056.外と中
「カレン!!」
瓦礫とくすぶる煙、そして燃え残った柱が数本生えているだけの地面の上で、ルドルフは必死に翡翠の瞳の少女を探した。
『爆発する!』――カレンは最後にそう叫んだ。
トゥーグ会長を連れ、言われるがままに全力で小屋を離れたが、気になって振り返った瞬間、強い風に押され、二人とも吹き飛んだ。
――気が付けば、小屋はこの惨状。
小屋の中に何があったのか。
カレンは、何を見て逃げろと言ったのか。
ルドルフには何も分からなかった。
ただただ、焦げた瓦礫の中を探す。メイド服か、あの白い肌が見つからないかと。
手や脚が、隙間から見えるたびに心臓が凍り付く。
だが、カレンではなく、ドイブラーの逃げ遅れた手下たちだと分かって安堵する。
『人が死んでるのに安心してどうすんの!』
あの少女ならそう言って怒りそうだったが、今はその憎まれ口を聞きたかった。
「殿下、こちらにカレンは……?」
煤だらけ、涙だらけの顔で、元公爵令嬢のレイラが瓦礫に足を取られながら近づいてきた。
戦う術を持たぬテオドールと彼女、そしてトゥーグの若者たちは、乱戦状態の小屋から距離を取って林に隠れていた。汚れているのは、ルドルフと同様に必死に瓦礫の中を探っていたからだ。
「――いや……」
ルドルフが首を振れば、彼女は美麗な顔を青ざめさせた。
後ろで、弟のテオドールも拳を握りしめ震えている。
ルドルフは唇を噛んだ。
自分以外を優先して危険から遠ざけ、そして自分は明らかに何かを止めるため、カレンは小屋に残った。
「無事でいてくれ――」
こんなに何かを願ったのは、初めてだった。
◇◇◇
意識が浮上し、薄らと目を開けたが、辺りは闇だった。
ええと、何があったんだっけ……
カレンは思い出そうと頭を必死に動かした。
が、記憶が混乱しているようで思考がまとまらない。
なんだか空気が焦げ臭い――そう気づいたら、急激に記憶が戻ってきた。
ああ、ドイブラー子爵が用意していた爆弾樽の爆発に巻き込まれたんだ。
思い出して、次はとっさに――しかし半分は無意識に――身体の各所に意識を走らせた。
大きく傷ついたり痛めた様子はなかった。爆発音で少し耳鳴りがする程度。あと、動くには支障がない程度の打撲。――驚いた。思ったよりも軽症らしい。
爆薬の入った樽は、ちょっとした鞄ほどのサイズだった。
あの中にみっちり火薬が詰まっていたとして、この程度で済むなんて奇跡。爆薬の質が悪かったか、爆弾として不完全だったのかもしれない。
ああ、もしかして、重い石が入った木箱が雪崩たから、衝撃が随分抑えられたのかも……
思考を走らせているうちに、だんだん頭も意識も鮮明になってきた。
そこで奇妙な感触に気づく。
ん……? 温かい……?
頬に当たる地面が柔らかかった。そういえば、地面に転がっているような不快な感覚ではない。
カレンがもぞりと動けば、背中を囲う、温かい何かに力が入る。
明らかに意志を持って、カレンの身体が落ちぬように支えていた。
……そういえば、爆発の衝撃より先に、体当たりされたような記憶があった。
カレンの名前を呼んだ声が、耳に残っていた。
自然と金髪美形の顔が思い浮かぶ。
「ルドルフ、平気だから腕を離し――」
「――とっさに出てくる名前がそれですか」
この無礼な物言いは。
むくりと顔を起こす。
形のいい鼻梁が見えた。その向こうに、闇でさらに色濃くなった灰色の髪と――片眼鏡ごしの瞳。
男の胸の上に顎を乗せたカレンは、苦虫を嚙み潰したような顔になった。
「――ラルフ」
慇懃無礼執事は、主人の声に無表情で対応した。
物言わぬ瞳は、雄弁に呆れていた。
だって仕方がないじゃない。カレンは、すーいと目を逸らした。
今日は、あの意地悪王太子ルドルフと接触の多い日だった。ソファー収納内での密着(偶然)、孤児院まで駆けた馬の相乗り(無理矢理)――ときたら、ここで自分を抱きかかえていたのが彼だと思っても仕方ない。
ピンチを助けてくれるとか、身体を張って助けてくれるとか、そういう期待じゃなく、ただの、順番とタイミングよ!
と、頭の中で一通りの言い訳をしたが。
「……ここどこよ」
出てきたのは、思考の渦をポンと抜けて三回転したような質問だった。
「気まずくて誤魔化すでも、混乱した結果の質問でも、何でもいいですが、とりあえず退いていただけませんか」
見抜かれていた。
悔しさと照れで「ぐぬぬ」と呻いて、カレンはラルフの広い胸の上から降りる。
服の土埃を払い、改めて周囲を見回した。
暗闇だが、カレンは夜目がきく。明りの下ほどではないが、周囲の様子を知るには十分だった。
どうやらここは、土を掘って造られた、長いトンネルのようだった。
両側の壁には、光源用の穴が等間隔で作られている。穴に置かれた浅い皿は、火皿だろう。油と灯芯を入れ、簡易の照明としているらしかった。
トンネルの奥にはぼんやりと明かりが見えるが、今、カレンの周囲の灯りは全て消えている。爆風で消えたのかもしれない。
カレンの背後には緩やかに下る坂。今自分がいる場所は、下り坂の終点のようだった。
風が僅かに吹き抜ける感覚があるから、おそらくどこかに出口がある。
「ラルフ、私たち、どうやってここに入ったの?」
カレンと違って全身が土まみれのラルフは、土を掃うのにカレンより時間がかかっていた。丁寧に執事服の燕尾まで掃うなんて神経質な。
「ドイブラーが奥に逃げたのを追ったところ、穴があったので、とっさにそこに飛び込みました。ここは、小屋の地下です」
なるほど、爆薬の樽から延びていた縄は、ドイブラーが地下へ逃げる時間を稼くだけの分だったか。
カラカラと坂の上から音がした。遠く、小さくて軽い何かが転がる音。
音を気にしているカレンに、ラルフが刀を手渡してくる。
カレンの得物だった。手放してなくてよかった、と刃を撫で、カレンは鞘に収めた。
ラルフの三日月刀は一本しかなかった。普段、大小ニ本の刀を扱うが、大きい一本を紛失してしまったらしい。
「誰かを抱えていましたから」
「悪かったわね。あとで一緒に探してあげるわよ」
「そうしてください――おや」
「あ」
二人は同時に声を上げた。
なんてことない。ラルフの片眼鏡のフレームが割れ、ラルフの顔からぽろりと外れたのだ。
二人の間で落下していった片眼鏡は、付属の鎖の尾を垂直に引きながら、しゃりーん、と音をてて地面に落ちていった。
……おおう……武器に次いで、眼鏡まで……
ちらりと顔を伺ったら、ラルフが難しい顔をして眉間に皺を作っていた。
「ご、ごめんてば。この一件が終わったら作り直してあげるから」
「そうですか。しかしこれは特注品ですので、支払いだけお願いいたします」
執事に遠慮はなかった。
と、特注品って、おいくらかな……?
思わず、ポケットマネーの残高を計算した。
「まあ、眼鏡が無くても見えますから支障はありませんが」
「じゃあなんで着けてるのよ!」
ファッション? この無表情無礼男がファッション気にしてるの!?
カレンは苦悩した。前世今世、通算50年以上生きていても、男ってさっぱり分からない
しかしラルフは一人、冷静に暗い坂の上を見上げていた。
「――この感じですと、上の小屋は崩れているかもしれませんね」
また、カラカラと音がした。
カレンの背後、木片や石が乾いた音を立て、坂を転がってきている。
「そうね。穴の入口も、塞がっているかもしれない」
カレンの靴に、木片が当たって止まった。一部が炭化し、僅かに煙を上げている。
小屋の惨状を想像した。
ルドルフやレイラ、テオドールたちはどうしているだろう。とっさに逃げろと叫んだけれど、届いていただろうか。
「お嬢様、このあとどうしますか」
カレンは不安を振り切るように首を振った。上には、ルドルフが残っている。きっと大丈夫だ。
「決まっているわ。この穴の先に進む。ドイブラーを追いましょう」
「畏まりました」
◇◇◇
星降る夜空も、光には乏しい。
捜索のための明りは、瓦礫のところどころに残る、くすぶった炎だけ。
「――おかしい」
瓦礫の真ん中で、ルドルフが形のいい顎に手を当てた。
「殿下? いかがしました?」
天使のような清麗な若者が、崩れた木箱の山の向こうから顔を出した。ルドルフは視線を向けず、考え込んだまま「うむ」とだけ答える。
主人が何かに気づいたようだと察したテオドールは、側近らしくすぐさまルドルフの元へと駆け寄った。
「おかしいんだ。こんなに探しているのに、カレンどころか、ドイブラーもいない。しかも、ドイブラーの手下も、数が少ないと思わないか?」
テオドールは弾かれたように辺りを見回した。
奥に長く細かった小屋は、跡形もなかった。奥を探すほど、瓦礫に巻き込まれていた人間は少なくなっていた。
小屋の跡地から少し離れた地面には、助け出された男たちが数人、座り込んでいた。
混戦状態がピークだったときの人数、瓦礫の下の遺体の数、そして助け出された人数――概算でしかないが、確かに計算が合わない感じがする。
聡明なテオドールは、主人の言わんとしているところを理解した。
「もしかして、抜け穴か隠し扉があるかもしれない、ということですか」
侵入前、小屋の周囲は一通り確認した。しかし外は月もなく真っ暗だった。巧妙に隠された出入り口なら、発見できなかった可能性もある。
「ああ、ドイブラーは手下を連れ、その抜け穴か隠し扉を使ってどこかに逃げた。そしてカレンもそれを追った――」
「――可能性はあると思います。けれど、一体どこに」
周囲は、闇夜に黒く陰る林。そして、重い沈黙を携えてそびえる内城の城壁だけ。
ルドルフは城壁を見上げた。
王都を二重に守る城壁のうち、王宮のある内側を守る壁、内城壁。
壁の上は物見やぐらと警戒用の通路。そこに立つ味方を守るため、矢すら届かない高さに作られている。
これを短時間に登って逃げるなど、簡単にできない。
「ましてや、運動不足の権現のようなドイブラーですからね」
となれば、煙と強い風で視界を遮られている間に、林の中を逃げている可能性の方が高かった。
「だとしたら厄介だ。時間が経ちすぎている」
別の入口の可能性に気づくのが遅かった。
追うにしても、こちらの人数が少なすぎる。自分以外で使えそうなのは、トゥーグの会長くらいだった。
……いや、もうひとりいるか。
ふと、礼拝堂に乗り込んでいった、女装の男を思い出す。確か、カレンが「助っ人」と呼んでいた。
身体つきもよく、剣の腕も確か。
……………………いや、やはり、やめておこう……
毛むくじゃらの身体にひらひらドレスを着て、どぎつい化粧を施された男を前に、自分が真顔を保てるか自信がなかった。
「殿下――っ!」
もう一度策を練ろうとしたとき。
遠くから、馬蹄の響きと、頼もしい乳兄弟の声が聞こえた。
「マリグ!」
「マリグさん!」
怒涛のように駆けてきた赤毛の馬が、前脚を上げて嘶き、二人の目の前で急停止した。
近衛騎士隊長のマリグが、普段は綺麗に整えている長い銀髪を振り乱し、馬から飛び降りてきた。
「殿下、ご無事ですか!?」
マリグは、ルドルフの煤だらけの姿を見て青ざめた。
「瓦礫を漁っていて汚れただけだ。カレンのお蔭で傷一つない。慌てるな」
「そう、ですか……」
「隊長とあろう者が、このくらいで動揺を見せるな」
「そうは言っても」
ほう、と安堵の混じった息を吐き、マリグは固い顔を作った。
「殿下――遠くから煙と火が見えました。そして報告では、火山が噴火したような大きな音もしたと。一体何があったのですか」
「正直、私にも分からん」
「どういうことですか」
「それは、僕から説明します」
テオドールが、状況を説明した。
無駄のない、よく整理された説明に、マリグはすぐに状況を理解した。
「なるほど、謎の、大きな衝撃。それで小屋は吹き飛んで、カレン嬢とドイブラー子爵が行方不明、ということですか」
ふむ、と頷き、銀髪の騎士は何か考え込むような顔をする。
そこへ、濃紺の王宮侍女服のレイラが、とことこと近づいてきた。
「姉さん、休んでないと」
気づかわし気に肩を支える弟に、姉は「いいの」と、疲れた笑みを見せた。
「殿下、カレンは、まだ見つかりませんか」
「ああ、モートレイ夫人。実は、カレンはドイブラーを追ってすでに小屋を離れているのではないか、という話になっていてな」
「本当ですか!」
「まだ可能性の話だ。抜け道か、隠し扉があったのではないかと――」
「それはどこにあるんですか!?」
「落ち着け、夫人。まだ可能性の話で、何も分からぬのだ」
「そんな……」
レイラは明らかに落胆した。細い腕は、再び言いようのない不安に震えている。
ルドルフも途方に暮れていた。可能性は思い当っても、今目の前に抜け道も扉も見当たらない。
入口が分からなくては、当然出口も分からなかった。
まさしく、八方ふさがりだった。
「――ある、かも、しれません」
ぽつり。マリグが発した言葉に、全員の視線が集まった。
思案顔で視線を地面に固定ていたマリグが、やや緊張した面持ちで顔を上げた。
「あるかもしれません。抜け穴です――この孤児院から内城壁の下を抜け、外城に出る抜け穴が」
「本当ですか、マリグ様!」
喜色を隠しもしないレイラを、テオドールが肩を抱いて優しく抑える。
姉とは対照的に、弟は緊張の混ざる顔をしていた。どうして、レイラは首を傾げる。
「どういうことだ、マリグ」
尋ねたのはルドルフだった。
穴は、外城に続いている。王都の守りの要である、内城壁の下を通り、外へ。そんな、王太子の自分ですら知らない抜け穴のことを、マリグだけが知っている――
一体、どういうことか。
マリグはルドルフの質問の意図を組んだ。頷き、真摯に、真剣に答えた。
「この孤児院は、我がアベーユ家の分家が建てたものです。ただし、二十年ほど前に血が絶え、所有者が移っておりまして、私も、把握をしたのはつい最近でした。抜け穴については、破棄直前の、古い財産管理書類の山の中から設計図を見つけました」
分家が絶えた二十年前といえば、混乱を極めた三国間戦争中。
アベーユは騎士の家系。族長は騎士団長、一族の男は末端まで騎士で、全てが戦いに赴いていた。となれば、管理に混乱があってもおかしくはない。
ルドルフは頷いた。
「なるほど。だが、報告が遅いのは褒められんぞ、マリグ」
「それについては、大変申し訳ありません」
マリグの背後、孤児院の入口方面に、小さな喧噪が聞こえ始めていた。
喧騒は徐々に大きくなり、音の源が分かりだす。
複数の馬蹄に、馬の嘶き、指示を飛ばす声、統率の取れた応答――マリグの部下、そして他の隊の騎士たちがこの孤児院に集まり始めていた。
騒がしくなっていく孤児院の入口に顔を向けたルドルフは、厳しい顔でマリグに問うた。
「――マリグ、穴の入口はどこにある」
「位置からして、この小屋の下です」
「この瓦礫を掘るのと、外城にあるという出口に向かうのとではどちらが早い」
「向かった方が、格段に」
「穴の出口は分かるか」
「はい。頭に入っています」
ここは内城のへき地。いちばん近い城門まで駆けても、この壁の向こうに辿り着くのはおそらく明け方になる。
ルドルフは灰で汚れたマントを翻した。松明の灯で明るくなりつつある入口へと足を踏み出す。
「馬を引け! 外城、抜け穴の出口に向かうぞ!」




