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040.お目覚め係の苛立ち

「……何、コレ」


 ほうきとバケツを持った侍女姿のカレンは、扉の前で思わず固まった。


 今日も朝早く……とは言っても一応時間通りに王宮にやってきたカレンは、昨日教えてもらった通り、王族居住区の使用人用入口から入り、ここにやってきていた。

 さくっと掃除を済ませてしまおう、そう考えていたのに。おかしい。この時間に、この執務室には誰もいないはずだったのに。


「なんでこんなところで寝てるの……?」


 カレンから見えるのは、窓を背にして置かれた執務机と、その前にある三人掛け応接ソファー。そして、ソファーからこちら側にはみ出している……長い脚。


 回り込んで見れば、脚は、やはり部屋の主であるルドルフだった。

 上背のある身体と、すらりと伸びる脚を横たえ、手に何枚かの書類を持ったまま、すーすーと穏やかな寝息を立てて眠っていた。


「昨日の服のまま、よね……?」


 起こさぬよう、聞こえない程度の声で呟く。

 規則正しく上下する胸元のボタンは外され、緩んだ襟元から、きれいだけど少しだけ逞しさを感じさせる鎖骨が覗いていた。上着は脱いでいるが、身に着けているブラウスとパンツには見覚えがある。もしかしなくても、仕事で徹夜し朝になって寝てしまったというケース、らしい。


 ……いや、でも、このヒト王太子じゃなかったっけ。


 王太子が、次期国王が執務室で徹夜して落ちてるってどんな状態なんだ。社畜か。


 カレンは唖然と、寝続けるルドルフを眺めた。


 遠くから、小鳥が朝を迎え喜びに鳴く声が届いてくる。

 朝早いこともあって、王宮内の人の声もほとんど聞こえない。部屋の外には近衛騎士が二名警備をしているだけなので、ここは騒がしさからは無縁の状態だった。


 よほど眠りが深いのか、カレンが傍にいるにも関わらず、ルドルフは一向に起きる気配を見せない。


 どうしよう。起こした方がいいのだろうか。けど、これが予定通りの睡眠だったら起こしてはいけないだろうし、もう少し放置しておいた方がいい?

 静けさの中、ルドルフの顔を見ながら次の行動に悩んでいたが、「そういえば、こんな無防備な顔初めて見るわね」とふと思ってしまってから、目的がついつい観察に切り替わってしまった。


 相変わらず、きれいな顔立ちをしていた。

 通った鼻筋に細い顎。いつも自信に満ちている青い瞳は、長い金色の睫毛とまぶたに隠れて見えず、カレンの相手をしているときは大抵弧を描いている薄い唇は、緩く閉じられている。朝陽の恩恵を受け、清々しく光満たされる空間に眠る王子は、爽やかさと色気を同時にこぼれさせてもいた。


 寝顔でもなお、色気を失わない顔立ちを見るうち、カレンからじわりと……怒りがわいてきた。


 ……顔がいい男なんて、敵だ……


 カレンの周りには華やかな顔立ちの人間が多すぎる。

 レイラを含め、ゲームの登場人物たちは当然ながら美形揃い。彼らの顔を思い浮かべていると、ひとり平凡な自分の顔が改めて嫌になってきた。

 むかむかと怒りが胸を満たしかけて、あ、お兄様は別ね、と、途中でエルヴィンをそっと怒りの対象から外す。優しい兄は別枠である。ゲームキャラではないし。


 さてと、と、カレンは腰に手を当てた。

 とりあえず八つ当たりに、目の前のこの男の鼻でも摘まんでやろうか。いや、あそこの羽ペンで、額に肉とでも書いてやるか?そんな、子供のような悪戯を割と本気で検討する。


 すーすーと寝息を立てる顔を睨みつつ、今後の行動を悩んでいると、ルドルフの手から書類の束から数枚がするりと抜け、こぼれた。

 カレンは慌てた。書類が床に落ちる音で彼が起きてしまう。寝顔を眺めていたなどと知られたら、どんな風にからかわれるかわかったもんじゃない――!


 とっさに手を伸ばし、書類を押さえる、その寸前で、がしりと手首が掴まれた。


 ……ん?


 自分の手首を握る大きな手は、一秒前まで書類の上に置かれていた手だ。カレンの視線が、そろりと、手の甲、腕、肩、そして、手の持ち主の顔まで上った。


「――優しく起こされるのを待っていたんだがな」


 寝起きの、ややかすれた、それでも低くよく響く声。

 ルドルフは、その青い瞳を片目だけ覗かせていた。

 まだ眠いのか、瞼は半分しか開いていなかったけれど。


「……目が覚めているなら、さっさと起きなさいよ」


 やや気まずそうに、ぶんぶんぶんと手を乱暴に振って、ルドルフの手を剥がそうとしながら、カレンは可愛げなく返した。だが、なかなか手は剥がれてくれない。


「目が覚めたのは本当に今だ。もう、起きる」


 そう言いつつ、ルドルフは空いている方の腕を顔に当てて動かない。深い息を吐き、目を覚まそうとしているようだったが……


「貴方……最近ちゃんと寝てる?」


 腕を掴まれたまま、カレンは眉をひそめた。

 怠さの濃度が濃いため息と、血色が完全でない顔。それは寝起きの血圧の調整ができていないことを示している。

 今のルドルフの様子は、疲れの蓄積と寝不足の状態が恒常化していた、前世の部下の様子を思い出させた。

 カレンの問いに、ルドルフが息を吐くのを止めた。


「ちゃんと寝てる」

「寝てないのね」


 そうしてつっけんどんに答えるルドルフに、即確信した。充分に寝ている人間の答え方には、もっと余裕がある。疲れがたまっている上に寝不足というカレンの想像は当たっていそうだった。

 きっと普段の彼なら、カレンの問いかけを上手く誤魔化して答えただろう。だが、寝起きで頭が働いていないせいで、考えるより先に口が動いてしまったらしかった。


 腕に隠れた顔の下から、小さな舌打ちと、ややあってため息が聞こえた。


「お前に知られたのは厄介だな……マリグにも気づかれていなかったのに」

「なら、仕事は私室のベットの上で仕事をするべきだったわね。書類が置きっぱなしで寝落ちしてもばれない状況を作る方が賢いわ」

「まるで経験があるような言い方だな」

「……お兄様の話よ」


 どきりとしたが、カレンは平常心を装って肩を竦めて見せた。

 そのとおり、実は前世でも現世でも仕事中の寝落ちは散々やっている。前世では今で寝落ちしたのを妹に見つかって叱られたし、現世ではラルフに見つかって「貴族令嬢らしくない」と説教をくらっていた。

 ラルフが言うように、貴族のお嬢様は根を詰めて仕事などしない。ルドルフの前で、慣れてるなどと言って、うっかり商会経営しごとがバレぬようにしなければならなかった。


「王子様なのだから適度に手を抜けばいいのに。優秀な臣下がいるんでしょ?」

「機密事項がある……」


 ルドルフはだるそうに答えた。

 要は、臣下に任せられる仕事ばかりでないという意味なのだと思うが、まだ頭が本調子でないのか、答えが端的だ。

 本調子でないくせにカレンの手首は離す気がないらしく、変わらずにしっかりと掴まれたまま。剥がそうと何度か無言で振ってみたが、全く離れる気配がないので、仕方なくルドルフの目が覚めるまで付き合うことにした。掃除はあとにしよう。


「意外だわ。貴方って人に仕事を押し付けておいて楽をするタイプかと思っていた」

「何を見てそんなことを……」

「昨日、文官に無茶振りしていたでしょ? グラムの情報を二日で集めろとか」

「あの、手抜きの報告を出してきたやつか……」

「そ。まあ自業自得とはいえ、よくあんな期日で再提出を命令したわよね」

「……別に無茶ではないさ」


 いつもよりテンポが緩いルドルフが、深呼吸をして前髪を掻き上げた。

 前髪を上げている顔もあまり見たことないな、とカレンはその顔ものんびりと観察しつつ、話し相手を続ける。


「無茶ではないってどういうこと?」

「あの文官の実兄は、グラム担当の外交官で、最近一時帰国して現在国内にいる」

「……じゃあもしかして再提出なんて楽勝なんじゃないの。どうして、あんな無理そうな空気を出していたのかしら」

「文官と実兄は、昔から相当に仲が悪い。普段もほとんど連絡を取る仲ではないそうだ。だが、ここまで切羽詰まれば弟の方も兄に取ろうとするだろう。なんせ私自ら下した指示だ。出来なければ不名誉なクビ確定だからな」

「なぜ兄弟仲が悪いの?」

「……説明が面倒くさい」

「ああそうですか。別にいいけど」


 調べれば分かることだし、まだ怠そうなルドルフでは説明させるのは酷だと理解しているが、カレンは一応不機嫌そうに口を尖らせた。ルドルフが小さく笑う気配がする。


「兄の方は、グラムの上層部と比較的深い関係を築けているし、弟の分析能力は買えるものがある。報告書に必要な情報の分析も、本来、一日もあれば十分な能力を持っている。……あの兄弟には、今のうちに結びつきを強化してもらわねばな」

「……貴方、もしかしてそれを見込んで?」

「……さあな」


 はぐらかされたが、彼が今語っていたことが嘘や思い付きだとは考えにくいとカレンは思う。


「……意外ね」


 血も涙もなく鞭を振るうイメージでいたが、この王太子は臣下の能力と背景を計算に入れて命じているらしい。

 思わずといった様子で感想を漏らしたカレンに、ルドルフの青い目が向いた。その目には先ほどよりも力が戻っていた。口数も多くなってきたし、ずいぶん覚醒しているようだ。


「なんだ?」

「……何でもないわ」


 思ったより、良い王になるのかもしれない。

 優しさだけで国政はできないが、独裁者でもない王が臣下を無情に扱うようでは国は回らない。

「人を読み、時勢を読み、采配に長ける」。ルドルフをそう評した人間は、彼をよく見ていたようだ。彼はただの鬼畜な王子では、なかった。


 なんだ、この王太子、意外に……


「言っておくが、これでダメならあの文官を切るだけだぞ。手抜きの報告書を出してきた段階で評価が底辺なのには違いない」

「見直しかけたけど、気のせいだったみたいね」


 言わなきゃよかったのにね!


 ルドルフはときどき、人の考えを二手三手分先読みしたように話す。手っ取り早くてよいと思うときもあれば、知らぬふりをしろとか、気付いて先手を打ったせいで墓穴を掘ることもある。今回は完全に最後のやつだった。


「見直したか?」


 ルドルフが上体を起こしたので、カレンは手を引っ張って手伝ってやった。正確には、手首を握られたままルドルフに引っ張られたので、足を踏ん張っただけなのだけれど。

 ルドルフは細身に見えて、しっかり鍛えている成人男性だ。遠慮なく手すり扱いをされて、カレンは意外に力を込めて身体を支えねばならなかった。


「見直したわけじゃないわ。見直しかけて(・・・)いただけよ」

「それは残念だ」

「!?」


 ルドルフが手を強く引き寄せた。ルドルフの体勢が安定したとたんのタイミングで、カレンの重心が後方から前方へと移ろうとする瞬間であった。カレンの身体は、待ち望んでいたかのようにあっさりとルドルフの腕の中に納まってしまう。


「な・に・を・するの!」


 まだソファーに脚を伸ばしたままのルドルフの片腕が、立っているカレンの腰に回っている。カレンは辛うじてルドルフの肩を押さえ、自身の上半身とルドルフの顔との密着をぎりぎり避けた。ちなみに片腕はまだルドルフに掴まれたまま。ルドルフが立っていれば、まるでダンスホールの中央で今から踊り始めようとする姿勢のようであった。


「何って、朝の抱擁だろう?」


 やや眠そうにしているものの、嫌味な笑顔は全開。

 ルドルフが腰を引き寄せようとする力対にし、腕に力を込め、可能な限り距離を取ろうと全力でに抗っているカレンの額に怒筋がびしりと浮かぶ。


「ほほほ、王太子殿下はまだ目が覚めていらっしゃらないご様子。顔でも洗って来てはいかが?」


 そこの雑巾で顔拭くぞ。


 副音声で心の声をお送りしてにっこりと笑ってやった。


 だが「相変わらず物騒な気を放つな」と、感心したようなルドルフには、ちっとも堪えていないようだ。それに対して、カレンのストレスは朝から順調に蓄積されていた。爽やかな朝の遠慮のないセクハラ、全力嫌味の完全スルー、そして極めつけのキラキラ美形顔。


 近い。この距離キツイ。限界だ。主に私の勘忍袋が。


 考えてみれば、なんで私がこんな苦行を受けなきゃならないんだろう。ああ、もう本気で領地に籠りたい。商会も全て捨てて領地で一緒引き籠っていたい……。カレンは投げやりに考えた。


「逃げるなよ」


 ルドルフの低い声と、改めて込められた腕の力に現実に引き戻される。

 なんでまたこの男は、人の頭の中を覗いたように言葉を掛けてくるんだ。睨めば、いつもの嫌味な笑みでありながら、ルドルフの切れ長の目には意外に真剣な色が宿っていた。


「逃げるのは、つまらん」


 つまらないというのは、狩る獲物が居なくなることに対してか、それともカレン自身が居なくなることに対してか。どちらを指すかで微妙に変わる意味。

 ルドルフがどちらのつもりで言ったのか、カレンには分からなかったが、判断しようとする思考は無意識に止めた。結論を出しても、楽しい結果にならないような気がして。


 ほんの数秒、二人の間に沈黙が流れる。

 ルドルフは、カレンに視線を据えたまま。カレンは、僅かにルドルフの瞳から視線を外して。


「あら、貴方、」


 沈黙を破ったのは、ルドルフにふと視線を戻したカレンだった。


「――隈ができてるわよ」

「?」


 急に何を言いだすんだ、とルドルフの表情が言っている。


「やだ、なにやってるの? 肌も白いのに隈なんて作ったら目立つに決まってるじゃない。こんな顔で接見もしてるわけ? 他国の外交官とか来るかもしれないのにこんな顔で会っちゃうわけ? ダメじゃない。本気でダメ。見た目で牽制できるのが貴方の武器でしょ。美容を怠ってどうするの」


 顔を遠慮なく両手で掴んで、怒涛のように説教をし始めたカレンにルドルフは目を見開く。意外だったのか、カレンの手首を握っていた手に力を入れるのを忘れているようだった。


「別に見た目など」

「別にとかないわー。顔で苦労したことがない人間の無頓着さはこれだからもー。とりあえず、寝ろ。寝なさい。今すぐ休憩室で寝なさい」

「何だ急に。寝ている暇などない。今日も予定がたんまりとある」

「甘い」


 カレンはばっさりと切り捨てた。


「貴方、今大切な時期でしょ? 周りにこれだけ臣下もいるのに、今から寝不足でどうするの。これからいくらでも状況は変化する。貴方が今することは、出来る限り部下を使って状況把握に努めつつ、いざというとき万全の状態で判断を下せるように、英気を養っておくことよ」


 空いている手で、ぴしっと休憩室の扉を指さす。


「だから、寝る。午前中は寝ておきなさい。そろそろテオドール様も来るでしょう? 理由は伝えておくから、仕事押し付けちゃって貴方は寝ちゃいなさい。最終的にはそっちの方が仕事の効率も良くなるはずよ」


 一気に言いつのったカレンに、ルドルフは一言も返さず、瞠目したままその様子を眺めていた。


 本気で疲れてるんだわこの人。いつものキレがない。


 カレンは心からそう思った。と思ったら視界が変化し、目の前のルドルフが消え、天井が飛び込んできた。

 いや、変わったのは視界でなく、カレンの体勢。

 腰と手首を掴まれたまま、先ほどまでルドルフが寝ていたソファーに横たえられていたのである。

 既視感を覚えるような体勢。もちろん上には鮮やかな金髪王子のご尊顔。


 またやられた、とカレンはもがいたが時はすでに遅かった。


「隙を作るなと言っているのに」


 分かったことがある。ルドルフは相手の隙をつくのが天才的な上に、初動が読みにくい。ノーモーションというのか、人間が反射的に持つ筋肉のこわばりや溜めというものが存在しないかのように仕掛けるのである。

 私が迂闊うかつなせいじゃなかったじゃない!と心の中で鉄仮面執事に文句を言いながら、それでもあっさりと組み伏せられてしまった今の状況に歯噛みをする。

 そんな様子に、ルドルフは可笑しそうに口角を上げた。


「相変わらず負けず嫌いだな」

「自分の情けなさに胃がねじ切れそうよ」

「まあ、そう言うな。男が女を押し倒すのは文化だ。それに倣うのは間違ったことではないだろう?」


 ルドルフが目を細め、つつ……とカレンの唇を長い指が滑っていった。


 ちょ、ちょっとヤバいこれ……


 実は、ルドルフはうまくカレンの空いていた片腕を後ろ手に巻き込んでソファーに押し倒していた。つまり、カレンの片腕は自身の身体の下を通り反対側に手首が出ている状態。元々掴まれていた手首と共に、ルドルフの片手に完全に抑えられているのである。おまけに脚もルドルフの長い脚で押さえられて動きが取れない。あの短い間によくぞここまで計算して押し倒したものだ、とカレンは舌を巻いた。

 ただし、現状、何だかいろんなものが危機的である。感心している場合ではない。


 ルドルフは相変わらず色気全開のオーラを出していて、なのに愉快そうな顔は崩さない。襟元は緩んで逞しい筋肉と鎖骨が覗いているところがまたイヤらしい。

 カレンは変な色気に当てられそうになって、はっとかぶりをふった。ダメだ、何で男の色気に負けてるんだ私!


 腹に力を籠め、キッ、っと自分の上にある青い瞳を睨んだ。


「何をする」


 ガチィッと固い音がして、カレンの白く小さい前歯がルドルフの指のあった場所で噛み合わさっていた。

 軽く手を引いて、カレンの攻撃を避けたルドルフが形の良い眉を小さく歪める。


「文化でもなんでも、同意なしにコトを進めようとする輩に対して反撃できるのは正当な権利よ。キレイな指をキズモノにされたくなければさっさと離しなさい」


 睨みつけるカレンをルドルフはまた面白そうな顔で受け止めた。


「やはり、いいな、お前は」


 再び顎に手が伸びてくる。同時に、抑えられている手足には力が籠められ、カレンの拘束をますます強くした。


 やば、逆効果だった……!


 怯むとは思っていなかったが、まさか火をつけるとは思わなかった。

『お嬢様は身体が軽い。男に寝技を掛けられたら抗わずに隙を待って脱出するように』ふと、以前ラルフに言われたことを思い出す。なぜ自分は、自らの弱点を把握しながら、ルドルフをあおったのだろうか。

『お嬢様は、動揺すると動物的に反撃する癖がありますからお気をつけて』

 同時に思い出した助言が頭の中で再生され、カレンはだらだらと汗をかいた。


 やってしまった……!


 もう執事に説教される未来しか見えない。


 誰か、誰かー! お兄様ー!


 心の中で盛大に愛しい兄へ緊急コールするも、そんなものが届くはずがなく。


 そんな間にも、王太子殿下の美しいご尊顔がカレンに近づいてきていた。


 私の貞操、詰んだ……


 カレンの頭の中が真っ白になった、ところに、天から福音……ではなく、扉からノック音が響いてきた。


「殿下、テオドール・カルフォーネ様がお越しです」


 声は、外で警備に当たっていた近衛騎士のもの。


 天の助け――!


 カレンの周りに、一斉にお花畑が広がる。よくやった近衛騎士、そしてテオドール様! テ汚ドールって呼ぶのやめてあげる! ちょっとだけ!


「入れ」


 侍女姿のカレンを組み伏せた姿勢のまま、ルドルフが答えた。カレンの周囲のお花畑が一瞬で散り、氷河が広がる。何、このままなの!? いやそれはまずい。何がって、テオドール様にこれを見られたら――


「失礼致しま、」


 天使の声が、途中で切れた。


 そして、しばしの沈黙。


「――何やってんの?」


 どす黒いオーラと怒りに満ちた声は、明らかにカレンに向けられていた。

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