第1話
6月の雨が降りしきる中、私は自分の車を駆って山道を走らせていた。大学時代の友人が自宅へと招いてくれたのに応じているのだ。自宅、と言っても普通の家ではない。奴はこの平成の御代に洋館住まいを始めたのだった。なんでも土地代が安く済むとか何とかで、こんな山奥に建築することになったらしい。いずれにしても、俺のようなしがない会社勤めの人間に手の届く金額の話ではない。在学中に起こした会社を上場させて売り払った後、こうして山奥の洋館に引きこもって暮らす、その生き方は余りに常識はずれで、最早嫉妬心も湧き起こりようがなかった。
山中の酷道、いや国道に、右折を促す看板が見えた。「××邸こちら」。まったくもってふざけている。小さなキャンプ場か何かの存在を知らせるかのような態度で、自宅の所在地を知らせている看板など、初めて見た。
やがて問題の建物が視界に入る。本当に、このご時世に、洋館であった。職業柄、建築確認を出さざるを得なかった市役所の建築課の表情が脳裏をちらつく。開け放されたままの鉄門をくぐり、庭の案内に従って車を車止めへと運ぶ。庭先では紫陽花の花が雨に打たれていた。
大きな木の扉の前に立ってしばし逡巡する。どうやって入ったものだろうか。無粋なインターホンのようなものはこの館には備えられていないようだった。
あれこれと見回していると、車の音を聞きつけたのだろうか、ギイッと重たい音を立てて扉が開き、可愛らしい顔がひょっこりと隙間から顔を覗かせた。
栗色の髪をした美少女の顔がそこにあった。
顔がひゅっと引込み、今度は扉がゆっくりと、大きく開かれた。改めて目にすると、少女はこの屋敷のメイドらしかった。らしかった、というのは、彼女の格好がいかにもメイド服だったからだ。それも、現代日本文化に染まりきった、メイド服だった。
オレンジ色のパフスリーブのワンピースに、白いエプロン、膝の半ばほどまでしかないスカートの下は黒いストッキングに覆われていた。まごうことなき、二次元の世界から抜け出てきたようなメイドの姿がそこにあった。少女はフリルで飾り立てられたヘッドドレスを付けた頭を深々と垂れると言った。
「ようこそおいでませ、××様」
ここで、お帰りなさいませ、とかご主人様、とか言わなかったことにむしろ驚きすら感じられる。まぁ彼女の場合実際に仕えるべき主人がこの館にいるのだから、言わなくて当然なのだが。
「主人はただ今仕事中につき、こちらのお部屋でお待ちください」
彼女の案内に従って応接間へと通される。こんな、翻訳小説でしか出てこないような用語を使いたくなるほど、そこは応接間としか言いようがなかった。ゆったりとしたソファに瀟洒なテーブル。なまじ背広姿で訪問してしまったのがひどく場違いに感じられる。いっそ思い切ってラフな格好の方がマシだったかもしれない。
お茶を入れて参ります、そう言って少女が退出すると、一人残される。こういうところ、本来ならばもっと何人も使用人がいて分業体制を敷くものではないかと思うのだが、主の予算の都合だろうか。××県の最低賃金は幾らだったか、住み込みで雇うとなうと給料は何時間分払えばいいのか。現実離れした洋館の一室でそんな現実的すぎることを考えていると、トレイをもったメイドが戻ってきた。
手慣れた手つきで茶を注ぎ、焼き菓子を並べる姿を見て、興味がわく。
「君は、何歳になるんだい」
口にしてから失態に気づく。これではただのナンパだ。だが、少女は特に引いた様子もなく、淡々と答えた。
「今年で18になりました。名は静恵と申します。お静とお呼びくださいませ」
これがナンパだったら大成功なのだろう、だが今は、ひどく和風な名前と、ひらひらしたメイド服との組み合わせだけが頭に刻まれた。
茶菓子の質は申し分無かった。後ろからじっと少女に見つめられながらでは落ち着かず、そそくさと紅茶を飲み干した。
カップをお静が片付けようとトレイに載せる。続いて菓子皿を持ち上げようとして、トレイが傾き、カップが滑る。反射的に手をのばそうとした時には、すでに器は宙に舞っていた。一瞬遅れて、磁気の砕け散る甲高い音が響く。当の少女はというと、何かを否定するかのように弱々しく手を振ると、トレイを胸に当ててしゃがみ込んでしまった。
顔を伏せたまま小刻みに震える姿を見ていると不安になる。小動物的な可愛さを感じている場合ではなかった。今度は自分で椅子を引いて立ち上がりお静のそばに立った時、彼女が顔を上げた。こうも怯えた表情をされると、なにか自分が悪いことをしているかのような気がする。助け起こそうと手を差し伸べるた瞬間、少女の腕がサッと伸びて頭をかばった。
余りの反応に驚愕を隠せないが、それよりも目を引いたのは、彼女の手首だった。白いフリルをあしらったカフスが今の動きで大きく位置を上腕へと変えていた。そしてその後に残されていたのは、うっすらピンク色に腫れた縄目の痕であった。