041.側近の苛立ち
腰痛から回復したので連載再開します。
前回、王太子ルドルフに押し倒され、ギリギリのところを側近テオドールの登場で回避した、その直後のお話です。
早朝の清々しい空気の中、天使のような外見の少年が一人、近衛騎士に先導されて人気のない王宮の中を進んでいた。
前を歩く騎士と比べれば、肩幅もなく、細く華奢な印象を与える少年。だが、低く差仕込む朝日に金髪と鮮やかなルビーの瞳を零れるほどに輝かせ、静かに前を見据え歩く姿は、見た目を裏切り、静謐な強さを感じさせた。
緩くカールがかかった金髪を揺らし歩みを進める彼の手には、一抱えもある木製書類箱。
ずっしりとした木製の書類箱は、頑丈そうな鍵が付けられている。
カルフォーネ公爵家お抱えの職人が手掛ける繊細で精巧な彫りが施された、ある意味美術品とも呼べる一品。これを売れば平民一家が二年は食べていける。そんな箱を重そうにではあるが、大して丁寧に気遣うでもなくテオドールは運ぶ。
いや、正確に言えば、彼はこの箱を持っての移動に、そこそこの緊張感を持っていた。
テオドールが意識を向けているのは、箱ではなく、その中身。
数週間前、王太子の執務室が何者かに荒らされた形跡があってから、王太子の側にあった重要書類は複数個所に分かれて保管されていた。
テオドールの執務室も、その保管場所の一つ。
一番の側近である彼の元には、王太子が優先的にあたっている仕事に関連する書類が大量に保管されていた。
この箱の中には、その重要書類の一部が入っている。こうして、その日命じられた書類を運ぶのは、王太子執務室が完全に移動し、レベルを上げた警備状態が完成するまで。
書類を保管場所から出し、箱に入れ、鍵をかけ、自ら運ぶ。これは、ここ数週間のテオドールの仕事となっていた。
テオドール以外の誰にもさせない、重要な仕事。
緊張感の中、今日も王太子執務室の前にテオドールが辿りついた。
今日はこの後、箱の書類を確認しながら王太子と打ち合わせをし、王太子の数件の接見をテオドール同席でこなす予定であった。
扉の前で立哨中の近衛騎士がテオドールたちに騎士の礼を取り、姿勢よく扉に向き直る。そうして、しっかりとノックをした。
「殿下、テオドール・カルフォーネ様がお越しです」
「入れ」
尊敬する王太子の低い声が響き、近衛騎士がゆっくりと扉を開いた。
が、近衛騎士の背が途中で強張る。
邪魔だ、さっさとどかないか、と騎士のおかしな様子を訝しみながらも、王太子の前でみっともない動きなどしたくなくて、テオドールは前に進み出た。
「失礼致しま、」
だが、思わぬ光景が飛び込んできて、頭がフリーズした。
中央に据えられた応接セットのソファー。そこに見える絡んだ二組の脚。
馬乗りになった王太子の腕の隙間から覗く、見覚えのある憎らしい顔。昔から時々自分の屋敷に顔を出していた、愛する姉の、自称親友の女。
凍り付いていたテオドールの頭に、一瞬で血が集まった。
「――何やってんの?」
怒りの上昇度が急激過ぎて、吐き出し口が広がるのが遅れたらしい。自分でも恐ろしいほどに低く、抑えた声が出た。
とたんに慌てふためきジタバタしはじめる、下敷きになっている女。「離してよ」と王太子に文句を言う声すら憎らしい。
もがくごとにカツラの金髪が揺れ、窓から入り込んだ朝日を反射していた。自分が崇める王太子に、不埒な真似をしたこの女の髪が今、姉と同じ色なのが許せなくて怒りが数段膨らむ。
組み敷いているのが王太子であるのに、怒りを彼女に向ける矛盾について浮かぶこともなく。
ずかずかと応接セットに歩み寄り、どん、と書類を机の上に置く。女を鋭く見れば、王太子の下からあたふたと這い出し、ソファーから降りようとしていたところだった。
断ることもせず、テオドールは女の細い腕を掴む。
「殿下。本日の書類はいつも通りこの箱の中に。私はこの侍女に少し用がありますので、いったん外しますがよろしいでしょうか」
「構わん。というより、テオドール、書類は全て目を通しておけ。お前なら把握できるだろう」
「はい。それは問題ありませんが……なぜ?」
この王太子が能力を認めている臣下は少ない。それが分かっているから、お前ならできる、と言ってもらえたことに多少の興奮を覚えながらも、テオドールは努めて冷静に真意を問うた。
「私は仮眠をとる。不覚ながら多少根を詰め過ぎたようだ。今の疲労状態ではもしもの場合に差し支えるらしいからな、午前中いっぱい休憩室で休むことにする。だから午前の接見もお前に任せる。できるな?」
「――はい、お任せください」
「いてて」
王太子殿下の代理という重要な役割を任された。頬を紅潮させて快諾すれば、握っていた腕の持ち主が小さく抗議の声を上げた。どうやら無意識に手に力を込めていたようだ。だがもちろん、そんなもの完全無視である。
「では、野暮用を片付けましたらすぐに戻ってまいります。殿下はゆっくりお休みください」
「ああ」
「それでは、御前を失礼いたします」
小柄な女を捕まえたまま一礼し、そのまま引きずるようにして部屋から出る。「ちょっと、もう少し丁寧に」とか、侍女が何か言っているような気がしたが気にもしない。
部屋の外に出れば、なんとも言えない顔をした近衛騎士が控えていた。
彼らの視線は、テオドールが連れている金髪侍女に自然と向けられる。カレンは髪で顔を隠しつつ、視線からさらに逃れようと、テオドールの後ろに回り込もうとしていた。だが、腕を引っ張ってそれを防ぐ。
「テオドール様、侍女殿を……その方は殿下の……」
もごもごしている近衛騎士が言いたいのは「その方は殿下の大切な方なのでありませんか。そんなに乱暴に扱って大丈夫なのですか」だろうと思うが、公爵家のテオドールに厳しく言えない様子だった。
「この女はそんなんじゃ」
「あ、あのっ、私、明日までなので」
「え?」
近衛騎士全員の視線がカレンに集まる。
「私、三日間だけのお手伝いでしたので、明日で最後です。殿下には大変よくしていただきま」
「警戒ご苦労だった。僕はこのあと所用で少し外すから、持ち場へ戻れ」
「はっ」
カレンの言葉を遮って、テオドールが自分の護衛としてついてきた騎士に命じた。
命じられた騎士も、もともとこの場を護衛していた騎士も、この後の展開に興味も未練もありそうな様子だったが、公爵令息で王太子側近の彼の命令に反抗することなどするはずもなく、切れの良い返事をして背筋を伸ばす。
それを最後まで見ることもなく、テオドールはくるりと騎士たちに背を向け、カレンの腕を掴んだまま大股でその場を去った。
テオドールがカレンの腕を離したのは、王宮の外れ、執務室からかなり歩いた庭の一角。
投げるように解放されたため、とりあえずカレンはよろけるフリをして、壁に自身の身体を王宮の受け止めさせた。自分の秘密を知らない相手には、か弱い貴族令嬢らしくしておかなければという、無意識の演技が身についてしまっている。
壁に両手をついたまま、カレンは目だけで辺りをうかがう。
人気がない上に当たりも悪く、生い茂る木々と建物でちょうど庭園からも小道からも死角となる位置。手入れの対象にもなっていないのか、この辺りは芝生も移植されておらず、青々としているのはところどころに生える、高さも種類もまばらな雑草だけ。
これはまさしく、体育館の裏。
前世にドラマなんかで見た、べたべたないじめの現場にそっくりだ。大きく違っているのは、いじめっ子の立ち位置に立っているのが、天使顔の公爵令息だというだけで。
「図に乗らないでくれる?」
カレンから二歩の距離に、腕を組んで口にするセリフは、まるで女子のリーダーだ。
「私は何にも乗ってないけど」
か弱い演技、と言っても体力的な部分だけ。性格的な地を知られているテオドールに対して殊勝な態度は取らない。それ以前に、自分は悪いことをしていない、という言い分もあった。
だが、テオドールは清らかな顔を歪めて舌打ちする。
「殿下が親しくしてくれるからって、寝込みに近づこうとするのはいい気になっている証拠でしょ?」
「いやいやいやいや」
掃除しようとした場所に予定外に寝転がっていたのはあちらの方だ。あとは強引な行動に巻き込まれた結果であって。カレンはそう説明しようとして「だけど王太子スキーなテオドールにこれで本当に通じるの?」と心の中で首を捻った。
「ほら、言い訳すらできないじゃないか」
その、ほんの少しの間を悪い方向に拾われてしまったらしい。もう「カレンが悪い」としか思ってない人間にどういう言い分も無駄なんじゃないだろうか。めんどくさい男だ。
「どうしてそんなに私のことが嫌いなのよ」
つい聞いてから、しまった、と思う。明らかに苛立ちを募らせたテオドール見たからというより、まるで、彼に嫌われている原因を解消しようとしているようだったからだ。テオドールからの好感度は最低でいい。彼を攻略したいなどこれっぽっちも思っていないのだから。
「どうしてだって? 分からないの?」
「いや、聞いたことないし」
「……アンタの気に食わないところなら教えてあげる。全部だよ」
「ぜんぶ」
思わず復唱した。
「全部だよ。平凡な顔、地味な髪の色、痩せっぽっちな身体、低身長、貧相な胸、配られる視線から、吐く息まで」
「ちょっとちょっと」
「それに」
「まだ続くの」
正直ちょっと傷ついた。一応(身体は)年頃の娘なんだから、もう少し手加減してもらえないだろうか。
「姉さんへの親しげな態度、次期公爵に対する無礼な態度、殿下に構われたからっていって簡単にいい気になるところ」
「最後のは不可抗力! それにいい気になんてなってない」
「姉さんや僕へのはわざとってこと」
「そこを拾うの!? レイラは仕方ないでしょう! 親しくなかったら友達じゃないじゃない!」
「アンタ、初めは親しくしようとしてなかったじゃないか。せっかく姉さんから好意的に接していたのに、それから逃げようとしてた」
「……」
それは、レイラが将来悪役令嬢になる人物だと思っていたからだ。レイラに請われ、幼い頃に何度かカルフォーネ公爵家に招かれたが、カレンはレイラとの親密度を上げぬよう、ことさらに努めていた。それもこれも、レイラの前世がプレイヤーだということ知らなかったためだ。知っていたら対応は確実に変わっていただろうが、そんなことを微塵も想像していなかったときの様子をテオドールは見ていたのだ。
「否定しないんだね。どうせ、姉さんが王太子妃の有力候補と知って、ついでに姉さんが年の近い友人を欲していたのをいいことに取り入ろうと思ったんでしょ? 身分以外取り柄がないくせに、浅ましい女。今だって、アンタに夢中な姉さんをあしらうような態度をとるとか、自分を何だと思っているワケ?」
「……えーと」
カレンは黙ってテオドールの怒りを受けていたが、ぽりぽりと頬を掻いた。
「結局私はレイラと親しくしてていいの? それとも駄目なの? 好意をちゃんと受け取れと言われているのか、親しくするなと言われているのか分からないわ」
「姉さんの好意を拒否するな。でも親しくしたら許さない」
「どっちよ!」
「どっちもだよ!」
滅茶苦茶だ!カレンは頭を抱えた。
正直、テオドールからの好感度などどうでもいい。ついでに好感度が下がってくれるなら願ったりかなったりだと黙って聞いていた。もうひとつおまけに、親友の弟への最低限の配慮のつもりで要望くらい聞いといてあげてもいいかと思っていたが、ぶっちゃけどうしようもないし、どうしたらいいかもわからない。シスコン超絶面倒くさい。
「今、面倒って言ったね?」
まずい、心の声が漏れていたらしい。カレンは自分の口を両手で押さえた。
テオドールが一歩近づいた。ざく、と地面を踏む音が意外と大きく聞こえる。
テオドールの顔が冷ややかに、しかし背後には炎を携えるかのように見えるのはおそらく彼の怒りが限界突破したからだ。
カレンの額から汗が流れた。口は禍の元。
「僕は、アンタのことが心の底から嫌いだ」
どん、とカレンの横の壁にテオドールの足が勢いよく着かれた。
足ドン。これがウワサの足ドン!?
夜会でのルドルフの壁ドンに続き、二度の人生通して初の足ドン。それもどっちも望んでいない相手から。
カレンの脇に、テオドールのブーツを履いた脛があった。これを思い切り弾けば一瞬でこの場を離脱できるが、それはしてはいけない、とカレンは反射的に攻撃しそうになる自分を抑える。
「さっきの質問に答えてあげるよ」
テオドールもルドルフ達に比べれば背が低いが、小柄なカレンと向かい合えば、拳一つ分は高かった。淡々と、彼はカレンを見下ろす。
「どうしてアンタのことが嫌いか、って聞いたよね。そういうところだよ。人の本気に向き合わない癖。姉さんの好意にだって、僕の怒りだって、どこか面倒くさいって思っているところ」
「殿下からのもそう。人が欲しているものを何の努力もせずに手に入れておいて、興味ないって顔しているところ、本当に嫌いだ」
嫌悪に満ちた顔は、ある意味とても苦しそうで。
ああ、これがテオドールのコンプレックスなんだとカレンは自然と理解した。
おそらく彼は、次期公爵として大変な努力と苦労をしている。素質はあったのだろうが、現公爵が就き、本来ならテオドールが継承するはずだった議長席は、カレンの兄エルヴィンがに有力候補。テオドールが本格的に社交の場に出た頃には、すでにエルヴィンがその地位をしっかり固めており、彼の入る隙などなかった。
厳しい後継者教育を受ける中、幼い頃から慕っている姉もカレンに夢中。そして尊敬している王太子殿下は、これまたカレンを気に入り最近何かと構う。
テオドールからしてみたら、ずっと田舎に引っこんでぬるま湯に浸かっていた女が、自分の大切にしていたモノを全部かっさらっていったようなものなのだ。
……若いわねー。
可愛いもんじゃないか、とカレンは感想を抱いた。
他人へ無駄とも言える怒りをぶつける、そんなエネルギーが羨ましい。精神年齢がアラフィフなカレンは、元々の大雑把で投げやりな性格も相まって、縁側でお茶をしている老人並の精神をすっかり育てきっていた。
まだ身体が若々しいだけ、動く分のエネルギーなら困らないが、ゲームやら刺客やら、現状の王太子との賭けがなければとっくに領地の別邸で楽しく隠居生活を送っている。結婚? しろと言われたらするけど。と、そんな程度。
とりあえず、テオドールの怒りの理由は理解した。
あとは、この怒りを消させないように適当に煽る。ついでに、レイラには迷惑を掛けない程度で……うん、結構面倒くさい。
ということで、一言で済ませることにした。
「ガキんちょ」
「なっ……!」
怒りと、突然の反撃への驚愕で目を白黒させるテオドール。それを無視して、壁に着かれた脚と反対方向から抜け出し、彼の緩い拘束から離れた。
「こんなところで油を売っている暇があるなら、執務室に戻って大好きな殿下の代理の仕事しなさいな。生憎こちらも忙しいの。今日と明日で用事を全部済ませないといけないんだし」
「待ちなよ、まだ話は、」
「もう十分よ。私は貴方の苛立ちを受け止めるサンドバックじゃないの。優しくしてもらいたいなら、お姉さまを当たりなさい」
ひらひらと手を振れば、テオドールの白い頬にまた怒りで赤みがさす。
カレンは構わず、濃緑の侍女服を翻してその場を立ち去った。
「この尻軽女! 殿下にこれ以上近づけるなんて思わないでよね!」
血が上り過ぎたのか、明後日の方向の罵声が背中に聞こえてきた。
うん、そっちはぜひ頑張って邪魔してください。




