俺と女神さまとの健やかなる日々
「は!」
剣の素振り。日々の日課となりつつあるそれをこなし、俺は森の中の木の実をいくつかもいでいく。そして森の奥の水源となる泉から水を甕に汲んで、帰り道に就く。
「お帰りなさいリヒト」
花畑で佇んでいたのは、絶世の美女。
太陽の輝きをそのまま溶かしたような金色に輝く腰元まで伸ばされた髪。清らかな水のように透き通る青い瞳は、そのまま彼女の清浄さを讃えるよう。
透き通った鼻筋に、大人びた顔つきは慈悲を伴っている。
体つきは細くしなやかで、ある種の機能美を備えながらも薄い布地に覆われた胸元の膨らみと腰つきは女性としての美しさをも顕し、世界の美しさをその身体で体現している鏡である存在であることを知覚させる。
「ただいまです。アリシエンティフィナ様」
「そう大仰に呼ばなくてもよいのです、といつも言っていますのに」
アリシエンティフィナ様は微笑む。瞬間、大気が喜びに打ち震え、花畑の花は笑い、小鳥たちは踊る。
女神アリシエンティフィナ。あの夜、最期を覚悟した俺が出会った、一柱の女神。
そして、何故か俺の命を救ってくれた救世主である。
「さあ、どうぞ。疲れたでしょう?」
アリシエンティフィナ様は膝を叩く。
「は、いえ。そんな、いつもの日課ですから。それに、その……」
「……むぅ」
「……はあ、では失礼して」
俺はゆっくりと頭をアリシエンティフィナ様の膝の上に乗せる。
「……お疲れ様でした」
アリシエンティフィナ様の御手が、俺のおでこあたりを撫でる。子ども扱いされているようで、若干の気恥ずかしさを感じながらも、彼女に包み込まれる心地がして、心の底から安らいでしまう。
「今まで大変だったでしょう」
いきなり見知らぬ世界に転移させられたこと。何故かはわからないが勇者召喚の際に付与されるはずの異能を持たなかったこと。けれど魔王の討伐に駆り出すため、厳しい訓練の後、一人、放り出されたこと。
それから、それから様々な出会いがあって、別れがあって。傷つきながらも、それでもそれなりにはやっていけてたんだと思った。けど結局、魔王には勝てなかったし、それに。
「あなたが帰ってきたことを喜ぶものはいなかった」
「いや、そういうわけじゃ」
言いかけて、溜息を吐く。
魔王討伐に失敗したことは、王国の宰相に筒抜けだったようで。けれどそもそも宰相の狙いはどうやら俺の命を奪うことであったらしい。野垂れ死ぬのであればそれで上等。そうでなくとも旅路の途中で息絶えたと報告し、自ら手を下せばいい。そういう算段だった。
よく考えれば誰も伴わずに魔王討伐に向かわせたこと自体から怪しむべきだったのか。いや、でもそれは仕方がないか。彼女を守るためだ。
うん? そういえば何で宰相は俺の命なんて狙ったんだろうか。言っちゃなんだが、俺が何か功を立てたのであればともかく、異世界から召喚された人間一人を暗殺する意味が一体どこに……。
「あまり思いつめてはいけません。まずは精気を養うことで、見えてくるものもあるはずです」
アリシエンティフィナ様の手が俺の眉間を揉む。
「今はただ休んで力をつけなさい。私はそれまで、あなたを見守りましょう」
そのまま籠の中に仕舞っていた俺が収穫した木の実の一つを俺の口の中に運んだ。
含んで、甘酸っぱい味が広がる。それがまだ口の中に残っている内に、俺は頭を浮かせて、アリシエンティフィナ様の元に跪き、ゆっくりと顔を近づける。
「……ん、ちゅ……」
口づけによって発せられた生々しい水音が響いた。
神にとって食事は不要のものであり、それこそ霞を食んで生きていける。味覚というのはつまりその存在にとっての本能に根差した欲求であり、それが存在しない神には食の楽しみというのは存在しない。
しかし、それを悦しむ人の感情を感じ取ることはできる。魂に触れ、共感を得ることならばできる。故に、口づけで伝えることが唯一の作法である、と最初に教えられた時にはそれはもうびっくりしたものだった。今だって、もうおっかなびっくりで、畏れ多くて、ぶるぶると震える。恐怖ではない。光栄に打ち震えているのだ。
そして、アリシエンティフィナ様が俺の魂に触れるのと同時に、俺の魂もまたアリシエンティフィナ様の魂に触れ、その強大なる力の一端に触れる。
すなわち神の権能。地上最強の戦女神たる彼女から与えられる、彼女の認めた勇者の証である。
その力は身体を徐々に神の力を受け取る器として作り替えていく。故に少しずつ。少しずつ。そうでなくては容易に人の身体など壊れてしまう。今だって絶えずその身体は悲鳴を上げている。軋みに、そして歓びに。ああ、一体どれだけの奇跡を以て地上最強の戦女神様はおわしますのか。
それから、いつもの日課の一つとして、アリシエンティフィナ様が直々に稽古をつけて下さる。
力が増し、体も軽く、以前とは比べ物にはならないくらいに強くなっている自覚はある。それでもなお魔王に並ぶべくもないことが分かるのだから、本当に、何と無謀な戦いに身を投じていたのかが分かるというもの。
しかし、アリシエンティフィナ様は、恐らく魔王すらも超える力の持ち主である彼女は、俺の全力など軽く受け止め、吹き飛ばす。
「だ、大丈夫ですか?」
彼女の武器である、身の丈を超えるハルバードを何の軽さも感じさせず放り投げ、アリシエンティフィナ様は俺の元に駆け寄る。
その背後で、ハルバードが地面に叩き落ちる衝撃が走り、若干肝が冷えた。
「アハハハハ、大丈夫、です」
頬を撫でるその手はどこまでも滑らかで。壊れ物を触るようなその扱いは、あくまで俺は女神さまの前ではちっぽけな人間に過ぎないのだと自覚させる。
同時に、壊さないように壊さないようにと慎重に俺に指導くださる彼女の姿が、何だかおかしかった。
「それではお休みなさい」
暗くなり、俺達が寝泊まりをする白磁の神殿へと戻った。
地上最強の戦女神、アリシエンティフィナ様の寝所として建てられたその場所は、長く放置されたのか蔦と苔に覆われて、自然と一体化していた。
いや、この環境が神の御座に相応しくあるよう自然が膝を屈したのだ。
現に、俺は今、程よく柔らかく。暖かく。涼しい草木のベッドの上で床に就いている。
最初は、アリシエンティフィナ様が昼間の花畑の様に私が膝枕をしてあげますからゆっくりと眠りなさいとかそんな、冗談交じりのようなことを言っていたがさすがにそれはあの方も休まらないだろうと思って、一人でなければ眠れない体質なのだ、とちょっと嘘を吐いて断ったけど。あの時は色々な意味で心苦しかった。
アリシエンティフィナ様ときたら、どうにも俺を甘やかして下さる。神の慈愛というものは人間のそれでは計れない程偉大なのだろう。
神、か。うん。仕える神を選ばなくていい国に生まれて俺は幸運だったと思う。異世界の空の下、偉大な女神さまに逢えたこの幸運を、俺は感謝しよう。誰にって? それはもう決まっている。
今日も健やかなる日々をありがとうございます。アリシエンティフィナ様。
本当はもう一部投稿したかったけれど残念です…次回、明かされる女神さまの本性