ヤミヨヒメ -ウマレタヒ-
私は、その暗い、闇の奥の方で生まれた。
気がつくと、何も見えない漆黒の中で、自らの膝を自らの腕でしっかりと抱え込んでいた。
なぜ座っているのかを考えてみたが、理由は見つからず、そして何かを思い出す兆しもなかった。
ただ、仄暗い闇の底から、明るい光が見えていた。
あそこに行ってみたい。あの明るい物が何なのか、知りたい。
ふと私の心に衝動が生まれた。
手を伸ばし、そして立ち上がり、私はゆっくりと光に向かって歩いた。
「お待ちなさい」
誰かが私を呼び止める。
「あの光の向こうに行くのは、まだ早い」
振り返ると、私の後ろには、またいっそう暗い闇があり、そのずっと奥から、小さなぼんやりと光る青い目でその誰かが私を見ていた。
「貴方は、誰?」
「私はご主人様から貴方の教育を任された者です」
黒い空間から、繊細で穏やかな男の声が聞こえてくる。
しかし闇が深すぎて、その誰かがどんな姿をしているのか、私からはさっぱり見えなかった。
「貴方は誰?」
「私の名は、ウルとお呼び下さい。」
ウル。
不思議な名だった。これまで聞いた事の無い響き。こんなにも心落ち着かせる響きを持った名を、私は今まで一度も聞いたことが無かった。
そして、私はふと気付く。
私は他に名前を知らない。誰の名も、まして自分の名さえ、聞かず、知らなかった。
「私は、誰?」
「ご主人様は、貴方の事を娘だとおっしゃり、私と共にこの街に置いて行かれました」
父か。やはり名も知らなければ、顔さえも思い描けない。
「私は誰?」
「ご主人様は、貴方の名も置いて行かれました」
「誰なの?」
「ディード」
それが私の名か。
良い響きであったが、ウルの名を聞いた時ほどの鮮烈な感動は無かった。
美しい名、その響きには優雅さと強さが感じられる。けれど、ウルという響きに感じた包容性がまるで無いように思えた。
「私、貴方の名前の方が良いわ」
そう感じたから、私は正直に言葉を発した。
顔も知らぬ父が残していった名だったが、ウルに似た響きを持つ名をウルが私に付けてくれる事を、密かに望んだ。
ディードという名を気に入らぬわけではない。しかしもっと良いものが欲しかった。
「ご主人様が戻られたら、ご自分で新しい名を希望されればよろしいでしょう」
「それまで、貴方は私をディードと呼ぶのね?」
闇が少し黙る。
私が苛立っている事がウルにも気付かれたのだろうか。
それはほんの些細な苛立ちで、すぐに収めてしまえる規模だったが、言葉に棘を立てた。
「貴方がお嫌なら、敢えて呼ぶ事はしません」
淡々とした口調だったが、どこか優しい響きがあった。
「良いの。ディードで良いわ。そう呼んで、ウル」
ウルという響きを発した自分の唇が僅かに暖かくなり、私は思わず微笑んでいた。
「ねぇ、ウル」
私はもう一度、彼の名を呼ぶ。口にするとその響きはとても美しく、私が発する言葉全てさえ軽やかにするようであった。
私はもう一度、光の差す方を見た。そして闇に背を向けたまま彼を呼んだ。
ウルの方はまるで身動きしていないように思えた。彼がいるであろう方向からの気配や変化、空気の動きや微かな物音などが、全く感じられなかったからだ。
しかし、それでも私は言葉を続けた。ウルがその場から立ち去った様子さえも、私には感じられなかったからである。
「私、あの明るい場所に行ってみたいわ。なぜあそこはあんなに明るいの?」
「あれはランプです。炎を閉じ込めておく駕籠。人は私達と違って闇を恐れます。だからあんな物を作り、道に並べているのです」
炎の駕籠。それが無いから、今私のいるこの場所はむやみに暗いのだと分かった。
しかしウルの言う通り、私はこの暗闇を全く怖いとは思っていない。
私は、人ではない、という事なのだろうか。
時折、あのランプという物の下を“人”が通っていく。
奇妙なことに私は、人と呼ばれるものがそれであるということを誰に説明されるわけでも無く理解していた。まるで昔から知っているかのように。
しかし自分と彼らの違いは何か、と考えてみても分からない。私がいるこの場所はあまりにも暗すぎて、自分の姿さえ見ることができなかったからだ。
「私、あの明るい場所に行ってみたい」
「あの光の向こうに行くのは、まだ早い」
なぜ早いのだろうか。
いつになれば早くなくなるのだろうか。
「でも私は明るい場所に行って見たいの」
ウルのいる深い暗闇が、不意にざわめいた。
少しだけ揺れた空気が私の肌を撫でる。
ウルの気配が不思議と散漫になって、私はその闇にウルがいるのか、すごく不安になった。ぼんやりと見えていた彼の光る目も、なぜか消えていた。
「では、私があの火を持ってきましょう。貴方があそこに行くのは、まだ早い。それで宜しいですね?」
不意にウルの声が私の横を通り過ぎる。
そして彼の足音が静かに、そしてゆっくりと光の差す方へと進んでいくのが聞こえた。
次第にウルの気配が遠ざかる。この暗闇の中でウルの姿は全く見えなかったけれど、確かにそこにいると感じていた。しかしそれは私が、そこにウルがいる、と信じ込んでいたから得られた感覚であったのだろう。その足音、そして明かりに近付いて次第に明らかになる彼の容姿に、私はウルが確かに存在しているという安堵感を得た。
暗がりからウルが光に向かって手を伸ばす。
ぼんやりと光っていた碧眼も、その光を返して不思議な輝きを私に見せた。
なんと美しい存在であろうか。
それが初めてウルの姿を見た、私の心が発した無意識の声だった。
ウルは真っ青な礼装で、時折光を受けて紫に光を返すその服の着こなしは目に鮮やかであった。
「小さな炎ですが」
ウルは両手で小さな明かりを大事に抱え、私のほうに戻ってくる。その火が何に灯っているのかはわからないが、ウルの手の中で確かに輝いていた。
胸元で光が時折揺らめき、ウルの顔を照らす。
彼の髪は短く刈り込まれた銀髪で、その毛の一本一本から紫の欠片が輝き落ちているように見えた。
「ありがとう、ウル」
私は彼が静かに持ってきた火を見る。
私の身体も、ウルのように火に照らされているのだと思うと、その小さな輝きがとても愛しくなった。
そして触れてみたくなり、手をその小さな明かりに向かって伸ばした。
途端に、私の目に酷く醜悪な何かが映る。
それまで私が目にしたものは、闇と光と、ウルであった。世界には美しさが満たされ、溢れているのだと信じていた。だから、その世の中を唐突に侵食した、その醜く汚らわしい存在と、それを見た私自身の目を疑った。
「火を貸して。あれが何なのか見てみたい」
私はウルに向かって両手を伸ばした。
すると闇の中からもう一本、ひどく醜い物が伸びて、明るみに出る。
それらは浅ましく光に向かって蠢き、私を不快にさせる。
これは、私の手か。私の手なのか。
私は慌てて腕を引き戻し、闇の中へ転がるように逃げ込む。
「どうしたのです?」
しかしウルはその小さな輝きを持って私の方へと歩み寄ってくる。
私はまた次第に照らされ、その醜い両手を見た。
両手の全ては赤黒く腫れ上がり、どこが肘なのかもわからない。時々、糸を引きながら肉片が引き剥がれていき、びちゃりと足元の闇に落ちていく。
腕の先に指など無く、かろうじて親指だけが肉塊との癒着を逃れ、指の形に見える。残りの四本は全て寄り添い合い、まるで赤黒いグローブのようだ。
私はこんな、ミミズのような腕であの輝きに触れようとしていたのか。
「ウル、私のこの手は何?」
仄かに照らされているウルの顔を見上げる。
すると彼の淡い光を灯した瞳が歪んだ私の姿をぼんやりと反射して映していた。
私は堪らなくなって、光から飛び退き、また奥の闇へと身を潜めた。
「どうしたのです?」
「こっちに来ないで。私を見ないで」
私はなんと醜悪な生き物だろうか。
こんな両手を持っている事が、敢えて当然と思えるような私が、ウルの瞳の中に見えた。
どうして私は私自身もウルと同等に美しいと思っていたのだろうか。
誰もそうは言わなかった。ただ私が姿を想像し、思い込んでいただけなのに。
「お願いよ、ウル。その火を消してちょうだい」
ウルは静かに頷くと、細い息を火に吹きかけ、辺りはまた漆黒へと落ちていった。
私は自分の姿さえ見えない漆黒の中で、自らの膝を自らの腕でしっかりと抱え込んで座っていた。
「どうして私はウルみたいに綺麗な姿じゃないの?」
私の心に驚きはあったが、哀しみも恐怖も無かった。
そして驚きの後に、やってきたものがある。
ウルへの憧れと、嫉妬だ。
「貴方はまだ完成されていないのです。ご主人様は貴方に命を吹き込まれたが、身体は完成させないまま旅立たれた」
「私は、ずっとこの姿のままなの?ウルのようにはなれないの?」
「ご自身では憶えていないかもしれないが、貴方は“人の屍”の欠片を集めて作られました。ご主人様はその新鮮な肉片に自らの血を注ぎかけ、命を与えた」
私にはウルが何を言っているのかわからなかった。まるで私の質問に答えているとは思えなかったからだ。
「それで、私はウルのようになれないの?」
「血肉の溜まりで生まれた貴方は、ご自分で自らの身体を組み立て始めました。少しずつ、少しずつ。
ただの肉塊ではなく、生き物の姿に変わろうと貴方は蠢き続け、私もそれを見守り続けました。
そして今日、自我が芽生えたのです」
「それで、私はウルのようになれないの?なれるの?」
「数日後か、数週間後か、私には分からないが、貴方の身体は完成するでしょう。その姿はきっと、私の何倍も美しい。私のような者など足元にも及ばない。ご主人様の血を受けている時点で、貴方の美しさは保障されているのです」
私は密やかなウルの声にそう言われて、堪らなく嬉しくなっていった。
父と血と、保障の意味は分からないけれど、喜びは理解出来た。
では、これからどこへ行こう。
そして私の心から光への関心が消え行くと、この場にいる事に酷く退屈さを感じ始めた。
ウルが私を見つめている気がした。この何も見えない暗闇の中で、私はウルの存在を確かなものとして感じ取っている。そして同様にウルも私の気配を見ているように思えた。
「ウル、私はここに飽きたわ。どこか行くところは無いの?」
青く虚ろな光を持った目が私を見て囁く。
「どちらに参りましょう? まだ街を見て歩くか、屋敷へ戻られるか」
私は屋敷を持っていたのか。それとも、これも父が残して行ったものなのか。
そう考えると、少し面白くなかった。しかしこれ以上、明るい街を見て回るのも楽しいとは思えず、しばらく闇の中で蠢いた後、帰ろうと決めた。
「私は家に帰りたい。ウル、連れて行って」
「ご案内しましょう。こちらです」
衣服の擦れる音が聞こえた。きっとウルが私の手をとろうとして、手を差し伸べたのだろう。
しかしこの醜い腕でウルの繊細な指先に触れるのは気が進まず、何よりもウルを膿で汚す事が不快であった。
私は蠢く両手をだらりと両脇にぶら下げたまま、ウルに腐肉を渡さなかった。
そしてウルは、差し伸べた腕を戻し、歩き始めた。ウルのいる方向の闇が僅かにざわめき、静かな足音がゆっくりとリズムを刻んで遠ざかり始めた。
私はその音を追い、漆黒の奥へ奥へと進んでいった。数十歩も踏み出せば、もう私の目には何も見えなかった。それでも私は迷いも無く足を前へと突き出していた。
ウルの足音はとても静かで、どんな小さな音よりも弱く細かった。しかし闇は奥へ行くほど静かになり、その反面でウルの足音は長く高く響いていく。
未完成の足を引きずる私の音はうるさく、酷く不気味であったが、ウルの足音は掻き消されなかった。根本となる音の質が違うのである。まるで足音までもがウルの洗練された物腰を受けているかのようであった。
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