魔王を倒したその後で。
僕は昨日魔王を倒した。向こうの世界は平和になった。
「おい、山田」
冷蔵庫からキンキンに冷えたコーラを取り出して、森君が僕に声をかけてきた。八畳一間の部屋の中には脱ぎ掛けの衣服やら食べ終わったコンビニ弁当のゴミやらが散乱していて、お世辞にも居心地がいいとは言えなかった。ましてや僕らは、昨日まで異世界で勇者に扮して魔王を討伐していたのだ。広々とした草原に、グツグツと煮えたぎる溶岩の山、どこまでも広がる青い海……それが一転して無機質な狭い壁に囲まれているのだから、窮屈な気分も当然だった。
窓の向こうから、夏蝉の声がやたらと騒がしく透明なガラスを何度も何度も叩いた。『無敵の勇者・レナード』も、現実じゃ『ただの高校生・山田』だ。突然ベッドから突き落とされたような気分だったが、僕はまだ昨日の『魔王の城』での出来事を忘れられなくて、ぼんやりと夢見心地のままでいた。そんな僕に、『無味方の魔法使い・シュガー・レイ』……ただの同級生・森君が笑ってみせた。坊主頭で、向こうの世界とは打って変わってぐんと背が伸びた森君は、窮屈そうに僕の隣に腰掛けた。
「夏休み明けたら、中間テストの結果発表だな」
「あー……」
「ま、考えたくねーよなそれは。なんせ一ヶ月近く向こうの世界にいたわけだしさ」
「んー……」
コーラを受け取っても、僕は上の空のままだった。視界の端で、電柱で一休みしていた鳩が数羽飛び立って行った。クーラーはつけたばかりだし、部屋の中はまだまだ熱気が篭っていた。森君がテレビをつけた。どこかの国で、どこかの男達が、画面の中でボクシングをやっている。僕はなんとなく寝癖を押さえつけながら、それをどこか遠くの出来事のように眺めていた。
「わかんないもんだよな……昨日まであんなに、命かけて戦ってたのによ」
「んー……」
森君の言葉に、昨日の出来事がフラッシュバックする。剣先に塗れた赤い血。転がった魔王の髑髏が施された杖。両手に残る剣の重みも、耳の中で劈いている仲間達の叫び声も、画面の中のボクシングと同じくらい、すぐ僕の近くにあるものだった。
「最後まで、お前がそばにいてくれて良かったよ」
「…………」
「ありがとう。迷惑かけて色々ごめんな」
『無味方の魔法使い・シュガー・レイ』が、僕の隣でそう言って笑った。僕は驚いて森君の方を見た。とんでもない。感謝を言うのは、僕の方だ。謝るのは、僕の方だ。『無味方』の彼がいなかったら、『無敵』の僕は旅の途中でとっくにくたばっていたに違いない。
「僕は……僕の方こそ……」
「?」
「僕は、無敵の勇者でいられたのかな……?」
テレビから一際大きな歓声が上がった。感謝や謝罪の言葉が、喉の奥につっかえて上手く出てこなかった。口から漏れ出したのは、ずっと気がかりなことの方だった。僕は昨日魔王を倒した。向こうの世界は平和になった。
果たして本当にそうなのだろうか?
向こうにも、向こうなりの言い分があったんじゃないか?
本当に倒す以外の方法はなかったのか?
大嫌いな奴がいなくなれば、世界は平和になるのか?
困ってる村人が”本当のことを言っている”って、所詮他所の世界から来た僕らに、どうしてそんなことが言える?
そもそも僕らが旅した高々一ヶ月かそこらで、垣間見ただけの隣の世界の一体何を知った気になっている?
僕は昨日魔王を倒した。向こうの世界は平和になった?
僕はありがとうの一つ言えない僕が嫌になりつつも、緊張したままじっと森君を見つめた。『ただの高校生・山田』の問いかけに、森君はニコリともせずに答えた。
「ああ。だってお前は何ができなくても、ずっと”そこ”で戦ってたじゃねえか」
「…………」
「ずっとその背中見てたからな。だからたとえお前が普段無敵じゃなかろうが、剣術が使えなかろうが、ルックスがどんなに悪かろうが、金がなかろうが人格破綻者だろうが、俺にとっちゃお前は立派な勇者さ」
「ちょっと言い過ぎじゃないか……?」
褒めてるんだか貶してるんだか分からない森君の言い草に、僕はちょっと唇を尖らせた。慌てて言葉を紡ぎ出そうとして、僕は喉の奥で炭酸が弾けて胸がいっぱいになった。
「お前こそ、ずっと向こうの世界にいたら、勇者のままでいられたんじゃないの?」
「…………」
「ま、いっか。んじゃ、ゲームでもすっか」
森君が顔をくしゃくしゃにして笑った。果たしてそんなことを言っている場合なのだろうか、と思ったが、僕もぎこちない笑顔を返した。
僕は昨日魔王を倒した。向こうの世界は、出会った人も、出会わなかった人も、同じように昨日の続きの今日を暮らしている。僕がずっと向こうの世界にいたら、こうして今日森君とゲームをすることもなかったのだろう。そういう意味ではこれで良かったのだと思ったが、それは彼には内緒にすることにした。




