あなたの為であれば神々すらも殺してみせます
「はぁ……はぁ……」
リヒトが寝息を立てているのを確認しながら、ゆっくりと息を荒くしながら近づく存在があった。
「あぁリヒト……可愛い人。私の勇者」
女神アリシエンティフィナである。愛おしげに彼の名前を呼ぶその姿はしかし、彼の前では徹頭徹尾、見せなかった姿である。情、そして欲に塗れた姿である。
しかしそれらは彼女の美しさを損なうことになどなりはしない。寧ろ逆に、彼女の美しさをさらに飾りたてる。
初めて出会った時、正直に言えば運命を感じたとはとても言えなかった。
また自分のことを探し求めて誰かが来たのかと思えば、そうですらなく、ただ何かの争いの途中であっただけ。捨て置こうかと思っていた。なのになぜであろうか。話をするたびに、声を聴くたびに、心臓が高鳴った。知れば知るほど好ましいと思った。
そして、自分のことを綺麗だ、とそう言った。讃辞など聞き慣れているはずなのに、今際に聞いたそれは、とても愛おしかった。死んではダメだとそう思って、助けて、ああ、よかった。本当に良かったと。そう思った。
「もう我慢できません」
彼は、女神の使徒としてとてもよく尽くしてくれて、その心はとても心地がいい。けれどそれだけでは満足できなくなってしまった。得れば得る程その渇きはいよいよ我慢の限界であった。
女神としてその存在を得て、初めての体験であるというのにその行為にまるで恐怖は無い。寧ろ当然である、と早く一つになりたいと身に着けた神衣を脱ぎ捨てて、深い眠りに就いているリヒトにまたがる。
「あぁ、リヒト……リヒトォ」
この浅ましさをこの勇者はどう思うだろうか。並の人間では当てられただけで廃人と化すのではないかと思われるほどの濃厚な愛、色気を醸し出していることを、しかし女神は気付かない。それは地上に留まり世界のあらゆる災厄をはらう任を賜った地上最強の戦女神アリシエンティフィナにとって、初めての、掛け値なしの初恋であったからである。
「ん」
その身体に、素肌に触れるだけで甘い痺れが走りもっともっとと手を伸ばし、その手が彼の股に触れようと言うところで
『そこまでじゃ!』
声が響き、女神の見ていた光景が一変する。何もない虚空。声の主が作り出した隔絶空間。そこにリヒト、彼女の愛する勇者がいないことに、女神アリシエンティフィナは激昂し、それだけでその空間にひびが入る。
「誰ですか。私達の邪魔をするのは」
『ワシじゃよ』
しかしそこにあるのは声だけ。この声の主は人間たちの世界とは隔絶された神の世界にその身を置き、声だけを届けているに過ぎない。
「あぁ、あなたでしたか何の用ですか。ゼフェリアウス」
状況は理解した。そもそも、神々の中でもこと武力において女神アリシエンティフィナに比肩しうるものなどそうはいない。それこそ、神々を束ねる神、主神ゼフェリアウスほどのものでもなければ。
「それで何の用ですか。私たちは今、初夜に勤しむところなのですが」
『何って分かっておるであろうが。神と人が交わるなど正気か!』
「……なるほど。分かりました」
穏やかに。不気味なほどに穏やかに女神は吐いた。
おお、分かってくれたか、と思ったのも束の間。
「つまりは邪魔をする神々は全て滅してからにしろというわけですね」
その目の内からは光が消えていた。
『分かってなかったァー! 怖い怖い怖い! お主の場合、シャレにならないから止めい!』
「何故ですか? 私と勇者の邪魔をするものなど、この世界に不要でしょう?」
『ぬぅ……ここまで入れ込んでおるとはのぅ。まあ待て。お主はそれでいいとしてもあの男はそうはいく
まいよ。そのような罪に塗れた身体であの男に抱かれるつもりか?』
「くっ私の勇者を盾に取るとは卑怯な」
『んー……こちらとしては冷静でないお主に忠告をしたつもりであるのだがのう。そう憎しみを込めた目で見るでない』
ちなみに、主神ゼフェリアウスといえど、実はそれなりに色々ギリギリであった。
本気、いやそれ以上の何かを込めている女神アリシエンティフィナ。愛とはかくも強いものかと人知れず溜息を吐き、胃をきりきりと痛めながら続ける。
「それで何ですか。そんなに人間が女神を娶るのが不釣り合いであると? そんなものは」
『いや違う。なあアリシエンティフィナよ。お主が世俗を離れて暮らしている理由を忘れたか? 神々というのはな。人の行く末に干渉しすぎてはならん。勇者を教え導く、ああそこまではいいともワシも止めん。じゃがな、お主も聞いたのであろう。あの男には果たすべき使命があった』
それは知っている。リヒトから何度も聞いた話だ。あぁ、悩み決意を秘めるリヒトの横顔は何と凛々しかったことかと。
あ、ダメだこいつ。話聞いてねえ。と主神が察したのも気付かずである。
『とにかくじゃ。まあ、今までは力をつけるための修練として甘んじて見逃しておったが』
「お礼など言いませんよ」
『ハハハ! まあな! ワシらもお主と直接戦うなど絶対にやりたくないからその為の方便じゃしな!』
まあ事実だろう。とはいえ、それでもこの神がその気になれば面倒なことになるだろうというのはアリシエンティフィナも分かっていた。
「ではリヒトとの子供を作るためにどうしろというのですか」
『……もうツッコまんぞ。ああ、そうじゃな。要するに、女神が人間に入れ込むのはいいが、それが原因で、生まれるはずであった命が失われるなどあってはならんということじゃ。つまり、きちんとあの男がお主以外で子を作ればそれで』
パリィイン!
再び空間に亀裂が入る。ヒェッ……とゼフェリアウスは内心、恐怖を抱えていた。
「ふぅ……ふぅ……」
アリシエンティフィナは先程と同じやり取りを繰り返すほどには愚かな神では決してない。
世界をぶち壊すほどに怒り狂っていても、ゆっくりと。ゆっくりと呼吸を整えていく。
「……分かりました。では、リヒトが私を一番に思うことは構いませんね」
断定である。否というのであれば今度こそ神々との全面戦争すら辞さない、そう言外に訴えている。
『……何を考えておる?』
「政略結婚、というのがあるでしょう? リヒトは、仕方なく、名義上で、作業的に、あるいはそのうち子供が出来るかもしれませんね。けれど、それはもしかしたらリヒトの子供ではないかもしれないですよね? リヒトは愛されていませんよね? その代りに愛する存在が必要ですよねつまり……リヒトは私に溺れますよね」
『お、おう』
なるほど。唯一、愛されているのは、愛しているのは世界で自分だけであると。そうやって傷ついた心を包み込むようにして、依存させる。そうすれば、リヒトの元にいずれ現れる配偶者の存在も、むしろ自らの愛を引き立たせるための添え物として、むしろ愛らしい。
『……が、まあ恐らくそう上手くはいかんだろうがなぁ……』
「何か言いましたか?」
『いや、何でも』
主神ゼフェリアウスは、全てを見通す神はこれから訪れる運命に、人知れず同情するのであった。