を感じている? 誰が痛みを覚えている? その方法が強引な事にお前は何か不満を持っているのかもしれないが、結果は幸いを迎えた。違うか?」

「………、はい。」

 苛立っていたのは私一人で、もはや誰一人としてその問題にこだわっていない事を気付かされる。

 まるでその苛立ちが、解決出来なかった自分の不甲斐無さや、容易く解決した父への嫉妬のような気がしてきた。

「他に何か言っておきたい事はあるか?」

 それは父の優しさか。

 私に迷いを全て捨てさせようとしているようだった。

 だが、私はそれ以上何も言えなかった。

 それに何より、父こそが夜魔の道理そのものなのである。その偉大な摂理に刃向うだけの力が私には無かった。

「いえ。何も、ありません」

「そうか。ならば、今後も思うままに励め。いずれまた、顔を見に来る」

 そう言うと父は立ち上がり、こちらに向かって歩き始める。

「またどこかへ行くのですか?」

「お前の様子を見に立ち寄っただけだ。長居するつもりは無い」

 私はふと寂しさを覚えた。

 どれほどその階級や思想に隔たりがあろうと、やはりその父だけが同じ血の絆を持つ唯一の人なのである。

 ようやく会えた父の、その何一つとして知れないまま、また別れてしまうのか。

 その寂しさがふと口をついて零れる。

「父娘なのに、一緒には居られないのですね」

「一緒に居たいのか?」

「いえ、また離れるのが、少し切なく思えただけです。私はお帰りを待っています」

「そうか。では、私を見送る事を許そう。出来るだけ長く、傍に居るが良い」

 父の荘厳な雰囲気に押され、一歩でも遠ざかりたいと思う。

 しかし一方で、体温が伝わり合うほど寄り添いたいとも思う。

 父は大き過ぎる。

 私は畏怖と憧憬を同時に覚えていた。

 父が動き始めた事に城中の夜魔が気付き、付き従うために移動し始める。

 城を出るとそこには四台の巨大な馬車が既に用意されていた。

 馬車と言っても、引いているのは馬ではなかった。

 その馬車の箱はまるで城館のように大きく、獣の馬を何頭並べても引けるようなものではない。

 それを引くのは、銅で作られた巨大な銅馬だった。

 父によって命を与えられ、その金属の足はどんな野生の馬よりも強靭かつ滑らかに動く。つまりその銅馬もまたウルと同じような作られた夜魔なのである。

 数百の夜魔達はその馬車に次々と乗り込んでいった。

「父よ。貴方は私をどう見ましたか?」

 人間に容易く揺さぶられていた私は、父を失望させただろうか。

 だから父はこんなにも早く立ち去るのだろうか。

 不安がとうとう口に出てしまう。

「娘よ。お前にそれを言っても意味は無かろう。期待はしない、だから失望もしない。お前があるがままに育てば、それで良い」

 フィーユが馬車の扉を開け、父は私に背を向けた。

「麗しき無慈悲の方、その娘は待っても、私の事は待たないのですか?」

 馬車に片足をかけて乗り込もうとする父に背後から、まるで叫ぶように呼びかける声がある。

「貴方が戻られてよりずっと、部屋で待っておりました。しかし貴方は、御自分の伴侶にも会わず、また行ってしまわれるのですか?」

 それは、ロザリアだった。

 憤怒に眉を顰め、頬を紅くし、震える指先で父を指差す。

 父はまたこちらに向き直り、その優しさと冷たさとが混ざり合う、涼やかな顔をロザリアに向けた。

「茨の人よ。そう言うのであれば、会いに来れば良かったではないか」

「貴方の方から来ていただけると、信じていたのです」

「私は、お前の方から来ないので会いたくないのだと思っていた。すれ違いを、残念に思う」

 ロザリアは指差した腕を静かに戻す。その握り拳は爪が手の平に食い込んだように、痛い。

「今度こそ私も、お連れ下さい」

 怒りと寂しさがロザリアの表情に浮かんだ。

 こんなにも感情豊かな彼女を見るのは初めてで、私は何度も驚く。

「お前には、娘の養育を」

「いつまで私にこんな小娘のお守りをさせるつもりなのですか?」

 ロザリアが私を指差して叫んだ。

 その形相は憎しみに満ち、今までどんな言葉をかけられた時よりも、胸を締め付けられた。

「昨日今日生まれたばかりの者に、なぜこの私が時間を奪われなければいけないのです? 私は貴方の唯一無二の伴侶ではなかったのですか? あの言葉は嘘だったのですか? なぜその私が、貴方の傍に居られないのです? なぜ引き離されるのですか? こんな娘のために」

 ロザリアは私を押し退け、父の手を両手で強く握った。

 跪き、その父の手を自分の唇に押し当て、頬擦りするようにすがりつく。

「確かに、お前はただ一人の伴侶だ。しかし立ち居振る舞いは全て教えたのか?」

「はい。後はウルが居れば十分です」

 立ち居振る舞いなど、まだ半分ほどしか教わっていない。

 まだ半分だと言っていたのはロザリアではないか。

 ダンスのステップも数えるほどしか覚えていない。

 そんな嘘をついてまで、父の傍に居たいのか。

 私と共に居るのは、嫌なのか。

「そうか。そうまで言うのなら、付いて来るが良い」

 でもロザリアは薔薇の木だから、根を張った土の傍でないと、不安で堪らないのだ。

 私はそう思ってみるのだが、なぜかとても寂しくなった。

「あぁ、嬉しいわ。また貴方と共に過ごす日々が始まるのですね」

 ロザリアの顔に明るさが生まれ、花を咲かせたように輝いて見える。

 その喜んだ顔も、見るのは初めてだった。

 私と一緒に居たロザリアはいつも、少し苛立って、少し微笑んで、少し寂しそうだった。

 私のために揺らしてくれた感情は、いつもほんの少しだけだったのだ。

「さようなら、ロザリア」

 私は声を発すが、小さ過ぎたのか、喜ぶ彼女の耳には届かないようだった。

 ロザリアは馬車の手すりに手を伸ばし、乗り込むために自らの身体を持ち上げる。

 しかし馬車の扉の中から一本の細い手がぬうと伸びてきて、ロザリアの身体を地面まで押し戻した。

「貴方の馬車はこれじゃないですわ」

 その白い手の持ち主が入り口に現れ、そのままロザリアをぐいぐいと押し戻しながら降りて来た。

 私と同じくらいか、むしろ幼いようにも見える。

 美しい緑と黒の斑目のドレスを纏い、緩やかに波打つ栗色の髪に大きな羽帽子を乗せ、その下には愛らしい表情が浮かんでいた。

 その少女に入室を拒まれた事で、またロザリアの顔にさっと憤りが走った。

「この私に、何と無礼な。何者です?」

「ベニ。」

 少女はにこやかな笑みを作るが、その瞳の奥に冷たい残酷なものをふと感じる。

「ベニメウクスと申します。皆さんもベニとお呼びになって構いませんわ。薔薇の女王様の御英名は存じております。でも、この馬車には乗せられませんわ」

 周囲の要素が全て父の方へ傾いているために気付くのが遅れたが、その事実を知って私は驚いた。

 そのあどけない仕種、幼い表情からは予想も出来ない事だ。

 ベニメウクスは、ロザリアよりも遥かに格が高い。

 ベニメウクスは威圧するようにロザリアを見つめ、それでロザリアも彼女が格上である事に否応も無く気付かされたようだ。

「なぜ? 私は慈愛溢れる方の伴侶なのよ」

「知っていますよ。けれど、もっと美しい方かと思っていましたわ。一人の時間が寂し過ぎて、小皺が増えたのでは? 涙皺が」

 ロザリアは手を振り上げたが、その平手を振り下ろす事は出来なかった。

 ベニメウクスの瞳に睨まれれば、その手も容易く防がれ、己の様が余計に無残になる事が分かっていたのである。

「ベニメウクス、彼女をからかうな。私のただ一人の伴侶である事に間違いは無いのだから」

 父がベニメウクスを窘めると、彼女は少々不服そうに頬を膨らませた。

 そして父はロザリアを見ながら言葉を続ける。

「だがベニメウクスが言うように、お前をこの馬車に乗せる事は出来ない」

「なぜです? なぜ伴侶であるこの私が、貴方と同じ馬車に乗ってはいけないのですか?」

「お前は確かに私の伴侶だが、私に従う者の一人である事に違いは無い。従う者達の馬車はあれだ」

 父はたくさんの夜魔が乗り込んだ三台の馬車を指差した。

 それを真似てベニメウクスも指差す。

 その二つの指が示す先の、群集を詰めた馬車を見て、ロザリアは首を左右に激しく振る。

「この私が、他の者と同じ扱いを受けるのですか? でもそれも、貴方が一人でこの馬車に乗るのなら、それも我慢しましょう。しかしなぜ、この者が貴方と同じ馬車に乗れるのです? なぜこの者は良くて、私は駄目なのです?」

 自分を強く指差すロザリアの腕を、ベニメウクスは押し退ける。

「この馬車が、お父様と娘だけのものだからですわ」

 ロザリアは口を開けたまま、言葉が出ない。

 それは私も同じだった。

 ベニメウクスがちらりと横目で私を見ると、私は背筋に冷たいものを感じた。

 彼女もまた、父の血を受けて生まれた夜魔なのだろうか。

 しかし私とは格も外見も違い過ぎる。

「薔薇の女王様、ご理解出来ました?」

「ベニメウクスも、いずれは私と同じ位にまで上るやもしれん娘だ。伴侶だが、従い続けるお前とは、違う」

「特別なのですよ、私は。ただの薔薇の女王様と違って」

 今度こそロザリアは怒り心頭に達し、その腕が目にも留まらぬ速さで薙ぎ払われた。

 しかしベニメウクスは視線で彼女を束縛する事はしなかった。

 もっとも単純な方法で、その平手打ちを止めたのである。

 ベニメウクスの右手がロザリアの腕を掴んでおり、残りの左手は既にロザリアの方へ差し向けられていた。

 ほんの数言の言葉を吐けば、ロザリアが消滅してしまう。

 それなのに私の心は、突然の事に慌て、驚き、そして密かに怯え、助けに行く事も出来ない。

「やめよ。彼女は私の伴侶だ。傷付けてはならん」

 ベニメウクスの腕を押さえ、ロザリアを助けたのはやはり父だった。

 それがベニメウクスには不満だったようで、恥じ入り赤面するロザリアに追い討ちをかけるような言葉を吐く。

「お父様の伴侶にしていただいて、良かったですね。命拾いして。でも、あまりかっとならない方が良いですよ。そうやって心乱すたび、皺が増えて、その内に伴侶でもいられなくなりますよ。その時は、私を叩こうなんて思わないで下さいね」

「この小娘が」

「ほら、また皺が。伴侶でなくなる日は近そうですわね」

 ロザリアは唇を噛み締めると、顔を背け、片手で顔を覆った。

 誰も、この私も含めて、誰も彼女に慰めの言葉をかけなかった。

 私には、噛んだ唇から流れる一滴の血がそれを拒んでいるように思えたのだ。

 父は馬車の入り口に手をかけ、乗り込みながらロザリアを見下ろす。

「どうした? 共に来るのではないのか?」

 ロザリアは拳を握り締め、きつく父を睨み付けると、声を震わせながら答えた。

「行きません」

「どうした?」

「この私を伴侶として扱って下さらないのなら、一緒には行きません。他の者と同じ扱いを受け、その上その小娘にまで蔑まれるのなら、ここに残る方が何倍もましです」

 父はロザリアの目を見つめ、ロザリアも強い視線を返す。

「そうか。ならば、残るが良い。構わぬよ。私はお前の自由を許したい」

 馬車の中に父の姿が消える。

 ロザリアは思わずその暗い入り口に手を伸ばし、父が手を掴んでくれる事を望んだようだった。

「麗しの君、本当に私を置いて行くのですか?」

「茨よ、お前はどうしたいのだ? 後ろの馬車に乗るか、ここに残るか、お前の望む方を選べ」

 馬車の中から父の声が静かに返ってきた。

 ロザリアは後ろの馬車をじっと見つめ、それからまた唇を噛み、声にならない思いを噛み殺した。

 そしてロザリアは静かに馬車から離れ、屋敷の方へ去っていく。

 その後姿はあまりに痛くて、私は見ていられなかった。

「あら、女王様は残られるのですね。残念」

 ベニメウクスがロザリアをいつまでも見送る。

 私にベニメウクスの態度は傲慢に見えたが、彼女はそれに見合うだけの力と立場を持っていた。

「ベニメウクス、貴方も父セィブルの娘なの?」

 私はやや警戒しながら尋ねてみる。

 彼女も私と血の絆を持っているのだろうか。

「ベニ。ベニって呼んで。私はそう呼ばれたいの」

 ベニメウクスはにこやかに微笑む。

 だがその瞳は冷たく絡みつくように私を見つめていた。

「貴方はディードね。貴方の事もたくさん知ってる。私もお父様の娘よ。でも、貴方とは違うの」

「え? 同じ娘でしょう?」

「違うわ。貴方はお父様の血で作られた被造者。私はお父様の血を飲んで育った純血種。私は、貴方みたいにお父様の血に頼りきりじゃないの。自分で夜魔になったの」

 ベニは誇らしげに語っていた。

 そして彼女はその手をすっと伸ばす。

 私は思わず一歩退いてしまうが、それは握手を求める手だった。

「でも、結局は同じ娘同士ね。仲良くしましょう、ディード?」

「え、えぇ。そうね」

 私は彼女の手を握ると、彼女は両手で強く優しく私の手を包んだ。

 熱いのか冷たいのか分からない、不思議な体温が伝わってくる。

「二人きりの姉妹。私の方が先に夜魔となったのだけど、貴方がお姉さんで良いわ。その方が外見としてしっくりするし」

「えぇ。ありがとう」

 私は彼女の勢いに押され、全て受身の会話となった。

 しかしベニメウクスは、ロザリアに対して見せたような意地の悪さを、私に対しては見せなかった。

 同じ父を持つ、たった二人の姉妹だから、私には優しくしてくれているのだろうか。

「ベニメウクス、挨拶が済んだのなら、早く乗れ。出発しよう」

「はい。お父様」

 父が呼びかけると、ベニメウクスは私の手を投げ捨てるように放し、飛ぶようにして馬車の中へ乗り込んでいった。

 扉を閉めたフィーユが手綱を取り、胴の馬が走り始める。

 巨大な四台の馬車がまるで暴風のような勢いで、瞬く間に去っていった。

 私と同じ血を持つ者が恐るべき速度で遠ざかっていくのを感じる。

 手の平に不思議な体温が残っているが、ふと思えば私は父に一度も触れられなかった。

 触れて欲しいと言う機会はあったのに。

 夜魔の父娘の距離とは、こんなにも遠いのか。

 私は後悔と寂しさで胸を痛めた。


「ウル。私は、あんなにもロザリアに嫌われていたのね」

 父の去った轍の跡を眺めながら、私は呟く。

 ウルはすぐ傍にいるのに、答えは返ってこなかった。

「小娘のお守りは嫌だって。ロザリアがそう思っているのは知っていたけど。こんなに強く思っていたなんて、思わなかった」

 やはりウルは何も答えず、ただ傍に立つだけである。

 私は優しい言葉が欲しいのだ。あるいは、ただ肩をそっと抱いて欲しいのである。

 それだけで私は慰められるのに、ウルはそうしてくれなかった。

 だが、風に乗ってラバンの匂いがした。

「どれほど背伸びをしても、結局お前は被造者だろう? 傍に居たい純血種など居るものか。俺も雫奪の妃と同じ気持ちだ」

 顔を上げるとラバンが静かに私を見ていた。

 それは慰めの言葉ではなかったが、無言でいられるよりもずっと慰められる。

 現実を突き付けられる事はむしろ心地良くさえあった。

「ラバン、貴方から血の匂いがするわ」

 新鮮な血の匂いが彼の身体に染み付いている。

「奴の残した身体を食う権利が、俺にはあるからな。癪だが、食わないよりはましだ」

 父がこの街の人間を食したのか。

 一人や二人の匂いではない。

「父も、夜魔だものね」

 だが仕方が無い。自然の摂理だ。

「ランスやハナ達は居た?」

「さぁな。良く見ていないから何とも言えない。ただ、俺が食った中には居なかった」

「そう」

 ランス達の事は気になる。

 でも無事かどうかに関わらず、今私に出来る事はなかった。

 今私が考えるのはロザリアの事である。

 彼女を責めたいのか、それとも和解したいのか、あるいは他の思いか、それは分からないが、私は彼女に触れなければと心急いていた。

 私は屋敷に戻り、キリカを呼ぶと、ロザリアの居場所を聞いた。

 キリカが案内したのは、私が生まれたばかりの姿を眺めた、あの鏡の部屋だった。

 もともとほとんどの鏡は割れていたが、今は既に全ての鏡が砕けていた。

 そしてその縁だけを残した鏡の前にロザリアは座り込み、彼女の周りを微細な欠片が取り巻いて輝いていた。

「ロザリア」

 私は声をかけてみるが、彼女は両手で顔を覆ったまま、何も反応しない。

 その一糸乱れぬ姿勢はむしろ美しく見え、私は彼女が鏡の魔力で一体の彫像になってしまったのではないかと錯覚する。

 その瞬間、私はロザリアを慰めなければと思った。

 彼女に小娘と指差されたその嫌な気分は嘘ではなかっただろう。

 しかしロザリアのその姿を見ると、あの時最も傷付いたのは彼女で、私の不快など比べる価値もない些細なものに思えた。

「ロザリア」

 けれど、その石像は動かない。

 もう彼女は、私の声を聞くのも嫌なのだろうか。彼女を父から遠ざけてしまう私が。

 私は部屋の奥へ歩を進めようとするが、散らばる硝子の欠片が、ロザリアを守る兵隊のように、その尖った槍を振り上げて、侵入を拒む。

「ロザリア。傍に行かせて。お願い。貴方の傍に行きたい」

 彼女は顔を覆い続けている。

 私の声は届かない。

 何か方法は無いものかとウルに助けを求めるが、彼は静かに首を左右に振るだけで、何も答えなかった。

 確かにロザリアよりも格の低い私やウルが、彼女にしてやれる事など何一つとしてない。

 ましてや心慰めてやろうなど、おこがましくさえあるだろう。

 しかし私は今何かをしてあげたいのだ。

 かける言葉が無いと言うのなら、言葉でなくても良い。

 ただ触れるだけ。手の届く距離に私がいる事を伝えるだけでも。

 鏡の王国に一人で君臨するロザリアの姿は、あまりに、あまりに孤独ではないか。

「ロザリア」

 私は何度も彼女の名を呼ぶ。

 ロザリアは何度も私の声を無視する。

 ただ一方的に発される私だけの響きに、ふと別の声が混ざり込んだ。

「美しき研練の妃様。」

 キリカの声だった。

 キリカは何を思ってロザリアを呼んだのだろうか。

 その表情の無い顔立ちからは読み取れない。

 彼女もロザリアを力付けたいと思ったのかもしれないし、ただ単に私の真似をして呼んでみただけかもしれない。

 だがどんな理由にせよ、キリカの発した言葉は届いた。

「美しくなど無いわ」

 ロザリアの姿は少しも変わらず、私はそれが幻聴かと思った。

「私はもう、美しくなど無い」

 だがその言葉は確かに、その顔を覆う両手の下から零れてきた。

 キリカの言葉が届いたのはただの偶然なのかもしれないが、それでも足がかりが出来た。

 彼女がまた音を遮断してしまわない内に、私は急いで言葉を返す。

「そんな事無いわ。ロザリアは美しく高貴な人よ」

 ロザリアの両手が床に落ちる。

「今はまだ、ね。でもいずれこの辛うじて残ったものも、失われる。認めたくはないけれど、あの娘の言った事は正しいわ」

「正しくない。ロザリアはいつまでも父の伴侶よ。いつまでも特別な存在よ」

 ロザリアは唇を噛み締め、そして自嘲し、また顔を覆った。

 めまぐるしく変わる彼女の表情に私は痛みを覚える。

「ならばなぜ、あの方と同じ馬車に乗れないの? 娘が特別なら、私も特別。ならば、私も一緒に乗せてくれるのではないの?」

「それは、」

 私は言葉を失う。

 父は何を考えているのだろう。

 父の心を語ろうとしても、私は父の事を知らなさ過ぎる。

「あの娘の言う通り、私は老いてきている」

 夜魔が時間と共に老いる事は無い。

 夜魔が老いるのは、心乱し、ゆっくりと格を下げていく時だ。

「あの方に置き去られた時、他の者と同じに扱われた時、確かに私は老いていく。あの方の事を考えるほど、思うほど、私は美しさを失っていくのよ。」

 鏡の破片達が激しく震え、更に細かく砕けた。

 この部屋の鏡が全て砕けているのは、そうやって自分の姿を認めるごとに、ロザリアが砕いていたのだ。

 キリカに褒め言葉を教えたのは、そうする事で自分を励ましたかったのか。そうする事で今の美しさに楔を打ち込みたかったのか。

「傍に居たいと思うほど、遠ざかる。伴侶でありたいと思うほど、その地位が揺らいでいく。私はどうすれば良いの?」

 私は硝子の中に足を踏み入れた。

 その欠片は小さく、もはや私の歩みを妨げない。

 そしてロザリアが心乱した事で破片達はロザリアの支配から逃げてしまっていた。

 私はロザリアに近付き、その細く震える肩に手を置いてみる。

 振り払われるだろうと思っていたが、彼女は私の手をそのままにした。

「想えば想うほど遠のく。それは分かっているのに、想わずにはいられない。傍に居たいと思わなければ、いつまでも傍に居られるのに。どうしても、想ってしまう……」

 ロザリアの格は彼女の言う通り、確かに緩やかに下降していた。

 しかしそれはとても緩やかで、あと数千年が経ってもロザリアは夜魔でいられるだろう。

 だが夜魔の時間は長い。

 格を下げれば伴侶で居られなくなるのならば、遠い未来に確かにその日は来るだろう。

 どれほど格を下げても父はロザリアを伴侶のままで居させてくれるかもしれない。

 でもそれは父の事を何一つとして知らない私の、勝手な希望的意見である。

「どうしてこんなにも心奪われてしまったの? 昔の、あの強く美しかった、何も思わずただ寄り添っていた私は、どこに行ってしまったの?」

 ロザリアは深紅の気丈な瞳を潤ませ、己の苦しさをまるで独り言のように漏らす。

 何も出来ずにそこに立つ私は、その独り言を盗み聞きしているようで、心苦しかった。

「私が、」

 私に彼女の哀しみを癒す言葉は無い。

 だがその無意味な言葉が、癒したいと思う心を伝えられたなら。

「私が、ロザリアの傍に居るわ」

 彼女は振り返り、私を見上げた。

 言葉の意味が分からないのだろう。

 私も、何を言い出しているのか、自分で理解出来ていない。

 でも、慰めたいと思う心が、言葉になって口をつく。

「傍に居ないから、傍に居たいと思うのよ。傍に居れば、そう思わずにいられる」

「でもあの方は、私を置いて行ってしまった。離れた距離を、私がますます遠くしているのよ」

「だから私を、ロザリアの伴侶にして」

 彼女の顔に浮かぶのは、何の表情も無い、あまりに真剣な眼差し。

 私の言葉の意味が理解出来ず、それを知りたくて私を見つめている。

「私がいつまでもロザリアの傍に居てあげる。だからロザリアは、伴侶が傍に居ない事を嘆かなくて済む。ロザリアの心は乱れないでしょう?」

「何を、言っているの?」

「私はロザリアの傍を、絶対に離れないから」

 ロザリアは私を見上げながら、その口の端をすっと横に引いて笑った。

 静かだが、鮮やかな一瞬の笑み。

 鏡の像がその仕種を真似るように、私も微笑み返す。

 そして彼女の手の甲が私の頬を激しく打った。

「この私を、侮辱しないで。」

 私は頬の痛みよりも、打たれた音に驚いてしまう。

 尻餅をついて倒れ込むそこには鏡の破片が散らばっていたが、それらは私を傷付けまいと場所を空けてくれた。

「侮辱なんてしてないわ」

「私のジレンマに、そんなでたらめな方法を当てる事が侮辱なのよ。そうやって私の様を嘲笑っているんでしょう?」

「違うわ」

「違わないわ。貴方も、あのベニメウクスとかいう小娘と同じなのよ。自分達だけが特別なんだと、私を笑っているのよ」

「そんな事、思ってない」

「ならばなぜ私の伴侶になりたいなんて言うの? 私をあの方の伴侶ではなくすためなんでしょう? 私が伴侶で無くなった瞬間に、あの娘と一緒になって大声で嘲笑うつもりなんでしょう?」

 違う。

 私はベニメウクスのように自分を美しいものだと誇れない。

 私は何の力も持たない、不甲斐無い存在だ。

 ただ私は弱いから、強いものに憧れるのだ。

「私はロザリアの事が好きなの」

 ロザリアはまた平手を振り上げた。

 振り下ろされるのなら受けようと思った。

 だが彼女はじっと私の瞳を見て、その手を振り下ろしはしなかった。

「何よ、それ? 貴方、何を言いたいの?」

「私にとってロザリアは特別な人。だから嘲笑いたくて言ってるんじゃない。私の手に届く場所に居る人は、たとえ無理でも私は守りたいの。手段が無くても、私は守るの」

「意味が分からないわ」

「ロザリア、傷付かないで。哀しまないで。そのためなら、私は何だってするわ」

 ロザリアは私の方へそっと手を伸ばした。

 その手を取ろうと、私も急いで手を出すが、ロザリアは僅かに早く手を戻す。

「手の届く範囲は、そんなに狭いわ。私はその範囲に居ない」

 私は前方に身体を曲げ伸ばし、引っ込められた彼女の手を奪うように握る。

「届かなければ、歩いて行くわ。守りたいものは、全て守る。貴方もそうよ」

 ロザリアは微笑んだ。

 とても暗い微笑だったが、平手で打たれることは無かった。

 その代わりに、彼女はその手を引っ張り、私をぐいと引き寄せる。

 私が勢い込んでロザリアの胸に飛び込むと、彼女は私を両手で優しく包み込んだ。

「小さな身体ね」

 感情が揺さぶられ、ロザリアの要素が少しずつ痛んでいく。

 抱擁など夜魔のする事ではないかもしれない。

 だが触れたいと思う心の湧出は、罪ではないだろう。

「こんな小さな身体で、大切だと思う全てを守るつもりなの?」

「守るわ。だって、守りたいと思ってしまうのだもの」

「その中に、私が居ても良いの?」

「貴方も大切な人よ」

「私は貴方が嫌いなのよ。私とあの方を引き離した貴方が。それでも?」

「私は、強くて美しいロザリアが好きだわ」

「………。」

「私には、そう見えるの。私の目は人の屍で出来ているから、夜魔のルールではない、私のルールで、貴方はそう見えるの」

 ロザリアは一層強く私を抱いた。

 私から彼女の顔は見えなかったが、肩が細かに震えていた。

 私も両手を彼女に回して力を込めた。

「貴方は本当に、格が低いくせに、口だけは良く動くわね。言う事も、分不相応にご立派で」

 私の耳にロザリアが囁く。

 それはいつも耳にしている皮肉で、私は馬鹿にされているはずなのに、なぜか嬉しくなってしまった。

「だから頼りない貴方を私の伴侶には出来ないわ。私の伴侶はやはり、あの方以外にいないから」

「そうね。仕方が無いわ」

「それに私は貴方が嫌いなのだもの。伴侶になど絶対に御免よ。またここに残されたのも、貴方のせいでしょう?」

 確かに、父からロザリアを引き離したのは私だ。

 私が生まれなければ、ロザリアは今も父と共に旅をしていただろう。

「ごめんなさい」

 私は微かな声で謝った。

 ロザリアが緩やか過ぎる老いに怯えるのも、更にはその老いへ追い込んだのも、全ては私に原因があるような気がした。

「謝るのは、私の方だわ」

 だがロザリアは私のそれよりも尚小さな声で耳に囁いた。

「貴方に私はあんなに酷い事を言ったのに。辛く、悔しいはずなのに、貴方は」

 ロザリアの手が強く締まる。

 不恰好な姿勢もあいまって、背骨がきしんで痛む。

 しかしその痛みは不快でなく、むしろ心地良い。

「あの時言った事を、嘘とは言えない。なりふり構わず、本音を曝してしまったから。でも、貴方自身を嫌うわけではないの。貴方自身は嫌いじゃない。それは本当よ」

「でもロザリアは、私が生み出す状況を、運命を、嫌ってしまうのね」

「ごめんなさいね」

「仕方の無い、事だわ。」

 無性に寂しい。

 どんな見方をしようとも、私がロザリアから父を奪う存在である事は確かな事実だ。

 そもそも私にロザリアを慰められるはずが無い。

 それでも、慰めたいと思う心は湧き起こる。

 湧き起こったものを、彼女に伝えられたような気がして、私は嬉しさと温もりで今は胸を紛らわせた。


次話更新9/7(金)予定



作者ツイッター https://twitter.com/yuki_anno

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